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2019年8月 5日 (月)

コンサートの記(582) 東京2020公認プログラム 大野和士指揮バルセロナ交響楽団ほか プッチーニ作曲 歌劇「トゥーランドット」大津公演

2019年7月28日 びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、東京2020公認プログラム プッチーニ作曲 歌劇「トゥーランドット」を観る。大野和士指揮バルセロナ交響楽団の演奏、バルセロナ・オリンピックの開会式の演出も務めた(ということは坂本龍一が音楽と指揮を務めた時である)アレックス・オリエの演出。出演は、ジェニファー・ウィルソン(トゥーランドット)、デヴィッド・ポメロイ(カラフ)、砂川涼子(リュー)、妻屋秀和(ティムール)、持木弘(アルトゥム皇帝)、森口賢二(ピン)、秋谷直之(パン)、糸賀秀平(ポン)、真野郁夫(ペルシャの王子)、黒澤明子(侍女1)、岩本麻里(侍女2)。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブル、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部。児童合唱:大津児童合唱団。

来年の東京オリンピックの開催を記念して、東京(東京文化会館、新国立劇場)、びわ湖ホール、札幌文化芸術劇場hitaruで開催される「トゥーランドット」公演。大野和士が手兵であるバルセロナ交響楽団を率いて行うツアーである。

昨日今日と、びわ湖ホールでの公演が行われるのだが、実は昨日は公演中に原因不明の停電があり、約70分に渡る中断があった。
ということで、開演前にびわ湖ホール館長の山中隆が登場して(第一声は「私が登場するとろくなことがないんですが」)、昨日の公演での中断のお詫びと、それでも礼儀正しく鑑賞していただけたことの感謝、そして、停電によって舞台機構に異常が発生したため、演出を変えることの断りを述べていた。

セットは両サイドに階段の伸びる柱状のものが組まれており、中央には一段高くなった舞台があるというシンプルなものだが、本来は背後で色々動く予定だったのかも知れない。

 

プッチーニの遺作となった「トゥーランドット」。中国・北京を舞台にした作品であるが、初演直後に中華民国から「国辱だ!」と抗議が入ったという話がある。中華人民共和国になってからも、「トゥーランドット」の中国での上演は長く行われなかった。
プッチーニはリューの葬送の場面までを書いたのだが、その直後に急死。残されたスケッチなどを基にフランコ・アルファーノが補筆完成させた。初演の指揮はアルトゥーロ・トスカニーニが担当したが、トスカニーニはリューの葬送の場面が終わったところで、「作曲者はここで力尽きたのです」と客席に語って演奏を切り上げてしまっている。公演2日目には、トスカニーニはアルファーノの補作を縮めたバージョンを指揮、これが定着したが、ルチアーノ・ベリオの補作による新バージョンも存在する。私自身は「トゥーランドット」を生で観るのは初めてだが(異なったストーリー展開を見せる宮本亜門演出の音楽劇「トゥーランドット」を生で観たことはある)、映像では本場の紫禁城で行われたズービン・メータ指揮(張芸謀演出)のものと、ベリオの補筆完成版を採用したヴァレリー・ゲルギエフ指揮のものを観ている。

プッチーニがラストを確定させる前に亡くなってしまったということで、まるで取って付けたかのような結末に関する異論は当然あり、今回はアレックス・オリエが用意した悲劇的なラストを迎えるという趣向が取られている(それほと突飛なものではないが)。

 

ベルギーのモネ劇場音楽監督を経て、リヨン国立歌劇場の首席指揮者として世界的に活躍する大野和士。今日もバルセロナ交響楽団と日本が誇る3つの合唱団から、まさに「マッシブ」と呼ぶに相応しい凄絶な音を引き出す。響きだけで聴き手を圧倒出来るレベルである。

 

スペインはオーケストラ大国ではないが、バルセロナ交響楽団は、大植英次や日本でもお馴染みのパブロ・ゴンザレスが音楽監督を務めていたということで、日本でも知名度の高い楽団である。元々はパブロ・カザルスが組織したオーケストラが母体となっており、歴代の音楽監督には、ガルシア・ナバロや京都市交響楽団へも客演したエルネスト・マルティネス・イスキエルドといったスペインを代表する指揮者の名前を見ることが出来る。艶やかで滑らかで多彩な音を繰り出すことの出来るオーケストラである。

「トゥーランドット」というタイトルであるが、タイトルロールがなかなか登場しない(登場しても1幕ではセリフなし)という不思議な構造を持つ。トゥーランドットは冷酷な王女であるが、その性質もあって余りドラマティックな活躍はせず、ヒロインに相応しいのはむしろ女奴隷のリューの方である。私は観たことがないが、実際にリューをヒロインとした補作完成バージョンも存在するようだ。
今回、リューを演じた砂川涼子は見事な歌唱と演技で客席を沸かせ、カーテンコールでの拍手や歓声も一番大きかった。

 

演出のアレックス・オリエは、トゥーランドットやカラフのトラウマを掘り下げ、先祖のトラウマを愛は乗り越えられないという結論へと導く。筋的には納得のいくものである。ただ、個人的には純粋な愛に生きたリューという人物が今回の演出以上に鍵を握っているのではないかという気もする。本来的にはこれはリューの物語なのではないだろうか。氷のトゥーランドットと熱のリューの対比をもっとあからさまに描いてみるのも面白いかも知れない。

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2019年7月 2日 (火)

観劇感想精選(308) 野村万作・萬斎狂言公演「萩大名」「木六駄」@びわ湖ホール2014

2014年12月14日 びわ湖ホール中ホールにて観劇

午後5時から、びわ湖ホール中ホールで、「野村万作・野村萬斎狂言公演『萩大名』『木六駄』」を観る。タイトル通り野村万作と野村萬斎の親子による狂言公演である。今日は午後1時からと午後5時からの2回公演で、シテ方が交代する。午後1時からの「萩大名」のシテ方を務めるのは野村万作、午後5時からの「萩大名」のシテ方は野村萬斎である。「木六駄」では逆に午後1時からのシテ方は野村萬斎、午後5時公演のシテ方は野村万作である。

上演前に野村萬斎が登場し、作品の解説を行う。「萩大名」(毛利氏ではない)について。作品が作られた室町時代の頃の大名というのは名田を多く持っている人のことで、いわゆる守護大名や戦国大名、1万石以上の大名ではないという。田舎から京に上ってきた田舎大名が将軍(足利氏)から所領を安堵された上に新たに領地を加増された。しかもすぐに国元に戻って良いというので大喜びである。大名は都で物見遊山して国に帰ろうと太郎冠者に言う。
萬斎は「大名というのはプライドが高いので、舞台の前方まで出ていくんです。普通は中間ぐらいで止まるんですが、かなり前まで出てしまう」と解説する。
お付きの太郎冠者は大名の出世を願って清水寺の観音菩薩に日参していたという。
「『ニッサン』聴き慣れない言葉ですね。車の会社ではないですよ。私はHONDAのテレビCMに出ていますので、ライバル会社の宣伝をするわけには参りません。HONDA、HONDA、HONDA。これぐらい言っておけば宜しいでしょうか」と萬斎。「日参というのは毎日参拝することです。太郎冠者が熱心に祈っていたんですね」
その太郎冠者が清水寺の参道に茶屋があり、庭園の萩が見事なので国元に帰る前に見物することを進める。ただ、その茶屋の主というのが少々お堅い風流人であり、来客に和歌を一首求めるのだという。
萬斎は、「この大名というのは武人。政治家なんですね。ところで投票行きましたか?(この日は衆議院選挙の投票日であった)」と客席に聞き、「武人なので文化系のことは苦手なので和歌は詠めない。そこで太郎冠者がその辺で聞いた和歌が相応しいのでそれを詠めば良いということになります。しかし大名は和歌が覚えられない。そこで太郎冠者がブロックサインを出すわけです」と萬斎は続ける。
萬斎は太郎冠者がすねを出すところに注目して欲しいとも解説する。

「木六駄」について萬斎は、「普通は『き・ろくだ』という風に読むのですが、狂言では『きろくだ』と読むわけです。オリンピックかなんかの『記録だ』みたいですが」
「この狂言は珍しいんです。普通の狂言は『この辺りに住まいいたす者でござる』と始まるのですが『木六駄』では、『奥丹波に住まいいたす者でござる』とこう言うんですね。東京でやると奥丹波と言ってもわかって貰えないのですが。駄というのは荷物の単位でありまして、木の束六駄と炭六駄を牛に一頭に一つずつ、全部で12頭に乗せまして雪の中を都まで引いていくわけです。野性の牛を見たことがあるという方はいらっしゃいますでしょうか。私はイギリスに留学していた時に、ロンドンから郊外まで車を運転していますと田舎に入るや牛と遭遇するわけです。牛というのがなかなか動かない。ただイギリス人というのはそういうことには鷹揚なわけです。クラクションを鳴らしたりしない。牛が通過するまで10分ぐらい待っていたりします。このなかなか動かない牛を動かすという演技を父がやります」
「最初から真ん中に人が座っていますが、狂言というのは人が出たり入ったり忙しいのを嫌いますので、座っていたとしても動いてなかったらいない。見えていても見えないというお約束でございます。今度は紛らわしいのですが、牛はいないのですがいると、想像力を働かせる必要があります。狂言を見るには想像力が必要です」と語り、「見えないものが、さもあるかのように演じるのを父は得意としておりまして、この場にいらっしゃる方は幸運でございます」と父親を立てた。

狂言の前に小舞が二曲、「貝づくし」と「海人」である。
「貝づくし」を舞うのは岡聡史。地謠により様々な貝の有様が描かれる。
「海人」は、母親が竜宮城に奪われた玉を取り返すために海獣達と戦うという、よく演じられる内容のものである。深田博治が舞った。

「萩大名」。大名を演じる野村萬斎は、やや大袈裟にサーッと舞台の前方まで早足で出て来て、解説を聞いていた観客を笑わせる。
見事な萩を持つ庭園を見に行くことにした大名であるが、和歌が詠めない。そこで太郎冠者(内藤進)が「七重八重九重とこそ思ひしに十重咲きいづる萩の花かな」というどこかで聞いた和歌を知っているのでを用いれば良いという。しかし大名は物覚えが悪いので、「そんなものを諳んじるには三年はかかる」と言う始末。そこで、太郎冠者がヒントを与えることにする。扇を開き、七本目八本目を出して「七重八重」とし、九本目で「九重ばかりと思いしに」、十本全部を開いて「十重に咲きいずる萩の花かな」と示す。萩は太郎冠者が向こうずねを出して、それを「脛(はぎ)」として覚えることにする。
早速、茶屋にやって来た大名と太郎冠者。茶屋の亭主(月崎晴夫)が出迎え、庭を見せる。大名が「あの白い砂はなんじゃ?」と聞くので亭主が「備後砂」でございます」と答えると、大名は「道明寺干し飯(河内国道明寺で作り始めた乾燥してたくわえる飯のこと)のようじゃ」と無粋なことをいって太郎冠者に制せられる。赤い萩の花と白い砂を見て、「赤飯のようじゃ」とまた食べ物に例えた発言をして田舎者丸出しの大名。
亭主に和歌を詠むよう求められ、太郎冠者の助けを借りる大名。しかし扇子の姿そのままに「七本八本」と言って亭主を不思議がらせる。大名は太郎冠者にそっと言って貰って「七重八重」と本来の言葉を継げる。その後も「九本」と言ってしまい、扇子を開いて出すと「はらり」などと言ってしまう大名に太郎冠者は愛想を尽かし、一人で茶屋から帰ってしまう。太郎冠者の助力で「七重八重九重とこそ思いしに十重咲きいずる」までは詠めた大名であるが、振り返ると太郎冠者がいない。そこで、「さらば」とそらっとぼけて帰ろうとするが、亭主がそれを許さない。大名は太郎冠者がやっていたことを思い出すが、「七重八重九重とこそ思いしに十重咲きいづる太郎冠者の向こうずね」と言ってしまい、不調法者として亭主に追い出されるのだった。
野村萬斎は華があって良い。あの華は持って生まれたもので出そうとしても出せないものである。

「木六駄」。野村万作がシテである太郎冠者を演じるのだが野村万作は太郎冠者をやるには年を取り過ぎている感がなきにしもあらず。ただ演技は流石にしっかりしている。
丹波国の山奥。主(中村修一)から、木六駄、炭六駄を牛に載せて都の親戚の家まで運ぶよう命じられた太郎冠者。最初は嫌がるが、布子(詰め物のある麻の着物)をやるからと主に言われて喜んで引き受けてしまう。主からは都の親戚に手酒を持って行くよう命じられ、左手に手酒を提げ、右手で牛を鞭打って進むことになる。主からは文も預かった。
いうことを聞かない牛をなだめすかしながら雪道を進んできた太郎冠者は、峠に茶屋があるのを見つける。茶屋の主(高野和憲)は、茶屋の中に太郎冠者を案内する。体が冷えたので酒を所望した太郎冠者であるが、茶屋には生憎酒はないという。茶屋の主は太郎冠者が手酒を持っているのを見て「それを飲めば良いではないか」と言い、太郎冠者も「濃い酒なので減った分を水で埋めればばれまい」として、手酒を飲んでしまう。そうこうしているうちに杯が進み、手酒を全て飲み干してしまった太郎冠者と茶屋の主。太郎冠者は世話になったと木六駄も茶屋の主にあげてしまう。
太郎冠者は茶屋の主の掛け声に合わせて「鶉舞」を舞う。酔いながらちょこちょこと踊る舞である。
都についた太郎冠者は主の伯父(石田幸雄)の家に行くのだが、酔っているということもあり「何をしに来たのかわからない」と言う。そこで太郎冠者は主から授かった文を主の伯父に渡す。文には手酒と木六駄を太郎冠者に託したと書いてあったのだが、手酒も木六駄もない。我に帰った太郎冠者は逃げだし、それを主の伯父が追うというところで話は終わった。

今日は2階席からの観劇であった(1階席は満席であったが2階席はガラガラであった)が、きめ細やかな表現を味わうことが出来、満足であった。

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2019年5月 2日 (木)

コンサートの記(552) 近江の春 びわ湖クラシック音楽祭2019初日 葵トリオ&大西宇宙バリトンリサイタル&沼尻竜典オペラ・セレクション プーランク 歌劇「声」

2019年4月27日 びわ湖ホールにて

今日から明日までの二日間、びわ湖ホールで「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭2019」が開催される。今年は昨年とは違ってそれほど興味を惹かれなかったのだが、プーランクのモノオペラ「声」に出演予定だった砂川涼子が数日前、体調不良のために降板、急遽カバーキャストだった石橋栄実が代役として本番に挑むことを知り、聴きたくなったのである。砂川涼子も良い歌手で聴いてみたくはあったのだが、大阪音楽大学声楽科の教授でもある石橋栄実が「声」をやるなったら「聴きにいかねば」という義務感のようなものを感じてしまったのだ。

数年前に、渋谷のスパイラルホールで三谷幸喜演出、鈴木京香の出演による「声」を観たのだが、三谷幸喜は基本的に陽性のものを生み出す人、鈴木京香も健康美が売りの女優であるため、痛切さには欠けていて、残念な気持ちで会場を後にしている。

 

せっかく音楽祭が行われているのにモノオペラ「声」だけを聴いて帰るというのももったいないので、葵トリオと大西宇宙のリサイタルのチケットも取った。

 

午後1時5分から、びわ湖ホール中ホールで葵トリオのコンサートを聴く。曲目は、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲第5番「幽霊」とマルティヌーのピアノ三重奏曲第3番。

葵トリオは、小川響子(ヴァイオリン)、伊東裕(いとう・ゆう。チェロ。男性)、秋元孝介(ピアノ)によって結成されたピアノトリオ。Akimoto、Ogawa、Itoの頭文字を取って葵トリオと命名されており、葵の花言葉である「大望、豊かな実り」にもちなんでいるそうである。昨年のミュンヘン国際コンクールで優勝を飾っており、今最も注目される日本人ピアノトリオである。
全員、東京藝術大学と同大学院の出身。
小川響子(愛称は「おがきょ」のようである)は、東京フィルハーモニー交響楽団のフォアシュピーラーとして活躍し、カラヤン・アカデミーの試験に合格して、現在ではベルリン・フィルで学んでいる。
伊東裕は、東京藝術大学大学院を修了後、ザルツブルク・モーツァルティウム音楽院に進み、現在はラ・ルーチェ弦楽八重奏団と紀尾井ホール室内管弦楽団のメンバーである。
秋元孝介は、東京藝術大学大学院博士課程在籍中。第2回ロザリオ・マルシアーノ国際ピアノコンクールで第2位を受賞している。

中ホールで室内楽を聴くのは初めて。今日は2階席で聴いたが、音の通りが良く、室内楽にも向いているようだ。

葵トリオの演奏であるが、一体感が見事、あたかも三人で一つの楽器を弾いているかのような、あるいは三つの楽器を一人で奏でているかのような自在感と反応の良さに魅せられる。スタイルとしてはシャープであり、モダンスタイルによる演奏だが、時折古楽的な響きも出すなど、スタイルの幅広さが感じられ、現代的である。
昨年、びわ湖ホールで聴いたフォーレ四重奏団もそうだが、アルバン・ベルク・カルテットのスタイルを更に先鋭化させたような切れ味の鋭い表現が室内楽における一つの傾向となっているようである。

アンコール演奏があり、ハイドンのピアノ三重奏曲第27番より第3楽章が演奏された。
ここでも鋭利な表現が聴かれる。

 

続いて、小ホールで大西宇宙(おおにし・たかし)によるバリトンリサイタルを聴く。午後2時開演。葵トリオのアンコールがあったため、小ホールに入るのが遅くなり、開演5分前にようやく席に着く。

曲目は、プロコフィエフの歌劇『戦争と平和』より「輝くばかりの春の夜空だ」、ヴォルフの「メーリケ歌曲集」より「散歩」「少年鼓手」「炎の騎士」、武満徹の「死んだ男の残したものは」、シアーの「アメリカン・アンセム~名もなき兵士に捧ぐ歌」

ピアノ伴奏は、筈井美貴(はずい・みき)。

大西宇宙は、武蔵野音楽大学を経て、ジュリアード音楽院を卒業。シカゴ・リリック歌劇場で研鑽を積み、「エフゲニー・オネーギン」「真珠採り」「カルメン」「リゴレット」「ロメオとジュリエット」などに出演している。

筈井美貴は、武蔵野音楽大学音楽部器楽科を卒業、同大学院修了。第11回メンデルスゾーン・カップ・ヨーロッパ第1位及びルービンシュタイン賞受賞。主に声楽家と共に活動している。

日本人の場合、体格面の問題でバリトンとはいえ声が軽い人が多いのだが、大西は、はっきりとしたバリトンの音程と声質で歌うことの出来る歌手である。

「戦争と平和」を主題としたリサイタル。歌詞対訳などは配られなかったが、大西が曲の内容を解説する。

筈井のピアノは伴奏としては表現が豊かすぎるところがあるような気がしたが、達者なのは確かである。

私の好きな「死んだ男の残したものは」は、全曲ではなく抜粋版での歌唱。もう少し歌い分けが明確な方が良いように思うが、クラシックの歌曲としてはこうした表現の方がしっくりくるのも確かである。

 

 

午後3時から、大ホールで沼尻竜典オペラセレクション プーランクの歌劇「声」を観る。演奏会形式であるが、衣装、演技、セットありでの上演。先に書いたとおり、当初は砂川涼子が主演する予定であったが体調不良により降板、カバーキャストであった石橋栄実が短時間のリハーサルを経て本番に臨む。
原作・脚本:ジャン・コクトー、演出:中村敬一。演奏は沼尻竜典指揮の京都市交響楽団。
コクトーの「声(人間の声)」は心理劇であり、プーランクの音楽によって主人公である女の心理がよりわかりやすいようになっている。繰り返される音が女の落ち気味の心理状態を描写し、木琴による電話のベルが神経症的に響く。女はもう恋人である男にあうことは叶わず、声を聴くことだけで繋がっているのだが、「今の私にはあなたの声だって凶器になるわ!」という言葉が次第に真実味を増していく。

恋愛中毒気味の女を石橋栄実は見事に体現しており、歌唱も演技も万全、沼尻指揮の京響もプーランクの音楽を我が物にしており、アンニュイで痛みのあるオペラに仕上がっていた。

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2019年1月31日 (木)

コンサートの記(515) びわ湖ホール オペラへの招待 林光 オペラ「森は生きている」(室内オーケストラ版)2019

2019年1月20日 びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで林光のオペラ「森は生きている」(室内オーケストラ版)を観る。原作:サムイル・マルシャーク、訳:湯浅芳子、台本・作曲:林光、オーケストレーション:吉川和夫。指揮とピアノは寺嶋陸也(てらしま・りくや)、演奏は大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団(コンサートミストレス:赤松由夏)。美術:増田寿子、衣装:半田悦子。演出:中村敬一。「びわ湖ホール オペラへの招待」として上演されるもの。

開演前に舞台体験コーナーが設けられており、自由に舞台に上がってあちこち見て回ることが出来るようになっている。私も舞台に上がって色々と観察する。


出演は全員、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーで、宮城島康(みやぎしま・こう)、溝越美詩(みぞこし・みう)、森季子(もり・ときこ)、川野貴之、藤村江李奈、船越亜弥、黒田恵美(くろだ・えみ)、熊谷綾乃(くまがい・あやの)、益田早織、栗原未和(くりはら・みわ)、坂東達也、五島真澄(ごとう・ますみ。男性)。


日本を代表する作曲家の一人である林光(1931-2012)。早くから尾高尚忠に師事し、東京芸術大学に進むも、もう学ぶことはなにもなくなってしまっており、早々に中退してプロの作曲家として活躍を始めている。現代音楽とは距離を置き、旋律のクッキリとした明確な作風が特徴である。オペラシアターこんにゃく座の座付き作曲家としても活動しており、「森が生きている」もこんにゃく座のために書かれたものである。


ロシアの児童小説家であるサムイル・マルシャークの戯曲が原作であり、このオペラも舞台はロシアである。

まず月の精霊たちの集いが描かれた後で、少女(黒田恵美)が森に薪を拾いに来たところから話が始まる。この国の女王様(栗原未和)は少女と同じぐらいの年なのだが、聡明ではあるもののやや子供じみており、とてつもなくわがままである。女王様は真冬であるにも関わらず、「籠一杯のマツユキ草が欲しい」と家臣にねだり、家臣がお触れを出すことになる。薪を拾いに来た少女はどうやら母親や姉と血が繋がっていないようで、いつも冷たくされていた。今日も母と姉から「マツユキ草を摘んでくるよう」命令され、持って帰れないと家には入れて貰えないという仕打ちを受ける。母も姉も少女が死んでも構わないという考えのようだ。
当然ながらマツユキ草を見つけることが出来ず、少女は彷徨う。死を意識して怯える少女だったか、遠くに光を見つける。進んでいくと……。


昔からよくある貧しく不幸な少女の成功を描いた童話である。少女のサクセスストーリーであるだけでなく、女王の悟りと改心の物語でもあり、教訓めいてもいるのだが、子どもや若い人のためのオペラ入門としても優れた作品である。
第2幕冒頭に合唱で歌われる「十二月の歌」は、聴衆も一緒になって歌う、ということで開演前にワークショップのようなものがあり、びわ湖ホール声楽アンサンブルとメンバーと聴衆が一緒になって歌う。無料パンフレットの中に「十二月の歌」の楽譜が記されている。


中村敬一の演出は、紗幕に投影される映像を生かしたもので、わかりやすさと共にファンタジックでメルヘンチックな味わいを加えることにも成功していたように思う。

びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーによる歌唱も愛らしく、漫画的なところのあるこのオペラの展開に相応しいものになっていた。

上演終了後に、「十二月の歌」が再度びわ湖ホール声楽アンサンブルと聴衆によって歌われ、雰囲気の良いまま終わる。びわ湖ホールは、「びわ湖ホール オペラへの招待」などを通してオペラファンを着実に増やしているようだ。



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2019年1月23日 (水)

コンサートの記(511) 神尾真由子ヴァイオリン・リサイタル2019@びわ湖ホール

2019年1月14日 びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、びわ湖ホール名曲コンサート「神尾真由子ヴァイオリン・リサイタル」を聴く。ピアノ伴奏は夫君でもあるミロスラフ・クルティシェフが受け持つ。

2007年に行われた第13回チャイコフスキー国際コンクール・ヴァイオリン部門の覇者である神尾真由子。日本人現役ヴァイオリニストの中でも別格級の一人であり、技術に限れば一二を争う実力者である。ヴィルトゥオーゾタイプであり、パガニーニやロシアものなどを得意としている。1986年、大阪府豊中市生まれ。桐朋女子高校音楽科で原田幸一郎に師事し、チューリッヒ音楽院ではザハール・ブロンに学んでいる。


曲目は、ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタ、フランクのヴァイオリン・ソナタ、ガーシュウィンの歌劇「ポーギーとベス」より(ハイフェッツ編)、ブロッホの「ニーグン」、ワックスマンの「カルメン幻想曲」


ピアノのミロスラフ・クルティシェフは第13回チャイコフスキー国際コンクール・ピアノ部門で最上位(1位なしの2位)に輝いており、この時に神尾と知り合ったのかも知れない。


ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタ。思いのほかスケールの小さなヴァイオリンで冴えもない。びわ湖ホール大ホールは室内楽向きの音響ではないということもあるのだが、技術面に比して表現面はまだ余り磨かれていないのかも知れない。バリバリの技巧派である神尾だが、センス第一の曲目が不得手の可能性もある。
ミロスラフ・クルティシェフのピアノはドビュッシーの面白さを存分に表していただけにこの曲でのヴァイオリンは不満が残る。

フランクのヴァイオリン・ソナタは神尾の優れた構造力が前に出ており、スケールもぐっと拡がってなかなかの演奏となる。


神尾の真骨頂が発揮されるのは、後半のガーシュウィンから。20世紀最高のヴィルトゥオーゾであるハイフェッツが編曲したガーシュウィンの「ポーギーとベス」からの6曲は、スイング感こそないが、技術面の冴えと神尾独特の艶のある音色で魅せる。クルティシェフはこの曲でもアメリカ的なリズムの処理に長けた演奏を聴かせ、相当な巧者であることがわかる。

ブロッホの「ニーグン」では神尾の情熱に火が付き、聴き手を巻き込む圧倒的な「カルメン幻想曲」へと繋がっていく。若い頃のチョン・キョンファのような「獰猛」なヴァイオリンだ。カルメンだけにそのスタイルがとても良く合っている。真っ赤なドレスもこの曲を意識したものなのかも知れない。


アンコールは2曲。まずマスネの「タイスの瞑想曲」が演奏される。抒情的なメロディーを慈しむかのように演奏するヴァイオリニストが多いが、神尾はこの曲でもエモーショナルでドラマティックな演奏を繰り広げる。他ではまず聴けない情熱的な「タイスの瞑想曲」である。

ラストは、ディニーク作曲・ハイフェッツ編曲の「ホラ・スタッカート」。キレキレである。

神尾の卓越したメカニックとユニークな音楽性が印象的な演奏会であった。


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2019年1月13日 (日)

観劇感想精選(283) 紺野美沙子の朗読座「新春公演2019 源氏物語の語りを愉しむ ―紫のゆかりの物語」@びわ湖ホール

2019年1月5日 びわ湖ホール中ホールにて観劇

午後2時30分から、びわ湖ホール中ホールで、紺野美沙子の朗読座の公演「新春公演2019 源氏物語の語りを愉しむ ―紫のゆかりの物語」を観る。出演は、紺野美沙子(朗読とおはなし)、陣野英則(解説。早稲田大学文学学術院教授)、中井智弥(二十五絃箏、箏)、相川瞳(パーカッション)。演出は篠田伸二。

『源氏物語』から、第一ヒロイン的存在である紫の上(紫式部という通称の由来とされている)を中心とした恋物語のテキスト(早稲田大学名誉教授である中野幸一による現代語訳である『正訳 源氏物語』を使用)を用いた朗読公演である。


まずオープニング「新春を寿ぐ」と題した演奏がある。中野智弥作曲・演奏による箏曲「プライムナンバー」という曲が演奏され、その後、主役である紺野美沙子が現れて、中野とトークを行う。紺野美沙子は『源氏物語』ゆかりの帯を締めて登場。その写真が後方のスクリーンに映される。昨日、西宮の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで公演を行ったのだが、「もっと近くで帯の柄を見たい」という声があったため、今日は写真をスクリーンに投影することにしたそうである。前側が「浮舟」、後ろ側がおそらく葵祭の車争いの場面の絵柄である。着物の柄も平安時代を意識したもので、貝合の貝を入れる貝桶の絵が鏤められている。紺野は、『源治物語』の現代語訳を多くの人が行っているという話をするが、瀬戸内寂聴の紹介は物真似で行っていた。
中野が、「プライムナンバー」という曲名の解説を行う。「プライムナンバー」は「素数」という意味で(紺野美沙子はにこやかに、「素数。ありましたね」と語る)、4分の2拍子、4分の3拍子などの2や3が素数であると語り、素数の拍子を用いたこと、また箏は13弦で13は素数であることなどを語る。

ちなみに、『源氏物語』の主人公である光源氏は箏の名手であり、演奏を聴いた女性達が涙を流して感動したという話を中野がすると、紺野は、「あら? じゃあ、中野さんは、平成の光源氏?」と冗談を言い、中野も「そうだと嬉しいんですが。ローラースケートを履いてる方(光GENJI)じゃなく」と冗談で返す。紺野は、「次の時代もご活躍を」と更に畳みかけていた。

それから、二十五絃箏の紹介。邦楽は通常はペンタトニック(五音階)であるが、二十五絃箏は西洋のドレミの十二音階を奏でることが出来るそうである。

その後、パーカッショニストの相川瞳も登場。今日は25種類の打楽器を使うそうで、日本生まれの打楽器として木魚と鳥笛を紹介していた。

紺野美沙子は、有閑マダム層が使うような言葉遣いであったが、意識していたのかどうかはわからない。


その後、第1部のトークセッションに移る。ゲストは早稲田大学文学学術院教授の陣野英則。今日使用するテキストの現代語訳を行った中野幸一の弟子だそうである。
陣野は、『源氏物語』を長編大河小説と位置づける(紺野美沙子 「橋田壽賀子もびっくり」)。1000年前にこれほど大部の恋愛フィクションが書かれた例は海外にも存在せず、しかも作者が女性というのが凄いという話になる。海外ではこの時代、歴史書や叙事詩、戦争物や回顧録、エッセイ、日記文学などは書かれていたが、大部のフィクションの名作が現れるのはずっと後になってからである。

『源氏物語』がわかりにくいのは、古文ということもあるが、人間関係が入り組んでいるということを上げる。登場人物は450名ほどに上り、主人公の光源氏があちらと関係を持ち、こちらとも契りを結びということをやっているため、男女関係が滅茶苦茶になっている。ただ、陣野によると光源氏が素晴らしいのは、関係を持った全ての女性の面倒を見ることだそうで、ドン・ファンなど他の好色家には見られないことだとする。
スクリーンに人物関係図や男女関係図を投影しての説明。わかりやすい。
紺野美沙子は、「私、慶應義塾大学文学部国文科卒ということで、色々わからないといけないんですが、資料が多いもので、大和和紀先生の漫画『あさきゆめみし』で読んだ」と伝えると、陣野は、「今の学生は、ほぼ全員、『あさきゆめみし』から入っています」と答えていた。


第2部が今日のメインとなる「朗読と演奏」になる。

二十五絃箏の中井智弥は、東京藝術大学音楽学部邦楽科卒。伝統的な箏や地歌三絃の演奏も行いつつ、二十五絃箏の演奏をメインに行っている。2016年には三重県文化奨励賞を受賞。

パーカッションの相川瞳も東京藝術大学音楽学部出身。2007年にブルガリアで開催されたプロヴディフ国際打楽器コンクールDuo部門で2位入賞(1位なし)。大友良英 with あまちゃんスペシャルビッグバンドのメンバーとして紅白歌合戦に出場したこともあり、2019年の大河ドラマ「いだてん」オープニングテーマの演奏にも加わっている。

「いづれのおんときか女御更衣あまたさぶらいける中に、いとやんごとなききわにはあらねど、すぐれてときめきたもふありけり」の出だしからスタート。
光源氏と紫の上の出会い(といっていいのかな?)である「若紫」、光源氏と紫の上との初枕が出てくる「葵」、光源氏が須磨へと下り、紫の上と離ればなれになる「須磨」、源氏と結ばれた明石の君と、明石の姫君が大堰へと上る「松風」、光源氏と帝の娘である女三の宮が結婚することになるという「若菜上」、紫の上がみまかる「御法」と光源氏の死が暗示される「幻」の各帖から選ばれた文章が読まれ、和歌とその現代語訳が読み上げられる。映像も多用され、想像力の補完を行う。

紺野美沙子の朗読に凄みはないが、的確な読み上げは流石は一流女優の技である。テキストの背後にある心理をもさりげなく炙り出してみせる。

紫の上という女性の「女であることの哀感」と、光源氏の紫の上への愛と、愛するが故の切なさがありありと伝わってくる朗読であり、聞いていて一途に悲しくなったりもする。これが大和心の真髄の一つである「もののあはれ」だ。
哀しみと同時に、日本という国で生まれ育ったことの喜びが胸を打つ公演でもあった。


バラ色に彩られた雲が覆う琵琶湖の湖畔を歩いて帰途に就く。


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2018年11月26日 (月)

観劇感想精選(269) こまつ座第124回公演「母と暮せば」

2018年11月17日 びわ湖ホール中ホールにて観劇

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、こまつ座第124回公演「母と暮せば」を観る。山田洋次監督の同名映画の舞台化。原案:井上ひさし、作:畑澤聖悟(はたさわ・せいご)、演出:栗山民也。出演:富田靖子、松下洸平。

上演時間約80分の一幕もの二人芝居。舞台転換、休憩共になしである。


1948年8月9日の長崎。助産婦をしている母・伸子(富田靖子)が食事をしていると、亡くなったはずの息子・浩二(松下洸平)が現れる。幽霊と知りながら息子に接する母は、浦上にある官立長崎医科大学に通っていた息子の最期の様子などを知る。実は母は助産婦を辞めていた。その理由を息子に言い当てられ……。

戦争の悲惨さと、原子爆弾の残虐さを照射する作品である。戦争が終わり、長崎にやって来た米兵達は、被爆者を標本としてしか扱わず、自らの行いを虐殺とは思っていない。クリスチャンである信子は、原爆を運命だと受け入れようとするシスター達に反発を覚える。

世界から取り残されつつある母親に寄り添う息子、そして生きることと、生を司る助産婦として命のバトンを受け継ぐことを決意する母親の姿に心温まるものや清々しさを感じるのだが、「その後」を想像するとやりきれない思いも感じる(映画とはラストが異なる)。
長崎で起こったことを風化させないという意思が感じられる物語であり、被害者であるにも関わらず虐げられる被爆者達が、キリシタンの姿と重ね合わされ(親子は「耶蘇はおくんちにも精霊流しにも出るな!」と差別された経験があるそうだ)、人間の業を告発する。
そんな中にあって、母親役の富田靖子の声や雰囲気の温かさに心が和らいだ。


本編上演後にポストパフォーマンストークがある。出演は、こまつ座代表の井上麻矢(井上ひさしの三女)、富田靖子、松下洸平の3人。東京ではアフタートークという名称だったそうでで、松下は「パフォーマンスって、なんか踊ったり歌ったりしなきゃいけないみたい」と言っていた。

松下は琵琶湖を見るのは今回が初めてとなるそうで、大津港に大噴水があり、夜にはライトアップされている姿を見て「シンガポールみたい」と思ったそうである。
富田靖子は、舞台出演が7年ぶりということで、「次に舞台の仕事が来たらどんな舞台でも受けよう」と思っていたそうだ。
実は、前の公演からびわ湖ホール公演まで2週間開いたそうで、母と息子が久しぶりに会うという設定にピッタリだったのだが、松下は気がせいて、登場シーンから一気に語りかけてしまい、今回の上演が今までの最短上演記録となったそうだ。
松下は富田の第一印象について、「話しかけやすそう」と感じたそうだが、富田もそれは自覚しているそうで、よく道を聞かれるらしい。
富田は「母と暮せば」の物語について、「どうぞしっかり受け取って下さい」と観客に訴えかけていた。



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2018年11月19日 (月)

観劇感想精選(267) 「野村万作・野村萬斎狂言公演『舟渡聟』『小傘』」@びわ湖ホール

2018年11月10日 びわ湖ホール中ホールにて観劇

午後5時から、びわ湖ホール中ホールで「野村万作・野村萬斎狂言公演 『舟渡聟(ふなわたしむこ)』 『小傘(こがらかさ)』」夜の部を観る。

野村万作と萬斎の親子がびわ湖ホールで毎年行っている狂言公演。今回は萬斎の長男である野村裕基(ゆうき)が参加し、三世代揃い踏みとなる。


舞台の上に背面が松の木の能舞台が再現されている。午後5時を過ぎると野村萬斎が一人で登場し、初心者でもわかるようにとプレトークを行う。萬斎が「ありがたいことに。びわ湖ホールがオープンしてから毎年来させて頂いております。ひょっとして毎回来ているという方いらっしゃいますか?」と聞くと手を挙げる猛者がいた。


まず、能舞台の紹介を行った(「こちらが橋懸りというものでして、こちらがミニステージのようなもの。“Bridge and Mini Stage.”、英語で言っただけです何も変わりません」)後で「舟渡聟」の解説。大津が舞台の曲であり、他の狂言では「この辺りに住まいいたす者でござる」というのが一般的だが、この曲では「これは矢橋の浦に住まいいたす船乗りでござる」と具体的な自己紹介を行うのが特徴である。ちなみに萬斎は、「この8月には北京で、9月にはパリで『この辺りに住まいいたす者でござる』と言ってのけた」そうである。
その他に、「狂言で座っている人は無視していい」などの約束事を解説する。
舟の操縦についてだが、「エア」という言葉を萬斎は強調。午後1時からの昼の部の公演でプレトークを行っている間に、「エアでもエアプレインとエアボートは違う」と思いついたそうで、「ハイジャックはパイロットを揺するが、エアボートは船頭が率先して揺する」ことを述べていた。
京都を拠点にしている狂言大蔵流にも「舟渡聟」はあるのだが、展開が違い、シチュエーションの面白さには乗らないものになっているそうで、「『舟渡聟』は和泉流の方が面白い」という。

「小傘」は、博打に溺れて一文無しになった男がニセ僧侶になるという話である。「僧侶になれば食えるんじゃないか」という発想で安易に僧になり済ましたところ、折良く堂守を募集している人と出くわす。往事はインターネットも何もないので、街道に出て目に付いた人をスカウトするのが一般的である。運の要素が今よりも強い。
僧侶になり済ましたはいいが、経典は読めない。そこで、男は賭場で覚えた「傘の小唄」をいかにも経を読んでいるように唱えることでやり過ごそうとするのである。
「そんな無教養な人でも念仏は知っている」ということで、「なーもーだー」という念仏を萬斎が謡い、
萬斎 “Repeat after me.”
で観客が後を追うというワークショップのようなものを行う。萬斎は、「歌に自信がある人は一緒に謡って欲しい」と言ったが、本編では謡うよりも観ている方が楽しいという類いのものだったので、謡う人はほとんどいなかったように思う。


「舟渡聟」。聟を演じるのが野村裕基である。公文式のCMで親子共演も果たしているので、お馴染みの存在になりつつある。見るからに「才子」といった感じの萬斎とは違って優男風であるが、声は父親によく似ている。
まだ19歳ということもあって狂言方としては駆け出しですらなく、「舟渡聟」も初役だそうである。
潜在能力はともかくとして、現時点では演じるどころか役に振り回されている感じだが、持って生まれた品の良さが強く感じられ、今後が楽しみな存在である、というより萬斎の息子なのだから将来の狂言界を背負って立つのは当たり前という世の認識もあるだろう。プレッシャーも凄まじいだろうな。

船頭を演じるのは祖父の野村万作。やはり芸の深さが違う。


「小傘」。野村萬斎は、僧の小唄を思いっ切りユーモラスに謡う。普通はばれそうなのに、疑うということを知らない田舎者達の素直さと滑稽さも見物となる。
学生時代はバンドを組んでいたこともあるという野村萬斎。踊り念仏の場面でのリズム感の良さは、そうした経験が生きているのかも知れない。知らんけど。
ちなみに、ニセ僧侶が言うことには、「小傘こそ最高の仏具」だそうで、後光を表しているのだという。勿論、口から出任せである。


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2018年10月16日 (火)

コンサートの記(437) フォーレ四重奏団来日演奏会2018大津

2018年10月7日 びわ湖ホール小ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール小ホールでフォーレ四重奏団の来日演奏会を弾く。

フォーレを名乗っているが、ドイツ・カールスルーエ音楽大学出身者のドイツ人達によって結成された団体であり、弦楽四重奏団ではなくピアノ四重奏団である。常設のピアノ四重奏団は世界的にもかなり珍しい。

マルタ・アルゲリッチを始めとする多くの音楽家から高く評価されており、2006年には名門ドイツ・グラモフォン・レーベルと契約し、リリースしたCDはいずれも好評を得ている。

メンバーは、エリカ・ゲルトゼッツアー(ヴァイオリン)、サーシャ・フレンブリング(ヴィオラ)、コンスタンティン・ハイドリッヒ(チェロ)、ディルク・モメルツ(ピアノ)。

曲目は、フォーレのピアノ四重奏曲第1番、シューマンのピアノ四重奏曲変ホ長調、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(グレゴリー・グルズマン&フォーレ四重奏団編曲)。

びわ湖ホールは大ホールにも中ホールにも何度も来ているが、小ホールに入る機会は余り多くない。幸田浩子のソプラノリサイタルと、平田オリザやペーター・コンヴィチュニーが参加したオペラに関するシンポジウムで訪れたことがある程度である。

フォーレのピアノ四重奏曲第1番。フォーレ四重奏団が自らの団体名に選んだ作曲家であり、思い入れも強いと思われる。
ディルク・モメルツのフォーレによくあったピアノの響きが印象的である。フォーレというと「ノーブル」という言葉が最も似合う作曲家の一人であるが、それ以外の影の濃さなども当然ながら持ち合わせている。フォーレ四重奏団は音の輪郭がシャープであり、音楽の核心を炙り出す怜悧さを持っているが、アルバン・ベルク・カルテットに4年間師事していたそうで、「道理で」と納得がいく。

シューマンのピアノ四重奏曲変ホ長調。ノスタルジックな曲調であり、フォーレ四重奏団の叙情味溢れる演奏を行う。ヴァイオリンとヴィオラがハーディ・ガーディを模したような音型を奏でるところがあるのだが、少年時代の憧れが蘇ったような、なんともいえない気持ちになる。

メインであるムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」。ピアノ奏者のディルク・モメルツが、師であるグレゴリー・グルズマンによる同曲のピアノ三重奏版を再編曲したものである。
ピアノのパートもムソルグスキーの原曲とは異なるが、かなり意欲的な編曲となっている。ピアノ独奏による「プロムナード」が雄々しく奏でられ、「こんなに意気揚々と美術館に向かう人などいるのだろか?」と思うが、ある意味、自身の編曲に対する自信の表れなのであろう。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロなどが一音ずつ奏でられたり、ピッチカートの多用、コルレーニョ奏法、ヴァイオリンをミュートにしてのノンビブラート演奏で奏でることで弦楽器らしからぬ響きを出させるなど、特異奏法やヴィルトゥオーゾ的要素、諧謔精神に富んだものとなっている。時代が変わったということもあり、クラシック界でも音楽だけでなくユーモアの精神などで楽しませることの出来る人が多くなった。良い傾向であると思う。頑固な職人タイプの音楽家には逆に生きにくい時代かも知れないけれど

アンコール演奏。まずはフーベルト作曲の「フォーレタンゴ」。弦を強く止めることでギロような音を出すという特殊奏法が用いられている。演奏もノリノリである。

最後は、N.E.R.Oの「ワンダフルプレイス」。チェロのコンスタンティン・ハイドリッヒが英語で客席に話しかけ、口笛で演奏に加わることを聴衆に求める。まずフォーレ四重奏団が4小節ほどの短いメロディーを奏で、聴衆に口笛で吹いて貰う。ハイドリッヒは「僕が左足を上げたら口笛スタートでもう一度左足を上げたらストップね」ということで演奏スタート。私も口笛は得意なので参加。吹けない人は当然ながら聴くことしか出来ない。ハイドリッヒが左足を上げて、聴衆の口笛スタート。良い感じである。ハイドリッヒがもう一度左足を上げて口笛ストップ。良い感じである、と思ったが、なぜか一人だけ吹き続ける人がいて、ハイドリッヒも苦笑いである。終盤になるとハイドリッヒがマイクを持ってボイスパーカッションも披露。ラストは聴衆達の口笛を何度もリピートさせて終わる。

とても楽しいコンサートであった。



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2018年10月15日 (月)

コンサートの記(436) 沼尻竜典オペラセレクション NISSAY OPERA 2018 モーツァルト 歌劇「魔笛」@びわ湖ホール

2018年10月6日 びわ湖ホール大ホールにて

午後3時から、びわ湖ホール大ホールでモーツァルトの歌劇「魔笛」を観る。指揮はびわ湖ホール芸術監督の沼尻竜典。日本センチュリー交響楽団の演奏、佐藤美晴の上演台本と演出で、歌はドイツ語歌唱で日本語字幕付き。セリフは日本語で語られる。今年の6月に日生劇場で行われた公演のキャストを一部変更しての上演である。

元々高校生のためのオペラ作品として作成されたものであり、びわ湖ホールでもまず高校生限定公演が行われ、今日は一般向けの上演となる。

出演は、伊藤貴之(ザラストロ)、山本康寛(タミーノ)、砂川涼子(パミーナ)、角田祐子(夜の女王)、青山貴(パパゲーノ)、今野沙知惠(パパゲーナ)、小堀勇介(モノスタトス)、田崎尚美(侍女Ⅰ)、澤村翔子(侍女Ⅱ)、金子美香(侍女Ⅲ)、盛田麻央(童子Ⅰ)、守谷由香(童子Ⅱ)、森季子(童子Ⅲ)、山下浩司(弁者&僧侶Ⅰ)、清水徹太郎(僧侶Ⅱ)、二塚直紀(武士Ⅰ)、松森治(武士Ⅱ)。合唱はC.ヴィレッジシンガーズ。
ドラマトゥルク:長島確、衣装:武田久美子。

演出の佐藤美晴は、慶應義塾大学大学院修了後、ウィーン大学劇場学科に留学し、シュトゥットガルトオペラ、アン・デア・ウィーン劇場、イングリッシュ・ナショナル・オペラで研鑽を積んでいる。ハンブルク歌劇場で演出助手を務め、現在は東京藝術大学社会連携センター特任准教授と東京大学先端科学技術センター人間支援工学客員研究員を務めている。 第23回五島記念文化オペラ新人賞(演出)を受賞。最近は、東京芸術劇場と石川県立音楽堂の「こうもり」、NHK交響楽団の「ドン・ジョヴァンニ」の演出を担当した。

開演前にオーケストラピットを確認し、バロックティンパニが用いられることを知る。

ピリオド・アプローチを用いた演奏である。びわ湖ホール大ホールは空間が大きいので、ピリオドだと弦楽が弱く感じられ、序曲などは聞こえにくいという難点があったが、オペラの場合は声が主役であるため、全般的には問題なしである。バロックティンパニの強打はかなり効果的であった。

幕が上がる前、舞台の最前列にグランドピアノの小型模型が置かれている。序曲の途中で、三人の童女が次々に幕から顔を覗かせ、五線紙に羽根ペンで音符を書き込みながら戯れる。モーツァルトの化身のようであり、音楽そのものの擬人化のようでもある。

タミーノがスマートフォンを使って今いる場所を検索しようとしたり、「ヘイトやデマ」など、最近はやりのものが色々と登場する。

日本語でのセリフであるが、やはりオペラ歌手達は日本語の演技に慣れていないため、ストレートプレーやミュージカルの俳優に比べると言い回しに拙さは感じられてしまう。またセリフと歌の声のギャップがみな結構凄い。歌のレベルは日本人のみによるオペラとしては高く、満足のいく出来である。

ザラストロの館は、女人禁制のフリーメイソンを露骨に描写したものといわれるだけに、男性キャストしかいないのが普通だが、今回の演出では女性もかなり大勢いるという設定になっている。教団というよりは大企業という感じであり、そのために女性もいてタミーノと引き離されるパミーナにの肩に手を置いて同情的な仕草も見せるのであるが、朝の始業前の掃除をするのは女性だけ、第2幕冒頭に設けられた会議の場で机に座って参加しているのは男性だけで、女性は後ろの方に立ちっぱなしで雑用係(もしくは非正規社員)のようであり、発言権もないようだ。

男と女の対比は、「魔笛」においては重要なので、ザラストロとその配下の男という強者とその他の弱者という対比で行くのかと思われたが、それほど徹底してはいないようであった。音楽そのものが主役という解釈を取っているようなところがあるのだが、「音楽」という言葉は基本的に西洋の言語では女性名詞であることが多く、そこをザラストロと対比させるのも面白いとも思ったが、観念的なことは敢えて避けたのかも知れない。

ただ、倒された夜の女王と三人の侍女の亡骸が幕が下りるまで打ち捨てられたままだったり、やはり倒されたモノスタトスが後方へと去って行くザラストロににじり寄ろうとして力尽きるところなどは、女性や有色人種が置かれている状況を冷徹に描いているともいえる

沼尻の作り出す音楽はいつもながらややタイトであり、モーツァルトだけにもっと膨らみのある音が欲しくなるが、日本センチュリー響のアンサンブルの精度も高く、歌手達の魅力も十分に引き出していた。


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