カテゴリー「文化・芸術」の109件の記事

2019年10月17日 (木)

2346月日(17) ラボカフェ「社会と表現の相互作用-フィンランド近現代史と陶芸」

2019年9月16日 京阪なにわ橋駅アートエリアB1にて

午後2時から、京阪電車なにわ橋駅アートエリアB1で、ラボカフェ「社会と表現の相互作用-フィンランド近現代史と陶芸」を聴く。すぐそばにある大阪市立東洋陶磁美術館で開催されている「フィンランドの陶芸 芸術家たちのユートピア-コレクション・カッコネン」との連携プロジェクトである。ゲストは、石野裕子(国士舘大学文学部史学地理学科准教授)と宮川智美(大阪市立東洋陶磁美術館学芸員)。カフェマスターは、當野能之(大阪大学言語文化研究科講師)。

石野裕子は、フィンランド史が専門。フェリス女学院大学文学部を経て、津田塾大学大学院国際関係学研究科博士課程単位取得退学後に博士号取得。中央公論社から『物語 フィンランドの歴史』を上梓している。

 

日本で北欧関係というと、東海大学の文化社会学部に北欧学科(旧文学部北欧学科。その前は文学部北欧文学科であった)があるだけであり、フィンランド語を専攻できるのもここが唯一。専門家を生み出す課程自体は少ないということで、日本では一般に北欧のイメージは良いが、北欧の歴史や文化までもが熟知されているというわけではない。

カフェマスターの當野能之が所属している大阪大学言語文化研究科は、外国語学部の研究科で、大阪大学の外国語学部は大阪外国語大学時代から日本で最も多くの言語を教える外国語学部であったが、スウェーデン語専攻はあるものの、フィンランド語のコースは残念ながらないそうである。フィンランド語は他のヨーロッパ言語とは異なる構造を持つことで知られている。

 

まず石野裕子によるフィンランド現代史の概説が述べられ、次いで宮川智美による大阪市立東洋陶磁美術館で開催中の「フィンランドの陶芸 芸術家たちのユートピア-コレクション・カッコネン」展示作品の解説がある。

フィンランドは約600年に渡ってスウェーデンの統治下にあり、公用語はスウェーデン語だけで、フィンランド語は農民達が話す言葉であった。支配層はスウェーデン系が多く、スウェーデン語が話されていた。それが1809年にスウェーデンとロシアの間で2度目の戦争があり、ロシアが勝利して、フィンランドはロシアに割譲される。ここにフィンランド大公国が生まれ、フィンランドはロシアの中の一国となる。フィンランド大公はロシア皇帝が兼任しており、独立を果たしたわけではなかったが、フィンランド人による自治が認められ、やがて公用語にフィンランド語が加わることになる。
その後、アレクサンドル2世の時代にフィンランドの自由化があり、フィンランドは「自由の時代」を迎えるが、アレクサンドル2世が暗殺され、ドイツの台頭が顕著になると、ロシアはフィンランドへの締め付けを強化し始める。エートウ・イストの風刺画「攻撃」が描かれたのがこの頃だそうだ。

1917年にロシアで2月革命が起こると、フィンランドは同年12月6日に独立を宣言する。だが、そのまますんなりとは進まず、親ソ連派の赤衛隊と親ドイツ派の白衛隊に分かれて内戦が起こり、白衛隊が勝利したが、フィンランド人同士での殺し合いが発生し、約3万人が犠牲になったという。
更に第二次世界大戦ではソ連と戦い、冬戦争と継続戦争という2度の戦いにいずれも敗北(2つの戦争は日本の人気漫画に出てくるそうで、若い人の間では知名度が高いそうだ)。フィンランドはカレリア地方を含む国土の10分の1を失い、多額の賠償金を支払うことになる。
フィンランドが世界に復興を示すのは、1952年のヘルシンキ・オリンピックを待たなければならなかった。ちなみに1940年の東京オリンピックが返上された時、次点であったヘルシンキが開催地に決まったが、大戦が始まってしまったため中止となっている。1940年のヘルシンキ・オリンピックのためにデザインされたポスターは、1952年のヘルシンキ・オリンピックのポスターとして年号だけ変えて使用されたそうである。

 

宮川智美によるフィンランド陶芸の解説。ラボカフェの最初の挨拶で、當野能之がフィンランドの陶芸について、「(イメージと違って)意外だった」と述べていたが、大阪市立東洋陶磁美術館の「フィンランド陶芸」に並ぶ作品は、バラエティに富み、「フィンランドのデザイン」と聞いて思い浮かべるすっきりとしたものもあるがそうでないものも多い。
ただ、まずはもう一つの展示であるマリメッコについてから。フィンランドを代表するテキスタイルブランドのマリメッコ。「マリのドレス」という意味だが、マリというのは、創設者の一人であるArmi Ratiのファースネームの綴りを変えたものに由来しているという。ジャクリーヌ・ケネディなどがマリメッコの衣装を愛用したことで、「知識人のユニフォーム」と言われた時代もあったようである。

そしてフィンランドの陶芸史。
フィンランドの陶芸に偉大な足跡を残している人物は二人いる。アルフレッド・ウィリアム・フィンチとクルト・エクホルムであるが、二人ともフィンランド人ではない。フィンチはイギリス系両親の下、ベルギーに生まれ育ち、ベルギーで画家として活動した後に陶芸にも乗り出し、実践的な芸術運動であるアーツ・アンド・クラフト運動に乗る。やがてフィンランドに招かれ、1897年に設立されたアイリス工房で陶芸を指導。アイリス工房自体は5年の歴史しか持たずに閉鎖されてしまったが、1900年のパリ万国博覧会のフィンランド館にアイリス・ルームなる展示を行い、評判を呼んでいる。アイリス工房閉鎖後は、フィンチはアテネウム(工芸中央美術学校)の教師となり、後継者の育成に尽力。フィンランドを代表する陶芸作家達を生み出していった。
クルト・エクホルムは、スウェーデン出身。ストックホルムで陶磁器デザインを学び、ヘルシンキのアラビア地区に生まれたアラビア製陶所を率いて活躍していく。クルト・エクホルムは陶芸作家でもあったが、批評家としても活動し、実績を残しているようだ。
スウェーデンの陶芸会社であるロールストランド製陶所が税制優遇のためにヘルシンキに作ったのではないかといわれるアラビア製陶所。エクホルムはこの製陶所美術部門のディレクターとなる。ここに所属する陶芸作家達は、社員ではあるが、製陶所の売り上げに繋がる作品を制作するよりも、個々の個性に根ざした作品を作ることが奨励されるという恵まれた環境にあった。社員に女性が多かったのも特徴である。フィンランドでは昔から女性の地位は諸外国に比べて高かったようである。
ただ、アラビア製陶所の作風は凝っていたため、「ライオンとコーヒーカップ」論争というものが起こり、陶器はもっと実用的なものであるべきだという立場の人々からは「ボタンホールの飾りに過ぎない」と批難された。これを受けて、機能主義的な作品を生み出していったのがカイ・フランクらである。カイ・フランクの作風などはシンプルですっきりとしていてそれでいてチャーミングというアルヴァ・アアルトに代表されるいわゆる北欧デザイン的な特徴が表れている。ただ、カイ・フランクらの作風だけがフィンランド陶芸ではなく、もっと多様性を持つのがフィンランド陶芸なのだそうだ。

 

再び、石野裕子による講義「19世紀フィンランドの芸術とナショナリズム」
アレクサンドル2世時代にフィンランド語が公用語となったとき、人々はフィンランド人のアイデンティティを求めるようになる。「もうスウェーデン人ではない。ロシアン人にもなれない。ならばフィンランド人で行こう」という言葉と共に、ナショナリズムが勃興する。
フィンランド的なるものを追求した時に注目されたのだが、叙事詩「カレワラ」である。スウェーデン系フィンランド人であるシベリウスも「カレワラ」を題材にした「クレルヴォ」交響曲を書き、同じくスウェーデン系フィンランド人の画家であるアクセリ・ガッレン=カッレラは「カレワラ」を題材にした絵画を制作している。

一方、文学の方は、ルーネベリとトペリウスというスウェーデン系の作家が生まれた。ただ当然ながら、スウェーデン語での文学であり、フィンランド語による本格的な文学の誕生は、フランス・E・シッランパーの登場を待たねばならなかった。

それまでスウェーデンとロシアという二つの大国の間に押し込められてきた感のあったフィンランドに、「ヨーロッパの一員となりたい」という希望が生まれ、「ヨーロッパへの窓を開けよ」を合い言葉に、松明を掲げる者たちと呼ばれた人々が勢いを増す。ヨーロッパの文化が盛んに取り入れられるようになるのだが、当時の、特にフランスではジャポニズムが流行っており、フィンランドの画家達もそれを間接的に受け入れて、「カレリア」の挿絵を浮世絵の手法を入れて描いたりしているそうである。
この頃、フィンランドは右傾化し、男子学生は「大戦で奪われたカレリアを取り戻せ」としてカレリア学徒会に参加、女子学生は「良き家庭」を理想としたロッタ・スヴァルトという保守的団体にこぞって加入する。
こうしたナショナリズムは言葉と密接に関係しているが、言葉を用いない陶芸や絵画はそれにとらわれない自由さがあり、ナショナリズムでひとくくりには出来ないというのが石野の意見のようである。

フィンランドは人口が約500万人と少ないので個を大切にする教育が行われており、またフィンランドに限らず北欧全体にいえることだが、芸術への手厚い保護があり、例としてシベリウスが若い頃から生涯年金を貰っていたという話をする。アラビア製陶所も企業ではあるが、売れ線のものを作らずに個性を発揮させることが許されていた。そのため、バラバラな個性の陶芸が生まれたのではないかというのが石野の想像のようである。

フィンランド的なデザインとしてよく挙げられるアルヴァ・アアルトとの関係であるが、二人とも建築やデザインは専門ではないのでよくわからないとしていたが、カイ・フランクなどは多分にアアルト的であり、人間の自然にフィットしているように感じられる。これはシベリウスの音楽にも共通することである。

 

思えば、私がシベリウス以外でフィンランドについて注目したのは、ヘルシンキ大学の学生だったリーナス・トーバルズが、UNIXをベースとして生み出したLinuxが初めであった。Linuxは個々が自由に改良できるオープンソースOSであり、個性や多様性を許したプログラムである。また汎用性豊かという意味で極めて機能的である。Linuxがフィンランド的なるものに根ざしているのかどうかはわからないが、少なくとも「発想」に関してはフィンランドのような歴史を持つ国からでないと生まれないような気がする。

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美術回廊(39) 大阪市立東洋陶磁美術館 特別展「フィンランド陶芸 芸術家のユートピア」&「マリメッコ・スピリッツ フィンランド・ミーツ・ジャパン」

2019年7月18日 大阪市立東洋陶磁美術館にて

中之島と堂島川を隔てて向かいにある大阪市立東洋陶磁美術館で特別展「フィンランド陶芸 芸術家のユートピア」「マリメッコ・スピリッツ フィンランド・ミーツ・ジャパン」を観る。多くの作品は撮影可である。午後5時閉館で、東洋陶器美術館に入ったのが午後4時20分頃であったため、駆け足の鑑賞になる。

フィンランドの陶芸を興隆させたのはアルフレッド・ウィリアム・フィンチ(1854-1930)という人物であり、その弟子達によって更なる発展を遂げている。
「フィンランド陶芸」では、フィンチの弟子であるミハエル・シルキン(1900-1962)、ルート・ブリュック(1916-1999)、ビルゲイ・カイピアイネン(1915-1988)らの作品を中心とした展示が行われている。
トーベ・ヤンソンの画風を思わせるような愛らしい作品もあるが、ターコイズブルー1色の陶器や白と青のシンプルな作品なども北欧らしくて気に入る。

「マリメッコ・スピリッツ」は、テキスタイルのブランドであるマリメッコの展示会。1974年生まれのパーヴォ・ハロネン、1982年生まれのマイヤ・ロウエカリ、1983年生まれのアイノ=マイヤ・メッツォラの3人の若い作家の「JAPAN」をテーマにした作品が展示されている。展示のラストには今回の展覧会のために制作された茶室の展示がある。趣もあるが白木の香りがなんともいえず心地よい。

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2019年10月16日 (水)

これまでに観た映画より(133) 「レディ・マエストロ」

2019年10月10日 京都シネマにて

京都シネマでオランダ映画「レディ・マエストロ」を観る。原題は「The Conductor」という意味深なものなのだが、日本でこの映画を観る場合に「The Conductor」だと意図が伝わりにくいためにタイトルが変えられたのだと思われる。監督・脚本はマリア・ペーテルス。出演は、クリスタン・デ・ブラーン、ベンジャミン・ウェインライト、スコット・ターナー・スコフィールドほか。セリフはオランダ語と英語が用いられており、少しだがドイツ語も登場する。音楽監督はステフ・コリンヨン。
女性指揮者の草分け的存在であるアントニア・ブリコ(1902-1989)の肖像を描いた映画である(全ての人生が描かれているわけでない)。アントニアを演じるのはクリスタン・デ・ブラーン。

1926年(日本だと大正15年=昭和元年)のニューヨーク。クラシック音楽好きで才能にも恵まれたオランダからの移民であるウィリー(クリスタン・デ・ブラーン)はカーネギーホールの客席案内係(レセプショニスト)として働いている。当時のニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(ニューヨーク・フィルハーモニックの前身)は指揮者は勿論、楽団員全てが男性で占められており、オーケストラ絡みで女性が就ける仕事は客席案内係ぐらいのものだった。

この日は同郷の大巨匠指揮者であるウィレム・メンゲルベルクが指揮台に立って、十八番であるマーラーの交響曲第4番を指揮するということで、ウィリーも興奮気味であり、仕事でミスを犯したりもする。ただ、客席案内係はコンサート本番を聴くことは許されない。ウィリーは本番中、誰もいないと思った男性用トイレに入り、漏れてくる音楽に心奪われて、箸を指揮棒代わりに(どうやら箸で食事をする習慣があるようである)鏡に向かって生き生きと指揮を続ける。が、その時に、男が一人、男性用トイレに入ってくる。富豪の息子のフランク(ベンジャミン・ウェインライト)だ。「衛生面での点検だ」と誤魔化したウィリーはその後、大胆な行動に出る。第1楽章が終わった後で、持ち運び用の椅子を手にカーネギーホールの中央通路を進み、指揮者であるメンゲルベルクの真後ろに陣取って曲を聴こうとしたのだ。メンゲルベルクも複雑な表情を浮かべるが、第2楽章の指揮を始める。だが、それを見たフランクは激昂。ウィリーをホールの表へと叩き出してしまう。
結局、ウィリーは客席案内係の仕事をクビになったことを契機に、本格的に音楽の道に進むことを決意。指揮者を夢見て、ブラスバンドの指揮者であったゴールドスミスに頼み出て弟子にして貰い、名門UCバークレー(カリフォルニア大学バークレー校)の音楽学部の試験にも合格。ただその後ゴールドスミスがウィリーを女として意識し、関係を迫ったことで関係は破綻する。音楽学校の学費を稼ぐためにタイピストや接客業の職に就こうとするも気位の高さが伝わるのか、有能さを示しても落ちてばかりのウィリー。ナイトクラブのベース奏者であるロビン(スコット・ターナー・スコフィールド)に気に入られてロビンのいるバンドのピアニストに決まり、グリーグの「トロルドハウゲンの結婚行進曲」を弾いていると、ロビンはジャズ風に編曲した「トロルドハウゲンの結婚行進曲」を弾いて見せ、連弾を行う。

フランクはゴールドスミスと友人であり、豪奢なフランクの自宅で音楽家を招いたパーティーがあるということで、ゴールドスミスから招かれるのだが、ゴールドスミスは急用で帰宅。ウィリーはゴールドスミスとの関係が破綻した後でもフランクとの仲を深めていく。

だが、ウィリーは祖国のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者であるメンゲルベルクに師事しようと決めており、オランダに行く決意をしていた。アメリカで一緒になって欲しいと言うフランクからのプロポーズにウィリーは迷う。フランクはともかくとして、彼の母親はウィリーが「指揮者になりたい」という夢を語ると一笑に付す。本格的な女性指揮者などまだ一人もいない時代。日本で例えるなら、女でありながら「大相撲の横綱になりたい」と言っているのと同様の世迷い言としか聞こえないのだった。

実は、ウィリーは両親の実の子ではないことが判明する。音楽家への道を進むことに反対した母親がつい明かしてしまったのだ。ウィリーは出生時の名であるアントニア・ブリコとして指揮者への道を進み始める。

コンセルトヘボウでアントニアはメンゲルベルクと出会う。弟子入りを懇願するが、メンゲルベルクはフランクの友人であったため、フランクに相談の手紙を書き、アントニアと結婚したいフランクはメンゲルベルクに「アメリカに帰れ」と言ってくれるよう頼む。結局、メンゲルベルクの弟子にはなれなかったアントニアだが、メンゲルベルクの推薦状を得てベルリンに向かい、ドイツの大指揮者であったカール・ムックに会いに行って弟子入りが許される。ベルリン国立音楽アカデミーの指揮科の定員は2人のみであったが、この難関も突破。若い女性が指揮者ということで反発しがちなオーケストラ団員達をも納得させていき、最終的にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立って、コンサートを成功に導く。
だが、アメリカではゴールドスミスが腹いせからアントニアへの批判をマスコミにばらまいており、女性からも「女が男性達に指揮棒で指示を行うなんて」と反発を受ける。ニューヨーク・フィルとの演奏は成功したが、次に舞い込んだのは失業した音楽家が結成したオーケストラを指揮する仕事。いやいや引き受けたアントニアだが、ある日、リハーサルに行くと、女性団員しか来ていない。ニュージャージ-交響楽団が楽団員を募集しているということで、男性団員達は全員オーディションを受けに行ってしまったのだ。ちなみに女性はオーディションを受ける資格はないという。アントニアは女性楽団員のみによるオーケストラを結成し、女であっても音楽家たり得るのだということを示そうとする……。

日本に限っても、先日、沖澤のどかがブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、ブザンソン国際指揮者コンクール覇者の先輩である松尾葉子、宝塚男役風ルックスでも人気の西本智実、小柄な体から力強い音楽を生み出す三ツ橋敬子、北欧のスペシャリストとして活躍する新田ユリなど、今は女性指揮者は珍しくもなんともないが、アントニア・ブリコが指揮者を志していたのは、「女は将軍と指揮者にだけはなれない」と言われていた時代であり、女性でありながら指揮者を生業としていることへの反発は今とは比べものにならないほど強かった。そんな中で快進撃を続けるアントニアのサクセスストーリーとして描かれているように見えるのだが、ラストの字幕でアントニアが結成したニューヨーク女性交響楽団はアントニアが男性団員の入団を許したことで注目を失い、4年で解散。アントニアは生涯、有力楽団の首席指揮者のポジションには就けなかったことが語られる。更には2017年現在でも、世界の指揮者トップ50の中にも女性の名はないということで、集団を率いる職業である指揮者に女性がなることの困難が示される。ハンブルク州立歌劇場の総支配人として活躍したシモーネ・ヤングやアメリカの上位楽団であるボルティモア交響楽団の音楽監督を務めるマリン・オールソップなど有名指揮者も当然いるが、オペラ歌手は勿論、ヴァイオリンのアンネ=ゾフィー・ムターやチョン・キョンファ、ピアノのマルタ・アルゲリッチや今はイギリス国籍になったが内田光子など世界トップランクに数えられる演奏家も多い器楽分野に比べても指揮分野における女性進出はなかなか進んでいかないのが現状である。古典派を不得手とする女性指揮者が多いこと、ブラームスやブルックナーなど女性には理解しづらい音楽がコンサートのメインレパートリを占めているということもあるのだろうが、「そもそもクラシックの作曲家といえば男性のみ」「指揮者も楽団員も男性のみ」という時代が長かったことが影響してもいるのだろう。ベルリン・フィルが女性団員の入団を正式に認めたのだが1980年代後半(その前にザビーネ・マイヤー事件というものがあり、女性クラリネット奏者であるザビーネ・マイヤーを強烈に推して入団させたヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリン・フィル団員の猛反発にあり、関係が悪化。マイヤーは身を引いたが、最終的にはカラヤンはベルリン・フィルの終身芸術監督辞任に追い込まれている)、ウィーン・フィルに至っては、世紀が変わろうかという時まで「入団出来るのは男性のみ」という姿勢を貫き続けていた。
「世界のトップランクのオーケストラ」と聞いてクラシックファンなら誰でも思い浮かべるような楽団のトップとして君臨している女性指揮者はゼロ。日本でも人気はあるがポジションが得られていない女性指揮者がほとんどで、東京に9つあるプロオーケストラや日本各地の都市の顔となるオーケストラのトップに立っている女性指揮者は一人もいない。芸大の指揮科教授として多くの教え子を生み出した松尾葉子も、出身地である名古屋に本拠を置くセントラル愛知交響楽団常任指揮者という地位が最高。人気指揮者である西本智実も日本フィルハーモニー交響楽団のミュージック・パートナーが一番上のポジションで、仕方がないので自分で結成したオーケストラを率いている。テレビ出演も多い三ツ橋敬子は現時点では本拠地なしの状態で、客演生活が続いている。新田ユリも北欧音楽には強いがポストは愛知室内オーケストラという定期演奏会を年に2回ほどしか行えない団体のものを得られているのみである。ある意味、アメリカにおける女性大統領並みの「ガラスの天井」を感じさせる職業であり、ラストの演奏会のシーンは希望に満ちているが、現実の厳しさを示すこともおろそかにはしていない。

クラシック音楽の使い方は面白く、聴いてすぐなんというタイトルの曲かが分かると広がりやおかしみを持って受け取ることが出来るように思う。「拍手をして下さい。コメディは終わりました」というベートーヴェンの最後の言葉とされるものがさりげなく語られていたりもする。

アントニアは女性指揮者のフロントランナーとしては成功したが、性別関係なく「指揮者としての名声を勝ち取る」ことに関しては「誰が見ても成功」という結果は出せなかったのかも知れない。それでも「絶対に無理」という周囲の声や蔑みをはねのけて指揮台に立ち続けるアントニアの姿に爽快感を覚える。カール・ムックのセリフにあるように「指揮台に立ち続けること」が何より重要なのだと納得させられる。

何より感心させられるのは、西洋の俳優は指揮者を演じるのが上手いということ。クリスタン・デ・ブラーンは往時の長めの指揮棒を振っているため、バトンテクニック抜群に見えるということはないが、音楽が体から生まれているように見せる演技には卓越したものがある。

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2019年10月15日 (火)

美術回廊(38) 細見美術館 レスコヴィッチコレクション「広重・北斎とめぐるNIPPON」

2019年9月29日 左京区岡崎の細見美術館にて

ロームシアター京都と琵琶湖疎水を挟んで向かいにある細見美術館で、レスコヴィッチコレクション「広重・北斎とめぐるNIPPON」という展覧会を観る。
パリ在住のポーランド人であるジョルジュ・レスコヴィッチの蒐集した浮世絵の数々を展示した展覧会である。

歌川広重と葛飾北斎の他に、鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、渓斎英泉、歌川国貞らの絵が並んでいる。

劈頭を飾るのは鈴木春信の美人画の数々である。浮世絵、錦絵、春画などの部門で活躍した鈴木春信であるが、登場する女性達が異様に華奢なのが特徴である。江戸時代は今より栄養状態が良くなかったが、これほど細い女性が実在したとも思えない。他の絵師達の美人画とも比べると鈴木春信が描いた女性が段違いに細いことが確認出来る。浮世絵は余りモデルを使わず、イメージで描くこと多かったと思われるのだが、仮にモデルがいたとしてもかなりデフォルメされているのあろう。細い女が好みだったのか、か細さになんらかの意味を込めようとしたのか。

東洲斎写楽の役者絵は、逆に歌舞伎俳優達を美化しておらず、そのために描かれた俳優本人からは評判が悪かったそうで、写楽の活動期間を縮めた一因ともいわれているのだが、写楽の正体は能楽師の斎藤十郎兵衛だったという説が近年では有力視されており(「東洲斎」というのは「さいとうしゅう」のもじりというわけだ)、同じ舞台人であるがために役者の心情を上手く描けているという評価もある。残念ながら写楽の絵に描かれている演目を私は観たことがないのだが、あるいは観たらもっとわかることがあるのかも知れない。

葛飾北斎の「詩哥写真鏡」は、全体的に青の多用が印象的で、ピカソや北野ブルーの先駆けっぽい(?)。

広重の「六十余州名所図会」は嘉永6年に描き始められているが、この年は黒船来航の年である。攘夷の意識が高まる時代にこうした絵が描かれていたということになる。

「木曽街道六拾九次」は、広重の渓斎英泉の共作である。東海道に比べると木曽街道は地味だが、行き交う様々な人々が多彩に描かれている。そういえば以前に、渓斎英泉を主人公にした矢代静一の「淫乱斎英泉」という芝居を観たことがあるのだが、余り面白くなかった記憶がある。

広重の「東海道川尽 大井川の図」「相州江之嶋弁財天開帳参詣詣群衆之図」などでは波が図式化されている。実際は波がこういう形に並ぶことはないと思われるのだが、そこに意匠というか江戸時代のデザイン的な刻印が行われているようにも感じる。

広重が描いた「山下町日比谷さくら田」は現在の警視庁の辺りを描いた絵。その他にも「神田明神曙之原」や「上野山した」「下谷廣小路」などは、東京の風景を知っていると楽しみがグンと増す。

北斎は、かめいど天神たいこばしなど、今は現存しない橋をかなり大袈裟に描いている。リアリズムよりも人の内面の感情を優先させた描き方なのだと思われる。
富嶽三十六景は、京都浮世絵美術館に飾られていると同じ「江都駿河町三井店略図」なども展示されている。「甲州石班澤(かじかざわ)」の絵にも顕著に表れているが、同じ形になるものを並べる相似形の構図にすることで、構築をより堅固にしようという意思が伝わってくるかのようだ。
葛飾北斎は、「琉球八景」という絵画シリーズを手掛けているが、実際に琉球に行ったことはなく、琉球で描かれた絵や図などを見ながらイメージを膨らませて架空の琉球を作り上げたようである。

広重の「京都名所之内」は、その名の通り名所を細部に至るまで描いて(実際に行ったことのある場所と他の絵師の絵図を参考に想像で描いたものが混在しているようだ)、往時の京都のイメージを知ることが可能になっている。

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2019年10月13日 (日)

真宗大谷派岡崎別院 「落語と石見神楽の夕べ」

2019年10月9日 左京区の真宗大谷派岡崎別院にて

午後7時から、真宗大谷派岡崎別院で「落語と石見神楽の夕べ」を観る。石見神楽の上演は大阪市寝屋川市に本拠を置く伝統芸能杉本組、落語の上演は笑福亭仁智。司会は昨年同様、フリーアナウンサー兼タレントの元谷朋子(もとたに・ともこ)。

岡崎別院の本堂での上演となるのだが、無料公演とあって満堂となる。岡崎別院の本堂はそれほど大きくないので、石見神楽と聞いて浮かぶオロチの舞などは行われない。演目は、二人で演じられる「恵比須・大黒」である。まず神楽の説明がある。神楽は宮中で行う御神楽(みかぐら)とそれ以外で行う里神楽に分かれ、石見神楽は里神楽に当たり、神職によって伝えられてきたのだが、維新後に明治政府から、「神職が芸人のようなことをすべきではない」として禁じられ、その代わりに氏子達によって発展したという。その後に楽器体験のコーナーや演者の衣装や面(動きが激しいので軽くする必要があり、和紙で出来ている)の紹介もある。
二人で祝いの舞を舞った後で、他の座員が手にした鯛の模型を使っての釣りの踊りが披露される。いずれもコミカルな舞であり、華やかでエネルギー放出量豊かだ。
恵比須は、この舞では大国主命の息子である事代主(島根県松江市の美保神社の祭神)ということになっているようだ。

 

笑福亭仁智による落語。「牛ほめ」と「いくじい」の2席が演じられる。
昨年の6月に上方落語協会の会長に就任した仁智であるが、それ以降、天満天神繁昌亭が地震や台風、経年劣化で提灯が落ちたために行われた修復工事などでたびたび休館することになったという話から入る。
「牛ほめ」は、池田のおじさんが新たに普請した邸宅を褒めに行き、大黒柱の縁起の悪い形の節(死に節)の対処法を説けばお駄賃が貰えると親族(詳細不明)から言われた大阪の男の話である。命じる側は教養があるので、様々な褒め言葉を使って文章を聞かせるが、聞く方は頭が弱いので、勘違いをしたり書くべきでないことまで記してしまう。実は男は少し前に普請を見に行ったのだが、「大工4人で3ヶ月掛けた家」だと自慢されたので、「大工4人で建てても燃えるときゃ一晩だ」、「玄関が狭いね。これじゃ葬式の時に棺桶が通らない」、「こっちは通るが広すぎてあんただけじゃなく家族全員の棺桶が一度に出せる」などと暴言を吐きまくっていたことがわかる。
言われたことをよく覚えてから池田のおじさんの普請に向かうよういわれた男だが、ものぐさなので何も覚えずに池田へと向かう。そして懐に隠したアンチョコを見ながら喋るのだが、「備後の畳」を「貧乏の畳」と読み間違えるなど散々。ただ、大黒柱の不吉な節を秋葉権現(秋葉原の語源としても知られる火の神様)のお札を貼れば良いと教わったままに提案してご褒美を貰うという話である。
今度は牛を褒めに行く話になるのだが、男は勘違いして娘を牛に例えて大失敗するという展開になる。

「いくじい」。ヤクザの家族の話である。ヤクザの柴田乙松が年を取ったので引退することを決め、「イクメン」が流行っているので孫を育てる「いくじい」になったらどうかと弟分の源太から提案される話である。まず乙松が風呂に入るので、「バブを持ってきてくれ」と源太に命じるのだが、「バブバブっておしゃぶりでっか?」と勘違いされたり、バブを渡されたと思ったらポリデントだったり、バブとポリデントを見間違えたため「視力はいくつだ?」と聞くと「24です(視力を4×6だと勘違いしたのだ)」と返ってきたり、トンチンカンなやりとりから入る。
さて、乙松が孫の面戸を見るようになってからしばらく経った頃のこと。孫が小学校でおかしな振る舞いをするようになったというので、乙松とその息子は担任に呼ばれて学校に出向く。孫はすっかりヤクザの世界に感化されており、「一で始める四字熟語を答えなさい」という問いに「一宿一飯」と回答したり、「覚悟を決めたときには何を括るというでしょう?」という問題に「首を括る」と答えたりしているそうである。七夕の願い事にも「将来、堅木になりたい」と書き、AKB48のメンバーは一人も知らないが相撲取りの名前は48人ほど言える、夏休みの宿題も謎かけや都々逸で子供らしさが全くないものである。
その他にも「蛇は何類でしょう?」に「気持ち悪い」、「太郎君の家の冷蔵庫にはオレンジジュースが30杯分入っています。太郎君はオレンジジュースを残り10杯になるまで飲み、更に5杯飲みました。さて、太郎君はオレンジジュースを何杯飲んだでしょう?」→「お腹一杯」。「太郎君はケーキ屋さんにケーキを買いに行きました。200円のケーキを5個買って150円負けて貰いました。さていくら払うでしょう?」→「店の人に聞く」
ただ、乙松もその息子も小学校の成績は悲惨だったそうで、「『打って変わって』を使って文章を作りなさい」という問いに、「僕のお父さんは薬を打って変わってしまいました」と書いたりしていたそうである。
その後、乙松は町内のご長寿クイズ大会に乙松が出るという展開になるのだが、ここは少し作り物的で弱かったように思う。
枕として、「ガッツ石松は、『太陽はどちらから昇るでしょう?』と聞かれて『右側』と答えた」「具志堅用高は、マクドナルドのドライブスルーで『あれとこれとそれ』と言って、『それじゃ分かりませんので名前を言って下さい』と店員に言われて『具志堅用高』と答えた」という話をして、「でも世界チャンピオン」という話をしていた。

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2019年10月 9日 (水)

2346月日(16) 水谷彰良講演会「サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長」

2019年9月23日 関西大学梅田キャンパスKANDAI Me RISE8階Me RISEホールにて

午後2時から、関西大学梅田キャンパス8階Me RISEホールで、水谷彰良(みずたに・あきら)講演会「サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長」を聴く。

関西大学梅田キャンパス KANDAI Me RISEは3年前に出来たばかりのまだ新しいキャンパスである。大阪でも大学の都心志向が顕著であり、宝塚大学梅田キャンパス(看護学部)や大阪工業大学梅田キャンパス(ロボディクス&デザイン工学部)など、新設学部のためのキャンパスを設けるところもあるが、関西大学の梅田キャンパスは他の多くの大学同様、学部の教育ではなく、社会人向け講座(エクステンション)や就職活動の利便性のための出張所的なもの(サテライトキャンパス)であり、8階建てのビルであるが大工大や宝塚大のような大規模ビルキャンパスではない。1階にはスターバックスと書店が入っており、学生達でほぼ満員であった。

 

今年に入ってから大阪では、サリエリルネッサンスともいえる企画が続いているが、今回は春先にあったサリエリムジカとの関連講演である。水谷彰良は『サリエーリ 生涯と作品』の著者であり、オペラを中心とした音楽の研究家で、日本ロッシーニ協会の会長でもある。サリエリムジカの主催で、今回の講演では協力という形で携わっているナクソス・ジャパンの公式サイトに「聴くサリエーリ」を連載中である。
今回は大阪よみうり文化センターの主催、読売新聞大阪本社の後援となっている。

最近、サリエーリがスマホゲームの登場人物として話題になっているそうで、若い人にとってはサリエーリというとゲームのイメージが強いようだ。お年の方、55歳以上となると映画「アマデウス」のサリエリを思い浮かべることが多いのだが、私はそこまでは年ではない。55歳以上というのはロードショーで「アマデウス」を見た層で、私の場合は高校2年生の時にテレビ放送された「アマデウス」を観ている。その後、1994年3月5日の明治大学の受験日に、受験を終えて三省堂の神田神保町本店でピーター・シェーファーの戯曲『アマデウス』を買ったのだが、これが東京で買った最初の本であった。翌1995年には池袋のサンシャイン劇場で、九代目松本幸四郎のサリエリ、七代目市川染五郎のモーツァルト、中島梓のコンスタンツェで「アマデウス」を観ている。映画版と演劇版とでは異なっている部分が結構多い。実は大阪でも2011年に幸四郎のサリエリ、武田真治のモーツァルトで「アマデウス」を観る予定があったのだが、これは叶わなかった。

 

さてフィクションのサリエーリではなく、実在のサリエーリについて語ると、1750年8月18日、北イタリアのレニャーゴという街で商人の子として生まれている。家は裕福で、10歳の時にレニャーゴ大聖堂のオルガニストであったジュゼッペ・シモーニに就いて音楽を学び始めている。13歳で母と14歳で父と死別するという悲運に遭ったものの、音楽の才があったためか程なくしてヴェネツィアの貴族に引き取られ、ウィーンの宮廷作曲家であったガスマンに見出されてウィーンに渡り、当時の皇帝ヨーゼフ2世に気に入られたということもあり、当時の大作曲家であるグルックに師事することを許されたほか、帝室歌劇場のマエストロ・アル・チェンバロ助手として出入りするようになり、実地でオーケストレーションを学んでいく。当時のイタリアやオーストリアには音楽的才能のある少年はゴロゴロいたそうで、その中でガスマンらに特別に見出されたということで、サリエーリは神童クラスであったのだろうと推測されるそうだ。
19歳でオペラ作曲家デビュー。処女作は「女文士たち」というオペラだったが、この作品は残念ながら散逸してしまっているそうである。同年にグルックがオペラ「オルフェーオとエウリディーチェ」の改訂版初演が行われるのだが、サリエーリはこの作品に影響を受けていることが、1771年初演のオペラ「アルミーダ」で確認出来るそうだ。「アルミーダ」の序曲がCDで流され、グルックの「オルフェーオとエウリディーチェ」の映像がスクリーンに投映されるのだが、黄泉での出来事を描いた「オルフェーオとエウリディーチェ」の音楽が、サリエーリの「アルミーダ」序曲の、怪物の咆哮の描写に生かされている。当時はこうした激しい「疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)」形式の音楽は最先端を行くものであった。
グルックからは相当可愛がられたようで、グルックに委嘱された作品を譲られる形で書いたりもしているそうである。

歌劇「アルミーダ」でサリエーリは、独自の手法を発揮している。この作品はサリエーリの自筆譜が残されているのだが、スコアにト書きが施されているそうで、こうしたことはこれまで行われていなかったそうである。

さて、サリエーリの直接の師であるガスマンは、オペラ・ブッファ(喜劇的歌劇)の名手であったため、サリエーリも、オペラ・セリア(シリアスなオペラ)よりもオペラ・ブッファを多く手掛け、得意とするようになっていく。
ガスマンは、歌手に任せる部分であるカデンツァも自身で書き込むという習慣があったのだが、サリエーリもこれに倣うようになり、歌劇「奪われた手桶」では、歌の旋律だけでなく楽器の伴奏など全てが書かれているという「十八世紀に書かれた最も奇妙なカデンツァ」と呼ばれる手法を行っている。本来、音楽家の即興性を発揮するはずの部分も作曲家が全て書いてしまっているわけで、演奏家と作曲家の分離がいち早く行われているかのようである。この時期のイタリアオペラの特徴として、ソプラノにコルラトゥーラなど超高音の技法を要求していることが挙げられる。モーツァルトの夜の女王のコルラトゥーラが有名だが、これはモーツァルトがイタリアオペラを真似たということのようだ。サリエーリもコロラトゥーラによるアリアを書いている。
だが、サリエーリがグルックの後継者としてフランスで仕事をする機会が増えるとこれに変化が生じる。フランスでは歌よりも芝居が好まれたため、ストーリーが重視され、歌手のこれ見よがしな技巧は好まれなかったようである。またバレエが盛んだったため、オペラの中に必ずバレエのシーンがあった。ということで、サリエーリの作風も落ち着いたものへと変化していく。

23歳の時にガスマンが亡くなると、サリエーリは後任としてウィーン宮廷室内作曲家兼イタリア・オペラ指揮者に任命される。モーツァルトがウィーン宮廷での就職に失敗したのはその前年で、モーツァルトは父に宛てたサリエーリを憎む手紙を残しているが、サリエーリの方はモーツァルトについてはこの時ほとんど知らなかったようで、人事面でも関与していなかったらしい。その後、ウィーン宮廷楽長に就任。名実ともにヨーロッパ楽壇のトップに立った。

モーツァルトがウィーンに移住したのは、1781年のこと。ただその直後、モーツァルトにとっては悲運なことにヨーゼフ2世が劇場の改革を行う。これによってオペラ・セリアはつまらないとして否定され、オペラ・ブッファのみがオペラとされる時代となったのである。モーツァルトもオペラ・ブッファは書くが、オーストリア人ということもあって本当はオペラ・セリアの方が得意である。折角、大司教の下を離れてウィーンに来たのに、ここでも得意なジャンルの作品を発表出来なくなるのだ。

モーツァルトが「フィガロの結婚」などで思想面での革新性を示したことは知られているが、サリエーリもボーマルシェの本によるオペラ「タラール」で身分社会の否定を取り上げている。こう考えると、モーツァルトだけが時代から突出してたということはなく、なかなか上には行けない状態だったことがわかる。更にモーツァルトにとっての不運は続き、今も人気作として有名な「コジ・ファン・トゥッテ」がヨーゼフ2世の死去によって初演からわずか5回の上演で打ち切られる。新皇帝のレオポルト2世はそもそも音楽に興味のない人で、音楽家は全て冷遇されるようになった。

サリエーリは、モーツァルト最晩年のジングシュピール(オペラ)「魔笛」を絶賛していたことがわかっている。モーツァルト自身の手紙にこのことは記されており、最大級の賛辞を得たことを妻のコンスタンツェに伝えている。その7週間後にモーツァルトは他界するのだが、サリエーリはシュテファン大聖堂で行われたモーツァルトの葬儀に参列している。

ということで、モーツァルトの冷遇と死に関してはサリエーリは全く関与していない。

サリエーリは、モーツァルトの死後も積極的に作曲活動を行い、オペラ10作を作曲。ハイドンの「天地創造」初演に協力したり、イタリア語版上演では指揮を行っていたりと自身以外の作曲家の活動にも参加している。ちなみにモーツァルト作品の初演のいくつかでもサリエーリは初演の指揮を手掛けており、交響曲第40番の公式初演はサリエーリが指揮したことが確実とされている。
現在のウィーン国立音楽大学の前身となる教育機関を作ったのもサリエーリであり、音楽の弟子にベートーヴェンやシューベルトがいる。ベートーヴェンは「サリエリがモーツァルトを毒殺したと告白した」と日記に記しているが、この時にはサリエーリはウィーン総合病院に入院しており、意識がはっきりしていたのかどうかも定かではない。

栄光に包まれた生涯を送ったサリエーリだが、晩年にイタリア人作曲家の後輩に当たるロッシーニの台頭で状況に変化があったようである。「全盛期のビートルズよりも人気があった」といわれたウィーンでのロッシーニブームにより、ドイツ語圏の作曲家は不遇をかこつことになる。なにしろ歌劇場で上演されるのはロッシーニ作品ばかりなのだ。ベートーヴェンすら不満を漏らしているほどである。そして起こったロッシーニ憎しの空気がイタリア人作曲家に向かい、イタリア出身の宮廷楽長であったサリエーリにも怨嗟の声が上がるようになっていった。これがモーツアルト暗殺説に繋がっていったようである。

「アマデウス」によって悪名が高くなったサリエーリであるが、知名度が上がったことも確かであり、その後、録音される作品も増えている。ただ、サリエーリの本領が発揮されたオペラに関してはまだ録音される機会が少ないというのが現状である。

 

思えば、サリエーリは、音楽史の変換点を生きた人物であった。サリエーリが若い頃は、ウィーンでは「音楽はイタリア人がやるもの」という認識があり、イタリア人が宮廷作曲家や宮廷楽長になることに抵抗はほとんどなかったと思われる。オペラはイタリアのものであり、イタリア語のオペラが上演されるのが当たり前だった。そしてサリエーリが生まれ育った北イタリアは当時はハプスブルク家が治めており、親近感も持たれていた。
勿論、バッハやヘンデルなど、それまでにも優れたドイツ人作曲家はいたが、バッハは内容が高度であるため、この時期はプロのための音楽という認識で民衆の間では忘れられた存在になっており、ヘンデルはロンドンに移住してイギリスの作曲家となっていた。ハイドンはサリエーリの同時代人だが、長年に渡ってハンガリーのエステルハージ候に仕えており、ウィーンの作曲家というイメージではない。それがモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトと、ドイツ語圏出身の作曲家が立て続けに現れたことで、音楽におけるナショナリズムの高揚が起こる。これはモーツァルト自身も唱えていることである。ドイツ語によるオペラが立て続けに生まれ、更にはオペラではなくドイツ生まれのアウフヘーベンの理論を取り入れた交響曲やピアノ・ソナタが音楽の主役になる。そんな時代のウィーンの楽壇のトップに君臨していたことが、あるいはサリエーリにとっては不幸なことだったのかも知れない。

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2019年10月 1日 (火)

コンサートの記(594) 春秋座オペラ10周年記念ガラコンサート

2019年9月21日 京都芸術劇場春秋座にて

午後4時30分から、京都芸術劇場春秋座で、春秋座オペラ10周年記念ガラコンサートを聴く。文字通り春秋座で毎年オペラが上演されるようになってから10年が経つのを記念してのガラコンサートである。午後1時開演と午後4時30分開演の2回公演で、出演者が多少異なるほか、曲目を担う歌手にも変動がある。

 

春秋座での公演はミラマーレ・オペラによる上演であることが多く、オーケストラもミラマーレ・オペラによる小編成の団体が手掛けていたが、今回は常設の京都フィルハーモニー室内合奏団が担う。指揮は奥村哲也。ステージ上での演奏である。
実は、春秋座でオーケストラが演奏を行ったことが一度だけある。2002年の初夏のことで、ルーマニアのトランシルヴァニア交響楽団(ドラキュラで有名な地方の団体)の来日公演であった。私もそれを聴いているのだが、中編成のオケではあったが、そもそもオーケストラが演奏することを想定して作られていないため、「新世界」交響曲ではずっと壁がビリビリ鳴っているという状態で、以後、春秋座ではオーケストラによる演奏は行われていない。京フィルは今年も春秋座で壮一帆とのジョイントコンサートを行ったりしているが、今日も第1ヴァイオリン4のサイズなので音響面で問題はない。足りない音は殿護弘美のピアノが補う。

一方、歌唱の響きに関しては理想的である。そもそも春秋座は三代目市川猿之助(現在の二代目市川猿翁)による上演を想定して作られているのだが、猿之助は歌舞伎は勿論、リヒャルト・シュトラウスの歌劇「影のない女」やリムスキー=コルサコフの歌劇「金鶏」の演出を手掛けたこともあり、グランド形式ではないもののオペラの上演は最初から念頭に入れられていたといわれている。そのため声の通りも良いのだ。ただその分、誤魔化しは利かず、ちょっと上手くいかないと客席にすぐ伝わってしまう。

 

開演前にプロデューサーの橘市郎氏に挨拶したのだが、「入りが良くない」とのことだった。2階席にも人はいるようだったが、休憩時間に確認したところ極々まばら。1階席も前の方や中央列は埋まっているのだけれどという状況である。日本の場合はオペラが日常に根付いていないし、名士が聴きに来たり、ビジネスマンが幕間に商談を行うという習慣もない。西洋だとオペラが共通の教養になっていたりするのだが、ここは西洋でもない。ということで、基本的にはオペラが好きな人だけが来るのだが、当然ながらオペラが好きな日本人というのは圧倒的少数派である。ブランド志向なので海外の名門オペラ劇場の引っ越し公演があったりするとチケットが馬鹿高くても客は入るのだが、ブランドが目当てで音楽やオペラが好きなわけではないので、地元で何かあっても来ない。東京は毎年行われるオペラの森が盛況で、状況は変わりつつあるのかも知れないが、地方にはまだ波及していないのだと思われる。びわ湖ホールなどは子どものためのオペラ作品を上演しており、両親も含めたオペラファン発掘に努力している。

 

曲目は、ビゼーの「カルメン」より前奏曲、ヴェルディの「椿姫」より“ああ、そはかの人か~花から花へ”(西田真由子)、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」より“今の歌声は”(高嶋優羽)、“俺は町の何でも屋”(奥村哲)、プッチーニの「ラ・ボエーム」より“冷たき手を”(笛田博昭)、“私の名はミミ”(稲森慈恵)、“幸せだったあの場所に戻ります”(江口二美)、“もう本当に終わってしまったの”(江口二美、山本欣也、三輪千賀、鶴川勝也)、モーツァルトの「魔笛」より“燃え立つ復讐の炎”(川越塔子)、“ああ消え去った恋の幸せ”(高嶋優羽)、“パパパ”(西田真由子&奥村哲)、プッチーニの「蝶々夫人」より“ある晴れた日に”(川越塔子)、“さらば愛の家よ”(笛田博昭)、ビゼーの「カルメン」より“恋は野の鳥(ハバネラ)”(並河寿美)、“闘牛士の歌”(片桐直樹)、“うまい話があるぞ”(岡村彬子、三輪千賀、西田真由子、山本欣也、奥村哲)、“花の歌”(井藤航太)、ヴィルディの「椿姫」より“乾杯の歌”(全員)。進行はミラマーレ・オペラ代表理事の松山郁雄が務める。

 

歌手がオーケストラの前に出て歌うスタイルであるため、歌とオーケストラの間にズレが生じることも多いのだが、これはいわゆるオペラ上演と異なるので仕方のないところである。
日本語のセリフを入れての上演だったが、ちゃんと言えている人がほとんどいないというのが問題点である。音大でも演技の指導はちゃんと行っているはずなのだが、二の次にされているのかも知れない。ドイツには演劇音楽大学が多く、オペラを学ぶのに理想的な環境だと思われるのだが(実際にどうなのかは知らない)、日本の場合は、音楽と演劇の両方があるのは日藝と大阪芸術大学だけだろうか。両方ともクラシック音楽には強くない。

 

歌手はやはり関西出身者や関西で学んだ人が多いが、それ以外の人を紹介する。
春秋座オペラの常連である川越塔子は「東大卒のオペラ歌手」して知られているが、井藤航太も東大卒である(出身は大阪府)。東大を出てオペラ歌手になるのが流行っているのだろうか? オペラでなくても東大卒で音楽方面に行く人には文学部出身者が多いと思われるのだが(加藤登紀子や小沢健二など)、川越は法学部卒(同期に豊田真由子や山尾志桜里がいるという凄い学年)、井藤は医学部卒(医学科ではなく健康総合科学科というところ)である。
江口二美(えぐち・つぐみ)は、愛知県立芸術大学と同大学院修了。
岡村彬子は、熊本県出身で国立音楽大学卒、東京学芸大修士課程修了。
笛田博昭は、名古屋芸術大学と同大学院修了である。
鶴川勝也は、国立音楽大学卒で、現在も東京在住であるが、春秋座オペラのオーディションには毎回参加して役を勝ち取っていたそうである。

 

岡村彬子は、“うまい話があるぞ”でカルメンを歌っていたが、見た目も声の質もカルメンによく合っている。
笛田博昭は朗々とした歌唱で、歌唱終了後の拍手も最も大きかった。
残念なのはお客さんの少なさで、これではステージと客席とに一体感が生まれない。京フィルもファンは多いのだが、今回はその効果を発揮出来なかったようである。

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2019年9月29日 (日)

美術回廊(37) 京都浮世絵美術館 「二つの神奈川沖浪裏」

2019年9月10日 四条の京都浮世絵美術館にて

四条通にある京都浮世絵美術館に入ってみる。ビルの2階にある小さな私設美術館。中に入るのは2度目である。
前回は将軍家茂の上洛を題材にした浮世絵が並んでいたが、今回は葛飾北斎没後170年企画ということ「二つの神奈川沖浪裏」と題した展示が行われている。二つの「神奈川沖浪裏」は、色彩が異なるが、元の絵は一緒であり、光の加減で色彩の差は余り気にならない。

それよりも北斎の「富嶽三十六景」に収められた他の絵が面白い。「東都浅草本願寺」(現在の浄土真宗東本願寺派東本願寺の前身)や「江都駿河町三井見世略図」(三井越後屋の図)のように入母屋の三角屋根と富士を並べた構図などはかなり大胆で面白い。
私の出身地である千葉市にある登戸(のぶと)から富士を描いた「登戸浦」も面白い。鳥居の向こうに小さく富士が描かれているのだが、これは古代からの富士山岳信仰を連想させる。日英中の三カ国語で解説が書かれているのだが、日本語では「千葉市中央区登戸」とあるのに、中国語では(千葉県中央区登戸)と書かれていて少し奇妙な印象を受けた。

「甲州三坂水面」は、河口湖に映る逆さ富士を描いたものだが、富士本体は夏の姿である黒富士であるのに対して、湖面に映る富士は雪を戴いており、リアリズムを超えた美しさを感じることが出来る。
丸い桶の向こうに富士が見える有名な「尾州不二見原」や、「武州千住」などは何よりも構図を優先させた浮世絵だが、一昨日見たウィーン分離派の絵画にも見たままではなく再構築を行う傾向は見られる。パリとは異なり、ウィーンでジャポニズムが流行ることはなかったが、画家達は浮世絵を入手していて、影響を受けている。似通っているのは、偶然ではないだろう。

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2019年9月28日 (土)

美術回廊(36) 日本・オーストリア外交樹立150周年記念「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」

2019年9月8日 大阪・中之島の国立国際美術館にて

「大阪クラシック」2019第4公演を聴いた後で中之島を西に向かい、国立国際美術館に入る。現在、ここでは日本・オーストリア外交樹立150周年記念「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」という展覧会が行われている。

まず、啓蒙時代のウィーンとして、ハプスブルク家の女帝、マリア・テレジアやその息子であるヨーゼフ2世らの肖像画が並び。ヨーゼフ2世はモーツァルトが仕えていた皇帝であるが、「ウィーンのフリーメイソンのロッジ」という絵にはモーツァルトと「魔笛」の作曲依頼者で台本を書いたシカネイダーらが右端で談笑している様が描かれている。その後にはモーツァルトの肖像画と「魔笛」の様子を描いた絵が並んでいる。

「ビーダーマイアーの時代」の展示。ウィーンは貴族達の街から市民階層を主人公とする都市へと変わっていく。1814年のウィーン会議の出席者を描いた絵があり、オーストリアの代表者であった外相メッテルニヒが愛用していたという赤いアタッシュケースが展示されている。

市民階層の台頭の象徴がシューベルティアーナである。貴族の嗜みであり、豪邸の客間などで演奏されていた音楽が市民のものとなり、その時代を代表する若手作曲家であったシューベルトを囲むサロンでの演奏会が行われるようになる。
シューベルトの有名な肖像画(ヴィルヘルム・アウグスト・リーダーの筆による)や、「シューベルティアーナ」の絵画(ユーリウス・シュミットの作)が飾られ、シューベルトが愛用していたという眼鏡も展示されている。

この時代には家具が発達している。実はそれまでは椅子などは貴族の権威を表すものであったのだが(確かに皇帝は玉座に座っている)、この時代には実用的な椅子が考案されてヒットする。椅子は時代が下るに従って、シンプルなデザインに変わっていくのが確認出来る。

城壁が廃され、その後にリンクという通りが出来ると、この通り沿いにウィーンの新たなる政治・文化施設が誕生していく。まずは国会議事堂。その横にウィーン市庁舎、更にその横にウィーン大学が建つ。そして音楽の都であるウィーンを象徴する宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)、旧ブルク劇場が建ち並ぶという、国際的な文化都市としての顔が出来上がるのである。この時の王(皇帝)はフランツ・ヨーゼフ1世、王妃はミュージカルなどでお馴染みのエリザベートである。美男美女の王と王妃の肖像画並ぶが、二人は輝かしきオーストリア=ハンガリー二重帝国の象徴であった。

音楽は更に市民階層へと広がっていく。ヨハン・シュトラウス1世が広めたウィンナ・ワルツが隆盛を極め、息子である「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世が生み出した曲の数々は現在のポピュラー音楽並みかそれを凌ぐほどの人気を誇った。誇らしげな顔をしたヨハン・シュトラウス2世の胸像が飾られている。

建築の分野ではオットー・ヴァークナーが登場。彼が設計した多くの建物はウィーンの景観を変えていく。駅を造り、美術アカデミーの建物や博物館を設計し、様々なインフラを自らのアイデアで創造し、あるいは塗り替えていく。

 

アカデミズムに対抗する形で分離派を生み出したのがグスタフ・クリムトである。世紀末ウィーンを代表する画家だ。クリムトは絵画に象徴を持ち込み、光と影を同じ画面内で対比させるなど、新たな画風を前面に打ち出す。マクシミリアン・レンツ、カール・モル、ヨーゼフ・ホフマンなどがウィーン分離派(正式名称は、オーストリア造形芸術協会)として新たな芸術観を高らかに掲げることになった。ウィーン分離派は権威としての美術や写実性よりも総合芸術性と実用性を重視。グラフィックデザインなどを生んでいくことにもなる。

クリムトの「エミーリエ・フレーゲの肖像」のみは写真撮影可であり、多く人がシャッターを押していた。自信に満ちた表情のエミーリエ・フレーゲであるが、服装や背景などは現実離れしており、エミーリエ自身がはこの絵を嫌ったそうである。

ウィーン分離派の実用性を工芸部門へと押し広げたのがウィーン工房である。マイスターの仕事を芸術の領域へと高めることを志したウィーン工房は、ヨーゼフ・ホフマンらによって生み出され、一時代を築いたが、凝りに凝った芸術趣味が災いして、後の倒産の憂き目を見ることになる。ヨーゼフ・ホフマンの手によるヘルマン・ヴィトゲンシュタイン邸のキャビネットや花瓶、印章などが展示されているが、このヘルマン・ヴィトゲンシュタインは、ウィーン分離派の第一のパトロンとなったカール・ヴィトゲンシュタインの父親である。カールの息子のパウルはラヴェルに左手のためのピアノ協奏曲を依頼したピアニスト、同じくカールの息子であるルートヴィヒは高名な哲学者である。

クリムトの衣鉢を継ぐ形となった画家がエゴン・シーレである。描写を得意としたシーレの多くのスケッチが並ぶが、クリムトの作品同様、生と死の境にあるかのような、一種の不吉さも感じされる。

ウィーンの絵画はシーレ以降、表現主義的な色彩を強めていくのだが、音楽の部門で同様の表現拡大を行っていた音楽家に関する展示がラスト近くに配置されている。十二音技法の生みの親であり、新ウィーン学派の代表者であったアルノルト・シェーンベルクの筆による絵画が数点。中には愛弟子であるアルバン・ベルクの肖像画なども含まれる。シェーンベルクはマーラーの葬儀の絵も残しているのだが、そのマーラーの肖像(彫像)も展示されている。オーギュスト・ロダンの手によるものだ。

 

クリムトを中心としたウィーンの美術の展覧会ではあるが、それらと極めて強く繋がる政治、思想、景観、音楽などを網羅する総合展示であり、ある意味、ウィーン分離派の思想を受け継いだ展覧会であるともいえる。

 

展示された作品の中では、マクシミリアン・クルツヴァイル「黄色いドレスの女性(画家の妻)」が実にチャーミングである。ウィーン分離派はブロックを積み上げるようにした構図を用いることが多い様だが、「黄色いドレスの女性」は、首を傾げることでシンメトリーの構図が崩れ、そこから女性らしい愛らしさが滲み出ているように思われる。「黄色いドレスの女性」は、1899年に描かれたものだが、その60年ほど前に描かれたフリードリヒ・フォン・アメリンク「3つの最も嬉しいもの」(酒・女・歌のことらしい)や「悲報」に登場する抑制された表情の女性とは好対照であり、その間に女性の内面からの解放があったのかも知れない。

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2019年9月21日 (土)

2346月日(15) 村田沙耶香×松井周 inseparable 『変半身(かわりみ)』プレトークイベント

2019年9月15日 ロームシアター京都3階共通ロビーにて

今日もロームシアター京都へ。午後3時から3階共通ロビーで、村田沙耶香×松井周 inseparable『変半身(かわりみ)』プレトークイベントに参加する。

3階共通ロビーからは、京都市美術館別館の屋根が見え、時が経つにつれて緑色の屋根の色が少しずつ変化していくのが趣深い。遠くには黒谷こと金戒光明寺の文殊塔も見える。

12月に、東京、津、京都、神戸で、村田沙耶香と松井周の原案、松井周の作・演出による「変半身(かわりみ)」という舞台が上演され、村田沙耶香がその作品を小説化するという試みが行われる。

司会は、筑摩書房編集者の山本充が担当する。

「変半身(かわりみ)」は、村田と松井が共に好きだという、奇祭や儀式に取材した作品にしたいということで、創作するに当たって、山本、村田、松井の3人で様々なところに出掛けたという。村田と松井は、対談で出会ったのだが、互いに「変態」という印象を抱いたそうである。松井周の性格についてはよく知らないが、『コンビニ人間』で芥川賞を受賞した村田沙耶香は作家デビュー後もコンビニ勤務を続けたことで、「かなりの変人」という定評がある。

まず、伊豆諸島の神津島へ。天上山という、高尾山(標高599m)と同じぐらいの高さの山があるというので、山本の提案で登ってみたのだが、高尾山はそもそも標高200mか300mぐらいのところに登山口があるのに対して、天上山は標高0のところから登るため倍ぐらいしんどかったそうで、村田は「死に覚悟した」そうである。山本も天上山を嘗めていたようで、ペットボトル1個だけ持って登山したのだが、村田は「あれ(ペットボトルの水)がなくなったら死ぬんだ」とずっと山本のペットボトルを見ていたらしい。山本はそれを察して嘘をついたそうで、山頂に行くと自動販売機があるだの、素敵なテラスがあるだのといった思いつきを、さも本当のように述べていたらしい。
翌日、また神津島を回ったのだが、山本と松井がお墓に入って写真ばかり撮るので、村田は「罰が当たる」と思い続けていたそうである。子どもの頃から、神様だとか天罰だとかを信じるタイプだったようだ。お墓から出て、道を歩いていたら、突然、黒い人影が現れたので、村田は「ほら罰が当たった」と思ったそうだが、その人影の正体は酔っ払った地元のお爺さんで、倒れて血を流していたらしい。

神津島では、松井は「なんかお洒落なところがある」というので、見掛けた建物に近づいたりもしたそうだ。そこは、リゾートホテルとして建てられ、オープン寸前まで行きながら運営元が倒産したか何かで白紙になり、建物だけが残っている場所だったという。松井と山本は近づいて行ったのだが、村田は「そうしたところには人殺しが潜んでいて殺される」と思い込んでいたそうで、一人逃げ出したそうである。
神津島は江戸時代には流刑の島だったということで、豊臣秀吉の朝鮮征伐の際に、朝鮮で捕らえられて日本に渡り、その後、徳川家康に才気を認められて侍女となるも、キリスト教信仰を捨てなかったため神津島に流罪となったジュリアおたあの祭りがあるそうで、それを見てきたようである。

その後、兵庫県の城崎温泉で10日ほど合宿を行う。演劇祭に参加し、村田は新作の小説を書き上げて朗読を行うというので、ずっと籠もって書いていたのだが、腱鞘炎が酷くなったため、城崎中の湿布を買い求めてずっと貼りながら書いていたという話をする。ちなみに山本はその時、ずっと温泉巡りをしていたそうだ。
城崎で、村田が島を舞台にした作品にしたいと提案し、流れが決まったそうである。

その後、山本と松井は台湾の緑島に向かう。村田は仕事の都合で緑島には行けなかったそうだ。
緑島は台湾の流刑地である。現在はリゾート地なのだが、以前は政治犯の収容所があり、国民党が国共内戦で敗れて台湾に逃れた直後、反国民党派を弾圧する白色テロと呼ばれる恐怖政治が行われ、共産主義者やエリート層などが緑島に送られたという。台湾では1945年に日本統治が終わったばかりであり、緑島に送られた人の中には日本式の教育を受けた人も多かったそうである。
ここで、演劇祭があったのだが、白色テロの際には、転向のための教育が行われ、心からの転向をしないと死が迫るということで、転向を演じるにしても本気でやらなければならず、松井はそこに演劇との共通点を見たようである。

最後に訪れたのは三重県にある神島。三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台になった島として知られており、三島が『潮騒』の執筆を行った部屋や机が今もそのまま残っているそうである。
神島自体も時が止まったままのような島で、人口は三島が滞在した時からほとんど変わらない500名前後。ただ、神島は多くの祭りが伝わることでも有名なのだが、それらを継続するのに問題が生まれているそうである。様々な準備や手配や食事の用意やらは女性が行うのだが、今はやりたがる人が少ない。男性の方も高齢化が目立ってきたが、いったん若い人に譲ると年長者はもう参加出来なくなるという決まりがあるそうで、世代交代もままならないそうである。山本などは、「決まりを変えちゃえばいいんじゃなの」とも思ったそうだが、そう簡単にはいかないそうである。

「半変身(かわりみ)」について、松井は、「殉教者のような人を描くことになる」と言い、村田は人間を箱のようなものと認識しているというところから様々な要素によって変化していく、例えば「私はゴキブリを食べないけれど、国によっては食べたりもするじゃないですか」ということで、文化や風習によって変化するということを書きたいようである。
ちなみに本が出来上がる前に、漫画家の鳥飼茜による宣伝イラストが出来たそうで、二人とも鳥飼のイラストに影響されて本を進めるようである。

タイトルに纏わる話で、松井には変身願望があるそうなのだが、「満員電車が好き」という話になり、理由は「込みすぎていて人間じゃないものに変わる」からだそうで、やはり変態っぽいかも知れない。村田は自身の中に謎の怒りがわき上がる時があるということを語る。なぜかティッシュ配りに人に猛烈な怒りを覚えたのだが、原因は自分でも不明だそうである。ただ、自分の中にそうした部分があると知ったのは発見だったそうだ。


オーディエンスからの質問を受ける中で、村田の小説である『殺人出産』の話が出る。10人産んだから1人殺していいという正義の話になるのだが、「正義感がラスコーリニコフだなあ」と感じたりもした。モラルや正義とそのフィクション性を問う作品になるようである。松井は「日本には西洋の神のような超越的な存在がない」ことがややこしさに繋がっていると考えているようで、村田は逆に子どもの頃から神様の存在を感じていて、自然と自律的になり、小説を書くということも神と繋がることと捉えているようである。執筆自体が儀式的ということなのだろう。

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