カテゴリー「音楽劇」の9件の記事

2017年4月 4日 (火)

観劇感想精選(208) 中華人民共和国建国60周年記念事業・京劇「覇王別姫~漢楚の戦い~」

2009年6月19日 大阪・谷町のNHK大阪ホールにて観劇

午後7時からNHK大阪ホールで、中華人民共和国建国60周年記念事業・京劇「覇王別姫~漢楚の戦い~」日本公演を観る。日本語字幕と数カ所の日本語ナレーションを加えての上演。演じるのは天津青年京劇団。

陳凱歌監督の映画「覇王別姫」(日本語タイトル「さらば我が愛 覇王別姫」)を観た人の中には、京劇というものには女形がいるのだと思っていらっしゃる方がいるかも知れないが、それは文革時代までの話で、今は女役は女優が演じている。今回の公演も虞姫(虞美人)を演じていたのは趙秀君という女優だった。

「覇王別姫」は映画の題材になったということもあり、京劇の中でも最も有名な演目である。覇王とは楚の項羽のことで、項羽と漢の劉邦との戦い、特に垓下の戦いが描かれている。

形勢は項羽にとって圧倒的に不利。漢の劉邦と参謀の韓信は項羽をおびき出して野戦に持ち込み、伏兵をしかけて一気に勝負を決しようとする。

漢の罠に嵌った項羽は垓下の砦に立て籠もるが、漢は砦を囲んで四方から楚の歌を兵士に唄わせ(四面楚歌である)、楚がすでに劉邦の手に落ちたと錯覚させる作戦に出る。「虞よ虞よ汝を如何せん」と項羽は嘆き、それをみた虞姫は項羽の剣を引き抜いて自害する。

予想していたよりも見応えのある公演であった。

京劇は日本の歌舞伎とよく比較されるが、立ち居振る舞いなどはむしろ狂言を思わせるところがある。虞姫の剣の舞の見事さや、二胡や銅鑼、太鼓などによる独特の音楽など見せ場も多く、虞姫の最期の場面などは感動的である。

京劇というと日本では余り馴染みがないためか、ホールは、特に私が座った2階席はガラガラであった。それだけが残念である。

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2017年3月20日 (月)

観劇感想精選(204) 「お気に召すまま」

2017年2月7日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「お気に召すまま」を観る。「人生は舞台、人はみな役者に過ぎぬ(今回の公演では、「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」という訳であった)」というセリフで有名な作品である。昨年が没後400年に当たったウィリアム・シェイクスピア。今年は様々なシェイクスピア作品が上演される。
白水社から出ている小田島雄志翻訳のテキストを使用。演出:マイケル・メイヤー。出演:柚希礼音(ゆずき・れおん)、橋本さとし、ジュリアン、横田栄司、伊礼彼方(いれい・かなた)、芋洗坂係長、平野良、平田薫、入絵加奈子、古畑新之(ふるはた・にいの)、武田幸三、新井将人、俵木藤汰(たわらぎ・とうた)、青山達三、マイコ、小野武彦ほか。音楽:トム・キット。

舞台を1967年のアメリカに移しての上演である。ということで、オーランドー(ジュリアン)やオリヴァー(横田栄司)、フレデリック(小野武彦)、アダム(青山達三)などは背広を着て登場する。ロザリンド(柚木礼音)やシーリア(マイコ)も、最初はフラッパーのような格好で登場する。

元宝塚歌劇団男役トップの柚木礼音の主演ということで、客席には宝塚ファンの女性が多い。

セットは、パルテノン宮殿を思わせるエンタシスの柱数本に三角形の屋根。アメリカの首都ワシントンD.C.という設定だという。アーデンの森はヒッピー達の祭典サンフランシスコのヘイトアシュベリーを起点に起こったムーブメント「サマー・オブ・ラブ」に置き換えられており、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア(カリフォルニア・ドリーミン)」が流れて、セットがサイケデリックなものに変わる。ギター、エレキベース、キーボード、チェロの生演奏があり、アミアンズ役の伊礼彼方はギターの弾き語りを行う。

「お気に召すまま」は、長兄のオリヴァーから冷遇され、ろくに教育も受けることが出来なかった末弟のオーランドー。フレデリックから追放された前公爵など、抑圧された存在が登場するのだが、なぜか皆、瞬く間に仲直りという、不思議な展開を見せる。

今回の舞台では、オーランドーとチャールズ(武田幸三)が戦うのは相撲やレスリングではなく、総合格闘技となっている。

父の追放を悲しんでいるロザリンド。親友でフレデリックの娘であるシーリアはロザリンドに従妹としてまた友人としての絶対的な愛を語り、慰める。格闘技の試合に勝ったオーランドーを見たロザリンドは一目で恋に落ち、銀のブレスレットをプレゼントする。オーランドーもロザリンドに惚れていた。

だが、オリヴァーの不興を買ったオーランドーは、今回はヘイトアシュベリーということになっているアーデンの森に執事のアダムと共に逃げ込む。アーデンの森にはロザリンドの父親である前公爵(小野武彦二役)もいた。フレデリックから追放を宣告されたロザリンドは自らもシーリアと共に森に行くことにする。ロザリンドは「女同士では危険。だが私は普通の娘としては背が高い方だから、男装しようと思う」としてギャニミードという男性名を名乗り、シーリアはギャニミードの妹であるアリーナということにして、道化のタッチストーン(芋洗坂係長)とを連れて森に向かう。

オーランドーは空腹で倒れたアダムのために、公爵が率いるヒッピーの一団を襲うが、彼らの落ち着いた態度に己の行為を恥じ、ヒッピー達と行動を共にするようになる。またオーランドーは森の木という木に、七五調と韻を駆使した恋文を紙に書いて張っていく。

森の別の場所では老いた羊飼いのコリン(俵木藤汰)が、若き羊飼いであるシルヴィアス(平野良)の女羊飼いフィービーへの思いを感じているのだが、フィービーはシルヴィアスを相手にしない。コリン達とシルヴィアスの姿を見たギャニミードとシーリア。ギャニミードは更にオーランドーの恋文も発見する。韻を踏んでいることに感心するギャニミードであったが、タッチストーンは「簡単だ」と言って、韻文を作ってみせる。
オーランドーが現れる。ギャニミードは男装していたので自分の正体が女のロザリンドだと知らせることはなく、「女の心に通じた男」としてオーランドーに女の口説き方をアドバイスし、「自分をロザリンドだと思って接して欲しい」と言って、シミュレーションをたっぷり味わう。だが、フィービーもギャニミードに恋してしまい……。

実は、オーランドーとロザリンドが妙なやり取りをしている一方で、アリーナに扮したシーリアとオリヴァーは一目で恋に落ち、タッチストーンはオードリーというおつむの少し弱い女(入絵加奈子)を見つけて恋仲になろうとしているのである。オーランドーとロザリンドの恋だけが回り道をしていることになる。恋について語る役割でもあるといえるのだが(オーランドーが「恋のために死にたい」というと、ロザリンドに扮したギャニミード正体はロザリンドというややこしい人物が、「人類の歴史は6000年あるが、これまで恋で命を落とした男はいない」と答えるなど)。

「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」というセリフを語るのは、オーランドーの次兄・ジェークイズ(橋本さとし)である。オーランドーから「憂鬱病」と称される彼は、「お気に召すまま」の登場人物の中でかなり異色の存在である。恋の物語になぜ厭世家が紛れ込んでいるのか。ジェークイズを見ていると、「お気に召すまま」が単なる喜劇には見えなくなる。
時について語られる場面がいくつかある。オーランドーやギャニミードのセリフに出てくる。だが、時について最も語られるのがジェークイズの「この世界はすべてこれ」で始まるセリフの後半である。人間には7つの時代があるとされる。「赤ん坊」「子供」「恋する若者」「軍人」「裁判官」「老人」「そして再び赤ん坊。忘却へと帰る」。いずれも良いイメージでは語られない。これは何を意味するのか。
恋する人達の中で厭世家のジェークイズが滑稽に浮かぶ上がるという説もあるが、少なくとも今回の上演ではそうは思えない。ジェークイズは精神的に老いた男で恋する若者達を俯瞰で見ているのか。あるいはジェークイズは未来の視点からヒッピー達を見ているのか。
1967年のアメリカに設定が変わっていることを考えれば、その後のアメリカ史と重ねているという解釈も出来る。1969年のウッドストックで、音楽のムーブメントは変わり(イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」ではそのことが暗示されているとされる)、ベトナム戦争は1975年にアメリカ建国以来初の負け戦として終わる。

マイケル・メイヤーの演出は、俳優にかなり細かな演技をつけたもので、「カッチリした」という言葉が一番ピッタリくる。日本人がやっているとお堅く見えるレベルだ。
また音楽を多用して賑やかな舞台にしており、政治都市ワシントンD.C.から離れた理想郷(一種のカウンターカルチャー)を企図しているように思う。

ラスト(エピローグ)のロザリンドの口上は、柚木礼音が歌を加えて披露した。

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2017年3月17日 (金)

観劇感想精選(203) 第3回勘緑文楽劇場公演「エディット・ピアフ物語」

2017年3月5日 大阪・日本橋の国立文楽劇場にて観劇

午後4時30分から、大阪・日本橋(にっぽんばし)にある国立文楽劇場で、第3回勘緑文楽劇場公演「エディット・ピアフ物語」を観る。


勘緑文楽劇場は、元文楽協会技芸員で、現在は人形座「木偶舎(もくぐしゃ)」主宰である勘緑が人形浄瑠璃の新しい可能性を求めて、2012年1月に33年在籍した文楽座を辞して始めた新文楽である。勘緑は、現在、人形浄瑠璃とくしま座芸術監督、筑前艶恋座代表でもある。

洋服を着た人形が行う文楽を観るのは、今回が初めてである。シャンソン歌手の代名詞であるエディット・ピアフ(本名:エディット・ジョヴァンナ・ガション)の生涯を文楽で描こうという試み、文楽だけでなく、講談、シャンソン、フレンチジャズ、マジック、アクロバットなどあらゆる要素を取り入れたSHOWになっている。

講談師を務めるのは、4代目・玉田玉秀斎(たまだ・ぎょくしゅうさい)。2000年に大阪市立大学法学部を卒業後、司法浪人をしていたが、「講談師も弁護士も最後に“し”がついてるから一緒や」と旭堂南陵に言われて講談師になったという変わり種。日本語の他に英語、スウェーデン語をこなす。1993年から翌年にかけてスウェーデンへ交換留学に行っており、ストックホルムで行われたノーベル賞の授賞式にも参加しているという。昨年11月に4代目・玉田玉秀斎を襲名したばかりである。

今回の公演では、義太夫の代わりに玉田玉秀斎が全ての語りをこなす。

玉秀斎は舞台下手に陣取り、舞台上手がバンドスペースとなっている。演奏者は、川瀬眞司(ギター、音楽プロデューサー)、山本佳史(ギター)、中村尚美(ウッドベース)、かとうかなこ(クロマチックアコーディオン)、高橋誠(ヴァイオリン)。シャンソン歌手のZaZaがヴォーカリストとして参加し、パフォーマーのKAMIYAMAがマジックとパントマイム、吉田亜希がアクロバティックダンスを行う。

開演5分前に、勘緑が人形を使いながら舞台から客席に降りてくる。KAMIYAMAらパフォーマーもそれに従う。


まず、バンド陣が「シャレード」のテーマを引いてスタート。客席後方から、子供の人形が現れる。声は玉田玉秀斎が担当する。「おかーさん、もうすぐ会えるんだね! 色々歌って欲しいな」と子供は言いつつ舞台上に上がり、退場する。この人形は後にエディット・ピアフの娘、マルセルであることがわかる。

ラジオのチューニングの音が流れ、「歌手のエディット・ピアフさんが亡くなりました。享年47歳でした」と伝える。

そして、舞台上に今度現れたのはモヒカン刈の男。ピアフの父親であるルイスである。ルイスは己の惨めな境遇を全部人のせいにする。
ピアフは生まれてすぐに母親が逃げ出し、父親のルイスに育てられるのだが、ルイスも元々人間が悪く、実の娘を母親が営業する売春宿に売る。ルイスの母親も「娘を売るなんて、ろくでなし!」と言うが、結局、高値で引き取る。売春宿には仕事のしすぎでもう子供が産めない体になってしまった娼婦のティティーヌがいた。ティティーヌはピアフを実の子供のように可愛がる。ピアフが歌を覚えることが得意なのに気づいたティティーヌはピアフに歌を教える。フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」などを歌った。
だが、ピアフは目を病み、視力を失ってしまう。ティティーヌは様々な薬を試すが効果はなく、後は神頼みしかなくなる。聖地に巡礼するティティーヌとピアフ。すると不思議なことにピアフの目が見えるようになった。
だが、目が見えるなら役に立つということで、ルイスが自分が経営している見世物小屋にピアフを入れようと迎えに来る。ルイスの手下役のKAMIYAMAと吉田亜希もそれに従い、人形と人間が争うという珍しい場面が演じられる。

見世物小屋の場面。KAMIYAMAがブリーフケースを使ったパントマイムを行い、その後、マジックも披露する。そして舞台上から赤い布が2枚降りてきて、吉田亜希がそれを伝って上にあがり、サーカスのようなアクロバット芸を披露する。

そして、ピアフの初舞台。ピアフは「ラ・マルセイエーズ」を歌い(歌はZaZaが担当)、大反響を呼んで、歌手、エディット・ピアフが誕生するのだった。

パリの劇場で歌ったピアフは、小柄な体から放たれる圧倒的な歌で大成功。フランス語で雀を意味する俗語の「ピアフ」の名で呼ばれるようになる。


有名ナンバーは、「パリの空の下」、「バラ色の人生」、「愛の賛歌」、「パダム・パダム」、「群衆」、「水に流して」などが歌われる。

16歳になったピアフは、プティルイという男性と結婚。女の子が生まれ、マルセルとピアフは名付ける。だが、マルセルは病に倒れ、早世してしまう。嘆くピアフ(この場面ではアコーディオン奏者のかとうかなこが舞台の中央まで進み出てクロマチックアコーディオン(ボタン式アコーディオン)を弾き、ピアフがアコーディオンにすがろうとする。その後、マルセルは天国からピアフを見つめる役をする。

戦争が始まり、ピアフはパリを占領したドイツ将校のために歌うが、それでフランス人捕虜収容所に慰問に行く権利を手に入れる。ピアフは収容所に入っては、捕虜を逃がす作戦を決行した。

戦後、ピアフはボクサーのマルセル・セルダンと出会い、恋に落ちる。「なぜあなたは悲しい歌ばかり歌うのですか?」というセルダンにピアフは「本当に悲しいからよ」と答える。だが、歌うことが自分に出来ることと考えるピアフは歌い続ける覚悟もしていた。
ピアフとセルダンは、フランス民謡「月夜(月の光に)」のメロディーに合わせて踊る。

多忙ゆえに会えなくなったピアフとセルダンであるが、ピアフがニューヨークでコンサートを行う時期に、セルダンもニューヨークでタイトルマッチを戦うことになった。
ピアフはセルダンのために「愛の賛歌」を用意して待っていたが、セルダンを乗せた飛行機が墜落。ピアフは最愛の人を失った。関係者は当日のコンサートを中止にしようとしたが、ピアフは決行を決意し、全身を振り絞るようにして「愛の賛歌」を歌う。

セルダンの死によって抜け殻のようになってしまったピアフは、酒、煙草、ドラッグに溺れ、40代とは思えないほどに老け込んでしまった。そんなある日、ピアフはテオ・サポラという青年と出会う。「みんな自分を利用して金儲けをしているだけだ」と言うピアフに、テオはピアフの歌の素晴らしさを語る。復活したピアフはオランピア劇場でコンサートを行い、大成功。1時間半の本編が終わった後で、ピアフはアンコールとして「水に流して」を歌うのだった。

ピアフが亡くなり、ピアフの霊はマルセルの霊と再会する。ZaZaの「愛の賛歌」日本語版が歌われて劇は終わる。


大竹しのぶが舞台「ピアフ」にライフワークのように取り組んでおり、遂には紅白歌合戦にまで出場してしまったということで、観に来ていたおばあちゃんの多くが、「大竹しのぶ」の名を口にしていた。勘緑が終演後に、「勘緑文楽劇場公演は3回目にしてようやく満員になった」と言っていたが、多分、大竹しのぶ効果はあったと思われる。

人形と人形とがダンスを踊ったり、セリが頻繁に使われたり(「これでもか」というほど高くせり上がる場面もある)、回り舞台まで使うなど、国立文楽劇場で出来ることは全てやったという感じである。
構想から今日の舞台まで5年掛かったというが、まあ、色々な要素を取り入れているので時間は掛かるだろう。
木偶舎の座員は、全員、勘緑から「緑」の字を貰っているが、12人中10人が女性という、浄瑠璃上演集団としてはかなり異色のグループである。この後、木偶舎は、東北地方支援公演に向かうという。

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2016年10月 5日 (水)

観劇感想精選(191) 井上芳雄による「夜と霧」~苦しみの果て、それでも人生に然りと云う~

2016年9月7日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて観劇

午後3時から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、井上芳雄による「夜と霧」~苦しみの果て、それでも人生に然りと云う~を観る。ミュージカルのトップスター、井上芳雄による朗読劇。ラストに歌のシーンも用意されている。音楽:宮川彬良、ヴァイオリン演奏:廣川抄子、アコーディオン演奏:大田智美。
アウシュビッツ強制収容所から帰還した精神科医・心理学者ヴィクトール・E・フランクルの体験記で、ロングベストセラーとしても知られる『夜と霧』のテキストを再構成してリーディングの公演を行う。上演台本&演出:笹部博司。
新潟市にある劇場・りゅーとぴあ(新潟市民芸術文化会館)の制作。


井上芳雄は数年前にロームシアター京都のすぐそばにある黒谷こと金戒光明寺で朗読劇「沖田総司」を上演しているが、その時は殺陣なども入る活劇であった。今回はシリアスな心理劇である。


舞台後方の幕に映像が投影される他は、井上が台本を置く証言台のような装置があるだけでセットらしいセットは組まれていない。

今日は上手バルコニー席での観劇。ヴァイオリンとアコーディオンは舞台上手端で演奏するため、上手バルコニー席からだと姿が見えない。音楽の演奏が始まってしばらくすると、真正面の下手バルコニー席に井上芳雄が現れ、ホール内にある階段を下りて客席内をゆっくり歩いた後、ステージに上る。井上芳雄は無表情で虚ろな雰囲気をたたえている。
証言台に立ち、自分について話し始めるのだが、あたかも他人事のように淡々とした語り口である。ここから徐々に感情を高めていくことになる。

精神科医によるアウシュビッツの回想ということになるのだが、アウシュビッツでは医師らしい仕事は最後の数週間を除いてしていないので、医師ではなくただの一個人のアウシュビッツでの体験談として聞いて欲しいと井上芳雄演じるフランクルはまず語りかける。アウシュビッツに着くと持っているものは全て取り上げられ、名前も失い、番号で呼ばれるようになるという。
ユダヤ人80名を2両にギチギチに詰め込んだ列車がアウシュビッツの駅に着くところから話は始まる。彼らはアウシュビッツの名を知っていた。そこから連想される言葉は「ガス室」、「虐殺」など。
ゲートを潜ると、ハンサムな突撃隊高級将校が待ち構えている。彼の前を通る時に、人々は彼の人差し指によって左もしくは右を指される。フランクルはのちに知るのだが、これが最初の関門であった。フランクルと反対方向を示された友人の行方を人に訪ねたところ、空を指さされた。煙突から煙が出ている。友人はすでに殺されていたのだ。
寒いアウシュビッツ。苦役で凍傷になるものも出るが、凍傷になった足の指をピンセントで引っこ抜くという非人間的行為が行われている。
フランクルも最初のうちは、強制労働で働かされている仲間を見て心が痛んだが、次第に何も感じなくなってしまう。そのことに恐れを抱くフランクル。

だが、フランクルはどんな厳しい環境にあっても妻の顔を思い出すと、夢の境地に浸ることが出来た。多くの詩人が書いた「愛の至福」を実感出来たのだ。
収容所に入って二日目、フランクルはヴァイオリンが奏でるもの悲しいタンゴの旋律を耳にする。そのタンゴは妻と重なり、フランクルの頭の中で鳴り続ける。

強制収容所で出会った一人の少女は、「運命に感謝しています。だって私をこんな酷い目に遭わせてくれたんですもの」と言う。「悲しみを知ることが出来たから。何不自由のない時は私は甘えてばっかりの子で自分と向き合ったりはしなかった」
その少女は、「あの木だけが私の友達」と窓の外と木を指さす。そのマロニエの木には永遠の命が宿っていると少女は語るのだった。

一方で、心を殺し、廃人同然になってしまうユダヤ人もいた。フランクルは、今の自分がなぜこの状況下にいるのかということに答えも求めるのではなく、この状況に対して自分はどういう意味を持つのかを問うよう精神科医として意見し、状況が求めるものに正解すれば生きる意味があると説く。そしてこれまで築き上げてきた過去を思い出せ、そこには意味があるだろうと鼓舞する。

解放の日。歓喜はなかった。彼らは虚ろであり、喜びの感情を忘れてしまったかのようだった。やがてあるものは激しい食欲にかられ、感情失禁のような状態になる。

現実は残酷だった。フランクルの妻はすでに死んでいた。家に帰って呼び鈴を鳴らしても迎えてくれる人はもういない。苦しみに耐えた代償はなく、代わりに与えられたのは喜びではなく失意だった。そんな中でフランクルは「狭いところより広いところの神」にどうすれば良いのか聞く。頭の中に響いた神の答えは「全て然れ」であった。


極限化に置かれた人間が書き残したテキストを朗読する語り物である。やはり極限化に置かれた人間を描いた一人芝居「審判」のような、「知られざる人間の一面」が露わになる場面もあるが、「夜と霧」は「審判」のような露悪的なものではなく、最悪の状況にあって人間は何を求め、どう生きれば良いのかが追求される。

結局のところ、ほぼ全てを失った状態で、人間が希望を見いだすには過去の記憶や思い出にすがるしかないのであるが、その中にあるいは極限化でしか気づけない「永遠の命」というべきものを探し出すことは決して困難ではないということも示される。そして自分が生きている限り永遠の命もまた生き続けるのである。


人間というのは時代の流れに振り回されるものである。望ましい時代に生まれてくることが出来なかったという時点で歴史に左右されるのであるが、時には「生まれた人種」などという自分に何の責任もない理由で抹殺の対象になることもある。そこでは生きるも地獄、死ぬも地獄。だが生き残ったとしたらそこにあるのは……。神や時代、出会った人や愛した人の記憶と共に残りの人生を生きていくことは決して地獄ではない。ささやかながら希望はあり、光は差している。


井上芳雄の感情の表出は巧みであり、発声も良い。9割以上、証言台で語っている芝居なので、観客もイメージを膨らませる必要があり、情感豊かな明晰な声であることはなによりもありがたい。

ヴァイオリンの廣川抄子とアコーディオンの大田智美の生演奏も良く、宮川彬良の哀感に満ちた音楽も優れていた。

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2014年7月13日 (日)

観劇感想精選(126) こまつ座&ホリプロ公演 音楽劇「それからのブンとフン」

2013年10月19日 イオン化粧品シアターBRAVA!にて観劇

午後12時30分から、シアターBRAVA!で、こまつ座&ホリプロ公演 音楽劇「それからのブンとフン」を観る。作:井上ひさし、演出:栗山民也、出演:市村正親、小池栄子、新妻聖子、山西惇、久保酎吉、橋本じゅん、佐藤こうじ、吉田メタル、辰巳千秋、飯野めぐみ、保可南ほか。ピアノ演奏:朴勝哲。

井上ひさしの初期の戯曲の上演である。

売れない小説家、大友憤(市村正親)。原稿用紙にも事欠いて、チラシの裏に線を引いて原稿用紙代わりに使っている。通俗さを嫌い、芸術至上主義の作品を書いているためにヒットメーカーとはほど遠いのだが、そんな憤が書いた、大泥棒ブンを主人公とした小説が大ヒット。しかし、小説に書いた主人公が小説を飛び出して、現実社会で大暴れしだしたものだから、さあ大変。四次元を飛び越えるという特技を持つブン。ベルリンの動物園のシマウマから縞を盗み、上野動物園のシマウマにそれをつけて格子縞にしてしまう、東大寺の毘盧遮那仏、つまり奈良の大仏を盗みだし、鎌倉の高徳院の阿弥陀仏、つまり鎌倉の大仏の横に据える、ニューヨークの自由の女神の松明が盗まれるなど、ブンは各地で怪盗ぶりをいかんなく発揮する。憤が書いたブンものの小説も大ベストセラーになるのだが……

大友憤役の市村正親以外は、一人で複数の役を演じる。出番の多い小池栄子は、オリジナルのブンとして、白いボディコン姿や和服姿で登場。もう一人のヒロインである新妻聖子は、悪魔役であるが、その前にブンの一人としてセーラー服の女子高生役で出てきたり、NHKEテレのお姉さん風チアリーダーの衣装で登場したり(ちなみにかなり気に入っているようである)と忙しい。音楽劇であるが、歌はミュージカル俳優でもある市村正親と新妻聖子が主に担当する。

ブンとは文であり、ブンが小説から抜け出して活躍するということは、文章が人々の思考に与える影響のメタファーであって、文章の力と大切さを観るものに訴えかける。そしてブンが盗む標的を現物ではなく、人間の記憶や虚栄心、権威欲などに変えていく過程は、ミヒャエル・エンデの童話にも通じるものがあるように思う。

主題だけ抜き出すと説教くさいものに思えるが、そこは井上ひさしの筆だけにユーモアがふんだん盛り込まれており、主題がわからなくても楽しめるものになっている。

知的にも面白く、物語としても面白い。井上ひさしの戯曲としては初期のものであるため、後年に比べると筋書きが二項対立で分かり易すぎるなど、不満に思うところもあるが、それも後年と比べればであった、戯曲そのものは優れた出来である。

ラストのメッセージも非常に力強いものだ。ペンは剣よりも強しである。

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2014年5月16日 (金)

観劇感想精選(122) 「もって泣いてよフラッパー」2014大阪

2014年3月14日 大阪・京橋のシアターBRAVA!にて観劇

午後7時からシアターBRAVA!で、「もっと泣いてよフラッパー」を観る。「上海バイスキング」と並ぶオンシアター自由劇場の代表作である。1977年に初演されて大好評を得て、1990年から1992年までは毎年シアターコクーンで上演が行われていたのだが、それ以降は上演がなく、「もう上演されることはないのでは」と噂された傑作の22年ぶりの再演である。
「上海バイスキング」は2010年に久しぶりの上演が行われ、この上演はオンシアター自由劇場で初演された時以来の俳優が多く出演していたが(吉田日出子、小日向文世、笹野高史ら)「もっと泣いてよフラッパー」を上演するには流石にオリジナルキャストでは無理がある。ということで、オンシアター自由劇場出身の人は串田和美を含めて7人だけである。
作・演出・美術・出演:串田和美。出演:松たか子、松尾スズキ、秋山菜津子、りょう、大東駿介、鈴木蘭々、片岡亀蔵、太田緑ロランス、大森博史、真那胡敬二、小西康久、酒向芳、内田紳一郎、片岡正二郎、石丸幹二ほか。
音楽は松たか子の旦那さんである佐橋佳幸と、京大卒のマルチミュージシャンという異色の存在であるDr.kyOnのユニットであるダージリンが音楽監督・作曲・編曲を手掛ける。オリジナルの作曲は越部信義、八幡茂、乾祐樹。
オーケストラ・ラ・リベルテ(演奏):佐橋佳幸、Dr.kyOn、黒川修、木村おうじ純士、黄啓傑、花島英三郎(以上演奏家)。串田和美、石丸幹二、大東俊介、大森博史、真那胡敬二、小西康久、酒向芳、内田紳一郎、片岡正二郎、近藤隼、佐藤卓、内藤栄一(以上、出演&演奏)。佐橋佳幸と黒川修はセリフのない役でちょっとだけ出演している。

串田和美が物語性のある芝居以外の演劇を追求して出来上がった劇である。童話のような複数のストーリーが展開されるが、物語が膨らむ前に次から次へと別の要素が入っては過ぎていく。それは別の話だったり、ダンスだったり、歌だったり音楽だったりする。

舞台は1920年代の架空の街・シカゴ。実在のシカゴと似てはいるが架空の都市という設定である。街中にあるラ・リベルテというクラブではフラッパー達がダンスショーを繰り広げている(フラッパーとは日本でいうとモガことモダンガールに近い存在で、1920年代に現れた新しい格好やライフスタイルを持つ女性達のことである)。一方、実在とシカゴ同様に禁酒法の下にある架空のシカゴでは、やはり実際のシカゴ同様にギャング達が酒の密輸で私腹を肥やし抗争を繰り広げている。ラ・リベルテのオーナーも銀色パパと呼ばれるマフィア(串田和美。なお、「もっと泣いてよフラッパー」では、基本的に一人の俳優が何役も演じ分ける)である。彼らと敵対しているのはアスピリンという名の男(松尾スズキ)を首領とする黒手団だ。

トランク・ジル(松たか子)は、ラ・リベルテのダンサーになることを夢見てシカゴにやって来た。だが、シカゴは治安が悪い。ということで、背広を着てちび鬚を付けるなど男装している。見るからに悪そうな黒手組の一味と鉢合わせしそうになったジルは物陰に隠れるが見つかってしまう。「見ねえ顔だな。何て名前だ?」と聞かれたジルは「しゃっくりジャスミン」という偽名を名乗る。すると黒手組の組員達は「あの、しゃっくりジャスミンか」と怖れをなして逃げてしまう。しゃっくりジャスミンを名うての殺し屋だと黒手組の連中は勘違いしたようだが、しゃっくりジャスミンという名前はジルがその場で思いついた名前であり、なぜ殺し屋だと思われたのかジルは不思議がる。
ジルは宿を求めるが、そこはネズミがクラス家だった。だが、何故かネズミの家の亭主(松尾スズキ)もその妻(秋山菜津子)も自分達のベッドを開けてくれる。
ネズミの間でも争いがあり、ジルは眠りから覚め、宮沢賢治の『よだかの星』に似たモモンガを主役にした話をする。皆、いい話なのかどうか怪訝に思うが、取り敢えずその場は丸く収まる。そしてジルは何故かネズミ達から同じネズミだと思われており(不審に思われてはいる)、しゃっくりジャスミンだとまたも偽名を名乗ると、「猫を怖れぬ、しゃっくりジャスミンか」と、またもネズミ界の英雄と勘違いされてしまう。そこで、猫に鈴を付ける大役を引き受けたのだが、実際に出てきた猫は大きくて目つきが悪く、ジルは慌てて逃げる。

中国系移民のチャン(真那胡敬二)が営む理髪店。チャンは「ハサミやカミソリなど人を傷つけたり人の血を流したりするを使って仕事をするのが我々。ところが刃物も使わずに傷つけたり血を流す奴らがいる」と嘆いてる。
そこに、シカゴタイムズの記者、ベンジャミン(石丸幹二)が髭を剃って貰いにやって来る。ベンジャミンはフラポーという女性(鈴木蘭々)に惚れている。だが、ベンジャミンがフラポーの良さについて語っている時に黒手組の組員達がやって来る。怖れをなして逃げるベンジャミン。鬚を剃って貰っていた黒手組のメンバーだが、昼だというのに月が出た。不思議に思っているとフラポーが現れる。黒手組の首領アスピリンはフラポーに一目惚れしてしまう。

クリンチ・チャーリー(大東俊介)はボクサーだが、長いこと勝てていない。チャーリーの座っていたバケツの下からジルが現れる。これまで男装に成功してきたジルであったが、チャーリーには男装した女だと一目で見抜かれる。

何とかラ・リベルテのダンサーになれたジル。ラ・リベルテのトップダンサーは3人、お天気サラ(秋山菜津子)、青い煙のキリー(りょう)、月影ギナン(太田緑ロランス)であるが、キリーは男に騙されてばかりいる。サラは、「男は女に騙されたがっている。なのに騙されてどうするの」と語る。

サラにコミ国という国の皇太子(片岡亀蔵)が恋をした。だが、サラは「身分違い」だと皇太子を相手にしない。

一方、キリーはまた恋をした。相手は黒手組の構成員である青い血オニオン(大森博史)だ。オニオンの歌声に惹かれたのだ(黒手組のメンバーによるドゥワップ歌唱があった)。

ジルはシカゴから何十キロも離れたところにあるモーテルで、チャーリーと一夜を共にする。そこでチャーリーはボクシングで勝てないのではなく、わざと負けることで金を受け取る、つまり八百長をしていたことを告白する。だがチャーリーは今度の試合では第7ラウンドでクランチした時に「今日は八百長はなしだ」と告げ、KOしてみせると宣言する。「第7ラウンドが始まったら会場を出て車に乗って待っておけ。俺もすぐ向かう。南部に行って一緒に写真屋をやろう」とチャーリーはプロポーズするのだった。

この劇は、場面転換が多く、スライド映像のように完結しないままの物語が回っていく。そのため、あらすじを書いても余り意味はないのだが、最低限抑えておかなければならないところは書いておいた。

“もっと泣いてよ”とタイトルにあるとおり、この芝居は基本的には悲劇である。この物語に出てくる恋愛はいずれも悲惨な結末を迎える。哀感に満ちた話なのであるが、それでも不思議と暗い気持ちにはならず、開放感や爽快感を覚える。文学的楚辞を用いるなら「浮遊感溢れる悲哀」で一杯なのだ。悲劇的結末がラストで次々明かされるので悲劇的展開が不十分(もちろん敢えて開いた形にしなかったのだ)であり、悲劇に見舞われた女性達が皆たくましく、また何よりも音楽が悲しみを抑えてくれる。カタルシスとはまた違った、悲劇であるが故の癒しがこの劇にはある。

カーテンコールは鳴り止まず、アンコール演奏、そして楽隊と松たか子が客席通路を歩きながらラストナンバーである「もっと泣いてよフラッパー」を歌った。

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2014年4月 9日 (水)

観劇感想精選(115) 山本耕史主演舞台 音楽劇「ヴォイツェク」

2013年10月25日 大阪・京橋のシアターBRAVA!にて観劇

午後7時から、シアターBRAVA!で、山本耕史主演舞台、音楽劇「ヴォイツェク」を観る。原作:ゲオルク・ビューヒナー、脚本:赤堀雅秋、演出:白井晃、音楽:三宅純。TBSの制作であり、東京公演はTBSが持つ赤坂ACTシアター(二代目)で行われている(シアターBRAVA!も元々はTBS系列のMBSの劇場である。ちなみに系列局ではあるが、TBSとMBSは仲が悪いといわれている)。

今年は、23歳で夭逝した小説家で劇作家で自然科学者のゲオルク・ビューヒナーの生誕200年、「ヴォイツェク(ヴォイツェック)」初演100年(初演時は「ヴォツェック」というタイトルであった)に当たるため、日本でも各地で「ヴォイツェク」は上演されている。

「ヴォイツェク」はゲオルク・ビューヒナーの未完の戯曲であり、ビューヒナーの急死により、ページ番号もわからない断片だけが残され、長らく放置されてきたが、実在の殺人犯を主人公にした内容は魅力的であり、ビューヒナーの死後38年目に戯曲として出版され、同死後76年目に初演された。

現在の「ヴォイツェク」は、カール・エーミール・フランツォースが編纂した順番に基づいて上演されることが多い。今回、脚本を担当した赤堀雅秋もシーンの順番はフランツォースが編纂したものを踏襲している。フランツォース編纂の「ヴォイツェク」を日本語訳で読んだことがあるが、ラストと思われるシーンが数種類存在するなど(それらは本編ではなく、断片として個別に掲載されている)編纂に苦労したであろうことは想像に難くない。

さて、「ヴォイツェク」であるが、ストレートプレーとしてよりも、新ウィーン楽派を代表する作曲であるアルバン・ベルクの最高傑作にして、20世紀に作曲された最高の音楽作品の最右翼に位置すると思われる歌劇「ヴォツェック」の原作として有名である。ベルクの歌劇のタイトルが「ヴォツェック」なのは、ビューヒナーの書字が余りきれいなものではなかったため、「Woyzeck」という綴りが長い間「Wozzeck」だと誤解されていたためである。この作品が実在の殺人犯、ヨハン・クリスティアン・ヴォイツェクをモデルにしたものであることが判明し、タイトルも「ヴォツェック」ではなく、「ヴォイツェク」であることがわかった。本当のタイトルが判明したのはベルクが「ヴォツェック」を作曲している間であったが、ベルク自身が初めてこの舞台を観た時にはタイトルはまだ「ヴォツェック」とされており、オペラ用の台本も「Wozzeck」というタイトルで綴られていたため、ベルクはそのまま「ヴォツェック」というタイトルで作曲、世に出した。その直後に、ベルクは本当のタイトルが「ヴォイツェク」であったと知り、オペラのタイトルを「ヴォイツェク」に改めることも考えたが、「歌劇『ヴォツェック』は、舞台『ヴォイツェク』とは最早別物」と判断し、タイトルを変更することはなかった。

「ヴォイツェク」は、無神論的な色彩を持つ、ビューヒナーが生きた時代を考えれば革新的な作品であり、また虚無的ともいえる内容は初演が行われた1913年(第一次世界大戦が勃発する前年である)という時代の雰囲気にもマッチして人気作となり、その後、何度も映画化されている。

出演は、山本耕史の他に、マイコ、石黒英雄、良知真次(らち・しんじ)、池下重大(いけした・じゅうだい)、青山草太、駒木根隆介、加藤貴彦、半海一晃(はんかい・かずあき)、春海四方(はるみ・しほう)、真行寺君枝、今村ねずみ、団時朗(だん・じろう)。
音楽劇として、マイクを使っての上演であり、主要キャストが歌う際には耳の横から出すタイプの小型マイクがオンになる(歌のシーンがなく、小型マイクをつけていない俳優もおり、声の大きさを合わせるため、セリフのみのシーンではマイクはオフとなっている)。

三宅純の音楽には、意識的にではないだろうが、「三文オペラ」のクルト・ワイル的な要素がある。

舞台は二段になっている。通常用いられる舞台の前面に一段低い、奥行き一間ほどの小型舞台が設置されている。階段がついており、客席の通路を俳優が通って舞台に上がるという演出も多用される。

セットとして7つの扉がある壁。7という数字はキリスト教の「七つの大罪」に由来しており、実際、「七つの大罪」という言葉も劇中に登場する。

舞台上手が、演奏者達が陣取るバンドスペースになっており、まず、演奏者達が舞台下手から登場し、舞台を横切って、バンドスペースに向かう。少し遅れて掃除夫が登場し、舞台上をモップで拭き始める。客席の通路を通って、掃除夫達が何人も舞台に上がる。やがて、掃除夫の一人が四拍子のリズムで足踏みを始め、第1拍目にはモップを舞台床に打ち付ける。知的障害を持つカール(良知真次)が現れ、足踏みをしている掃除夫に何故そんなことをしているのか問いかける。掃除夫はいつ戦争が起きるかも知れず、行進の練習をしているのだと答える。すると、カールは猟銃を取り出して、掃除夫に与える。掃除夫はモップではなく猟銃を片手に足踏みを始める。それはあたかも迫り来る軍靴のようだ。やがて他の掃除夫達も軍服に着替え、軍人によるリズムが奏でられ始める。その中に、理髪師から徴兵され、現在は軍隊に所属しているフランツ・ヴォイツェク(山本耕史)の姿もあった。今村ねずみが演じる口上役が「紳士、淑女の方々」で始まる前口上を述べる。口上役はこの世の醜さを語り、「舞台の上では綺麗な世界、だが一歩劇場の外に出れば醜悪な現実が待っている」と語る。

以後は、ベルクの歌劇「ヴォツェック」の筋書きをほぼなぞっているが、歌劇「ヴォツェック」のテーマである無神論やニヒリズムから更に踏み込んだ矛盾に満ちた奥深さを今回の舞台は描いている。

殺人とそれに到るまでの心理劇であるが、ヴォイツェクに対して生体実験を行っている医師(半海一晃)などに見られる非人道性、軍隊の鼓手長(池下重大)が示す傲岸さなど、人間の汚らしい面が炙り出されていく(「グロテスク」という言葉が何度も用いられる)。

ヴォイツェクにはマリーという美しい内縁の妻(マイコ)がいるが、ヴォイツェクが貧しいために赤子(名前はクリスティアン)までいながら、籍を入れられないでいる。ヴォイツェクが生体実験を受けいれているのも、それによって報酬を受け取れるからであった。しかし、そのためにヴォイツェクは精神を病んでいく。ヴォイツェクが心を蝕まれていく過程は、まず最初に山本耕史以外の出演者が「ヴォイツェク」と何度も名前を呼び、それがヴォイツェクの幻聴であるとわからせることに始まり、歌劇「ヴォツェック」でも有名な枝を刈るシーンでの幻視(赤い空、世界の終末のイメージ)を経て、医師とヴォイツェクが最初に対面するシーンではヴォイツェクはすでに手が震えるようになっており、その後、震えは全身へと拡がる(この演技を自然に行うのはかなり難しいと思われるが、そこは山本耕史。巧みに演じていた)。元々朴訥な性格であったヴォイツェクであったが、生体実験を受けることにより、体だけでなく精神年齢も次第に退化していく。

入籍するために金を貯めているヴォイツェクであるが、マリーは軍楽隊の鼓手長の誘惑を受けいれ、不貞の行為に及ぶ(マリーを演じるマイコはバレエを習っていたようで、バレエダンスを披露する。よく見ると穿いているのはトゥシューズであった)。鼓手長は口の軽い男のようであり、二人の情事は上司である大尉(団時朗)の耳に届き、大尉はマリーが不倫をしたようだとヴォイツェクに教えてしまう。
マリーへの疑惑に苦しむヴォイツェクであったが、祭りの日に居酒屋でマリーが鼓手長と戯れ、扇情的に踊っているところに偶然出くわし、疑いは確信へと変わる。ヴォイツェクは、「(マリーを)刺し殺せ」という幻聴を聞く。

ヴォイツェクによるマリー殺害のシーンでは、壁が上方に引き上げられ、奥にあるスクリーンに赤い月が浮かぶ。舞台は池のほとりである。ヴォイツェクがナイフを取り出し、マリーが逃げるシーンでマリーを演じるマイコは舞台奥へと駆け、水飛沫が上がる。本水を使った演出であることがわかる。
マリーは、赤ん坊を「本来は汚らしいもの」、「赤い血に染まって生まれてくる」とその前のシーンで述べており(カールも同席していて、「カインとアベル」の話をし、無神論やこれから殺人が行われることをさりげなく告げている)、またマリーがこの場面では赤いドレスを着ていることから、池は羊水に、マリーや精神年齢の退化したヴォイツェクは赤子になぞらえられたものらしいと察しが付く。つまり胎内回帰の願望と葛藤がメタファーとして浮かび上がるのだが、胎内回帰は不可能であるし、希望することも否定することも危険だ(マリーは殺され、ヴォイツェクは溺死する)ということも示される。だが、口上役は、月も太陽も星も近づいてみれば汚かったという話をして、この世にもあの世にも幸せなどないのだと、歌劇「ヴォツェック」以上に厭世的なテーマを語る。

口上役は最後に再度この世と人間の醜悪さについて語り、何の救いもないまま劇は終わる。

虚無的な話であるが、それだけに無理な期待をせず、あるがままに生きろというメッセージも受け取ることが出来る。

出演者達の演技はいずれも優れており、白井晃の演出も秀逸であった。「ヴォイツェク」という作品が持つ新たな側面と、その魅力、そして同時に怖ろしさを発見した舞台でもあった。

終演後、客席は総立ちとなり、出演者を讃えた。

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2013年12月20日 (金)

観劇感想精選(107) こまつ座音楽劇 「イーハトーボの劇列車」

2013年11月24日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後1時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、こまつ座の音楽劇「イーハトーボの劇列車」を観る。こまつ座は音楽劇の劇団なので、こまつ座の音楽劇というと少し変なのだが、それ以外に書きようがない。こまつ座が音楽劇の楽団ということを知る人以外、というより演劇はそもそも「観たことがあるかどうか」から話が始まるので、大抵の人はこまつ座が音楽劇の劇団だということを知らない通り越してこまつ座を知らないため、説明するため、「こまつ座の音楽劇」という言葉を使わざるを得ないのである。作はこまつ座の座付き作家であった井上ひさし。演出は鵜山仁。音楽:宇野誠一郎&荻野清子。出演:井上芳雄、辻萬長(つじ・かずなが。有職読みの「」つじ・ばんちょう」でも知られる。)、木野花、大和田美帆、石橋徹郎、松永玲子、小椋毅(おぐら・たけし)、土屋良太、田中勝彦、鹿野真央(しかの・まお)、大久保祥太郎、みのすけ。ナイロン100℃の関係者が二人も出ている。ピアノ&スネアドラム演奏:荻野清子。荻野清子は三谷幸喜の作品で良く音楽や演奏を手掛けている人である。三谷幸喜の映画最新作「清洲会議」の音楽担当もこの人。

題から分かるとおり宮沢賢治を主人公とした作品である。「イーハトーヴ」という表記がよく知られているが、これは岩手をエスペラント語風に発音したもので、エスペラントでは名詞は「o」で終わるようなので(作中に出てくる)、「イーハトーボ」が採用したものと思われる(賢治自身は「イーハトーヴ」、「イーハトーヴォ」、「イーハトーブ」など様々な表記を用いている。名詞と形容詞が一致する場合は、エスペラントの形容詞が「a」で終わるため、そちらを優先させるようである)。

途中、15分間の休憩を挟み、約3時間という大作である。二幕四場という形を取っている。

第一幕第一場は、序章(代表作の一つである「注文の多い料理店」の序文、これも賢治が書いているのだが、これに想を得たセリフを舞台上に出演者全員が揃って、一人一人読み上げたり、全員で言ったりする。この時は皆、農民の格好をしている)に続き、宮沢賢治(井上芳雄)の妹で、日本女子大学校(現・日本女子大学。「大学」と名前は入るが、この時代の日本女子大学校はまだ専門学校である。ただ、今の専門学校とこの時代の専門学校はまた別物である)に通う、とし子(賢治の詩「永訣の朝」で知られる人である。「アメユジュトテチテケンジャ」は勿論、劇中に使われる。演じるのは大和田美帆)が肺結核で倒れたため、母のイチ(木野花)と共に上京するシーンから始まる。花巻駅から上野駅までの旅である。

列車には西根山の山男(小椋毅)という屈強な体の人間が乗り合わせている。山男は背中に岩手県の県章の入った法被を着ており、上野精養軒で開催されている民俗文化学会に出席してスピーチを行うのだという。山男は南部弁研究の第一人者なのだそうだ(矛盾した表現になるが、岩手県の中部・北部から青森県の東部に跨がる地域の名前が「南部」である。南部というのはこの地域を治めていた大名の苗字から取られたもの。アクセントは「な」ではなく「ん」を強く言う。南部鉄器などで知られる。岩手県の南の方を指す南部は仙台・伊達藩の領地であった)。

そして、とし子が入院している永楽病院(現・東京大学医学部付属病院小石川分院)の病室へと舞台は移る。

第一幕第二場は、賢治が家族に無断で上京し、本郷にある出版社でガリ版刷りの仕事(真面目な東大生が書いた授業ノートを製本して、不真面目な東大生のために売るという仕事をアシストするというもの)をしながら、鶯谷にあった国柱会館(国柱会は日蓮宗系の在家団体である。宮沢賢治は熱心な日蓮宗の信者として知られるが、より正確に書くと国柱会のメンバーである)に通っては、図書室にある本を読み、すでに作家を目指していたので童話を書くという生活を送っていた1921年が舞台である。

賢治が下宿しているのは東大本郷キャンパスに近い本郷・菊坂にある稲垣未亡人(木野花。二役)の住まい。ここに賢治の父親である宮沢政次郎(読みは「みやざわ・まさじろう」。演じるのは辻萬長)が訪ねてくるところから始まる。

宮沢政次郎は裕福な商家を営む、地元・花巻の名士であるが、熱心な浄土真宗の信者である。そのため、日蓮聖人の考えに共感し、日蓮宗に入れ込む賢治と対立することになる。

ここでは宗教談話が展開される。

休憩後の第二幕第一場は、農学校の教師を辞めて、上京し、エスペラントやチェロ、オルガン、タイプライターなどを学びながら、築地小劇場や歌舞伎座に通うという日々を送っている賢治の物語である。

花巻から上野まで行く電車で、賢治は伊藤儀一郎という男(辻萬長。二役)と出会った賢治。伊藤が「宮沢さんじゃないですか」と語りかけ、「あなた様はどちら様ですか?」聞くと、「あなたは私のことは知らないだろうが、私はあなたのことをよく知っている。そういう男です」と述べる。伊藤は賢治のことを実によく知っている。

東京の賢治の住まいで、伊藤は、エスペラントを習う。この時、エスペラントの名詞は「o」で終わるということが説明される。花巻は「Hanamakio」になるという。仙台は「センダーノ」になるらしい。

ここで、賢治の思想が共産主義に近いのではないかという話が展開される。伊藤の正体はほぼ全員が登場した時から感づいている通りのものである。ちなみに、井上ひさしは共産党員であった。

第二幕第二場は、花巻にある東北砕石工場のセールスマンとなった賢治が、営業先の東京で倒れて、療養している旅館の一室が舞台である。

このあとにエピローグがある。

 

赤、黄、緑の三色が定式幕のように順番に並んでいる幕が上がり、序章がスタート。宮沢賢治の文章を基にした詩的で美しい言葉が用いられている。谷川俊太郎の詩集『はだか』の収められた「むかしむかし」に通じるものもある。

そして、舞台は移り(通常のステージの上に回り舞台が設置されている)花巻駅。背の高い、赤い帽子の車掌(これで役名である。演じるのは、みのずけ)が「はなまき、はなまき」とコールするが、岩手弁である。登場人物も岩手弁を喋る人が多い。ということで、岩手県を舞台にした朝の連続テレビ小説「あまちゃん」を思い出して懐かしくなった。石川啄木の「故郷の訛り懐かし停車場の人混みの中にそを聴きに行く」という短歌を本歌に「『あまちゃん』の訛り懐かし宮沢の賢治の劇にそを聴きに行く」という短歌が瞬時に浮かぶ。「あまちゃん」に出ていた木野花が出ているのは偶然なのか、それとも、もう「あまちゃん」に出ることはわかっているので、岩手弁の方言指導を兼ねてキャスティングされたのかはわからない。木野花は青森県出身で、国立弘前大学を出るまではずっと青森で過ごしてきたので、津軽弁は達者である。津軽弁と南部弁は近いのかも知れない。

永楽病院の一室。賢治の妹である、とし子と、やはり同じ病気で入院し、同室となった福地ケイ子(松永玲子)、そしてケイ子の兄で、三菱の社員である福地第一郎(石橋徹郎)が見舞いに訪れている。第一郎は、東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)にも合格したほど音楽の才能がある。結局、東京音楽学校には進まず、同時に合格した東京工商(東京高等工商学校。現在の芝浦工業大学の前身)に入学。戦時なので、三菱は採用枠を増やしており、工業系学校の出身者は優先的に入社出来たのだという。「僕の読みは当たる」と胸を張る第一郎。この第一郎が狂言回しとなり、病室を訪れた賢治の紹介などを行う。いわゆる説明ゼリフが多用されるのだが、これは状況をわかりやすくするために井上が敢えて行う手段である。その後は、文学的に高度な作劇方が展開される。

第一郎には、「これは実に稀なことだ」、「これはよくあることだ」という二つの口癖があるのだが、賢治はそれをカウントしており、「これは実に稀なことだ」の方が、「これはよくあることだ」より多いので逆だと指摘したりする。

賢治はベジタリアンであるが(「ビジタリアン大祭」という作品を書いている)、とし子には精が付くようにと、牛肉を食べるようにと勧める。だが、とし子が牛肉を食べようとする度に、日蓮宗のお題目である「南妙法蓮華経」を唱える。

第一郎は、「人間は生物と、穀物を食べて生きているのであり、穀物しか食べないというのは、人類の半分を飢え死にさせろ言っているのだと一緒だ」と賢治をなじるが、賢治は、「牛、一頭が食べる草の料を知っていますか?」と聞く。第一郎は三菱の社員なので、小岩井農場(三人の設立者から一文字ずつ取って農場の名前としたもので、「岩」は「岩崎」の岩である)にも詳しいのである(小岩井農場にも来ており、「岩手山の宵の風景の美しさ、いや風景などという下劣なものではない、あれは詩だ。その詩を知っている君と僕とは親類のようなものだ」などといったりする)。牛一頭育てるための草を育てる面積で穀物を作れば、相当な量が取れる。世界中が牛を育てるのを止めて穀物を作れば、誰も喰うに困らなくなるという。

第一郎は、「君は白樺派の作家のような思想の持ち主だな」と言う。この後の賢治のセリフで仕掛けがある。賢治は「自分は人を生かす道はねえのす。自分を生かす。これしか出来ねえのっす」という言うのだが、これは白樺派の作家である武者小路実篤の言葉、「この道より我を生かす道なし、この道を行く」のパロディである。賢治は「新しい村のようなものを作りたい」というような意味のことを言うが、これも武者小路らが中心となって作られた「新しき村」から取られている。

第一郎は作詞作曲をするのだが、第一郎が農村を題材に作った歌に出てくる、「広場」というものは村には存在しないと賢治は指摘する。第一郎は東京生まれの東京育ちで農村のことを知らないのである。

第一郎は、賢治と、とし子の兄妹は変だと言うが、実際に変なのは福地兄妹の方で、ケイ子は変なところで大笑いするし、第一郎は近親相姦のことを言い当てられたのだと勘違いし、「知ってたのか!」、「一度だけなんだ。それも10年も前の話だ」などとつい口にしてしまう。賢治は鈍くて、「何が一度だけなんですか?」、「何が10年前なんですか?」と全く気付いていない(宮沢賢治は、「生涯、女を知らなかった」と言われる。同性愛者であったわけではない)。

第一場のラストに、「背の高い、赤い帽子の車掌」が登場する。花巻にいた時は岩手弁であったが、ここでは東京の言葉を話す。車掌は「思い残し切符」なるものを賢治に手渡す。

今日、この病院で亡くなった二人からの思い残し切符であるという。車掌は宙乗りで舞台上方へと消えていく。姿形こそ「背の高い、赤い帽子の車掌」と同じであるが、正体はどうやらこの世の人ではないようである。

第一幕第二場

賢治が家出するために花巻駅から東北本線の列車に乗るシーンから始まる。

賢治の下宿先である稲垣未亡人の家の居間。稲垣未亡人を演じる木野花が、賢治の作詞作曲である「星めぐりの歌」を歌い、踊る。

そこへ、賢治の父親である宮沢政一郎が訪ねてくる。法華経かぶれの賢治を論破して、家に連れ戻そうと政一郎は考えており、日蓮に関する知識もたっぷり入れてきたという。ちなみに政一郎は標準語も話すことが出来る。言葉遊びが行われて、「けんじ」といって、「賢治」のことかと思ったら、更に続いて「賢者は」だったりする。

賢治が帰ってきて、「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。

政一郎と賢治の対面。宗教の話になる。政一郎は日蓮宗の方が優れた教えだと証明出来なかった時は家に戻るように言い、「日蓮は、法華経以外の教えを認めない。キリスト教もイスラム教も駄目だという。そして全ての経典を読み、その結果、法華経以外の経典は全て劣っている結論づけた。今ある、経典は全て釈迦の言葉を書き残したものだ。それに優劣を付けるなんてとんでもない」と言うが(稲垣未亡人はクリスチャンであり、「キリスト教は認めて下さいまし」という)、賢治は、「夏目漱石の『満韓ところどころ』と『こゝろ』を比べてみて下さい。『満韓ところどころ』はそれほど良い作品ではねえです。『こゝろ』は傑作です。同じ作者でも書いたものに優劣はあるのっす」と返す(実際は浄土真宗も優劣こそ付けないが、浄土三部経以外の経典は用いることはまずない。親鸞聖人の師である法然聖人が経典全てを読み、民衆を救うのに最も適した経典を探した結果、浄土三部経が良いとしたためである。般若心経を読むのは禁止ではないが、基本的に用いることはない。私は門徒である)。

政一郎は、「日蓮は『立正安国論』の中で、念仏宗(浄土系宗教のこと)が流行っているため、民衆は阿弥陀如来ばかりを信仰し、本来の釈迦を敬うことを忘れていると書いている。今の惨状は全て念仏宗のせいだと(実際に『立正安国論』の中で日蓮は、「法然」と実名を挙げて批難している。『立正安国論』は戯曲仕立て。対話で語られている。私は現代語訳で読んだが面白い本である)。そうやって自分こそが正義だという姿勢が気に入らない」というようなことを言う。そういう考えの人間はすぐに家長になろうとする。だから法華経は駄目なのだという。

また、「死が迫っていて、もう僅かしか力がない。そういう人が唱えるのに、『南無阿弥陀仏』は適している。『南無妙法蓮華経』は長い。全部唱える前に事切れてしまう」。

「『南無阿弥陀仏』は小声で唱えて内省的であるが、『南妙法蓮華経』はうるさい」

政一郎「『南無妙法蓮華経』は書物を敬う。『妙法蓮華経』という経典の名前を唱える。『南無阿弥陀仏』は阿弥陀如来だ。阿弥陀如来は悟りを開いた人だ。今まさに死が迫っているときに人は何という? 誰のことを思う?」

賢治「おかあさん」

政一郎「そうだ。人の名前だ。『おかあさん』、おかあさんがいないなら『おとうさん』。だが法華経は書物だ。『南無おとうさんの日記』、『南無おとうさんの日記』」などというか?」

と畳みかける。

部屋の中には蝿が飛んでおり、賢治が政一郎が話している時に、「そこです!」と言い、反論するのかと思いきや、「そこです!」は「そこに蝿が止まっています」という意味だったという言葉遊びが行われる。

政一郎は、「念仏経には、西方浄土というものがある。この世を穢土として西方の極楽浄土に行くことを望む。法華経の浄土はどこにあるのだ」と問うと賢治は「この世界を浄土にするのです。西方に行く必要はねえのです」というが、ここで気がつき、尻もちをつく。自分の出身地である花巻から、南西の方角にある東京に賢治はいるのである。出身地を浄土に出来ないのに、東京に来ているというのは日蓮宗の教え背いているのである。そして東京という恵まれた場所に行っているのは浄土教の西方浄土に行っているのと同じことなのである。

政一郎はあらゆる言葉で賢治をなじるが、とうとうなじる言葉が尽きてしまう。そこで賢治は「木偶の坊などはどうですか?」という。これが実は伏線である。「木偶の坊」は「雨ニモマケズ」に出てくる言葉であるが、更に深い意味が浮かび上がるのである。

賢治は頭を冷やしてくると行って、表へ出ようとする。去り際に「狸おやじ」と悪態をつくが、政一郎が「他には」というと、「以上です」と行って出て行ってしまう。政一郎は「高等農林学校(盛岡高等農林学校。現在の岩手大学農学部の前身)まで出ていながら情けない」という。

稲垣夫人は、「賢治さんを論破できなかった時はどうなさるおつもりだったのですか?」と聞くと、政一郎は「あれは妹と実に仲が良い。『とし子危篤』。この電報ですぐに戻ってくる」と言う。これが一幕のラストシーンである

劇の中に出てくるフィクションではあるが、これが言霊となったのか、本当に、とし子は結核で危篤状態となってしまい、賢治は帰郷。とし子は若くして亡くなるのである。そのことは劇中では後に思い出として語られる。

休憩後、第二幕第一場

出演者のうちの4人が舞台後方に座り、「ドッドドドドウドドドウドドドウ」と『風の又三郎』の冒頭の擬音を歌う。

若者(パンフレットには「風の又三郎らしき少年」とある。演じるのは18歳の若手、大久保祥太郎)が賢治が農学校の教師を辞めて、上京するので花巻駅まで見送りに来る。若者は賢治の教え子であり、教師辞任を撤回して欲しいと懇願するが、賢治はこれからは新しい教育が必要であり、羅須地人協会(らすちじんきょうかい)というものを作り、そこで教育を始め、音楽鑑賞会など色々なことをやるので来なさいと告げる。

この時には賢治はすでに訛りはほとんどなく、標準語を話す。「背の高い、赤い帽子の車掌」も少し訛るだけで標準語を話す。標準語化教育が浸透しているのがわかる(標準語は東京の山の手の言葉を基準にして作られた、人工言語である。江戸弁ではない。江戸弁は「てやんでえ! べらぼうめ!」といった風の乱暴な言葉である。ドラマなどで勝海舟が江戸弁を喋ることがあるが、「あっちはねえ!」という威勢の良い荒い言葉であることがわかる)。

花巻から乗った列車の中で、賢治は中年の男から、「あれ、宮沢さんじゃないですか」と話しかけられる。賢治はその男に見覚えがなく、「あなた様は、どちら様ですか?」と尋ねるが、返ってきたのは「あなたは私のことは知らないだろうが、私はあなたのことをよく知っている。そういう男です」という曖昧な返事。男の名前は伊藤儀一郎。伊藤は賢治についてよく知っている。賢治が、詩集『春と修羅』と童話『注文の多い料理店』を出版したことを知っており、「大したものだ」というが、賢治は「いや、どちらも自費出版で1000部刷ったがほとんど売れないので大したことないです」と答える。伊藤は、花巻駅前の書店で『注文の多い料理店』を買う客を見たという。しかし、買った客は後でカンカンになって戻って来て、「『注文の多い料理店』というから料理店経営のための本かと思ったら変な物語ではないか」と突き返したそうだ。買った男の後を着けてみると、確かにその男は料理店の経営者であったと告げる。

伊藤は賢治に「どちらまで行かれます?」と聞く。賢治が「上野までです」と答えると、伊藤は「では、私も上野まで」という。賢治が不審に思って「では?」と聞くと、伊藤は「いや」といって濁す。

賢治が上京したのは、花巻で音楽劇を上京するために東京で勉強するためである。エスペラントは花巻でも勉強していたが、東京の方が書物は多い(今のようにネットで日本中どこからでも欲しい本が手に入るという時代ではなく、花巻にいては今どんな本が出版されているのかもわからないのである。劇の序章で、「ちくま文庫から出ている『宮沢賢治全集』から」というセリフがあるが、私が千葉にいたころは、ちくま文庫から作家の全集が出ていることを知らなかった。千葉市の書店には置いていないのである。明治大学に入学して神田の書店街に足繁く通うようになってから、ちくま文庫が作家の全集を出していることを知ることになる)、チェロやオルガンなども習ってはいたが、東京の方が学べるところが沢山ある。また、この劇には出てこないが、賢治は劇場に通い詰めており、台本を書くためにタイプライターも習っている。高村光太郎とも親交を得たそうである。

舞台は賢治の東京の住まいに移る。伊藤は賢治の話を聞いているうちにエスペラント語に興味を持ったので、エスペラントを習いたいという申し出て、賢治の家で、エスペラントを学習している。冒頭で、賢治役の井上芳雄と伊藤役の辻萬長が賢治の作詞作曲による「エスペラントの歌」を歌う。

エスペラントは簡単であり、すぐに習得出来るという(実際、トルストイが学んで30分で簡単な会話が出来るようになったという話が伝わっている)。エスペラントはユダヤ人のザメンホフが作ったものだという。ザメンホフはユダヤ系ポーランド人であり、ポーランド人といわれることが多いのだが、この劇では敢えてユダヤ人としている。

エスペラントは単語の終わりの音が決まっており、名詞は「o」の音で終わり、形容詞は「a」で終わるという。ちなみに「イーハトーブ」と書いた場合の「u」は何かと思って見てみると、命令形で「u」が使われるようである。

賢治は、「あなたは誰なのですか?」というエスペラントを書いて読み、伊藤に復唱させる。「そして私は○○です」という言葉を使うのだが、「ポリティシオ」という言葉を予め用意し、伊藤にそれを言わせる。「ポリティシオ」とは警官のことである。ほぼ全ての観客が気付いていたと思うが、伊藤の正体は警官である。花巻署の刑事だ。

賢治は伊藤が自分を尾行していることに気付いたという。一人で上野の図書館に行き、それから御茶ノ水に向かってYMCAに行ったのだが、その途中で何度も伊藤の姿を目撃している。そして、今度は逆に伊藤を尾行してしまうのである。伊藤が警察署に入ったので、署の受付で、「今入っていった人は、知り合いの人によく似ているのですが、○○○太郎さん(名前は漢字に直すと5文字のものであったが、二度しか出てこないので最後の「太郎」しか覚えていない)ではありませんか? 久しぶりに見かけたので、懐かしくて会いたいのですが」というと、受付の署員は「馬鹿なことを言っちゃいいけない。今、入っていったのは花巻署の刑事で伊藤儀一郎さんという人だ」と口を滑らせたという。

賢治は身に覚えがないので、何故、自分が刑事に尾行されなくてはならないのか訝しむ。伊藤は、賢治が上野の図書館で共産主義のことが書かれた本を手にしたのを目にしたとい。賢治は巻末にエスペラントの良い例文が載っていたからだというが、それも共産主義に繋がるものではある。伊藤は、「エスペラント語はユダヤ人の作ったものだったね。ユダヤ人の作るものは実に危険なものが多い。共産主義とか」という。賢治が、「それはカール・マルクスのことですか」と聞くと、伊藤は「そうだ」と答える。

また賢治が農民のための活動をしているが、それも共産主義に繋がるという。更に賢治が岩手労働党という左翼の政党に資金援助していることも突き止めている。賢治は「岩手労働党は農民のための政党です。知り合いも沢山入党しています。資金援助するのは当たり前です」というが、伊藤は、「君ね、『農民』なんてご大層な言葉を使うが、彼らは『百姓』だ。農民なんていう良い身分のような言葉を使われても彼らはポカンとするだけだ」といい、裕福な商家を営み今は政治家である宮沢政次郎の長男である賢治に農民の気持ちなど解るはずがないという。賢治が「ひょっとして、お生まれは農民ですか?」と聞くと伊藤は不承不承ではあるが肯く。

賢治は農民達のための活動として、劇を行いたいと言う。それも音楽劇が良いのだと。それが花巻の農民には一番適していると。伊藤は「それでチェロだのオルガンだのを習っているわけか」と腑に落ちる(「腑に落ちる」は明治以降に使われ始めた比較的新しい言葉である。「腑に落ちない」が古くから使われている言葉で、その肯定形として明治以降に考案された言葉である。辞書には載っていない場合もあるため、今でも「誤用」と考える向きもある。もし「腑に落ちる」を昔からある言葉に言い換えるなら「得心する」が一番であろう。次いで「納得する」だろう)。

賢治は更に、エスペラントでセリフを書きたい、そうすれば世界に発信出来るという壮大な構想を語るが、そうした高等遊民的思想は更なる怒りを買うのである(伊藤は激昂すると岩手弁で話す)。

伊藤が去った後で、車掌が出てきて思い残し切符を賢治に手渡す。賢治が「あなたは一体誰なのですか? いつもの背の高い、赤い帽子の車掌さんの格好をしているが、あなたはあの車掌さんではない」と聞く。車掌はエスペラント語で、「私はコンダクトーラ」だと言って、宙乗りで猿、じゃなかった去る。宙乗りをするのは猿之助(先代も当代も)であるが、猿ではない。

急いで「コンダクトーラ」という単語をエスペラントの辞書で探す賢治。「コンダクトーラ。あった! 『車掌』。いや、車掌なのはわかっている!」と賢治はいう。車掌は英語で「コンダクター」。指揮者と一緒である。「導きを行う」という意味の形容詞の名詞化として語尾は「o」でなく「a」が適用されるのであろう。

第二幕第二場

賢治が舞台の中央で寝ている。「背の高い、赤い帽子の車掌」が、次は「岩沼、岩沼(宮城県岩沼市)」とコールする。

賢治はゆっくりと起き上がり、「誰にも必要とされない木偶の坊と呼ばれ」という「雨ニモマケズ」の一節を述べた後で、再び眠ってしまう。賢治の周りには農民達がいる。賢治が眠り込んで、セリフを「言わぬ間」に農民達が賢治について色々話す。

賢治は体が弱いのにセールスマンとしてあちこち飛び回るようになり、野菜しか食べない上に過労がたたって、肺病で倒れてしまったことが告られる。

舞台は、賢治が療養している東京にある旅館の一室に移る。先程から登場していた松永玲子は仲居さんであることがわかる。人が訪ねてくる。変装をしているが、正体は福地第一郎である。賢治に会い、声音を変えて「宮沢さん、お久しぶりですね。12年ぶりでしょうか」といい、第一郎は変装用のかつらを取る。「第一郎さん!」と賢治は気付く。第一郎が変装しているのは、賢治が寝ている客室の隣の部屋に泊まっている前田という男に恨みがあるためである。前田は三流小説家であるが、女にだらしなく、第一郎の妹であるケイ子と恋仲になったが遊んで捨て、ケイ子はショックの余り睡眠薬を飲んで自殺を図り、命は取り留めたものの昏睡状態だという。第一郎は前田を射殺するための拳銃を持っている。

第一郎が、賢治に「妹さんは元気か」と聞くと、賢治はこう答える「妹はあれから一年持たないうちに亡くなりました」と答える。「冬の日に、妹はなくなりました。霙の降る日でした。妹は『アメユジュトテチテケンジャ』と言いました。『アメユジュ』は花巻の言葉で『霙や霜』、『トテチテケンジャ』は『取ってきて下さい』です。それが最後の言葉でした」

第一郎は三菱で出世しており、満州に渡って、石原莞爾(いしはら・かんじ)と組み(ここでピンとくる人はピンとくる)、新たな事業を展開する計画がある。

口癖である「実に稀なことだ」と「これはよくあることだ」は変わっておらず、賢治に指摘される(第一幕第一場で賢治が第一郎の口癖をカウントするのが伏線になっている)。

第一郎は、「世の中には『実に稀なことだ』と『これはよくあることだ』の二つしかない」と主張する。

第一郎は、自身も国柱会に入会したということを告げる。石原莞爾が国柱会のメンバーだからだという。それゆえ、「同じ国柱会に入っているのだから、君と僕とはもう親戚のようなものだ」と語る。親戚になるのが好きな人のようである。

「井上日召(血盟団の首領)先生や、北一輝(二・二六事件の思想的主導者とされる人物である)先生も国柱会だ(実際は二人とも日蓮宗の信仰者であるが国柱会には入っていない)。今、日本は国柱会によって動かされようとしているのだ」と主張する第一郎。

「今の日本は腐りきっている。私利私欲を貪る奴らばかりだ。そうした連中を我々の中の一人が一人殺す。それで多くの者が幸せになる。そう、『一人一殺』、『一殺多生(いっさつたしょう)』(共に血盟団のスローガンとして知られる)だ」と第一郎は唱える。それで前田を殺そうというのである。

しかし、賢治はそれはおかしいという。第一郎は三菱の社員である。財閥というのは私利私欲に走らねば成り立たないものであり、三菱財閥に務める第一郎が私利私欲に走るのはけしからんというのは矛盾している。そういうことをいうなら三菱を辞めるべきですという。

舞台の一部が跳ね上がり、床下から車掌が現れ、「思い残し切符」を第一郎に渡す。思い残し切符は第一郎の妹のために渡したものであり、車掌は賢治に「あなたのはありません」と言い、賢治は「それはわかっています」と答える。更に車掌は第一郎にも「あなたのもです」と言って、奈落へと駆け下りていく。

思い残し切符は賢治によると「受け取った者は、最低でも今後3年間は死ぬことはない」という縁起の良いもので、いわば幸福の切符である(ということで、自分の分は貰えなかった第一郎も近く、命を落とす運命にあるということである)。

賢治は第一郎に妹さんに渡せば命は助かる、意識も戻るかも知れないという。

起き上がった賢治は「山男のような強いからだに生まれたかった。岩手には色々な踊りがある」と足を上げるだけの舞をする。

そして賢治は、「日蓮聖人は自分のことを『木偶の坊』だと言いました。『駄目な人間』、『賢しい痴れ者』、私は自分のことをそう言う日蓮聖人が好きなのです。今の日蓮宗系の新宗教は日蓮聖人の強い部分ばかりを強調します(共産党の政敵でもあるあそこなど)。でも日蓮聖人は弱い人です。日蓮聖人は釈迦の生まれ変わりでも神でも仏でもない、日蓮聖人は人間です。そういう弱い日蓮聖人を好きな人が一人くらいいてもいいではないですか」と唱える。

「自分は木偶の坊だ、駄目だと思う。そういう人間が増えることがこの修羅を浄土に変える方法なのではないでしょうか」というのである。

エピローグ

キャスト陣が舞台後方に並び、演奏家である荻野清子を除いた、舞台上にいる全員が「あなた方の行く先は決して幸せなものではないでしょう」から始まるセリフを語る。彼らは死者である。「この舞台は、あなた方を乗せたこの劇列車はこれでもうお終いです」これが終幕であることが告げられる。

グスコーブドリ号(東日本大震災の福島第一原発事故で有名になった「グスコーブドリの伝記」から取られている)の女車掌であるネリ(大和田美帆。二役)が現れ、グスコーブドリ号の出発を告げる。死者達は全員、農民である。一人一人が、思い残す言葉を告げる。

賢治が現れ、死因を「肺病をこじらせてしまいました」と言い、「広場が欲しかったな。町の真ん中に広場があれば、色々なことが出来る。岩手には踊りがあり、歌がある」と語る。ネリは「中心にそういうものがあれば様々な表現が出来ますものね(劇場も含まれる。偶然の一致であるが、今回の公演では西宮公演だけが兵庫県立芸術文化「センター」で行われている)。中心にないと目移りしてしまう。皆、ここが世界の中心だと思えばいいのです」という。こらはは賢治と親交があった高村光太郎の『智恵子抄』に収められたの最後の詩に出てくる。岩手県花巻市で書いた詩である。光太郎は「ここを世界のメトロポオルと一人思う」書いているのである。光太郎は戦災を逃れて花巻に疎開し、親交のあった宮沢賢治の実家である宮沢家が名門だというので世話になることにした。家は賢治の弟である清六が継いでいる。その後、光太郎は花巻市郊外に質素な家を建てて移り住む。ここは現在、「高村山荘」という記念館になっており、私も1994年に訪れたことがある。

中央の柱が赤く光る。それは国の柱ではなく村の柱である。しかしこの柱は世界のメトロポオルなのだ。

車掌が現れ、長い時間敬礼を行った後で、思い残し切符を数多く取り出し、客席に向かって「幸あれ」とばかりにバーッと撒く。撒いて幕である。

偶然であるが、メッセージは「あまちゃん」でGMT5が歌っていた「地元にかえろう」に非常によく似ている。勿論、宮藤官九郎も演劇人且つ東北人なので、「イーハトーボの劇列車」を知っていた可能性もあるのだが、「あまちゃん」で語られるメッセージは今は主流ともいえるものである。ただ、当然ながら、「イーハトーボの劇列車」の初演はかなり前であり、それが現代の潮流に合ってきたということになる(宮沢賢治もそうだが、建築家で実業家のウィリアム・メレル・ヴォーリズも近江八幡を「世界の中心だ」として永住した人である。近江八幡市の八幡堀周辺の街並みはとにかく美しく、私もあそこは世界の中心だろうと考える)。マザー・テレサは、「あなたが平和のために何が出来るかって。とにかく早く家に帰って家族を愛しなさい」と唱えたように、身近なところで自分に出来ることをする。その大切さが語られる。ただ自分の身内だけを考えているだけでは駄目なのである。中心で皆にメッセージを送る必要があるのだ。それは文化であり、思想であり、芸術であり、教育であり、とにかく皆のためにすることをしないといけないのだ。

皆のために、「幸あれ」と思い出し切符を撒くような、他者の幸福を願うことが必要なのである。

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2013年8月30日 (金)

観劇感想精選(98) 加藤健一事務所 音楽劇「詩人の恋」2011京都公演

2011年11月5日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、加藤健一事務所の音楽劇「詩人の恋」を観る。加藤健一と畠中洋による二人芝居である。作:ジョン・マランス、テキスト日本語訳:小田島恒志、歌詞日本語訳:岩谷時子、演出:久世龍之介。
「詩人の恋」は加藤健一事務所の代表作の一つで、数々の賞に輝いている。NHK教育テレビ(Eテレ)で放送されたこともあり、私も観ているが、まがう事なき傑作であった。「詩人の恋」は何度も上演されているが、京都では京都会館での京都労演のための上演しか行われていないはずである。それが今回は京都公演があると知り、欣喜雀躍した。欣喜雀躍とはこういうことをいうのかと思った。

舞台はオーストリアの首都で音楽の都ことウィーンである。かつて神童と謳われたアメリカ人ピアニスト、スティーブン(ドイツ語読みだとステファン。畠中洋)は深刻な芸術的危機状態にある。もう1年以上もの間、満足のいくピアノが弾けず、リサイタルを開いていないのだ。そこで、スティーブンはドイツのミュンヘンにいるシラー教授に教えを乞おうとしたのだが、シラー教授はウィーンのマシュカン教授(加藤健一)に教わるようスティーブンに告げたようで、スティーブンはマシュカン教授のもとを訪れる。マシュカン教授は優れたボイストレーナーだが、盛りは過ぎており、ピアノもミスタッチが多い。

ピアノを教わるものだと思っていたスティーブンだが、マシュカン教授はスティーブンにロベルト・シューマンの連作歌曲「詩人の恋」を歌うようにいう。なぜ歌わなければならないのかと反発するスティーブン。マシュカン教授のピアノが上手くないので自分でスラスラ弾いて見せたりする。スティーブンは、「ウラディミール・ホロヴィッツ」、「アルフレッド・ブレンデル」、「グレン・グールド」といった名ピアニストの真似まで披露。グレン・グールドに関してはノンペダルで、鼻歌までコピーするという念の入れようである。しかし、肝心のスティーブンの本人のピアノは…、というのが鍵である。

スティーブンは実はユダヤ人であるが、他の人には自分はWASPだと言うことにしているらしい。しかし、マシュカン教授には事実を打ち明ける。「ユダヤ人が悲劇的な歴史を持っているからといってそれがどうした。ドイツもオーストリアも歴史上、何度も侵略されている。だから本当の痛みや悲しみがわかる。イギリスはそうではない。侵略された歴史がないから。だからイギリスからは優れた作曲家は生まれない。日本という国も同様だそうだ(日本に関しては明らかに加藤健一事務所の上演のために付け加えられたものである)」というマシュカン教授。「アメリカには侵略の歴史はありませんね」というスティーブンだが、「アメリカには人種差別がある」というマシュカン教授の言葉にハッとして、自分が差別されるユダヤ人であることを告げたのだ。ユダヤ人は経済ではアメリカを牛耳っているが、政治の世界では今なお閉め出されている。アメリカの歴代大統領でWASPでないのはジョン・フィッツジェラルド・ケネディとバラク・フセイン・オバマの二人だけである。ハリウッドでもかつては差別があり、ユダヤ人俳優はWASP風の芸名を用いるのが普通であった。ユダヤ人にも優れた音楽家はいるというスティーブン。ウラディミール・ホロヴィッツやレナード・バーンスタインの名前を挙げるが、マシュカン教授は彼らは偉大ではないと否定する。それでも「マーラーはどうですか」とスティーブンは食い下がる。

マシュカン教授にウィーン国立歌劇場で「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「道化師」のオペラ二本立てをやっているので観に行くように薦められるスティーブン。最初は観に行ったと嘘をついたのだが、本当に観に行くとすっかりとりこになってしまったようで、「道化師」の有名ナンバー“衣装を纏え”を歌いながらマシュカン教授の部屋を訪れ、ピアノで“衣装を纏え”を弾くなど上機嫌である(作者は“衣装を纏え”を敢えて選んでいると思われる)。ウィーン国立歌劇場が昔ながらのままの姿を留めていることに感心するスティーブンであったが、マシュカン教授はウィーン国立歌劇場は戦災で焼け落ちており、現在のものは1955年に往年の形そのままに再現されたものだと告げる。ウィーンの人間にはそうしたところがあるのだという。

最初は「詩人の恋」を歌うことに抵抗を示したスティーブンだが、「詩人の恋」の詩と曲に含まれたメッセージ(詩はユダヤ人のハインリヒ・ハイネによるもの)にマシュカン教授の助言を得て徐々に開眼していく。

だが、シラー教授のもとを訪ねるために、ミュンヘンに行った際、近くにあるダッハウ強制収容所跡を訪ねたスティーブンはこれまでドイツ語圏の美点だと思ってたことが実はそうではないことに気付く。ダッハウ強制収容所跡はミュンヘンから電車で約20分の距離にあった。スティーブンはまさか大都会であるミュンヘンのすぐ近くに強制収容所あるとは想像しておらず、しかも、ダッハウ強制収容所跡が綺麗に整備され、案内もドイツ語のみで、外国人には読めないようになっており、本当に悲惨なことが行われていた場所には入ることが出来ず、おまけにダッハウ強制収容所跡から出るときに「バイエルン地方の自然をお楽しみ下さい」というパンフレットを受け取って、それにはドイツ語だけでなく英語なども記されていたことを告げる。あなた方ドイツ語圏の人間は表面を取り繕っているだけだとマシュカン教授を批難するスティーブン。しかし、マシュカン教授は自分の左手をスティーブンに見せた。そこにはアウシュビッツ強制収容所に送られたものだけが刻まれた入れ墨があった。マシュカン教授もまたユダヤ人であり、ユダヤ人が悲劇的に振る舞うのをよしとせずに、誰かがユダヤ人の悲劇を語ろうとすると、それを敢えて否定していたのだ。ユダヤ人の悲劇は刺激が強すぎるからである…

音楽論として、芸術論として、歴史論として、あらゆる角度から見ても完成度が高いという傑作中の傑作である。加藤健一も畠中洋も子供の頃からピアノを習っていたわけではないが、この劇のために特訓してピアノが弾けるようになっている。実は私もピアノを独学でやっており、プロになるなら話は別だが、ピアノを弾くこと自体はそれほど難しいわけではないということはわかっている。それでもステージ上で披露して恥ずかしくないだけのものに腕を上げた俳優にはまず敬意を表するべきである。そして演技はもう達者を通り越して、演技を演技と感じさせない領域にまで達している。更に声楽も専門家の指導を受けて、10年以上も訓練しているということで、我々はプロ中のプロの技に出会うことになる。

スコアや詩の隠された意味を説き明かす過程はスリリングであり、ラストの歌の途方もなく大きなメッセージ、そしてそれに続くピアノ独奏の意味などが明かされていく場面には心から感心してしまう。ちゃんとした音楽と文学の両方の素養がないと書けない類の本であり、役者も演出もきちんとわかっていないと上演不可能な作品である。

これほど偉大な劇作品にはそうそう出会えるものではない。

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