カテゴリー「シェイクスピア」の17件の記事

2018年8月22日 (水)

スペイン国立ダンスカンパニー 「ロミオとジュリエット(ロメオとジュリエット)」@びわ湖ホール大ホール

2008年11月29日 びわ湖ホール大ホールにて

午後3時から、大津市のびわ湖ホール大ホールで、ナチョ・ドゥアト芸術監督率いるスペイン国立ダンスカンパニーの公演、バレエ「ロミオとジュリエット」(音楽:セルゲイ・プロコフィエフ、振付:ナチョ・ドゥアト)を鑑賞。プロコフィエフの音楽を演奏するのは、ペドロ・アルカルデ指揮の関西フィルハーモニー管弦楽団。

ペドロ・アルカルデは作曲家でもあり、近年は1年に1作ずつバレエ音楽作品を発表しているようだ。
スペイン国立ダンスカンパニーは、1979年にスペイン国立クラシックバレエとして創設。その後、「クラシック・バレエを否定することなく、より現代的なスタイルを取り入れた」団体となり、名称も現在のものに変更された。

スペイン国立ダンスカンパニー芸術監督のナチョ・ドゥアトは、バレンシア地方の生まれ。ベルギーでモーリス・ベジャールに師事し、その後、ニューヨークに渡って更なる研鑽を積んで、1990年にスペイン国立ダンスカンパニーの芸術監督となる。コンテンポラリーダンスに主軸を置いていて、クラシック・バレエの全曲作品の振付を手掛けたのは、「ロミオとジュリエット」が唯一だそうだ。

スペイン国立ダンスカンパニーは、さいたま市でも公演を行ったが、その時は、演奏してくれるプロオーケストラが確保できなかったのか、テープ録音によって音楽を流したとのこと。
今日の公演は生演奏で音楽が聴ける。もちろん、その場でオーケストラが演奏した方がずっと感動的である。

幕が開くと、ロミオ(ゲンティアン・ドダ)がベンチで休んでいる。やがて、友人のマキューシオ(フランシスコ・ロレンツォ)らがやってきてロミオと戯れるが、ロミオは、たまたまそばを通り過ぎた女性の後についていってしまう。どうも、今回のバレエでのロミオは遊び人という解釈のようだ。シェークスピアの原作でもロミオはいい加減な奴なので、こういうのもありだろう。

一方のジュリエット(ルイサ・マリア・アリアス)はというと、ピョンピョン跳びはねながら口うるさそうな婆やから逃げ回っている。かなりお転婆なジュリエットである。

さて、イタリア・ヴェローナの名門、モンタギュー家とキャピュレット家の争いというのが、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の枠組みであるが、今日のバレエでは、モンタギュー家の人々は男女ともに庶民のような格好で、広場で踊るなどして楽しんでいる。そこへ正装のキャピュレット家の男達がやってきて、楽しんでいるモンタギューの人々にちょっかいを出し、剣を抜く。モンタギューの人々は鋤で応戦。ということは、スペイン国立ダンスカンパニーのバレエではモンタギュー家の人々はどうやら本当に庶民で、キャピュレット家が貴族であり、原作の権門争いではなく、階級闘争に設定が変えられているようだ。

キャピュレット家での舞踏会に、ロミオやマキューシオは仮面を付けて、道化に化けて忍び込み、手品をしたり悪ふざけをしたりしている。
そして、ジュリエットに一目惚れしてしまうロミオ。ジュリエットも無理矢理結婚相手に決められたパリス(アモリー・ルブラン)やジュリエットの親戚であるティボルト(クライド・アーチャー)ではなく、仮面のままのロミオと踊りたがる。露骨に悔しがるティボルト。
やがて、ジュリエットが一人になったところにロミオが現れ、仮面を取る。瞬く間に恋におちる二人……。

モンタギューの人々が広場で車座になり、中央で踊っているマキューシオが乗ってくると皆で同時に手を打つところなどは、まさに「オーレー!」で、スペイン的味わいが出ている。
モンタギューの人々の踊りがダイナミックで、マスゲームのように良く計算されているのも印象的。
幕、布、旗などの使い方も効果的である。

ラスト。仮死状態になったジュリエットを見て本当に死んでしまったと思い、短剣で胸を突くロミオ。ロミオが崩れ落ちるのとほぼ同時にジュリエットが目を覚ます。何てずるい演出なんだ。ストーリーを知っていても、「あー、ロミオがもっと迷っていれば上手くいっていたのに」と悔しくなる。
そして、ロミオが死んだことを知って自らも死を選ぶジュリエット。ここは音楽だけでも十分に美しくて悲しいのに、ジュリエットの動きが加わると、もう卑怯なほど美しくて悲しい。
こういうものを見てしまうと、それを言葉で語るのが馬鹿らしくなる。言葉なんてもう余計なものだ。プロコフィエフの音楽だけで十分である。
といいながら言葉で書いてしまっているけれど。

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2018年8月18日 (土)

観劇感想精選(252) オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズ(オックスフォード大学演劇協会) 「十二夜」

2018年8月11日 京都劇術劇場春秋座にて観劇

午後3時から、京都芸術劇場春秋座で、オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズ(オックスフォード大学演劇協会)の来日公演「十二夜」を観る。
オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズは、オックスフォード大学のドラマ・ソサエティであるオックスフォード大学演劇協会のメンバーからなるシェイクスピア作品に特化したツアーカンパニーである。メンバーはスタッフも含めて全員オックスフォード大学の学生で構成されており、出身者には、「Mr.ビーン」のローワン・アトキンソン、「ブリジット・ジョーンズの日記」のヒュー・グラント、「博士と彼女のセオリー」のフェリシティ・ジョーンズらがいるそうだ。

オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズは20年前から来日公演を行うようになっており、来日時には毎回、蜷川幸雄の出迎えを受けていたそうで、今回は蜷川没後としては初めての来日となるようだ。

イギリス最古にして最高の大学として知られるオックスフォード大学。日本でいう大学とは違い、オックスフォード大学という単一の大学があるわけではなく、39あるカレッジの集合体がオックスフォード大学という総称を名乗っている。オックスフォードの学生は、二つの分野を専攻するのが一般的である。

今回の演出は、セント・ヒューズ・カレッジで英語学と英文学を学ぶフレッド・ウィーナンドが担当。ウィーナンドは物語の舞台を光と影が一体になった1960年代に変更するという読み替えを行っている。日本でもジョン・ケアードが「お気に召すまま」の時代設定をアメリカの1960年代に変えた上演が行われたが、発想自体は完全に一緒である。イギリス人やアメリカ人にとっては60年代は特別な時代であるようだ。

今回の上演の特徴は、道化のフェステを女優(マートン・カレッジで英語学と英文学を学ぶスザンナ・タウンゼント)が演じるということ。ボーイッシュな雰囲気を出しているが、女性が道化役というのは珍しい(ただ史実はともかくとしてくオリヴィアの道化であるため、同性であったとしてもおかしくはないように思える)。

英語上演、日本語字幕付き。字幕は新たに作ったのではなく、白水社から出ている小田島雄志訳のものを使用している。小田島雄志の翻訳は映画の字幕とは違って文字制限ありの中で訳されたものではないため、字幕はめまぐるしく切り替えられ、中には0コンマ何秒で切り替わって読めないということもあった。

ギリシャのイリリアを舞台に、セバスチャンとヴァイオラの双子が嵐に遭ったことから起こるスラップスティックな喜劇が繰り広げられる。
音月圭が主演した「十二夜」では、ヴァイオラとその男装版のシザーリオ、そしてセバスチャンの三役を音月一人で演じる演出が施されていたが、今回はヴァイオラ&シザーリオとセバスチャンは別の俳優が演じている。

嵐に遭い、兄のセバスチャン(リンカーン・カレッジで考古学と古代史を学ぶローレンス・ベンチャーが演じる)とはぐれてしまったヴァイオラ(ユニバーシティ・カレッジで英語とロシア語を学ぶデイジー・ヘイズが演じる)は、生活のために男装して名をシザーリオと変え、土地の実力者であるオーシーノ公爵(セント・ピーターズ・カレッジで神学と東洋学を学ぶマーカス・ナイト=アダムズが演じる)に小姓として使えることにする。シザーリオとことヴァイオラはオーシーノ公爵に恋をする。そのオーシーノ公爵は伯爵令嬢であるオリヴィア(マグダレン・カレッジでスペイン語とイタリア語を学ぶクロエ・ディラニーが演じる)に夢中であり、シザーリオを恋の伝令としてオリヴィアのもとに使わすのだが、オリヴィアはシザーリオを本物の男だと思い込んで恋してしまう。恋の一方通行である。

一方、オリヴィアの叔父であるサー・トービー(クィーンズ・カレッジで歴史と英語を学ぶジョー・ピーテンが演じる)とサー・アンドリュー(セント・ジョンズ・カレッジで歴史と政治学を学ぶヒュー・タッピンが演じる)は、オリヴィアに執事として使えるマルヴォーリオ(クライスト・チャーチでイタリア学を専攻するジョニー・ワイルズが演じる))の態度が大きいため、反感を抱いている。トービーとアンドリューは侍女のマライア(キーブル・カレッジで古典考古学と古代史を学ぶケイト・ウエアが演じる)や召使いのフェービアン(ハートフォード・カレッジで英語学を専攻するアダム・グッドボディが演じる)を巻き込んで、マルヴォーリオにぎゃふんと言わせようと画策する。更には道化のフェステも仲間に加わり……。

今日は桟敷席と2階席は用いられていない。1階席の後ろの方にイギリス人の若者が固まっていて、普通のシーンでもドッカンドッカン受けているのだが、日本人の客は私も含めてどこが笑えるのかよくわからず、温度差がある。ドタバタのシーンや意図的なオーバーアクションの演技では国籍の差なく笑いが起こる。
衣装や装置も1960年代をイメージしたサイケデリックなものを使用。一般的なシェイクスピア上演とは異なる格好をしているが、若者達のエネルギーを表すのに効果的であったように思う。

英語の台詞回しに関しての巧拙は私には全くわからないが、動きや身のこなしについては一定の水準に達している。日本の俳優の場合、演技中の両手の置き方が上手くいかない場合が多いが、イギリス人でも若者達が演じる場合は同じ傾向があることがわかる。向こうは話しながら身振り手振りをつけるのが一般的なので、日本人俳優ほどには目立たないけれども。
道化のフェステ役のスザンナ・タウンゼントは美しい歌声の持ち主であり、これを聴くと、「フェステ役を女性にするのも悪くない」と思える。



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2018年5月13日 (日)

第181回鴨川をどり 「真夏の夜の夢より ~空想い」&「花姿彩京七小町」 2018年5月8日

2018年5月8日 先斗町歌舞練場にて

午後4時10分から、先斗町歌舞練場で、第181回鴨川をどりを観る。私が鴨川をどりを観るのは今日で3回目。都をどりと京おどりが2回ずつ、祇園をどりは1回しか観ていないため、鴨川をどりを観る回数が一番多いということになる。

鴨川をどりは演劇の上演が行われるのが特徴である。今年の演目は、W・シェイクスピア「真夏の夜の夢より ~空想い」1幕4場と、「花姿彩京七小町(はなのいろどりきょうななこまち)」全7景。

パンフレットには、就任したばかりの西脇隆俊京都府知事が、門川大作京都市長と共に挨拶の言葉を載せている。私が目にする西脇府知事の初仕事だ。

なぜかはわからないが今日は最前列で観ることになる。最前列は舞台に近いが、近すぎて全体を見通しにくくなるため、特別良い席というわけではない。ただ、「花姿彩京七小町」では、以前に木屋町・龍馬で出会ったことのある舞妓のもみ香さんの目の前だった。向こうはこちらのことを覚えていないだろけれど。

「真夏の夜の夢より ~空想い」。タイトル通り、シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」を翻案した作品である。

夏の夜。森の王様である松の王であるが、浮気がばれたため、お后である月と松の王との仲が悪くなる。そのため、月は松の王が目を閉じている間だけしか顔を覗かせない。森の中では、花の精の白百合と撫子、白い子犬の白狗丸、鯉の精の鯉四郎らが、松の王の話を語らっている。そこへ、都の公達である来井左衛門と羽雅姫が森の奥へと逃げ込んで来たという話が伝わる。結婚を反対されて駆け落ちして来たのだという。羽雅姫は出味明之丞という貴公子と結婚させられそうになっている。その明之丞も羽雅姫を追って森へと入ってきた。さらに明之丞を恋い慕う蓮音姫までが森へとやって来る。鯉四郎は白狗丸(原作ではパックに当たる)に“じゃらじゃら草”を渡し、じゃらじゃら草の露を目にかければ次に見た者を恋してしまうと教える。白狗丸が露をかけると男同士までもが愛し合うようになってしまい……。

彼女たちは、芸舞妓であって女優ではないので、演技力を求めてはいけないだろう。本当に見られる演技をするならかなり長期の稽古を行わねばならないため無理である。踊りの技術と華やかさがあれば十分だろう。
「真夏の夜の夢」ということで、唄(録音)が「パパパパーン、パパパパーン、パパパパンパパパパン、パパパパンパパパパン、パーンパパパパパパ」とメンデルスゾーンの劇付随音楽「真夏の夜の夢」より“結婚行進曲”を口ずさむ場面があった。

「花姿彩京七小町」。舞妓総出演の序章に続き、紫式部の一人舞である「式部の章」、静御前が登場する「静の章」、出雲阿国らが舞う「阿国の章」、滝口入道と横笛による「横笛の章」、吉野太夫が一人で現れる「吉野太夫の章」、藤の絵を背景に大勢で舞う「藤の章」の7つの章からなる。女であることの光と影が描かれるが、最後の「藤の章」では、おかめの面を被った白川女が登場するなど、ユーモアを交えて終わった。



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2017年11月19日 (日)

観劇感想精選(222) 佐々木蔵之介主演 「リチャード三世」

2017年11月4日 森ノ宮ピロティホールにて観劇

午後6時から、森ノ宮ピロティホールで「リチャード三世」を観る。「演劇史上最も魅力的な悪役」と断言してもいいタイトルロールを演じるのは佐々木蔵之介。

「リチャード三世」は、以前に古田新太主演の劇団新感線版をシアターBRAVA!で観ており、野村萬斎が現代狂言に仕立てた「国盗人」も兵庫県立芸術文化センター中ホールで二度観ている。

作:ウィリアム・シェイクスピア、木下順二が日本語訳したテキストを使用、上演台本・演出はシルヴィウ・プルカレーテ。主演は、佐々木蔵之介、手塚とおる、今井朋彦、長谷川朝晴、阿南健治、壌晴彦(じょう・はるひこ)、山中崇、植本純米、山口馬木也、土屋佑壱、河内大和(こうち・やまと)、浜田学(はまだ・まなぶ)、櫻井章喜(さくらい・あきよし)、八十田勇一(やそだ・ゆういち)、有薗芳記、渡辺美佐子ほか。音楽:ヴァシル・シリー。演出補:谷賢一。

シルヴィウ・プルカレーテはルーマニア出身の演出家。エディンバラフェスティバル批評家賞最優秀作品賞、ピーター・ブルック賞、ダブリン演劇祭批評家賞など数々の栄冠を勝ち得ているという。

耽美的な「リチャード三世」という印象である。

三面が石壁という舞台設定(実際はカーテンが降りている)。酒場とおぼしき場所。三人のサックス奏者が演奏し、白いシャツを着た男達が車座になって、音楽に合わせてステップを踏んで踊っている。その中の一人が客席の方に向き直る。佐々木蔵之介(リチャード三世)である。佐々木は有名な冒頭のモノローグを語り、セリフをクラレンス役の長谷川朝晴に振る。冒頭は酒場に集った男達が余興で「リチャード三世」を演じているという設定である。そのままの設定でいくのかと思ったが、余興というのは冒頭のみの設定だったようで、その後は比較的リアルな演技スタイルでの上演が行われる。

渡辺美佐子以外は全員男性というキャスト。紅一点、と呼ぶには年が行きすぎているかも知れないが、渡辺美佐子が演じるのは代書屋という役名のオリジナルキャスト。正体はおそらくシェイクスピア本人であると思われる。代書屋はラフを巻いている。

佐々木蔵之介演じるリチャード三世は酒をラッパ飲みし、スープを鍋からかっくらうという野性味溢れる人物である。リチャード三世はせむし(体が曲がっている)という設定だが、佐々木はいくつかのシーンで体を屈めての演技を行っていた(リチャードがせむしを演じているという設定)。

映像を使用しており、リチャード三世の夢のシーンではその映像と影アナで独特の雰囲気を生み出していた。

佐々木蔵之介は「マクベス」で主演したときも戦闘シーンを端折ったバージョンで上演していたが、今回も戦闘シーンはなく、リチャード三世と代書屋の二人だけのシーンを代わりに入れていた。

リチャードに殺された人々が現れて呪いの言葉をリチャードに次々と浴びせる悪夢の場面は、サックスの伴奏に合わせて幽霊達が歌うという処理がなされていた。少し軽い気もするが、その後のアンビエントミュージックを使用したシーンと見事な対比を生んでいたように思う。


最初は舞台上に大勢いた人々が徐々に減っていき、リチャード一人だけの場面へと繋がる。所詮は道化のリチャード。その寂寞とした孤独感が胸に染みる。


カーテンコールは4度。3回目からは客席が総立ちとなった。

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2017年6月 6日 (火)

観劇感想精選(214) ジョン・ケアード演出 内野聖陽主演 「ハムレット」

2017年5月6日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後7時から兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「ハムレット」を観る。作:ウィリアム・シェイクスピア、テキスト日本語訳:松岡和子、上演台本:ジョン・ケアード&今井麻緒子、演出:ジョン・ケアード。出演:内野聖陽、貫地谷しほり、北村有起哉、加藤和樹、山口馬木也、今拓哉、大重わたる、村岡哲至、内堀律子、深見由真、壌晴彦、村井國夫、浅野ゆう子、國村隼。
ホレイショー役の北村有起哉以外は全員が複数の役をこなすという演出。クローディアスと先王ハムレットの亡霊は同一の役者が務めることが多いが、その他の役を複数という上演は珍しい。

舞台下手に客席が設けられており、舞台上特設席となっている。舞台は八百屋飾りであり、上手奥から下手手前に向かって傾斜がついている。舞台上手にも椅子があり、出番を待つ俳優が座っていたりする。音楽と尺八演奏担当の藤原道山もここで演奏を行う。
一般の客席からは舞台を観るというよりも、「ハムレット」の上演が行われている劇場を別の角度から観るという趣になる。新たなる視座からの「ハムレット」だ。劇中劇があることで有名な「ハムレット」であるが、ジョン・ケアードの演出により、更なる入れ子構造となった。

まずホレイショー役の北村有起哉が登場する。舞台中央に進んでしばし佇み、舞台床へと手をやる。他の俳優が全員登場。北村有起哉演じるホレイショーが手を置いたところから光が溢れ、「あるか、あらざるか」という声が聞こえる。「To be,or not to be」が今回の松岡和子訳ではこの言葉になっている。「To be,or not to be」がハムレットのセリフのみでなく、劇全体への問い掛けとして響くのである。
その後、これまた自己への問い掛けのような「誰か?」という通常の「ハムレット」の最初がセリフが発せられる。

内野聖陽のハムレットということで、男くさいものを予想していたのだが、それとは大きく異なる、若々しくてナイーブだが線が細いわけではないという独特のハムレット像を生み出している。

貫地谷しほりも早いものでもう三十路を越えたが、可憐さがオフィーリア役に良く合っている。ただ時折、「演じすぎなのでは」と思える場面もあった。狂気のオフィーリアの場面では良い演技をしてくれたように思う。

國村隼のクローディアスは悪役的でも怜悧な雰囲気でもないが、人間臭さを感じられるところが魅力的である。

舞台上で俳優が羽織っているものを取ったり、仮面を被るなどして別人に変わるため、「演じる」という行為に、より注視することが出来る。ハムレットは「復讐」という役割を与えられた男だ。そして役者というのは皆、役割を与えられた者でもある。ハムレットが役者を丁重にもてなすのも、そう考えれば納得出来る。


「ハムレット」の謎の一つとして、「ハムレットは何故いつまで経っても復讐を行わないのか」というものがある。「臆病だから」「悩む性格(ハムレット型性格)だから」という考えもあるが、ポローニアスをなんの躊躇もなく刺し殺しているところから、これは当たっていないと思われる。ならば復讐できない理由があるのではないかと思うのが自然である。

ハムレットはガートルード(浅野ゆう子)の貞操観念の欠如に失望を覚えている。そのため愛するオフィーリアには「母親のような淫らな女になって欲しくない」ということで「尼寺(今回の上演では「尼僧院」)へ行け!」と語る。つまり母親のガートルードもハムレットの目にはクローディアスと同様、罪深き存在と映っているようである。また、ハムレットのセリフに「夫婦は一心同体」というものがある。ハムレットにとってはガートルードも先王ハムレットを卑しめる存在であり、クローディアスと同罪なのだろう。ということはハムレットはガートルードも殺害しなければならないのだが、実母を殺すことは心情的にも倫理的にも不可能である。ということで、ガートルードが死ぬことでようやく「母親殺し」のスティグマ回避がなされてクローディアスを討つことが可能になるのだ。この「母親殺し」をハムレットが無意識では感じているものの、はっきりとは自覚していないため、「謎」を生んだのだと予想される。自覚されていないとため、「復讐者」の役を上手く演じられない自身をハムレットが嘆くシーンにおいてもハムレットはその原因を己の演技力の不足としか捉えられていない。


ハムレットとレアティーズ(加藤和樹)の決闘は、フェンシングや剣術で行われることが多かったのだが、今回は棒術で行われる。内野聖陽と加藤和樹の殺陣も見事だった。

内野聖陽はハムレットの他にノルウェーの王・フォーティンブラスも演じるのだが、フォーティンブラスの父親もフォーティンブラスという名前であることから、二世という意味でハムレットとフォーティンブラスは重なっており、その重なりが意図的に見えるように演出されているように思われる。

ホレイショーはデンマーク王室で起こった物語を伝えるために生きることを決めるのだが、今回の舞台の内容を人に伝えるのは今日客席にいる人々ということで、ホレイショーは観客の代理人という役割を担っているのだと思われる。一番最初に舞台に現れ(この舞台が「ホレイショーの語る『ハムレット』であることを示唆していると思われる)、最後に一人で舞台を去るのは「全てを観て語るため」なのだろう。ホレイショーを演じる北村有起哉だけ一役なのは「単一の視座の確保」のためだと思われる。


カーテンコールは3回。3回目はオールスタンディングとなり、10年前の大河ドラマ「風林火山」のコンビである内野聖陽と貫地谷しほりが喝采を浴びた

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2017年3月24日 (金)

観劇感想精選(205) ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」2017大阪

2017年3月1日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後6時30分から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」を観る。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」をフランス人のジェラール・プレスギュルヴィックがミュージカル化したもの。潤色・演出は宝塚歌劇団の小池修一郎。宝塚歌劇でも上演されたことがあるようだが、今回は新演出での上演である。音楽監督は太田健。
出演は主役クラスはWキャストで、今日の出演は、古川雄大、生田絵梨花(乃木坂46)、馬場徹、小野賢章(おの・けんしょう)、渡辺大輔、大貫勇輔。レギュラー出演者は、香寿たつき、シルビア・グラブ、坂元健児、阿部裕(あべ・ゆたか)、秋園美緒、川久保拓司、岸祐二、岡幸二郎ほか。ダンサーが多数出演し、華やかな舞台となる。

このミュージカルは、「死」と名付けられたバレエダンサー(大貫勇輔)の舞踏で始まる。背後の紗幕には爆撃機と爆撃される街の映像が投影される。
「死」は常にというわけではないが、舞台上にいて出演者達に目を配っている。ロミオ(古川雄大)が失望する場面が合計3度あるのだが、その時はロミオと一緒になって踊る。ロミオに毒薬を手渡すのも「死」の役目だ。
今日は出演しない「死」役のもう一人のバレエダンサーは、連続ドラマ「IQ246」にも出演して知名度を上げた宮尾俊太郎で、宮尾が舞う日のチケットは全て完売である。

イタリア・ヴェローナ。時代は現代に置き換えられており、登場人物達はスマートフォン(セリフではケータイと呼ばれる)や動画サイトを使っている。舞台は観念上のヴェローナのようで、実際のヴェローナにはない摩天楼が建ち並び、BOXを三段に重ねたセットが用いられる。
ヴェローナを二分するモンタギュー家とキャピュレット家。モンタギュー家は青地に龍の旗をはためかせ、モンタギューの一党も青系の衣装で統一されている。一方、赤字にライオンの旗をトレードマークとするキャピュレットの一族は赤系の服装だ。
モンタギューとキャピュレットの間では争いが絶えない。特にキャピュレット家のティボルト(渡辺大輔)と、モンタギュー家のマーキューシオ(小野賢章)は不倶戴天の敵という間柄である。
ヴェローナ大公(岸祐二)が両家の仲裁に入り、「今度争った場合は刑に処す」と宣言する。

キャピュレット卿(岡幸二郎)とキャピュレット夫人(香寿たつき)は、娘のジュリエット(生田絵梨花)をパリス伯爵(川久保拓司)に嫁がせようとしていた。ロミオにいわせるとパリスは「いけ好かない成金」であるが、キャピュレット卿は借金があり、ジュリエットと結婚したあかつきには借金を肩代わりしてもいいとパリスは言っていた。
ジュリエットはこの物語では16歳という設定。本当の愛というものを知らないうちに親が決めた相手と結婚することに疑問を感じている。だが、キャピュレット夫人は、「自分は結婚に愛というものを感じたことなど一度もない」と断言する。キャピュレット夫人も親の言いなりでキャピュレット卿と結婚したのだが、夫に魅力は感じず、夫も女遊びに励んでいたので負けじと浮気を繰り返していた。
そしてキャピュレット夫人は、ジュリエットが不義の子だということを本人に告げる(このミュージカルオリジナルの設定である)。のちにキャピュレット卿は、ジュリエットが自分の子供ではないと気づき、3歳のジュリエットの首を絞めて殺そうとしたのだが、余りに可愛い、実の娘以上に可愛いので果たせなかったというモノローグを行う。

キャピュレット夫人(くわえ煙草の時が多い)は、甥のティボルトになぜ戦うのか聞く。ティボルトは、「人類はこれまでの歴史で、どこかでいつも戦ってきた」と人間の本能が戦いにあるのだという考えを示す。キャピュレット夫人は愛の方が重要だと主張するがティボルトは受け入れない。

一方、ヴェローナ1のモテ男であるロミオは、数多くの女を泣かせてきたが、今度こそ本当の恋人に会いたいと願っている。マーキューシオやベンヴォーリオに誘われて、キャピュレット家で行われた仮面舞踏会にロミオは忍び込む。パリス伯爵に絡まれていたジュリエットだが、ロミオと出会い、互いに一目惚れで恋に落ちる。だが、ロミオの正体がばれ、パリス伯爵との結婚が急かされるという結果になってしまう。

バルコニーでジュリエットが、「ロミオあなたはなんでそんな名前なの?」という有名なセリフを語る。ロミオがバルコニーに上ってきて、二人は再会を喜び、「薔薇は名前が違ってもその香りに変わりはない」というセリフを二人で語り上げる。

ティボルトもまた従妹であるジュリエットに恋していた。ティボルトも15歳で女を知り、それ以降は女に不自由していないというモテ男だったのだが、本命はジュリエットだった。日本の法律では従兄妹同士は結婚可能なのだが、キャピュレット家には従兄妹同士は結婚出来ないという決まりがあるらしい。
ティボルトはこれまで親の言うとおり生きてきたのだが、それに不満を持つようになってきている。ただ、自由に生きることにも抵抗を覚えていた。

一方、モンタギュー家のロミオ、ベンヴォーリオ、マーキューシオも大人達の言うがままにならない「自由」を求めており、自分達が主役の社会が到来することを願っていた。いつの時代にもある若者達の「既成の世界を変えたい」という希望も伝わってくる。

バルコニーでの別れの場。ジュリエットは父親から「18歳になるまではケータイを持ってはならない」と命令されており、ロミオと連絡を取る手段がない。ジュリエットはロミオに薔薇を手渡す。「明日になっても気が変わらなければ、この花を乳母(ジルビア・グラブ)に渡して」と言うジュリエット。ロミオは勿論心変わりをすることなく、訪ねてきた乳母に薔薇の花を返す。かくして二人はロレンス神父(坂元健児)の教会で結婚式を挙げる。フレンチ・ミュージカルであるため、フランス語で「愛」を意味する「Aimer(エメ)」という言葉がロミオとジュリエットが歌う歌詞に何度も出てくる。

二人の結婚の噂が流れ、街では、「綺麗は汚い、汚いは綺麗」という「マクベス」のセリフを借りた歌が流れる。「顔は綺麗と思った女性でも」という意味である。

再びモンタギューとキャピュレットの諍いが起こる。マーキューシオがティボルトとの戦いに敗れて死に、その腹いせでロミオはティボルトを刺し殺してしまう。ヴェローナ大公はロミオにヴェローナからの永久追放を宣言するのだった。


常に人々を見下してきた「死」が、ラストになって敗れる。ロレンス神父がジュリエットに死んだようになる薬を手渡したことをロミオにメールするのだが、ロミオはケータイをなくしてしまっており、事実を知らないまま「死」から手にした毒薬で自殺し、それを知ったジュリエットも短剣で胸を突き刺して後を追う。ここまでは「死」のシナリオ通りだったのだが、ロミオとジュリエットの愛に心打たれたモンタギュー卿(阿部裕)がキャピュレット卿と和解。ロミオとジュリエットの名は後世まで残るものと讃えられる。ロミオとジュリエットの死が愛を生んだのだ。「死」は息絶える仕草をし、ここにおいて愛が死に勝ったのである。


楽曲はロック風やクラブミュージック調など、ノリの良いナンバーが比較的多く採用されている。拍子自体は4分の4拍子や4分の3拍子が多く、リズムが難しいということはない。
ベンヴォーリオがのぼせ上がったモンタギュー一族をなだめる場面があり(「ロミオとジュリエット」を翻案した「ウエスト・サイド・ストーリー」における“クール”の場面のようである)、これまたベンヴォーリオがマントヴァ(この劇では売春街という設定になっている)に追放されたロミオを思って一人語りをしたり伝令も兼ねたりと、ベンヴォーリオは原作以上に重要な役割を与えられている。


2013年のミュージカル「ロミオ&ジュリエット」でもロミオを演じた古川雄大は安定した歌と演技を披露する。
ジュリエットを演じた乃木坂46の生田絵梨花はミュージカル初挑戦であるが、実力はあるようで、すでにオーディションを突破しなければキャスティングされないミュージカル「レ・ミゼラブル」にコゼット役での出演が決定している。生田絵梨花はピアノが得意で日本クラシック音楽コンクール・ピアノ部門での入賞歴があり、現在は音楽大学に在学中。ということでソニー・クラシカルのベスト・クラシック100イメージキャラクターも務めていたりする。演技はやや過剰になる時もあるが、歌は上手いし、筋は良い。
ティボルト役の渡辺大輔とマーキューシオ役の小野賢章も存在感があって良かった。

カーテンコールは3度。最後は大貫勇輔が客席に向かって投げキッスを送りまくり、笑いが起こっていた。

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2017年3月20日 (月)

観劇感想精選(204) 「お気に召すまま」

2017年2月7日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「お気に召すまま」を観る。「人生は舞台、人はみな役者に過ぎぬ(今回の公演では、「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」という訳であった)」というセリフで有名な作品である。昨年が没後400年に当たったウィリアム・シェイクスピア。今年は様々なシェイクスピア作品が上演される。
白水社から出ている小田島雄志翻訳のテキストを使用。演出:マイケル・メイヤー。出演:柚希礼音(ゆずき・れおん)、橋本さとし、ジュリアン、横田栄司、伊礼彼方(いれい・かなた)、芋洗坂係長、平野良、平田薫、入絵加奈子、古畑新之(ふるはた・にいの)、武田幸三、新井将人、俵木藤汰(たわらぎ・とうた)、青山達三、マイコ、小野武彦ほか。音楽:トム・キット。

舞台を1967年のアメリカに移しての上演である。ということで、オーランドー(ジュリアン)やオリヴァー(横田栄司)、フレデリック(小野武彦)、アダム(青山達三)などは背広を着て登場する。ロザリンド(柚木礼音)やシーリア(マイコ)も、最初はフラッパーのような格好で登場する。

元宝塚歌劇団男役トップの柚木礼音の主演ということで、客席には宝塚ファンの女性が多い。

セットは、パルテノン宮殿を思わせるエンタシスの柱数本に三角形の屋根。アメリカの首都ワシントンD.C.という設定だという。アーデンの森はヒッピー達の祭典サンフランシスコのヘイトアシュベリーを起点に起こったムーブメント「サマー・オブ・ラブ」に置き換えられており、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア(カリフォルニア・ドリーミン)」が流れて、セットがサイケデリックなものに変わる。ギター、エレキベース、キーボード、チェロの生演奏があり、アミアンズ役の伊礼彼方はギターの弾き語りを行う。

「お気に召すまま」は、長兄のオリヴァーから冷遇され、ろくに教育も受けることが出来なかった末弟のオーランドー。フレデリックから追放された前公爵など、抑圧された存在が登場するのだが、なぜか皆、瞬く間に仲直りという、不思議な展開を見せる。

今回の舞台では、オーランドーとチャールズ(武田幸三)が戦うのは相撲やレスリングではなく、総合格闘技となっている。

父の追放を悲しんでいるロザリンド。親友でフレデリックの娘であるシーリアはロザリンドに従妹としてまた友人としての絶対的な愛を語り、慰める。格闘技の試合に勝ったオーランドーを見たロザリンドは一目で恋に落ち、銀のブレスレットをプレゼントする。オーランドーもロザリンドに惚れていた。

だが、オリヴァーの不興を買ったオーランドーは、今回はヘイトアシュベリーということになっているアーデンの森に執事のアダムと共に逃げ込む。アーデンの森にはロザリンドの父親である前公爵(小野武彦二役)もいた。フレデリックから追放を宣告されたロザリンドは自らもシーリアと共に森に行くことにする。ロザリンドは「女同士では危険。だが私は普通の娘としては背が高い方だから、男装しようと思う」としてギャニミードという男性名を名乗り、シーリアはギャニミードの妹であるアリーナということにして、道化のタッチストーン(芋洗坂係長)とを連れて森に向かう。

オーランドーは空腹で倒れたアダムのために、公爵が率いるヒッピーの一団を襲うが、彼らの落ち着いた態度に己の行為を恥じ、ヒッピー達と行動を共にするようになる。またオーランドーは森の木という木に、七五調と韻を駆使した恋文を紙に書いて張っていく。

森の別の場所では老いた羊飼いのコリン(俵木藤汰)が、若き羊飼いであるシルヴィアス(平野良)の女羊飼いフィービーへの思いを感じているのだが、フィービーはシルヴィアスを相手にしない。コリン達とシルヴィアスの姿を見たギャニミードとシーリア。ギャニミードは更にオーランドーの恋文も発見する。韻を踏んでいることに感心するギャニミードであったが、タッチストーンは「簡単だ」と言って、韻文を作ってみせる。
オーランドーが現れる。ギャニミードは男装していたので自分の正体が女のロザリンドだと知らせることはなく、「女の心に通じた男」としてオーランドーに女の口説き方をアドバイスし、「自分をロザリンドだと思って接して欲しい」と言って、シミュレーションをたっぷり味わう。だが、フィービーもギャニミードに恋してしまい……。

実は、オーランドーとロザリンドが妙なやり取りをしている一方で、アリーナに扮したシーリアとオリヴァーは一目で恋に落ち、タッチストーンはオードリーというおつむの少し弱い女(入絵加奈子)を見つけて恋仲になろうとしているのである。オーランドーとロザリンドの恋だけが回り道をしていることになる。恋について語る役割でもあるといえるのだが(オーランドーが「恋のために死にたい」というと、ロザリンドに扮したギャニミード正体はロザリンドというややこしい人物が、「人類の歴史は6000年あるが、これまで恋で命を落とした男はいない」と答えるなど)。

「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」というセリフを語るのは、オーランドーの次兄・ジェークイズ(橋本さとし)である。オーランドーから「憂鬱病」と称される彼は、「お気に召すまま」の登場人物の中でかなり異色の存在である。恋の物語になぜ厭世家が紛れ込んでいるのか。ジェークイズを見ていると、「お気に召すまま」が単なる喜劇には見えなくなる。
時について語られる場面がいくつかある。オーランドーやギャニミードのセリフに出てくる。だが、時について最も語られるのがジェークイズの「この世界はすべてこれ」で始まるセリフの後半である。人間には7つの時代があるとされる。「赤ん坊」「子供」「恋する若者」「軍人」「裁判官」「老人」「そして再び赤ん坊。忘却へと帰る」。いずれも良いイメージでは語られない。これは何を意味するのか。
恋する人達の中で厭世家のジェークイズが滑稽に浮かぶ上がるという説もあるが、少なくとも今回の上演ではそうは思えない。ジェークイズは精神的に老いた男で恋する若者達を俯瞰で見ているのか。あるいはジェークイズは未来の視点からヒッピー達を見ているのか。
1967年のアメリカに設定が変わっていることを考えれば、その後のアメリカ史と重ねているという解釈も出来る。1969年のウッドストックで、音楽のムーブメントは変わり(イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」ではそのことが暗示されているとされる)、ベトナム戦争は1975年にアメリカ建国以来初の負け戦として終わる。

マイケル・メイヤーの演出は、俳優にかなり細かな演技をつけたもので、「カッチリした」という言葉が一番ピッタリくる。日本人がやっているとお堅く見えるレベルだ。
また音楽を多用して賑やかな舞台にしており、政治都市ワシントンD.C.から離れた理想郷(一種のカウンターカルチャー)を企図しているように思う。

ラスト(エピローグ)のロザリンドの口上は、柚木礼音が歌を加えて披露した。

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2017年2月13日 (月)

観劇感想精選(199) 「シェイクスピア物語 ~真実の愛~」

2017年1月22日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後12時30分から、梅田芸術劇場メインホールで、「シェイクスピア物語 ~真実の愛~」を観る。昨年(2016年)が没後400年に当たったウィリアム・シェイクスピアが、「ロミオとジュリエット」や「十二夜」などを生み出す過程を描いたフィクションである。昨年暮れに東京で上演され、今日が大阪公演二日目にして楽日となる。上演台本:元生茂樹&福山桜子、演出:佐藤幹夫。出演は、上川隆也、観月ありさ、五関晃一、藤本隆宏、小川菜摘、秋野太作、十朱幸代ほか。

元々は観る予定はなかったのだが、「上川隆也がシェイクスピア役ならなんとかなるだろう。演技の勉強にもなるし(私は演じないけれど)」ということで、先日チケットを取ったのだ。
「真実の愛」という副題からも想像される通り、内容は通俗的である。正直、本当に上川隆也が主演だからなんとかなったという部分があるのは否めないだろう。

開演15分前から、赤いマントと頭巾を被った女性出演者達(アンサンブル陣)が客席に3人ほど現れて、「シェイクスピア物語」のチラシを配り始める(今日は客席にはチラシの束もアンケート用紙も置かれていなかった)。また黒頭巾に黒マントの男優がジャグリングをするなどして観客を楽しませる。

舞台は二段になっており、素の舞台より高いところに、上から見ると「八」の字の上が繋がった形になる細長い舞台が渡してある。上の繋がった部分に当たる、真ん中の舞台正面と平行になった場所はバルコニーという設定であり、背後にカーテンが閉めてあって奥が寝室ということになっている。バルコニーの上手下手両方に下の舞台へと下りる階段が伸びており、下手階段の横には木製の梯子も掛けてある。バルコニーの下の部分にはカーテンが閉まっており、ここが1階の入り口に見立てられて使われる。

風音が響き、雷鳴と電光が走ると、舞台上手下手両方から、赤い頭巾とマントの女優陣、黒い頭巾とマントの男優陣が、小学校の図工室などにあったような背もたれのない木組みの椅子を手に現れ、車座になって座る。丁度、椅子取りゲームが終わった時のような感じである。上の舞台の上手では女性がヴァイオリンを弾き、男性がスネアドラムを叩いている。この二人は全編に渡って音楽を担当する。スネアドラムは歌舞伎におけるツケのような効果を担うこともある。

音楽がグリーンスリーブスを主題にしたものに変わると、背後のカーテンが開き、ウィリアム・シェイクスピア(愛称の「ウィル」と呼ばれることが多い。演じるのは上川隆也)が、「書けない! 書けない!」と焦りながら登場。アンサンブルキャスト陣をかき分けて椅子の上に上がり、反時計回りに歩く。「お気に召すまま」にある、「この世は全て舞台。人は役者に過ぎぬ」というセリフが上川の口から語られるが、その後で、「役者は皆、自分の役を持っている。人は皆、自分の役割を全うせねばならない」というオリジナルの言葉が加わっている。「人生には物語が必要だ」として、シェイクスピアは何とかストーリーを捻りだそうとしている。舞台上手にあるテーブルに向かい、羽根ペンで何かを書こうとするが何も浮かんでこず、「書けない!」と自分に怒りをぶつける。

アンサンブルの出演陣は、シェイクスピアが生んだ名ゼリフの場面を演じ始める。「リチャード三世」の「馬をくれ! 馬をくれたら国をやろう!」、「ハムレット」の「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」。更に「ヘンリー四世」よりフォールスタッフのセリフ、「ハムレット」よりオフィーリアのセリフ、そして「十二夜」よりヴァイオラ(男装してシザーリオを名乗る)のセリフ。ヴァイオラに関しては他の出演者から説明が入る。

時は1593年、ロンドン。これまで数々の戯曲を手掛けていたシェイクスピアだが、スランプに陥って何も書けなくなってしまっている。タイトルは「イタリア紳士と海賊ドレイクの娘」に決まっているのだが、内容が出てこない。シェイクスピアはローズ座の劇場主であるヘンズロー(秋野太作)に、「物語は頭の中にある」と見得を切るシェイクスピアだったが、頭の中の物語を開ける鍵を今は持っていない。
一方で、彼が書いた「ソネット集」が巷で評判になっていた(シェイクスピアの「ソネット集」は彼の恋心と共に同性愛の告白とも取れる内容を含むことでも知られている)。

取り敢えず、居酒屋兼売春宿(娼婦達が、「あそこは硬く、頭は柔らかく。硬いは柔らかい、柔らかいは硬い」という「マクベス」の魔女達セリフの下ネタパロディを歌う場面がある)のバラ邸で、ヘンズローとシェイクスピアはオーディションを行うことにするが、応募してきた全員が、シェイクスピア以外の本から取ったセリフを言う上に、吃音(劇中では「どもり」という言葉が使われる)であったり、その時代にはないはずのラップを歌う人がいたりと滅茶苦茶である。シェイクスピアはラップを知らないため、「なんだあの股間を押さえてクネクネする動きは?」と言ったりする。
そして、シェイクスピアは、バルコニーの奥にダンカンという人物が現れるのを見る(この時のダンカンの出現は赤い光のみで表される)。だがヘンズローにはダンカンの姿は見えない。ダンカンはすでに故人なのだ。やがて、ダンカンの幽霊が現れる。ダンカンと名乗ってはいるが、それは芸名であり、実際は女性である。本名はオリヴィア。性別を偽って舞台に立ち続け、名優と賞賛されていた。ダンカンの元ネタは「ハムレット」の先王ハムレットである。

一騒動が起こる。カーテン座の座付き作家であるクリストファー・マーロウ(実在の人物である)に劇中で間抜けな貴族として描かれたエセックス伯爵(藤本隆宏)が部下と共にマーロウを成敗しに来たのだ。やり取りを聞いて埒があかないと判断したシェイクスピアは、「俺がクリストファー・マーロウだ」と嘘をついて何とかことを収めようとする。エセックス伯爵は、「芝居は真実の敵」というが、マーロウを騙るシェイクスピアは、「ならば、その真実とやらは現実の敵」と返す。
その後、本物のクリストファー・マーロウは殺され、その葬儀ではサミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」の合唱版である「アニュス・デイ」が流れた。

一方、貴族であるキュープレット家の令嬢であるヴァイオラ(観月ありさ)は、家同士が結婚を決める通例に疑問を持っており、「真実の愛」を求めていた。一方で、「舞台の上に女が立てない」ことに不満を抱いており(シェイクスピアの時代にはまだ女優はおらず、女性役は女形や少年が演じていた。オフィーリアやコーディリアといったヒロインが14歳前後という幼い設定なのは、少年が彼女達を演じていたということによるところも大きい)、トマス・ケントという偽名を用いて男装し、ローズ座のオーディションに参加(オーディションが終わった後でバラ邸に着いたが、シェイクスピアに特別に目の前で演技を行うことを認められる)。「ヴェローナの二紳士」のセリフを奏でて、シェイクスピアに絶賛される。トマス・ケントと名乗ったヴァイオラは、「キュープレット家の者」とだけ伝えて帰る。

トマスの才能に惚れ込んだシェイクスピアはキュープレット家までトマスに会いに行く。キュープレット家ではヴァイオラがリュートを奏でながら女性達と歌っていたが、シェイクスピアはヴァイオラとトマスが同一人物だと気がつかず、ヴァイオラに一目惚れしてしまう。ヴァイオラとシェイクスピアはバルコニーの上と下で出会う。これが「ロミオとジュリエット」のバルコニーのシーンの元ネタになるという設定である。
シェイクスピアの第一印象をヴァイオラがバルコニーで一人語りする場面で、シェイクスピアを演じる上川隆也は舞台を下りて、最前列の前のスペースを上手から下手に向かい、身をかがめながら歩く。だが、ヴァイオラがシェイクスピアを「ハンサムで」と評したときに、上川演じるシェイクスピアがのぼせ上がって、客席の方を向きながら立ち上がってしまうという演出がなされており、笑いが起こる。

ダンカンの幽霊が現れ、シェイクスピアに「お前は真実の愛というものをまだ知らないだろう」と問う。シェイクスピアはすでに結婚しており、ストラットフォード・アポン・エイボンに妻がいたが、恋愛結婚ではなかったため、恋の感情を抱いたことはなかった。シェイクスピアはヴァイオラへの「苦しいが心地よい感情」こそが「真実の愛」だと悟る。そして自分の感情に素直になったことで後に「ロミオとジュリエット」となる物語が泉のように浮かんでくる。ジュリエットのキャピュレットという苗字はキュープレット家をもじったものである。

シェイクスピアは、トマス・ケントがヴァイオラだと気がつかないままヴァイオラへのラブレターを託す。元々、観劇が好きでシェイクスピアにも気があったヴァイオラだが、シェイクスピアの書いた、「あなたを夏の日に喩えましょう。いや、あなたの方が美しくて穏やかだ」という内容の恋文(シェイクスピアの「ソネット」からの引用である)に、一気に恋に落ちてしまう。

シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の稽古が始まる。アドミラル座のスター俳優・ネッド(五関晃一)も加わり、体勢は万全だ。トマスはロミオ役を貰う。ロミオ役を貰ったトマス=ヴァイオラがバルコニーでロミオのセリフを読み、シェイクスピアが別の場所にいるという設定で(実際は、上川隆也は観月ありさのすぐ下にいる)ジュリエットのセリフを朗読するという逆転のシーンもある。


ヴァイオラに求婚した男がいる。他ならぬエセックス伯爵である。当時は家の取り決めは絶対。ヴァイオラの母親であるマーガレット(小川菜摘)はヴァイオラに無断で求婚を受け入れてしまう。

ヴァイオラは、エセックス伯爵からエリザベス女王(十朱幸代)の「吟味」を受けるように言われる。結婚に相応しい女性かどうかは女王陛下が決めるのだという。

トマスの正体がヴァイオラだとシェイクスピアにばれる日が来た。キュープレット家の下僕であるアダムが告白してしまったのだ。そしてヴァイオラがエセックス伯爵と婚約しており、アメリカのヴァージニアに渡る予定だということも知る。シェイクスピアはヴァイオラの下女に化けて(顔に白頭巾を被る)、ヴァイオラと共に宮廷に向かい、ヴァイオラとエリザベス女王との謁見に立ち会う。

エリザベスに謁見したヴァイオラ。ヴァイオラが劇場でよく見かける娘だと気づいたエリザベスは、演劇の話を二人で始める。エリザベスは、「戯作者の書くことにまことの愛など出てこない。全て絵空事」と言うが、ヴァイオラは、「真実の愛を描ける詩人が一人だけいます。シェイクスピアです」と意見した。

ローズ座が女を雇っているという噂が出回る。女優というものが認められていない時代であり、舞台上に女を立たせたとあれば重罪である。もはや隠しきれないと悟ったヴァイオラは自分が本当は女であると告白し、ロミオ役を降りることになる……。


よく知られているとおり、シェイクスピアの時代には、戯曲を書くという行為はオリジナルの物語を生むことではなく、有名な物語をいかに膨らませて脚色するかという作業であった。「ロミオとジュリエット」も「十二夜」も元からあったお話をシェイクスピアが潤色したものであり、一から生み出したとするのは史実的には正しくない。ただ、これはあくまでもエンターテインメントであり、史実を語るのは野暮だろう。
「言葉、言葉、言葉」というシェイクスピアを評する比較的知られた言葉が劇中にも登場するが、シェイクスピアの弱点ともされる「語りすぎ」の部分を真似た、修飾語だらけのワンセンテンスの長いセリフも登場する。

演技は下手だったとされるシェイクスピアがカーテン座でロミオを演じることになり、ヴァイオラがジュリエットとして出演というのも無理はあるのだが、物語を膨らませるためには必要でもある。シェイクスピアとヴァイオラが別れを悟るシーン、「ロミオとジュリエット」のバルコニーでの別れのセリフをそのまま二重映しで交わすのも、冷静に見れば「なんだこのバカップルは?」であるが、絵になっている。並の俳優同士だったら客席から笑いが起こってしまうかも知れないが、そうならないのが二人の実力を物語っている。


上川隆也の演技は、最初のうちは珍しく板に馴染んでいないように思えたのだが、これは意図的なもので、「真実の愛」を知った後でギアが変わり、ロミオを演じる場面で更にという仕掛けである。演技の質だけでなく、発せられる「気」が変わるのも興味深い。観月ありさも上川と同じ意図の演技を行う。上川ほど上手くいかないのは舞台経験の差であり、比較しなければ観月の演技も上出来である。ロミオを演じて以降の上川とジュリエットを演じてからの観月がやはり一番、格好良かった。

エリザベス女王が「機械仕掛けの神」の役割を担っているのも演劇の歴史を考えれば納得のいく話である。

大きな問題があるとすれば、「名家」を常に「めいけ」と読んでいたこと。「名家」は基本的には「めいか」としか読まない。IMEでも「めいけ」では「名家」と変換されないはずである。基本的にはと書いたのは、「名家」と書いて「めいけ」と読む場合が例外的にあるためである。公家の階級を表す「名家」だ。公家の階級は上から摂家、清華(せいが)家、大臣家、羽林(うりん)家と来て、次に来る名家は「めいけ」と読む場合があるのである。公家の名家には、親鸞聖人や日野富子を生んだ日野氏が含まれている。


終演後はオールスタンディングオベーション。私は「立つほどではないな」と思ったのだが、舞台が見えなくなったので立つだけは立つ。上川隆也の挨拶。「2017年1月21日に幕を開けたこの大阪での舞台も、今日、1月22日に無事、千秋楽を迎えることが出来ました。これもひとえに我々の努力の賜物です」とボケた後で、「皆様のご支援のお陰です」と再度挨拶する。上川はセリフならいくらでも喋れるがフリートークは苦手というタイプなので、「他の出演者の皆さんにご挨拶頂きましょう」と話を振っていた。

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2016年12月28日 (水)

観劇感想精選(196) 野村萬斎構成・演出・主演「マクベス」2016西宮

2016年6月28日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、野村萬斎構成・演出・主演の「マクベス」を観る。

野村萬斎が「マクベス」の上演を行うのはこれで4回目。最初はリーディング公演に始まり、その後、地球に見立てた巨大なセットを組んだ公演を行うも、セットが大きすぎて地方公演も出来ない、ということで、木製の衝立に丸い穴を開けてそれを地球に見立てた「小さな地球」のよる公演を行っている。この公演は2014年に兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールでも行われ、私も観ている。

さて、4度目の「マクベス」。前回とは出演者も含めて少し違う。マクベスに野村萬斎、そしてマクベス夫人には新たに鈴木砂羽が起用された。役が固定されているのはマクベスとマクベス夫人だけで、3人の魔女、バンクォー、マクダフ、ダンカンなどは、寺山修司の天井桟敷やその後継の万有引力にいた高田恵篤(たかた・けいとく)、福士惠二、小林桂太という特異な出自を持つ3人に俳優が演じ分ける。
演奏は、田嶋謙一(尺八)、小山豊(津軽三味線)、田代誠(太鼓)。音楽監修:藤原道山。

有料パンフレットや、アフタートークで野村萬斎が述べていたが、「日本で魔女をやるっていると、カラーコンタクトはめいたり、特殊メイクしたり、化け物にしちゃう」ため、それを嫌った野村萬斎が、「特殊な演劇的肉体を持った俳優」をということで、アングラ時代の俳優を起用している。


舞台の上には、丸い穴の開いた衝立のようなものが一つ。舞台端には黒い背嚢のような土嚢のようなものびっしりと並んでいる。中にはゴミか何かが入っているようだ。

烏の鳴き声があちらこちらから聞こえる。

やがて嵐が到来し、溶暗。三人の魔女(といっても男だが)が現れ、「今度はいつまた会おうかな、三人で」というセリフが語られ、「綺麗は汚い、汚いは綺麗」という有名な言葉が三人によって語られ、三人は衝立の○付近への集まる。すると、その背後にある障子紙にも青色の○が浮かぶ。そしてその背後に人影、青色の○を切り裂いてマクベス(野村萬斎)が登場する。三人の魔女は床に布を敷き(のちに効果的に使われる)輪舞を行うが、そのうち一人(福士惠二)がいつの間にか衣装を変えてバンクォーになり、まずマクベスが、次いでバンクォーが魔女からの予言を受ける。
魔女の予言を半信半疑で聞いていたが、コーダの領主が謀反の罪で処刑され、予言通りマクベスがコーダの領主になったことから、マクベスの野望は膨らみ始める……。


「綺麗は汚い、汚いは綺麗」は矛盾しているのように感じられ、視点を変えれば納得は出来ると私は考えてきた。しかし、これは矛盾でも二項対立でもないのではないか。この言葉にシェイクスピアは勿論謎かけをしただろうが、エリザベス朝の人々は案外我々よりも易々とこの言葉を受け入れていたのかも知れない。「絶対的価値」というもの自体が世間に流布したのは案外最近ではないのだろうか。整然とした町並み、着飾ったお洒落な人々、そうしたことが普通に見られるのはシェイクスピアが他界してから200年ほど経ってからのことだ。それゆえ謎は謎であるが、難解というほどでもなかったのかも知れない。

「マクベス」を考える時に、「マクベスは魔女に唆されたのか、自分の意思で国を奪ったのか」というのは常に問題になる。マクベスは魔女の言葉に従ったようにも見えるし、それとは無関係に王座に昇ったようにも見える。だが、これは今ほど「個」が前面に押し出されていなかった時代の話だということを考えた方がいいだろう。今ほど個の意識が強くはなく、行動一つとっても神のご意志を仰いだ時代。マクベスもマクベス夫人(鈴木砂羽)も自分で行動しているようで実はどこか誰かの物語に流されていないだろうか。考えて王座を奪ったのではなく、王座が目の前に来たから反応してしまったそれだけではないのか。「マクベス」からはそうした「人間の弱さ」が見て取れる。そもそも魔女達の託宣にマクベスは自分の意思では抗えない。逆らうことも出来たはずなのに。そして国王ダンカンを殺害したマクベスは動揺して殺害した短剣を持ってきてしまい、マクベス夫人に短剣を王の寝室に戻すよう促されるも拒否するというチキンぶり。仕方なく短剣を王の寝室に戻し、剣先の血を衛兵の顔に塗りたくったマクベス夫人もその後まもなく強迫神経症に陥り、「アラビア中の香料をこの手に注いでも芳しい匂いは戻ってこない」と嘆き、挙げ句、自殺してしまう。

マクベスとマクベス夫人はいうなれば、世界史上、最も弱い独裁者であるともいえる。


野村萬斎は四季を意識した演出を用いる。まずは桜の花びらが散り(前から5列目で見ていたのだが、「花が舞っているな」とは思ったが桜かどうかはわからなかった)、蝉が鳴き、バーナムの森の葉は紅葉しており、ラストは紅葉に続いて雪が舞い、マクベスは雪(に見立てられた布)に覆われて絶命する。


秋山菜津子からマクベス夫人役を受け継いだ鈴木砂羽。テレビなど映像で見るより綺麗な人である。十全というほどではないが、演技力もあり、魅力的なマクベス夫人になっていた。野村萬斎は、「マクベス夫人というと魔女の一人のようにしてしまうことが多い」と嘆いていたが、マクベス夫人が魅力的であることは「極めて」と書いていいほど重要なことなのである。
ちなみに、野村萬斎は出世作の一つでもある朝の連続テレビ小説「あぐり」(野村萬斎はヒロインの吉行あぐりの旦那である前衛小説家・吉行エイスケを演じた)で共演したことがあるそうで、その時、「この人、面白いな」と思ったことから、かなりの歳月は経ったがマクベス夫人に抜擢したという。


野村萬斎は、「明日がある。なぜなら人間だから」という言葉をテキストに足したそうである。ラストのマクダフとの一戦の時にである。ある意味、マクベスは魔女達と出会って以降、その場その場の時流に乗って明日を考えずに生きてきてしまっている。あたかも人間性の喪失のように。しかし、「明日を考える」という行為は「個」が今よりも希薄だった時代にあっても、人間しかなさない行為であり(他の動物は明日という観念を持たない)、「人間性の再発見」であるともいえる。この言葉によってマクベスが魔物側に墜ちるのを防いでいるとも取れる。



アフタートークがある。まず野村萬斎は、「前回も観に来たという方」と客席に聞く。結構な人が手を挙げる。野村萬斎は「どうしてもう一度観ようと思ったんでしょうか」と言って笑いを取る。
四季の演出や(ちなみに紅葉の花吹雪、といって良いのかわからないが、模造紅葉は1枚5円して、「お金が掛かっているので持って帰らないで下さい」とのことだった)、音楽に津軽三味線を使ったことについて、「三味線を使うとどうしても歌舞伎の様式になってしまうのです。ただ、スコットランドに行った時の情景を思い出した時に、断崖に海があって、『津軽』という言葉が浮かびまして」ということで、舞台になったスコットランドに似合う津軽三味線を選び、音楽監修の藤原道三にイメージを伝えたという。ちなみに、日本の合戦ものというと、どうしても「平家物語」が念頭に浮かび、紅葉の赤が平氏、雪の白が源氏という視覚効果も狙ったそうである。

 

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2015年10月22日 (木)

観劇感想精選(165) 「夜への長い旅路」

2015年9月26日 梅田芸術劇場シアタードラマシティ・にて観劇

午後3時から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「夜への長い旅路」を観る。ノーベル文学賞作家で、ピューリッツァー賞を4度受賞しているユージン・オニールの戯曲を、木内宏昌の台本・翻訳、熊林弘高の演出で上演。出演は、麻実れい、田中圭、満島真之介、益岡徹の4人。

「夜への長い旅路」は、激動の人生を歩んだユージン・オニールが自身とその親族をモデルに書いた戯曲であり、親族に累が及ばぬよう、ランダムハウス社の金庫に原稿を入れて鍵を掛け、「自分が死んでから25年経つまでは、出版も上演も許可しない」という遺言を残した。上演に関しては「一切許可しない」と書いていたほどである。その後、オニールの長男は自殺、3度目の妻であるカルロッタは麻薬中毒で法的トラブルを起こしている。

オニールの遺言は守られず、オニールの死から2年が経った1955年に、3度目の妻であり、唯一の遺産相続人であったカルロッタ(オニールは次男と長女とは絶縁している)が出版を許可し、戯曲はイェール大学出版部から出され、翌1956年にスウェーデンのストックホルムで初演が行われている。アメリカで初演が行われなかったのはオニールの親族に遠慮したためだろうか。ちなみにカルロッタは、4人の登場人物うちの一人であるメアリー・タイロン(演じるのは麻実れい)のモデルになっている。

作品は、エドマンド(満島真之介)が、愛する人に手紙を読み上げるというシーンから始まる。といっても、手紙を読み上げる声は録音されたものであり、上手端の客席通路から舞台に上がった満島真之介は、舞台上手にいくつか作られた砂山の一つから砂をすくっては、指の間からこぼすという仕草をしているだけである。手紙の内容は、エドマンドが育ったタイロン家の人々について。やがて、舞台中央奥にある引き戸式の扉が開き、タイロン家の人々が姿を見せる。エドマンドの父・ジェイムズ(益岡徹)、兄・ジェイムズ・ジュニア(愛称のジェイミーで呼ばれる。田中圭)、そして母・メアリーである。4人で抱き合うタイロン家の人々、だが、その実態は……。

アイルランド系移民のジェイムズ・タイロンは一財産を築いた舞台俳優だったが、ヒットしたのは下層階級向けの下らない劇であり、彼が目指していたシェイクスピア俳優になることは出来なかった。若い頃は、「全米で五本の指に入る期待のシェイクスピア俳優」と評されたこともあったのだが、彼が主役を張れたのは三流の芝居だけだった。そのことに不満があるのか、ジェイムズは社会的成功を収めたにもかかわらず、成した財産を土地を買うことにばかり使っており、他のことに関しては徹底した吝嗇家を通していた。医療費をけちったのが元で、エドマンドを産んでから体を悪くしたメアリーの主治医に治療費が安いことだけが取り柄の藪医者を紹介し、藪医者は痛みを止めるには一番安直な方法であるモルヒネを用いたため、メアリーは今もモルヒネ中毒のままである。しかし、ジェイムズはそれにも懲りず、現在の主治医もその知り合いである治療費の安い藪医者である。

長男のジェイミーは、かつては成績優秀で「希望の星」と讃えられた(これがラストに繋がる伏線になっている)が、素行不良で大学を自主退学し(これはオニール自身の姿と重なる)、今は売れない舞台俳優と庭師を兼任している。ジェイムズは「私の血を引いているんだから、一生懸命やれば演技もものになる」というようなことを言うが、ジェイミーは「自分から俳優になりたかったわけじゃない。そちらが勝手に舞台に上げたんじゃないか」と俳優業には乗り気でないようである。ジェイミー本人は物書きになることを夢見ていたのだが、弟のエドマンドが地方の三流紙ではあったが新聞記者になったので、文筆方面はエドマンドに任せることにしたようである。ジェイミーはエドマンドの才能については部分的にではあるが買っている。

舞台は、タイロン家のある一日。朝から夜に至るまでを描いている。

タイロン家(元々は夏の別荘)に、エドマンドが帰ってくる。病気になったのだ。症状からみて結核で間違いないのだが、エドマンド自身は「風邪だ」と言い張り、ジェイムズは「マラリアだ」と断言する。実はメアリーの父親は結核で亡くなっており、皆、メアリーを心配させまいとして気を遣っているのだ。医師の診断が届き、やはりエドマンドは結核であることがわかる(オニール自身も結核を患った過去がある)。

一方、メアリーのモルヒネ中毒も酷くなっており、メアリーは「霧笛で眠れなかった」と語るが、症状は明らかに薬物中毒のそれである。なお、結核で亡くなったメアリーの父親はアルコール中毒でもあり、メアリーは「酒は毒だ」と主張して、ウイスキーを飲もうとしたエドマンドを咎めたりする。

メアリーは、かつて旅回りの一座を率いていたジェイムズ・タイロンに夢中になり、結婚に漕ぎ着けたのであるが、夏に別荘に帰る他はずっと旅回りというジェイムズを次第に疎ましく思うようになる。ちなみに、ジェイミーとエドマンドの間にもう一人、ユージーンという名の男の子を産んだが、幼くして亡くなっており、メアリーはジェイミーがユージーンを殺したのではないかと疑っている(ユージーンもユージンも日本語表記の仕方が違うだけで同じ名前である。ユージン・オニールは、死んだ子供に自身の名前を付けたのだ。ちなみにユージン・オニールの実兄2人はジェイムズとエドマンドだそうである。エドマンドは2歳で亡くなったそうだが、家族の実名を劇に取り入れていることになる)。

メアリーは、「結婚して家族になったのではなく、家族を捨てた」と意味深なことを言う。メアリーの学生時代の友人はメアリーが舞台俳優と結婚すると知った時に哀れみのような表情を浮かべたという。学生時代のメアリーはピアニストか修道女になりたいという夢を持っていたが、ジェイムズに言わせると「プロのピアニストになれるのは100万人に一人(実際はもっとシビアな数である)」「修道女になりたいと言ってはいたが、彼女は美人で自分が美人であることも知っていた。男もとっかえひっかえで」と、メアリーの夢が所詮夢に過ぎないと見抜いていた(メアリーが修道女を目指していたということもラストに向けての伏線となっている)。ちなみにオニールは若い頃に自殺未遂をしたことがあるが、メアリーもまた自殺未遂の過去があるという設定である。

メアリーには現在、友達は一人もおらず、また病状から家に人を招くことも出来ず、家族という檻に幽閉されたも同然の生活を送っている。ジェイムズ、ジェイミー、エドマンドは外出するが、メアリーはこの劇を通して家に閉じこもったままである。男三人はメアリーの症状を心配してメアリーを見張ってはいるのだが、メアリーはそれも「監視されている」と感じていた。

ジェイムズが、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」のセリフを言い、更にエドマンドが「マクベス」の有名なセリフ、「消えろ消えろ束の間の幻影。人生は影法師、あわれな役者だ」を諳んじる。これを機に、話はシェイクスピア作品の換骨奪胎へと傾いて……。

ラストには、「ハムレット」の形を借りた展開が待っている。ジェイミーがエドマンドに向かって発するセリフや、エドマンドに対する態度は「デンマークの希望の星」と言われたハムレットが、オフィーリア対するときのものをなぞっている。そしてジェイミーはエドマンドに「尼寺へ行け!」ではなく、「療養所へ行け!」と言う(結局、ジェイムズは療養費を惜しみ、貧民のための結核療養所しか用意してやらなかったのである)。

そして、ジェイムズ、ジェイミー、エドマンドが揃ったところで、奥の入り口から狂女となったメアリーが登場する。メアリーはウエディングドレスを引きずっており(伏線としてウエディングドレスに関する話が劇中にあった)、オフィーリアそのものである。またメアリーは「修道女になるために修道院(つまり「尼寺」である)に入らないと」と、自分がまだ若いと錯覚してうわごとを言う。

溶暗し、エドマンドがタイロン家から去って行くのが確認出来たところで芝居は終わる。結末ははっきりとは示されないが、「ハムレット」のラストがどういうものか知っている人には簡単に察しは付く。

人生の最後で、「シェイクスピアに帰った」ユージン・オニールの姿が見て取れるが、実に悲劇的な、救いのない終幕であった。

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