カテゴリー「大阪フィルハーモニー交響楽団」の10件の記事

2017年12月 6日 (水)

コンサートの記(328) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第513回定期演奏会 モーツァルト 後期三大交響曲

2017年11月22日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、フェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第513回定期演奏会を聴く。指揮者は、大阪フィルハーモニー交響楽団ミュージック・アドヴァイザーの尾高忠明。尾高は来年4月から大阪フィルの第3代音楽監督に就任予定であり、ミュージック・アドヴァイザーという肩書きでは最初で最後の定期演奏会登場となる。

1947年、神奈川県鎌倉市に生まれた尾高忠明。実父は指揮者で作曲家の尾高尚忠(ひさただ)、実兄は作曲家の尾高惇忠(あつただ)という音楽一家の出身である。
桐朋学園大学で指揮を齋藤秀雄に師事。学生時代は盟友の井上道義と共に「悪ガキ・イノチュウ」と呼ばれるほどやんちゃだった(今は尾高はジェントルな感じだが、井上は相変わらずの悪ガキぶりである)。
長く東京フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者を務め、BBCウェールズ交響楽団首席指揮者時代にはレコーディングでも高い評価を得る。読売日本交響楽団常任指揮者、紀尾井シンフォニエッタ東京首席指揮者、札幌交響楽団常任指揮者を歴任。現在では日本におけるシベリウス演奏の泰斗として知られ、札幌交響楽団との「シベリウス交響曲全集」やサントリーホールでの3年越しの「シベリウス交響曲チクルス」は絶賛されている。

大阪フィルハーモニー交響楽団の来年度のプログラムが今日発表になったが、目玉は尾高指揮のベートーヴェン交響曲全曲演奏会である。5月から12月にかけて、作曲された順に5度のべ6回の演奏会が予定されている。その分、尾高の定期登場は2度に限られ、1年を通して他の古典派のプログラムは控えめである。海外の指揮者のビッグネームはレナード・スラットキンのみ。その他の外国人指揮者の顔ぶれは若手ばかりで、あたかも大阪交響楽団の定期のようになっている。NHK交響楽団を指揮した京都での演奏会で好演を聴かせたパスカル・ロフェが登場する10月の定期演奏会が意外に聞き物かも知れない。


曲目は、モーツァルトの後期三大交響曲(交響曲第39番、第40番、第41番「ジュピター」)の一挙上演という意欲的なものである。

今日のコンサートマスターは崔文洙。古典の演奏であるが、今日もいつも通ドイツ式の現代配置での演奏。「ジュピター」では編成も大きめであった。

尾高は全曲ノンタクトで指揮する。たまにピリオドの影響が聞こえる部分もあるが、基本的にはモダンスタイルによる演奏を行う。


交響曲第39番。この曲の演奏は、20年ほど前にNHKホールで聴いた、アンドレ・プレヴィン指揮NHK交響楽団のまろやかな音による演奏が今も印象に強く残っているが、尾高の指揮する39番はシャープで現代的である。速度はやや速め。第3楽章では明るい響きの中にクラリネットの孤独で不安に満ちた旋律を浮かび上がらせるなど、モーツァルトの陰を見事に炙り出す。


交響曲第40番。クラリネットを入れた第2版での演奏である。速度は速めで、第2楽章以降はかなり速くなる。硬質な音による大ト短調で、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の同曲演奏に少しだけ似ている。
尾高は各楽章のラストに重きを置いているようで、演奏は終結部から逆算されているようにも思う。


交響曲第41番「ジュピター」。輝かしい出来となった。大フィルの弦には張りと透明感があり、管は瑞々しい音で鳴る。弦が主役の部分でも尾高は管を強く吹かせることで立体感を生んでいた。以前は大フィルの弱点であったホルンも今はかなり改善され、全ての楽器が高いレベルで統合された好演に仕上がっていた。

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2017年9月22日 (金)

コンサートの記(318) 大阪クラシック2017第81公演 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 チャイコフスキー 交響曲第5番

2017年9月16日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時15分から、大阪クラシック第81公演(最終公演)を聴く。大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団によるチャイコフスキーの交響曲第5番の演奏。

午後7時頃から大植英次のプレトークがある。大植はぎっしり詰まった紙袋を手に登場。これまで大阪クラシックで貰った変わったプレゼントを紹介する。
まずは、「大植さん、もっと背高くしたらどうや」ということで貰った靴の上げ底。髪が乱れている時に貰ったブラシ。更に「大植さん、もって食べえや」ということで貰った551蓬莱の豚まん(の袋)、スタッフから「大植さん、話長い」ということで貰った(?)壁掛け時計。更に「大植さん言ってることがよくわからない(大植は滑舌に難がある)。日本語勉強して」ということで貰った日本語を学ぶおもちゃなどなど。


今日のコンサートマスターは田野倉雅秋。いつも通りドイツ式の現代配置での演奏である。
今日は1階席の25列目、下手寄りの席に座ったのだが、この席だと音が全部上に行ってしまうのがわかり、音響的に良い席とはいえないようである。


大植英次の解釈であるが、驚いたことにメンゲルベルクやアーベントロートといった19世紀生まれの指揮者の音楽作りを彷彿とさせるものであった。テンポが大きくギアチェンジし、怖ろしく遅くなったかと思いきや極端な加速がある。特に第1楽章ではその傾向が極めて顕著である。どう来るか予想出来ない大植の指揮に大阪フィルも苦闘。今にもフォルムが崩壊しそうな場面が続き、聴いていてハラハラする。

第2楽章でのホルンソロは見事であった。ただ、その後に来る別のホルンの返しでは残念ながらキークスがあった。

チャイコフスキーの交響曲の演奏は、21世紀入ってからペシミスティックなものが流行っているが、大植は交響曲第5番に関してはそうした解釈を取っていないようで、疑似ラストの後の場面では晴れ晴れとした音楽を描く。それまで暴れまくっていたため、朗々と歌われる凱歌に安定感があり、効果的に聞こえる。
ラストを大植はヒロイックに決めた。


毎年恒例となったアンコール。コンサートマスターの田野倉雅秋が指揮を受け持ち、山本直純編曲の「日本の歌メドレー」(「夕焼け小焼け」~「七つの子」~「故郷」)が流れる中、大植が1階席、2階席、3階席を回る。

大ラストは、外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」より八木節。大植は背中に大阪市章の入った赤い法被を着てのノリノリの指揮であった。

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2017年8月13日 (日)

コンサートの記(314) エリアフ・インバル指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第510回定期演奏会

2017年7月27日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第510回定期演奏会を聴く。今日の指揮は日本でもお馴染みのエリアフ・インバル。
マーラーの交響曲第6番「悲劇的」1曲勝負である。

エリアフ・インバルは1936年生まれのイスラエルの指揮者。フランクフルト放送交響楽団(現・hr交響楽団)の首席指揮者として一時代を築き、「マーラー交響曲全集」と「ブルックナー交響曲全集」は共に名盤として知られる。マーラーとブルックナーの両方を得意とする数少ない指揮者でもある。東京都交響楽団の特別客演指揮者を経てプリンシパル・コンダクターとなり、現在は桂冠指揮者の称号を得ている。都響とはマーラーの交響曲全曲演奏会を二度行い、「マーラー交響曲全集」も制作した。

インバル指揮のコンサートは、20年ほど前にNHK交響楽団に客演した土曜マチネーの定期演奏会を聴いたことがあるのだが、もうほとんど記憶に残っていない。それ以来二度目の実演となる。


今日のコンサートマスターは崔文洙。いつもとは異なり、アメリカ式の現代配置での演奏である。曲の特色からいって、アメリカ式現代配置の方が低弦の音の受け渡しがスムーズに思える。
第2楽章がスケルツォ、第3楽章がアンダンテでの演奏。ハンマーが打ち下ろされる回数は2回である。


いつもより編成が大きいとということもあるが、大フィルは良く鳴る。インバルのマーラーは美演の傾向があるが、今日の大フィルも弦は輝き、管も力強い。第3楽章終盤の寄せては返す波のようなエモーショナルな部分などは驚くほど美しく、やはり良い指揮者を迎えた時の大阪フィルはスーパーオーケストラに変貌を遂げるようだ。

大阪フィルというとホルンがアキレス腱だったのだが、世代交代したということもあり、今では段違いのレベルアップを遂げた。

インバルのリズム感も良く、キビキビとした音運びが聴かれる。大フィルの特徴であるしっかりと築かれた低弦がプラスに作用し、マーラーのおどろおどろしい一面も浮き上がる。ハープの特殊奏法なども低弦の厚みとの対比で効果的になる。

大阪フィルによるマーラーの「悲劇的」は大植英次の指揮で二度聴いたことがあるが、楽曲構造の把握しやすさに関していうなら今日のインバル指揮の演奏の方が上のように思う。流石は世界的に認められたマーラー指揮者だけのことはある。

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2017年7月20日 (木)

コンサートの記(309) 第55回大阪国際フェスティバル 井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団ほか レナード・バーンスタイン シアターピース「ミサ」

2017年7月14日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、第55回大阪国際フェスティバル2017 レナード・バーンスタイン作曲のシアターピース「ミサ」を聴く。

レナード・バーンスタインの「ミサ」は、1971年に、ワシントンD.C.に完成したジョン・F・ケネディ・センターの杮落とし演目として初演されたものであり、宗教曲でありながら反キリスト教的要素が濃く、音楽的にもロック、ミュージカルナンバー風、ジャズ、現代音楽を取り入れたアマルガム的なものになっている。

今回の上演は、日本初演以来23年ぶりの舞台上演。フェスティバルホールでの2公演のみであり、関西のみならず、日本中からファンが駆けつけたと思われる。

指揮は、「ミサ」の日本初演も手がけた井上道義。井上は、総監督、演出、日本語字幕訳も手がける。
演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団。オーケストラピットに入っての演奏である。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。出演は、大山大輔(バリトン)、小川里美、小林沙羅、鷲尾麻衣(以上ソプラノ)、野田千恵子、弊真千子(へい・まちこ)、森山京子(以上メゾソプラノ)、後藤万有美(アルト)、藤木大地(カウンターテナー)、古橋郷平、鈴木俊介、又吉秀樹、村上公太(以上テノール)、加耒徹(かく・とおる)、久保和範、与那城敬(以上バリトン)、ジョン・ハオ(バス)、込山直樹(ボーイソプラノ)、ファルセットコーラスを担当するのは奥村泰徳、福島章恭、藤木大地の3人。
ボーイソプラノコーラスは、キッズコールOSAKA。
従者役は、孫高宏と三坂賢二郎の二人(ともに兵庫県立ピッコロ劇団)。
バレエダンサーは、堀内充バレエプロジェクト所属のバレエダンサー9人と大阪芸術大学舞台芸術学科舞踏コースの学生6人。
副指揮者は角田鋼亮(つのだ・こうすけ)。
ミュージックパートナーは佐渡裕(本番には出演せず)。

従者達が運んだジュークボックスから声が響き、エレキギターを奏でていた男(大山大輔。今回はレナード・バーンスタイン本人を演じるという設定である)が、祭服を纏い、司祭となることからストーリーは始まる。
司祭は、「神に祈ろう」、「神の言葉は絶対だ」と歌うのだが、神の存在をどうしても信じられないという人や、神の言葉の矛盾を突く人などが次々と現れ、司祭がついには信仰を投げ出してしまうという筋書きである。

ラストは、言葉のない歌(スキャット)や簡単な歌詞(「ラウダ、ラウデ」という言葉が繰り返される)による歌が歌われることになる。このラストの部分はとても美しいのだが、レナード・バーンスタインがそうなるように仕掛けたのだと思われる。

「はじめに言葉ありき」という聖書の言葉がある。この「ミサ」にも登場する有名な言葉なのであるが、音楽家としてはこの言葉に簡単には首肯できないのではないだろか。「音楽はともかくとして、音より先に言葉があるとはどういうことなのか?」
レナード・バーンスタインはここで音楽の言葉に対する優位性を唱えたように思う。言葉による神をめぐる思想は矛盾や争いを生み、地上に地獄をもたらす。一方、言葉のない音楽の世界は天上のように美しい。つまり音楽こそがレナード・バーンスタンの求める平和を体現するものだということだろう。こうした意思の表明は極めてわかりやすく提示されている。

日本初演も手がけた井上道義の指揮はノリが良く、大阪フィルハーモニー交響楽団の音色も鮮やかで、この曲を再現するのに最適の演奏となった。一方で井上の演出は余計なことが多いような。やはり音楽家が演出も兼務するには限界があるのだろう。

今日は3階席の後ろの方、ほぼ真ん真ん中で聴いたのだが、この席で聴くフェスティバルホールの音響は優れたものであった。

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2017年6月 1日 (木)

コンサートの記(302) ウラディーミル・フェドセーエフ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第508回定期演奏会

2017年5月12日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第508回定期演奏会を聴く。今日の指揮はロシアの名匠、ウラディーミル・フェドセーエフ。

フェドセーエフは、1932年生まれ。ロシア指揮者界の中で現役最長老である。1974年にモスクワ放送交響楽団(現在のチャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ)の芸術監督兼首席指揮者に就任。以後、現在に至るまで同職にあり、40年以上の長期政権を誇る(もっとも、ロシアのオーケストラは基本的に長期政権を敷く傾向があり、人々もオーケストラの正式名称ではなく、「○○(指揮者の名前)のオーケストラ」と呼ぶケースが多い。チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラは「フェドセーエフのオーケストラ」である)。
1997年から2004年まではウィーン交響楽団の首席指揮者も務めており、ウィーンでも名声を高めている。

フェドセーエフは他のロシア人有名指揮者、例えば、ムラヴィンスキー、スヴェトラーノフ、ゲルギエフなどとは違って、力で押し切るタイプではなく、ロシアの指揮者としては最も西欧的なスマートな音楽作りを旨としている。といっても、「ベートーヴェン交響曲全集」などはロシアの香り濃厚だったりするのだが。

フェドセーエフの実演に接するのは今日が3回目だが、前2回はザ・シンフォニーホールでの演奏だったため、フェスティバルホールでフェドセーエフを聴くのは初めてになる。


曲目は、ウェーバーの歌劇「オベロン」序曲、ウェーバーの交響曲第1番、チャイコフスキーの交響曲第5番。

ウェーバーの交響曲第1番はとても珍しい曲である。実演で聴くのはおそらく初めて。CDも1種類しか持っておらず、長く聴いていないため、実質的には初めて耳にする曲となる。

今日のコンサートマスターは田野倉雅秋。ドイツ式の現代配置での演奏である。

今日のフェドセーエフは全編ノンタクトでの指揮である。


ウェーバーの歌劇「オベロン」序曲。ボリューム豊かな音による演奏である。広いフェスティバルホールであるが、今日は残響が長めに感じられる。弦楽器がノンビブラート奏法を行っているように思えたのだが、この曲でははっきりしなかった。


ウェーバーの交響曲第1番。歌劇「魔弾の射手」などで知られるカール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)。オペラの作曲家として知られるが、歌劇以外にも交響曲やクラリネット協奏曲などを書いている。世代的には古典派からドイツ・ロマン派初期に掛けての作曲家であり、シューベルトより10歳年上である。
時代背景というのは音楽に関してはかなり重要であり、ウェーバーの交響曲第1番にはシューベルトの交響曲に相通じるものがある。ウェーバーは二十歳の頃に交響曲第1番と第2番を書いたのだが、その出来に不満であり、「いつか改訂しよう」と思いつつ、思いがけずも40歳の若さで亡くなってしまったため、果たされることはなかった。
そのため若書きであり、シューベルトの交響曲に似ている。また、良い意味でも悪い意味でも端正ではみ出しがないという部分もシューベルトの初期の交響曲にそっくりだ。こういう交響曲を書いていたとすれば、ベートーヴェンの交響曲第7番の初演を聴いたウェーバーが、「ベートーヴェンもついに気が触れたか」と日記に記したということも納得できる。例えは悪いかも知れないがムード歌謡しか知らない人が初めてロックを耳にしたようなものだろう。
第1楽章には、グリーグの「ペール・ギュント」の“山の魔王の宮殿にて”の旋律によく似た音型が現れる。

フェドセーエフがピリオド・アプローチを採用していることは、このウェーバーの交響曲第1番でよくわかった。各楽章のクライマックス以外はビブラートを控えめにし、音を短く切って歌う。
ロシアではピリオド奏法がまだ普及していないと聞いてきたが、フェドセーエフは取り入れたようだ。
大フィルは第2楽章の冒頭でトランペットが揃わなかったが後は堅調。造形バランス見事な演奏である。


フェドセーエフの十八番であるチャイコフスキーの交響曲第5番。
クラリネットによる「運命の主題」が終わると音の密度と輝きが増し、聴き手の耳に鋭く切り込むチャイコフスキー演奏が展開される。比較的速めのテンポによる演奏だが、緩急自在であり、ゆっくりとした部分ではテンポをグッと落として、徹底して甘美な演奏を展開する。
第2楽章冒頭では、フェドセーエフが大フィルからヒンヤリとした音を引き出す。この楽章ではホルンによる長くて美しいソロ(難度Sとされる)があるのだが、今日はソロの部分は見事な出来であった。オーボエとの掛け合いの部分では若干、引っかかり気味であったが。

フェドセーエフは、第2楽章と第3楽章をアタッカで繋ぐ。甘美な楽章を繋げることで、よりメリハリを付けようという意図だろう。美しくはあるが、どこか儚さを感じさせる演奏である。

以前は「凱歌」として演奏されることの多かった第4楽章。だが、21世紀になってからチャイコフスキー研究が進んだということもあり、別の解釈が取られることが増えた。フェドセーエフも最近の学説を取り入れた演奏を行う。
凱歌のようでありながら、届かぬところにある夢を歌うかのような趣。寂しさが音色に滲んでいる。疑似ラストを経てからもやはり聞いていて切なくなる演奏が繰り広げられる。チャイコフスキーの葛藤が公にされる。
そしてラストではテンポを思いっきり落として、「ジャジャジャジャーン」とベートーヴェンの運命動機の転用だとはっきりわかるよう、一音一音演奏された。

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2017年5月17日 (水)

コンサートの記(300) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第507回定期演奏会

2017年4月26日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第507回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は大フィル桂冠指揮者の大植英次。

大フィル定期演奏会プレトーク担当の福山修氏によると、大フィルは今年が創設70年になるのだが、前身である関西交響楽団が70年前に第1回の定期演奏会を行ったのが1947年の4月26日ということで、今日が大フィルの誕生日に当たるのだという。

曲目は、ベートーヴェンの交響曲第7番と、オルフの世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」。関西では今年、「カルミナ・ブラーナ」が立て続けに演奏される。たまたまなのか、「カルミナ・ブラーナ」がブームになりつつあるのかは不明。

今日のコンサートマスターは田野倉雅秋。


ベートーヴェンの交響曲第7番。
大植英次はベートーヴェンは不得意であり、交響曲全曲演奏会なども行っているのだが評判は伝わってこない。
ピリオド・アプローチによる演奏。弦楽器はノンビブラートの演奏を行うが、これは第2楽章において効果的に働いていた。
第1楽章はピリオドとしては平均的なテンポだったが、第2楽章以降は比較的速めの演奏を行う。
低弦をきっちりと弾かせた演奏だが、バランス的にはピラミッド型になることはない。第1楽章は音の密度の濃い演奏を行い、第2楽章もあっさりしがちだが好演である。第2楽章ではレガートを多用してスマートで滑らかな演奏に仕上げている。
ただ第3楽章と第4楽章は「軽快」といえばいえるが、余りに軽く、ベートーヴェンらしさは後退してしまっていた。10年以上前に聴いた大植と大フィルの演奏による第7よりは良かったかも知れないが、ベートーヴェンを得意とする他の指揮者のそれに比べると物足りないのは否めない。


オルフの世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団、児童合唱は大阪すみよし少年少女合唱団。独唱は、森麻季(ソプラノ)、与那城敬(バリトン)、藤木大地(カウンターテナー)。

「カルミナ・ブラーナ」の音楽性はマーラーの声楽付き交響曲に通じるところがあり、マーラー指揮者である大植には大いに期待が持てる。
大植英次はこの曲も全曲暗譜で指揮する。
オーケストラ約100名、合唱約200人ということで、計約300名で演奏される大曲。広い広いフェスティバルホールのステージが人で埋まる。

大植はテンポを自在に変える演奏。大フィルから鋭い響きを生み出す。大阪フィルハーモニー合唱団も大阪すみよし少年少女合唱団もハイレベルな合唱を聴かせる。一音一音明瞭に発声するのが特徴だが、私はドイツ語を学んでいないので音楽面ではともかくとして言語的にどれほど効果的なのかはよくわからない。
大人数での演奏ということで、フェスティバルホールの音響も有効に働いていたように思う。

ソプラノ独唱の森麻季は、クッキリとした歌声で魅せる。声の質はメゾ・ソプラノに近いかも知れないが高音が良く伸び、技術も高い。
バリトン独唱の与那城敬はドラマティックな歌唱を披露。声が良く通る。

「ローストされる白鳥」の歌は、通常はテノールが裏声で冗談めかして歌うのであるが、今回の演奏はカウンターテナーの藤木大地が裏声ではなくカウンターテナーの発声で歌う。おちゃらけた歌い方であり、藤木も藤木をフォローする与那城も軽い仕草の演技をしているのだが、白鳥の悲哀がそこはかとなく伝わってくる。丸焼きにされる白鳥の悲哀というのもそれはそれで可笑しいものであるのだが。

やはり、「カルミナ・ブラーナ」とマーラー指揮者の相性は良いようで、大植指揮の「カルミナ・ブラーナ」は大成功であった。

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2017年2月23日 (木)

コンサートの記(277) 井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第505回定期演奏会

2017年2月18日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後3時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第505回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は大フィル首席指揮者の井上道義。井上は今年の3月一杯をもって、大フィルの首席指揮者を離任するため、首席指揮者として大阪で大フィルを指揮するのは今日が最後となる。暗黙の了解として関東でも関西でも、その地域のオーケストラのシェフを引き受けた場合は、同一地区にある他のオーケストラに客演は出来ないのだが、井上は早くも今年中に京都市交響楽団への客演復帰が決まっている。

井上の十八番であるショスタコーヴィチの交響曲が2曲並ぶという大重量プログラム。いずれも革命を題材にしたとされる交響曲第11番「1905年」と第12番「1917年」である。

交響曲第11番「1905年」は、「血の日曜日事件」として知られる発砲事件を題材にした交響詩的交響曲とされている。当時、ロシアは日本と戦争中だったのだが(日露戦争なのに戦場は中国という変な戦いでもあった)、血の日曜日事件とそれに対する民衆の反発により、ロシアは極東に力を割く余裕がなくなり、撤退決定で、日露戦争は日本の勝利ということになっている。

ショスタコーヴィチは、「ベートーヴェンの第九のような大作」になることを期待された交響曲第9番を、おちゃらけた調子の中規模の交響曲として発表してソビエト当局の顰蹙を買った。続く交響曲第10番は大作となり、好評だったが、スターリン時代の暗澹たる雰囲気を思わせる曲調が睨まれたりもした。そんなショスタコーヴィチが革命を賛美するメロディアスな交響曲第11番「1905年」を書いたことで、西側からは「ショスタコーヴィチはソビエト当局に屈した」などと言われた。当時のソ連では暗殺や粛正が日常茶飯事ということは西側ではそれほど知られていなかった。


今日のコンサートマスターは、崔文洙。ドイツ式の現代配置での演奏。今日は1階席2列目上手端での鑑賞。
 
交響曲第11番「1905年」の実演に接するのは3回目だが、過去2回はいずれも不思議な光景を目の当たりにしている。この曲は各楽章にタイトルが付けられており、第4楽章(最終楽章)のタイトルは「警鐘」だが、ラストで警鐘を鳴らすチューブラーベルズが、全力で演奏している他のパートに埋もれてほとんど聞き取れないのだ。特に最初に聴いた、ワレリー・ゲルギエフ指揮PMFオーケストラの演奏では、チューブラーベルズが思いっきり鳴らされているのは見えるのに、音がほとんど飛んでこないということでかなり異様な光景となった。モーツァルト以来の天才であり、作曲家としての才能は史上最高レベルと目されるショスタコーヴィチが、鳴らされているのが見えるのにほとんど聞こえない曲を書くなどという凡ミスを犯すはずもなく、「意図的にそうしている」と捉えるのが筋だろう。
録音では、ライブ収録も含めて鐘がよく聞こえるよう調整されているため、この「視覚的オーケストレーション」ともいえる不可思議な場面を確認出来るのは実演のみである。

1階席2列目上手端席での音であるが、音はクリアなものの、反響板がなく音が上に行ってしまうため、弦に浮遊感が出る一方でいつもよりも薄く感じる。管はよく聞こえるが、金管のちょっとしたミスもすぐにわかってしまうところがある。音楽を聴く上で良い席とは言えないだろう。またチューブラーベルズは舞台下手奥にあるため、今日の私の席からだと存在そのものが他の楽団員の陰になって見えない。

今日の井上は全編ノンタクトでの指揮である。

第1楽章の仄暗い響き。井上指揮の大阪フィルはヒンヤリとした音色を奏でる。夜明け前とされる部分であるが、第4楽章でこの部分が帰ってくるということと第2楽章で大量殺戮が描かれているということを考えると、より暗い何か、或いは「死に近いもの」が描かれている可能性がある。やがて革命歌が聞こえ、デモの行進が始まり、強烈で巨大なうねりとなる。この曲は切れ目なく演奏されるのだが、先に書いたとおり第2楽章では目に見えるかのように描写された一斉射撃のシーンがある。音による旋律の妨害はラストだけではない。ピッコロが悲鳴のような旋律を吹く部分で、他のパートが寄ってたかってピッコロの叫びを覆い隠そうとする場面がある。人々を蹂躙する巨大な権力が描かれているかのようだ。ピッコロと他の楽器の旋律がユニゾンになることでやっとピッコロ本来の鋭い音がクリアに聞こえるようになる。

今回のラストでの鐘は、弦の響きが薄かったということもあり、前2回よりはよく聞こえたが、井上がチューブラーベルズ奏者に指示したために「おそらく鳴ったのだろう」と思えた部分も2度ほどあった。ラストの響きでは、鐘の直接音は聞こえず、残響が他の楽器より長かったため余韻だけが伝わるという独特のものとなった。
本当に警鐘だとしたら誰が誰に向かって鳴らしているのか? 「ロマノフ王朝への警鐘」ということになっているが本当ではないだろう。聞こえないということは人々がそれに気づいていないということなのか、あるいは伝わる人にだけ伝わるということなのか。ソビエト当局へのおおっぴらに出来ない警鐘と取ることも可能だが、ショスタコーヴィチが西側に向けて、「ソビエトではものが言いたくても言えない」という状況を密かに伝えようとしたという解釈も可能であるように思う。また鐘というと弔いの鐘という連想が真っ先に来るのは世の東西を問わないのだが、当時のソ連では当局によって粛正された人を悼もうにもそうしたこと自体が許されなかった。「哀悼の意を示すことさえ出来ない」という状況を物語っているのだろか。
少なくとも、ソ連の現状を肯定した作品とは思えないことがわかる。第1楽章冒頭や第3楽章はメロディー的には哀歌やレクイエムそのものなのだが(第3楽章のタイトルは「イン・メモリアム」で血の日曜日事件に犠牲者への哀悼であることが示されてもいる)革命側の犠牲者ではなく、権力者によって粛正された人々を音楽で正面切って悼むことは出来なかったために別のストーリーへのミスリードが行われたとも捉えられる。


交響曲第12番「1917年」を生で聴くのは初めてである。こちらもロシア革命を描いた交響詩的交響曲とされているものであるが、その後にも交響曲第13番「バビ・ヤール」、交響曲第14番「死者の歌」、交響曲第15番などを書いたショスタコーヴィチが簡単にソビエト当局に阿ったとは思えず、この曲にも暗号が仕掛けられているように感じられる。
この曲はCDでも何度か聴いているし、井上が客演したNHK交響楽団の定期演奏会でこの曲が取り上げられた時の模様もEテレ「クラシック音楽館」で確認しているが、「今ひとつよくわからない」というのが本音であった。
だが実演では、「おそらくこういうことなのではないか」ということに気づく。堂々と始まり、皮相な凱歌が奏でられた後で、低弦がブラームスの交響曲第1番第4楽章の凱歌とオッフェンバックの「天国と地獄」を合わせたような妙な旋律を奏で始め、それがヴィオラ、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリンに受け継がれていく。これはベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」、いわゆる第九の「歓喜の歌」の歌い継ぎと同じパターンである。またブラームスの交響曲第1番の凱歌の旋律は第九へのオマージュとして知られる。ということは、これは第九の「歓喜の歌」のカリカチュアということになるのではないか。そしてこの旋律は全編に渡って現れるのである。
交響曲第12番「1917年」は「ロシア革命」を題材にしている。必然的にソビエト連邦の成立に結びつく。第九の「歓喜の歌」でさりげなく示されたのは「万人平等という理想」である。ロシア革命とソ連成立、貴族制度の廃止でこの「万人平等」は世界で初めて成し遂げられた。だが訪れたのは楽園どころかとんでもない惨状であった。これでは「歓喜の歌」などは歌えず、「喜べない歌」「裏切られた理想の歌」しか歌えない。
メロディーに魅力がないため駄作ともされる交響曲第12番「1917年」であるが、あるいは意図的に理想の崩壊を描いた曲という側面がそうさせているのかも知れない。

井上のリードは力強く、大フィルから威力ある響きを引き出す。弦も管も重低音がしっかりと築かれており、抜群の迫力を生み出していた。
 
喝采に応える井上。「いくつになってもいたずら小僧」というイメージの井上であるが、シェフとしては最後のフェスティバルホールということで、感慨深げな表情や仕草も見せていた。

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2017年2月 9日 (木)

コンサートの記(272) 平成28年度全国共同制作プロジェクト プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」新演出

2017年1月26日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後6時30分から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、平成28年度全国共同制作プロジェクト プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」を観る。

「蝶々夫人」を観るのは今日で多分4回目。最も多く観ているオペラとなる。

考えてみれば、フェスティバルホールで本格的なオペラ上演を観るのは初めてである。井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団によるバルトークの歌劇「青ひげ公の城」は観ているが、あれはオーケストラも舞台に上がり、セットなしで行われた上演である(「青ひげ公の城」は抽象的な内容であり、セットなしでも上演が出来る)。


ミヒャエル・バルケ指揮大阪フィルハーモニー交響楽団による演奏。演出:笈田(おいだ)ヨシ。出演は、中島彰子(なかじま・あきこ。蝶々夫人)、鳥木弥生(スズキ)、ロレンツォ・デカーロ(ピンカートン)、サラ・マクドナルド(ケイト・ピンカートン)、牧川修一(ヤマドリ公爵)、清水那由太(しみず・なゆた。ボンゾ)、晴雅彦(はれ・まさひこ。ゴロー)ほか。ダンサー(蝶々夫人の分身):松本響子。合唱はフェスティバル・クワイア。

今月(1月)22日に、金沢で幕を開けた公演で、今日は大阪での上演。この後、高崎、東京で公演を行う。


文学座、劇団四季での活動後、ヨーロッパに渡って俳優・演出家として活躍してきた笈田ヨシによる新演出である。
笈田ヨシは、アメリカ海軍士官に捨てられた可哀想な蝶々さんではなく、より幅を拡げた解釈を行う。

3階席6席目での鑑賞だが、舞台に置かれたものを確認するため、オーケストラピットのそばまで行く。帰りに、上手から、スタッフに誘導されて笈田さんが入ってくるのが見えた。その後、笈田さんは、私の後に続く格好で、1階後方の出入り口からホワイエに出た(笈田さんの席は1階席の一番後方であるようだ)。笈田さんに気づいた人は余りいなかったが、数名が気づいて、話したり記念撮影をしたりしている。


素舞台の上に平台に作った小さな舞台が置かれている。ここが蝶々さんの居住空間となる。平台の上に衝立が真横に6枚。漢字で何か書かれているが、近くにいってもよくはわからなかった。
舞台手前には、上手から松の盆栽(第2幕では笹に変わっている)、赤い花2つ(第1幕で用いられる)、石のオブジェ(蝶々さんとピンカートンの二人のシーンで火がともる)が置かれている。

無料パンフレットに笈田ヨシの挨拶が載っており、「蝶々さんはアメリカの全てを尊敬し愛していました」と定義した後で、自身の体験を話す。進駐軍の兵隊さんからガムを貰うために「ハロー!ハロー!」と叫びながらジープを追った日々、アメリカ兵相手の娼婦(俗にいう「パンパン」)が綺麗な洋服を着てチョコレートを食べているのを見て羨ましく思ったこと、アメリカのものが優れていると思い、日本のものは古くさいといわれて軽蔑された時代など。
笈田は、蝶々さんが絶望して死んだ場所を「ナガサキで!」とカタカナで書き、長崎で被爆した自分の友人達も死んでいったと綴っている。


ゴローが大きめの星条旗を持って現れる。それに続くピンカートン。ゴローは星条旗を平台の上手に差し、アメリカ国歌「星条旗」のメロディーが流れると、星条旗をはためかせて見せる。今回の舞台ではゴローは完全に旗持ちならぬ太鼓持ちである。
ゴローは衝立を移して、蝶々さんとの新居を説明する。
ピンカートンの友人である、領事のシャープレスは、この舞台では、ピンカートンの身勝手さに最初から呆れ気味のようであり、ラストではピンカートンを本気でなじる。

蝶々さんが現れる。背後の紗幕が透け、合唱している人々が見える。蝶々さんは天平時代の貴女のような格好で下手からゆっくりと進んでくる。
蝶々の形の旗を持った人々が数名。そして、折り鶴をつり下げた飾りが現れる。

ちなみに、今回は蝶々さんのキリスト教への改宗を責めるボンゾは、僧侶ではなく山伏(修験者)の格好をしている。

蝶々さんが、武家の出ながら芸者に身をやつしたこと、また父親が亡くなったことを語るシーンで、紗幕の向こうに、薄浅葱の死装束姿の父親(川合ロン)の姿が現れ、父親が切腹したことが示される。

蝶々さんとシャープレス二人の場面では、合唱団のメンバーが灯籠を手に現れる。多くの灯籠が浮かぶシーンは、広島で行われる原爆死者追悼のためのとうろう流しが連想される。また、折り鶴も原爆被害の象徴だ。もう前大統領になるが、バラク・オバマも広島で折り鶴を作って被爆者に捧げている。


第2幕では、蝶々さんもスズキも、戦中そして戦後すぐを思わせる質素な格好の女性として登場する。今回は蝶々さんとケイト(ケイト役のサラ・マクドナルドが今回唯一のアメリカ人キャストである。女優として「花子とアン」にも出ていたというサラは大学時代に、演劇、日本文化、日本語の3つを専攻しているそうだ)が会話を交わす場面のある1904年ブレシア版の楽譜が用いられている。ケイトは「子供は自分が育てる」と蝶々さんに誓う。ある意味、象徴的なセリフである。

第2幕でも、蝶々さんの幼さが強調されており、「ある晴れた日に」は、蝶々さんのピンカートンへの思いと同時にアメリカへの盲信が歌われているようでもある。

紗幕が透け、芸者の頃の可憐な蝶々さんが現れる。それを追う、ボンゾ、ヤマドリ公爵ら。最後にピンカートンが姿を現す。

蝶々さんが、家を花で飾ろうと歌う場面では、合唱団員が着物姿で現れて花びらを撒いていくが、最後に黒子が黒いものを投げていく。焼かれた街に残った炭だろうか。

蝶々さんが新婚時の姿に着替えようというとことで、再び衝立が一直線に横に並ぶ。今度は裏側をこちらに向けて並べる。光を放つ紙が切り貼りされており、ステンドグラスのように見える。どうやら大浦天主堂を仄めかしているようだ(浦上天主堂かも知れないが、ステンドグラスの種類がちょっと違う。いずれにせよナガサキの象徴である)。黒ずくめの合唱団員が現れ、ステンドグラスのように光る衝立の前に並んで歌う(ハミング・コーラス)。彼らの正体は死者だと思われる。
死者達が去った後、間奏曲が流れ、蝶々さんの化身が現れて舞う。下手から上手へと歩みながら。可憐だが、大きく反り返る様などは痛みを表しているようにも見える。


ピンカートンに裏切られたことを知った蝶々さんは、第2幕では平台の下手に場所を移して掲げられていた星条旗を引き抜き、放り投げる。紗幕の後ろに再び蝶々さんの父親が姿を現し、蝶々さんの自殺が仄めかされて終わる(自刃そのもののシーンはない)。


1945年8月6日に広島に、同年8月9日に長崎にアメリカにより原子爆弾が投下された。一瞬の光の下での大量虐殺。自身が虐殺行ったという実感を終生を持たぬままアメリカのパイロットは他界した。そしてアメリカ人の多くは「原爆は正義であった」と今も思っている。日本の国土を蹂躙したアメリカに戦後従い、追わなければならなかった日本人の根源的な哀しみと無念がヒシヒシと感じられる。そして同時に感じるのは強い怒りだ。アメリカに倣うのはある意味では仕方なかった。しかし、今なお徹底した従米路線良しとする一団に憤りを覚えるのだ。

アメリカが描いた自由、民主主義、理想、正義。それらが真っ赤な嘘であったことは今では知られている。戦争をすることで儲けるアメリカ。平和を掲げる日本が最も戦争大国アメリカを支持している国家だという矛盾。


フェスティバルホール3階で聴いた音であるが、オーケストラは美しいが響きが薄く、声は良く通るが、やはり巨大な空間であるため、声があちこちに反響してガタガタ軋むようなところがある。視覚的にも余り良くない。字幕は、上手下手のプロセニアム沿いにあるのだが、下手の字幕は私が座った席からは薄くて見にくい。上手の字幕はステージ中央から遠く、演技と字幕両方を見るには視線を大きく動かす必要がある。上手の字幕もそれほど見やすくはない。蝶々の形の旗が登場した時は上手の字幕が隠される格好になってしまい、難儀した。
ということで、オペラに向いたホールという印象は受けなかった。道理でオペラ上演が思ったよりも少ないわけだ。
そもそも3階席、綿ぼこりが舞ってるし、これあかんやろ。


タイトルロールを歌った中島彰子であるが、声が澄んでいて心地よい。また、一芝居のシーンがあるのだが、声音を変えて上手く演じていたように思う。

スズキを歌った鳥木弥生。衣装がずっと地味なので目立たないような印象を受けるが、しっかりとした歌唱を聴かせてくれる。

ピンカートン役のロレンツォ・デカーロの堂々とした演技も見事だったが、シャープレスを演じたピーター・サヴィッジの演技力が極めて高く、それがこの公演の成功に大きく貢献している。

今回は太鼓持ちであるゴローを歌った晴雅彦は、持ち前の剽軽さも発揮していた。


ミヒャエル・バルケの指揮は、拍を刻むオーソドックスなもの。叙情的な部分も良かったが、「宮さん宮さん」などのリズミカルな旋律の処理の方が達者である。

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2017年2月 8日 (水)

コンサートの記(271) 垣内悠希指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪フィル×ザ・シンフォニーホール「ソワレ・シンフォニー Vol.5」

2015年5月22日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時30分から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、大阪フィル×ザ・シンフォニーホール「ソワレ・シンフォニー Vol.5」を聴く。昨シーズンから大阪フィルが始めた午後7時30分開演という通常より遅い時間のコンサート。昨年は休憩なしで小品一つと交響曲1曲(全て交響曲第1番であった)という内容で、指揮者もベテランが多かったが、今期は若手指揮者を登用。比較的演奏時間は短いが、有名曲を取り上げる、協奏曲をプログラムにいれ、途中休憩もあるというスタイルに変わった。「ソワレ・シンフォニー」というタイトルだが、今日と次回は共に交響曲(シンフォニー)はプログラムに取り上げられておらず、シンフォニーは「ザ・シンフォニーホールのこと」程度の意味になってしまっている。

今日の指揮者は垣内悠希。今年(2015年)の京都市交響楽団ニューイヤーコンサートの指揮台にも立った指揮者である。1978年、東京生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科を首席で卒業後、ウィーン国立音楽大学指揮科をやはり首席で卒業。その後、ウィーン国立音楽大学の劇場音楽科特別課程(オペラ課程)を終了。6歳でピアノを始め、14歳から指揮の勉強を始めており、小澤征爾、ヨルマ・パヌラ、佐藤功太郎、レオポルド・ハーガー等に指揮を師事している。2011年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。2001年から現在までウィーン在住である。

曲目は、グリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲、ショパンのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏:山本貴志)、ムソルグスキー作曲(ラヴェル編曲)の組曲「展覧会の絵」

午後7時20分頃から、垣内によるプレトークがある。今日のプログラムは「ロシア」というテーマで統一したものであり、グリンカは「近代ロシア音楽の父」と呼ばれる人物であり、「ロシア人は西欧の真似をするのではなく、ロシア人の音楽を書くべきだ」と考えたとされる人で、こうした考えがムソルグスキーを含むロシア五人組に代表されるロシアの「国民楽派」へと繋がっていく。

垣内が住んでいるウィーンからみるとロシアは遥か遠く、ずっと東にあるという感覚だそうで(ウィーンのあるオーストリアも、オーストは英語のEAST」に当たり、「東の国」という意味ではある。実際、ウィーンは東欧とされるチェコのプラハより東に位置する)、ロシア人はそんな東の国から西欧まで出てきて、西欧の音楽を真似したり取り入れようとしたりしたが、結論としては「真似ではなく、ロシアの土壌に根ざした音楽を書こう」ということになった。
垣内は、「個人的には、オペラなどの序曲は大好きです。何時間も掛かるオペラのエッセンスを数分にまとめたもので、美味しいところがつまっています」と述べる。

ショパンはフランス系ポーランド人の作曲家であるが、ポーランドはショパンがワルシャワを去った直後にロシアに併合されている。
垣内がソリストの山本貴志に聞いたところによると、「協奏曲というのは、普通は外へ外へと音楽が向かっていくものだが、ショパンの協奏曲第2番は逆に内へと向かっていく」そうで、内省的な作風が独特だそうである。ショパンの性格のナイーブさ出ているのだと解釈することも出来る。

組曲「展覧会の絵」だが、ラストの「キエフの大門」の、キエフという言葉を聞くとロシア人はロシアで最初に建国された国であるキエフ大公国を連想するそうで、「我々のルーツはキエフにある」と思っている人が多いそうである。キエフというと今はウクライナの首都であり、ロシアとは別の国の都市になっているが、ロシア人は国情はともかくとしてキエフという場所には好感を持っているようである。なお、同じ古くからある都という縁もあり、キエフは京都市の姉妹都市となっている。

今日の大フィルのコンサートマスターは、かつて読売日本交響楽団首席コンサートマスターを務めたベテランの藤原浜雄。桐朋学園大学の教授でもある。これまで大フィルのコンサートマスターは若い人が務めることが多かったが、藤原は白髪である。首席コンサートマスターの田野倉雅秋と首席客演コンサートマスターの崔文洙は共に兼任しているポストがあるためか都合が付かず、コンサートマスターの肩書きを持っていた渡辺美穂が昨年(2014年)暮れに退団したため、藤原が今日のコンサートマスターを務めることになった。

グリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲。快速テンポの曲であり、「ここぞ」とばかりに新幹線のようなスピードで技量を見せつける楽団も多いが、垣内のテンポは「ルスランとリュドミラ」序曲としては中庸。
大フィルは音に張りがあり、今日も好調のようである。木管が僅かに引っかけたが、気になるほどではない。

ショパンのピアノ協奏曲第2番。ソリストのの山本貴志は猫背になり、鍵盤に顔を近づけて弾く場面が多い。おそらく、グレン・グールドの影響を受けているのであろう。輝きを放ちながら、その奥に影を感じさせる音色が特徴。優れたショパン弾きである。
第2楽章は、遅めのテンポを採り、ロマンティックな演奏を展開する。ただ、この楽章はもっと速いテンポで客観的に弾いた方が聴き手にショパンのメッセージが伝わりやすいと思う。過度にロマンティクになるとショパンの姿がぼやけて見える。

オーケストレーションは、19歳だったショパンが行ったものであり、ショパンはワルシャワ音楽院で管弦楽法を少し囓っただけであった。そのため鳴りが悪く、20世紀初頭までは、「ショパンのオーケストレーションは拙いので私が代わりに」ということで、ショパンのオーケストレーションをいじって演奏する慣例があった。一方で、「ショパンは友人にベルリオーズなどのオーケストレーションの名手がいながら、編曲を依頼した形跡はない」ということ、また、「ショパンは自身のイメージした音をオーケストレーションしたはず」ということで、現在ではショパンの書いたオーケストラの部分を改変することは基本的にない。響かないのは確かであるが、それは「主役はあくまでピアノとするため」という解釈もある。

ムソルグスキー作曲、ラヴェル編曲の組曲「展覧会の絵」。トランペットが意気揚々とプロムナードの主題を奏でる。自信漲るムソルグスキーという解釈なのだろうが、威勢が良すぎる気がしないでもない。
「小人」では、低弦と大太鼓のタイミングがずれた。垣内の指揮にミスがあったのかも知れない。その後の2度めのプロムナードではホルンソロがよちよち歩きになってしまうなど、最初の方は上手くいかない。

その後は立体感に溢れる好演を展開。今日はトランペットが明るすぎる嫌いがあるものの、その他の部分は上々である。ラストの「キエフの大門」の色彩感は独特であり、見事であった。

私が本格的にオーケストラのコンサートに通い始めたのは、今から丁度20年前の1995年の9月。東京・渋谷のNHKホールでのヘルベルト・ブロムシュテット指揮するNHK交響楽団の定期演奏会からであり、その時のメインの曲目も「展覧会の絵」であったのだが、あの頃は、日本のオーケストラがこれほどの高い水準まで成長するとは予想していなかった。

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2017年2月 1日 (水)

コンサートの記(270) ヤクブ・フルシャ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第504回定期演奏会

2016年12月8日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第504回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、チェコ出身のヤクブ・フルシャ。

曲目は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(ピアノ独奏:河村尚子)とショスタコーヴィチの交響曲第10番。


1981年生まれの若手指揮者であるヤクブ・フルシャ。東京都交響楽団首席客演指揮者として日本でもお馴染みである。今季(2016-2017)から名門バンベルク交響楽団の首席指揮者に就任。
プラハ芸術アカデミーで、イルジー・ビエロフラーヴェクとラドミル・エリシュカに師事し、チェコ国内で活躍。プラハ・フィルハーモニアの首席指揮者として知名度を上げ、現在では世界的な活動を行っている。
幸田浩子のアルバムにプラハ・フィルハーモニアと共に参加しており、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団や東京都交響楽団とも録音も行っている。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番でソリストを務める河村尚子(かわむら・ひさこ)はフルシャと同い年である。兵庫県西宮市生まれ。5歳の時に一家で渡独し、教育は全てドイツで受けている。最初のうちは日本人学校に通っていたが、後に自らの意思でドイツ語の学校に編入。ハノーファー国立音楽演劇大学大学院ピアノ・ソリスト課程を修了。エッセンのフォルクバング芸術大学の教授でもある。現在は、東京音楽大学ピアノ科の特任講師でもあり、同大学指揮科教授の広上淳一とも親しいようで、何度も共演しており、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の広上指揮京都市交響楽団との演奏はCDにもなっている。


今日のコンサートマスターは田野倉雅秋。ドイツ式の現代配置での演奏。


ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。赤いドレスで登場したソリストの河村尚子は今日も怖ろしいレベルの演奏を展開する。
高度なメカニックを誇る河村だが、今日の演奏は技術面で優れているだけでは絶対に弾けない類いのものである。曲が進む毎に輝きを増していくピアノの音色にも驚かされるし、右手と左手が別々の生き物のように鍵盤上で疾駆する様には唖然とさせられる。音は立体感を持ち、感情が宿っている。
第2楽章の哀しみの表現も秀逸であり、「とんでもないレベルのピアニストになってしまったな」という印象を受ける。

フルシャ指揮の大阪フィルは、編成を一回り小さくし、ビブラートを抑えめにしたピリオド・アプローチでの演奏。にも関わらず、広いフェスティバルホールでかなり鳴らす。
チェロやコントラバスをしっかりと弾かせるピラミッドバランスの演奏。古楽を意識したティンパニの硬めの音も特徴である。


河村はアンコールとしてスカルラッティのソナタヘ長調K.17を弾く。フルシャもホルン奏者の前に腰掛けて河村の演奏を聴く。
「玲瓏」そのものだ。


ショスタコーヴィチの交響曲第10番。エキストラを多数入れての大編成での演奏。

フルシャの指揮は、指揮棒を持っていない左手の使い方が巧みであり、雄弁でもある。この曲ではジャンプを繰り返すなど、若々しい指揮姿が印象的である。
オーケストラを鳴らす術に長けたフルシャ。今日も大フィルを盛大に鳴らす。フェスティバルホールの音響は、ショスタコーヴィチを演奏するには実は最適である。大阪市北区と福島区の間にあるザ・シンフォニーホールは優れた音響のホールだが、空間が小さく残響が長いため、最強音で鳴らすと音が飽和してしまうだろう。フェスティバルホールはその心配はない。

ラストもジャンプで決めたフルシャ。実は今日は客の入りはそれほどでもなかったのだが(日本では若い指揮者が振る演奏会は入りが余り良くないことが多い)、聴衆は盛んな拍手でフルシャと大フィルを讃えた。

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