カテゴリー「史の流れに」の6件の記事

2019年8月23日 (金)

史の流れに(6) 大谷大学博物館 2019年度夏季企画展「近代の東本願寺と北海道 開教と開拓」

2019年8月4日 大谷大学博物館にて

大谷大学博物館で、2019年度夏季企画展「近代の東本願寺と北海道 開教と開拓」を観る。開催期間は過ぎているが、昨日と今日はオープンキャンパスに合わせた特別開館が行われている。

寒冷地である北陸を布教の拠点としていた真宗大谷派は、維新後、蝦夷地と呼ばれていた北海道の開拓に協力しており、真宗開拓団として多くの北陸人が北海道に渡り、当時の法主であった現如自らが北海道に渡って布教を行ったほか、札幌と尾去別(現在の伊達市)を結ぶ本願寺道路の開削なども門徒が行っている。真宗大谷派は、札幌に別院を置くことが認められたばかりで、本願寺道路は、いわば北海道に於ける真宗のデモストレーションでもあった。

北海道の名付け親であり、「北海道人」という号も名乗った松浦武四郎(松浦弘、阿倍弘、源弘)が本願寺道路を築く際にアドバイスを行ったとされており、松浦武四郎が残した蝦夷地開拓の史料なども多く展示されている。

寛政三奇人の一人であり、「海国兵談」を著した林子平は、早くから蝦夷地の開拓とアイヌ人の同化政策を提唱しているのだが、展示されている「三国通覧図説」においてアイヌのことを、「その性、愚」としており、愚人を日本流に教化すべしという趣旨のことが書かれていて、かなり差別的であることがわかる。実際、東本願寺もこうしたアイヌへの蔑視に則って開拓や同化に協力しており、闇の土蜘蛛事件(東本願寺爆破事件)の遠因となっている。
もっとも、日本人以外は「夷狄」と見る時代にあっては、林子平らの考えも特段差別的と考えられていなかったと思われる。

松浦は、アイヌの人々の案内で、後に北海道と呼ばれる蝦夷地を探索している。松浦は伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の郷士の家に生まれたが、浮世絵師をしていたこともあるということで、蝦夷地の自然や産物、アイヌの人々の家などを克明にスケッチしている。

東本願寺の北海道開拓とアイヌに対する姿勢については、2年ほど前に東本願寺のギャラリーで行われた展示を踏襲している。現如は北海道でアイヌに対する真宗の布教を行っているが、日本人が建物の中、一段高いところにいて、屋外の土にひざまずくアイヌに六字名号を授ける錦絵は、現在では差別的という捉え方をされているようだ。

午後4時少し前に大谷大学博物館に入り、50分ほど中にいて(最後の客であった)、入り口付近のモニターに映されているユーカラの録音が流れる映像を5分ほど見る。ユーカラは蓄音機に録音されたものであり、録音を行った北里闌(きたざと・たけし)は、北里柴三郎の従弟だそうである。

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2018年12月 5日 (水)

史の流れに(5) 京セラ美術館 鳥羽伏見の戦い150年記念展「維新の夜明け」

2017年12月3日 伏見区の京セラ美術館にて

伏見区の京セラ本社1階にある京セラ美術館で、鳥羽伏見の戦い150年記念展「維新の夜明け」を観る。

京セラ美術館は比較的小規模な美術館であるが、入館は基本的に無料である。

現在、大和大学准教授を務める友人の竹本知行氏(愛称は「竹ぽん」)も監修の一人として名を連ねており、映画「隠し剣鬼の爪」の特典映像として撮られた幕末という時代と武器の解説映像(竹本氏は武具や兵器の専門家である)も流れていた。上映時間53分ということで見ている時間はなかったが、竹本氏は声に特徴があるので、どこに出演しているのかはすぐにわかった。

展示数は余り多くないが、鳥羽伏見の戦いの戯画が数点、銃器や砲弾に銃弾、当時の伏見の図面、17歳で討ち死にした阿多孫二郎の鉢振や家族宛の書簡などが展示されている。阿多孫二郎は、17歳にして死を覚悟しており、両親と祖父母に向けて別れの書状をしたためている。その文には「さんずの川で会いましょう」や「もう(故郷に)帰ることはありません」「討ち死に以外の道は考えていません」という決意が述べられていた。

伏見奉行所跡地の近くにある魚三楼に今も銃弾の通り抜けた跡が残っており、鳥羽伏見の戦いの痕跡と伝わるも「伏見に師団があった頃に、その辺の若いのが発砲してつけたのではないか」という話もあるが、弾の大きさからいって銃弾ではなく伏見の戦いで使われた四斤山砲破裂砲弾の鉄弾子とみるのが適当なのだそうである。

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2018年11月22日 (木)

史の流れに(4) 京都府立京都学・歴彩館展示室 平成30年度「東寺百合文書展」

2018年10月25日 下鴨の京都府立京都学・歴彩館展示室にて

京都府立京都学・歴彩館展示室で、平成30年度「東寺百合文書展」を見る。
その中に、足利義政が長禄3年(1459)11月18日に花の御所に引っ越す際の祝いをどうするかの文書が展示されている。その頃、京の都は飢饉だったそうだが、上の階級は呑気なものである。「寺奉行加賀守に談合あるべく」とあるのだが、この加賀守とは誰だろう?

8年後に応仁の乱が始まるという年である。官職として名乗るならその資格があるのは冨樫氏か斯波氏である。ただ通称の場合はその限りではない。

スタッフに聞いたところ、学芸員の方が来てくれることになった。調べて貰ったところ、通称としての使用で、飯尾清房という人物のようである。残念ながら本保家の主君である冨樫氏ではないことが判明したが、ここで年代的に飯尾彦六左衛門尉と重なることに気づく。ただ関係があるのかはわからないという。

後で調べてみたところ、飯尾彦六左衛門尉の諱は常房もしくは清方というようで名前はよく似ている。渡来系氏族である三善氏の流れが飯尾氏であり、代々事務官僚を務めた家だとされる。一族ではあるようだが二人の関係はよくわからない。飯尾彦六左衛門尉は細川氏の家臣で、飯尾清房は反細川とのことなので、一門ながら対立していた可能性もある。今のところ、書籍に載るレベルの話はWeb上には見つからないのである。

戦国時代には、飯尾氏は現在の浜松に移り、引馬城主となったというから、先日訪れた浜松東照宮(元城町東照宮)のところに拠点を置いていたということになる。

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2017年4月29日 (土)

史の流れに(3) 京都文化博物館 「戦国時代展」

2017年4月11日 京都文化博物館にて

三条高倉にある京都文化博物館へ。
    
京都文化博物館で現在行われているのは、「戦国時代展」。文書、日記、刀剣、鎧、絵図、屏風絵、肖像画などが展示されている。

まずは江戸城主であり、歌人としても知られる太田道灌の書状から展示は始まる。

足利将軍家が細川氏と六角氏に命令をしたことがわかる文書が展示されているのだが、本文には「六角」ではなく、「佐々木」と記されており、苗字ではなく氏(本姓)が用いられていたことがわかる(六角氏は佐々木源氏の流れである)。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人三人の発した文も展示されている。

昨年の大河ドラマは「真田丸」だったということで、真田氏の六文銭の旗や真田昌幸が使ったといわれる法螺貝などが展示されているほか、真田家の城として有名になった岩櫃城の絵図(珍しいことに立体図になっている)などもある。

城の図は他に、小谷城、吉田郡山城、そして大内氏の城下町である山口と後北条氏の城下町である小田原の絵図もある。

剣豪将軍としても知られる足利義輝の肖像画も展示されている。桐の紋が入った短刀を差しているのが確認出来た。

武田信玄の肖像画もあり、よく見かけるものとは異なるのだが、信玄の弟の筆によるものだそうである。こちらの肖像画の信玄は容姿は余りパッとしない。

武田信玄と上杉謙信が戦った川中島合戦図屏風も複数ある。いずれの絵でも穴山梅雪は目立っている。


小田原北条氏(後北条氏、北条氏)五代の肖像もある。後北条氏の初代である北条早雲(伊勢新九郎守時。早雲本人は北条を名乗ったことはないそうだ)は、伊勢氏の出だが、この伊勢氏は足利将軍の政所執事であった伊勢氏の流れであることが有力視されるようになっており、そうだとすると相当な名門の出ということになる。


上杉家文書が展示されているのも興味深く、上杉輝虎、武田晴信(信玄)、今川氏真、北条氏康・氏政連署、伊達輝宗、佐竹義重などの筆跡を知ることも出来る。


私自身が、「ひょっとしたらこの人が戦国最強なのではないか」とも思っている尼子経久の肖像画を見ることが出来たのも嬉しかった。

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2017年2月24日 (金)

史の流れに(2) 「大関ヶ原展」

2015年7月5日 京都文化博物館にて

三条高倉にある京都文化博物館で「大関ヶ原展」を観る。徳川家康公没後400年を記念した特別展示である。「大関ヶ原展」はまず東京都江戸東京博物館で春から行われ、夏には京都で、更には秋に福岡市博物館で展示が行われる。

1600年に起こった関ヶ原の戦いと、その前哨戦にまつわる史料や絵画、武具や鎧が展示されている。

関ヶ原の戦いを描いた絵巻物や合戦図屏風は複数ある。基本的に関ヶ原の戦いからかなりの年月が経ってから描かれたものなので、正確性は微妙と言わざるを得ないのだが、画としては面白く、絵巻物は関ヶ原の戦いに至るまでの過程がわかりやすくなっている。ちなみに、赤色の鎧を着た「赤備え」は甲斐武田氏に始まり、甲斐武田氏本流滅亡後は、武田氏を織田信長と組んで滅ぼした徳川家康の家臣で徳川四天王の一人、井伊直政に受け継がれたということが知られている。今年(2015年)は大阪の陣400年の記念年でもあるが、豊臣方についた真田信繁(幸村)も武田の遺臣ということで赤備えを用いている。
だが、徳川四天王の一人である榊原康政も赤い鎧を着ていたようで、赤い鎧を着ること自体は決して珍しいものではなかったようだ。石田方に付くも東軍に寝返った脇坂安治(京都市伏見区の中書島の語源を生んだ人)も赤い旗を使っており、鎧も赤だった可能性は高い。

石田三成というと、「大一大万大吉」という言葉が紋として知られているが、あれは正式には家紋ではない。石田三成の家紋は実は不明である。寺の小僧から出世した身であり、元々家紋を持っていなかったのかも知れない。ただ、秀吉から家紋は授かったはずであり、家紋は間違いなくあったはずだが、逆臣であったためか記録には残っていない。

家康を怒らせたという直江兼続の通称「直江状」も展示されている。織豊時代の文字は幕末の頃の文字よりも更に崩れており、専門家でないと解読不可能と断言できるほどのものである。他の文書には専門家でも文字が解読出来ず、□(四角形)で飛ばされているものも存在する。

石田三成を始めとする五奉行の内4人(長束正家、増田長盛、前田玄以)は全員、家康の奢った態度に怒りを覚えていたようで、特に「内府ちがいの条々」(内府とは内大臣のことで、当時、内大臣の地位にあった徳川家康を指す)では、豊臣氏への挑発行為を咎めた罪奸状となっている。おそらく一番頭に来たのは、家康が大坂城の西の丸に、秀吉が本丸に建てた天守と同規模の天守を建て、西の丸を本拠地として城主のように振る舞ったことだと思われる。また、秀吉が築いた名城・伏見城を勝手に居城としていることも面白くなかったようだ。

家康の罪奸状を発した三成らは、諸大名に文を送っている。そして、大坂城下の屋敷で過ごしてた大名の妻子を大坂城内へと入れて人質に取る作戦に出る。ただ、明智光秀の娘で、玉こと細川ガラシャ夫人はこれを拒否して死を選ぶ。細川ガラシャが信じていたキリスト教では自殺は罪とされているため(仏教や神道では必ずしも自殺が罪になるとは限らないため、日本では自殺の美徳が生まれた)、家来に命じて胸を槍で貫かせ、一応は他殺という形で死を遂げている。文字に「細川」の文字が見られ、胸を突かせて亡くなるところが描かれているのが細川ガラシャ夫人であると思われるのだが、案内には何も書かれていない。

織豊時代においては、お家全てが取りつぶされることのないよう、親子や兄弟で敵同士となることも多かった。負けた側についていた者は死亡するが、勝った側にも血を分けた者がいれば家自体は存続する。徳川秀忠を信濃・上田で足止めにした真田昌幸とその子・信繁(幸村の名で知られる。真田家の当代の子孫の方によると「名前は信繁。幸村は大坂入城後に名乗った」としているようで、大坂入城後に信繁自身が名を変えたのか、後世の創作によって幸村という名前が生まれたのかまでは把握出来ていないとのことである)は西軍に付いたが、信繁の兄である信之(信幸)は東軍に味方している。
吉川広家が寝返ったのも「西軍が戦に敗れても自分が東軍に味方しておけば、西軍の総大将である毛利輝元は助かるだろう」という計算があったためである。石田三成と徳川家康の大将として器を比べれば、地形的に有利であっても西軍が不利であることはわかったはずである。

石田三成は丹後田辺城にいる細川藤孝(幽斎)に味方に付くよう迫るのだが、幽斎は言うことを聞かず、田辺城での籠城戦を始めてしまったため西軍の1万5000人の兵が釘付けとなってしまい、関ヶ原での西軍の数が足りないという結果を招来する。本来は西軍の総大将になるはずだった毛利輝元は「大坂城内に裏切り者がいる」という情報を受け、真偽は定かではないものの大坂城を離れられなくなってしまう(史料には裏切り者として片桐且元らの名前が挙がっている。片桐且元は豊臣家の重臣として大坂冬の陣までは豊臣に忠義を尽くしたが、冬の陣の和睦工作の際に淀殿から「裏切り者」呼ばわりされて城を追い出され、夏の陣では逆に徳川方として大坂城を攻めている)。そこで兵だけ送ろうとしたのだが、今度はそれまで中立の立場を取っていた大津城主の京極高次が突然、徳川方に付き、大津城攻めで足止めをくらい、西軍は関ヶ原で戦う兵士を減らした。一方、東軍も有名な徳川秀忠の遅参などがあり、顔が揃ったというわけでもなかった(現在では秀忠の役目は専ら上田城攻略であり、遅参というわけではなかったという説が有力になっている)。

西軍が東征。まず家康の居城である伏見城を攻める。指月に造られた伏見城は隠居所の居館であったが、慶長の大地震で倒壊後、秀吉は少し離れた木幡山に難攻不落の新たな伏見城を築城する。伏見城の縄張り図も展示されているが、本当にこの通りなのかどうかはわかっていない。ただ東からも西からも攻めにくく、北は東山連峰が連なっているので、攻めるのに時間が掛かる。南方に広がるのは巨椋池であるが、伏見城の大手は南にあり、巨椋池に土橋として掛けられた太閤堤と呼ばれる狭い道を進むしかない。太閤堤の幅はかなり狭かったようであり、進軍中に伏見城の支城である向島城から鉄砲で狙い打ちされたらひとたまりもない。流石は築城の名手・豊臣秀吉の最高傑作である。
結果、西軍は、伏見城に留守居役として残された鳥居元忠の1800騎に対して4万の兵で挑みかかるが、落城まで10日以上を費やし、その間に徳川方に西に戻る余裕を与えてしまう。伏見城の堅固さは三成も熟知していたはずであるが、攻め落とすのにどれほどの時間が掛かるのか計算しきれていなかったようである。三成はあくまで有能な官僚であり、武人ではない。優れた武人だったら伏見城の戦いの最中か終わった後で、「何かおかしいのではないか」と思うはずだが、残念ながら三成は見抜けなかったようである。

大津城の絵図面もある。これも正確なのかどうかわからない。大津城は捕らえられた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の三人が徳川方の武将と対面した場所であるが、その後に廃城となっている。現在の京阪浜大津駅付近に大津城はあったのだが、その北の埋め立て地に現在の大津港があることからもわかるように、琵琶湖を利用した湖上交通の要衝にあり、物資の輸送など経済的な理由で建てられた城であるため、元々戦には向いていなかったのだが、城内が西の長等山からの砲撃射程距離にあったことで、実戦に耐え得ないとして廃された。代わりに近江国内には膳所城と彦根城という二つの名城が築かれた(日本一美しい城といわれた膳所城は明治維新により廃城)。

関ヶ原の戦いというのは妙な戦であり、どちらも敵軍の大将が憎いという理由で味方になった武将が多い。そして、西軍には島津義弘などもいたが、島津義弘は最初は東軍に付いて、鳥居元忠と共に伏見城を守る予定であったが、連絡不行き届き(ということになっている)で鳥居元忠から入城を拒否されたため、成り行きで西軍に付いており、戦意は低かった。西軍の中で本当に戦意があったのは石田三成と島左近を始めとするその家来、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継ぐらいであり、他の武将は積極的に戦おうとはしなかった。大谷吉継は松尾山の下にいたが、本来なら宇喜多秀家の横に並んで福島正則らと戦っているはずの武将が松尾山の下にいて小競り合いをしている。つまり、石田三成も大谷吉継も松尾山山頂という一等地に陣取った小早川秀秋はすでに東軍に寝返っている可能性が高いと気付いており、大谷吉継は三成から「小早川が攻めてきたら防いでくれ」と頼まれていたのであろう。

関ヶ原の戦いの様子をCGで再現された映像があり、島津義弘が一人取り残されて強引に中央突破を図り、成功させたということになっている。ただ、東軍は総大将である徳川家康も含めてどんどん西に進み、最後は笹尾山の三成を追い詰めるために北上している。つまり、正面突破とはいえ、家康もすでに北に向かってしまった戦終盤では島津義弘の前にいた敵は思ったよりも少なかったと思える。本多忠勝も普通に考えれば北上して徳川家康の背後を突かれないような布陣に変えていたはずで、現実的に考えると島津軍が最も生き残りやすいのが敵軍手薄な関ヶ原の南側を正面突破することだったとも思われる。勿論、側面から本多忠勝らの攻撃を受けるとあやうく、実際に多くの将兵が討ち死にしたが、島津義弘が一番南に来るような編成で駆け抜ければ主君である島津義弘の命が助かる可能性は高い。

戦場に総大将である自分が行けないまま敗れた毛利輝元。当初は改易のはずであったが、吉川広家が「自分に与えられる長門国と周防国を毛利家に与え、自身は岩国で分家となりたい」という願いが聞き入れられ、中国地方一帯を領地とする112万石の大大名から、防長二州37万石の中大名への格下げとされ、居城も山陰の僻地である萩にしか認められなかったが毛利氏は存続した。

そんな毛利氏関連の展示であるが、二種類の旗が目を引く。一つは五七桐の入った旗、もう一つは「一文字三つ星」の毛利氏の家紋の上に「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」という二つの文字が縦に入った旗である。

展示数には満足であったが、関ヶ原の戦いに関しては実際に関ヶ原に行ってみないとわからないこともある。私も4年前に実際に関ヶ原に行って、レンタサイクルで回るまでは、関ヶ原がかなりの急勾配であることを知らなかった。西から東の下りは一度もペダルを踏むことなく目的地に着けてしまい、東から西の上りは急すぎてペダルを漕ぐことが出来ず、仕方なく降りて自転車を押しながら歩いたりもした。実はこの急勾配こそが家康が三成を関ヶ原におびき出す罠だったのかも知れない。三成も「関ヶ原なら西に陣した者が圧倒的に有利」と思っただろう。家康が野戦を得意としていることは当然知っていたと思われるが、地の利が逆に三成に油断を与えてしまったようである。

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2017年1月30日 (月)

史の流れに(1) 特別展覧会「坂本龍馬」

2016年11月9日と11月16日 京都国立博物館平成知新館にて

11月9日

京都国立博物館平成知新館で、特別展覧会「坂本龍馬」を観る。没後150年展覧会であるが、没後150年となる2017年に展示が行われるのは、長崎歴史文化博物館、江戸東京博物館と徳川慶喜家のお膝元である静岡市美術館に於いてであり、京都国立博物館での展示は今月中に終わる。

      龍馬の愛刀として知られる陸奥守吉行(坂本家の子孫が北海道に移住し、釧路にいた際に火災に遭ったために磨き直されたものである。刃こぼれがあるが、近江屋事件の時のものか正確には不明であると思われる。なお、坂本家の子孫である坂本弥太郎という元プロ野球選手と同じ名前の人が陸奥守吉行について、西郷吉之助の刀を龍馬が貰ったものだとしている。ただ、龍馬は実兄である坂本権平直方に、西郷経由で家宝の吉行を受け取ってことが書かれているので、坂本弥太郎の誤解であると思われる)や、近江屋で龍馬と中岡慎太郎が襲撃された際に血が飛び散った板倉筑前介(のちの淡海槐堂。説明書きには「板倉槐堂」とあったが、「淡海槐堂」四文字で号なので正確には誤り)の筆による掛け軸(「梅椿図」掛け軸)、同じく猫の部分に血が付着した屏風、坂本龍馬の手紙や三吉慎蔵の日記、芹沢鴨光幹(みつもと)と近藤勇昌宜(まさよし)が鴻池屋に借金した際の証文、永倉新八による「浪士文久報国記事」(芹沢鴨は、「水戸天狗党の出身」と自称していたが永倉の記述には「天狗隊隊長」と記されている)、山内容堂が「松平容堂」「山内土佐守」として出てくる「大政奉還意見書」。海援隊雄魂録(犠牲になった志士の欄に、宮部鼎蔵、橋本左内、頼三樹三郎、吉田寅次郎(松陰)などの名がある)などが展示されている。手紙には漢字書き下し文が付いているものも多く、じっくり読んでいたため、全部見るの約2時間20分を要した。

      龍馬が授けられた北辰一刀流の長刀免許目録(伝・千葉貞吉筆)もある。免許皆伝目録も実在したことは確かなようである。
      土佐上士は神田お玉が池の千葉周作の千葉道場(玄武館)で、土佐下士は千葉周作の弟、千葉貞吉による桶町千葉道場で学んだとされるが、千葉貞吉が道場を開いたのは龍馬が初めて江戸に遊学した時よりも後であり、龍馬は最初は玄武館で剣術を学んだが、千葉周作が亡くなったために千葉貞吉に師を替えたというのが真相に近いようである。
      北辰一刀流の免許目録には、最初に千葉周作の先祖である千葉常胤(平常胤、千葉介常胤)の名が記されており、その後の周作の先祖の名前も連なっている。玄武館で龍馬と同門だった清河八郎(齋藤元司のちに齋藤正明。清河八郎は偽名である)の免許皆伝目録(伝・千葉周作筆)にも同様に千葉常胤以来の千葉氏当主の名前が記されている。

      平成知新館3階は坂本龍馬が創設した亀山社中の地、長崎・亀山で制作された亀山焼きの展示であり、坂本龍馬関連の本格的な展示が行われているのは2階と1階である。亀山焼きの中には、見た目は漆器(JAPAN)だが、実際は陶器(CHINA)という手の込んだものもある。

      長府藩出身で龍馬の用心棒を務めた三吉慎蔵の日記には、寺田屋を襲撃したのは「肥後守ノ上意」を受けた者達との記述があり、松平肥後守容保の命だったという認識があったようだ。当時の伏見奉行もややこしいことに肥後守(林肥後守忠交)だったのだが、三吉慎蔵がそのことを知っていた可能性は低いと思われる。

      龍馬の師である勝海舟関連の展示もあるが、勝海舟は氏は「物部」としていたようである。坂本龍馬のように氏を「紀」としている人も珍しいが、物部氏の人はもっと珍しい。海舟の日記によると文久二年十二月二十九日に千葉重太郎(諱は一胤。因幡鳥取藩剣術指南役)と共に坂本龍馬が会いに来たことが記されている。

      備後・鞆の浦付近で起こった「いろは丸事件」(大洲藩の船を海援隊が借り上げて、「いろは丸」と名付けた船舶に紀州の明光丸が追突、いろは丸が沈没した事件)に関しては、龍馬は紀州藩をなじる記述をしており、「二三回挨拶に来て、頭を下げられたがそれでは済まぬ」「(紀州の対応は)女のいゝぬけのよふ」と怒り心頭に発している。

      龍馬は署名に、「坂本龍馬」、「龍馬」、「坂本龍」、「龍」、「りよふ」、「才谷梅太郎」、「才谷」、「梅」、「坂本直陰」、「直陰」、「坂本直柔(なおなり)」、「直柔」、「大濱涛次郎」、「取巻の抜六」、「自然堂(じねんどう)」など様々な名を使い分けている。「才谷」は坂本家の本家筋の商家・才谷家から取ったものであり、「大濱」は龍馬の先祖が名乗った苗字である。「自然堂」は下関における土佐の定宿で本陣を運営していた豪商・伊藤助太夫(伊藤九三)家の一室から採った、龍馬の号である。

      坂本龍馬は、後藤象二郎のことを一貫して「後藤庄次郎」と記しているが、一通だけ、「藤藤庄次郎」と誤記した手紙がある。また新選組に関しては、近藤勇が龍馬と懇意にしていた永井玄蕃頭尚志と共に広島に行ったということを記した手紙の中で、近藤の名は出さすに「みぶ浪人」という記述を一回だけしている。

11月16日

再び、京都国立博物館で行われている特別展覧会「坂本龍馬」を観る。2度目なので、読み飛ばしたところもあるのだが、それでも必要な展示を見て回るのに、約2時間10分かかった。

      坂本龍馬の先祖についてだが、郷氏となり、坂本を名乗ったのは龍馬の曾祖父である坂本八平直海である。それ以前の記述には、山城国出身で戦火を免れて土佐の才谷村に移り住み、才谷村の字である大濱から大濱姓を名乗ったとある。才谷も大濱も地名なのだが、坂本という苗字がどこから来たのかは不明である。大濱を名乗ったのも偽名として大濱涛次郎を名乗った龍馬だけになっているが、先祖も坂本姓だったかのような細工が行われたためのようである。近江坂本に居城を構えた明智光秀の家臣・明智左馬助秀満(明智光秀の親族である可能性は低いそうだ)の流れというのも先祖の誰かが言い出したことで、まず関係ないとされる。

      展示で気になったのは、「べきである」とされている解釈のある、龍馬の手紙である。龍馬が姪の春猪に宛てた悪口満載の手紙なのであるが、男というのは年下の異性親族にこうした手紙は普通に書くと思われるのだが(逆に年下の異性親族宛以外には書かない内容である)。
      おどけた調子がわかり、字面だけ追ったのとは異なる内容であると思われる。

      武市半平太が、山本琢磨(のちの沢辺琢磨)が時計を盗んだとされる事件について書いた文章もあるのだが、皆、「山本覚馬じゃないのか」という反応である。実は山本琢磨は大河ドラマ「龍馬伝」に出てくるのだが、もう忘れられているようだ(山本琢磨は龍馬の従兄弟であり、のちに函館の聖ハリストス正教会司祭となった人物で、「龍馬伝」では、坂本龍馬が山本琢磨を逃がすシーンがあり、番組の最後の「龍馬紀行」では山本琢磨が紹介された)。

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