カテゴリー「意識について」の23件の記事

2017年4月 8日 (土)

京都大学フィールド科学教育研究センター主催 公開シンポジウム「ひろげよう、フィールドの世界」

2017年3月19日 京都大学 益川ホールにて

午後2時から、京都大学吉田キャンパス北部構内にある京都大学益川ホールで、京都大学フィールド科学教育研究センター主催による公開シンポジウム「ひろげよう、フィールドの世界」に参加する。「自然」「芸術」「文系」「理系」などの融合を図るシンポジウム。

無料公演で、予約多数による抽選となったようだが、なんとか突破出来た。

益川ホールは、2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英を記念して北部構内総合教育研究棟1階に作られた中規模講堂であり、当然ながらまだ新しい。
私が京都に来た頃は、京都大学はまだ「日本一のオンボロ大学」と呼ばれていたが、その後、何年にも渡って増改築を繰り返し、今では「その辺の私大より豪華」な大学に変わっている。

京都大学北部構内は、理系の学部のためのキャンパスであり、私も入るのは初めて。益川ホールの場所を確認して、受付を済ませてから、缶ジュースを買いに、いったん、総合教育研究棟を出る。歩いていると、上品そうなおばさんから、「すみません、京大の先生ですか?」と聞かれる。先生どころか関係者ですらないので、否定したが、私と同じく益川ホールに向かうとわかったため(京大関係者以外で今日、北部構内を歩いているお年の方はシンポジウム参加者しかいない)場所は教えた。
顔も格好も京大の先生っぽかったのだろう(京都国立博物館上席研究員で、京都大学出身の宮川禎一先生とは知り合いだが、「よく似ている」と言われる)。


公開シンポジウム「ひろげよう、フィールドの世界」。司会を務めるのは、京都大学海里森連環学教育ユニット特定准教授の清水夏樹(女性)。着物姿での登場である。

まず、京都大学総長である山極壽一(やまぎわ・じゅいち)が開会の言葉を述べてスタート。

最初に発表を行うのは、京都大学フィールド科学教育センター教授兼センター長の吉岡崇仁。「和と洋が出会う場所」というタイトルである。スクリーンに映像が映され、レーザーポインターを使って進められる。
まず、京都大学の芦生研究林(京都市左京区、京都市右京区、京都府南丹市、福井県、滋賀県にまたがる広大な森林。本部は京都府南丹市芦生にある)には鹿がいるのだが、鹿によって植物が食い荒らされるという食害が発生している。ただ、鹿は天然記念物なので殺害することも出来ない。そのため、「鳥獣保護VS植生保護」という二律背反が起こっているという報告を行う。
芦生研究林では、檜皮を作っており、本来なら結構な値段になるのだが、これらは神社の檜皮葺等に無償で提供されているという。吉岡は、「こころ」と「ふところ」という言葉を用いて、「こころ=文系=非経済」、「ふところ=理系=経済」という図式を作り、どちらも大切であることを述べる。吉岡は「和魂洋才」という言葉を出す。客席に「ご存じの方?」と聞くが、手を挙げたのは私を含めて5人前後。だが吉岡は、「全員ですね」「私には心の中で挙げてる人も見えます」と続ける。京大でのシンポジウムであるが、みなユーモアを持ち合わせていてお堅くもなんともない。
吉岡は「和魂洋才」の説明をしてから、文系は和でこころに近く、理系は洋でふところに近いという話をする。
そして、森林伐採が行われた場合、何が心配かをアンケート調査したところ、「水質」という答えが多かったということを語り、森と水とが繋がっていることを人々が認識していると同時に、森自体は水よりも生活に密接に結びついているとは取られていないことを告げた。


続いて登壇したのは、京都大学フィールド科学教育研究センター准教授で芦生研究林長でもある伊勢武史。テーマは「人はなぜ、森で感動するのか」。芦生研究林は研究林あると同時に観光名所でもあるそうで、ハイキングやピクニックに訪れる人も多いという。だが、当然ながら人間が増えると生態系が破壊されるため、「観光客を制限してはどうか」という意見が上がる一方で、「観光客を減らすのではなく、より生態系を守る活動をしよう」という見解もあるそうだ。
さて、「人はなぜ、森で感動するのか」というテーマの仮説であるが、旧石器時代以前は自然淘汰が激しかったため、森を愛した人の方がそうでない人よりも生き残りやすく、我々はその生き残った人々の子孫であるため、森に安らぎを感じるのではないかと考えられるそうである。
また、「なぜ人は森に行くのか?」という疑義が呈され、森はアミューズメントだという仮説が発表される。森には多様性があり、美しいものも醜いものも両方ある。「美」というものは生物進化の中で生まれた観念であるが、これは白紙の状態(「タブララサ」ということだろう)から生まれたものではなく、人が恣意的に作り上げたものだという。ハゲタカは死肉を食するので、死肉が美だが、人間にとっては(佐川君のような例外はあるが)そうではない。ということで、伊勢は、「芸術家がたやすく美を語るな」という心情を持っているそうである。ただ、伊勢も芸術には関心を持っており、この後登場する髙林佑丞(たかばやし・ゆうすけ)と組んで、外来種による生け花を作っているという。外来種の植物というと嫌がられ、駆除するのが人間であるが、外来種を連れてきたのも人間であり、恣意的に退けてはならないという考えを持っているようである。


続いて登場したのは、京都大学こころの未来研究センター教授の広井良典。ドイツの新聞に載った「Japan's burden」という記事をスクリーンに映し、英語に直すと「ジャパン・シンドローム」となり、人口減少と高齢化が同時に進行していることを示していると語る。日本は少子高齢化の最先端にあるが、他の先進国も同傾向にある。
さて、幸福指標であるが、日本は世界全体で53番目。日本人には控えめな人が多いので、割り引いて考える必要がある(ちなみに1位はデンマーク)が、高くはない。
一方で、世界的な幸福指数に疑問を感じ、自主的な幸福指数を作っている自治体がある。東京都荒川区と高知県である。「皆さん、荒川区といってもピンとこないかも知れませんが」と断った上で話が進み(私は関東出身者なので荒川区の様子はわかる)、荒川区はGAH(Global Arakawa Happines)という独自の指標で幸福度を追求していると語る。更に高知県もGKH(Global Kochi Happines)なるものを作り、高知県は47都道府県の中で所得最低(最近、沖縄県を抜いたそうである)であるが、逆に森林面積率は全国1位であり、これを幸福の指標の一基準にしたそうである。
さて、広井が挙げたタイトルは「鎮守の森とコミュニティづくり」であるが、秩父神社は武甲山という山を御神体(神奈備山)にした神社であるが、武甲山は石灰岩が採れるというので、採掘が進み、自然と資源の調和が取れなくなっているそうだ。工業と自然の対立と有効利用の構図が出来ているそうである。
日本には神社は約8万1千、寺院は約8万6千あるそうだが、岐阜県郡上市の白鳥町では、小水力発電を行う一方で、「白山信仰の聖地」であるとして、エネルギー関連の人が訪れた場合は、必ず長老白山神社に参拝して貰うなど、鎮守がコミュニティの中心になる文化を築いているという。また「鎮守の森セラピー」というものを行っている地方もあるそうで、そこでは森林浴ならぬ「神林浴」という言葉が使われているそうだ。神との繋がりが心身の健康に繋がり、それが自然との繋がりにもなるという。
現代日本では、ピラミッドの頂上に「個人」がおり、その下に「コミュニティ」があって、一番下に「自然」が来るのだが、自然が礎になっていることはもっと意識されて良いという。


最後に、この4月から池坊短期大学の非常勤講師に就任するという華道家の髙林佑丞が登壇。「専心口伝」という池坊の美学を語る。植物の命を見つめ、「木物」「草物」「通用物」に分ける。「通用物」というのは木なのか植物なのかわからないもので、藤や竹や牡丹などが入るそうだ。
「花は足で生けよ」という言葉があるそうだが、実際に足を使うのではなく、花の根本を学んで生けるという意味である。
ここで、生け花の実演。「立花新風体」という、1999年に始まった新しい手法による生け花。八重桜や胡蝶蘭を使うが、ミモザやユーカリなどの洋花も使用。更には松の枝や檜の皮なども用いる。
最後は余計なところを剪定。生け花には「引き算の美学」があるという。


休憩を挟んでパネルディスカッション。休憩中に聴衆からのアンケートを取り、それにも答えるという形式。私の書いたものもそのままではないが読み上げられた。

まず、京大総長の山極壽一が話す。皆の話を聞いていて「感性の問題」を感じたそうで。「今はIT社会で、イメージが先行して生身のものが取り残されていく」ように思われるそうだ。
そして、生け花が「引き算」で出来ていることに興味を持ったという。華道家の髙林によると生け花は引き算で、フラワーアレンジメントは足し算だそうである。

私は、日本人と西洋人とでは自然に対する姿勢が違うのではないかと思えたのだが、伊勢は私の意見も纏めた清水からの紹介に「日本人と砂漠に住む人とでは、自然に対する印象は勿論違うと思います。ただ、自然に対する気持ちには万国共通のものがあるように思います」と述べた。

吉岡は、和魂洋才ならぬ洋魂和裁でも日本人は最先端にあると思われるというようなことを述べ、「風景という言葉がありますが、風景というのはそこで自分が何をしたかを読み込むこと」と定義し、自然や環境の中で自己を定義するのが風景であり、生きるということだと述べる。

広井は、文系だが科学史科学哲学専攻という理系に近い文系の人である。「日本人は高度成長期に寺社を忘れてしまった」として、一方で「今の若者達にはローカル指向があり、寺社を中心とした文化に帰る可能性もある」という。

髙林は、「時間を生ける」という言葉を使い、作品を生ける時間と同時に植物が育つ時間も感じるのが生け花だと話した。伊勢が、「(洋花を生けて)怒られない?」と髙林に聞くが、髙林は、「昔は家に必ず床の間があって、そこに生け花を飾っていたわけですが、今は洋間しかない家も多いので、それに合わせて変わっていくのも生け花」だと述べる。


山極は、京都市立芸術大学学長である鷲田清一と話したときに、日本の新興住宅に足りないものが三つあると言われたという。「神木」「神社・仏閣」「場末」に三つで、それ故に新興住宅地は薄っぺらいのだそうである。

吉岡は、パネルディスカッションの冒頭で山極が挙げた「感性」という言葉に触れ、「自然に触れることが感性を育む」とし、このシンポジウムのテーマである文理融合を京都大学で進めているのだが、実際はなかなか上手くいかないという。ただ、「人間とは何か?」を問う上で文理融合は有効だとして、これからも進めていく予定であるという。

伊勢も文理融合を進めているのだが、一意専心が良しとされる現状では文理融合をやっていると、「遊んでいる」と勘違いされるそうである。

最後は、山極がまとめという形で話す。「文明は言葉から、哲学から。それから数学が分かれていくわけですが、数学も哲学のため。だから数学者達も自分は数学者だとは思っていないはず」と語り、その後、哲学よりも技術が主役とされる世の中になったが、例えば社会学を築いたオーギュスト・コントのような立場に戻る必要があるのではないかとする。
山極は「20世紀はコンクリートの時代」と言われたことがあるそうだが、そのためにコミュニティも変わってしまったという。宮大工などの地元に密着した大工などはいらなくなり、建築家さえいればコンクリートを流してどんな建物でも出来てしまう。そして「機能こそ美しい」という考えが出来てしまい、同じような建築が増えてしまった。また高層住宅では上にいくほど立場も高いということになっており、建物が人間を定義するようになってしまったと述べる。
その上で衣食住の再定義から始める必要があるのではないかと語り、「まとまっていないけれど良いですか?」と司会の清水に聞いて、シンポジウムはお開きとなった。

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2017年1月19日 (木)

イドにて

 何も貞子の話をしようというのではない。イドというのは井戸というよりもフロイトが提唱した自我としてのイドに近いものだ。

 ただし、ここでは物語を援用する。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』だ。
 井戸の底に潜った主人公は激しい怒りを覚える。かつて経験した怒り、呑み込んでしまって発散できなかったトゲの数々。それがどこかで現実と繋がり、社会を動かし、何かを揺さぶる。

 私も激しい怒りをイドのそこに抑えてきた。誰だってそうだ。この世が自分のものでない以上、誰もが理不尽な経験をする。いわれのない咎をかぶせられ、こちらの想像を超えた壮大な勘違いに押し流される。

 今までは私はそれをこらえてきた。超自我というリミッターによって。
 だが、そうまでして耐え続ける必要があるのか。

 忘れられるなら忘れてしまった方が良い。こちらは生々しく記憶していても「加害者」である彼らはもう何も覚えていないだろう。それならこちらも記憶しているだけ無駄だということになる。

 「それはもう中空にある」

 だが無意識から現れた「幽霊のような私」が、私の自制を激しくなじるのだ。「臆病だ」と、「もっと表に出せ」と。
 イドの底で目をこらして、私は私にとって最も有効な水脈を見いだしたい。私が「幽霊の私」に取って代わられてしまう前に。

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2009年7月15日 (水)

入れ子構造の夢を見て

夢から覚めても覚めても夢また夢という多重入れ子構造の夢を見た。

夢の中で私は私でなくなり、女性になり、またある小説の登場人物になったりした。

こうした夢を見ると、今、生きている人生そのものが夢のように思えてくるから不思議だ。

考えてみれば、歴史が得意で歴史学者を夢見た私がひょんなことから演劇に足を踏み入れている。まるで悪戯なパックに騙されて夢を見ているようでもある。

覚めない夢のような人生の中で夢見ることは意味のあることなのか時折不安になる。

私は私自身を生きているのだろうか?

嘘のようであって欲しく、同時に欲しくない人生の中で、私は夢のようで夢でないような宙ぶらりんの状態を生きているのだろう。おそらく。

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2008年10月30日 (木)

深く潜る

一つ一つ積み重ねることが美徳とされる傾向がある。人生においても教育においても。

しかし、出来合いの登山道を歩くように、既成のブロックを積み上げるように、上を目指し、築き上げることが人間の本能なのかと疑わしくなることがある。

出来るなら、時にはあらゆるものから下りて、深く潜ってみたい。鼓膜の奥の音に耳を澄まし、目の裏側の像を見つめながら、根源にまで下りてみたくなるのだ。

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2008年3月 9日 (日)

無は無意識裏に発見されるのか

無意味であることが無意義であるとは思えない。

無意義なことは無意味なことと断定も出来ない。

無とは何か?

そもそも「無である」と誰が決めるのか?

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2008年2月29日 (金)

4年に一度の日

閏年の2月29日。

4年に一度しかない日であり、一応、特別な日ということになる。

そこで過去の2月29日の記憶がないかと、頭の中を徹底してほうきで掃いてみたが、

「ない」

過去の2月29日の思い出は全くといっていいほど出てこないのだった。一番近い過去の2004年2月29日の記憶も定かでない。おそらく何も起こらない無表情な一日だったのだろう。
かろうじて、小学生の時に、物心ついてから初めての2月29日を迎えて気分が少し高揚した記憶が残っている。が、これも本物の記憶なのか曖昧なのだった。

ということで、私にとっては2月29日は単におまけの一日的な存在でしかないことが判明した。判明したからといってどうということもないのだが。

それにしても何の記憶もないというのは惜しいなあ。何か一つくらいあっても良さそうなものだが。

しばらく考えているうちに思い出した。計算上、100年に一度、閏年はなくなることになっていたのだが、2000年は特例が重なって閏年になったということがあった。でもやっと思い出してもそれぐらいか。

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2008年2月16日 (土)

簡単そうなこと

苦もなく出来ることを「赤子の手をひねるよう」という。しかし、実際、赤子の手をひねることは簡単だろうか? 物理的には簡単だろうけれど、人間には良心というものがある。良心というものがあるため、赤子の手をひねることは極めて難しいこととなる。

本当のことを言うというのも難しい。本当のことは「本当だ」と確信しているのだから口にしようと思うのは難しいことではない。だが人間には良心と想像力と世間体と他者との関係がある。それらが実際にある限り、本当のことを伝えるのは困難だ。

ある意味、簡単なことほど難しいのだ。そうでなかったら人類はどうして言葉による伝達をこれほど高度化させなければならなかったのだろう。簡単なことを簡単に捉えることも簡単に伝えることも簡単ではなかったからではないのか。

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2008年2月 3日 (日)

「現実」そのものを生きることは出来ない

人間が知覚し、意識し、決定し、想像し、創造する存在である以上、「現実」そのものを生きることは出来ないし意味がない。

人間とは、絶えず、内的な意識の世界と外的な現実の世界を行き来する現象である。もし外的な現実のみを生きるとするなら、そこに想像が入ってはいけないことになる。決定一つ下すにも想像と記憶と意志が働いている。もしそれらが働いていないというなら人間は人間らしい営みを行うことが出来ないはずだ。

「現実」そのものは人間を屈服させない。「現実」はある意味、唯物的な現象でしかない。予定調和は存在しない。人間を服従させるのは内的な意識であることが多く、それを生み出す要素が「現実」にあるのかどうかは定かではない。定かではないものにしばしば人間は頭を垂れる。

定かでない「現実」そのものを生きているかのように錯覚することは歩みを止めることである。未来は決まっておらず、自身は未決定で、世界は拡がる余地がある。

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2008年1月22日 (火)

夢の中で巻き戻し

現実世界の時間を巻き戻すという奇妙な夢を見た。ビデオテープの巻き戻しのように(DVDの時代ではあるが、DVDの場合は巻き戻しという言葉はしっくり来ないなあ)現実世界と時間が後ろ向きに進み、世界を巻き戻す能力を持った主人公だけがその中で自由に、物事が上手く運ぶよう行動出来るのである。途中、主人公がミスに気付いて、巻き戻しをもう一度行うというおまけ付き。

PTSDの治療法に「巻き戻し療法」というのがあって、衝撃を受けた瞬間の前後の記憶をビデオテープを巻き戻すように後ろ向きに高速でイメージするという治療法なのだそうだが、丁度そのような感じであった(ドラマ「世にも奇妙な物語」に巻き戻し療法をベースにした話があった。稲森いずみ主演だったかな)。

主人公と書いたが、私が見た夢の主人公は私ではなく別の男だった。そして私自身はこれが夢だと意識しており、「ここまで来たら起きよう」と決めていて、実際にその場面で目覚めたのだった。

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2007年11月15日 (木)

瞬間湯沸かし器

「瞬間湯沸かし器」といってもいいほど短気な一面を私は持っています。しかし、そのそうしたことを知っている人はごくごく身内に限られています(「いました」というべきかな)。私は怒りを瞬間的に凍結させてしまうことも出来るので。

有名な諺がありますが、短気を起こしても損をすることが多い、それは怒ったときに人間は本質や、奇妙な思考を表に出してしまうからです。

短気な人は怒りをフリーズする術を身につけましょう。といって簡単に出来るなら苦労はしないのですが。
ただし、怒りを封じ込めるのは体にも心にも悪いです。出来るなら怒らないのが一番です。一番なんですけどね。

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