あらゆること
あらゆること全てを良く取るのは不可能だが、あらゆること全てを悪く取るのは簡単である。
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本当のことなんて誰もどうでも良いのかも知れない。
本当のことなんて誰も求めていないのかも知れない。
人はみな嘘が上手だ。
中でも自分自身を騙すのが一番得意だ。
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私もそうなのだが、蠍座生まれの人というのは人生において比較的割を食いやすいのではないだろうか。子供の頃は4月~6月生まれの子に比べると約半年リードされているために能力で劣るが、早生まれの子達のように、特別扱いされるわけでもない。
私が子供の頃は「お受験」などという言葉もなかったし、子供の頃から私立の学校を受ける人もそう多くはなかったけれど、最近のお受験では、早生まれの人のために早生まれ枠というのがあり、4月~6月生まれの人とは別の試験で結果が決まるそうで、「秋生まれの子供がお受験では一番不利」なのだそうな。
日本の星座占いでは「蠍座の人は内省的」ということになっているが(海外ではどうやら違うようである)、これは星座が影響しているのではなく、子供の頃から内省的にならざるを得ないような環境に置かれるからではないかと思うのだが。子供の頃はやはり4月~6月生まれの子供がやはり発育的にリードしているので秋生まれの子は劣等感を覚えやすいし、かといって早生まれの子供達とは「やはり違う」という意識になってしまう。
立場が微妙なのである。
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「幸せでありたい」若しくは「幸せになりたい」と願うことは人間として至極当然のことである。
しかしこれが、「幸せであらねばならない」という強迫的傾向を帯びるとき、人は崩壊への第一歩を踏み出すことになる。「自分にとっての幸せ」の定義を逆に狭めることになり、不幸の領域を勝手に押し広げ、大切な何かを見失う。
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佐原は伊能忠敬が商人として活躍したところではあっても、彼が生まれ育ったところじゃないぞ!
http://golog.nifty.com/cs/catalog/golog_article/catalog_004176_1.htm?10291800
本文には「育ったところ」となっているのに、序文ではなぜ「生まれ育った」になっているのだろう?
元千葉県民
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米国の科学者チームが、マウスの記憶を選択的に消去する実験に成功したとのことである。この技術が人間にも応用できるのではないかとのこと。
忘れてしまいたいことは、どんな人でも多いと思われる。PTSDなどで地獄の苦しみを味わっている人も存在する。
私も例に漏れず、悪い記憶に苦しめられることは多い。忘れられたら楽になるだろうという忌まわしい記憶。
しかし、その悪い記憶が結果的に生んだ枝葉状になっている良い思い出もまた、記憶を消去した場合消えてしまうということになるのだろうか。マイナスが生んだプラスをも私は得ているのだ。そのプラスの部分もなかったということになるのだとしたら。
結局のところ、人間は記憶にしろその他の部分にしろ、複雑すぎて、一部を消すことで失いたいことと同時に得たものもまた手放すことになるのだろう。
ならば悪い記憶も私の一部として受け止めていけるよう、努力する方が、記憶を消すことよりも重要なように私には思えるのだ。
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ネパールで雪男のものではないかという足跡が発見されたそうですが、雪女というと美しくも怖ろしい妖怪なのに、雪男というとなぜか毛むくじゃらの未確認生物というイメージになってしまうのが不思議といえば不思議ですね。そもそも雪男にはオスしかいないのか? それだったら繁殖が出来ないじゃないか。
話は変わりますが、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの怪談「雪女」は、現在の東京の多摩地方に伝わる話を基にしたもの。ということで物語に出てくる川は多摩川なのです。雪国の話ではないというのが意外です。
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飛ぶ夢を見たことがない。
空または空中を飛ぶ夢を見たことのある人は案外多いようであるが、私はこれまでそういった類の夢は見たことがないし、飛んでいる時の感じがどういったものなのかも想像できない。飛んでいる時も重力は感じるものなのだろうか? それとも宇宙遊泳のように無重力の中を飛ぶ感覚なのだろうか。
フロイトによると飛ぶ夢は余り良い意味を持たないようだが、他の説によると、飛ぶ夢は創造性と結びついているのだという。
創造性か、格好いいな。
そういわれると飛ぶ夢の一つや二つくらいは見たことがないと駄目なように思えるのだが、そもそも私は創造性ということに根本的な疑問を持っていて、本当の意味での創造というのは魔法で生み出すもののようにある日突然、ポッと生まれるものだとは考えていない。生み出すということは、これまで人類が築き上げてきた様々なものの末端に何かを接ぐことなのではないかと思っている。
「生み出す」=「創造」と考えるなら、そうしたことも創造といえば創造なのだろうけれど、私は生み出すとはむしろ研究の成果のようなものに近いのではないか感じる。
ということで、飛ぶ夢を見たことがなくても別にいいか、とも考えているのである。
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夢を見た。私は何故か東京都武蔵野市の武蔵境の街を歩いていた。そして私は明治時代に建てられた庁舎のような形をした、煉瓦造りで緑色の屋根の巨大な建物へと向かっていた。そこで夢から覚めた。
実は、現実には私は武蔵境の街を訪れたことはない。同じ武蔵野市の吉祥寺には行ったことがあるが、武蔵境は通過したことさえない街で、街の名前(正確には駅名)も何となく知っているという程度である。それなのに、なぜ「武蔵境」という具体的な地名が夢の中に出てきたのか。夢は不思議だ。
そして、どうやら武蔵境には、明治時代に建てられた庁舎のような建物は存在しないようである。
この夢に何か意味があるのだろうか。
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眠れない時になぜ羊の数を数えるのかというと、これは英語圏での習慣で、羊(sheep)と眠る(sleep)の掛詞だからだという。
ということは、日本人が「羊」で数えても大して意味はないということになる。
だが、全く効果がないのかどうか、昨日眠りに就けなかったので試してみた。550匹まで数えてみた。眠れなかった。
ところで、羊を数える単位は、「匹」ではなく「頭」がより正確なのではないかと思われるのだが(「頭」は西洋での数え方からきたもの。東洋では「匹」が量詞なので間違いというわけではないが、眠れない時に羊を数えるのは西洋の習慣である)、なぜ「匹」で数えることになっているのだろう。「頭」より「匹」の方が眠りに誘い込みやすいという理由でもあるのだろうか(「羊が一頭、羊が二頭」では確かに眠りにくい気はする)。
そして、日本語を憶えたての外人さんが、羊を匹で数えようとすると混乱しそうだ。「匹」は読み方が変わるからである(いっぴき、にひき、さんびき(さんひき)、よんびき(よんひき)、ごひき、ろっぴき、ななひき、はっぴき、きゅうひき、じっぴき)。
“いっぴき、にぴき、あれ? 2は「ぴき」で良かったんだっけ?”という風に。
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結果が公表された全国学力テスト。出身地や住んでいる都道府県の成績に一喜一憂される方もあるかと思いますが、テスト結果を基に、何をどうするのかということが問題であるように思われます。
テストの結果をもって、他都道府県に負けじと競争するための材料にするのでしょうか。しかし、それにしても各都道府県ごとの成績と教育との因果関係をどう見つけ、どう対処するのかという問題の答えを探るのは難しそうです(成績上位に北陸地方の県が多い。北陸地方は邸宅が大きいことでも知られる、ということは子供達の多くが個室を持っていてそこで勉強するので成績が上がるという単純な図式は見えそうですが)。
ある県の成績が良かったとして、それは教師の質が良かったのか、生徒が優秀だったのか。平均点は出たけれどもバラツキはどうだったのか。平均点は低くても上位層が厚い(つまり学力が二分化している)のと、平均点は高くてもバラツキがない(優秀とされる層が薄い)のではどちらが良いのか。
とにかく、テスト漬けにして毎年のように全国学力テストを行い、学校同士を競争させているイギリスの教育成果が上がっていないということもあり(福田誠治 『競争しても学力行き止まり』朝日選書)、今、他のことでも話題になっているサッチャーさんの政策追随に疑問を持つ人がもっといても良く、そうした疑問を持つ力は、学力以上に重要だと思われるのですが。
私が生まれ育った千葉県は自慢じゃないですが教育政策がヤクザなところで、私が子供の頃は教師一人当たりの生徒数が全国一位(マスプロ教育であり、つまり教師の目が生徒一人一人に行き届かない。それ以前に教師の数自体が足りない)になるなど、教育に問題のある県でしたが、一方で県立千葉高校のような、公立校としては全国屈指の進学校を擁するなど、公立校の凋落が明らかだった東京都などに比べると、進学に関しては良い成果を上げていました。今回の全国学力テストでも千葉県の成績は下位ではなく中位で、全国平均よりも上です。普通に考えて、教師の力ではなく、生徒の質が高かった(千葉県の東京湾沿いに家を構えた人達というのはインテリ層が多く、結果、その子供も勉強が出来たということだけなのかも知れない)ということでしょう。こうしたことは、教育において重要である、教師側の問題が見えにくくなっているようにも思われるのです。
となると、全国学力テストで計ることが出来るのは何かが問われてしかるべきなのに、それについては問われることなく、今後も漫然とテストが行われるということが続いてしまうのではないかという危惧の念も起こってくるのです。
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理由は極めてシンプルで、「筆圧が高い」からである。筆圧が高いことに、心理学的意味を見出そうとする人もいるようだが、多分、筆圧が高いことに深い意味はないと思われる。
学生時代も筆圧が高いため、シャープペンシルだとすぐに芯を折ってしまうので、専ら鉛筆を使っていた。鉛筆にはこだわりがあって、三菱鉛筆のuni(ユニ)しか使わなかった。uniは滑りが良く、比較的筆圧の高い人に向いていると思われる(ちなみに消しゴムはなぜかトンボ鉛筆のMONOの方が好きだった)。
「筆圧が高い人は、ワープロやパソコンのキーボードも思いっ切り叩く」傾向があると何かで読んだことがあるが、確かに私の場合も、パソコンのキーボードは強めに叩いている。
そういえば、キャッチボールなどでも緩い球だとコントロールが付けにくく、自然と速い球やスナップを利かせたボールを投げてしまう方である。子供の頃はスピードボールにこだわっていたので、ゆっくり投げるということはほとんどなかったのだが、高校時代の体育の時間にソフトボールをやったときにゆったりと投げたら却って変な方向にボールが行ってしまうことに気がついたのだった。
様々な事情から見るに、良くも悪くも手抜きが下手だということはいえるのかも知れない。
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虫歯になっていた奥歯を歯科で抜いて貰う。
最近の抜歯は、麻酔技術が向上したためか、痛みをともなうことはほとんどない。手術より麻酔の注射の方が痛いくらいだ。
口の奥の方で何やらガキガキとやって、ボキッと歯が抜ける瞬間は、痛みを感じないため、なかなか爽快ですらある。
「おー! 今この瞬間に虫歯が取れたぞ!」という軽い感動(??)も覚えたりする。
麻酔の強くて効く時間が長い分、抜歯後は色々と問題もあるのだが、結論としては現代の抜歯は怖がる必要は全くないということである。歯医者嫌いの方、ご安心を。
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1982年、私が11月には8歳になるその年に、テレビで「みかんのたいきょく」というタイトルの映画のCMが流れていました。7歳か8歳だったので、「みかん」というと「蜜柑」しか思い浮かべることが出来ず、CMの中に蜜柑が出てこないことを不思議に思ったのを憶えています。
小学校も高学年になると、「未完」という言葉を知るようになりますので、「みかん」とは「未完」のことだと察しがつきました。シューベルトの未完成交響曲のことも知るようになったので、あのとき見た「みかんのたいきょく」とは「未完の大曲」のことなんだと思い、そのまま数年が経ちました。
19歳のある日、ぴあから出た日本映画に関するデータ集を読んでいて、そこで初めて私は、「みかんのたいきょく」の正体が「未完の対局」であったことを知ることになります。まさか碁と将棋の映画であったとは、その時まで思いつきもしませんでした。
「未完の対局」は日中合作映画で、ロードショー時の評価はかなり高かったそうですが、日中合作ということで利権の問題もあるのか、DVDもまだ出ていないという状態です。今すぐに観てみたいとは思いませんが、いずれ観てみたい映画の一本です。
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「いれたてのおちゃ」→ ×「入れた手のお茶」 ○「入れ立てのお茶」
「ほんじつかいてんのおみせ」→ ×「本日回転のお店」 ○「本日開店のお店」
などの誤変換を題材にして、「うちの変換は大丈夫です」というアピールをしていた「一太郎」(ジャストシステム)のCM。
しかし、ジャストシステムのIMEであるATOKも勿論完璧ではなく、妙な変換をすることがあります。
最近の誤変換で驚いたのは、「こうべしんぶん」を「頭新聞」と変換したこと。神戸新聞はそんなにマイナーなのか? というより神戸新聞を頭新聞と変換したら例の事件が連想されて不気味じゃないか。
それから歴史的用語にはATOKは弱いようで、「横浜正金銀行」を「横浜賞金銀行」と誤変換したことには笑いました。
「横浜賞金銀行」か。楽しそうな銀行だな。店内のあちこちから、「おめでとうございまーす!」という声が聞こえてきそうな。
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映画「ロルカ、暗殺の丘」でロルカを演じたアンディ・ガルシアとリッカルド・ムーティは似ていると思いませんか?
アンディ・ガルシアとリッカルド・ムーティの両方を知っている人がどれぐらいいるのかわかりませんが。
アンディ・ガルシアといえば、何といってもケビン・コスナー主演の「アンタッチャブル」が良かったですね。
シカゴ駅での階段落ちの場面、
「狙いは?」
「完璧です」
うーん、格好いい。
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生きることに意味なんてないのさ。
草も獣も、山も大地も、海も空も、己の存在意義など感じもせずに存在している。
ただ人間だけが、生きる意味を求めなければ生きることさえ出来ない。
何て哀れな。
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人間の聴覚は20歳前後をピークに徐々に衰えていくことがわかっています。一説によると、30歳の人間の聴覚は、20歳頃の60%まで衰えているとのこと。
30歳を過ぎた私も実感はないのですが、聴覚は落ちているのでしょう。
若者にしか聞こえない「モスキート音」なるものを使った携帯の着信音も出来ているそうです。試してみると……、確かに聞こえません。14kHzまでは聞こえるのですが、15kHzになるとほとんど聴き取れません。やはり私の耳ももう若者のそれではないようです。
ちなみに子供の頃の私は、テレビのブラウン管の音を聞き取ることが出来たので、10メートルぐらい離れた場所からでも、家のテレビが着いているどうか知ることが出来ました。子供の耳というのはそれくらい優秀なようです。今では、試したことがないのでわからないのですが、おそらく10メートル離れたところからテレビが着いているかどうかを耳だけで感じることは出来ないと思います。
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昨日に引き続き、ペギー葉山の「学生時代」にまつわる話。
私が「学生時代」という歌を知ったのは小学生の頃でした。テレビ番組で、なぜかはよくわかりませんが、ガッツ石松が「学生時代」を歌っていたのです。
さて、「学生時代」は、“蔦の絡まるチャペルで祈りを捧げた日”という歌い出しですが、小学生の私は、チャペルなんてものが何か全くわからず、蔦も聞き違えて、“草の絡まるシャベルで祈りを捧げた日”という歌い出しなのだと思ったわけです。
“草の絡まるシャベル”といっても何のことかわからないはずなのですが、子供というのは想像力が豊かなので、次の“祈りを捧げた”というところから、「蔓草を絡ませたシャベルを墓標代わりにしたペットのお墓だろう」と勝手に結論づけていました。弔いの歌にしてしまったわけですね。「学生時代」のメロディーが哀愁を帯びていたのも想像を後押ししたのでしょう。
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ペギー葉山が唄った「学生時代」。元のタイトルは「大学時代」(モデルになっているのは青山学院大学)でしたが、この歌が作られた昭和39年当時は大学に進学する人が少なかったことと、ペギー葉山は高等部までは青学にいましたが、大学には行かずに歌手になったということで、発表時に「学生時代」にタイトルが変更になりました。
ただ、学生というと普通は大学生のことを指します。
私は学生を二度やっているわけですが、最初の学生の時の方が学生学生していました。
さて、一度目の学生時代。ペギー葉山は「素晴らしいあの頃 学生時代」と唄っていますが、私の場合は……、
今思い返すと、「素晴らしいあの頃」とは思えないですね。生活自体は楽しかったですけれど、思い出の中に出てくる学生時代の私は……、幼い、知識不足、不安だらけ、自意識過剰と、ろくな人間じゃありません。よくまあ、恥ずかしくなかったものだと思うことも多々。
しかし、ゼミなどは楽しかったですね。ゼミを受けたから今の自分にある程度自身が持てているような気がします。論文を読みまくってましたけれど、翌週のゼミに行くときは、それまでよりずっと賢くなったような気がしていました。気がしていただけかも知れませんけれど。
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一見「具象」について語っているようでありながら、言葉は個々のコンテクストから完全に自由にはなりきれないが故に、ナノ単位のズレからでも、それが拡幅されれば決定的な齟齬が生まれる。
同じことについて語っているつもりでありながら、実は同姓同名の他人について語っているようなものであることがままある。個々の意識の「抽象性」という本質故である。
この性質を知ると知らないとでは大きな違いが生まれる。
我々は畢竟、語り得ず、確認し合えないのかも知れないが、それが故に語り合い、確認し合う意志を持つ必要もある。
今、何について語っているのかを。
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「思想書や哲学書や仏教書などを読んで感心しても、街へと一歩繰り出すと、ここがそうした感心の通用する世界ではないことに気付く」
それは当然で、この世界は理想郷ではないから。そして理想郷を求める心にも疚しさがありありと感じられるから。
考えてみれば、宗教にはありがちだけれど、寺院も修道院も人里離れた場所にあることが多い。思考を磨くためには別世界に行く必要があるのだろうけれど、逆に考えれば、そうした精神世界は娑婆にあっては築き得ず、高い場所から宣言が下されてもそれは斯界にあってはリアリティを持ち得ぬということか。
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「クイズヘキサゴンⅡ」の携帯サイトでは、ほぼ毎週、予選ペーパーテスト50問が放送終了後に公開されます。私も受けてみるのですが、山本モナやラサール石井に勝つことはたびたびでも、麻木久仁子の点数を上回ったことはこれまで一度しかありません。今週も勝てなかった(ちなみに私は番組自体は見ていないという制作スタッフにとっては余りありがたくない人です)。
麻木久仁子さんが賢いのは「ヒントでピント」の頃から知っていますし、私と同じ11月12日生まれ(干支も同じ。どちらが上なのかはいうまでもないこと)なのが嬉しいのですが、それでもやはり勝ちたいよなあ。
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最初に行ったのは、自宅の最寄りの図書館。といっても私が育ったのは千葉市郊外の住宅地だったので、いわゆる図書館と聞いてイメージするような立派なものではなく、公民館の一角にある図書室のようなものです。保育所の頃から、小学生時代までは、各週土曜日に母親と一緒に行って、本を借りてくるというのが習慣でした。
小学校低学年ぐらいまでに読んだ本で印象深いのは、「ぐりとぐら」シリーズや、あまんきみこの「車のいろは空のいろ」シリーズ。「車のいろは空のいろ」シリーズは大好きで、本に出てくる話では足りずに、自分で話を作っていました。といっても原稿用紙に向かっていたわけではなく、自分が主人公のタクシー運転手である松井さんになりきって、色々な設定をこしらえて演じていたわけです。
マンガの「ドラえもん」も藤子不二雄が書いたものだけではもの足りずに、自分で設定を決めて、一人何役も演じて楽しんでいましたから、本を読んでも同じことをしていたわけです。
小学校中学年は歴史上の人物の伝記やマンガを読むことが多くなったのですが、高学年になると母親の影響でミステリー小説を借りて読むようになりました。これも小説本編だけでは物足りなくなって、マニアックな研究書まで借りて読んでいました。“これこれはこうなっているけれど、実は裏にはこういう意味があって”という類の本ですね。
小学校の図書室は児童が授業をサボってこもらないように、ほとんど開いていなかったと記憶しています。図書館がある意味がないじゃないかと思うのですが。でもたまに開いている時には、本を読んでいましたが、そこで読んでいたのは小説などではなくて、法隆寺だとか、城郭だとかの建築関係の易しい本が多かったと記憶しています。もうその頃から建築が大好きだったようです。
中学校の図書室も小学校と同じ理由で開いていなかった、って、千葉県は本当に教育水準が低いなあと思うのですが、クラブ活動で、集団読書クラブというのに入っていたんです。集団読書クラブというのは、クラブのメンバー全員で同じ本を読むということに表向きはなっていたのですが、実際は、普通の読書クラブにしてしまうとメンバーが多くなりすぎるということで、集団読書と銘打って、人と同じことをするのが苦手な生徒を他の読書クラブに行くように仕向けていただけです。本当は各々が勝手に好きな本を読んでいいという普通の読書クラブでした。
そこでは、中学生レベルの脳関連の本や天文関係の本も読んでいましたけれど、太宰治全集やら『レ・ミゼラブル』なども読んでいました。『レ・ミゼラブル』は長かったなあ。
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携帯電話のバッテリーが寿命になったので、交換に行った時のこと。
最初に行った携帯電話のお店にはバッテリーパックの在庫がなかったので、同じキャリアの別の場所にある店まで行くことになった。最初のお店でバッテリーパックを交換してもらえるものだと思っていたので、電池式の簡易充電器は持ってきていない。手持ちの携帯電話のバッテリーはすぐ切れてしまうのだが、自宅に電話する用があったので、携帯電話をかけた。
案の定、会話の最中に電話のバッテリーが切れてしまう。こうなると電話ボックスを見つけて入るしかない。幸い、大通りを歩いていたので電話ボックスは比較的簡単にみつかって、用件を話すことは出来たのだが、考えてみれば最後に電話ボックスに入ったのはいつのことだっただろう。
公衆電話をかけたのさえ久しぶりなのだった。記憶に残っているところでは、2001年の秋に京都パストラルというホテルから千葉の実家に電話したのが、いわゆる公衆電話を使った最近(最近では全くないのだが)の記憶である。ちなみに京都パストラルはその後廃業して建物も取り壊され、現在では金閣寺の駐車場とマンションの敷地になっている。
携帯電話が普及したので当然ながら電話ボックスは減る。「あそこには確実に電話ボックスがある」と把握しているのは私の場合、3カ所だけである。それでも多い方だろうか。
村上春樹の小説『ノルウェイの森』は主人公が電話ボックスから彼女に電話をかけ、彼女に「あなた今どこにいるの?」と訊かれてどこにいるのかわからなくなるというシーンで終わる。
「スーパーマン」のクラーク・ケントは電話ボックスの中でスーパーマンに変身する。
そうしたことも未来の人々には伝わらなくなるのだろうか。「電話ボックス」に注釈がいるようになるのかも知れない。そしてそのころには最後まで生き残り続けた電話ボックスがレトロな遺産として一部で注目を浴びるようになっていたりして。
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竹内まりやの曲に「毎日がスペシャル」というものがあります。良い歌です。歌詞もメロディーも良い。
ラッキーでなくても(「例え優等生じゃなくても人気者じゃなくてもナイスなバディじゃなくてもね」)心の持ち方一つで毎日が楽しくなるという内容の歌です(でも、どうでもいいことかも知れませんが、竹内まりやさんって若い頃から優等生で人気者でナイスなバディですよね)。
「今日も人生の一日なり」という言葉もありますが、毎日がスペシャルという感覚で生きてみるのも「たまには」いいかも知れません。同じ日などもう二度と来ないのですから。
ただ本当に毎日、「今日もスペシャルだ」という風に感覚を鋭敏にしすぎていると本当に本物のスペシャルに対する感性が鈍ってしまうかも知れません。それにいつもハイテンションの人と一緒にいるようで、酷く疲れそうです。
「なんだ今日もスペシャルかよ。たまには普通がいいよ」と思うようになるかも知れません。
ハレはケがあってこそ楽しいもの。何事もほどほどが良いのかも知れません。
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有限を嘆くけれど、あらゆる有限の際まで行くことの出来た人は一人もいないのだ。たどり着くことが出来ないほど遠い有限の際を嘆くというのは、外国語の学習を始めたばかりの初心者が、その外国語が持つ表現力の限界を嘆くのと同じ、もしくはベストタイムが100メートル10秒台ランナーが、「人間はどんなに頑張っても100メートルを9秒台でしか走れないのだな」と嘆くのと同じほど奇妙なことではないだろうか。
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今年の夏は一度も蚊に刺されなかったというのに、10月に入ってから二度も蚊に喰われてしまった。そして今も部屋の中で一匹の蚊が鳴き、隙あらば私の血を吸おうとしている。
今年の夏に蚊に喰われなかった、というよりそもそも蚊をほとんど見かけなかったのは、余りの暑さに蚊もやられていたからなのか。
それにしても10月になってから蚊に悩まされるというのも妙である。
欽ちゃんこと萩本欽一のエッセイの中に、蚊を上手く仕留めるにはどうすればいいのか、というようなことが書いてあって(小学生の頃に読んだものなので、うろ覚えなのですが)、布団に入り、左腕だけを出しておく、そして蚊が左腕に留まるのを待ち伏せてしとめる、というような内容。子供の頃に真似たことがあるのですが、蚊もさるもので、そういうときはなかなか左腕に留まってはくれないのである。
さて十月の蚊をいかに仕留めてやりましょう。蝿と違って手も足も擦らないので、決して容赦はしませんぞ。
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京都の水道水は、夏になると生ぬるく、冬になると冷たくなります。これは決して当たり前のことではありません。
生まれ故郷の千葉市の水道水は、夏になると冷たく、冬になると温かくなります。快適です。
京都市の水道水は、おそらく上水道が余り深くないところを通っているために地表の温度に影響されやすいのでしょう。逆に千葉市の上水道は地下深くを通っているため、地表の影響を受けずに水温が一定であるため、夏には冷たく、冬には温かく感じられるのだと思われます。
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以前、「読書感想文なんて書くな」という主張をしましたが、“読書感想文の書き方”というワードで入ってくる方が多いので、アドバイスをいくつか。
自分が登場人物と同じ立場や状況に置かれたらどうするかを考えて書くといいと思います。
作者は何故この場面で登場人物にこんなことをさせたのかを探ってみましょう。
“何故(なぜ)”を大切にしましょう。ストーリーにほとんど触れなくても、何故と思ったことを追求していくだけで読書感想文は書けます。
実はさる事情により、文学的価値以外のことで読書感想文の課題図書や推奨図書は決まっています。そうした「大人の事情」に反抗して、少し難しめの本を選んで感想を書いてみるのもいいでしょう。文学には“反抗”がつきものです。
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一般に人は「生きる」だけでいい。例えるなら、足し算のみ、若しくは足し算と多少の引き算で生きていける。
しかし演劇人は、「人生」を生きる必要があるのではないか。足し算と引き算だけでなく、掛け算に割り算、更には虚数や無理数をも意識しなければならないのではないかと。
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