カテゴリー「絵画」の18件の記事

2018年11月 9日 (金)

美術回廊(17) 没後50年「藤田嗣治展」@京都国立近代美術館

2018年10月30日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎の京都国立近代美術館で開催されている「没後50年 藤田嗣治展」を観に出掛ける。
藤田嗣治の展覧会を観るのは、今日で計3回目。そのうちの1度は名古屋で観たため、京都では2度目となる。

エコール・ド・パリを代表する画家の中で唯一の日本人であった藤田嗣治(ふじた・つぐはる)。乳白色を厚く塗った肖像画が人気を博している。

東京生まれ。幼少時を熊本で過ごし、11歳の時に帰京。高等師範学校(現・筑波大学)の附属小学校と中学校を卒業して、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学するも教師から作風を認められず、対立。卒業してから2年後にパリに渡り、同地の画家達と交流して、評価を得るようになる。

第二次大戦が勃発すると藤田は帰国し、請われて戦争画の仕事を始める。しかし戦後になると藤田は戦争協力者と見なされるようになり、日本に失望して再び渡仏。その後、キリスト教の洗礼を受け、憧れのレオナルド・ダ・ヴィンチに由来するレオナールという洗礼名をファーストネームとしてフランスに帰化し、日本に戻ることなく1968年に没した。「私は日本を捨てたのではない、日本に捨てられたのだ」という言葉がよく知られている。

この展覧会最初の絵は、藤田が東京美術学校時代に描いた自画像である。黒い背景に不敵な笑みを浮かべた藤田。自らの才気を隠そうとしない若者の姿がそこにある。

その後の藤田の絵だが、とにかく暗いのが印象的である。同じような構図で風景画を描いているユトリロと比較しても憂いの雰囲気が強く出ている。鬱窟とした心をそのままキャンバスに反映したかのような淀んだ印象を受ける。背景が全体的にグレーがかっているのがそうした感覚を生むようである。

パリ時代に描いた自画像が何枚かあり、その中にある赤と青の鉛筆を取り入れた乳白色の自画像は、さりげなくトリコロールを取り込んで「パリで生きる」という決意表明をしているように見える。

その後に、有名な乳白色の時代が来る。この頃に描かれた子どもをモチーフにした絵も何枚か展示されており、元々子どもが好きだったことも確認出来る。

徹底して乳白色を使った 裸婦の絵は、肉体が持つはち切れんばかりの生命力を表しているが、同時に体を陶磁器に置き換えたかのような非現実性も内包している。ある意味、これは理想化された肉体なのだ。
ただ、この裸婦の絵群も、背景を真っ暗にするなど、快活からはほど遠い作風である。

その後、藤田は中南米への旅に出る。メキシコの画壇の影響を多分に受けたようで、この頃に描かれた日本の力士像などは急に顔の彫りが深くなっており、明らかな作風の転換が見られる。メキシコの絵画らしい仄暗さを入れつつ、躍動感に富んだ絵を描いている。

この躍動感が存分に生かされたのが、有名な「闘争(猫)」という絵である。何匹の猫がベッドの上で暴れ回っており、猫達の叫び声が伝わってくるかのような生命力溢れる絵だが、この作品、複数の円を組み合わせた構図を取っており、葛飾北斎の「富嶽三十六景」に代表される浮世絵の手法を積極的に取り入れていることがわかる。この時代の絵には他にも人物を真ん真ん中に描くという、浮世絵的大胆さを持つ作品が存在する。

二次大戦により帰国した藤田。藤田は日記を詳細につけるタイプであったが、1941年から1947年までのものは見つからないか破棄されているという。

ドラクロアを始めとする歴代のフランス画家の影響を受けたダイナミックな戦争画は迫力満点だが、そのことが藤田にとって悲劇となった。

日本を離れ、パリへと向かう途中のニューヨークで描かれたという「カフェ」(下の写真を参照のこと)。この絵で藤田はいきなり作風を変える。藤田の作品に濃厚だった影が姿を消すのである。少なくとも表面上はそう見える。余りの大転換に異様さすら覚えるほどだ。その後の作品もバックライトを当てているような明るいものが続く。この急転は何を意味するのか?

「藤田は本音を封じ込めたのではないか?」

それまで藤田は絵に自己を投影していた。だが、祖国に裏切られたという失望と憤りから、絵には自己ではなく理想を託すようになったのだはないか。自らの本音を覆い隠すために乳白色を分厚く塗り込めたのではないか。そうした想像が出来る。

カトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタとなった藤田は、宗教画を多く描くようになる。そこには子どもが多く登場する。「大人が信じられなくなった藤田は子ども達に夢を託した」、そういわれている。ただ、十字架を背景に不敵な笑みを浮かべている子どもは、若き頃の藤田そのものであり、自身が投影されていることがうかがえる。
ただ、日本のキリシタン殉教者を描いた作品を見ていると、藤田は日本を追われた自分をイエスを始めとする殉教者に重ねていたのではないかと思われるのである。
最後の絵である「礼拝」には藤田自身が登場する。奥行きのあるアーチを背景とした聖女の横に控えるのは藤田と妻の君代である。天使に祝福され、戴冠しようとしている聖女に藤田が何を祈ろうとしているのかははっきりとはわからない。


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2018年10月 2日 (火)

美術回廊(16) 美術館「えき」KYOTO 「フランス国立図書館版画コレクション ピカソ 版画をめぐる冒険」

2018年9月25日 JR京都駅ビルの美術館「えき」KYOTOにて

京都駅の近くで用事があったので、ついでに美術館「えき」KYOTOで、「フランス国立図書館版画コレクション ピカソ 版画をめぐる冒険」を観に行く。

パブロ・ピカソが残した版画作品と、影響を受けた版画作品などを紹介する展覧会。ピカソがレンブラントの作品を再構成した作品なども展示されている。

ピカソというと、デフォルメされた人物が特徴的だが、極限までデフォルメするまでの中間地点を描いた作品もあり、ピカソがどこを強調したのかを知ることが出来る(目が特に誇張されている)。

祖国であるスペインの闘牛を題材にした版画がいくつかあるが、闘牛そのものを描いた作品からは不吉な印象を受けるものの、ピカドールと闘牛の戦いを描いたものから受けるのはピカドールの軽やかさと躍動感の方であり、闘牛は脇役に過ぎないように見える。

ピカソはスペイン出身者である自身のリビドーの象徴としてミノタウルスを描いており、画面全体を揺るがすような迫力を与えている。

またミノタウルスの時代である古代ギリシャの影響を受けた作品も残していて、シンプルな裸体画や、牧神やディオニソスの巫女、ケンタウルスといった想像上の生き物を題材としたリトグラフなどを観ることが出来る。

マネの「草上の朝食」をヴァリエーションとして描いたり(エロスへの転換が見られる)、レンブラントの「エッケ・ホモ(この人を見よ!)」の主役をイエスではなく自分に置き換えてしまったりと、やりたい放題なのがいかにもピカソらしい。

ピカソの肖像画は、モデルのみでなく自分を含めた画家を作品の中に登場させるというのも特徴だそうで、一人真面目くさった画家を登場させるという皮肉を効かせたものもある。


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2018年4月21日 (土)

都をどり特別展 「祇園・花の宴」「草間彌生・花の間展」2018年4月3日

2018年4月3日 祇園甲部歌舞練場・フォーエバー現代美術館にて

祇園甲部歌舞練場に行く。耐震対策着手のため閉鎖されている祇園甲部歌舞練場。ただ、南側にある八坂倶楽部はフォーエバー現代美術館・祇園として開いていて草間彌生の作品を展示しており、祇園甲部歌舞練場の一部がカフェとしてオープン中、2階の座敷では4月の間、芸妓と舞妓による10分ほどの舞のステージがある。今回は春秋座で行われている都をどりの半券を見せると無料で入場出来る。

統合失調症を発症しながら、その独特の世界観で高く評価される草間彌生。松本に生まれ、京都市立美術工芸学校(現・京都市立銅駝美術工芸高校)を卒業。その後、渡米しニューヨークで活躍。在米時代の作品も展示されている。ただ当時のアメリカでは自国とヨーロッパ系のアーティスト以外は論じるに値しないという風潮があり、体調を崩したということもあって1973年に帰国。一時期活動が低迷するが、その後も現在に至るまで芸術活動を行っている。

ドットを無数に敷き詰めたような作風が特徴。ドット状のものが外へ外へと拡がっていくような生命感が感じられる。

午後2時30分から芸妓と舞妓によるステージがある。今日の出演者は、芸妓が槇子、舞妓がまめ衣。二人で「六段くずし」と「祇園小唄」を舞う。観客は白人の観光客が圧倒的に多い。二人とも繊細、丁寧且つ魅力的な舞を披露した。欧米などでは舞というとパワフルなものが多いが、日本の舞はそれとは正反対。だからこそ外連を武器とした歌舞伎舞踊などもアンチテーゼとして生まれ得たのかも知れない。



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2018年4月18日 (水)

美術回廊(15) 京都文化博物館 「ターナー 風景の詩」展

2018年4月14日 京都文化博物館にて

京都文化博物館で、「ターナー 風景の詩(うた)」展を観る。明日までの開催ということで、結構な人出である。
イギリスを代表する風景画家として知られるジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー。今回はターナーの山岳と海洋を絵を中心とした展覧会である。ターナーはロンドンのコヴェント・ガーデンの生まれだそうで、貧しい理髪師の息子ではあり、母が病気がちであったということもあって基礎教育も満足に受けられなかったそうだが、周囲は文化的な環境ということもあって幼い頃から絵画に取り組んで才能を示し、父親は息子が描いた絵を店先に飾っていたそうである。画家としては早くに認められており、20代でロイヤル・アカデミーの会員となり、パトロンもついて順調な画家人生を送った。
当時は絵画といえば肖像画や宗教画が一般的で、風景画は名所図会や挿絵がある程度で評価の対象ですらなかったという時代であったが、ターナーは風景画の価値を上げることに貢献する。

初期の作品は、黄色や茶色を多用した淡い色彩と奥行きのある作風が特徴であるが、手前側を緻密に描き、遠景を朧にすることで奥行きを生み出すという技巧を用いていることがわかる。後年には全景を朧にすることで全てが溶け合ったような作風へと変化していく。個人的には後年の霧の中の光景のような朧な作風の方が好きなのだが、この手の絵は大画面だから見栄えがするということで、絵葉書などには採用されていなかった。

山岳の絵は峻険な場面が描かれ、海洋を題材とした絵画では嵐に翻弄される船が好んで取り上げられている。ターナーは自然への畏敬の念を抱いていたようで、その感情は「崇高」という言葉で語られている。
ターナーが生きたのはナポレオン戦争があった時代ということで、対フランス軍海戦の絵も展示されている(トラファルガーの戦いを描いた作品は今回は展示されていない)。海の日没を描いた作品、「海辺の日没とホウボウ」は、クロード・モネの「印象・日の出」を彷彿とさせる作品であるが、実際はターナーの絵の方が30年以上前に描かれたものであり、モネはターナーを尊敬していたそうで、ターナーが「印象派の父」と呼ばれる由縁となっている。

ターナーは版画や挿絵の作家としても活躍しており、こちらは緻密な描写力が駆使されている。ちなみにターナーは極度の完璧主義者だったそうで、版画の版元とは技術面での問題を巡ってしばしば諍いを起こしていたそうである。

映像コーナーではターナーの生涯を10分の映像でたどることが出来るようになっている。40代で訪れたイタリア旅行が一大転機となったようで、写実的だった作風から対象がもつイメージや光度を重視したものに転換しているそうだ。
当時としては長命な76年の生涯であったが、晩年に至るまで精力的な活動を行い、ターナーが残した絵は3万点以上に上るという。



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2018年2月20日 (火)

美術回廊(14) 京都国立近代美術館 「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」

2018年2月15日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

満足稲荷神社に参拝してから京都国立近代美術館に向かう。
京都国立近代美術館では現在、「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」が開催されている。フィンセント・ファン・ゴッホの作品と、ゴッホが影響を受けた浮世絵の展示である。
浮世絵を見て日本に憧れたゴッホ。南仏アルルを日本に見立て、浮世絵の影響を色濃く受けた作品を描いていく。

浮き世は西洋の絵画に比べると構図がかなり大胆であり、表現主義的な一面がある。ゴッホの絵を見ると、例えば「糸杉の見える花咲く果樹園」では、中央にかなりくっきりとした二等辺三角形の構図が見える。筆致以外でもこうした浮世絵からの影響が窺える。
中央に橋を描き、洗濯女を小さく描いた「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」も同様の構図がたびたび登場する歌川広重の「東海道五十三次」との接点が分かるように展示が行われていた。

波や木々のうねりは、例えば葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」などに見られるような誇張した表現の影響を受けているように思う。おそらくゴッホは対象物そのものよりも、それがもつエネルギーを描きたかったのだと思われる。静止した芸術に動的なものを持ち込みたかったのだろう。それは困難であり、異端でもある。ゴッホが生前に認められなかった理由の一因がそこにあるのかも知れない。

京都国立近代美術館の4階には、森村泰昌がゴッホの「寝室」という絵を立体化した展示物が飾られている。これは写真撮影可であり、SNS等に掲載して是非情報を拡げて欲しい旨が書かれていた。

「森村泰昌、ゴッホの部屋を訪れる」

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2017年4月23日 (日)

美術回廊(10) ビアトリクス・ポター生誕150年「ピーターラビット展」大阪

2017年3月24日 グランフロント大阪北館ナレッジキャピタル地下1階イベントラボにて

グランフロント大阪北館ナレッジキャピタル地下1階にあるイベントラボで、ビアトリクス・ポター生誕150年「ピーターラビット展」を観る。
「ピーターラビット」でお馴染みのビアトリクス・ポター、というより私はピーターラビットしか知らなかったりするのだが、実はピーターラビットが脇役に回った絵本なども書いている。
裕福な家に生まれたビアトリクス・ポター。当時は、お金持ちの家の子は庶民のいる学校には通わず、家庭教師から全てを教わることになっており、ポターもまたそうして育った。それゆえ、友達に囲まれて育つという経験がなく、兎などのペットを飼って可愛がる時間が長かった。このことがポターがピーターラビットを生み出す契機にもなっている。

ビアトリクス・ポターのタッチは緻密でありながら柔らかく、「これだけの絵が描けたらそれは売れるわな」と思うのだが、実はポターは持ち込みを行った全ての出版社から書籍化を断られており、最初の作品は自費出版で出している。ピーターラビットを書くきっかけになったのは、病気になったノエル少年(ポターの元家庭教師であるアニー・ムーアの息子)を励ますために兎の絵入りで出した手紙だというが、今回の展覧会でもその写しもまた展示されている。アニー・ムーアがポターに兎の物語を書くことを勧めたようだ。
自費出版された私家版『ピーターラビットのおはなし』は口絵のみカラーで他は表紙も含めて着色はされていない。そこまでのお金がなかったのと、着色は余計と思われたという二つの理由があったようだ。

裕福な家に生まれたことはアドバンテージだけではない。有閑階級出身のポターは出版社の創業家出身で同社に勤務していたノーマン・ウォーンと恋に落ちるが、両親から「格下の男との結婚は認めない」と断られている。

ポターの少女時代の作品も展示されているが、すでに優れた描写力が見られる。なお、ポターの父親や弟の描いた絵も展示されているがいずれもデッサン力が高く、画才に恵まれた一族であったことが確認出来る。

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2017年1月27日 (金)

美術回廊(9) あべのハルカス美術館 「デュフィ展」2014

2014年9月15日 大阪・天王寺のあべのハルカス美術館にて

大阪の、あべのハルカス美術館で、「デュフィ展」を観る。

あべのハルカスは外から眺めたことはあるが、中に入るのは初めてである。16階にある、あべのハルカス美術館までは直通エレベーターがあり、利用者はそれで美術館まで向かうことになる。便利なのであるが、あべのハルカスの展望台に行くには2階でチケットを買う必要があり、展望台にも行きたい人にはちょっと不便である。また、帰りも16階から1階まで直通で向かうため、ありがたいのだが、15階より下にある近鉄百貨店あべのハルカス店のシャワー効果には結びつかず、ここが近鉄あべのハルカス店の失敗だと言われている。実際、売り上げは苦戦しているようだ。

今回、画を見るラウル・デュフィはフランスの野獣派に属する画家。当初は写実的な画を描いていたが、アンリ・マティスの絵画を観て驚き、それ以降は、写実よりも印象を大切にする作風へと変化していく。原色を多用するのが特徴であり、エスプリ・クルトワを最もダイレクトに伝えてくる画家の一人である。

音楽を好んだため、音楽関連の絵画も多い。指揮者のシャルル・ミュンシュとは交流があり、オーケストラを題材にした画を何枚も描いており、今回も絵画や下絵が展示されている。興味深いのはオーケストラの配置で、1930年代から40年代に描かれたものは全て現在では古典配置と呼ばれるものであるが、1950年に描かれたオーケストラの画は、現代配置になっている。レオポルド・ストコフスキーがフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者だった時代に始めたという現代配置が、1940年代末にフランスでも普及したことがわかる。

デュフィは元々は右利きである。若い頃は右手に絵筆を握っていたのだが、「右手でだと余りにも自由に描けてしまう」という理由で、敢えて左手で描くということを始め、以降は晩年まで絵画に関してはサウスポーで通した。

1877年生まれであり、1953年に亡くなっているが、臨終の際に、イーゼルに掛けてあったという絵画も原物が飾られている。

明るくて温かみのある画だが、例えば、J・S・バッハや、モーツァルト、ドビュッシーらをモチーフにした画を観て、それがどんな音楽をイメージして描かれたのかと考えると、意外に暗めの曲調のものが思い浮かぶ(「モーツァルト」という絵画があり、今回は展示されていないが、楽譜の表紙には“Symphony No.40”と書かれているように見え、だとしたら流れているのは悲壮感に溢れたものということになる)。
「バッハへのオマージュ」もヴァイオリンが一挺画かれているだけだが、このヴァイオリンでバッハのどんな曲が弾かれたのであろうか。「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」の中の曲である可能性が高いが、仮に「シャコンヌ」だったとしたらイメージも変わってきてしまう。

また最も好んだ色は青だというから、デュフィは絵画から感じられるほど能天気な人間ではおそらくなかったであろうと思われる。

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2017年1月11日 (水)

美術回廊(8) 名古屋市美術館 「画家たちと戦争:展 彼らはいかにして生きぬいたのか」

2015年7月30日 名古屋市美術館にて

名古屋市美術館へ。名古屋市美術館では現在、「画家たちと戦争:展 彼らはいかにして生きぬいたのか」展をやっている。横山大観、藤田嗣治、恩地孝四郎、北川民次、岡鹿之助、福沢一郎、北脇昇、吉原治良、宮本三郎、山口薫、松本竣介らの第二次大戦前後の絵画が並んでいる。福沢一郎のようにシュールレアリスムの画風を見とがめられ、作風転向をせざるを得なかった画家もいる。

 

フランスで活躍していた藤田嗣治(ふじた・つぐはる。レオナール・フジタ。オダギリジョーが藤田嗣治を演じた映画が制作された)は、ずっとフランスで活動しており、ヨーロッパの戦況が不穏だというので(実際、後にパリは陥落する)日本に戻っていたのだが、日本の戦争のために画を描いた。これに戦後になって「戦争鼓舞の責任」などと言いがかりをつけられた藤田は激怒。再びパリに渡りフランスに帰化。本名もレオナール・フジタとして終生日本に帰ることはなかった。

全聾の画家、松本竣介は上京後画家となるが、戦争協力の要請には応えずに仄めかしに留まる画を描いている。今回の「画家たちと戦争」展のポスターに使われているのは松本の「立てる像」だ。松本本人の自画像だという。

北川民次の画を観た第一印象は「メキシコの画家の絵みたい」であったが、実は北川民次はメキシコでも絵を習った経験があるそうで、メキシコの画家の作風に似ているのは当たり前なのだった。名古屋市美術館はメキシコ人画家の絵を多数所有しており、常設展示もしているので比較も可能である。

最も有名だと思われる横山大観は戦争に荷担した側である。直接戦争に関与したわけではないが、彼の画いた富士山の絵の数々は戦費捻出に利用されたという。

恩地孝四郎が描いた「あるヴァイオリニストの印象」に描かれているのは諏訪根自子(すわ・ねじこ)だそうである。

個人的には山口薫の、「銃」という画が最も印象深かった。赤茶けた背景の中で、機関銃が三脚のように立てかけられている。三脚の機関銃の束は少なくとも三つはある。今丁度戦いの最中なのか、戦を待つ機関銃なのか、一戦終わった後の機関銃なのか。それはわからないが、何とも言えない禍々しさが画から伝わってくる。

 

常設展では、モディリアーニの「おさげ髪の少女」や、ユトリロの「ノルヴァン通り」を観ることが出来た。

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2016年12月20日 (火)

美術回廊(7) 京都市美術館 「バルテュス展」2014京都

2014年8月26日 京都市美術館にて

京都市美術館で「バルテュス展」を観る。

フランス人画家であるバルテュス。バルテュスというのは愛称兼芸名で、本名はバルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラという長いものである。スキーという英語でいうsonに当たるロシア・スラヴ圏の言葉が苗字に入っているため、スラヴ系の血を引いている。父親はポーランドの貴族階級出身。母親はロシア系ユダヤ人である。
バルテュス自身も最初の妻との間に出来た息子にスタニスラスというロシア人やポーランド人に多いファーストネームを付けている。

絵はほぼ独学であり、ルーブル美術館に足繁く通っては習作を繰り返していたという。

最初にバルテュスの才能を評価したのは詩人のリルケである。まだ少年であったバルテュスの絵を見たリルケは「この年齢でこうした絵が描けるとは驚くべきことだ」として、ストーリー仕立てとなった連作絵画にリルケ本人が序文を書いて出版している。

その後、バルテュスは、『呪われた部分』の思想家ジョルジュ・バタイユや、『ヴァン・ゴッホ』などの俳優・詩人・小説家のアルトナン・アルトー等と交友している。

バルテュスの時代はシュルレアリスムが全盛であり、バルテュスの作風は「古くさい」と見なされて、同時代の画家達からはなかなか認められなかった。そこでバルテュスは敢えて扇情的な表現を取ることで、スキャンダラスな評価を受ける。バルテュスは少女を描くことが多く、それがロリータコンプレックスであるとも見なされたが、実際にはバルテュスには少女趣味はなかったようである。バルテュスは少女を描きながら、同時に少女の未来を描いているようにも見える。

京都市美術館の「バルテュス展」のポスターに使われたのは「美しい日々」という作品。窓を背にして椅子に腰掛けた少女が手鏡を見ている様子を描いたものだが、キャンバスの右隅には暖炉に薪をくべている男も描かれている。自然光と暖炉の明かり、その中で少女は二重に照らされている。ということは、薪をくべている男は少女をより美しくする役割をしているわけで、彼はバルテュス本人なのかも知れない。

バルテュスの風景画はどことなくユトリロに似ているところがあるが、人物画の方は、少なくとも20世紀のヨーロッパでは似た作風の画家は見当たらない。ああした暗さは中南米の画家が良く採るものである。フリーダ・カーロなどがそうだ。

バルテュスは何枚も習作を描くことで、完成作を練り上げるというタイプであったという。「美しい日々」などを観ていると、斎藤茂吉の「実相観入」という言葉も浮かぶ。人物画はどれも写実的というより示唆的である。

少年時代には中国文化に惹かれたというバルテュスであるが、その後、日本のことも気に入り、最初の来日時に行われた自身の展覧会のスタッフであった出田節子を見初め、後に結婚する。節子夫人の影響もあり、『源氏物語』や『雨月物語』なども英語訳やフランス語訳版で読み、日本語の学習もしていたようである。節子夫人は結婚後は常に和服であり、バルテュスもそれに倣って和服を愛用するようになる。二人の間には男の子が生まれたが早世し、後に長女となる春美が誕生している。

パリを離れてスイスの田舎町に移り住んだバルテュスは風景画なども良く描いている。また節子夫人をモチーフに浮世絵の要素も取り入れた人物画も描いている。ちなみにこの絵では姿見の鏡が用いられており、バルテュスにとって鏡は重要なアイテムなのかも知れない。

最後の展示室には、篠山紀信撮影による晩年のバルテュスと節子夫人、娘の春美との写真が並んでいる。笑顔で見つめ合うバルテュスと節子夫人の写真は微笑ましく、写真が欲しくなるが、篠山紀信の作品であるため、ミュージアムショップで売られてはいなかった。だが、節子夫人によるバルテュスの回想録にその写真が入っていたため、それを買うことに決め、他に風景画の額画と、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』をモチーフにした画集などを買う。

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2016年12月 9日 (金)

美術回廊(6) 「イラストレーター 安西水丸展」京都2016

2016年7月8日 美術館「えき」KYOTOにて

ジェイアール京都伊勢丹7階に隣接した美術館「えき」KYOTOで、「イラストレーター 安西水丸展」を観る。

千葉県千倉町(現・千葉県南房総市千倉)出身で、イラストレーター、画家、小説家、エッセイストなど幅広い分野で活躍した安西水丸(本名:渡辺昇。1942-2014))の展覧会である。

村上春樹とのコラボレーションでも知られた安西水丸。二年前に訃報を聞いたときには驚いたが、村上春樹とのやり取りの内容から若いイメージがあったものの、1942年生まれと予想よりもお年だったのである。

千倉のイメージが強いが、生まれは東京で、3歳の時に小児喘息の療養のために母方の実家である千倉に移り住んでいる。千倉は千葉県内でも海が美しいことで知られる街だ(と書きながら実は千倉には行ったことがない。千葉県出身ではあるが千葉市民は千葉県の南の方には余り行かないのである)。

日大豊山高校を経て日大藝術学部美術学科造形コース卒。生家が代々建築の仕事をしていたため、建築についても学ぶ必要があり、いわゆるダブルスクールで建築の専門学校の夜間コースにも通っている。村上春樹との対談によると、夫人とはこの専門学校で出会ったそうである。

日大藝術学部卒業後、電通に入社、その後、平凡社にも勤める。村上春樹のエッセイによるとかなり楽しいサラリーマン時代を送ったそうだが、にわかには信じられないほどパラダイス状態であるため、かなり脚色されているのかも知れない。

本名は渡辺昇(京都・一乗寺の名家の方や坂本龍馬のお友達と同性同名である)で、村上春樹の短編小説集『パン屋再襲撃』には全編に渡ってワタナベノボルという名前で登場する。


安西水丸本人が「大人になっても小学生の絵を描いている大人」と称しているように、一種のヘタウマ的な持ち味のある人である。千倉時代の絵もあって、普通に上手いのだが、そこから次第にタッチがシンプルになっていく。

いくつものイラストをじっくり見て気がつくのは余白の多さである。対象物と比較すると余白の部分がかなり多い。ただ、ぱっと見ではそうしたことには気がつかない。描かれた対象物の持つパワーと、絶妙なバランスが、余白を見えない力で埋めているのだろう。

またシンプルではあってもお洒落である。原色を用いた配分の妙がそうした世界を生んでいるのだと思われる。

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