カテゴリー「美術回廊」の10件の記事

2017年4月23日 (日)

美術回廊(10) ビアトリクス・ポター生誕150年「ピーターラビット展」大阪

2017年3月24日 グランフロント大阪北館ナレッジキャピタル地下1階イベントラボにて

グランフロント大阪北館ナレッジキャピタル地下1階にあるイベントラボで、ビアトリクス・ポター生誕150年「ピーターラビット展」を観る。
「ピーターラビット」でお馴染みのビアトリクス・ポター、というより私はピーターラビットしか知らなかったりするのだが、実はピーターラビットが脇役に回った絵本なども書いている。
裕福な家に生まれたビアトリクス・ポター。当時は、お金持ちの家の子は庶民のいる学校には通わず、家庭教師から全てを教わることになっており、ポターもまたそうして育った。それゆえ、友達に囲まれて育つという経験がなく、兎などのペットを飼って可愛がる時間が長かった。このことがポターがピーターラビットを生み出す契機にもなっている。

ビアトリクス・ポターのタッチは緻密でありながら柔らかく、「これだけの絵が描けたらそれは売れるわな」と思うのだが、実はポターは持ち込みを行った全ての出版社から書籍化を断られており、最初の作品は自費出版で出している。ピーターラビットを書くきっかけになったのは、病気になったノエル少年(ポターの元家庭教師であるアニー・ムーアの息子)を励ますために兎の絵入りで出した手紙だというが、今回の展覧会でもその写しもまた展示されている。アニー・ムーアがポターに兎の物語を書くことを勧めたようだ。
自費出版された私家版『ピーターラビットのおはなし』は口絵のみカラーで他は表紙も含めて着色はされていない。そこまでのお金がなかったのと、着色は余計と思われたという二つの理由があったようだ。

裕福な家に生まれたことはアドバンテージだけではない。有閑階級出身のポターは出版社の創業家出身で同社に勤務していたノーマン・ウォーンと恋に落ちるが、両親から「格下の男との結婚は認めない」と断られている。

ポターの少女時代の作品も展示されているが、すでに優れた描写力が見られる。なお、ポターの父親や弟の描いた絵も展示されているがいずれもデッサン力が高く、画才に恵まれた一族であったことが確認出来る。

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2017年1月27日 (金)

美術回廊(9) あべのハルカス美術館 「デュフィ展」2014

2014年9月15日 大阪・天王寺のあべのハルカス美術館にて

大阪の、あべのハルカス美術館で、「デュフィ展」を観る。

あべのハルカスは外から眺めたことはあるが、中に入るのは初めてである。16階にある、あべのハルカス美術館までは直通エレベーターがあり、利用者はそれで美術館まで向かうことになる。便利なのであるが、あべのハルカスの展望台に行くには2階でチケットを買う必要があり、展望台にも行きたい人にはちょっと不便である。また、帰りも16階から1階まで直通で向かうため、ありがたいのだが、15階より下にある近鉄百貨店あべのハルカス店のシャワー効果には結びつかず、ここが近鉄あべのハルカス店の失敗だと言われている。実際、売り上げは苦戦しているようだ。

今回、画を見るラウル・デュフィはフランスの野獣派に属する画家。当初は写実的な画を描いていたが、アンリ・マティスの絵画を観て驚き、それ以降は、写実よりも印象を大切にする作風へと変化していく。原色を多用するのが特徴であり、エスプリ・クルトワを最もダイレクトに伝えてくる画家の一人である。

音楽を好んだため、音楽関連の絵画も多い。指揮者のシャルル・ミュンシュとは交流があり、オーケストラを題材にした画を何枚も描いており、今回も絵画や下絵が展示されている。興味深いのはオーケストラの配置で、1930年代から40年代に描かれたものは全て現在では古典配置と呼ばれるものであるが、1950年に描かれたオーケストラの画は、現代配置になっている。レオポルド・ストコフスキーがフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者だった時代に始めたという現代配置が、1940年代末にフランスでも普及したことがわかる。

デュフィは元々は右利きである。若い頃は右手に絵筆を握っていたのだが、「右手でだと余りにも自由に描けてしまう」という理由で、敢えて左手で描くということを始め、以降は晩年まで絵画に関してはサウスポーで通した。

1877年生まれであり、1953年に亡くなっているが、臨終の際に、イーゼルに掛けてあったという絵画も原物が飾られている。

明るくて温かみのある画だが、例えば、J・S・バッハや、モーツァルト、ドビュッシーらをモチーフにした画を観て、それがどんな音楽をイメージして描かれたのかと考えると、意外に暗めの曲調のものが思い浮かぶ(「モーツァルト」という絵画があり、今回は展示されていないが、楽譜の表紙には“Symphony No.40”と書かれているように見え、だとしたら流れているのは悲壮感に溢れたものということになる)。
「バッハへのオマージュ」もヴァイオリンが一挺画かれているだけだが、このヴァイオリンでバッハのどんな曲が弾かれたのであろうか。「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」の中の曲である可能性が高いが、仮に「シャコンヌ」だったとしたらイメージも変わってきてしまう。

また最も好んだ色は青だというから、デュフィは絵画から感じられるほど能天気な人間ではおそらくなかったであろうと思われる。

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2017年1月11日 (水)

美術回廊(8) 名古屋市美術館 「画家たちと戦争:展 彼らはいかにして生きぬいたのか」

2015年7月30日 名古屋市美術館にて

名古屋市美術館へ。名古屋市美術館では現在、「画家たちと戦争:展 彼らはいかにして生きぬいたのか」展をやっている。横山大観、藤田嗣治、恩地孝四郎、北川民次、岡鹿之助、福沢一郎、北脇昇、吉原治良、宮本三郎、山口薫、松本竣介らの第二次大戦前後の絵画が並んでいる。福沢一郎のようにシュールレアリスムの画風を見とがめられ、作風転向をせざるを得なかった画家もいる。

 

フランスで活躍していた藤田嗣治(ふじた・つぐはる。レオナール・フジタ。オダギリジョーが藤田嗣治を演じた映画が制作された)は、ずっとフランスで活動しており、ヨーロッパの戦況が不穏だというので(実際、後にパリは陥落する)日本に戻っていたのだが、日本の戦争のために画を描いた。これに戦後になって「戦争鼓舞の責任」などと言いがかりをつけられた藤田は激怒。再びパリに渡りフランスに帰化。本名もレオナール・フジタとして終生日本に帰ることはなかった。

全聾の画家、松本竣介は上京後画家となるが、戦争協力の要請には応えずに仄めかしに留まる画を描いている。今回の「画家たちと戦争」展のポスターに使われているのは松本の「立てる像」だ。松本本人の自画像だという。

北川民次の画を観た第一印象は「メキシコの画家の絵みたい」であったが、実は北川民次はメキシコでも絵を習った経験があるそうで、メキシコの画家の作風に似ているのは当たり前なのだった。名古屋市美術館はメキシコ人画家の絵を多数所有しており、常設展示もしているので比較も可能である。

最も有名だと思われる横山大観は戦争に荷担した側である。直接戦争に関与したわけではないが、彼の画いた富士山の絵の数々は戦費捻出に利用されたという。

恩地孝四郎が描いた「あるヴァイオリニストの印象」に描かれているのは諏訪根自子(すわ・ねじこ)だそうである。

個人的には山口薫の、「銃」という画が最も印象深かった。赤茶けた背景の中で、機関銃が三脚のように立てかけられている。三脚の機関銃の束は少なくとも三つはある。今丁度戦いの最中なのか、戦を待つ機関銃なのか、一戦終わった後の機関銃なのか。それはわからないが、何とも言えない禍々しさが画から伝わってくる。

 

常設展では、モディリアーニの「おさげ髪の少女」や、ユトリロの「ノルヴァン通り」を観ることが出来た。

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2016年12月20日 (火)

美術回廊(7) 京都市美術館 「バルテュス展」2014京都

2014年8月26日 京都市美術館にて

京都市美術館で「バルテュス展」を観る。

フランス人画家であるバルテュス。バルテュスというのは愛称兼芸名で、本名はバルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラという長いものである。スキーという英語でいうsonに当たるロシア・スラヴ圏の言葉が苗字に入っているため、スラヴ系の血を引いている。父親はポーランドの貴族階級出身。母親はロシア系ユダヤ人である。
バルテュス自身も最初の妻との間に出来た息子にスタニスラスというロシア人やポーランド人に多いファーストネームを付けている。

絵はほぼ独学であり、ルーブル美術館に足繁く通っては習作を繰り返していたという。

最初にバルテュスの才能を評価したのは詩人のリルケである。まだ少年であったバルテュスの絵を見たリルケは「この年齢でこうした絵が描けるとは驚くべきことだ」として、ストーリー仕立てとなった連作絵画にリルケ本人が序文を書いて出版している。

その後、バルテュスは、『呪われた部分』の思想家ジョルジュ・バタイユや、『ヴァン・ゴッホ』などの俳優・詩人・小説家のアルトナン・アルトー等と交友している。

バルテュスの時代はシュルレアリスムが全盛であり、バルテュスの作風は「古くさい」と見なされて、同時代の画家達からはなかなか認められなかった。そこでバルテュスは敢えて扇情的な表現を取ることで、スキャンダラスな評価を受ける。バルテュスは少女を描くことが多く、それがロリータコンプレックスであるとも見なされたが、実際にはバルテュスには少女趣味はなかったようである。バルテュスは少女を描きながら、同時に少女の未来を描いているようにも見える。

京都市美術館の「バルテュス展」のポスターに使われたのは「美しい日々」という作品。窓を背にして椅子に腰掛けた少女が手鏡を見ている様子を描いたものだが、キャンバスの右隅には暖炉に薪をくべている男も描かれている。自然光と暖炉の明かり、その中で少女は二重に照らされている。ということは、薪をくべている男は少女をより美しくする役割をしているわけで、彼はバルテュス本人なのかも知れない。

バルテュスの風景画はどことなくユトリロに似ているところがあるが、人物画の方は、少なくとも20世紀のヨーロッパでは似た作風の画家は見当たらない。ああした暗さは中南米の画家が良く採るものである。フリーダ・カーロなどがそうだ。

バルテュスは何枚も習作を描くことで、完成作を練り上げるというタイプであったという。「美しい日々」などを観ていると、斎藤茂吉の「実相観入」という言葉も浮かぶ。人物画はどれも写実的というより示唆的である。

少年時代には中国文化に惹かれたというバルテュスであるが、その後、日本のことも気に入り、最初の来日時に行われた自身の展覧会のスタッフであった出田節子を見初め、後に結婚する。節子夫人の影響もあり、『源氏物語』や『雨月物語』なども英語訳やフランス語訳版で読み、日本語の学習もしていたようである。節子夫人は結婚後は常に和服であり、バルテュスもそれに倣って和服を愛用するようになる。二人の間には男の子が生まれたが早世し、後に長女となる春美が誕生している。

パリを離れてスイスの田舎町に移り住んだバルテュスは風景画なども良く描いている。また節子夫人をモチーフに浮世絵の要素も取り入れた人物画も描いている。ちなみにこの絵では姿見の鏡が用いられており、バルテュスにとって鏡は重要なアイテムなのかも知れない。

最後の展示室には、篠山紀信撮影による晩年のバルテュスと節子夫人、娘の春美との写真が並んでいる。笑顔で見つめ合うバルテュスと節子夫人の写真は微笑ましく、写真が欲しくなるが、篠山紀信の作品であるため、ミュージアムショップで売られてはいなかった。だが、節子夫人によるバルテュスの回想録にその写真が入っていたため、それを買うことに決め、他に風景画の額画と、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』をモチーフにした画集などを買う。

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2016年12月 9日 (金)

美術回廊(6) 「イラストレーター 安西水丸展」京都2016

2016年7月8日 美術館「えき」KYOTOにて

ジェイアール京都伊勢丹7階に隣接した美術館「えき」KYOTOで、「イラストレーター 安西水丸展」を観る。

千葉県千倉町(現・千葉県南房総市千倉)出身で、イラストレーター、画家、小説家、エッセイストなど幅広い分野で活躍した安西水丸(本名:渡辺昇。1942-2014))の展覧会である。

村上春樹とのコラボレーションでも知られた安西水丸。二年前に訃報を聞いたときには驚いたが、村上春樹とのやり取りの内容から若いイメージがあったものの、1942年生まれと予想よりもお年だったのである。

千倉のイメージが強いが、生まれは東京で、3歳の時に小児喘息の療養のために母方の実家である千倉に移り住んでいる。千倉は千葉県内でも海が美しいことで知られる街だ(と書きながら実は千倉には行ったことがない。千葉県出身ではあるが千葉市民は千葉県の南の方には余り行かないのである)。

日大豊山高校を経て日大藝術学部美術学科造形コース卒。生家が代々建築の仕事をしていたため、建築についても学ぶ必要があり、いわゆるダブルスクールで建築の専門学校の夜間コースにも通っている。村上春樹との対談によると、夫人とはこの専門学校で出会ったそうである。

日大藝術学部卒業後、電通に入社、その後、平凡社にも勤める。村上春樹のエッセイによるとかなり楽しいサラリーマン時代を送ったそうだが、にわかには信じられないほどパラダイス状態であるため、かなり脚色されているのかも知れない。

本名は渡辺昇(京都・一乗寺の名家の方や坂本龍馬のお友達と同性同名である)で、村上春樹の短編小説集『パン屋再襲撃』には全編に渡ってワタナベノボルという名前で登場する。


安西水丸本人が「大人になっても小学生の絵を描いている大人」と称しているように、一種のヘタウマ的な持ち味のある人である。千倉時代の絵もあって、普通に上手いのだが、そこから次第にタッチがシンプルになっていく。

いくつものイラストをじっくり見て気がつくのは余白の多さである。対象物と比較すると余白の部分がかなり多い。ただ、ぱっと見ではそうしたことには気がつかない。描かれた対象物の持つパワーと、絶妙なバランスが、余白を見えない力で埋めているのだろう。

またシンプルではあってもお洒落である。原色を用いた配分の妙がそうした世界を生んでいるのだと思われる。

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2016年12月 3日 (土)

美術回廊(5) 「メアリー・カサット展」京都

2016年11月27日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて
 

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「メアリー・カサット展」を観る。

メアリー・カサット(1844-1926)はアメリカに生まれ、祖国とフランスで活躍した女流画家。学生時代は古典美術を描いていたが、渡仏後に印象派に作風を変え、その後、独自の画風を生み出してアメリカ画壇の先駆者となっている。
現在の米ペンシルバニア州ピッツバーグの生まれ。現在は斜陽都市として知られるピッツバーグだが当時はまだ景気が良く、父親は成功した株式仲買人、母親は銀行家の娘で、金銭的には恵まれた幼少期を過ごした。
フィラデルフィアの絵画アカデミーで絵を学んだメアリーは、プロの画家を目指すために渡仏。普仏戦争により一時帰国するも再びヨーロッパに渡り、パリでカミーユ・ピサロに師事した。その後、ドガの描いた絵に激しく惹かれ、ドガと対面。ドガの勧めもあって印象派の作品を発表するようになる。

まず「画家としての出発」という、学生時代の作品の展示から始まる。「フェルメール」という言葉が説明に用いられているが、影響は一目見ればわかる。顔を分厚く塗って立体感を持たせた油彩画であり、構図もいかにもフェルメール的である。

渡仏後には作風をガラリと変え、柔らかで淡い感触の絵が並ぶ。絵画なので当然ながら静止しているのだが、カンヴァスの向こうから光が差し込んでいるように感じられたり、描かれた対象が今にも「揺れ」そうなイメージ喚起力を持っている。
「浜辺で遊ぶ子どもたち」からは、潮騒が聞こえてきそうだ。

メアリーは観劇を好んだそうで、劇場に集う婦人達の絵画を発表している。好んで観劇をする女性は、当時、時代の先端を行く新たな女性像でもあった。女性達が家庭から自由になりつつあったのである。

印象派の画家であるため、「ジャポニズム」の影響も受けており、浮世絵にインスパイアされた「化粧台の前のデニス」など、合わせ鏡の絵を描いている。
個人的にはこの「化粧台の前のデニス」が最も気に入ったのだが、絵葉書などにはこの絵は採用されていなかった。

その後の絵画は、タッチよりも内容重視であり、何かを求める赤子の姿を通して、「新たなる生命を求める存在」を描くようになる(作品としては、「母の愛撫」、「果実をとろうとする子ども」など)。内容重視と行っても絵画の技術をなおざりにしたわけではなく、三角形を二つ合わせた構図(北条氏の家紋を思い浮かべるとわかりやすい)を用いて安定感を出している。ドライポイントで描かれた「地図」(「レッスン」とも呼ばれるそうである。二人で何かを熱心に読んでいる子供の姿である)という絵にも惹かれた。

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2016年11月27日 (日)

美術回廊(4) 「レオ・レオニ 絵本のしごと」

2013年6月26日 東京・渋谷のBunkamuraザ・ギャラリーにて

東急文化村地下1階にあるBunkamuraザ・ギャラリーに行く。小学校の教科書に載っている「スイミー」で有名な、レオ・レオニ(レオ・レオーニ)の「レオ・レオニ 絵本のしごと」という展覧会をやっている。

オランダのアムステルダムに生まれたレオ・レオニは、幼時より画才を発揮し、9歳で王立美術学校に入学するなど神童ぶりを発揮するが、その後は家族の都合で、ベルギーのブリュッセル、アメリカのフィラデルフィアなどに移り住む。大学は美術大学ではなく、スイスのチューリッヒ大学経済学部を卒業した。その後、結婚してイタリアのジェノヴァで暮らしていたが、ムッソリーニ率いるファシスト党が政権を握ると、人種差別活動が展開され、ユダヤ人であるレオ・レオニはアメリカへの亡命を余儀なくされた。アメリカでは新聞社や出版社のイラストレーターやグラフィックデザイナーとして働く。アメリカ時代の1959年に、これまた有名な「あおくんときいろちゃん」で絵本作家デビュー。この時すでに49歳であった。1962年にイタリアに戻り、1963年に、「スイミー」で現在のスロヴァキアの首都ブラティスラヴァで行われた世界絵本原画展で大賞(金のりんご賞)受賞。以後、1999年に亡くなるまでイタリアで絵本作家として活動を続けた。

レオ・レオニの画は深く読み込む必要はない。絵本は寓意に満ちており、芸術の大切さと芸術家であることの矜持、弱者への温かい眼差しと共に現実の厳しさをも教える、足を知ること、尊大ぶることの愚かしさ、自意識、アイデンティティ、レーゾンデートルといった抽象的な概念を分かりやすく教える、と、分かりやすいものを説明すると難しい言葉を使うことになるというパラドックスに陥るわけだが、大人は抽象概念として理解出来るものの、子供にはまだ無理なので、寓意を用いて分かりやすく伝えるわけである。簡単なものを難しくいうのは簡単だが、難しいものを簡単にするのは難しい。

驚いたのは、「スイミー」を始めとする数多くのレオ・レオニ作品の日本語翻訳の8割以上を詩人の谷川俊太郎が手掛けていたこと。谷川俊太郎が「マザーグース」の翻訳を行っていることは知っており、実際、谷川俊太郎が翻訳した「マザーグース」を楽しく読んで来たのだが、まさか「スイミー」の翻訳者が谷川俊太郎だったとは寡聞にして知らなかった。そして同時にいかにも谷川俊太郎らしい仕事だとも思った。

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2016年7月18日 (月)

美術回廊(3) 国立西洋美術館世界文化遺産登録決定記念 「ボルドー展 ―美と陶酔の都へ―」

2016年7月17日 東京・上野の国立西洋美術館にて

国立西洋美術館へ。国立西洋美術館の建物も世界文化遺産への申請を行っているようである。企画展示である「ボルドー展 ―美と陶酔の都へ―」を観る。

フランスのボルドーというと、今ではワインの街として知られているが、かつては海上交通の要衝として港町として栄えていた。ガロンヌ河沿いに三日月形に発展したことから「月の港」とも呼ばれていたという。

展示はボルドーのあるアキテーヌ地方の古代の石器や石に刻まれた素朴な人物像から始まり、中世の装飾品や日用品、モンテーニュの『エセー(随想録)』と「法の精神のためのノート」、近世・近代の絵画、ボルドーワインのラベルなどが並ぶ。

ルーベンス、ゴヤ、ドラクロワ、ルドン、トゥールーズ=ロートレック、モネなどの有名画家の作品も並ぶが、私が最も気に入ったのは、ジャン=ポール・アローという画家の「フロワラックから見たボルドーの眺め」という画。ボルドーの街が希望に輝いて見えるのが良い。だが、「フロワラックから見たボルドーの眺め」はミュージアムショップで扱っておらず、残念であった。ミュージアムショップではドラクロワの「ライオン狩り」という作品(上の部分は焼失してしまっている)がメインの画として様々なグッズが売られている。確かに迫力のある画であるが、頻繁に眺めたい画ではないように思える。

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2016年7月13日 (水)

美術回廊(2) 姫路市立美術館 「アンドリュー・ワイエス素描画展」

2004年5月21日 姫路市立美術館にて

姫路に行く。

今回は姫路城に来たのではなく、姫路市立美術館で開催されている、「アンドリュー・ワイエス素描画展」を見に来たのだ。絵を見る前に美術館の入り口脇にある軽喫茶でレモンケーキとレモンティーを注文する。レモンは私の誕生花である(11月12日の花)。

今回の「アンドリュー・ワイエス素描画展」は彼が関わりを持ったオルソン家をテーマに描いた素描画の特集である。最初の画から早くも不吉な印象を受ける。オルソン家の外観を描いた美しい画なのだが、病的な青が施されている。廃墟となった病院が佇んでいるように見える。ほとんどの画に描かれているのは圧倒的な孤独感、絶望感である。

「幽霊」という画がある。いつもは閉まっている部屋のドアの鍵が開いていた。ワイエスはドアを開けて中に入った。中には一人の痩身の男がいた。ワイエスは驚く。実はこれは姿見に映った彼自身の姿だったのだが、ワイエスはこれを幽霊に例えて描写した。不吉な青がここかしこに塗られている。有名な「クリスティーナの世界」の習作が飾られている。クリスティーナは足が不自由だったそれでも懸命に生きようとする意志が伝わってくる。這って帰ろうとする。だが家が遠い。
「カモメの案山子」。オルソン家ではブルーベリーを栽培していた。それを海カモメが狙いに来る。そこで一羽の海カモメの死骸を柱からつるし、見せしめとして海カモメを遠ざけようとした。残酷なまでにリアリスティクな筆致でワイエスはこの画を描ききっている。

今回展示されたワイエスの画には複数の人物が描かれていることは少ない。描かれていてもそのうちの一人だけくっきりとしていて後の人物は輪郭がぼやけていたりする。無人の部屋や建物を描いた画も多い。全体的に画のトーンが暗いが、その中で青だけが死神の流した血のように鮮やかである。クリスティーナが亡くなる。ワイエスはクリスティーナの墓標を描く。荒涼とした平野に小さくポツンとクリスティーナの墓碑が建っている。身も凍るような寂寞感。最後の画、「オルソン家の終焉」はオルソン家の煙突を描いた画だ。かってオルソン家の人々の声がこの煙突から木霊した。今は静寂があるだけ。

アンドリュー・ワイエスは予言者ではない。全ての人間はいずれ死を迎える。人間の死亡率は100%である。だからいずれ来る死をワイエスが描いたとしてもそれはおかしなことではない。

生きることの悲しさが激しく胸に突き刺さる。背筋の震えが止まらない。人は必ず死ぬ、でも生きて行かなくてはならない。展示会場を一周する。出口と入り口は一緒だ。出口を出たらもうお終いではない。そこでもう一周する。驚くほど素晴らしい画の数々。最後まで行き着く。今度は逆走する。本当はこんなことをしてはいけません。ただ今回は遡行する意味があるのだ。不幸な結末。圧倒的な死のイメージから幸福だった時代へと。
最初から2枚目の画、「小舟のそばの二人」だけがこの上ない幸福感に包まれているように見える。この画には、この画だけには救いがある。最後にこの画を見て会場を後にする。ワイエスは絵筆の詩人だ。世界史上最高の画の詩人だ。リアリスティクで象徴主義の残酷で優しい天才詩人だ。

アンドリュー・ワイエス。1917年、ペンシルバニア州に生まれる。小学校に入学するも虚弱体質と神経衰弱(この歳で!)のため半年で退学。以後16歳まで家庭教師につく。経歴には書かれていないが相当孤独な少年時代を送ったことは間違いない。19歳で本格的にデビュー。第二次世界大戦の徴兵検査を受けるが身体虚弱のため不合格。当時、徴兵検査に落ちることは屈辱以外の何ものでもなかった。体の弱い彼であるが、長寿の運命にあり、86歳になる現在も創作意欲は衰えていない(2004年当時。その後、2009年に逝去)。私は中学校の美術の教科書で初めて彼の絵を見た。「遠雷」と「1946年の冬」。画からほとばしるような霊感に圧倒されたのを昨日のことのように憶えている。彼は私に取って永遠に特別な画家であり続けることだろう。

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2016年7月11日 (月)

美術回廊(1) 名古屋市美術館 「藤田嗣治展」

2016年6月16日 名古屋市美術館にて

名古屋へ。愛知県芸術劇場コンサートホールに向かう前に。JR名古屋駅から歩いて白川公園内にある名古屋市美術館に向かう。名古屋市美術館では今、「藤田嗣治展」をやっている。

もう大分前に京都でも藤田嗣治(ふじた・つぐはる。仏名および洗礼名はレオナール・フジタ)の展覧会が行われ、私はそれも観ているが、正直、藤田嗣治の作風は好きになれなかった。ただ気になる存在ではあり、彼の作品を目にしない期間が長くなると、「やっぱり観てみたいなあ」という思いが強いことに気づいた。
実は、愛知県芸術劇場コンサートホールに向かう前には大抵、名古屋市美術館を訪れているので、例え今やっているのは「藤田嗣治展」でなくても名古屋市美術館には出向いていたと思うが。
藤田嗣治はやはり人気があるためか、一般的な展覧会に比べると入場料は高めである。
藤田嗣治を主人公にした映画「FOUJITA」が昨年公開され、藤田嗣治を演じたオダギリジョーが音声ガイドを担当している(私は音声ガイドは使わなかった)。

彼がまだパリに向かう前、東京美術学校を卒業するも成績はパッとせず、理解者もほとんどいなかった頃の絵から展示されている。彼が白い絵の具を分厚く塗った独特作風でパリ芸術界の人気者となる前の藤田の作風は色使いも構成もかなり陰鬱な印象を受ける。
そうした絵を観た後で、藤田の代名詞ともいうべき「白塗り」の絵を観ると、輝きの中にどこか孤独が宿っているような印象を受ける。藤田がそうしたものを意図的に取り入れた作品も存在するが、無意識に出てしまったのはないかと思われるものも多い。

第二次世界大戦が始まり、藤田は日本に帰国。戦意高揚の絵を描くことになったのだが、そうした作品の中に返ってフランスの絵画からの影響を強く受けていることがわかる作品がいくつかある。戦場などを描いた絵は構図がかなり西洋的である。ドラクロワの作だと言われれば信じてしまいそうだ。

戦後、画家としての戦争責任と問われることになった藤田は「無理矢理協力させておいてなんだ」とばかりに激怒。再び渡仏し、フランス国籍を取得。洗礼を受け、レオナール・フジタを本名とする。日本を捨てたのだ。そして二度と日本に戻ることはなかった。
フランス時代のフジタの作品からは、以前には感じられた影のようなものは感じられず、平明で無邪気ともいえる明るさが感じられる。

フランス帰化後の作品が人気のようだが、私は初期の暗めの作風による風景画の方が気に入った。藤田の心の底からの感情が仄かに滲み出ているのが良い。後期のフジタはどこか仮面を被っているような気がする。

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