カテゴリー「来日団体」の78件の記事

2018年11月 7日 (水)

コンサートの記(449) アラン・ギルバート指揮NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団来日演奏会2018京都

2018年11月1日 京都コンサートホールにて

午後7時から京都コンサートホールで、アラン・ギルバート指揮NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団の来日演奏会を聴く。

この演奏会は、開催に至るまで紆余曲折があった。

ハンザ同盟の盟主として知られたハンブルクのオーケストラであるNDRエルプフィルハーモニー管弦楽団。北ドイツ放送交響楽団時代にギュンター・ヴァントの手兵として知名度を上げたNDRエルプフィルハーモニー管弦楽団。初代首席指揮者は、ベートーヴェンなどの名演で知られたハンス・シュミット=イッセルシュテットである。近年は、ヴァントの時代を経て、ジョン=エリオット・ガーディナーが音楽監督に就任するが、古楽出身のガーディナーは自身が創設したイングリッシュ・バロック・ソロイスツなどとの演奏を優先させたため、名誉指揮者となったヴァントが引き続き事実上のトップとして君臨、その後にヘルベルト・ブロムシュテットが音楽監督となるが、ブロムシュテットはライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスター就任を決め、3年契約のはずが2年で終了と、トップに恵まれない時期もあった。
クリストフ・エッシェンバッハ、クリストフ・フォン・ドホナーニの時代を経て、トーマス・ヘンゲルブロックが首席指揮者に就任すると現代音楽の演奏などで注目を浴びている。今回の来日演奏会も当初はトーマス・ヘンゲルブロックが指揮する予定であったが、同楽団の首席客演指揮者を務め、時期首席指揮者に就任することが決まったアラン・ギルバートとの組み合わせに変更になっている。

今回の来日ツアーには、エレーヌ・グリモーがピアノ独奏者として同行する予定であったが、グリモーが右肩の故障で来日不可となり、ルドルフ・ブッフビンダーが急遽代役を務めることとなった。


曲目は、ワーグナーの楽劇「ローエングリン」より第1幕への前奏曲。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(ピアノ独奏:ルドルフ・ブッフビンダー)、ブラームスの交響曲第4番。

ハンブルクが生んだ作曲家であるブラームスの作品をメインに置く、ドイツの王道プログラム。

日本でもお馴染みとなったアラン・ギルバート。日米ハーフの指揮者である。ニューヨーク・フィルハーモニックのヴァイオリン奏者を両親に持ち、ハーバード大学、ニューイングランド音楽院、ジュリアード音楽院、カーティス音楽院といった米東海岸最高レベルの音楽教育機関でヴァイオリン、作曲、指揮を学んでいる。2009年から2017年まで、かつて両親が在籍していたニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督を務めている。
日本ではまずNHK交響楽団への客演で名を知られるようになり、今年からは東京都交響楽団の首席客演指揮者に就任している。


弦楽はヴァイオリン両翼の古典配置を採用していたが、特にブラームスに於いてこの配置が功を奏する。

今日の公演はコンサートマスターが交代制で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番だけ白髪が特徴の奏者がコンサートマスターを務める。


ワーグナーの楽劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲。繊細で輝かしい弦楽のテクスチュアが見事であり、「神宿るワーグナー」という言葉が浮かぶ。
日本のオーケストラも技術の向上が著しいが、流石に現時点ではここまでの音は出せない。


ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
ソリストのブッフビンダーは、細部まで設計の行き届いたピアノを深々とした音で歌い上げる。深さと奥行きのある音は、ヨーロッパの以外には余り聴かれないものである。
ギルバート指揮のNDRエルプフィルは、躍動感溢れる伴奏を展開。特に第3楽章終結部では、アメリカの指揮者ということもあってロックのようなノリノリのテイストで聴かせる。それでいて安っぽくないのがギルバートとNDRエルプフィルの良さである。

ブッフビンダーのアンコール演奏は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第18番より第2楽章。ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスと受け継がれるウィーン情緒を前面に出した演奏であり、格調高くも軽快な響きが印象的である。


メインであるブラームスの交響曲第4番。ギルバートは第1楽章の冒頭を揺らすように歌い、繊細さ、悲哀感、堅固な構造力、旋律の美しさの全てを1本の指揮棒で浮かび上がらせる。

とにかくNDRエルプフィルハーモニー管弦楽団の巧さが目立つ演奏であり、北ドイツのオーケストラらしく縦の線をきっちりと合わせながら切れ味の鋭い高い合奏力を聴かせる。ギルバートも指揮していてさぞ気持ちが良いだろう。
技巧面においては世界でも最高レベルであると思われ、音楽性においてもトップレベルを伺うだけの実力はある。
ブラームスの交響曲第4番は人気曲であるだけに演奏会で取り上げられる機会も多いが、この曲の凄さを表したという意味においては今日の演奏が第一席に挙げられると思う。快演だった。


アンコール演奏は2曲。
まずは、ブラームスの「ハンガリー舞曲」第6番。ギルバートらしいノリの良い演奏である。

最後の演目。オーケストラがドビュッシーの交響詩「海」を模した序奏を奏で、「浜辺の歌」の旋律が現れる。日本の楽曲ということで、客席からも拍手が起こる。それにしても凝った旋律である。誰が編曲したのか知りたくなる。
日本人の血を半分引くギルバート。日本的な抒情を存分に歌い上げた演奏となった。

とても良い気分で京都コンサートホールを後にする。


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2018年10月22日 (月)

京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2018 セシリア・ペンゴレア&フランソワ・シェニョー 「DUB LOVE」

2018年10月18日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて

午後8時から、ロームシアター京都ノースホールで、京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2018 セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョーの「DUB LOVE」を観る。

セシリア・ベンゴレアとフランソワ・シェニョーはフランスのパリを拠点に活動しているダンサー兼振付家である。先日、ロームシアター京都サウスホールで公演を行ったロレーヌ国立バレエ団の「トリプルビル」第1作目「DEVOTED」の振付も担当している。

コンセプト:セシリア・ベンゴレア、アナ・ピ、フランソワ・シェニョー。構成・出演:セシリア・ベンゴレア、フランソワ・シェニョー、アレックス・マグラー(役割構成:アナ・ピ)。ヒップホッフ振付コラボレーション:アンジェ・クエ。ダブルプレートプレーヤー:DJ High Elements。

ジャマイカの音楽に乗せて行われるコンテンポラリーダンスである。
タイトルにもある「DUB」というのはレゲエの音響加工技術だそうで、様々な音を加工する。
1950年代のジャマイカで興り、60年代にはスカ(東京スカパラダイスオーケストラでも知られる裏打ちの高速テンポを特徴とする音楽)の要素も取り入れて、その後もロックやミニマルの影響を受けつつ発展したという。


上手側に鏡が張られており、下手から照明を照らすことで、反射した光が下手の壁に影を作る。舞台上のダンサー、上手の鏡像、下手の影の3つが平行して進む形になる。

8分の6拍子の音に合わせてまずフランソワ・シェニョーが登場。 2番手がアレックス・マグラー、ラストがセシリア・ベンゴレアという順に登場。
思い思いの振りで踊った後で、同じ仕草で踊り始める。

その後、3人とも爪先立ちでバランスを取った後で、3人が肩を組み、しゃがんで右足を上げたり、男性ダンサー2人の支えで、セシリアが上体を反らせつつ移動したりするなど、バランスの芸が行われる。

バランスを取るには相手に合わせる必要があるため、この時点で「愛」である。

ちょっとした休憩タイムの水入り後で、3人のダンサーがDJに合わせて歌う。メロディーよりリズム優先で、即興性に富む。

その後も、4分の4拍子のスカのリズムに合わせてダンスが行われ、やがてスカが後退すると全員同じ振付になり、バランス芸が再び現れた後で、爪先立ちで肩を組んだ3人がソロリソロリと退場して終わる。あたかも鏡像のように、あるいはバッハの音楽のように遡行されて。


描いているものはシンプルなのであるが、演劇にしろ音楽にしろ映画にしろ、単純なものを単純に描くのは案外難しい。その点、コンテンポラリーダンスは簡単なものを簡単に表現することに長けている。それがダンスの強みでもある。

今日は満員札止めの観客がDJも含めた4人を大いに称えた。



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2018年10月21日 (日)

観劇感想精選(262) 京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2018 ウースターグループ 「タウンホール事件」

2018年10月14日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から京都芸術劇場春秋座で、ニューヨークの前衛劇団であるウースターグループの「タウンホール事件」(クリス・ヘジダスとD・A・ペネベイガーによる映画「タウン・ブラッディ・ホール」に基づく)を観る。英語上演日本語字幕付。上演時間約65分の中編である。演出:エリザベス・ルコンプト。

1971年にニューヨークのタウンホールで行われたフェミニズムのためのパネルディスカッションの様子を収めたドキュメンタリー映画「タウン・ブラッディ・ホール」の映像を流しながら演劇も同時に上演される。

開演の15分前開場であったが、開演するまでの間、ヘッドホンを装着した若いアジア系スタッフ役の若い女性が舞台と客席の間をうろうろするなど臨場感を演出している。

パネルディスカッション(討論会)出席者の後ろにモニターがあり、そこに1971年のタウンホール内での模様が映し出される。

1971年の討論会に出席したのは、自称フェミニストだが実際は男性至上主義的なノンフィクション作家、ノーマン・メイラー、ウーマン・リブ運動の王道を行くような思想の持ち主である作家のジャーメイン・グリア、レズビアンである作家のジル・ジョンストン、女性という言葉で一括りにされるのを嫌う文芸評論家のダイアナ・トリリングらである。

今回の上演では、アリ・フリアコスとスコット・シェパードという二人の男優がノーマン・メイラーを交互に演じる。どちらかが出演出来なくなる可能性を考えて、二人に台本を送ったのだが、二人とも出演可能になったため二人一役にしたそうである。もっとも、男優一人対複数の女優という構図にした場合、誤解を招く恐れもあったため男優二人システムを採用したとも考えられる。男優二人が取っ組み合いの喧嘩をする挿話(ノーマン・メイラーが手掛けた映画のワンシーンらしい)を入れているが、これも男優二人でないと成立しないことだろう。

女性達はウーマン・リブだのフェミニズムだので一括りにされがちだが、主張や立場はそれぞれ異なる。

芝居はまずジルの一人語りで始まるのだが、これはジルが書いた『レズビアン・ネーション』に出てくるタウンホールでの討論会の記憶に忠実に基づいているようだ。ジルは自分がいかにアピール出来るかに掛けており、最初から場の空気を乱す気満々である。
「女は全員レズビアンだ」という主張を繰り広げる。

ジャーメイン・グリアは『去勢された女』という本で成功を収めたのだが、彼女を引き立てようとしたのが他ならぬノーマン・メイラーだったようである。
男性の詩人と女性の詩人を比較し、男性詩人はその活動が名誉に繋がるが、女性詩人の場合は逆に男性から敬遠されるということで、成功する女性詩人が生まれるためには女性の立場の向上が必須であると考えている。
また女は聖女か侍女のどちらかにしかなれないことを問題視している。

ノーマン・メイラーは、女性の人権を認めてはいるが、それは天賦のものではないと考えているようで、「努力で勝ち取るべき」としている。

ダイアナ・トリリングを演じているのは男優のグレッグ・マーテン。ダイアナは、オーガズムが一人一人違うように同じ女性でも思想が個々に異なるとして、安易に女性の立場を代表するようなスタンスを取ってはならないと考えている。また彼女は左翼思想の持ち主だが、ノーマンは「左翼全体主義は地獄」と考えており、思想面でまず対立している。

俳優のみが見られるモニターが3つほどあり、そこに流れる映像や字幕、俳優がつけているイヤホンなどを通して聞こえるセリフなどの情報の中から俳優が適宜選択をして表現していくという手法を取っている。効果的なのかどうかは見た限りでは判然としない。
ドキュメンタリー映画の映像と目の前にいる俳優が同じ仕草をしたり、声が重なったりするのは視覚的には面白いが、それだけといえばそれだけのような気がする。今目の前で起こっているという感覚にはどうしてもなれなかった。


この作品は基本的にジルの視点を主体に描かれており、女対男、女対女、急進派対伝統主義の構図で争いが起こってる間にもジルは女性同士で愛し合うなど、一人だけ上のステージにいるような立場にあるのは当然ともいえる。ジルにだけは自己愛でない愛があるようだ。実際にどうだったのかはわからないが。

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パネルディスカッション「About The Wooster Group」@ロームシアター京都

2018年10月8日 ロームシアター京都3階共通ロビーにて

午前11時から、ロームシアター京都3階共通ロビーで、パネルディスカッション「About The Wooster Group」に参加する。今週末に京都芸術劇場春秋座で上演される京都国際舞台芸術祭「タウンホール事件」のプレイベントである。事前申し込み制無料。

午前10時10分頃にロームシアターに到着し、今後の公演のチケットを受け取ってから、3階にあるミュージックサロンへ。今日は新国立劇場オペラの映像が流れている。


「About The Worcester group」の出演者は、ウースターグループの創設者であるエリザベス・ルコンプトと創設メンバーのケイト・ヴァルク。モデレーターは、パフォーマンス研究者・劇評家の内野儀(ただし)。

ウースターグループは、1975年創設のアメリカ・ニューヨークのパフォーマンス団体。独自の演劇観を持った作品を上演し続けている.

「タウンホール事件」は、1971年にニューヨークのタウンホールで行われたウーマン・リブの討論会での騒動を記録した映画「タウン・ブラッディ・ホール」の映像を使いながら行うパフォーマンスである。


インターネットで申し込みをした人にはパスワードが送付され、ウースターグループが配信している映像を見ることが出来る。
ただ、未見の人のことを考えて、最初の20分間は、同じ映像をモニターで視聴することに費やす。

まずは、2004年に上演された「Poor Theater」という作品について。この作品から、デジタル技術が本格的に導入され、ドキュメンタリー映像の編集速度が格段に速くなったため、表現が広がったという。グロトフスキーの「アクロポリス」を題材にしたものだが、過去の様々な映像を鏤められるようになったそうだ。

ウースターグループの俳優達は、事前に台本を読んでセリフを暗記してくるのだが、上演中にイヤホンから流れてくるセリフを耳にしながら、イヤホンの声をなぞるかなぞらないかの選択から始まり、流れてくる声の抑揚に近づけるか否かといった選択肢をその場その場で選ぶという即興性が重視されているようである。今では演者のみが見ることの出来るモニターも使用しているそうで、動きに関しても選択が行われるようである(「チャネリング」や「トランスダクティング」と呼ばれるようだ)。
日本にも書道などで同じ字を何度も練習して身につける技法があるが(型のことのようである)それに通じるものがあるという。

「ハムレット」を上演したときには、リチャード・バートン主演の映画「ハムレット」を流し、ハムレット役の俳優がバートンに近づけるのか近づかないのかという試みを行ったという。

その他、コンテンポラリーダンスの鬼才、ウィリアム・フォーサイスの動きを研究したり、西部劇などの影響を受けながらモダリティ(即興技術)の表現を拡げる試みを行ったそうだ。

またテレビの模倣も取り入れ、映像では可能な一回でそれそのものに成り切る表現(舞台の場合は稽古を重ねる必要があるので不可能である)を追求し、その場その場で「ゲームのように」「ノンロジカル」な取捨選択を行うという。その場で流れる映像や音声であるが、稽古場で録られたものが任意に選ばれるそうで、そのために稽古の模様は全て録画しているそうである。
勿論、稽古場でNGを出すこともあるのだが、これは「神聖な事故」(なんかジャン・コクトーみたいだな)として採用テイクに加えることもあるという。
意識と動きを乖離させる行為は、岡田利規とニューヨークで一緒に仕事をしたときに興味を覚えて取り入れたそうである。

テクノロジーとニューメディアアートの導入については、虚仮威しの意図は全くない。
最初は、エリザベスは学生時代には演劇に特に興味を持っていたわけではなく、共にウースターグループを立ち上げたスポルティング・グレイが、母の自殺をきっかけに、父親や祖母へのインタビューを試みて、視覚と聴覚のデザイニングを行い、作品にまとめ上げたことに端を発するという。
スタニスラフスキーやストラスバーグのリアリズム演劇と違った「奇妙さ」を追求した結果だそうだ。
アジアの演劇、能などがそうだが、西洋の演劇とは焦点の置き方が異なっており、目の前にいない人に話しかけることがる。それを理解してかみ砕くためにも映像やメディアを使うことが有効だそうだ。

ヨーロッパの男性演出家は、一般にだが、台本を理詰めで読み解き、理屈で演出を構築することが多い。ただ、「タウンホール事件」の演出はそれとは異なり、解釈は行わず、そこにあったことだけを再現するよう努めたそうだ。「タウンホール事件」に関してはウースターグループのモーラ・ティアニーの提言によってプロジェクトとして進められたものだが、最初はケイトなどは「タウン・ブラッディ・ホール」を舞台化することに難色を示したそうである。ただ当初取り上げる予定だったハロルド・ピンター作品の上演がボツになってしまったことで、「やりたい」という気持ちになって作り上げたという。

アジア系の学生から何人か質問があったが、Me too運動などが起こったから「タウンホール事件」を上演するのではなく、「タウンホール事件」のプロジェクトがスタートしてしばらくしてからMe too運動が盛り上がってきたのだそうで、シンクロシティのようなものかも知れないが、ウースターグループとしては「やりたいものをやる」を信条としており、時代に流されたりはしないそうである。

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2018年10月18日 (木)

観劇感想精選(260) アルテ・エ・サルーテ 「マラー/サド」@クリエート浜松

2018年10月11日 浜松市のクリート浜松 ホールにて観劇

午後5時30分から、クリエート浜松のホールで、アルテ・エ・サルーテの「マラー/サド(原題は「マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院の患者たちによって演じられらジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」)」を観る。フランス革命時のジャコバン派首領であるジャン=ポール・マラーと、サディズムの語源として知られ、後世に多大な影響を与えたマルキ・ド・サド(サド侯爵)を軸にした芝居である。

アルテ・エ・サルーテは、浜松市の音楽文化交流都市であるイタリア・ボローニャに拠点を置く非営利協会。エミリア・ロマーニャ州立地域保健機構ボローニャ精神保険局の精神障害者80名以上が通っており、そのうち41名がプロの俳優として、散文劇団(コンパニィア・ディ・プローザ、児童向け劇団(コンパニィア・ディ・テアトロ・ラガッツィ)、人形劇団(テアトロ・ディ・フィーグラ)、精神を題材とした放送局であるサイコラジオに所属している。
今回来日したのは散文劇団のメンバーである。2000年の創設で、ボローニャに本拠を置く劇団としては最古参になるという。

イタリアからはエミリア・ロマーニャ州の州知事代理やアルテ・エ・サルーテの主治医が同行しており、上演前にスピーチを行う。イタリア語通訳の方が頼りなく、州知事代理の方が遠州方言である「やらまいか」を観客達とやりたいと申し出るも上手く通じる、バラバラになってしまう。スタッフも演劇上演には明らかに慣れていないが、地方都市であるだけにこれは仕方がない。

今回の浜松上演は、静岡文化芸術大学の名誉教授&理事で、イタリア語・イタリア演劇を専門とする高田和文の招聘によって実現したものであり、高田氏が真っ先にスピーチを行った。

舞台後方の白い壁には、「じゆう」「障害はあるけど奴隷じゃない!」「革命しよう 拘束反対」「自由 平等 友愛」「マラー万歳!」といった言葉が赤と青の文字で記されている。


「マラー/サド」。作:ペーター・ヴァイス。脚色・演出:ナンニ・ガレッラ。オリジナル音楽:サヴェルオ・ヴィータ。制作はエミリア・ロマーニャ演劇財団、NPOアルテ・エ・サルーテ、エミリア・ロマーニャ州立ボローニャ地域保健連合機構精神保険局。
1964年に初演が行われたドイツ演劇作品で、1967年にはピーター・ブルックによって映画化されている。

イタリアには1978年まで精神科の閉鎖病棟があり、多くの人がそこに強制入院させられていたが、今ではそうした押し込め型の精神病院はなくなっているという。


シャラントン精神病院に収監されたマルキ・ド・サド(演出であるナンニ・ガレッラが演じている)が、患者達を使ってマラーの人生を描いた芝居を上演する模様を上演するいう劇中劇の入れ子構造になっている。

出演は、布告役(口上役。劇中劇では窃盗罪と境界例があるという設定):ミルコ・ナンニ、サド侯爵(ここには殺人の罪で入っている。偏執狂の持ち主):ナンニ・ガレッラ、ジャン=ポール・マラー(過激派、妄想型統合失調症):モリーノ・リモンディ、シャルロット・コルデー(嬰児殺人罪、躁鬱病、ナルコレプシー):ロベルタ・ディステファノ、シモンヌ・エヴラール(家庭虐待、ヒステリー):パメラ・ジャンナージ、デュペレ(強制性交等、錯乱性色情症):ロベルト・リジィ、ジャンヌ・ルー(破壊行為、誇大妄想症虚言癖):ルーチォ・パラッツィ、ロッシニュール(売春、強迫性窃盗症):イレーオ・マッツェティ、キュキュリュキュ(放火魔):増川ねてる 、ポルポック(麻薬密売、強迫症):デボラ・クインタバッレ、ココル(麻薬常用、境界例):ルカ・ファルミーカ、患者1(殺人により強制措置):ファビオ・モリナーリ、患者2:ニコラ・ベルティ、女医(医院長):マリア・ローザ・ラットーニ、看護士:ロレッタ・ベッキエッティ&カテリーナ・トロッタ、看守:ダビデ・カポンチェッリ。


まず、医院長からの挨拶で芝居が始まる。舞台は鉄格子の向こうであるが、医院長だけは客席側に出て、芝居を観る(これも演技の内)ことが出来る。クリエート浜松ではなく、シャラントン精神病院での院内上演という設定で、観に来ているのも同じ入院患者として劇の紹介を行う。

フランス革命直後のフランス。貴族階級が否定され、この世の春を謳歌していた貴族達は次々とギロチン送りにされている。庶民達は自分達の時代を築こうとしているが、そちらの方は順調には進んでいない。血気盛んな庶民達は自由を望み、決起を、というところで医院長からストップが掛かる。「熱くなりすぎる! もっと冷静に」との注文を受けて芝居再開。

多数の貴族をギロチン送りにしているマラー。だが重度の皮膚病に苦しみ、症状を和らげるために常に浴槽に水を張って浸かっていないと症状が悪化してしまう。身の回りのことは家政婦のシモンヌに全て任せていた。
理想に燃えるマラーであるが、浴槽に幽閉されたような状態である。

パリに出てきたばかりのカーン出身の少女がマラーの命を狙っている。シャルロット・コルデー。後に「暗殺の天使」として世界に知られることになる下級貴族出身のこの女性も閉鎖的な修道院から出たばかりで、自由と理想を追求していた。
ちなみにコルデー役の女優さんが一番症状が重いという設定であり、常に眠気に襲われている上に重篤な鬱状態ということで、自分の出番が来るまでは看護士の膝を枕にして眠っている。
シャルロットは1日に3度、マラーを訪問し、3度目に刺し殺すのであるが、気が昂ぶったシャルロッテは最初の訪問でいきなりマラーを殺そうとしてサドから注意を受ける。

反体制派のマラーと貴族階級出身のサドの意見は対立する。このマラーとサドのディベートが一つの軸になっている。
サドは自然を嫌う。自然は偉大なる傍観者、弱者が滅びるのを観察しているだけ。あたかも「沈黙の神」に対するかのような姿勢だ。一方のマラーは自然がもたらすことには意味があり、それを超克したいという希望がある(西洋においては自然の対語が芸術である)。

マラーは急速に革命を推し進めようとするが、サドに革命が起こっても何も変わっていないと指摘される。下層階級は革命の前も後も苦しみのただ中にいると。

マラーを支持する下層階級のグループは自分達の改革の邪魔になりそうな人物の名を挙げて、血祭りに上げようと騒ぐ。ラファイエットやビュゾー、ロベスピエールの名が挙がるが、そのうちに医院長や医師の名前が挙がったため医院長に芝居を止められる。そもそもカットされたはずの部分が上演されてしまっていたらしい。

マラーは貴族階級を憎み、下層階級に与えられた苦しみに比べれば、貴族階級の苦悩などまだまだ浅いと考えており……。

音楽が流れ、歌い、隊列を作って行進しと様々な要素を取り入れた芝居である。
イタリアでは1978年にバザーリア法により精神病院と閉鎖病棟の制度は廃止されたが、日本では精神障害者のうち重度の患者は何十年にも渡って精神病院に閉じ込められているという現実がある。そこに精神障害者の自由はない。
登場人物の多くも幽閉されている。現実の精神病院にだけではなく、あるいは病気に、あるいは階級に、あるいは年齢に、あるいは修道院に代表される宗教に。

芝居は、コルデーが意識の解放を遂げた後で、フランス国歌にしてフランス革命歌「ラ・マルセイエーズ」を全員で歌って終わる。「marchons,marchons(進め! 進め!)」の部分を「マラー、マラー」に変えられ、その後の歌詞もマラーへの応援歌となり、「障害はあるけど奴隷じゃない!」と希望を望む言葉で締めくくられる。

最後は、「ラ・マルセイエーズ」をファンファーレとして使用したビートルズの「愛こそはすべて(All you need is love)」が流れる中を出演者が踊って大いに盛り上がる。
「自由」そして「解放」を訴える芝居だけあって、革命期の高揚を伴う展開に説得力があり、病気や環境によって真に抑圧されてきた経験のある俳優が演じているだけあってオーバーラップの効果は大変なものである。
ラストの選曲も実に上手かった。


芝居の上演の後に、ティーチインのようなものがあり、浜松市内のみならず日本全国から集まった当事者、医療関係者によって様々な質問がなされ、演出家のナンニ・ガレッラや劇団員達が答えていた。


精神障害者が精神障害から完全に抜け出る日は、あるいは来ないのかも知れない。来るとしてもまだまだ先なのかも知れない。ただ、演じることで苦しみのある現実から一瞬でも抜け出すことは可能であるように思われる。自分ではない他者として生きる経験を持つということ。この点において演劇は有効だ。



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2018年10月16日 (火)

コンサートの記(437) フォーレ四重奏団来日演奏会2018大津

2018年10月7日 びわ湖ホール小ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール小ホールでフォーレ四重奏団の来日演奏会を弾く。

フォーレを名乗っているが、ドイツ・カールスルーエ音楽大学出身者のドイツ人達によって結成された団体であり、弦楽四重奏団ではなくピアノ四重奏団である。常設のピアノ四重奏団は世界的にもかなり珍しい。

マルタ・アルゲリッチを始めとする多くの音楽家から高く評価されており、2006年には名門ドイツ・グラモフォン・レーベルと契約し、リリースしたCDはいずれも好評を得ている。

メンバーは、エリカ・ゲルトゼッツアー(ヴァイオリン)、サーシャ・フレンブリング(ヴィオラ)、コンスタンティン・ハイドリッヒ(チェロ)、ディルク・モメルツ(ピアノ)。

曲目は、フォーレのピアノ四重奏曲第1番、シューマンのピアノ四重奏曲変ホ長調、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(グレゴリー・グルズマン&フォーレ四重奏団編曲)。

びわ湖ホールは大ホールにも中ホールにも何度も来ているが、小ホールに入る機会は余り多くない。幸田浩子のソプラノリサイタルと、平田オリザやペーター・コンヴィチュニーが参加したオペラに関するシンポジウムで訪れたことがある程度である。

フォーレのピアノ四重奏曲第1番。フォーレ四重奏団が自らの団体名に選んだ作曲家であり、思い入れも強いと思われる。
ディルク・モメルツのフォーレによくあったピアノの響きが印象的である。フォーレというと「ノーブル」という言葉が最も似合う作曲家の一人であるが、それ以外の影の濃さなども当然ながら持ち合わせている。フォーレ四重奏団は音の輪郭がシャープであり、音楽の核心を炙り出す怜悧さを持っているが、アルバン・ベルク・カルテットに4年間師事していたそうで、「道理で」と納得がいく。

シューマンのピアノ四重奏曲変ホ長調。ノスタルジックな曲調であり、フォーレ四重奏団の叙情味溢れる演奏を行う。ヴァイオリンとヴィオラがハーディ・ガーディを模したような音型を奏でるところがあるのだが、少年時代の憧れが蘇ったような、なんともいえない気持ちになる。

メインであるムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」。ピアノ奏者のディルク・モメルツが、師であるグレゴリー・グルズマンによる同曲のピアノ三重奏版を再編曲したものである。
ピアノのパートもムソルグスキーの原曲とは異なるが、かなり意欲的な編曲となっている。ピアノ独奏による「プロムナード」が雄々しく奏でられ、「こんなに意気揚々と美術館に向かう人などいるのだろか?」と思うが、ある意味、自身の編曲に対する自信の表れなのであろう。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロなどが一音ずつ奏でられたり、ピッチカートの多用、コルレーニョ奏法、ヴァイオリンをミュートにしてのノンビブラート演奏で奏でることで弦楽器らしからぬ響きを出させるなど、特異奏法やヴィルトゥオーゾ的要素、諧謔精神に富んだものとなっている。時代が変わったということもあり、クラシック界でも音楽だけでなくユーモアの精神などで楽しませることの出来る人が多くなった。良い傾向であると思う。頑固な職人タイプの音楽家には逆に生きにくい時代かも知れないけれど

アンコール演奏。まずはフーベルト作曲の「フォーレタンゴ」。弦を強く止めることでギロような音を出すという特殊奏法が用いられている。演奏もノリノリである。

最後は、N.E.R.Oの「ワンダフルプレイス」。チェロのコンスタンティン・ハイドリッヒが英語で客席に話しかけ、口笛で演奏に加わることを聴衆に求める。まずフォーレ四重奏団が4小節ほどの短いメロディーを奏で、聴衆に口笛で吹いて貰う。ハイドリッヒは「僕が左足を上げたら口笛スタートでもう一度左足を上げたらストップね」ということで演奏スタート。私も口笛は得意なので参加。吹けない人は当然ながら聴くことしか出来ない。ハイドリッヒが左足を上げて、聴衆の口笛スタート。良い感じである。ハイドリッヒがもう一度左足を上げて口笛ストップ。良い感じである、と思ったが、なぜか一人だけ吹き続ける人がいて、ハイドリッヒも苦笑いである。終盤になるとハイドリッヒがマイクを持ってボイスパーカッションも披露。ラストは聴衆達の口笛を何度もリピートさせて終わる。

とても楽しいコンサートであった。



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2018年9月22日 (土)

コンサートの記(426) 吉田裕史指揮ボローニャフィルハーモニー管弦楽団特別演奏会@京都コンサートホール2018

2018年9月10日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールでボローニャフィルハーモニー管弦楽団の特別演奏会を聴く。指揮はボローニャフィルハーモニー管弦楽団芸術監督の吉田裕史(ひろふみ)。

北海道生まれ、千葉県育ちの吉田裕史。市川市にある千葉県立国府台高校を卒業後、東京音楽大学と同研究科で指揮を広上淳一らに師事し、ウィーン国立大学のマスターコースではハンス・グラーフらに師事してディプロマを取得。イタリア・シエナのキジアーナ音楽院でも学んでいる。ドイツやスウェーデンの歌劇場でも研鑽を積んでいるが、21世紀に入ってからはイタリアの歌劇場を中心とした活動を続けている。

昨年も同じ時期に京都コンサートホールでの演奏会を吉田の指揮で行っているボローニャフィルハーモニー管弦楽団。ボローニャ市立歌劇場管弦楽団のメンバーから構成されている。現在、名古屋城本丸天守前での「トスカ」野外上演を行っており、上演の合間を縫って京都にやって来ている。京都へは名鉄バスに乗って移動して来たようだ。

明治150年と京都府庁開庁150年を記念した演奏会。曲目は、第1部がオール・ロッシーニ・プログラムで、「泥棒かささぎ」序曲、「絹のはしご」序曲、「マティルデ・ディ・シャブラン」序曲、「ウィリアム・テル」序曲、第2部がプッチーニのオペラ「トスカ」ハイライトである。

ドイツ式の現代配置での演奏。ボローニャフィルは昨年もコンサートの前半にオーケストラ曲を演奏しているが、アンサンブルの精度や魅力は今ひとつであった。
今回も「泥棒かささぎ」序曲の冒頭ではスケールが小さいように感じられたが、徐々に調子を上げていく。管楽器はソロの技術が高い。ただユニゾンやハーモニーになると何故か雑になってしまう。イタリア人には個人プレーの方が合っているのかも知れない。弦の上品さと管の抜けの良さは昨年の演奏では聴けなかったもので、やはりボローニャ出身であるロッシーニの楽曲には思い入れがあるのであろう。
「マティルデ・ディ・シャブラン」序曲は聴き慣れない曲だが、吉田の発言によると、今回がおそらく日本初演になるだろうとのことだった。

第2部のオペラ「トスカ」ハイライト。現在、名古屋で上演を続けているということもあってか、第1部とは音への敏感さや反応が違う。しなやかに歌い、情熱的に盛り上がる。オペラの序曲よりもオペラ本編の演奏の方を何倍も得意としているようだ。

まず、ソプラノのアマリッリ・ニッツァとバリトンのジョヴァンニ・メオーニによるデュオ「マリオ、マリオ、マリオ」。ステージ前方で演技をつけながら歌う。
京都コンサートホールの特性なのか、ソプラノの張り上げた声は余り響かない。ピアニシモは通るのだが、オペラ的発声には向いていないようである。

テノールのカルロ・ヴェントレの独唱による「テ・デウム」。ヴェントレは南米ウルグアイ出身で、新国立劇場オペラの常連でもあるそうだ。良い歌い手である。

アマリッリ・ニッツァの独唱による「歌に生き愛に行き」。やや線の細さはあるが、透明感のある安定した歌声で聴かせる。

ジョヴァンニ・メオーニ独唱による「星は光ぬ」。ドラマティックで熱のこもった歌声であり、「見事」であった。

演奏終了後に、吉田がマイクを片手に登場。「イタリアではアンコールをやるかどうかを最初から決めているわけではないんです。お客さんの反応が良かった時だけ、アンコールを、BISというのですが、それでは」「恐ろしく美しい曲、天国的に美しい曲です。おそらく日本初演になると思います。マルトゥッチという作曲家の『夜曲』という曲を」
マルトゥッチの「夜曲」は叙情的且つ繊細な作風で、秋の空のような高雅さを持っている。演奏も匂うような上品さを保っていた。

ラストは、ボローニャ出身のロッシーニの曲をボローニャ出身のレスピーギが編曲したという「風変わりな店」より“タランテラ”。吉田は演奏前に「浅田真央ちゃんが使って有名になった曲」と事前に説明を行う。イタリアの情熱的な舞曲を指す言葉である「タランテラ」(毒蜘蛛のタランチュラと語源が一緒である)。イタリア南部の熱気が溢れ出すような曲と演奏であった。

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2018年9月15日 (土)

コンサートの記(423) 吉田裕史指揮ボローニャフィルハーモニー管弦楽団特別演奏会2017@京都コンサートホール

2017年9月8日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、Kyoto Opera Festival 2017 ボローニャフィルハーモニー管弦楽団特別演奏会を聴く。指揮はボローニャフィルハーモニー管弦楽団芸術監督およびボローニャ歌劇場首席客演指揮者の吉田浩史(よしだ・ひろふみ)。

ボローニャを州都とするイタリア・エミリア・ロマーニャ州と京都府が交流を深めているそうで、今年7月に山田啓二京都府知事の親書を携えた「響の都オペラの祭典」財団一行ががエミリア・ロマーニャ州を訪問し、エミリア・ロマーニャ州知事やボローニャ工業会会長、ボローニャ大学学長らと会談したという。ということで開演前の挨拶では山田啓二知事もステージに上がり、スピーチを行った。山田知事によるとボローニャ市とエミリア・ロマーニャ州は、映画産業、自動車などの製造業、食産業が盛んで、大学都市でもあるということで京都市や京都府と共通点が多いという。
来年はエミリア・ロマーニャ州の行政・産業・大学関係者らが京都府を訪問する予定だという(後記:予定が1年延びたようである)。
私の出身地である千葉県はアメリカのウィスコンシン州と姉妹県州の関係を結んでいるが、京都府もエミリア・ロマーニャ州と姉妹関係になれれば色々な意味で嬉しい。

指揮者の吉田浩史は、1968年生まれの中堅。東京音楽大学指揮科および同研究科を修了後、ウィーン国立音楽大学マスターコースでディプロマを取得。イタリア・シエナのキジアーナ音楽院マスターコースでも学ぶ。2010年にイタリアのマントヴァ歌劇場の音楽監督に就任。2014年にボローニャフィルハーモニー管弦楽団の芸術監督となっている。ボローニャフィルとの来日では、京都国立博物館野外ステージで歌劇「道化師」を、奈良の平城宮で歌劇「トゥーランドット」を上演している。

曲目はいくつか変更になっており、第1部がヴェルディの歌劇「ナブッコ」序曲、ジョルダーノの歌劇「フェードラ」間奏曲、プッチーニの交響的前奏曲、ヴェルディの歌劇「椿姫」前奏曲、ヴェルディの歌劇「オテロ」よりバレエ音楽。第2部が「椿姫」よりハイライトとなっている。

ドイツ式の現代配置での演奏。コンサートマスターは第1部と第2部で異なる。

クラシック音楽の祖国であり、多くの名指揮者、演奏家、歌手を生んできたイタリアであるが、ことオーケストラとなると「名門オーケストラはあるが一流オーケストラは存在しない」という状態。ローマ聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団やミラノ・スカラ座管弦楽団(スカラ・フィルハーモニー管弦楽団)は紛う事なき名門であるが、世界的な一流団体と認識する人はほとんどいないと思われる。
いい加減な人が多いことで知られるイタリア人が大人数での合奏を得意としないというのは、いかにもありそうな話ではある。

ボローニャフィルハーモニー管弦楽団も第1部では実力不足を露呈。弦には独特の艶があるが厚みや輝きに欠けており、管は粗さが目立つ。
吉田はボローニャフィルに細やかな指示を出すが、少なくとも「上手く応えれた」とは言えないと思う。

第2部の「椿姫」ハイライトには、歌手3人が出演。登場順にソプラノのヌンツィア・デファルコ、バリトンのヴィットリオ・プラート、テノールのマッティオ・ファルチエであるが、ヌンツィア・デファルコは声が余り通らず、オーケストラに埋もれてしまったりする。ホールの響きが影響したのかと思われたが、バリトンのプラート、テノールのファルチエの声量に不足は感じられなかったため、単純に声量が足りなかったのかも知れない。京都コンサートホールはステージ上での音響がかなり良いといわれているため抑えたのかも知れないが真相は不明である。
ボローニャフィルはボローニャ市立歌劇場管弦楽団を母体としているが、手慣れたオペラ伴奏だからか、あるいはコンサートマスターが変わったからか、第1部に比べるとはるかに生き生きとした演奏を展開。チェロを始めとする弦のエッジがキリリと立つ。ピッチカートは精度不足で団子になって聞こえたりしていたけれども。

プログラムに入っていなかった「乾杯の歌」がアンコールで演奏された。

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2018年9月 1日 (土)

コンサートの記(417) ローマ・イタリア管弦楽団 「映画音楽名曲選」@京都コンサートホール

2018年8月22日 京都コンサートホールにて

午後6時30分から京都コンサートホールで、ローマ・イタリア管弦楽団の「映画音楽名曲選」コンサートを聴く。

ローマ・イタリア管弦楽団は、1990年創設のオーケストラである。クラシックと映画音楽の演奏を両輪として活動しており、室内楽や小編成のアンサンブルでの公演も行っているという。映画音楽に関しては多くのサウンドトラックのレコーディングを手掛けており、エンリオ・モリコーネ作品のほか、「ライフ・イズ・ビューティフル」や「イル・ポスティーノ」などの映画本編の演奏を担当している。

以前は、ローマ室内管弦楽団の名義で日本ツアーを行っていたが、今回はローマ・イタリア管弦楽団として日本中を回る。これまでに関東各地と愛知県日進市、静岡県浜松市で演奏会を行っており、今後は、呉、山口、福岡県、熊本、宮崎、大分、鹿児島を経て関東に戻り、長野、静岡、楽日となるてつくば市のノバホールまで計24会場を回るという大型ツアーである。このうち、鹿児島市文化第1ホール、東京オペラシティコンサートホール、ノバホールでの3公演は吉俣良特別プロデュース公演であり、「篤姫」や「江~姫たちの戦国~」で知られる吉俣良が出演して自作を中心としたコンサートを行う。

曲目は、ジョルジュ・オーリックの「ローマの休日」メインテーマ、ヘンリー・マンシーニの「ティファニーで朝食を」より“ムーンリバー”と「ピンクパンサー」のテーマ、ジョン・ウィリアムズの「シンドラーのリスト」よりテーマ、マックス・スタイナーの「風と共に去りぬ」より“タラのテーマ”、ピエトロ・マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲(ゴッド・ファーザー」パートⅢ)、ニーノ・ロータの「ゴッド・ファーザー」より“愛のテーマ”、「ロミオとジュリエット」よりテーマ、「山猫」より“愛のテーマ”、「フェリーニのアマルコムド」よりテーマ、「道」よりテーマ、「8 1/2(はっかにぶんのいち)」よりテーマ、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの交響曲第25番第1楽章(「アマデウス」)と歌劇「フィガロの結婚」序曲(「アマデウス」)、ニコラ・ピオヴァーニの「ライフ・イズ・ビューティフル」メインテーマ、フランシス・レイの「ある愛の詩」テーマ、「白い恋人たち」テーマ、「男と女」よりテーマ、ミシェル・ルグランの「シェルブールの雨傘」より“愛のテーマ”、エンリオ・モリコーネの「海の上のピアニスト」より“愛を奏でて”、「ニュー・シネマ・パラダイス」より“愛のテーマ”、「ミッション」よりメインテーマ、「続・夕日のガンマン」よりテーマ。当日になって曲順を大幅に入れ替えている。

今日はステージからは遠いが音は良い3階正面席で聴く。なおポディウム席、2階ステージ横席、3階サイド席は発売されていない。

イタリアはクラシック音楽の祖国ではあるが、名門オーケストラはあっても一流オーケストラはないというのが現状である。指揮者に関してはアルトゥーロ・トスカニーニに始まり、カルロ・マリア・ジュリーニ、クラウディオ・アバド、リッカルド・ムーティ、リッカルド・シャイー、ジュゼッペ・シノーポリ、最近話題のダニエレ・ガッティに至るまで、オーケストラビルダーとしても名高い多くの逸材が生まれているが、イタリア国内はオーケストラコンサートよりもオペラが盛んということもあってオーケストラ自体の名声が上がらない。名門よりもむしろ最近出来たミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団やアルトゥーロ・トスカニーニ・フィルハーモニー管弦楽団の方が高い評価を得ていたりする。

というわけで、機能に関しては余り期待していなかったのだが、想像していたよりもはるかに優れたオーケストラであった。透明な音と朗らかなカンタービレが特徴。管の抜けも良いが、弦はそれ以上に優れており、流石は「弦の国」のオーケストラと感心させられる出来であった。今後も日本でハイレベルな演奏を聴かせてくれそうである。

今回のツアーの指揮を務めるのは、ニコラ・マラスコ。フォッジア・ウンベルト・ジョルダーノ音楽院とペスカーラ音楽院で指揮をピエロ・ベルージやヨルマ・パヌラ、リッカルド・ムーティらに師事。2005年にはジュゼッペ・パターネ指揮コンクールで優勝している。マラスコは曲によってはピアノ独奏も担当しており、多才であるようだ。
「シンドラーのリスト」、「ニュー・シネマ・パラダイス」などではヴァイオリン独奏も務めたコンサートマスターのアントニオ・ペッレグリーノは、ローマ・イタリア管弦楽団の創設者の一人で、ローマ歌劇場第2ヴァイオリン奏者を経て同楽団のコンサートマスターも務めたという経歴の持ち主である。1999年から2003年まではフェーデレ・フェナローリ音楽院やアブルッツォ・ユース・オーケストラでオーケストラ演奏法指導者としても活躍していたそうだ。

ローマ・イタリア管弦楽団は、室内オーケストラより一回り大きめの編成。メンバー表を見たが、ほぼ全員がイタリア人のようである。アメリカ式の現代配置を基本としているが、ティンパニを舞台上手、ヴィオラの隣に置くなど独自性が見られる。「ティファニーで朝食を」より“ムーンリバー”では、出だしがサティの「ジムノペディ」第1番を意識した編曲だったりとアレンジにも凝っている。エレキ音はギターなどは用いず、全てキーボード(赤毛のミレラ・ヴィンチゲラという女性奏者が担当)で出しているようだ。

映画音楽だけでなく、マスカーニやモーツァルトの演奏も優れている。特にマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲はイタリアのオーケストラでないと出せないような絶妙の彩りが特徴である。
指揮のニコラ・マラスコは強弱のコントラストを大きくつけた音楽作りをする。パースペクティヴの作り方も上手い。

アンコールは、ペッレグリーノのヴァイオリン独奏による「愛の賛歌」、更にオーリックの「ローマの休日」メインテーマが再度演奏される。豊かな歌と輝かしい音が印象的であった。

20世紀のクラシック音楽がどんどん歌から離れていく一方で、劇伴やポップスはよりメロディアスなものへと発展を遂げていく。音楽史的には、12音楽を始めとして響きの音楽へと転換していくクラシック部門に耳目を奪われがちになるが、ポピュラー部門に関していうなら20世紀ほど旋律が追求された時代はこれまでなかったように思う。録音技術やマスメディアの発達で世界各国の音楽をいながらにして聴くことが出来るようになったことも大きいだろう。望めば24時間音楽が聴ける環境が整ったことでメロディーの世界は広大無辺は大げさにしても一個人や国家の壁を越えて広がるようになっている。
というわけで、クラシックのコンサートホールでは例がないほど甘い旋律に酔うことが出来た。

 

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2018年8月22日 (水)

スペイン国立ダンスカンパニー 「ロミオとジュリエット(ロメオとジュリエット)」@びわ湖ホール大ホール

2008年11月29日 びわ湖ホール大ホールにて

午後3時から、大津市のびわ湖ホール大ホールで、ナチョ・ドゥアト芸術監督率いるスペイン国立ダンスカンパニーの公演、バレエ「ロミオとジュリエット」(音楽:セルゲイ・プロコフィエフ、振付:ナチョ・ドゥアト)を鑑賞。プロコフィエフの音楽を演奏するのは、ペドロ・アルカルデ指揮の関西フィルハーモニー管弦楽団。

ペドロ・アルカルデは作曲家でもあり、近年は1年に1作ずつバレエ音楽作品を発表しているようだ。
スペイン国立ダンスカンパニーは、1979年にスペイン国立クラシックバレエとして創設。その後、「クラシック・バレエを否定することなく、より現代的なスタイルを取り入れた」団体となり、名称も現在のものに変更された。

スペイン国立ダンスカンパニー芸術監督のナチョ・ドゥアトは、バレンシア地方の生まれ。ベルギーでモーリス・ベジャールに師事し、その後、ニューヨークに渡って更なる研鑽を積んで、1990年にスペイン国立ダンスカンパニーの芸術監督となる。コンテンポラリーダンスに主軸を置いていて、クラシック・バレエの全曲作品の振付を手掛けたのは、「ロミオとジュリエット」が唯一だそうだ。

スペイン国立ダンスカンパニーは、さいたま市でも公演を行ったが、その時は、演奏してくれるプロオーケストラが確保できなかったのか、テープ録音によって音楽を流したとのこと。
今日の公演は生演奏で音楽が聴ける。もちろん、その場でオーケストラが演奏した方がずっと感動的である。

幕が開くと、ロミオ(ゲンティアン・ドダ)がベンチで休んでいる。やがて、友人のマキューシオ(フランシスコ・ロレンツォ)らがやってきてロミオと戯れるが、ロミオは、たまたまそばを通り過ぎた女性の後についていってしまう。どうも、今回のバレエでのロミオは遊び人という解釈のようだ。シェークスピアの原作でもロミオはいい加減な奴なので、こういうのもありだろう。

一方のジュリエット(ルイサ・マリア・アリアス)はというと、ピョンピョン跳びはねながら口うるさそうな婆やから逃げ回っている。かなりお転婆なジュリエットである。

さて、イタリア・ヴェローナの名門、モンタギュー家とキャピュレット家の争いというのが、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の枠組みであるが、今日のバレエでは、モンタギュー家の人々は男女ともに庶民のような格好で、広場で踊るなどして楽しんでいる。そこへ正装のキャピュレット家の男達がやってきて、楽しんでいるモンタギューの人々にちょっかいを出し、剣を抜く。モンタギューの人々は鋤で応戦。ということは、スペイン国立ダンスカンパニーのバレエではモンタギュー家の人々はどうやら本当に庶民で、キャピュレット家が貴族であり、原作の権門争いではなく、階級闘争に設定が変えられているようだ。

キャピュレット家での舞踏会に、ロミオやマキューシオは仮面を付けて、道化に化けて忍び込み、手品をしたり悪ふざけをしたりしている。
そして、ジュリエットに一目惚れしてしまうロミオ。ジュリエットも無理矢理結婚相手に決められたパリス(アモリー・ルブラン)やジュリエットの親戚であるティボルト(クライド・アーチャー)ではなく、仮面のままのロミオと踊りたがる。露骨に悔しがるティボルト。
やがて、ジュリエットが一人になったところにロミオが現れ、仮面を取る。瞬く間に恋におちる二人……。

モンタギューの人々が広場で車座になり、中央で踊っているマキューシオが乗ってくると皆で同時に手を打つところなどは、まさに「オーレー!」で、スペイン的味わいが出ている。
モンタギューの人々の踊りがダイナミックで、マスゲームのように良く計算されているのも印象的。
幕、布、旗などの使い方も効果的である。

ラスト。仮死状態になったジュリエットを見て本当に死んでしまったと思い、短剣で胸を突くロミオ。ロミオが崩れ落ちるのとほぼ同時にジュリエットが目を覚ます。何てずるい演出なんだ。ストーリーを知っていても、「あー、ロミオがもっと迷っていれば上手くいっていたのに」と悔しくなる。
そして、ロミオが死んだことを知って自らも死を選ぶジュリエット。ここは音楽だけでも十分に美しくて悲しいのに、ジュリエットの動きが加わると、もう卑怯なほど美しくて悲しい。
こういうものを見てしまうと、それを言葉で語るのが馬鹿らしくなる。言葉なんてもう余計なものだ。プロコフィエフの音楽だけで十分である。
といいながら言葉で書いてしまっているけれど。

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