カテゴリー「教育」の6件の記事

2019年10月17日 (木)

2346月日(17) ラボカフェ「社会と表現の相互作用-フィンランド近現代史と陶芸」

2019年9月16日 京阪なにわ橋駅アートエリアB1にて

午後2時から、京阪電車なにわ橋駅アートエリアB1で、ラボカフェ「社会と表現の相互作用-フィンランド近現代史と陶芸」を聴く。すぐそばにある大阪市立東洋陶磁美術館で開催されている「フィンランドの陶芸 芸術家たちのユートピア-コレクション・カッコネン」との連携プロジェクトである。ゲストは、石野裕子(国士舘大学文学部史学地理学科准教授)と宮川智美(大阪市立東洋陶磁美術館学芸員)。カフェマスターは、當野能之(大阪大学言語文化研究科講師)。

石野裕子は、フィンランド史が専門。フェリス女学院大学文学部を経て、津田塾大学大学院国際関係学研究科博士課程単位取得退学後に博士号取得。中央公論社から『物語 フィンランドの歴史』を上梓している。

 

日本で北欧関係というと、東海大学の文化社会学部に北欧学科(旧文学部北欧学科。その前は文学部北欧文学科であった)があるだけであり、フィンランド語を専攻できるのもここが唯一。専門家を生み出す課程自体は少ないということで、日本では一般に北欧のイメージは良いが、北欧の歴史や文化までもが熟知されているというわけではない。

カフェマスターの當野能之が所属している大阪大学言語文化研究科は、外国語学部の研究科で、大阪大学の外国語学部は大阪外国語大学時代から日本で最も多くの言語を教える外国語学部であったが、スウェーデン語専攻はあるものの、フィンランド語のコースは残念ながらないそうである。フィンランド語は他のヨーロッパ言語とは異なる構造を持つことで知られている。

 

まず石野裕子によるフィンランド現代史の概説が述べられ、次いで宮川智美による大阪市立東洋陶磁美術館で開催中の「フィンランドの陶芸 芸術家たちのユートピア-コレクション・カッコネン」展示作品の解説がある。

フィンランドは約600年に渡ってスウェーデンの統治下にあり、公用語はスウェーデン語だけで、フィンランド語は農民達が話す言葉であった。支配層はスウェーデン系が多く、スウェーデン語が話されていた。それが1809年にスウェーデンとロシアの間で2度目の戦争があり、ロシアが勝利して、フィンランドはロシアに割譲される。ここにフィンランド大公国が生まれ、フィンランドはロシアの中の一国となる。フィンランド大公はロシア皇帝が兼任しており、独立を果たしたわけではなかったが、フィンランド人による自治が認められ、やがて公用語にフィンランド語が加わることになる。
その後、アレクサンドル2世の時代にフィンランドの自由化があり、フィンランドは「自由の時代」を迎えるが、アレクサンドル2世が暗殺され、ドイツの台頭が顕著になると、ロシアはフィンランドへの締め付けを強化し始める。エートウ・イストの風刺画「攻撃」が描かれたのがこの頃だそうだ。

1917年にロシアで2月革命が起こると、フィンランドは同年12月6日に独立を宣言する。だが、そのまますんなりとは進まず、親ソ連派の赤衛隊と親ドイツ派の白衛隊に分かれて内戦が起こり、白衛隊が勝利したが、フィンランド人同士での殺し合いが発生し、約3万人が犠牲になったという。
更に第二次世界大戦ではソ連と戦い、冬戦争と継続戦争という2度の戦いにいずれも敗北(2つの戦争は日本の人気漫画に出てくるそうで、若い人の間では知名度が高いそうだ)。フィンランドはカレリア地方を含む国土の10分の1を失い、多額の賠償金を支払うことになる。
フィンランドが世界に復興を示すのは、1952年のヘルシンキ・オリンピックを待たなければならなかった。ちなみに1940年の東京オリンピックが返上された時、次点であったヘルシンキが開催地に決まったが、大戦が始まってしまったため中止となっている。1940年のヘルシンキ・オリンピックのためにデザインされたポスターは、1952年のヘルシンキ・オリンピックのポスターとして年号だけ変えて使用されたそうである。

 

宮川智美によるフィンランド陶芸の解説。ラボカフェの最初の挨拶で、當野能之がフィンランドの陶芸について、「(イメージと違って)意外だった」と述べていたが、大阪市立東洋陶磁美術館の「フィンランド陶芸」に並ぶ作品は、バラエティに富み、「フィンランドのデザイン」と聞いて思い浮かべるすっきりとしたものもあるがそうでないものも多い。
ただ、まずはもう一つの展示であるマリメッコについてから。フィンランドを代表するテキスタイルブランドのマリメッコ。「マリのドレス」という意味だが、マリというのは、創設者の一人であるArmi Ratiのファースネームの綴りを変えたものに由来しているという。ジャクリーヌ・ケネディなどがマリメッコの衣装を愛用したことで、「知識人のユニフォーム」と言われた時代もあったようである。

そしてフィンランドの陶芸史。
フィンランドの陶芸に偉大な足跡を残している人物は二人いる。アルフレッド・ウィリアム・フィンチとクルト・エクホルムであるが、二人ともフィンランド人ではない。フィンチはイギリス系両親の下、ベルギーに生まれ育ち、ベルギーで画家として活動した後に陶芸にも乗り出し、実践的な芸術運動であるアーツ・アンド・クラフト運動に乗る。やがてフィンランドに招かれ、1897年に設立されたアイリス工房で陶芸を指導。アイリス工房自体は5年の歴史しか持たずに閉鎖されてしまったが、1900年のパリ万国博覧会のフィンランド館にアイリス・ルームなる展示を行い、評判を呼んでいる。アイリス工房閉鎖後は、フィンチはアテネウム(工芸中央美術学校)の教師となり、後継者の育成に尽力。フィンランドを代表する陶芸作家達を生み出していった。
クルト・エクホルムは、スウェーデン出身。ストックホルムで陶磁器デザインを学び、ヘルシンキのアラビア地区に生まれたアラビア製陶所を率いて活躍していく。クルト・エクホルムは陶芸作家でもあったが、批評家としても活動し、実績を残しているようだ。
スウェーデンの陶芸会社であるロールストランド製陶所が税制優遇のためにヘルシンキに作ったのではないかといわれるアラビア製陶所。エクホルムはこの製陶所美術部門のディレクターとなる。ここに所属する陶芸作家達は、社員ではあるが、製陶所の売り上げに繋がる作品を制作するよりも、個々の個性に根ざした作品を作ることが奨励されるという恵まれた環境にあった。社員に女性が多かったのも特徴である。フィンランドでは昔から女性の地位は諸外国に比べて高かったようである。
ただ、アラビア製陶所の作風は凝っていたため、「ライオンとコーヒーカップ」論争というものが起こり、陶器はもっと実用的なものであるべきだという立場の人々からは「ボタンホールの飾りに過ぎない」と批難された。これを受けて、機能主義的な作品を生み出していったのがカイ・フランクらである。カイ・フランクの作風などはシンプルですっきりとしていてそれでいてチャーミングというアルヴァ・アアルトに代表されるいわゆる北欧デザイン的な特徴が表れている。ただ、カイ・フランクらの作風だけがフィンランド陶芸ではなく、もっと多様性を持つのがフィンランド陶芸なのだそうだ。

 

再び、石野裕子による講義「19世紀フィンランドの芸術とナショナリズム」
アレクサンドル2世時代にフィンランド語が公用語となったとき、人々はフィンランド人のアイデンティティを求めるようになる。「もうスウェーデン人ではない。ロシアン人にもなれない。ならばフィンランド人で行こう」という言葉と共に、ナショナリズムが勃興する。
フィンランド的なるものを追求した時に注目されたのだが、叙事詩「カレワラ」である。スウェーデン系フィンランド人であるシベリウスも「カレワラ」を題材にした「クレルヴォ」交響曲を書き、同じくスウェーデン系フィンランド人の画家であるアクセリ・ガッレン=カッレラは「カレワラ」を題材にした絵画を制作している。

一方、文学の方は、ルーネベリとトペリウスというスウェーデン系の作家が生まれた。ただ当然ながら、スウェーデン語での文学であり、フィンランド語による本格的な文学の誕生は、フランス・E・シッランパーの登場を待たねばならなかった。

それまでスウェーデンとロシアという二つの大国の間に押し込められてきた感のあったフィンランドに、「ヨーロッパの一員となりたい」という希望が生まれ、「ヨーロッパへの窓を開けよ」を合い言葉に、松明を掲げる者たちと呼ばれた人々が勢いを増す。ヨーロッパの文化が盛んに取り入れられるようになるのだが、当時の、特にフランスではジャポニズムが流行っており、フィンランドの画家達もそれを間接的に受け入れて、「カレリア」の挿絵を浮世絵の手法を入れて描いたりしているそうである。
この頃、フィンランドは右傾化し、男子学生は「大戦で奪われたカレリアを取り戻せ」としてカレリア学徒会に参加、女子学生は「良き家庭」を理想としたロッタ・スヴァルトという保守的団体にこぞって加入する。
こうしたナショナリズムは言葉と密接に関係しているが、言葉を用いない陶芸や絵画はそれにとらわれない自由さがあり、ナショナリズムでひとくくりには出来ないというのが石野の意見のようである。

フィンランドは人口が約500万人と少ないので個を大切にする教育が行われており、またフィンランドに限らず北欧全体にいえることだが、芸術への手厚い保護があり、例としてシベリウスが若い頃から生涯年金を貰っていたという話をする。アラビア製陶所も企業ではあるが、売れ線のものを作らずに個性を発揮させることが許されていた。そのため、バラバラな個性の陶芸が生まれたのではないかというのが石野の想像のようである。

フィンランド的なデザインとしてよく挙げられるアルヴァ・アアルトとの関係であるが、二人とも建築やデザインは専門ではないのでよくわからないとしていたが、カイ・フランクなどは多分にアアルト的であり、人間の自然にフィットしているように感じられる。これはシベリウスの音楽にも共通することである。

 

思えば、私がシベリウス以外でフィンランドについて注目したのは、ヘルシンキ大学の学生だったリーナス・トーバルズが、UNIXをベースとして生み出したLinuxが初めであった。Linuxは個々が自由に改良できるオープンソースOSであり、個性や多様性を許したプログラムである。また汎用性豊かという意味で極めて機能的である。Linuxがフィンランド的なるものに根ざしているのかどうかはわからないが、少なくとも「発想」に関してはフィンランドのような歴史を持つ国からでないと生まれないような気がする。

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2018年11月 1日 (木)

2346月日(4) 同志社女子大学公開講演会 ジェイ・ルービン 「夏目漱石と村上春樹 翻訳家の告白」

2018年10月23日 同志社女子大学今出川キャンパス純心館S013教室にて

同志社女子大学で開催されるジェイ・ルービンの公開講演会に参加する。アルティであった加藤健一事務所の公演を観た帰りに同志社女子大学の前を通ってたまたま見つけた講演である。同志社女子大学今出川キャンパスの中で最も新しいと思われる純真館で行われる。


「夏目漱石と村上春樹 翻訳家の告白」と題された講演。
ジェイ・ルービンは、村上春樹の小説の翻訳で知られる翻訳家・文学者である。ワシントンD.C.に生まれ、シカゴ大学大学院で文学博士号を取得。ワシントンD.C.ではなくワシントン州シアトルにあるワシントン大学の教授を経て、ハーバード大学教授。2008年に退官して、同大学名誉教授の称号を得ている。『ねじまき鳥クロニクル』の英語翻訳で野間文芸翻訳賞を受賞。村上春樹の『ノルウェイの森』、『1Q84』などの他に夏目漱石や芥川龍之介、謡曲の英訳なども手掛けている。また『村上春樹と私 日本文化に心奪われた理由』という本を上梓している。

ジェイ・ルービンは基本的に日本語で話す。

まず、京都の思い出。京都では、1995年から96年までと2000年から2001年までの2度、桂にある国際日本文化研究センター(日文研)に1年間滞在して研究を行ったことがあり、今回も京都を訪れて大変懐かしく思うと語る。

そして以前、伏見稲荷大社を訪れた時の話になる。伏見稲荷大社には何本もの寄進された鳥居があり、様々な人が勝手に祠を建てたりしている。ジェイ・ルービンはその中にとても古いと思われる祠を見つける。文字が最早見えなくなっており、「これは江戸時代以前に建てられたものに違いない」と思ったのだが、実はそれは昭和に入ってからのもので、夏目漱石の時代よりもはるかに新しいものであった。昭和といっても文字が見えないほど古びてしまうものが存在するのだが、更に古い時代に活躍した夏目漱石は「今でも新しい作家」である。

その後、早稲田大学のゲストハウスに泊まった話もする。早稲田大学のゲストハウスは夏目漱石の生誕地や邸宅が構えられたというゆかりの地である。
ルービンは、早稲田界隈で撮った写真をプロジェクター(投影機)を使っていくつか見せる。漱石山房記念館、夏目漱石生誕の地の碑、夏目漱石の銅像など。早稲田には今も夏目漱石が息づいている。

そこから村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を翻訳した時の話になる。夏目漱石のような物故者には翻訳に関して意見を聞くことは出来ないが、村上春樹は存命中であるため、いくらでもやり取り出来る。ただ、やり取りをしすぎてしまったという話になる。

ジェイ・ルービンは翻訳に関しては細かいところまで詰めるタイプであるため、村上春樹に質問し続けて、朝から晩までやり取りをすることになってしまい、共に疲労困憊になったそうである。
『ねじまき鳥クロニクル』は、「水」が重要なテーマになっているため、ネクタイの柄である「水玉の」を「polka-dot」にすべきか水を強調できる「water-drop pattern」にすべきか村上に問い、村上は「polka-dotがいい」と答えたそうである。

「塀」も『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』以来、重要な村上文学のモチーフなのだが、ジェイ・ルービンは「wallとすべきかfenceとすべきか」迷い、村上は「fence」をベターとした。

「幸江」という名前の女性が出てくるのだが、ルビが振られていない。そこでルービンは、「さちえ」と読むのか「よしえ」か、はたまた「ゆきえ」なのかを聞く。村上の答えは「ゆきえ」であった。

出てくる登場人物が掛けている眼鏡の縁の色が最初は茶色だったのが途中で黒に変わっている。これについては村上は「最初から黒にすべきだった」、つまり編集者も見つけることが出来なかったミスであったことがわかった。

ということで、村上春樹もルービンとの翻訳作業を終えて、「どうせ小説というのはいい加減なものだ」(やれやれ)と発言したそうで、村上春樹自身も翻訳を行うが、自身が書いたテキストが英訳される際に気にするのは英文として面白いかどうかであり、子細に点検するタイプではないようである。村上自身は自作の小説を読む返すこともほとんどないことが知られているが、読む直すと「欠点ばかり目につく」からであり、仮に間違いがあったとしても致命的でない限りは気にしないことにしているようである。
デビュー作である『風の歌を聴け』でも、日付の辻褄が合わなくなっていることが知られているが、村上春樹本人は後でそれに気づくも今に至るまで修正したことはない。確かに小説を読み進める上では大して問題にならない部分ではある。

ちなみに、ルービンは『ノルウェイの森』を英訳した際、村上に訳の間違いを指摘されたことがあるのだが、それは、「かわって」を「わかって」と誤読したために起こったものだそうである。村上はその時も、「『かわって』を漢字で『代わって』と書くべき所を平仮名で書いてしまったため」としており、ルービンは村上について「とても優しい人」という印象を抱いたそうである。


その後、ルービンが『アメリカひじき』を翻訳した野坂昭如の話になる。ルービンは銀座の店で野坂と待ち合わせをしていたのだが、いつまで経っても野坂がやって来ない。1時間ほど待ったところで、実はスタッフが店を間違えていたことに気づき、ルービンは野坂が待つ店へと移動する。
到着した時には野坂はすでに酔っ払っており、店にゴキブリが出たとかで、「人間はゴキブリ以上の存在だと思い込んで疑わない『傲岸さ』について延々と語った」そうである。


ルービンは、澤西祐典(さわにし・ゆうてん)という日本の若い作家を紹介する。優れた作家なのだが日本人はほとんど誰も知らないそうだ。


話は漱石に戻る。『三四郎』を英訳した時のことだが、ルービンは「漱石の頭の中をよりよく理解したい」ということで、漱石自身が書いた『文学論』を読んで研究を行ったという。「漱石は直角的ではなく細かな描写を好む」ことにルービンは気づいていたのだが、『文学論』で漱石は視覚や聴覚といった五感に関する記述を行っており、その細密な分析に感心している。
漱石は、ヴィルヘルム・ブントが書いた色彩に関する記述を挙げ、「白色は華美、緑色は静けき楽を想起し、赤色は勢力に通じるものなり」として、『三四郎』でも色彩理論を発展させている。
なんとなく、共感覚を連想させる手法であるが、夏目漱石が共感覚の持ち主なのかどうかは私は知らない。

その頃、ルービンは、『夏目漱石』を著したことで有名な文芸評論家・文学者の江藤淳を訪ねている。当時、江藤淳は東京工業大学の教授であり、江藤の研究室に招かれたルービンは江藤から「ここにある書籍は自由に使っていい」と言われたそうで、「本当に親切な人だ」という印象を受けたという。
江藤の不在時に、ルービンは「漱石の幽霊が現れるのでは?」という願いを抱きつつ研究室に籠もっていたことがあるそうだが、ついぞ幽霊は現れず、「自分は幽霊を見たことはないし、信じてもいないので」当然ではあると思いつつも、それは漱石が説いた「還元的感化」や、漱石が東京帝国大学の教員を辞して朝日新聞に小説専業の嘱託社員として入社したときの「妙境」に通ずるものがあるのではないかという答えを導く。村上春樹の小説では高確率で、能には常に異界のものが出現する。

最後は、世阿弥の謡曲「雲林院」を巡る話題。在原業平の幽霊が、自身が主人公のモデルとなった『伊勢物語』を本を持って現れるという筋書きに、ルービンは「還元的感化」と「妙境」を感じたという話である。


講義の後で質疑応答の時間となる。質問の優先順位はまず同志社女子大学の学生(普通の講義としても行われており、同女の学生は出席票やレポートを出す必要があるようだ)、次いで同志社大学など単位交換をしている他大学の学生、最後が一般人となるようである。

まず、ジェイ・ルービンの翻訳以外の文学先品があるかどうかという質問であるが、『日々の光(The Sun gods)』という戦中の日本を舞台にした小説を英語で書いており、日本語訳はルービン自身ではなく柴田が行ったそうだ。

2つめは、日本文学に興味を持ったきっかけについて。ルービンは、日本語を選んだのは「大きな間違いでした」と冗談を言う。英語を母国語とする者にとって日本語は最難関言語として知られ、とにかく難しい。大学時代にたまたま「日本文学入門」という講義を取り、先生が「原語で読むとますます面白い」と言ったため日本語に取り組むことになったのだが、「それが元々の間違いでした」

3つめは、村上春樹の小説がアメリカでどう受け止められているか、またノーベル文学賞に関して。
ノーブル文学賞に関してはイギリスの賭け屋が勝手にやっていることで、ノーベル文学賞委員の意向は全く不明である。ノミネートされているのかどうかすらわからない。ただ、「今の日本人でノーベル文学賞を受賞するとしたら村上春樹しかいない」のは事実である。ノーベル文学賞委員の不祥事で、ノーベル文学賞委員が解散。後継の賞は出来たが、これに関しては村上春樹自身がノミネートすら断っている。
アメリカのメディアで日本文学がどう取り上げられているかだが、文学以前に日本文化自体が話題になることがほとんどないそうで、村上春樹はその中で唯一の例外だが、それもノーベル文学賞絡みのことである。アメリカでは夏目漱石すらほとんど知られていないそうである。

4つめは、作者と読者の関係について。同女の英文科の学生の質問であるが、英語の小説を読もうとしても現時点では没頭出来ず、やはり日本語訳で読む方を好むのだが、原語による文章の差異についてはどう思うかというものである。
ルービンの場合、ドストエフスキーが好きだがロシア語を学んだことはないので、英訳で読むそうだ、「本当に理解出来ているのかわからない」というのが本音だそうである。
それと矛盾するが、ルービン自体は「文学は原語で読むべき」という考えを持っているそうだ。ただ、世界中で村上春樹は読まれているが、翻訳で読んだ全員が村上春樹について誤解しているかというとそういうことはないだろうとも思っており、伝わることは伝わるだろうとも考えているそうだ。

5つめ。深読みの可能性について。ハンガリーからの留学生からの質問である。
深読みしすぎて間違うことは往々にしておるが、物故者の場合、その深読みが合っているのかどうかを確認する術はない。「too much」になった場合はどう思うのか?
村上春樹は、「You think too much」という言葉をよく使うそうで、ルービンのように細部まで訳語を詰めなくても伝わることが伝われば良いという指向のようだ。
またルービンは学者だからこそやり過ぎると考えているようで、自戒としてもいるようである。

6つめは、「翻訳するに当たって重視しているものは」
第一に考えているのは。「正確さ」だそうである。「忠実に」行うのだが、日本語を英語にそのまま転換することは出来ないので、「英語の読者になるべく日本語の読者と同じ経験を与える」よう心がけているそうだ。

7つめは、「テキスト翻訳の際に解釈は許されるのか?」
日本語と英語は構造から何から全てが余りに違うというのが事実である。「Thank you」を日本語に訳すと「ありがとう」だが、「ありがとう」の元々の意味は「滅多にないこと」であり、「あなたに感謝します」の「Thank you」とはそもそも成り立ちが違う。「こんにちは」であるが、英語にそのまま置き換えると「Today is...」になる。そのまま言っても英語圏の人には何を言っているのかがわからない。そこで意味が一緒になるよう置き換える必要がある。ということは「解釈を入れないと翻訳出来ない」ということでもある。

私自身、中国語の翻訳家を目指したことがある。1990年代前半には、関東と北海道ローカルであったが、cx系の深夜番組である「アジアNビート」で中国、台湾、韓国のポップスが中心に紹介されていた。大学の第二外国語で中国語を選択していたこともあり、中華圏のポップスは良く聴いたのだが、ライナーノーツに記載されている日本語訳歌詞が間違いだらけなのがかなり気になった。なぜ間違いが生じてしまうのかというと、翻訳者は中国語には通じているものの文学的素養に欠けるため、何を言っているのか把握出来ないまま訳してしまっているのである。訳しているとは書いたが、内容把握出来ないまま日本語に置き換える作業を訳とは本当はいわない。訳とは言葉ではなく内容を置き換えるのである。


8つめは、7つめに関連した質問が白人男性からなされる。「内容転換はするのか?」
答えは勿論、「書き換えは許されていない」

原文のテキストが作者だとすると、翻訳者は演出家に相当する。演出家にも変な人が多いので、勝手に解釈して内容を改竄してしまう人はいるのだが、私に言わせればその時点でアウトであって、人前で表現する資格すらない。


9つめは、夏目漱石の『三四郎』に関するもので、知り合いの翻訳家が『三四郎』を英語に訳する際、わかりやすくするための言葉を足したらどうかと提案したら「No」と言われたそうである。
ルービンもやはり「わかりやすくしてはいけない」という考えのようである。
私自身も「読者を信頼すべき」と考えている。わかりやすくした場合は、原典ではなく私自身の文脈に誘い込むということになってしまうからだ。とはいえ、信頼したからといっていい結果が出るわけでもなく、逆になるケースがかなりあるのだが。

最後は同志社女子大学の教員からの感想で、村上春樹はスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を自身で日本語訳しているが、かなり解釈を入れており、村上自身が「これは村上春樹の『グレート・ギャツビー』だ」と断言していて、本当の『グレート・ギャツビー』を読みたいなら原文で読むことを薦めている。
ここでこの方は勘違いして、「自分は翻訳の際、解釈を入れているのに、自分のテキストを英訳する時はかなり細かく言葉を選ぶの意外」と言っていたが、村上春樹が細かいのではなく、ルービンが子細に聞く人なのである。先に出てきた通り、村上の考えは「どうせ小説というのはいい加減なものだ」である(やれやれ)。



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2018年9月23日 (日)

コンサートの記(427) 愛知県立芸術大学レクチャーコンサート「ブレヒト・詩と音楽の夕べ」―ナチ時代に亡命したユダヤ系の音楽家たち―

2018年9月11日 名古屋・伏見の電気文化会館ザ・コンサートホールにて

午後7時から電気文化会館ザ・コンサートホールで、愛知県立芸術大学レクチャーコンサート「ブレヒト・詩と音楽の夕べ」―ナチ時代に亡命したユダヤ系の音楽家たち―を聴く。愛知県立大学音楽学部准教授の大塚直(おおつか・すなお。専門は近現代ドイツ語圏の演劇・文化史)のレクチャーで進めていく音楽会である。

20世紀ドイツを代表する劇作家・演出家であるベルトルト・ブレヒトを縦軸に、彼と仕事をしたドイツのユダヤ人作曲家の作品を中心に演目は編まれている。

演奏されるのは、クルト・ヴァイルの「三文オペラ」より“海賊ジェニーの歌”と“バルバラ・ソング”、「マハゴニー市の興亡」より“アラバマ・ソング”、「ヴィナスの接吻」より“スピーク・ロウ”、パウル・デッサウの「セチュアンの善人」より“八頭目の象の歌”、「動物の歌」、ピアノ・ソナタ ヘ長調より第1楽章、ピアノによる「ゲルニカ」、ハンス・アイスラーの「マリー・ザンダースのバラード」、「小さなラジオに」、二つの悲歌「あとから生まれてくる者たちに」、ハンス・ガルのピアノのための三つの小品と無伴奏チェロのための組曲より第1曲。

電気文化会館ザ・コンサートホールに来るのは初めてである。地下鉄伏見駅の間近にあり、近くには御園座や三井住友海上しらかわホール、名古屋市美術館などの文化施設が集中している。
ステージは上から見て台形、白い壁には音響効果を高めるために起伏が設けられている。内装も響きも、最近出来た大阪工業大学・常翔ホールに似ているように思われる。


出演者は、当然ながら愛知県立芸術大学の関係者である。
レクチャー担当の大塚直は、先に書いた通り愛知県立芸術大学准教授で、名古屋大学や椙山女学園大学、名古屋市立大学の非常勤講師も務めている。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学後、ドイツ・コンスタンツ大学に留学し、帰国後に東京外国語大学大学院にて劇作家のボートー・シュトラウスに関する研究で博士号(学術)を取得。翻訳者・ドラマトゥルクとしても活躍しており、今回、無料パンフレットに挟まれた歌詞対訳も大塚が行っている。

ブレヒトが書いた詩の全てを歌うのは、愛知県立芸術大学OGのソプラノ・藤田果玲(ふじた・かれら)。愛知県立明和高校音楽科、愛知県立芸術大学音楽学部を経て、ハンブルク音楽院に学び、現在は州立シュトゥットガルト音楽演劇大学大学院現代音楽科2セメスター在学中である。第16回大阪国際コンクール歌曲コースAge-Uエスポワール賞、第7回東京国際声楽コンクール歌曲奨励賞などの受賞歴がある。

ヴァイル作品でピアノ伴奏を務める家田侑佳は、愛知県立明和高校音楽科と愛知県立芸術大学音楽学部を卒業。現在、同大学大学院博士前期課程鍵盤楽器領域2年在学中である。第32回日本ピアノ教育連盟ピアノオーディション東海地区で優秀賞を受賞している。

デッサウ作品でピアノソロを受け持つ野村七海は、名古屋市立菊里高校音楽科を経て愛知県立芸術大学音楽学部を卒業。同大学大学院博士前期課程鍵盤楽器領域2年在学中ということで、家田侑佳と同級生である。第15回ショパン国際ピアノコンクール in Asia 大学生部門アジア大会奨励賞、第18回日本演奏家コンクール大学生の部の特別賞及び芸術賞を受賞。第9回岐阜国際音楽祭コンクール一般Ⅰの部第2位入賞も果たしている。

チェロ独奏の向井真帆。広島県に生まれ、12歳からチェロを始めている。愛知県立芸術大学音楽学部を卒業し、現在は同大学大学院博士前期課程2年に在学。第11回ベーテン音楽コンクールで全国大会第1位を獲得。第10回セシリア国際音楽コンクール室内楽部門第3位にも入っている。

全員、大学院在学中であるが、すでに華麗な経歴を誇っていることがわかる。


まず、大塚直によるレクチャー。「愛知県立芸術大学でブレヒトが取り上げられることはまずないと思いますが」と挨拶したものの、休憩時間に愛知県立芸大の関係者から指摘を受けたそうで、「実際はブレヒトもちゃんとやっているそうです」と改めていた。
一般的に、芸術大学の音楽学部や音楽大学では、「高みを目指す」崇高な音楽が追究されることが多いのだが、ブレヒトや今日取り上げられる作曲家は、労働者階級などにも「拡げる」音楽を指向していたことを語る。


「三文オペラ」。ブレヒトの代表作である。ジョン・ゲイの「ベガーズ・オペラ(乞食オペラ)」を元に練り上げられており、「マック・ザ・ナイフ」はジャズのスタンダードナンバーにもなっている。
私自身が「三文オペラ」に最初に触れたのはCDにおいてである。ロンドン=DECCAから発売された、ジョン・モーセリ(マウチュリー)指揮RIASベルリン・シンフォニエッタの演奏、ミルヴァ、ルネ・コロ、ウテ・レンパーほかの歌唱によるもので、高校生の時に聴いている。このCDは当時発売されたばかりで大評判になっていたものだが、高校生で理解するのは無理であった。「三文オペラ」自体は、兵庫県立芸術文化センター中ホールで白井晃演出のものを、今はなき大阪厚生年金会館芸術ホールで宮本亜門演出のものを観ている。「ベガーズ・オペラ」も梅田芸術劇場メインホールでジョン・ケアード演出のものを観ている。
「三文オペラ」の名盤とされていたのは、クルト・ヴァイル夫人でもあったロッテ・レーニャが娼婦ジェニーを務めたものだが、これは録音後50年が経過したために著作権フリーとなっており、オペラ対訳プロジェクトの音源となってYouTubeで視聴することが出来る。

まず「海賊ジェニーの歌」。赤いドレス姿の藤田果玲は、銀色のハイヒールを手に持って登場。ドイツ語のセリフをつぶやき、ハイヒールを床に落としてから履き、ステージの中央へと歩み出る。
かなり良い歌唱である。他の演奏者も全員良い出来で、学部ではなく大学院レベルにおいてであるが、愛知県立芸術大学のレベルはかなり高いことがうかがわれる。
「海賊ジェニーの歌」は、娼婦のジェニーの夢想を歌ったものだが、破壊願望がかなり強く出ている。自分をこき使う男達が、最後は海賊に皆殺しにされるという内容である。

京都造形芸術大学在学中の2003年に、アメリカの演劇人であるジョン・ジェスランの作・演出で行われた授業公演の「バルド」で「海賊ジェニーの歌」の一部が使われていた。映画館内でカップルが「海賊ジェニーの歌」をデュエットするというあり得ない状況が描かれたのだが、劇自体が非現実性を狙ったものであった。曲の正体を知っていたのは間違いなく私だけだったと思われる。

おなじく「三文オペラ」から“バルバラ・ソング”。貞淑な乙女と思わせつつ実は、という内容の歌詞を持つ。「三文オペラ」のヒロインであるポリーのナンバーだが、白井晃演出の「三文オペラ」では実はポリーを演じていたのは篠原ともえ、ということでかなり異化効果が効いていた。

オペラ「マハゴニー市の興亡」より“アラバマ・ソング”。本能そのままというべきか、もはや中毒症の領域に達している欲望を歌っている。
そして「ヴィナスの接吻」より“スピーク・ロウ”は一転してメロウなナンバーであり、ヴァイルの作風の多彩さを知ることが出来る。

クルト・ヴァイルは、ドイツ・デッサウの生まれ。ベルリン音楽大学を中退後、前衛作曲家として活躍。ナチスの台頭によってパリへ、そしてアメリカへと亡命する。渡米後はブロードウェイ・ミュージカルの作曲家としてメロディアスな作風へと転換している。


パウル・デッサウは、ハンブルクの生まれ。1909年にベルリンのクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院に入学し、ヴァイオリンを専攻。その後、オペラのコレペティートアを経て指揮者としての活動も始めている。ケルン歌劇場でオットー・クレンペラーの許、カペルマイスターとして活躍し、その後はブルーノ・ワルター率いるベルリン国立歌劇場の音楽監督にもなっている。作曲家としてはディズニー映画「アリス」の音楽などを担当。1939年にパリへと亡命し、十二音音楽に取り組むようになる。1939年にアメリカに渡り、1942年にニューヨークでブレヒトと再会して、「肝っ玉おっかあとその子供たち」や「セチュアンの善人」の舞台音楽を手掛けた。戦後は東ドイツの国立演劇学校の教授などを務めている。

デッサウの「セチュアンの善人」より“八頭目の象の話”。この曲では藤田はマイクを手にして歌う。
7頭の荒くれた象と従順な1頭の象。従順な1頭の象が7頭の象をどんどん抑圧していくという内容であり、藤田もきつめのアクセントで歌う。

「セチュアンの善人」は、新国立劇場中劇場で串田和美演出の「セツアンの善人」を観ている。出演は、松たか子、岡本健一ほか。舞台上が稽古場という設定での上演であり、また出演者全員が楽器も奏でる。松たか子がアコーディオン、岡本健一がギター、串田和美は「上海バンスキング」でもお馴染みのクラリネットを担当していた。

「動物の詩」。ブレヒトが1934年に息子のシュテファンのために書いた「童謡」に収められた動物を描いた詩にデッサウがブレヒトの死後にメロディーをつけて発表したものである。皮肉や諧謔に満ちたいかにもブレヒトらしいというかユダヤの世界観にも通じる詩である。「ワシ」「ウマ」「カラス」「ワラジムシ」「ハリネズミ」の5曲。ソプラノの藤田果玲は全曲タイトルをドイツ語で読み上げてから歌う。表情豊かな旋律と歌唱である。

ピアノ・ソナタ ヘ長調より第1楽章。1947年に完成し、その後に修正を加えられた曲である。まさにロマン派と前衛の境目にあるような曲である。

ピアノによる「ゲルニカ」。ピカソの「ゲルニカ」にインスパイアされた作品である。1937年のパリ万国博覧会スペイン館に展示された「ゲルニカ」を観たデッサウはすぐさま作曲に取りかかり、翌38年に完成させている。衝撃的な冒頭は予想されるような曲調だが、後半ではミステリアスというか不穏というか、十二音技法を取り入れた静かであるが不安定な曲調が顔を覗かせる。


ハンス・アイスラーは、彼の名を冠するハンス・アイスラー音楽大学の存在によっても有名である。ライプツィッヒの生まれ。家族でウィーンに移住し、独学で音楽を学び始める。シェーンベルクに師事し、ヴェーベルンやアルバン・ベルクらと並ぶ新ウィーン学派の作曲家としてスタート。その後、シェーンベルクとは袂を分かち、ドイツ共産党に入党するなど独自路線を歩み始める。1930年からブレヒトとの共同作業を開始するが、1933年にナチスが政権を取ると亡命を選び、38年にはアメリカに移住。南カリフォルニア大学で教鞭を執り、チャップリン映画の音楽顧問なども務めるようになる。ハリウッド映画の作曲も手掛け、アカデミー賞作曲部門にノミネートされたりもしているが、赤狩りにより国外追放となり、1950年に東ドイツに戻る。その後はベルリン音楽大学の教授などを務めた。

アイスラー作品では、野村七海がピアノ伴奏を務める。

「ユダヤ人相手の娼婦、マリー・ザンダースのバラード」。1935年にニュルンベルク法が成立し、ユダヤ人と非ユダヤ人との婚姻と婚外セックスの禁止が決定する。それまでユダヤ人相手の娼婦として生きてきた女性や法律を破った者は、見せしめとして頭を丸刈りにされ、肌着一枚で首からプラカードをぶら下げられ、市中引き回しの刑に処される。
その様子を描いた曲である。かなり直接的な表現が用いられているが、物価の高騰が同列に挙げられるなど、皮肉も効いている。

「小さなラジオに」。ハリウッドでブレヒトと再会したアイスラーが作曲した歌曲である。ナチスの電撃作戦が成功している様をラジオで聞く悲しみを歌った短い歌である。ラストではピアノが不協和音を奏で、ラジオが壊れる様が描写されている。

2つの悲歌「あとから生まれてくる者たちに」。ブレヒトが自身の人生を省察するかのような詩であり、ブレヒトらしくない言葉で綴られている。生きた時代の不遇を嘆きつつ、未来とそこに生きる人たちへの希望を語っている。
まず、大塚がテキストを朗読してから歌がスタート。単純に美しい曲である。いずれも詩の内容を的確にくみ取った秀歌で、もっと知られていても良いように思う。


ハンス・ガルは、作曲家として以上に音楽学者や教育者、楽譜の校訂者として高く評価されているようである。

ウィーン郊外の村ブルンで代々医者の家系のハンガリー系ユダヤ人の子として生まれる。父がオペラ好きであり、ギムナジウムでは指揮者となるエーリヒ・クライバーと親友であったということもあって、音楽を志す。ウィーン大学で音楽学を専攻し、師であるマンディチェフスキと共にブラームス全集の校訂などを行っている。その後、マインツ音楽院の院長公募試験に合格し、1933年まで院長を務めている。この時代に多くの音楽家を見いだしており、中でもヴィルヘルム・フルトヴェングラーを高く評価していた。

ナチスが政権を奪った当時のヒトラーと間近で会ったことがあり、「こんな奴の政権が長続きするわけがない」と思ったそうだが、予想に反してナチス政権が維持されたため、ユダヤ人であるガルは公職追放となり、ウィーンで指揮者としての活動を始めるが、38年にオーストリアがドイツに併合されると、イギリス・スコットランドのエディンバラに亡命。エディンバラ大学の講師として音楽理論や対位法、作曲などを教えるようになる。音楽書『シューベルト』や『ブラームス』を著しており、ドイツ語圏では名著として知られているという。

97歳と長寿であり、80代で自作のピアノ曲を暗譜で初演するなど、晩年まで軒昂であった。「音楽は美しくなくてはならない」というのが持論であり、メロディーや調整を重視する作風を保ち続けた。

ブレヒトと一緒に仕事をしたことはないようが、同時代の劇作家であるエデン・フォン・ホルヴァートと知り合い、「行ったり来たり」という舞台作品の音楽を手掛けている。

ピアノのための3つの小品。演奏は、前半はピアノ伴奏を務めた家田侑佳が務める。前半は黒の上下であった家田はこの曲では白のドレスで演奏。ウィーンの正統的な音楽性を感じさせるピアノ曲だが、時代を反映して響きの美しさも追求されている。

ラストは、無伴奏チェロのための組曲より第1曲。
ドイツ音楽の祖であるJ・S・バッハを意識して作曲されたものであろうと思われるが、古典的な造形美よりも自由な音楽性と追求しているようにも聞こえる。


アンコールは、マレーネ・ディートリヒが歌ったことで知られる「リリー・マルレーン」が歌われる。ソプラノの藤田果玲は、ピアノに寄りかかり、本を拡げながら、歌詞に出てくる街灯の下にいるような雰囲気で歌った。

ユダヤ人の芸術家は、ナチスによって「退廃芸術」家と名付けられ、祖国を追われ、作品は発禁処分となっている。時を経て、今また、訳知り顔の「正しさ」が跳梁跋扈し、表現は制限・規制され、排除の理論が大手を振って歩くようになり、芸術は本来持っていた豊かさを奪われつつある。
ブレヒトやユダヤ人作曲家達が残した作品は、高踏的な人々が好むものでは決してなかったが、そこには未来を希求し、分け隔てのない世界を目指した「心」がある。ブレヒトが尊敬したベンヤミンは「アクチュアリティ」の重要さを唱え、20世紀ドイツ最大の詩人であるパウル・ツェランは「芸術には日付がある」として同時代的であることを追求した。100年ほど前のラジカルではあるが、それは常に「今」を照射している。

良質のコンサートであり、気分が良いので地下鉄に揺られようという気分にならず、伏見から名古屋駅まで歩く。



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2017年4月 8日 (土)

京都大学フィールド科学教育研究センター主催 公開シンポジウム「ひろげよう、フィールドの世界」

2017年3月19日 京都大学 益川ホールにて

午後2時から、京都大学吉田キャンパス北部構内にある京都大学益川ホールで、京都大学フィールド科学教育研究センター主催による公開シンポジウム「ひろげよう、フィールドの世界」に参加する。「自然」「芸術」「文系」「理系」などの融合を図るシンポジウム。

無料公演で、予約多数による抽選となったようだが、なんとか突破出来た。

益川ホールは、2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英を記念して北部構内総合教育研究棟1階に作られた中規模講堂であり、当然ながらまだ新しい。
私が京都に来た頃は、京都大学はまだ「日本一のオンボロ大学」と呼ばれていたが、その後、何年にも渡って増改築を繰り返し、今では「その辺の私大より豪華」な大学に変わっている。

京都大学北部構内は、理系の学部のためのキャンパスであり、私も入るのは初めて。益川ホールの場所を確認して、受付を済ませてから、缶ジュースを買いに、いったん、総合教育研究棟を出る。歩いていると、上品そうなおばさんから、「すみません、京大の先生ですか?」と聞かれる。先生どころか関係者ですらないので、否定したが、私と同じく益川ホールに向かうとわかったため(京大関係者以外で今日、北部構内を歩いているお年の方はシンポジウム参加者しかいない)場所は教えた。
顔も格好も京大の先生っぽかったのだろう(京都国立博物館上席研究員で、京都大学出身の宮川禎一先生とは知り合いだが、「よく似ている」と言われる)。


公開シンポジウム「ひろげよう、フィールドの世界」。司会を務めるのは、京都大学海里森連環学教育ユニット特定准教授の清水夏樹(女性)。着物姿での登場である。

まず、京都大学総長である山極壽一(やまぎわ・じゅいち)が開会の言葉を述べてスタート。

最初に発表を行うのは、京都大学フィールド科学教育センター教授兼センター長の吉岡崇仁。「和と洋が出会う場所」というタイトルである。スクリーンに映像が映され、レーザーポインターを使って進められる。
まず、京都大学の芦生研究林(京都市左京区、京都市右京区、京都府南丹市、福井県、滋賀県にまたがる広大な森林。本部は京都府南丹市芦生にある)には鹿がいるのだが、鹿によって植物が食い荒らされるという食害が発生している。ただ、鹿は天然記念物なので殺害することも出来ない。そのため、「鳥獣保護VS植生保護」という二律背反が起こっているという報告を行う。
芦生研究林では、檜皮を作っており、本来なら結構な値段になるのだが、これらは神社の檜皮葺等に無償で提供されているという。吉岡は、「こころ」と「ふところ」という言葉を用いて、「こころ=文系=非経済」、「ふところ=理系=経済」という図式を作り、どちらも大切であることを述べる。吉岡は「和魂洋才」という言葉を出す。客席に「ご存じの方?」と聞くが、手を挙げたのは私を含めて5人前後。だが吉岡は、「全員ですね」「私には心の中で挙げてる人も見えます」と続ける。京大でのシンポジウムであるが、みなユーモアを持ち合わせていてお堅くもなんともない。
吉岡は「和魂洋才」の説明をしてから、文系は和でこころに近く、理系は洋でふところに近いという話をする。
そして、森林伐採が行われた場合、何が心配かをアンケート調査したところ、「水質」という答えが多かったということを語り、森と水とが繋がっていることを人々が認識していると同時に、森自体は水よりも生活に密接に結びついているとは取られていないことを告げた。


続いて登壇したのは、京都大学フィールド科学教育研究センター准教授で芦生研究林長でもある伊勢武史。テーマは「人はなぜ、森で感動するのか」。芦生研究林は研究林あると同時に観光名所でもあるそうで、ハイキングやピクニックに訪れる人も多いという。だが、当然ながら人間が増えると生態系が破壊されるため、「観光客を制限してはどうか」という意見が上がる一方で、「観光客を減らすのではなく、より生態系を守る活動をしよう」という見解もあるそうだ。
さて、「人はなぜ、森で感動するのか」というテーマの仮説であるが、旧石器時代以前は自然淘汰が激しかったため、森を愛した人の方がそうでない人よりも生き残りやすく、我々はその生き残った人々の子孫であるため、森に安らぎを感じるのではないかと考えられるそうである。
また、「なぜ人は森に行くのか?」という疑義が呈され、森はアミューズメントだという仮説が発表される。森には多様性があり、美しいものも醜いものも両方ある。「美」というものは生物進化の中で生まれた観念であるが、これは白紙の状態(「タブララサ」ということだろう)から生まれたものではなく、人が恣意的に作り上げたものだという。ハゲタカは死肉を食するので、死肉が美だが、人間にとっては(佐川君のような例外はあるが)そうではない。ということで、伊勢は、「芸術家がたやすく美を語るな」という心情を持っているそうである。ただ、伊勢も芸術には関心を持っており、この後登場する髙林佑丞(たかばやし・ゆうすけ)と組んで、外来種による生け花を作っているという。外来種の植物というと嫌がられ、駆除するのが人間であるが、外来種を連れてきたのも人間であり、恣意的に退けてはならないという考えを持っているようである。


続いて登場したのは、京都大学こころの未来研究センター教授の広井良典。ドイツの新聞に載った「Japan's burden」という記事をスクリーンに映し、英語に直すと「ジャパン・シンドローム」となり、人口減少と高齢化が同時に進行していることを示していると語る。日本は少子高齢化の最先端にあるが、他の先進国も同傾向にある。
さて、幸福指標であるが、日本は世界全体で53番目。日本人には控えめな人が多いので、割り引いて考える必要がある(ちなみに1位はデンマーク)が、高くはない。
一方で、世界的な幸福指数に疑問を感じ、自主的な幸福指数を作っている自治体がある。東京都荒川区と高知県である。「皆さん、荒川区といってもピンとこないかも知れませんが」と断った上で話が進み(私は関東出身者なので荒川区の様子はわかる)、荒川区はGAH(Global Arakawa Happines)という独自の指標で幸福度を追求していると語る。更に高知県もGKH(Global Kochi Happines)なるものを作り、高知県は47都道府県の中で所得最低(最近、沖縄県を抜いたそうである)であるが、逆に森林面積率は全国1位であり、これを幸福の指標の一基準にしたそうである。
さて、広井が挙げたタイトルは「鎮守の森とコミュニティづくり」であるが、秩父神社は武甲山という山を御神体(神奈備山)にした神社であるが、武甲山は石灰岩が採れるというので、採掘が進み、自然と資源の調和が取れなくなっているそうだ。工業と自然の対立と有効利用の構図が出来ているそうである。
日本には神社は約8万1千、寺院は約8万6千あるそうだが、岐阜県郡上市の白鳥町では、小水力発電を行う一方で、「白山信仰の聖地」であるとして、エネルギー関連の人が訪れた場合は、必ず長老白山神社に参拝して貰うなど、鎮守がコミュニティの中心になる文化を築いているという。また「鎮守の森セラピー」というものを行っている地方もあるそうで、そこでは森林浴ならぬ「神林浴」という言葉が使われているそうだ。神との繋がりが心身の健康に繋がり、それが自然との繋がりにもなるという。
現代日本では、ピラミッドの頂上に「個人」がおり、その下に「コミュニティ」があって、一番下に「自然」が来るのだが、自然が礎になっていることはもっと意識されて良いという。


最後に、この4月から池坊短期大学の非常勤講師に就任するという華道家の髙林佑丞が登壇。「専心口伝」という池坊の美学を語る。植物の命を見つめ、「木物」「草物」「通用物」に分ける。「通用物」というのは木なのか植物なのかわからないもので、藤や竹や牡丹などが入るそうだ。
「花は足で生けよ」という言葉があるそうだが、実際に足を使うのではなく、花の根本を学んで生けるという意味である。
ここで、生け花の実演。「立花新風体」という、1999年に始まった新しい手法による生け花。八重桜や胡蝶蘭を使うが、ミモザやユーカリなどの洋花も使用。更には松の枝や檜の皮なども用いる。
最後は余計なところを剪定。生け花には「引き算の美学」があるという。


休憩を挟んでパネルディスカッション。休憩中に聴衆からのアンケートを取り、それにも答えるという形式。私の書いたものもそのままではないが読み上げられた。

まず、京大総長の山極壽一が話す。皆の話を聞いていて「感性の問題」を感じたそうで。「今はIT社会で、イメージが先行して生身のものが取り残されていく」ように思われるそうだ。
そして、生け花が「引き算」で出来ていることに興味を持ったという。華道家の髙林によると生け花は引き算で、フラワーアレンジメントは足し算だそうである。

私は、日本人と西洋人とでは自然に対する姿勢が違うのではないかと思えたのだが、伊勢は私の意見も纏めた清水からの紹介に「日本人と砂漠に住む人とでは、自然に対する印象は勿論違うと思います。ただ、自然に対する気持ちには万国共通のものがあるように思います」と述べた。

吉岡は、和魂洋才ならぬ洋魂和裁でも日本人は最先端にあると思われるというようなことを述べ、「風景という言葉がありますが、風景というのはそこで自分が何をしたかを読み込むこと」と定義し、自然や環境の中で自己を定義するのが風景であり、生きるということだと述べる。

広井は、文系だが科学史科学哲学専攻という理系に近い文系の人である。「日本人は高度成長期に寺社を忘れてしまった」として、一方で「今の若者達にはローカル指向があり、寺社を中心とした文化に帰る可能性もある」という。

髙林は、「時間を生ける」という言葉を使い、作品を生ける時間と同時に植物が育つ時間も感じるのが生け花だと話した。伊勢が、「(洋花を生けて)怒られない?」と髙林に聞くが、髙林は、「昔は家に必ず床の間があって、そこに生け花を飾っていたわけですが、今は洋間しかない家も多いので、それに合わせて変わっていくのも生け花」だと述べる。


山極は、京都市立芸術大学学長である鷲田清一と話したときに、日本の新興住宅に足りないものが三つあると言われたという。「神木」「神社・仏閣」「場末」に三つで、それ故に新興住宅地は薄っぺらいのだそうである。

吉岡は、パネルディスカッションの冒頭で山極が挙げた「感性」という言葉に触れ、「自然に触れることが感性を育む」とし、このシンポジウムのテーマである文理融合を京都大学で進めているのだが、実際はなかなか上手くいかないという。ただ、「人間とは何か?」を問う上で文理融合は有効だとして、これからも進めていく予定であるという。

伊勢も文理融合を進めているのだが、一意専心が良しとされる現状では文理融合をやっていると、「遊んでいる」と勘違いされるそうである。

最後は、山極がまとめという形で話す。「文明は言葉から、哲学から。それから数学が分かれていくわけですが、数学も哲学のため。だから数学者達も自分は数学者だとは思っていないはず」と語り、その後、哲学よりも技術が主役とされる世の中になったが、例えば社会学を築いたオーギュスト・コントのような立場に戻る必要があるのではないかとする。
山極は「20世紀はコンクリートの時代」と言われたことがあるそうだが、そのためにコミュニティも変わってしまったという。宮大工などの地元に密着した大工などはいらなくなり、建築家さえいればコンクリートを流してどんな建物でも出来てしまう。そして「機能こそ美しい」という考えが出来てしまい、同じような建築が増えてしまった。また高層住宅では上にいくほど立場も高いということになっており、建物が人間を定義するようになってしまったと述べる。
その上で衣食住の再定義から始める必要があるのではないかと語り、「まとまっていないけれど良いですか?」と司会の清水に聞いて、シンポジウムはお開きとなった。

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2016年12月25日 (日)

観劇感想精選(195) 朗読劇「芽吹きの雨」

2016年12月18日 河原町通今出川下ルのP-actにて観劇

午後3時から、河原町通今出川下ルにある、小空間「P-act」で、イストワールhistoire第5話 朗読劇「芽吹きの雨」を観る。飛鳥井かゞりと得田晃子の二人による軽い動きを付けた朗読劇である。元々はラジオドラマのために書かれた作品の舞台上演。原作は、Grace      N Fletcher作の「The Bridge of Love」を平松隆円が監訳した「メレル・ヴォーリズと一柳満喜子 愛が架ける橋」。作・演出:高橋恵、企画制作:虚空旅団、協力:P-act。音楽&キーボード演奏:三木万侑加。
「『イストワール』は、後世に語り継がれる力のある作品づくりを目指し、関西に実在した人物や実際に起こった事件などを題材とするシリーズ」であるという。

建築家、実業家として知られる、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(日本名:一柳米来留)の夫人、一柳満喜子(ひとつやなぎ・まきこ)を主人公とした朗読劇。

近江八幡が舞台。ヴォーリズと結婚した一柳満喜子(ヴォーリズ満喜子。飛鳥井かゞり)は、華族出身ということもあり、近江八幡の人々から敬意の眼差しを向けられているのだが、クリスチャンであり、「皆平等」という価値観を持つ満喜子はそれが不満だった。満喜子は、近江八幡の農家の出である、たま子(得田晃子)に、近江ミッション(のちの近江兄弟社)の土地に「Play Ground」を作りたいと語る。子供達が自由に遊べて学べる場所だ。たま子もそれに賛成するが、満喜子が「向こうの長屋の子達も通わせたい」というと強く反対する。向こうの長屋に住むのは売春婦とその子供達だ。しかし満喜子は、「富める者も貧しき者も、聖職者でも売春婦の子でも、皆平等に、Play Groundに集えるのが理想」だと語る。Play Groundの創設は近江ミッションから「黙認」という形で認められる。

かくして発足した学び舎。しかし、乱暴な子供もいて、たま子は手を焼く。障子は全て破られてしまうそうで、「紙を貼らずに格子戸にしたどうか」などと提案する。ある14歳の男の子などは体格も良くて、たま子も恐怖を感じて叱るに叱れない。「聖書には、『右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ』とあるけれど、それは難しい」と嘆くたま子。だが、満喜子は「左の頬を差し出しましょう」と提案。男の子20人全員は無理だけど、15人なら自宅に呼べると言って、招待することにする。15人の男の子達は、満喜子の自宅に来ると、案の定、暴れまくり、家具を壊すなどしたが、満喜子が根気強く子供達に話しかけ続けた結果、男の子達は大人しくなり、満喜子の言うことを聞くことになった。実は満喜子も本当に成功するのかどうか不安であったのだが上手くいった。
ここまでが実は最初の小さな主題であり、これが後に変奏されていくというパターンの台本である。


満喜子の母親は、満喜子が9歳の時に亡くなった。敬虔なクリスチャンであり、「汝の敵を愛せ」という言葉を信念としていた。満喜子の父親は大名家の出身(城持ちではなく、陣屋を政庁とする小大名である)であったが、江戸時代の大名さながら、妾を沢山こしらえ、侍女にまで手を出したそうで、満喜子と満喜子の母親は妾やその子供達と共に暮らさなければならないという境遇に耐えてきたという。封建制の時代ならともかく、新しい世では正妻にとってそんな生活は苦辱でしかなかった。母にとっては満喜子とキリスト教だけが心の支え。満喜子は母親の心を受け継ぎ、キリスト教精神に基づく愛のある平等な学び舎を築こうとしていたのだ。

ヴォーリズは、英語教師と赴任していた滋賀県立商業学校(現・滋賀県立八幡商業高校。野球部が強いことで知られ、有名OBに東北楽天ゴールデンイーグルスのエースである則本昂大がいる)で聖書研究のサークルを作ったことが問題視され、学校を馘首されていた。当時、ヴォーリズは初設計建築となる近江八幡のYMCA(現在はYMCAではないが、建物自体は外面が改修されているものの現存する)の落成を目の前にしていた頃だった。その後、ヴォーリズは建築に本格的に取り組む。朝の連続テレビ小説「あさが来た」の主人公のモデルとなった広岡浅子は、一柳満喜子の兄である恵三を娘婿に迎えており、ヴォーリズと満喜子は広岡浅子を通して知り合ったようである。広岡浅子のことはこの朗読劇には出てこない。

のちに清友園(現・ヴォーリズ学園。昨年、近江兄弟社学園から名称変更したようである)となる学びの場に、マサコとハマコという姉妹が入ってくる。マサコは下肢障害があり、ハマコは聴覚障害者である。たま子は二人の扱いに困ると言うが、満喜子は、アメリカ留学時代に聴覚障害のあるフローレンスという子と同室だったという話をする。フローレンスは生まれつき耳が聞こえず、話すのにも不自由していたが、その分、甘やかされており、髪をとかすのも人にやって貰って当然という態度であった。満喜子はフローレンスの面倒を見るのを拒否してフローレンスからなじられるが、後にフローレンスから、「一人で生きていけるようにしてくれてありがとう」とお礼の手紙を受け取ったそうである。障害者であってもこの世界で十分に生きていけるように育てる。それが満喜子の目標となった。
寄付金を受けて、ヴォーリズは清友園のための学舎(現・ハイド記念館)を設計。光を多く取り込めるように窓は大きく、音楽が学べるようパイプオルガンも着いていた。

冬の終わりから春の初めにかけて降る雨を近江八幡では、「芽吹きの雨」というのだと、たま子は満喜子に語る。満喜子は、「神は草木が育つのも助けてくれるのだ」と解釈する。

90人もの生徒を抱えるまでに成長した清友園。だが、ヴォーリズと満喜子の間には子供がいない。ヴォーリズは建築家としての仕事と実業家との仕事の他に、寄付金などを集めるために世界中を飛び回る必要があり、家を空けることが多かったのだが、大正12年9月1日に関東大震災が発生し、その際、ヴォーリズが設計した建物は崩れ落ちなかったということで建築家としての仕事が殺到し、夫婦の時間を過ごすことが難しくなっていた。ヴォーリズと満喜子は結婚1周年の日(紙婚式)も別々に過ごしており、満喜子は「多忙な夫だから仕方がない」と受け入れていた。だが、夫にも父のように他の女がもしいたら、と不安になる。

1941年12月8日、日米開戦。アメリカ人であるヴォーリズは敵国の人間として留置される可能性も出てきた(ロシア出身のヴィクトル・スタルヒンも敵性外国人として、軽井沢での拘留生活を送っている)。そこで、ヴォーリズが日本に帰化し、ヴォーリズと満喜子は一時的に離婚して、ヴォーリズが一柳家の戸主となり、名を一柳米来留(ひとつやなぎ・めれる)と改め、満喜子と再婚するという離れ業を使うことになる(満喜子は、ヴォーリズ満喜子から元の名である一柳満喜子に戻る)。米来留という漢字には、「米国から来て日本に留まる」という意思が込められていた。それでもヴォーリズと満喜子を見る近江八幡の人の視線に満喜子は冷たいものを感じる。そんな折、米来留が心臓発作を起こして倒れる。近江兄弟社の結核療養所(現・ヴォーリズ記念病院)が軍に接収され、結核の患者は家に戻るよう命令が下されたということもあり、夫妻は軽井沢の山荘(ヴォーリズ山荘。現・浮田山荘)で療養することに決める。その後、米来留は東京帝国大学の職を得ることが出来たが、健康状態が不安定なため、満喜子は心配する。
近江兄弟社は軍により、全ての部屋に神社の写真と裕仁天皇の写真を飾るよう強要される。

困窮生活の中、満喜子は一緒に来て欲しいと頼んだたま子に、軽井沢でも学園を生み出したいという希望を語り、それは成功する。

米来留が自伝を著す。タイトルは『失敗者の自叙伝』。理想が高いため、思う通りに行かない自分を失敗者と見做すという屈折した本である。だが、満喜子は、『失敗者の自叙伝』に書かれた新婚時代の米来留の心境を知り、安心を得るのだった。
そして満喜子は米来留の心境を思う。満喜子も米国留学の際、レストランで店員に「ホットドッグ」を勧められるも、本当に「温めた犬」のことだと勘違いして、「そんなものいりません!」と言ってしまい、そのため空腹のまま列車に乗る羽目になり、途中の駅で降りて何か食べようと思ったものの焦っていたために英語が出てこなくなり、日本語でしか話せなくなってしまう。モタモタしているうちに列車は発車してしまって満喜子はパニックに……、実は発車してしまったというのは満喜子の勘違いで、向きを変えるために一時的にホームを離れただけだったのだが、そうした異国での孤独を思い出し、夫もまたそうだったのだろうと気づく。

軽井沢での芽吹きの雨の季節。たま子は満喜子に、「戦争もまた芽吹きの雨なのか」と問いかける。この戦争は神が望んだものなのかと。満喜子は、「神は人間に自由意志を与え給うた。だから自由になった人間は他人を愛さなくてはいけない」と語る。人間が神の意志に背いたと見るのだ。

米来留は、元首相である近衛文麿公爵に手紙を送り、その後、帝国ホテルでの近衛とマッカーサーによる会談を仲介し、裕仁天皇に有利な条件で話を進めることに成功する。実は後の研究により、ヴォーリズは幼少時にマッカーサーとニアミスしていたらしいことがわかっているのだが、本人同士も知らなかったことのようなので、そのこととは別に関係がないと思われる。

チフスで倒れた満喜子だったが、近江八幡の人達が満喜子に卵などの食料を送ってくれる。近江八幡の人々は二人を敬遠していたわけではなかったのだ。

舞台は再び近江八幡。琵琶湖に面した場所で、満喜子とたま子が語る。満喜子は近江八幡を初めて訪れた時はこの街が好きになれなかったと言う。満喜子は留学したアメリカのスタイルが性に合っていると感じ、本当は帰国したくなかったのだが、横浜に帰港する際に見えた富士の頂に、日本人としての誇りを感じたのだ。ヴォーリズが書いた近江兄弟社の「湖畔の声」発刊の辞を朗読することで劇は終わる。


ウィリアム・メレル・ヴォーリズ本人は登場しないが、建築や日本近現代史が好きな人にはとても楽しめる朗読劇である。また、「主題と変奏」による劇作法にも惹かれる。
ヴォーリズは音楽好きで、作詞作曲なども手掛けていたため、音楽を入れるのも良い。オリジナル曲の他に、賛美歌「いつくしみ深き(「星の世界」というタイトルでも知られる)」も演奏された。

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2016年12月13日 (火)

楽興の時(12) 「京都市交響楽団の指揮者による音楽ワークショップ 指揮者のお仕事!ハーモニーって?」

2016年12月1日 北大路の京都市北文化会館にて

午後6時から、京都市北文化会館で、「京都市交響楽団の指揮者による音楽ワークショップ 指揮者のお仕事!ハーモニーって?」を見学する。事前予約不要、無料である。先日行われた京都市交響楽団の第607回定期演奏会で配られた公演宣伝用チラシの中に、今回のワークショップのチラシが含まれていたために知ったのだ。

演奏は、立命館大学交響楽団。指導は京都市交響楽団常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーで、東京音楽大学指揮科教授、京都市立芸術大学指揮科客員教授でもある広上淳一が行う。立命館大学交響楽団は、再来週に第116回定期演奏会を行うのだが、指揮を担当するのは広上ではなく阪哲朗であり、広上は今回の催しのために特別に指揮することになる。

リハーサル形式ではなく、学生指揮者のY君が指揮をして、広上が駄目出しをするという授業形式のワークショップである。ワークショップのタイトルにある「ハーモニー」というのは、「和音」や「和声」ではなく、「調和」という程度の意味であるようだ。

立命館大学交響楽団のメンバーは、みな私服であるが、お揃いの黒のパーカーを羽織っている。パーカーの背中の部分には、立命館交響楽団の略称である「立響」という文字が白抜きで入っている。

ワークショップは、広上による学生指揮者のY君への指導と、Y君とコンサートミストレスであるKさんへのインタビューを軸に行われる(音楽家志望でない大学生であるため、名前はイニシャルのみの表記とさせて頂く)。


進行役はマスダさんという女性。広上は彼女のことを「アナウンサー」と紹介していたが、私は寡聞にして知らないため、漢字表記まではわからない(「増田」、「枡田」、「益田」など、同じ「マスダ」さんでも色々な表記がある)。

マスダさんは、挨拶を終えた後で、「ヒロガミ淳一先生にご登場頂きましょう」と言うが、出てきた広上に、「あなた、口調が堅い」と言われ、更に「私はヒロガミじゃなくて、ヒロカミなんですが」と駄目出しされる。マスダさんは、ワークショップ終了後にも、「広上先生、ありがとうございました」とお堅い挨拶をして、広上に「面白かったとかそういうこと言えばいいのに」と言われていた。

広上は、黒の長袖の上にサーモンピンクの半袖シャツという出で立ちである。ピアニカを片手に登場し、少しだけだが演奏も行った。

まずは、Y君の指揮で、ビゼーの「カルメン」より第1幕の前奏曲の前半(通称「闘牛士」の前奏曲)が演奏される。Y君の指揮は基本的にビートを刻むだけであり、どのような音楽を創りたいのかは皆目わからないという状態である。広上は「闘牛士」の主題に合わせてピアニカを演奏した。

まず、広上は立命館大学の学食について、「ドキュメンタリーで見たのですが、とても立派で、100円朝食があるそうで」という話をする。学生は朝食を抜くことが多く、それでは健康に悪いというので、安くてボリュームのある朝食を立命館大学の学食は提供するようになったとのこと。広上は、「あれを見て、うちの大学(東京音楽大学)の学食がいかに貧弱か知りました」と述べる。「是非、一度(学食に)お伺いしたい」と広上。

それから広上はY君に学部を聞き、Y君が「生命科学部」と答えると、「何を勉強しているの?」と聞くがY君が返答に詰まったため、「え? 勉強してないの?」と言う。「どうして人間に雄と雌があるのかとか、どうしてゲスな不倫ばっかりしちゃうのとか研究してないの?」

広上は続いて、「この曲は誰が作曲したか知っている?」とY君に聞き、Y君が「ビゼーです」と返すと、「ビゼーってどんな人?」と更に聞く。Y君が「真面目な人」と答えると、「え? 会ったことあるの?」と突っ込む。「ビゼーは、モーツァルトもそうですが、余り真面目な人じゃなかった。不真面目な人だった」「真面目で不真面目な人だった」という風に広上は続ける。作曲家というのは基本的にボヘミアン気質である。
オペラ史上最大のヒット作である「カルメン」の作曲者であるジョルジュ・ビゼーは、実は生前は音楽的な成功に浴することがなかった人である。歌劇「カルメン」の初演は歴史的大失敗であった。ビゼーは失意のうちに亡くなるのだが、皮肉なことにビゼーが没した直後に「カルメン」は大当たりを取り、今に至るまで「傑作」の評価を確たるものにしている。

ビゼーは、「音楽は素晴らしいものだが、それを職業にしようというのは怖ろしいことである」という言葉を残しているが、それを踏まえたのか、広上は、「指揮者は棒を振るでしょ。それで、『人生を棒に振る』と我々は言う」と語る。

広上は、コンサートミストレスのKさんに、「彼の指揮を見て演奏してどうでした?」と聞き、Kさんは「もっと盛り上げるところは盛り上げて欲しい」と答えた。

広上はY君に、「指揮者になりたくて指揮やってるの? それとも誰かに勧めれて?」と聞く。Y君は元々はヴァイオリンを弾いていたそうだが、「みんなで話し合って、じゃあ僕がやろうと」「格好いいので」と答える。広上は、「自分からやりたいと言った割りには見ていて全然楽しそうじゃない」と言う。「楽しいことなんかないの? 彼氏、じゃなかった、彼女はいるの?」、「彼氏はいません」「(彼女も)いないです」というやり取りの後に、チェロ奏者の女子学生にも話を聞いて、やはり「彼氏はいない」ということで、まあ、ということではないわけだが、恋愛をしている時のような笑顔を作って指揮するように指導する。Y君を客席の方に向かせて、思いっきりの笑顔を見せるように言ったのだが、Y君は、「恥ずかしいです」
そこで、広上はKさんに、「ねえ、あなた。今から一人で水着になってというのは恥ずかしいだろうけれど、全員水着になって演奏したら大丈夫なんじゃない?」と聞く。Kさんは、「夏なら」と答えるが、広上は、「冬でもいいでしょ。この間、うちの学生に同じ質問したら、『最低!』と言われた」と語って、客席から笑いが起こる。
「恥ずかしいという気持ちは誰にでもある。だだ状況に寄るんです」と広上はいう。指揮者というのは、100人ほどの楽団員の前に立って様々な仕草をするため、恥ずかしさを抱えたままだと出来ない。

広上は鉄道が好きで、小さい頃は運転手になりたかったと語り、「朝比奈隆という先生が、京都の大学(京都帝国大学法学部)を出て、阪急に入って、車掌と運転手をして、それから阪急で偉くなった(厳密にいうと偉くなったのではなく阪急百貨店に出向したのである。朝比奈は偉くなる前に阪急を辞めて、京大文学部に再入学している)。朝比奈先生に聞いたら、『鉄道好きなのは俺と秋山(和慶)だけだよ』と仰ってましたが」
命館大学交響楽団楽団員の中にも鉄道好きが一人いるそうだが、そうした鉄道好きが本当に運転手になった時のようにウキウキとした気分で指揮するのが重要ということである。


広上はY君に、「さっき、ビゼーが真面目だって言ったけど、真面目ってどういうこと?」と聞く。Y君が「成績がいい」と答えると、広上は「嫌なこというね。私は成績悪かったんです。あなたは成績いいの?」と聞く。Y君が「悪いです」と答えると、「じゃあ仲間だ」と握手して、「将来、指揮者になれるかも知れないよ」と続ける。

再度、「カルメン」の第1幕の前奏曲前半。広上はY君に、左手でシンバルに指示を送るように指導する。


今度は、「カルメン」の第1幕の前奏曲後半。悲劇的な曲調である。Y君が棒を振って、弦楽が音を刻み始めるが、広上はすぐに止めて、見ていて意図がわからないというようなことを言う。「悲劇とは何か」をY君とヴィオラ首席の位置に座った男子学生にも聞く。ヴィオラの学生は、「辛いとか、出来れば避けたいこと」と答える。
広上はY君に、「失恋したことある?」と聞き、Y君が「あります。三、四回」と答えると、「三、四回? まだまだ修行が足りない。私は十二回ある。それも大人になってから失恋した。『絶対に無理!』と言われて。『絶対に無理!』って言われたんだよ」
Y君に失恋したときの痛手を思い出して貰うべく、頭を抱えてうずくまって貰う。それからそのままのポーズで指揮するよう言ったのだが、上手くいかない。そこで、広上は背後からY君の右手を取って、傀儡師の要領で指揮をする。広上が振り付けた指揮は、拍を刻むのではなく、音型を示すエモーショナルなものである。
広上は、「指揮者は楽団員を鼓舞する。鼓舞するってわかる?」とY君に、聞き、Y君が「盛り上げるとかそういう」と答えると、「流石、立命館の学生。頭が良い。うちの学生は、『鼓舞するってわかる?』と聞くと、『昆布ですか?』と返ってくる。漢字から教え直さないといけない」

広上は、Y君に、「卒業後どうするの?」と聞き、「東京音大か京都市立芸大に来ない?」とスカウトする。Y君は進路について「サラリーマン」と答え、「安定してるから」と述べるが、広上は「この間会ったお役所の人、公務員の人もそう言ってた。安定してるから。大した仕事しなくても威張れるからって」
広上はKさんにも進路を聞き、Kさんはやはり「サラリーマン」と答える。理由は、「ヴァイオリンを続けるのは大変」だからだそうだが、広上は「OLだって大変だよ。電通の子、『苦しいよお』って自殺しちゃった」「大変じゃない、楽な仕事なんてないんだよ」
広上は、会社員になっても音楽を続けて欲しいとも語る。

更に広上は、自身で前奏曲後半冒頭部分を指揮する。音の密度が大きく違うのがわかる。

悲劇的な曲調の音楽であり、広上は、「これを書く人は大変。ビゼーも31歳で亡くなった」と述べる。「ただ、音楽は苦しいときに必ず助けてくれます」と断言し、「ねたみだとかやっかみだとか誰にでもあるんです」「バカリズム、升野さんといったかな? 『アイドリング!!』の司会をしていた。彼は売れてない頃、自分よりも実力のない芸人がテレビで活躍しているのを見て、『バカ! バカ!』とやっかんでいたそうです」と語り、「ただ、そのマイナスの気持ちをプラスの方に振り向けたところ途端に売れるようになった」と言って、マイナスをプラスに持って行くのが表現者には重要だと述べる。
「どうすれば上手くプラスに持って行けるのかよく考えて、あんまり考えすぎると自殺しちゃうので、適度によく考えて」音楽を作るよう諭す。

音楽教育というのは本来は楽しいものであり、ポピュラー音楽(福山雅治、SMAP、広上が好きな桜田淳子の名前も挙げていた。広上の娘さんはユーミンが好きだそうである)もクラシック音楽のイディオムを踏襲して作られているのだが、「(クラシック音楽の)楽しさを知らない音楽教師に教わると大変なことになる。隣の市長さん(前大阪市長の橋×さん)も多分、間違った音楽教育を受けてクラシック音楽が嫌になってしまったんでしょう」

哲学の話になり、哲学専攻の女子学生が第2ヴァイオリンにいたので、「哲学者は誰が好き?」と広上は聞き、女子学生は迷ったものの「ヘーゲルとカント」と答え、カントの思想について、「規律正しく生きるのが重要」と説明するが、広上は、「そんなこと出来るわけないだろ!」。ちなみに、私が学生の頃はまだ、デカルト、カント、ショーペンハウエルのいわゆる「デカンショ」という言葉はまだ生きていて、少なくとも文学部の学生の間では、「デカンショぐらい読んでおかないと」という気風があったのだが、今の学生もそうなのかは不明である。
Kさんは、日本史専攻だそうで、真田信繁(幸村)も好きで(前の日曜日の「真田丸」に広上の弟子である下野竜也が出ていたという話をし、広上はやはりというか「私も出たかった」と語った)「義を貫くところが良い」そうだ。広上は、「でも、死んじゃうよ」、Kさん「死んで名を残すところが格好いい」、広上「嫌な女だね! 私は死にたくないです」。更に、「義という考えは、儒教に基づくものなのですが、真田信繁が生きていた時代にはなかった考え方でして、真田信繁のお父さん、草刈正雄さんが演じていましたが、真田昌幸は真田家を守るために考えをコロコロ変えた。義というのは、江戸時代に広まったものです。だから『忠臣蔵』とか」と解説する。儒教は古くから日本に入って来ていたが、本格的に広まるのは徳川家康のブレーンの一人、林羅山の時代からである。儒教を広めるのに一役買ったのは、赤穂浪士の討ち入りがあった時代の将軍、徳川綱吉である。徳川綱吉というと、「生類憐れみの令を作った馬鹿殿」というイメージだが、こと学問に関しては徳川十五代将軍の中でトップクラスであり、儒学の大家で、当代一流の儒学者に自ら儒学を教授していたほどのインテリであった。
Kさんは、近現代史を専攻しており、古関裕而の研究をしているそうである。Y君は古関裕而を知らなかったそうだが、Kさんは「東京オリンピックの」と語る。広上は、「古関裕而という人は、東京オリンピック(1964年夏季五輪)のファンファーレを作曲した人です。それからNHKのスポーツ番組のテーマ(なお、こんな曲あんな曲の作曲者でもある。こちらの曲もかなり有名)。ちなみに、日本テレビ、こちらでは読売テレビのスポーツ番組のテーマを作曲したのは誰かご存じ?」とKさんに聞く。Kさんは知らなかったが、広上は「黛敏郎という人」と答えを教える。黛敏郎が日テレのスポーツテーマの作曲者だということは、我々の世代は、黛が司会を務めた「題名のない音楽会」で何度か取り上げられたので知っているのだが、考えてみれば今の学生は黛司会の「題名のない音楽会」をリアルタイムでは知らないのである。日テレのスポーツテーマのことも知らなくて当然といえば当然である。
これらの話は直接には音楽には関係がないのだが、音楽は「(好きなことを)ベートーヴェンの第九に出てくるように、みんなで手を取り合って一緒に作ることが重要」であると広上は語る。


広上の指揮による、「カルメン」第1幕の前奏曲(「闘牛士」)の演奏。広上はノンタクトでの指揮である。メリハリが学生指揮者とは桁違いだが、一番違うのはシンバルの響きである。シンバルはただ打ち合わせるだけの楽器なのだが、これほど響きが異なるということは、指揮者の安定感と同時に、他の楽器の音の密度が濃くなるため、心に開放感が生まれて良い音を出せるようになったのだと推測する。指揮者は棒のテクニックも重要だが、楽団員の心理面の掌握も重要なようだ。


指揮者が「格好いいから」「何の楽器も演奏していないのに偉そうに出来るから」(広上曰く「大したことない人ほど威張る」そうである。もっとも、誰しも一人は、そうした人は頭に浮かぶでしょう)という理由で東京音大の指揮科に入ってくる学生もいるそうだが、指揮者は楽器こそ演奏しないが、奏者達に演奏するよう仕向けなければならないし、そのためには先読みして振る必要があるし、体で伝達する技術が必要。山のように勉強しなくてはならないと広上は語る。「実は(指揮者が)いなくても今のオーケストラは演奏出来るのですが」とも言うが、それは単に「演奏は出来る」だけであって面白い音楽を生むことは出来ないだろう。そして良いオーケストラを育てるには、また良い指揮者になるには時間が掛かるということを強調する。「『京都市交響楽団は良いオーケストラですね』と言われますが、そうなるのに9年ほど掛かった」


広上さんは今度、シュトックハウゼンの曲を指揮する。シュトックハウゼンというのは変わり者で、広上もシュトックハウゼンについては、「×××い(放送禁止用語です。ジャン・リュック・ゴダール監督の映画タイトルに使われています)」と語っている。
カールハインツ・シュトックハウゼン(1928-2007)は、20世紀のドイツを代表する作曲家なのだが、自身のレーベルを立ち上げて、法外な高値で自作のCDを発売するなど、とにかく変わった人であった。彼の作品の中では、私は「ヘリコプター弦楽四重奏曲」というのが好きである。音楽的にはとても優れた弦楽四重奏なのだが、実は一人一台ずつヘリコプターに乗り、四台のヘリコプターを使って演奏される曲である。ストリングカルテットのメンバーはヘッドホンを付けて他の奏者の音を聴く。わけがわからん。


行きはバスで来たが帰りは歩いて帰る。家から京都市北文化会館までは、京都コンサートホールよりはちょっと遠いという程度である。

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