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2019年4月18日 (木)

コンサートの記(545) 井上道義指揮 京都市交響楽団第633回定期演奏会

2019年4月12日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第633回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は井上道義。

オール・プロコフィエフ・プログラムで、組曲「キージェ中尉」、ピアノ協奏曲第3番(ピアノ独奏:イリヤ・ラシュコフスキー)、「ロメオとジュリエット」組曲から(井上道義セレクション)が演奏される。

ショスタコーヴィチのライバルだったプロコフィエフ。二人は犬猿の仲であったと伝わるが、基本的にショスタコーヴィチ作品を得意としている演奏家はプロコフィエフ作品でも優れた出来を示すことが多い。

今日のコンサートマスターは客演の石田泰尚。フォアシュピーラーは泉原隆志。今日はチェロ客演首席にNHK交響楽団の首席チェロ奏者である「藤森大統領」こと藤森亮一が入る。第ヴァイオリンの客演首席は大森潤子。武貞茂夫が定年で抜けたテューバには北畠真司が客演で入る。
独自の配置が採用されており、ヴァイオリン両翼だが位置は現代配置のヴィオラと入れ替わり。コントラバスはヴィオラの背後の位置。通常は下手に陣取るホルンは今日は上手に回る。


午後6時30分から井上道義によりプレトークの予定だったが、6時40分からに変更になる。井上が癌の後遺症で唾液が余り出ないので、長い時間喋れないらしい(更にインフルエンザが治ったばかりだったようだ)。
井上はまず、「桜の咲く季節は大嫌いです」。「寒いから」ということなのだが、花見に行くにはということのようで、夜桜を見に行っても井上は「寒いから帰る」という方なので花見がそもそも嫌いらしい。
バレエ「ロメオとジュリエット」のラストをプロコフィエフが「死んだら踊れない」ということでハッピーエンドにしようとしたことを挙げて、「(プロコフィエフ)は希望を抱くロマンティストであったのだが変にリアリスト」であったと語る。
「アンティル諸島の娘たちの踊り」は、百合の花を持って踊られるのだが、百合の花は日本でいうところの菊の花に相当し、葬儀の意味があるのだそうである。


組曲「キージェ中尉」。元々は映画音楽として書かれたものを演奏会用にまとめたものである。映画そのものを観たことはないのだが、実在しないキージェ中尉を皇帝が気に入ってしまったため、周囲が振り回されるという筋書きはよく知られている。録音ではコダーイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」とカップリングされることが多い曲である。

拍手が止んですぐに、舞台袖で西馬健史がコルネットを吹き始めてスタート。プロコフィエフは意欲的な表現に取り組んだことで知られるが、この曲でも相反する要素が同時進行するなど、前衛的な表現が聴かれる(特に目立つ場所に置かれたコントラバスは変わったことをしているのが確認出来る)。
京響自慢のブラスは輝かしく、弦も鋭さと温かさを兼ね備えた優れた表現を聴かせる。
井上は体をくねらせて踊るユーモラスな指揮を見せた。


ピアノ協奏曲第3番。ソリストのイリヤ・ラシュコフスキーは1984年、シベリア・イルクーツク生まれの若手。5歳でピアノを始めて、8歳の時にはイルクーツク室内オーケストラと共演という神童系である。シベリア最大の都市であるノボシビルスクの音楽学校で学び、1995年にイタリアのマルサラ市で行われた国際コンクールで優勝。98年にはウラジミール・クライネフ国際コンクールでも優勝を飾り、2000年にハノーファー音楽学校(ハノーファー演劇音楽大学と同じ学校かどうかは不明)に入学して、そのウラジミール・クライネフに師事している。その後も多くのピアノコンクールで優勝や入賞を経験し、2012年に第8回浜松国際ピアノコンクールで優勝。この時から井上道義に評価されていたがなかなか共演の機会がなく、今日が初共演となるようである。

ラシュコフスキーは、渋みとリリシズムを兼ね備えたピアノを披露。高度な技術が印象的である。
京響はベストな響きではあったが、鋭さと音量共にこの曲の伴奏としては弱めである。それだけプロコフィエフの演奏が難しいということでもあり、プロコフィエフのピアノ協奏曲は演奏家泣かせであることでも知られている。

ラシュコフスキーのアンコール演奏は、ラフマニノフの「楽興の時」第4番。情熱と表現力を兼ね備えた秀演であった。


「ロメオとジュリエット」組曲より(井上道義セレクション)。演奏されるのは、「モンタギュー家とキャピュレット家」「朝の踊り」「ロメオとジュリエット」「情景」「メヌエット」「朝のセレナーデ」「アンティル諸島の娘たちの踊り」「タイボルトの死」「ジュリエットの死」

管楽器の冴えがやはり印象的である。今日は木管の首席は「ロメオとジュリエット」のみの参加であったが、技巧面でも表現面でもハイレベルである。打楽器群の力強い響きも見事だ。
井上の表現も巧みで、強弱や緩急の切り替え、甘美さとシニシズムの対比などプロコフィエフの面白さを十全に表していた。

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2019年4月16日 (火)

コンサートの記(544) クシシュトフ・ウルバンスキ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第474回定期演奏会

2013年12月5日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、ザ・シンフォニーホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第474回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は1982年生まれという超若手、ポーランド出身のクシシュトフ・ウルバンスキ。
プログラムは、ペンデレツキの「広島の犠牲者のための哀歌」、ピアノ協奏曲第18番(ピアノ独奏:フセイン・セルメット)、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」

ウルバンスキと大フィルの共演は3度目だそうだが、私はウルバンスキの指揮で聴くのは初めてである。ウルバンスキは毎回、祖国ポーランドの作曲家の作品を取り上げているそうだが、ポーランドの作曲家には、ショパン(フランス系であり、パリで活動はしたが)を始め、ペンデレツキにルトスワフスキ、グレツキなどがすぐに思いつく。ピアニストにクリスティアン・ツィマーマン、ラファウ・ブレハッチ、ワンダ・ランドフスカ、ミェチスワフ・ホルショフスキ、エヴァ・ポヴウォツカなどがおり、指揮者もスタニスラフ・スクロヴァチェフスキや、NAXOSに看板指揮者を務めるアントニ・ヴィトなどがいて音楽大国である。
音楽のみならず、映画監督の分野でもアンジェイ・ワイダ、ロマン・ポランスキー、クシシュトフ・キェシロフスキなど世界中の映画監督から尊敬されるほどの大物が輩出しており、芸術大国であるともいえる。
にしても、発音しにくい名前の人が多い。
ペンデレツキもファーストネームはクシシュトフであり、クシシュトフというファーストネームのポーランド人男性は多いことが察せられる。

ペンデレツキの「広島の犠牲者のための哀歌」は、もともとは「8分37秒」という即物的なタイトルの作品であり、その後、「哀歌8分37分」となった。日本初演の際に「広島の犠牲者に捧ぐ哀歌」とされ、その後、そのタイトルは揺るがぬものとなった。純音楽作品であり、広島の原爆を描いた作品ではないが、原爆投下後の広島の惨状を音楽にするとまさにこのようになるのではないかと思えるほどしっくりくる曲である。元のタイトルの「8分37秒」であるが、ジョン・ケージの「4分33秒」とは違い、ラヴェルの「ボレロ」の「17分ほど」という記述と同様、目安として書かれた程度で厳密に守らなければならないものではない。タイトル改訂と同時にタイム指定も外されたはずであり、私はこの曲の音盤を何種か持っているが、即興的な要素も多いこともあって、元のタイトルのタイムジャストで演奏しているものは作曲者自身が指揮した演奏も含めて多くない。アントニ・ヴィト指揮ポーランド国立放送交響楽団による演奏が当初のタイムに一番近いと思われる。詳しいサイトを調べたところ、平均演奏タイムは10分ほどだという。

クシシュトフ・ウルバンスキ登場。長身痩躯、男前、いかにも才子といった感じである。
指揮者と同じ、クシシュトフというファーストネームを持つペンデレツキの「広島の犠牲者に捧ぐ哀歌」。弦楽のための作品である。
トーンクラスターという、現代音楽ではよく使われる技法を特徴とする。近いが微妙に異なる音程の音を一斉に奏でることで、非常に力強く、衝撃的な響きを生むという手法である。ホラーやサスペンスの映画やドラマの、恐怖心を煽る場面での音楽でもトーンクラスターは多用される。というより、クラシック音楽よりも、映画音楽などで多用されている作曲法といった方が適当だろうか。
クラシック音楽の予備知識のない人がこの曲を聴いたら、「なんだこれは? 音楽か?」と思うかも知れない。
いつも通り、指揮者と対面する席に座ったので、弦楽奏者達の譜面を見ることが出来たのであるが、およそ楽譜らしくない譜面が並んでいる。隣接した音を弾くために五線譜が真っ黒になってしまい、あたかも塗り絵のようである。
指揮者の仕事は拍を刻むよりもどの音をどれだけ強調し、どれだけ延ばすか決定することにある。ウルバンスキはノンタクトで、強く響かせたい音に向かって手をかざす。曲が進むにつれて右手で拍を刻むこともあるが、基本的には、速度よりもバランスを取ることを心がけている。
大阪フィルの弦は思ったよりも力強くなかったが、納得のいく水準には達していた。

フセイン・セルメットを独奏者に迎えての、モーツァルト、ピアノ協奏曲第18番。大フィルは典雅な響きを奏でるが、第1楽章では例によってモッサリした感じが出てしまう。大植英次や、優れたベテラン指揮者が振ると、このある種の野暮ったさは顔を潜めるのだが、やはり指揮者が若いということもあって地の部分が出てしまうのであろう。
ただ、ピリオドを意識したのかはわからないが、若干ビブラートを抑え気味にした弦の響きは透明感もあって美しい。
ウルバンスキはこの曲では指揮棒を用い、腕の動きは余り大きくないが、スナップを利かせることで指揮棒は大きく動くという効率的な指揮を行っていた。
セルメットのピアノであるが、落ち着いた男性的なモーツァルトを奏でていく。一音一音を指で丁寧に押さえることでこうしたモーツァルト演奏が可能なのだろう。「タン・タララン」と軽やかに弾くと華やかなモーツァルトにあるが、セルメットはこれを「タン・タラ・ラン」と微妙に変えることで安定感のある音楽を生み出していた。

ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」。
現在では屈指の人気曲であるが、初演時はバレエの内容と、斬新な音楽が一大スキャンダルになったことでも知られている。この曲はファゴットが通常では使わないような高い音を出して始まるのだが、これに関してサン=サーンスは「ファゴットの使い方を知らない奴が現れた」と書き記しており、その他にも、「これは音楽ではない」などとする批評もあった。その意味で、「広島の犠牲者のための哀歌」と「春の祭典」を同じ演奏会の曲目に載せたのは上手いと思う。
ウルバンスキは速めのテンポを基調とするが、時折、急激に速度を落としたり、急激な加速をしたりと、即興的な味わいが加わる。大阪フィルの合奏力も高く、たまに技術的に不安定な時もあるが、パワフルな演奏が展開される。
ウルバンスキの指揮は、右手で変拍子を処理しつつ、左手を音を出すべき楽器を掴むような手つきで出したりする。こうしたところはダニエル・ハーディングの指揮姿に似ている。
激しい部分になると、体をくねらせながら、ちょっとナルシストっぽい動きをしたりする。ここはハーディングには似ておらず、なよなよした印象も受けて、見ていてちょっと気にはなったが、音楽的には良いものを生み出していた。

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2019年4月15日 (月)

楽興の時(28) 「テラの音 Vol.25 ~歌とピアノの贈り物~」

2019年4月5日 中京区の真宗大谷派小野山浄慶寺にて

午後7時から真宗大谷派小野山浄慶寺での「テラの音 Vol.25」を聴く。今回はソプラノとピアノによる演奏会である。
ソプラノは、京都市立芸術大学音楽学部音楽学科声楽専攻2回生の高田瑞希。私が接したことのある「テラの音」の出演者としてはおそらく最年少になると思われる。京都市少年合唱団修了とあるから、広上さんとも仕事をしたことがあるのだろう。
ピアノの片山梨子も京都市立芸術大学出身。第3回ジュラ・キシュ国際ピアノコンクールで第1位獲得。ポーランド国立放送交響楽団の本拠地としても知られるカトヴィツェで行われた第9回ポーランド国際ピアノマスタークラスにも出演して演奏している。現在はショパンの演奏をライフワークとしているそうである。

曲目は、まず片山梨子のピアノ独奏でショパンの「子犬のワルツ」。2曲目に高田瑞希が登場してのベッリーニの「優雅な月よ」。ここまでをプロローグとして、第1部が、中田章の「早春賦」、瀧廉太郎の「花」、「早春賦」のモチーフとされるモーツァルトの「春への憧れ」より1番、トスティの「四月(Aprile)」、トスティの「春(プリマヴェーラ)」、スカルラッティの「すみれ(Violette)」、菅野よう子の「花は咲く」、山崎朋子の「空高く」。浄慶寺の中島住職の法話を経ての第2部が、トスティの「Sogno(夢)」、ロイド=ウェバーのミュージカル「CATS」よりメモリー(日本語歌詞版)、ピアノ独奏でシューマンの『子供の情景』より「見知らぬ国々と人々」と「トロイメライ」、吉田千秋の「琵琶湖周航の歌」より1番から4番まで、木村弓の「いつも何度でも」、瀬戸内寂聴作詞の「寂庵の祈り」、久石譲の「Stand Alone」

ピアノはローランドのキーボードを使用する。

第1部は春や花を題材とした曲目、第2部には夢や希望をモチーフにした楽曲が並ぶ。

高田瑞希はお喋りな子のようで、片山に「今日は清楚なイメージで行きたい」と提案するも、「5分でばれる」と言われたそうである。

モーツァルトの「春への憧れ」は曲そのものも有名だが、モーツァルトが自身最後のピアノ協奏曲となる第27番の第3楽章に転用していることで知られている。童心に帰ったかのようなモーツァルトの憧れが感じ取れる曲だ。

菅野よう子の「花は咲く」は、高田が京都少年合唱団在団中に京都コンサートホールでの演奏会で初めてソロパートを取った思い出の曲だそうである。

「琵琶湖周航の歌」は、高田が子供の頃に子守歌として聞かされていた曲で、個人的に夢と繋がっているのだそうだ。歌詞は6番まであるが、全部やると長いので、加藤登紀子カバー版と同じ4番までが歌われた。

 

中島浩彰住職の法話は、現在の福島県の様子を伝えるもの。中島住職は東日本大震災発生直後から今に至るまで何度も福島を訪れているが、福島第1原発からかなり離れた二本松市や郡山市でも放射線濃度が高いため、福島を離れる人と生活があるので残る人に分かれ、残った人の中でも意見が異なり、年を経るにしたがって乖離の度合いも甚だしくなってきているそうである。政府も当初は「年間1ミリシーベルトあれば避難」という見解だったのだが徐々に甘くなり、「年間20ミリシーベルトまでは大丈夫」とするも根拠がないのでみな不安だそうだ。ただ、「もう考えるのが面倒だ」「生活が優先」ということで集会に参加しなくなった人も増えているそうである。
政府は福島であっても地産地消を勧めてくるのだが、検査が年々甘くなっており「信じきれない」ということで、ミネラルウォーターを買い、被災地以外の場所で採れた野菜を食べるようにしている家も多いそうだが、子供が幼稚園に入ると、幼稚園では政府の地産地消政策に従って福島県産の作物を使った給食が出てくる。幼稚園では給食ではなく弁当を選ぶことも可能なのだが、小学校に上がると福島県産の食物を使った給食を食べなければならなくなる。ということで子供が幼稚園に入る年齢に達したり、小学生になるタイミングで福島を離れる人もおり、残った人も父親と母親の間で意見が分かれて喧嘩になったりもしているそうである。

 

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2019年4月14日 (日)

コンサートの記(543) 下野竜也指揮京都市交響楽団スプリング・コンサート2019

2019年4月7日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団のスプリング・コンサートを聴く。

曲目は、ヴィヴァルディの2つのトランペットのための協奏曲ハ長調(トランペット独奏:ハラルド・ナエス&西馬健史)、ベートーヴェンのヴァイオリン、チェロ、ピアノのための三重協奏曲(ヴァイオリン:豊島泰嗣、チェロ:上村昇、ピアノ:上野真)、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」


全席完売だが、今日はポディウム席は発売されていない。
今日は6列目の真ん中で聴く。ステージから近いが、管楽器の奏者は顔がよく見えないため、誰が吹いているのかわからない場合もある。


ヴィヴァルディの2つのトランペットのための協奏曲ハ長調。京都市交響楽団の首席トランペット奏者であるハラルド・ナエスが第1トランペットを、西馬健史が第2トランペットを務める。
日本でも屈指の輝きを誇る京都市交響楽団のトランペット陣。今日も燦燦と輝くような音を響かせる。
京都市交響楽団は小編成での演奏。西脇小百合がチェンバロを奏でる。生き生きとした伴奏であった。
弦楽奏者のビブラートであるが、統一されてはおらず、思い思いに弾いている。


ベートーヴェンの三重協奏曲の演奏前に、下野がマイクを手にして登場。舞台の転換作業の間をトークで繋ぐ。「京都市交響楽団常任しゅせ……、間違えました。なんとか指揮者の下野竜也です」とユーモアと込めた自己紹介した後で、ナエスと西馬をステージに呼び、ヴィヴァルディの2つのトランペットのための協奏曲ハ長調の思い出について語って貰う。二人ともこの曲を演奏するのは人生で2回目だそうだが、ナエスは1回目はパイプオルガンとの共演、西馬もピアノとの演奏があるだけであり、オーケストラをバックに演奏するのは初めてだそうである。


ベートーヴェンのヴァイオリン、チェロ、ピアノのための三重協奏曲。京都市交響楽団は近年、この曲を取り上げることが多い。
ピアノ三重奏にオーケストラ伴奏が付くという特異な協奏曲。ベートーヴェンがなぜこうした編成の曲を書いたのかは今でも謎であるが、チェロパートの比重が比較的大きく、演奏技術もチェロが最も高度であるため、チェロの名手から委嘱された可能性が高いとされている。
ヴァイオリンの豊島奏嗣、チェロの上村昇(京都市交響楽団首席チェロ奏者)、ピアノの上野真、更に指揮者の下野竜也も京都市立芸術大学の教員である。ということもあってか、室内楽的要素の強い親密な演奏が展開される。
下野指揮の京響であるが、渋めの音でスタートし、かなり豪快に鳴る。京響のパワーと下野のオケを鳴らす技術は想像以上であるようだ。


ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」。人気曲だけに実演で聴く機会も多いが、思いのほか名演に当たる確率が低いような気もしている。

下野はベートーヴェンとは真逆の明るい音色を京響から引き出す。流石の手腕だが、第1楽章のクライマックスなどでは全ての音を鳴らし過ぎたため、輪郭や主旋律の把握が難しくなっていた。

第2楽章と第3楽章は秀演で、第2楽章の深々とした歌、第3楽章の覇気に満ちた音楽運びなどが印象的である。

第4楽章も迫力があるが、音が大きい割りには客席に届くエネルギーが必ずしも十分ではないように感じされる。音の密度がそれほど濃いわけではないということも影響しているのかも知れない。京響のブラス陣は優秀で、力強さと浮遊感を兼ね備えた優れた音楽性を示していた。


下野は、「京都市交響楽団史上、最も短いアンコール曲」と語って、ベートーヴェンの「フィデリオ」より行進曲が演奏される。古典的造形美が強調された演奏で、ベートーヴェンの優美な一面を楽しむことが出来た。

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2019年4月 8日 (月)

コンサートの記(542) 広上淳一指揮京都市交響楽団第574回定期演奏会

2013年11月30日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第574回定期演奏会を聴く。今日の指揮は京響常任指揮者の広上淳一。
来シーズンから、京響は、常任指揮者の広上淳一に加えて、首席常任客演指揮者に高関健を、常任客演指揮者に下野竜也を迎えるのだが、偶然であるが、私は今日は広上、昨日は下野、一昨日は高関と来シーズンからの京響指揮者陣の演奏を3日連続で聴くことになった。

曲目は、ショスタコーヴィチの「祝典序曲」、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番(チェロ独奏:エンリコ・ディンド)、ロベルト・シューマンの交響曲第2番。ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番とシューマンの交響曲第2番の、第2番コンビはいずれも暗い作風であり、楽しい音楽が好きな人からは避けられがちである。

唯一の明るい曲であるショスタコーヴィチの「祝典序曲」であるが、ショスタコーヴィチが無理して笑っているような印象を受ける曲である。薬で目一杯テンションを上げたような出だしであるが、次第に「祝典」というタイトルの割りには鋭い音楽となり、ベートーヴェンの俗に言う「運命動機」のようなものも聞こえる。
広上の指揮する京都市交響楽団だが、非常にクリアで、気品溢れる音を出す。

 

ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番。明るくなる場面がほとんどない曲である。ソリストのテクニックは極めて高度なものが求められる。初演が行われたのは1966年、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチのチェロ、エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立交響楽団によってである。ロストロポーヴィチもスヴェトラーノフも私はよく知っている音楽家であり、スヴェトラーノフは実演にも接している。初演者が知っている人だと不思議と親しみもわく。
3楽章全てがエレジーのような曲であり、ソリストであるディンゴも漆器の輝きのような渋い音を出す。広上の指揮する京響も沈痛な音を奏でる。

ディエゴはアンコールとして、J・S・バッハの「無伴奏チェロ組曲」第6番より“アルマンド”を弾く。今度は明るく、滑らかな音による演奏であった。

 

メインであるシューマンの交響曲第2番。難解とされる曲である。私自身は難解だと思ったことはないのであるが、この曲はシューマンが梅毒が原因で精神を病んでいたときに作曲した作品であり、症状が重く、作業を途中で中断せざるを得ないなど深刻な状況で作曲された。そのため、そういう心理状態を無意識のうちに避けたい人もいるのかも知れない。

第1楽章。広上は通常の演奏よりも更に弱い音でスタート。そして徐々に音の大きさとスケールを膨らましていく。ヴァイオリンが普段より透明な音を出しているので確認すると、やはりビブラートを普段より抑えめにしているのがわかった。

広上の指揮であるが、実に多彩である。普通はある適度型は決まっているものなのだが、広上は同じ旋律がもう一度登場したときも違う振り方をしていることが多い。指揮棒でティンパニに指示を出していたかと思うと、主旋律が他の楽器に移ったために、今度は視線をティンパニに送って目で指揮したりする。指揮の意図が極めて明確な指揮者である。ただ今日はいつもよりオーバーアクション。これにはわけがあることが後にわかる。

第2楽章では、本来は楽譜にないはずのリタルダンドをかけたり、猛烈な加速を見せたりと、即興性溢れる仕上がりとなった。

悲しみと憧れの第3楽章であるが、広上は悲しみを強調する。旋律が憧れに行こうとすると、短調を奏でている楽器を強調して、再び涙色の響きへと戻してしまう。これもまた伏線である。

最終楽章。第3楽章では悲哀を奏でた旋律を長調に変えたものをヴィオラが弾くのだが、それがこれほどわかりやすく浮かび上がる演奏は聴いたことがない。ということで、第3楽章を悲しみ一色にしても良かったのである。広上はダイナミックな指揮で快活な演奏を展開する。シューマンの交響曲第2番が決して暗い曲ではないということを実証してみせたのだ。

 

定期演奏会は普通はアンコールがないのだが(そもそもアンコール曲を用意していない)、今日はヴェルディとワーグナーが今年で生誕200年を迎えるということもあり、ヴェルディの歌劇「椿姫」より第3幕への前奏曲が演奏される。リリカルで哀感に溢れる音楽が時間を刻む。

発見の多い演奏会であった。

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2019年4月 7日 (日)

コンサートの記(541) パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団来日演奏会2013名古屋

2013年11月23日 名古屋の三井住友海上しらかわホールにて

三井住友海上しらかわホールへ。パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴く。
オール・ベートーヴェン・プログラムで、歌劇「フィデリオ」序曲、交響曲第4番、交響曲第3番「英雄」が演奏される。

三井住友海上しらかわホールは前を通ったことはあるのだが、中に入るのは今日が初めてである。

ピリオド・アプローチによる演奏を得意とするドイツ・カンマーフィル。トランペットはピストンのないナチュラルトランペット。二階席下手の席に座っていたので、舞台下手側に座るホルン奏者の姿は見えないが、間違いなくナチュラルホルンであろうと思う。実際に音を聴くとやはりナチュラルホルンであることがわかる。ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏。

三井住友海上しらかわホールの内装は、壁が全て木目であり、とても美しい。天井はやや高めであるため、オーケストラが演奏するには残響がやや短い。室内楽やピアノのリサイタルなどでは残響は余り必要でないため、そういう風に音響設計されているのかも知れない。内装、音響共に、大阪の、いずみホールに似ている。


パーヴォ登場。今日は全曲暗譜で指揮をする。

歌劇「フィデリオ」序曲。出だしが実にリズミカルである。パーヴォのバトンテクニックは真に鮮やかで、あたかも指揮棒の先で音符を拾い上げて、オーケストラの方へすっと投げているかのような印象を受ける。本当に動いたとおりに音楽が生まれるのである。少なくとも実演に接したことのある指揮者の中でパーヴォほど高度なバトンテクニックを持っている人は他にいない。サー・サイモン・ラトルやマリス・ヤンソンス、ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団の先代音楽監督であるダニエル・ハーディングの指揮も見ているが、ここまで見事ではなかった。
ナチュラルホルンであるが、モダン楽器のホルンでも「ホルンといえばキークス(音外し)という言葉が思い浮かぶ」と言われるほど演奏が難しい楽器である。そのため、音程を外す場面があった。
交響曲第5番同様、ピッコロが1オクターブ上を吹いて浮き上がる場面があり、ベーレンライター版の楽譜を使っていることがわかる。これまでずっと使われてきたブライトコップ(ブライトコプフ)版の楽譜で演奏された歌劇「フィデリオ」序曲のCDを聴いてもピッコロが浮かび上がる場面に出会ったことはない。
躍動感あふれる演奏であった。


交響曲第4番。私はパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニーの実演を横浜で聴いている。
今日も密度の濃い演奏である。楽章1つ演奏するだけで、並みの演奏の交響曲1曲分の聴き応えがある。
パーヴォは、CDにおいて、ベートーヴェンの交響曲第4番と第7番の演奏をカップリングでリリースし、アポロ芸術的と思われる交響曲第4番をディオニソス芸術的に、ディオニソス芸術の代表的存在であった交響曲第7番をアポロ芸術的に演奏するという真逆の解釈を示し、私は一聴して驚いたのであるが、パーヴォはそうした楽曲の光が当たらない一面を見つけるのが得意なようである。
緩急、強弱ともに自在な演奏であった。


後半、交響曲第3番「英雄」。同じ名古屋にある愛知県立芸術劇場コンサートホールで、パーヴォとドイツ・カンマーフィルによるこの曲の実演を聴いている。

ベートーヴェンのメトロノーム指示に近い速度を採用。そのためかなり速めの演奏である。ロマンティクな演奏になれている人は「速すぎる」と思うだろうが、20世紀後半の演奏から聴き始めた私などの世代にとっては、意気揚々と進軍する英雄の姿が目に見えるようなフレッシュな解釈である。
パーヴォは音のバランスを取るのが天才的に上手いため、クライマックスで、主旋律がトランペットから木管楽器に移る時にも、主旋律は行方不明にならず、木管が演奏しているのがきちんと聴き取れる。

第2楽章の葬送行進曲も白熱の演奏であり、哀感が強く胸に染み込む。

第3楽章。ティンパニの強奏が凄まじい。弦楽器であるが、各楽器の首席奏者だけが別の旋律を弾く場面が見られる。トリオにおけるナチュラルホルンの演奏も上手い。

最終楽章。序奏でパーヴォは歌い崩しをする。この楽章では、弦楽器の、コントラバスを除く各首席奏者のみが演奏し、弦楽四重奏になる場面がベーレンライター版の楽譜にはある。元々「solo」と書いてはあったようだが、「何かの間違いだろう」ということで採用されていなかったのだ。パーヴォの指揮するベートーヴェンは基本的にベーレンライター版の楽譜を用いているのだ、これが忠実に履行される。憩いの場ともいうべき印象を受ける。そして快速による凱旋行進。心躍る演奏であった。


アンコールは2曲。ブラームスの「ハンガリー舞曲」より第1番と、パーヴォのアンコールピースの定番であるシベリウスの「悲しきワルツ」。

ハンガリー舞曲第1番は、ブラームスがハンガリーの民謡や舞曲を収集して、まずピアノ連弾のための曲として纏められたもので、ブラームス自身もブラームス編曲として出している。舞曲であるため、目まぐるしく緩急が変化するのであるが、パーヴォは魔法のようにテンポを操り、「寄せては返す波のように激し」い演奏になった。

シベリウスの「悲しきワルツ」。超絶ピアニシモが今日も聴かれる。この時は会場内にいる全員が耳を澄ませるため、独特の張り詰めた空気がホール内を占拠する。

全て秀演。名古屋まで聴きに来るだけの価値のある演奏会であった。名古屋の聴衆は非常にマナーが良く、それも嬉しかった。

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2019年4月 6日 (土)

楽興の時(27) みやこめっせ桜まつり2019 さくらコンサート第3部

2019年3月30日 左京区岡崎の京都市勧業館みやこめっせウェルカムホールにて

午後2時30分から、みやこめっせ「さくらコンサート」第3部を聴く。前半が二胡奏者の尾辻優衣子の演奏、後半が松井るみ(ソプラノ)、井上元気(テノール)、澤田奈央子(ピアノ)による歌曲コンサートである。

尾辻優衣子の二胡。自身のアルバムに収められた楽曲を中心としたプログラムで、伴奏は録音されたものを流すという、カラオケ版での演奏。二胡は単音しか出せないため、独奏に向いた楽器ではない。元々は京劇の伴奏楽器で、楽器としての地位も低かったが、劉天華によって中国を代表する楽器となっている。
単音の楽器ということもあり、聴かせられるものになるかどうかは別として演奏すること自体はさほど難しくはない。私も半年ほど二胡を習っていたことがあるが、「十九の春」などはすぐ弾けるようになっている。ただ弦が切れやすいため、切れないよう適度に抑えて力強く弾くということは難しく思えた。
尾辻は「二胡はヴァイオリンと原理は同じで遠い親戚」と紹介して、ヴァイオリン曲である「情熱大陸」も奏でていた。
中国人作曲家によるクラシカルな二胡の曲として最後の最後に「賽馬(競馬)」が演奏される。ヴァイオリンでいうピッチカートも繰り出され、万全の迫力に富む演奏に仕上がっていた。

 

歌曲コンサート。さくらコンサートということで、まず松井るみと井上元気のデュオで「さくらさくら」が歌われる。その後、イタリアの作曲家であるレスピーギ、フランスの作曲家であるグノー、プーランク、ロザンタールの歌曲が歌われる。

レスピーギは、ベルリオーズやリムスキー=コルサコフとともに三大オーケストレーションの名手に数えられており、ローマ三部作がとにかく有名だがそれ以外の曲が取り上げられる機会は少ない。歌曲を聴くのは私は初めてとなる。

グノーやプーランクは比較的有名だが、ロザンタールは作曲家としてよりも指揮者やオッフェンバックの楽曲を集めてコンサートピースとしてまとめた「パリの喜び」の編曲者として有名な人物である。1904年生まれでありながらかなりの長生きであり、「パリの喜び」の自作自演盤をデジタル録音で収めている。松井るみ独唱によるロザンタール作品として取り上げられたのは「英国のねずみ」という歌である。イギリスで生まれ育ったねずみが船に乗り、たどり着いたのはフランス。そこで英国ホテルというホテルを見つけ、屋根裏部屋でジンやウィスキーといったイギリス名物を発見したねずみは歓喜。毎夜、PARTYを開くが階下にすむフランス人達の不興を買い、というストーリーである。松井は自作の紙芝居を用意し、めくりながら歌う。エスプリのお手本のような楽曲であり、紙芝居もわかりやすかった。なお、珍しい楽曲が並んでいるが、タブレット端末にダウンロードした電子楽譜を使っているため、譜面を探し出すのにさほど苦労はしていないようである。

その後、オーストリア出身のレハールが作曲した喜歌劇「メリー・ウィドウ」より「とざした唇に」の日本語版とグノーの歌劇「ロメオとジュリエット」より出会いの場のデュオが歌われ、アンコールのヴェルディの歌劇「椿姫」から「乾杯の歌」で華やかに閉じられた。

 

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2019年4月 3日 (水)

コンサートの記(540) ジャン=マルク・ルイサダ ピアノ・リサイタル2013京都

2013年11月21日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、ジャン=マルク・ルイサダのピアノ・リサイタルを聴く。

ジャン=マルク・ルイサダは、チュニジア生まれのフランスのピアニスト。自在なピアノ演奏で知られ、特にショパンの演奏には定評がある。今回は、後半にショパンのワルツ12曲が演奏される。


前半は、フォーレの夜想曲第11番(急遽プログラムに追加)とシューベルトのピアノ・ソナタ第21番。後半は、モーツァルトの「グラスハーモニカのためのアダージョ」に続き、ショパンのワルツ12曲が演奏される。前半、後半共に間を置かずに演奏する。つまり、前半はフォーレの夜想曲第11番とシューベルトのピアノ・ソナタ第21番で1曲、後半はモーツァルトの「グラスハーモニカのためのアダージョ」とショパンのワルツ12曲で1曲という解釈のようだ。珍しい解釈である。

演奏されるショパンのワルツの順番は、第1番「華麗なる大円舞曲」、第3番「華麗なる円舞曲」、第4番「華麗なる円舞曲」、第12番、第13番、第14番、第9番「別れのワルツ」、第6番「子犬のワルツ」、第7番、第8番、第11番、第2番「華麗なる円舞曲」

ピアニストは暗譜して弾くのが慣例だが、ルイサダの場合は全曲譜面を見ながらの演奏。譜めくり人(日本人女性)同伴である。ただ、曲を憶えていないわけではなく、ショパンのワルツを弾くときは、「ワルツ集」の楽譜を使っていたが、ワルツ第11番から第2番まで戻る時、譜めくり人がページを繰るのに時間が掛かったため、まだページを戻している最中に弾き始めてしまったりもした。
最近では、指揮者も暗譜を否定して譜面を見ながら指揮する人が多くなったが、ピアニストも同傾向なのかも知れない。必ず譜面を見ながら演奏するピアニストとして有名な人に、ロシア出身で、日本人男性と結婚し、日本在住となったイリーナ・メジューエワがいる。

前半のフォーレとシューベルトでは、ルイサダはウェットで哀感のこもった音をピアノから引き出す。これはフォルテシモであっても、明るい旋律であっても変わることはない。「顔で笑って心で泣いて」という感じである。
フォーレもシューベルトも抒情的な作風であり、間を置かず演奏されても特に違和感はない。
フォーレは高雅であり、シューベルトは右手の若々しい歌と左手で弾かれる低音の不吉な感じの対比が鮮やかだ。


後半の第1曲として弾かれたモーツァルトの「グラスハーモニカのためのアダージョ」は初めて聴く曲だが、チャーミングな作品であり、ルイサダもそれに相応しいロココ風の演奏を展開する。
ショパンのワルツは、緩急、硬軟共に自在の演奏。まろやかな音が奏でられるが、譜面には記されていないはずの強弱を付けたり、リタルダンドにアッチェレランドと、次々に表情を変えていく。その他にも、左手を強く弾いてワルツのリズムを強調したり、「別れのワルツ」では敢えて縦の線を崩し、左手と右手のリズムを別個にすることで即興的な印象を与えるような工夫が施されていた。またこの曲では前半に聴かれた哀愁漂う音色がかなり色濃く出ていた。
極めて表現主義的なショパンであり、ルイサダでなくては弾くことの出来ない個性的な音楽が創造されていく。

アンコールは3曲。ショパンのマズルカ遺作Opus67-1と同Opus67-2。バッハの「フランス組曲」より第5番“サラバンド”である。
まずショパンのマズルカ遺作Op67-1を弾いたルイサダ。おそらく続けてOp67-2を弾く予定だったと思うのだが、ルイサダはいったん袖に引っ込んでしまい、残されてしまった譜めくり人の女性は「え? え? 私どうしたらいいの?」という風に戸惑っている様が聴衆の笑いを誘う。
アンコール2曲目のマズルカ遺作Op57-2を弾く前は、ピアノの譜面台に楽譜が沢山あるので、なかなか弾くべき曲が見つからない。ルイサダは、「ちょっと待って下さい」と日本語で言い、前列にいた聴衆が日本語を話したことに拍手を送る(私は3階席にいたが、ルイサダの言葉は聞こえた)。
3曲目の、J・S・バッハ、「フランス組曲」より第5番“サラバンド”であるが、やはり楽譜が見つからない。ルイサダは右手を上げて、「待って」という仕草をする。それでもまだ見つからないので、今度は手の平を上に上げて「どうなってるんでしょう?」と示して聴衆を笑わせる。

ショパンの2曲はクリアな、バッハの曲は聴いてすぐにバッハの作品だとわかる端正な演奏であった。


終演後にCD購入者限定のルイサダのサイン会がある。ルイサダは全員に「ありがとう」と日本語で言い、握手を求める。ピアニストは手が命なので、握手を求められると逆にヒヤヒヤする。CDの盤面の白く空いたスペースにサインを貰おうとしたのだが、ルイサダ氏はそれでは物足りないようで、盤面一杯に大きくサインを書く。勢い余って、プラスチックケースにもマジックインクが付いてしまうほど大きく書いてくれた。

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2019年4月 2日 (火)

コンサートの記(539) オーギュスタン・デュメイ指揮関西フィルハーモニー管弦楽団第252回定期演奏会

2013年11月8日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、ザ・シンフォニーホールで、関西フィルハーモニー管弦楽団の第252回定期演奏会に接する。今日の指揮は、関西フィルハーモニー管弦楽団音楽監督のオーギュスタン・デュメイ。

デュメイは世界最高峰のヴァイオリニストとして知られているが、指揮者としての腕は未知数。2011年から関西フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任しているのだが、巡り合わせが悪く、指揮者デュメイの演奏を生で聴くのは私は今日が初めてである。
「レコード芸術」11月号の付属CDに、デュメイと関西フィルの演奏によるモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲と交響曲第35番「ハフナー」の演奏が収録されてる。それを聴いた限りでは、オーケストラの力はともかくとして、デュメイのオーケストラコントロールに問題はないようだった。
器楽の名演奏家でも、指揮者としては二流となってしまう人は多い。ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(本職はチェリスト)がその典型であったし、ウラディーミル・アシュケナージ(本職はピアニスト)も一流指揮者と認識している人は少ないのではないだろうか。もっとも、ロストロポーヴィチもアシュケナージも得意なレパートリー(ロストロポーヴィチであればショスタコーヴィチ、アシュケナージであればラフマニノフ)では高い評価を得ている。

演目は、J・S・バッハのヴァイオリン協奏曲第1番(デュメイによるヴァイオリン弾き振り)、ハイドンの交響曲第49番「受難」、シェーンベルクの「浄められた夜(浄夜)」(1943年版)。

アメリカ式の現代配置での演奏。日本ではドイツ式の現代配置を行ってる楽団が多いが、関西フィルだけは徹底してアメリカ式の現代配置を採用している。

今日も招待客が多いようである。


J・S・バッハのヴァイオリン協奏曲。バロック音楽だけにピリオド・アプローチは当然のように生かされる。ソリストであるデュメイもビブラートは抑え気味であるし、オーケストラ奏者もビブラートはほとんど用いない。テンポは普通で、ピリオドだからといって速めのテンポを採用したりはしないようだ。
長身から繰り出されるスケール豊かな音楽を武器とするデュメイであるが、今日はバッハの音楽だけに徒にスケールを拡げることなく、雅やかな音楽を奏でる。


ハイドンの交響曲第49番「受難」。
デュメイは身長が高いため、指揮台を用いる必要はなく、そのまま舞台上に立って指揮する。
指揮姿であるが、身長に比べると腕の動きはやや小さめ。またしっかりと拍を刻み、大きな音が欲しい時は振りを大きくし、特定の楽器の音を大きくしたいときにはその楽器に向かって手をかざしたり、その楽器の方を向いたりする。極めてオーソドックスな指揮である。ただ、分かりやすいと同時に面白味がない指揮姿ともいえる。デュメイは特定の人物に指揮を師事したことはなく、見様見真似で指揮を覚えたのだろう。だから、個性溢れる指揮は期待出来ないのかも知れない。レナード・バーンスタインが生きていて、今日のデュメイの指揮姿を見たらデュメイをどやしつけそうである。

ピリオド・アプローチを徹底した演奏。チェンバロを通奏低音として用いる。
ピリオド・アプローチを行うのは良いのだが、それが手段ではなく目標になってしまっている印象を受ける。ピリオドのために豊かな表情を殺しているような印象も受け、特に第2楽章では「疾風怒濤」期の交響曲と呼ばれるに相応しい悲劇的な旋律が押し殺されてしまったようで実に惜しい。全体としても殻を破れないもどかしさを感じた。


後半、シェーンベルクの「浄められた夜」。
バッハやハイドンのそれとは一転したエモーショナルな演奏で聴かせる。
関西フィルの弦楽は大阪フィルや日本センチュリー響などに比べるとあっさりしているが、今日はドイツ的な渋い音色を出すことに成功。それが曲が進みに従って、慈愛に満ちた柔らかな音色、救済を意味する明るい音色へと変化していく。
デュメイの指揮自体は特別な動きはしていないのだが、オーケストラから多様な音色を引き出す術には卓越したものがある。あたかも指揮棒を弓とし、関西フィルを巨大なヴァイオリンとして操るかのようだ。

名ヴァイオリニストであるオーギュスタン・デュメイ。指揮者としても名指揮者かというと、今日一回のコンサートだけでは判断できないが、少なくとも凡庸な指揮者でないことだけは確かなようである。

定期演奏会であるが、「浄められた夜」はメインプログラムとするには少し曲が短いということもあってか、アンコール演奏がある。ビゼーの「アルルの女」第1組曲より“アダージェット”。しなやかで優しさ溢れる佳演であった。

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2019年4月 1日 (月)

コンサートの記(538) 広上淳一指揮京都市交響楽団 モーツァルト連続演奏会 「未来へ飛翔する精神 克服 ザルツブルク[1776-1781]」第1回「溢れ出る管弦楽の力」@いずみホール

2013年10月31日 大阪・京橋のいずみホールにて

午後7時から、いずみホールで、モーツァルト連続演奏会「未来へ飛翔する精神 克服 ザルツブルク[1776-1781]」第1回「溢れ出る管弦楽の力」という演奏会を聴く。いずみホールで今日から来年1月まで5回に渡って行われるオール・モーツァルト・プログラムによる演奏会の第1回である。トップバッターを務めるのは、広上淳一指揮の京都市交響楽団。

京都市交響楽団は、結成直後は今と違って中編成であり、初代常任指揮者であるカール・チェリウスによりアンサンブルが鍛えられ、緻密なモーツァルト演奏を売りとして、「モーツァルトの京響」と呼ばれたこともある。今は大編成のオーケストラとなり、「モーツァルトの京響」という言葉も半ば死語となりつつあるが、今も京響はオール・モーツァルト・プログラムによるコンサートを京都コンサートホール小ホール「アンサンブルホール・ムラタ」で連続して行っている。

曲目は、ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K.364(ヴァイオリン独奏:泉原隆志、ヴィオラ独奏:店村眞積)と、セレナード第9番「ポストホルン」K.320。

いずみホールは大阪を本拠地とする住友(屋号は泉屋)グループのホールである。住友生命保険相互会社の創立60周年を記念して1990年にオープンした中規模ホール。室内オーケストラや室内楽、ピアノリサイタルに適したホールである。内装は住友のホールらしく豪華。ただ音響はオーケストラ演奏を行うには今一つである。

 

今日は最前列上手寄りの席。演劇なら最前列は良い席なのだが、クラシック音楽の場合、音のバランスが悪くなるため、最前列はホールや演目によってはチケット料金が安くなることもある。

 

ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲のソリストは共に京都市交響楽団の首席奏者。若い泉原隆志(いずはら・たかし)が輝かしく軽やかなヴァイオリンを奏でるのに対し、店村眞積(たなむら・まづみ)は重厚で渋い音色を出す。好対照である。ヴァイオリンとヴィオラ、それぞれの楽器の個性が奏者によってより鮮明になった格好である。
指揮者の広上淳一は、指揮棒を持って登場したが、指揮棒は譜面台に置いたまま取り上げることはなく、結局、この曲はノンタクトで指揮した。
ワイパーのように両手を挙げて左右に振ったり、脇をクッと上げたり、ピョンピョン跳んだりする個性溢れる指揮だが、出てくる音楽はユーモラスな指揮姿とは全く異なる本格化。瑞々しくも力強い音楽が作られ、モーツァルトの音楽を聴く醍醐味を存分に味わわせてくれる。

 

後半のセレナード第9番「ポストホルン」。7つの楽章からなるセレナードであり、第6楽章で駅馬車のポストホルン(小型ホルン)が鳴らされることからタイトルが付いた。
広上はやはり指揮棒を手に登場するが、第1楽章はノンタクトで指揮する。豪華で生命力に満ちたサウンド。広上と京響の真骨頂発揮である。
広上は、第2楽章と第3楽章の冒頭では指揮棒を手に指揮を開始するが、合わせやすくするために指揮棒を使っただけのようで、合奏が軌道に乗ると、すぐに指揮棒を譜面台に置いてしまい、やはりノンタクトで指揮する。楽章全編に渡って指揮棒を使ったのは第5楽章だけで、メランコリックな曲調を潤んだような音色で表現したが、指揮棒を逆手に持って、ほぼノンタクトと同じ状態で指揮する時間も長かった。その前の第4楽章は快活でチャーミング。広上と京響の特性が最も生きたのは、この第4楽章であったように思う。
第6楽章では、ポストホルン奏者が指揮者の横に立ち、ポストホルン協奏曲のような形で演奏される。広上と京響はゴージャスな響きを作り出すが、ポストホルン奏者(ノンクレジットであるが、京響トランペットの紅一点である稲垣路子だと思われる)も負けじと輝かしい音を出す。
最終楽章となる第7楽章は堂々たる威容を誇る快演。非常に聴き応えのある「ポストホルン」セレナードであった。

 

アンコールとして、広上と京響は、「ポストホルン」セレナードの第6楽章を再度演奏した。

 

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