カテゴリー「雑感」の59件の記事

2008年6月21日 (土)

夏至

今日は夏至。そして今夜は、英語でいう「ミッドサマーナイト」=「真夏の夜」。ということで、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』の舞台となった季節です。

観劇が趣味なので、シェイクスピアの舞台は数多く観ているのですが、『真夏の夜の夢』に関しては有名俳優による公演はまだ観たことがありません。大阪芸術大学舞台芸術学科の学外定期公演として行われた『ま、夏の夜の夢』はシアター・ドラマシティで観たことがあるのですが、本来は一人の俳優が演じる役であるパックを、どういうわけか20名ほどの大人数で演じていて、役を貰えなかった学生を全員パックに回したんじゃないかと疑いたくなるほど、不思議な舞台になっていました。

ところで、イギリスだけでなく、緯度の高いところにある国では夏至は特別な日。北欧各国では夏至祭が行われます。また、太陽信仰のある国でも夏至は特別視されます。

しかし、日本にも太陽信仰はあるのに(最高神である天照大神が太陽神である。そもそも国号からして「日本」なので太陽が特別な存在とされていることがわかる)夏至にまつわる特別な行事は最近までほとんどありませんでした。これはやはり、日本では梅雨の時期に夏至がくることと無関係ではないと思われます。いくら一年で一番昼が長い日とはいっても、太陽が雲の向こうにいることが多いとあっては、なかなか祝う気にはなれないでしょう。

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2008年2月15日 (金)

日本史必修

神奈川県教育委員会が県立高校での日本史必修を決めたそうですが、私が高校生だった頃(1990年代前半)、私が生まれ育った千葉県の公立高校の多くは、日本史、世界史、地理、公民(現代社会)、政治経済の全てが必修でした。私の高校では1年が「地理」と「公民」必修、2年が「世界史」必修、3年が「日本史」と「政治経済」必修でした。当時はそれが普通だと思っていたのですが、他の都道府県ではそうでもなかったようで。

理想としては「日本史」、「世界史」、「地理」、「公民系科目(現代社会+政治経済)」は全て必修が良いと思うのですが、私立高校では大学受験に有利に働くよう一科目に集中させるということもありそうなので、対抗策として全科目必修には踏み切れないのか。しかし、「日本史」、「世界史」、「地理」、日本の社会や法律への知識が十分になくて大学生になっても良いものなのかどうか。問題は根深そうですね。

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2008年2月 2日 (土)

あをによし

「あをによし」は「奈良」の枕詞です。

「あをによし」とは不思議な言葉ですが、「あをに」とは「青丹」で、「青い土」という説と、「青」と「丹」で、奈良の都の青い瓦と丹の色(赤っぽい色)の柱のこととする説があります。

ところで、予備校で教わった古文の先生は、若いときに「あをによし」=「奈良の枕詞」とだけ憶えていて、意味を知らなかったそうで、ある日の授業で生徒に質問を受けて、焦ったそうです。

彼はとっさに、「奈良といえば羅城門で、都に入るには、そこで門番をしている青鬼の調べを受け、『良し』と言って貰う必要があった」と、“何だかなー”の嘘をつきました。

家に帰って本当の意味を調べてきた古文の先生は、翌日、何食わぬ顔で、「青鬼が『良し』なんて本気にしたの? 冗談だよ」といって取り繕ったとか。
授業中の笑い話として喋っていたことなので、本当にあったことなのか作り話なのかはよくわかりません。しかし、もし本当だとして、「あをによし」=「青鬼良し」だと信じた生徒はいたのかな? いなかったんじゃないだろうか。

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2007年12月22日 (土)

朱夏の愉しみ

「青春」という言葉があります。甘い響きのする言葉です。

何故、「青い春」と書くのかというと、中国の陰陽五行説に由来していて、それぞれの季節に色が割り当てられているためです。季節の色は青、赤(朱)、白、黒(玄)から成っていて、これは方位の色と全く一緒です。
つまり「青春(東方・青龍)」、「朱夏(南方・朱雀)」、「白秋(西方・白虎)」、「玄冬(北方・玄武)」です。太陽の運行を見ると人間の年齢と方角の色が一致していることもわかります。東(青春・青龍)に始まり、南中(朱夏・朱雀して)、西(白秋・白虎)に終わります。「玄冬」=「黒い冬」というのは死に直結した救いがない印象を受けますが、太陽は北方にはいかないので、人生に於いて、「死」を除けば、それほど絶望的な事態に直面することはないと解釈したいと思います(実際は人生には絶望がつきものなのですが)。

さて、「青春」という言葉だけが有名になっていますが、「朱夏」、「白秋」というのも良い響きを持った言葉です。「青春が終わった」というと、悲観的な印象を受けますが、そうではなく、「朱夏が始める」と考えれば、明るい気分になれそうです。「朱夏」は、漢字をデザインとして見た場合は視覚的に美しく、また「しゅか」という音も良いですし、「夏」=「盛り」というプラスのイメージも発生します。

若いというのは確かに楽しいことではありますが、同時にみっともないことでもあります。もし仮に10代や20代に戻ることが可能だったとしても私はそれを拒否するでしょう。ああいうみっともない時代は一度で十分です。
もっともこれは若い時代を否定しているわけではありません。みっともないことを散々してきたから今の自分があるわけですから。

10代、20代の頃には、「頭ではわかっていても体ではわかっていなかった」、逆に「体ではわかっていても頭がついてこなかった」ということが数多くありました。30代になって頭と体のバランスが良くなって、ようやく人生の本来の味わいがわかり始めています。そういう時代にいるのですから、無理して青春を追い求める必要もないでしょう。

私は朱夏を愉しんでいきたいと思います。

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2007年12月12日 (水)

そんなの関係ねえ?

「そんなの関係ねえ」。流行語として使う分にはいいのですが、世の中の事象に対して「そんなの関係ねえ」という態度を取っていると、意外なところで跳ね返ってくることも多いです。

「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないですが、意外なものと意外なものが繋がっていたりします。というより、世の中は繋がりと繋がりの連鎖なので大抵のことは自分に関係していると思った方が無難です。

皮肉な繋がりというのもあって、地球に優しい「バイオ燃料」という多くの人が「おお、素晴らしい」と考えるエネルギーが拡がった結果、牛乳が値上がりするという、妙な結果が現れたりします。地球に優しいことをしているつもりで、人間が苦しくなるということもあり得るということです(ちなみにバイオ燃料は、必要とするだけの穀物量を廃材を含めて確保するには今よりも穀物の生産量を上げる必要があり、その結果、焼畑農業が更に広まって地球環境が悪化するという説もあります。また食べ物に事欠く国が世界にはまだ多いというのに、食物をそちらに回さず先進国のための燃料とするというのが良いことなのかという問題もあったりします)。

「牛乳の値段が上がる? 俺は飲まないから、そんなの関係ねえ」で済まないのは言うまでもないことでしょう。

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2007年12月 7日 (金)

日本語Tシャツ

昨日、大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏会を聴きにザ・シンフォニーホールに行ったのですが、ホール内で黒地に白抜き文字で「心音」と書かれたTシャツが売られていることに気付きました。「心音」は大阪フィルの音楽監督を務める大植英次の好む言葉で、「心からの音」という意味の造語です(「心臓の音」という本来の意味ではない)。そのTシャツ、デザインとしては今一つか。

ただ、最近、欧米では日本語の入ったTシャツが人気で、特に漢字入りTシャツはちょっとしたブームになっていると聞きます。それも正統的な言葉ではなく、「公衆便所」、「尊皇攘夷」など、日本人が驚くような言葉を使ったTシャツが人気のよう。日本でも一時期、過激な英文の書かれたTシャツを着ることが若者の間で流行りましたが、洋の東西を問わず、人間はそうしたエキセントリックなことが好きなようです。

先日、東京に行くためにJR京都駅のホームで新幹線を待っていたところ、白地に青い文字で「馬鹿外人」と書かれたTシャツを着た白人男性を見かけて、「あれ、意味わかって着ているのだろうか?」と思ったのですが、調べると「馬鹿外人」Tシャツは欧州製で、着ている本人も意味はわかっていて、やはり日本人を驚かせるためにわざと着て来日する人が多いとのことでした。

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冬の風鈴

冬の風鈴

街を歩いていると、冬でも風鈴を出している家を見つけたりします。寒風に吹かれて風鈴がリンリン、凛々となるのを聞くと寒さがいや増しに増します。

冬でも風鈴を出している家は、単にしまうのが面倒なのか、あるいは凛と鳴る風鈴の冷たい抒情が気に入っているのか。

そういえば清少納言も『枕草子』で「冬はつとめて」と一日で最も寒い早朝の寒さの情緒を愛でています。冬の寒さをより際立たせる装置も情趣があって時にはいいものです(あくまで時にはです)。

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2007年9月 5日 (水)

格好いい生き方をしようという

格好いい生き方をしようと考えること自体が格好悪いことのように思えるのは気のせいだろうか。

「格好いい生き方」と一口に言っても様々な形態があると思うが、生き物としての人間が持つ泥臭さよりも、非人間的な記号がスマートだと思う「格好良さ」は人間として格好いいのか。

良い生き方をしている人は案外格好いい生き方をしていないように思うのだが。

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2007年9月 1日 (土)

怪談のような

死んだと思ったらまだ続きがあって、人生が延々と続くとしたら恐いとは思いませんか。

パラレルな場所があって、そこが元いた場所と変わらない状態で続くのだとしたら。

あなたはその続きの世界で今度は、若しくは再び陰惨な死に方をするかも知れない。でも、死んだと思ったらまた陰惨な場所に出てくるのだとしたら。

あなたはあなたから永遠に逃げられず、「デンマークは牢獄だ」どころか何処へいっても牢獄、あるいは自分自身が牢獄であるのだとしたら。

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2007年8月18日 (土)

美しいとは、「美しいという固定的状態」にあるのではなく、「美しくありたい」という願望と行為の中にあると思われるのです。

そして、「美しくありたい」という目標にある美しさとは、絵葉書的な美しさではなく、絶えず移り変わる美しさであると思います。それは気構えであり、姿勢であり、行動です。

固定的な美を求めよるとする願望は美とは正反対の卑しい願いに陥る可能性があります。それは自己愛であり、権威欲であり、ドグマであり、ある意味怠惰です。

生きるとは常に「過程」です。流動的なものです。過程に美を見いだせないならそれはそれで寂しいことです。

ただ、そう思いながらも私は恐怖もまた感じるわけです。チェーホフの言葉を借ります。
「わたしたちの時代は過ぎてゆく」(『かもめ』より 神西清:訳)

あるいは美意識とは過ぎゆくものへの恐怖が生み出したものなのかも知れません。
権威者が必要以上に固定的な美に拘るのも、恐怖心の裏返しなのでしょうか。

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2007年8月12日 (日)

読書感想文について

以前、「読書感想文なんて書くな」という主張をしましたが、“読書感想文の書き方”というワードで入ってくる方が多いので、アドバイスをいくつか。

自分が登場人物と同じ立場や状況に置かれたらどうするかを考えて書くといいと思います。

作者は何故この場面で登場人物にこんなことをさせたのかを探ってみましょう。

“何故(なぜ)”を大切にしましょう。ストーリーにほとんど触れなくても、何故と思ったことを追求していくだけで読書感想文は書けます。

実はさる事情により、文学的価値以外のことで読書感想文の課題図書や推奨図書は決まっています。そうした「大人の事情」に反抗して、少し難しめの本を選んで感想を書いてみるのもいいでしょう。文学には“反抗”がつきものです。

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2007年8月 5日 (日)

コップの中の嵐は

コップの中の嵐は、自分がコップの中にいることに気付いていない人にとっては大嵐だろうな。

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2007年6月28日 (木)

夢の中で頬をつねる

夢かどうか確かめるには頬をつねってみるといいと言われます。「痛くなければ夢だ」と。

しかし、私の場合、夢の中で頬をつねることは全く意味がありません。以前にも書きましたが、私の見る夢は非常にリアルなので、痛みもきちんと感じてしまうのです(夢の中でも痛みを感じるという人は案外多いと思うのですが)。というわけで、それが夢かどうか確かめるすべは、「目覚めるか否か」しかないのでした。

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2007年6月 4日 (月)

夜毎の悪夢

「現し世は夢。夜の夢こそまこと」(江戸川乱歩)

このところ毎日のように悪夢を見る。「悪夢は吉夢だ」、「悪夢は最悪の事態への予行演習のようなものだ」、「悪夢は放電のようなもので、精神安定上良いものだ」など、悪夢を肯定する様々な説を見聞きしたけれど、悪夢を見て肩で息をしながら目覚めるというのはどう考えても体に悪い。

私の見る夢はいつも極めてリアルである。目覚めてからもそれが夢であったとしばらくの間は気がつかないほどだ。そうしたリアルな夢を見るというのも体に悪い。

今朝見た夢は、悪夢といってもそう深刻な内容ではなかったけれど、時折深刻な悪夢も見る。それが正夢になったことがないのが幸いだが、深刻な悪夢を見るということは、それ自体が「正夢同等」若しくはそれ以上なのかも知れず、意識への影響は大きい。

私はこう考える。

悪夢は見ないに越したことはない。それが人生にプラスになる悪夢だったとしても。

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2007年5月20日 (日)

車内のドラマ

電車に乗っていると、様々な人々の様々な話が聞こえてくる。特に東京の場合は全国から人が集まっているので、話される内容も多彩である。

東京の車中における特徴の一つは、真剣にビジネスの話をしている人が多いことだ。大阪の場合は、仕事の話といっても(ちなみに大阪の電車内で仕事の話をしている人はどういうわけか余り見かけない。東京では女性同士でも仕事や仕事場の話をしているというのに)単なる愚痴や悪口しか聞こえてこないが、東京の場合は愚痴一つにしても、「(この場にいない彼は)こうすればいいのになあ」だとか「(この場にいない後輩は)そういうことが出来ても仕方ないんだよなあ。だってさあ…」という風に、建設的側面を帯びている。

千葉から東京まで毎日のように電車で通っていた頃は、そういったビジネスマン達の話をたびたび耳にしていた。そしてその中から、当時の私には絶対に体験し得なかった、ビジネス世界におけるシリアスで多種多様なドラマを想像することが出来た。ある意味、東京の電車内はドラマの宝庫だったのだ。

「社会」や「ドラマ」を「知る」上で、これは非常に有効である。

関東にいた頃は、当たり前すぎて気がつかなかったことに、関西に移り、そして一時帰京したことで気づいた。
東京で過ごすということは、そうしたアドバンテージを知らず知らずのうちに受けているということのようである。

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2007年3月28日 (水)

言葉の乱暴さもさることながら

最近の若い女性の仕草でひいてしまうのは、くしゃみが乱暴なこと。それも「ハクション!」ならまだ可愛いのですが、「ドゥエクホ~イ!!」とおじさん並みの豪快さでくしゃみをして、「ア゛~」などと言っている様を見ると、例えそれがどんな美人であろうと(あるいは美人であればあるほど)男は幻滅します。つまりもてなくなります。ご注意を。

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2007年3月18日 (日)

目線

「目線」という言葉は古くからある日本語ではない。もともとは芸能用語である。不安定な世界に身を置く芸能人(特に演劇関係者)は不吉な言葉を極端に嫌う傾向があり、視線も「死線」に繋がるということで「目線」といっていたのである。
それが、テレビなどの普及により、出演している芸能人が「目線」という言葉を使うため、いつしか普通の日本語のようになって定着してしまった。別に悪いことではないと思う。ただ「めせん」というのは日本語としての響きが余り良くない言葉だと思われるのだがどうなのだろう。

私個人は「目線」ではなく「視線」を使うようにしている。「めせん」という響きにベッタリしたものを感じて嫌だからだ。

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2007年3月 8日 (木)

20歳の頃の自分に会う

現在、他のページに今から12年前、私が20歳だった頃の詩を載せている。詩とはいっても詩の体を成していないものから、そこそこの鋭さを感じさせるものまで色々だ。今の私に比べると思考が浅くて、勢いだけはあるという感じがする。救いがたく下手なものもあるけれど、今の私にはない実験精神を感じさせる作品も多い(そういった実験精神を感じさせるものは大抵ボツにはなっているのだけれど)。

12年前の原稿用紙を見ていると、原稿に向かっている20歳の頃の自分に出会ったような気分になる。懐かしい。

20歳の頃の私にはこう言ってやりたい。
「君、自分で思っているより倍は賢いからもっと勉強しなさい」と。

20歳の頃の私に今の私のことを聞かれたら、
「まあまあだね。思っていたほどではないけれど」と答えるだろう。

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2007年2月28日 (水)

帰京、帰洛、帰阪

東京に帰ることを「帰京」という。同じく京都に帰ることを「帰洛」といい、大阪の場合は同様に「帰阪」という。しかし、日本の都市の中で、その土地に戻ることを指す、誰もがわかる用語を持つのは、この東京、京都、大阪だけだ。つまり江戸時代の三都である(地元の人だけに通用する言葉なら全国のあらゆる都市にあるようだが)。

大阪よりも人口が多い横浜は「浜」という漢字一字で表されることがあるが、「帰浜」という言葉が使われることは少ない。

京阪神という言葉で、京都や大阪と並び称される神戸であるが、「帰神」という言葉は神戸の人にしか通じない。他の土地の人に、「帰神(きしん)してます」と電話で話しても、「え? 何を寄進したの?」と聞き返されそうだ。

日本三大都市圏の一つ中京圏の中心で日本第4の都市である名古屋に帰ることをいう「帰名」も一般的ではなく、IMEでも変換されない(名古屋では普通に使われているようだが)。札幌市に帰ることを指す「帰札」はIMEで一発変換できるが、辞書には載っていないので俗語なのだろう。

江戸時代の三都は今でも特別な都市であることが、こうしたことからもわかる。

千葉は「葉」という一字で表せるのだが、「帰葉」という言葉は存在しない。「帰葉」といっても通じる人には通じると思うが、通じる人にしか通じない言葉というのは言葉として弱すぎる。

というわけで、2日前に「千葉に帰り」、今日「帰洛した」私なのだった。

※なお、辞書に載っているのは、「帰京」と「帰洛」だけです。「帰阪」という言葉は全国的に通用すると思いますが、辞書には載っていません。

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2007年2月24日 (土)

月光仮面の日

今日2月24日は「月光仮面の日」なのだそうです。今から49年前(そんなに前なのか!)の1958年2月24日が「月光仮面」の初放送日だったためです。

ところで、「月光仮面」の主題歌「月光仮面は誰でしょう」の歌い出しは、
“どこの誰だか知らないけれど”ですが、ぶっきらぼうな感じを受けるのは私だけなのでしょうか。「正義の味方に対してずいぶん冷たい物言いだな」と私などは思ってしまうのですが(ちなみに作詞は別の件で今話題になっているあのお方です)。

また「月光仮面の真似をして高所から飛び降りて怪我をする子供が続出して番組が打ちきりになった」といわれていますが、これはどうやら都市伝説のようです。子供というのはそれほど愚かな生き物ではありません。高所といっても絶対に怪我をしない場所から飛び降りたはずです。本能として怪我をするかしないかはわかるはずです。しかし子供全員が賢いというわけでは当然無く、勘違いした数人の子供が怪我をしてそれが大袈裟に取り上げられたようです。

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2007年2月18日 (日)

旧正月

今日、2月18日は、旧暦の一月一日、つまり元日になります。いわゆる旧正月ですね。

東アジアでは、西暦の1月1日ではなく、旧暦の一月一日を盛大に祝うことが多いのですが、日本では脱亜入欧化が徹底されていたためか、新暦導入以降、旧正月を祝う習慣はほとんどなくなりました。節分に巻き寿司を売ったり、キリスト教の聖人の命日を、その殉教を悲しむことなくチョコレートの日にしてしまった商魂たくましい業界も、なぜか旧正月は無視しています。なぜなのだろう?

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2007年2月14日 (水)

おじさんになったなと思う時

三井のリハウスのCMのイメージガール(リハウスガールというらしい)を見て、「ああ、俺にもこんな可愛い『娘』がいたらいいなあ」と思ってしまった時。

三井のリハウスは家の売買が出来るだけのお金のあるお父様方のためのCMであり、リハウスガールの選択や演出も、同世代の若者(当然ながらお金のある人も自分の家を持っている人も少ない)に受けるよりもリハウスガールの父親世代に訴えることを重視しているはずである。というわけで三井のリハウスこと三井不動産販売の狙いに見事はまってしまった時はやはりおじさんになったと考えるべきなのだろう。

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2007年2月 7日 (水)

死語

下の記事に書いた「シャットアウト」という言葉から連想したのですが、10年ほど前に、「眼中にない」という慣用句を英訳風にした「アウトオブ眼中」という言葉が流行りました。しかし今もこの言葉を使う人はいるのでしょうか? やはりもう死語と化しているのかな。

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東京都

blog「洛北日和」でも紹介したが、京都市山科区にある、とある自動車販売店の看板に「東京都 山科三条店」と書かれてあるのを見つけた私は、「何で京都なのに東京と書いてあるのだ?」と一瞬思ったのである。

Honda Cars 東京都 山科三条店

「あ、あれは『とうきょうと』ではなく『ひがしきょうと』と読むのか」とすぐに気づいたわけであるが、今思い返しても「ひがしきょうと」という言葉は妙に思える。東だけでなく、「北京都」や「西京都」という文字を見かけたこともほとんどないので(「南京都」という言葉があるのは知っている。またIMEで一発変換できるのも「みなみきょうと」だけである)尚更だ。

しかし、山科三条の地元の人は、「東京都」という文字を見て迷うことなく「ひがしきょうと」と読めるのだろう。そうでなかったら、今の今まで「東京都 山科三条店」という店名が「紛らわしい」という苦情もなく続いているはずがない。

その時の私が「東京都」という文字を見て反射的に「とうきょうと」と読んでしまったのは、私が関東生まれの人間だからなのだろう。名詞の認識は一文字一文字を追うのではなく、いくつかの文字の総合として行われる。
かつてこういう実験があった。被験者に「いけくぶろ」という文字を一瞬だけ見せて、「何と書かれてありましたか?」と訊くと、ほぼ全員が「いけぶくろ」と答えたという。人間が文字を一つずつ追っているのではなく、それまで頭に詰め込んできた膨大な量の単語の中から似た言葉を拾い出す「パターン認識」を行っている証拠である。

「東京都」を「とうきょうと」と読んでしまうのはパターン認識であり、「東京都」と「ひがしきょうと」と読むのもパターン認識だ。育った環境が違うとパターン認識も異なる場合がある。
東京というメトロポリスの存在を常に意識して育った関東出身の私は、「東京都」という文字を「東京・都」と認識したが、「京都」という言葉が最初に頭に浮かぶように育った京都の人は、この場合の「東京都」は「東・京都」であると一瞬で認識できる、否、「とうきょうと」と読む可能性を始めからシャットアウトしてしまえるのだろう。

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2007年1月15日 (月)

小正月

1月15日は小正月です。小正月といっても関東では名前だけが残っている場合が多いのですが、関西では小正月までが松の内なのだそうです。小正月という名前がある以上、関西風に小正月までを松の内とした方が理にかなっているように思うのですが、やはりいつまでも正月気分に浸っていられないので、1月7日(七草がゆ)までとした方が経済活動を行う上ではいいのかも知れません。

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2007年1月12日 (金)

私って○○じゃないですか

一頃、若い女性が初対面の人にも、「私って○○じゃないですか(例:「私ってヤイコが好きじゃないですか」、「私って足が遅いじゃないですか」、「私ってアメリカに憧れてるじゃないですか」)」という言い方をするのが流行った。聞いた側は、「そんなの知らないよ」と思うわけだが、関西の場合は初対面やそれに近い相手に対しても「俺って○○やろ」、「私って○○やん」という言い方をするのは一般的である。
この、「○○やろ」、「○○やん」を標準語で語ろうとした場合、「○○じゃないですか」に変化するのはごく自然のようにも思う。

標準語を基に考えると奇異に思えることが、方言などを知ることで相対化され、なぜそうなるのかがわかる時がある。この「○○じゃないですか」も、方言から派生した言い方だと考えると一概に「妙な言葉遣いである」と断言できないのではないだろうか。

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2007年1月 8日 (月)

成人の日

成人の日ですね。私は成人式にはもちろん行きませんでした。誰が行くか。

私の場合は酒も煙草もやらないので未成年と大して変わりません。選挙には行きますが。成年を18歳に引き下げようという動きがありますが、どうなんでしょう。18歳の頃の私なんてアッパラパー(死語)でした。18歳の私が選挙に行ってもろくでもない投票をすると思いますが。今の若い人は優秀なんでしょうか。

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2007年1月 6日 (土)

Walk don't Run

亥年です。猪突猛進という言葉があります。幕末、日本で最も猪突猛進の傾向があると言われたのは長州人です。結果、長州藩は維新を成し遂げましたが、更にそのまま突っ走って軍事国家へと突入してしまいました。

走ると景色が見えにくくなるのも事実です。景色が大事だと思う人は決して走ってはいけません。

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2006年12月18日 (月)

おけいはん

「おけいはん」とは京阪電鉄(京阪)のイメージキャラクターです。京阪のキャッチコピーは、「京阪のる人、おけいはん」。意味がわかるようなわからないような不思議なコピーです。

おけいはんはこれまで、淀屋けい子(演じたのは水野麗奈)、京橋けい子(演じたのは江本理恵)というキャラクターが登場し、そしてこの秋から3代目おけいはんとして森小路けい子(もりしょうじけいこ。演じるのは神農幸)がデビューしました。淀屋けい子はOL、京橋けい子は教師という設定。新おけいはん森小路けい子は音大生ということになっています。

おけいはんの姓名は、京阪電鉄の大阪府内の駅名に由来する苗字(淀屋は淀屋橋駅、京橋は京橋駅、森小路は森小路駅)と、けい子という名前から成っています(「おけいはん」とは「けい子さん」という意味)。

さて、3代目おけいはんがデビューしたばかりなので気の早い話なのですが、4代目おけいはんが登場した場合、苗字はどうなるのでしょう。

大阪市内の特急が止まる駅でいうと、北浜駅の北浜けい子、天満橋駅の天満けい子といった名前が挙がりますが、いずれもありふれた感じは否めません。実際はこのどちらかに落ち着きそうではありますが。

各駅停車の駅を見てみましょう、野江けい子は語呂がいまひとつ。関目けい子だと関根恵子(現・高橋恵子)を連想してしまいます。萱島けい子、千林けい子は若い女の子の名前としてはもうひとつ。滝井けい子や土居けい子はありきたり。樟葉(くずは)けい子は一見良さそうですが、実は樟葉の語源は…。

淀屋にしても京橋にしても森小路にしてもありふれた感じがしない苗字になっています。いかにもありそうな苗字だと却って憶えてもらえないかも知れません。
かといって、枚方公園けい子にしたら、もう苗字だか何だかわかりません。

大阪らしくて、それほど妙でない苗字となると、門真けい子、守口けい子など。ちょっと高級感を出したい場合はリアリティには欠けるものの光善寺けい子などになるのでしょう。

2008年には中之島駅が出来るので、中之島線の宣伝も兼ねて中之島けい子になるかも知れません(4代目おけいはんが生まれるとしたら2009年頃になるはずです)。

4代目おけいはんが誕生するかどうかもわからないのに、暇なことを考えてみました。

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2006年12月10日 (日)

関西とは

関西とは逢坂の関の西、具体的には京阪神地方のことを指すといわれている。

しかし、京都は関西という言葉が持つイメージから少し外れている。京都人にも「京都はあくまで京都。関西っていうたら大阪のことでしょう」と思う人は多いだろうし、京都に住んでいる私自身も、「京都」と「関西」という言葉の間に隔たりを感じてしまう。

さて、確かに大阪は関西という言葉のイメージに一番近いが、大阪という地名があるのだから、わざわざ「関西」という言葉を使う必要はない。

神戸も、やはり「神戸は神戸」というイメージで、関西という言葉から外れている。阪神間は関西的なイメージがあるが、例えば高級住宅地のある芦屋などはやはり、「芦屋は芦屋」とするほうがピッタリ来る。

果たして関西とはどこなのか。

関西というのは、京都、大阪、神戸を始め、それぞれ独自の強い個性を持った街が集中する場所である。個性が強いということは、それをひとくくりにしにくいわけで、それゆえ「関西」という、多くの街をひとまとめにした言葉は馴染みにくいのだと思われる。
「関西」というのは地名としては余りコンクリートなものではなく、どの街にも「うちはうち」という思いがあるようだ。
それゆえ、同じ関西とされる京都と大阪がサミット誘致で一歩も譲らなかったりするし、道州制導入の件についても京都市と大阪市はすでに「近畿地方が州として統合された場合、州都は我が街以外あり得ない」という主張を表明している。

関東は関西とは全く違う。箱根の関の東を指す「関東」は、関東地方という正規の区分にもなっており(関西は大まかな言葉で、正規の区分では近畿地方である)、東京都民も神奈川県民も千葉県民も埼玉県民も茨城県民も栃木県民も群馬県民も、他人から「関東の方ですか?」と訊かれたら「はい」と答えるはずだ(東京都民には「東京です」と答える人もいるかも知れないが)。関東地方は東京を中心に発達しているので、それぞれの街も「東京を中心とした同心円上にある」という感覚が強いのである。だから関東州が出来た場合、州都が東京になることに疑問を持つ人はほとんどいないと思われる。
サミット誘致でも関東は横浜市で一本化している。

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おフランス

「おフランス」という言葉がある。フランスを美化した言葉で、子供の頃に読んだ漫画に出てくる気取った感じの奥様がこの言葉を使っていた。

日曜朝のテレビ番組「題名のない音楽会」のフランス音楽を紹介する回でも、司会だった黛敏郎が、「フランスというと良く『おフランス』というように、上品なイメージがありますが、実際のフランス人の演奏家というのは管楽器などでも思いっきり吹いたり…」というようなことを言っていて、それを聞いて、当時小学生だった私は、「ああ『おフランス』というのは漫画の世界だけで使われる言葉じゃないんだ」と思ったものである。

しかし、実生活で「おフランス」という言葉を耳にしたことは長い間なかった。
が、京都市営地下鉄東西線に乗っていた時のことである。いかのも上品な感じのおばあさまが横並びの座席に座って話していたのだが、その中の一人が「私今年はおフランスに行こうかと思って」と言うのを聞いて、私はハッとしたのだった。それまで「おフランス」という言葉はリアリティのない言葉だった。「死語」とは違う種類であるが私とは別世界の言葉であった。別世界とは漫画のように紙の中の世界であったり、ブラウン管の向こうの空間であったりしたのだが、その別世界でしか使われていなかった単語が実社会での言葉として鼓膜を揺さぶったのである。実に妙な感覚であった。

高校2年生で初めて京都を訪れた時も、それに似た感覚を味わっている。私にとって関西弁はブラウン管の向こうの言葉であった。それでもテレビで関西弁を聞き慣れていたこともあって、大人が関西弁を話すのは何の違和感もなかった。しかし、バスに乗ったとき、子供が、「いやや、いやや、おかあちゃん、さっきは違うこというたやないか」と泣き叫んでいるのを見て妙な感覚に陥ったのである。
考えてみれば、テレビで関西弁を喋っているのは明石家さんまや桂三枝といったおじさん達だったのである。だから大人の話す関西弁には慣れていた。が、子供が話す関西弁は聞き慣れていなかった。だから「おお、子供なのに関西弁を喋っている」と感心してしまったのである。理屈では関西の子供が関西弁を喋るのは当たり前なのだが、実際に耳にするとやはりちょっとしたカルチャーショックとなったのであった。

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2006年12月 9日 (土)

編集者が欲しい

自分の文章を客観的に見つめることは難しいものだ。編集者が欲しいと思うこともある。

こんな川柳が浮かぶ。

「もの書けば背筋も寒し冬の風」

気軽に書いた文章の味の悪さよ。

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