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2018年9月23日 (日)

コンサートの記(427) 愛知県立芸術大学レクチャーコンサート「ブレヒト・詩と音楽の夕べ」―ナチ時代に亡命したユダヤ系の音楽家たち―

2018年9月11日 名古屋・伏見の電気文化会館ザ・コンサートホールにて

午後7時から電気文化会館ザ・コンサートホールで、愛知県立芸術大学レクチャーコンサート「ブレヒト・詩と音楽の夕べ」―ナチ時代に亡命したユダヤ系の音楽家たち―を聴く。愛知県立大学音楽学部准教授の大塚直(おおつか・すなお。専門は近現代ドイツ語圏の演劇・文化史)のレクチャーで進めていく音楽会である。

20世紀ドイツを代表する劇作家・演出家であるベルトルト・ブレヒトを縦軸に、彼と仕事をしたドイツのユダヤ人作曲家の作品を中心に演目は編まれている。

演奏されるのは、クルト・ヴァイルの「三文オペラ」より“海賊ジェニーの歌”と“バルバラ・ソング”、「マハゴニー市の興亡」より“アラバマ・ソング”、「ヴィナスの接吻」より“スピーク・ロウ”、パウル・デッサウの「セチュアンの善人」より“八頭目の象の歌”、「動物の歌」、ピアノ・ソナタ ヘ長調より第1楽章、ピアノによる「ゲルニカ」、ハンス・アイスラーの「マリー・ザンダースのバラード」、「小さなラジオに」、二つの悲歌「あとから生まれてくる者たちに」、ハンス・ガルのピアノのための三つの小品と無伴奏チェロのための組曲より第1曲。

電気文化会館ザ・コンサートホールに来るのは初めてである。地下鉄伏見駅の間近にあり、近くには御園座や三井住友海上しらかわホール、名古屋市美術館などの文化施設が集中している。
ステージは上から見て台形、白い壁には音響効果を高めるために起伏が設けられている。内装も響きも、最近出来た大阪工業大学・常翔ホールに似ているように思われる。

出演者は、当然ながら愛知県立芸術大学の関係者である。
レクチャー担当の大塚直は、先に書いた通り愛知県立芸術大学准教授で、名古屋大学や椙山女学園大学、名古屋市立大学の非常勤講師も務めている。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学後、ドイツ・コンスタンツ大学に留学し、帰国後に東京外国語大学大学院にて劇作家のボートー・シュトラウスに関する研究で博士号(学術)を取得。翻訳者・ドラマトゥルクとしても活躍しており、今回、無料パンフレットに挟まれた歌詞対訳も大塚が行っている。

ブレヒトが書いた詩の全てを歌うのは、愛知県立芸術大学OGのソプラノ・藤田果玲(ふじた・かれら)。愛知県立明和高校音楽科、愛知県立芸術大学音楽学部を経て、ハンブルク音楽院に学び、現在は州立シュトゥットガルト音楽演劇大学大学院現代音楽科2セメスター在学中である。第16回大阪国際コンクール歌曲コースAge-Uエスポワール賞、第7回東京国際声楽コンクール歌曲奨励賞などの受賞歴がある。

ヴァイル作品でピアノ伴奏を務める家田侑佳は、愛知県立明和高校音楽科と愛知県立芸術大学音楽学部を卒業。現在、同大学大学院博士前期課程鍵盤楽器領域2年在学中である。第32回日本ピアノ教育連盟ピアノオーディション東海地区で優秀賞を受賞している。

デッサウ作品でピアノソロを受け持つ野村七海は、名古屋市立菊里高校音楽科を経て愛知県立芸術大学音楽学部を卒業。同大学大学院博士前期課程鍵盤楽器領域2年在学中ということで、家田侑佳と同級生である。第15回ショパン国際ピアノコンクール in Asia 大学生部門アジア大会奨励賞、第18回日本演奏家コンクール大学生の部の特別賞及び芸術賞を受賞。第9回岐阜国際音楽祭コンクール一般Ⅰの部第2位入賞も果たしている。

チェロ独奏の向井真帆。広島県に生まれ、12歳からチェロを始めている。愛知県立芸術大学音楽学部を卒業し、現在は同大学大学院博士前期課程2年に在学。第11回ベーテン音楽コンクールで全国大会第1位を獲得。第10回セシリア国際音楽コンクール室内楽部門第3位にも入っている。

全員、大学院在学中であるが、すでに華麗な経歴を誇っていることがわかる。

まず、大塚直によるレクチャー。「愛知県立芸術大学でブレヒトが取り上げられることはまずないと思いますが」と挨拶したものの、休憩時間に愛知県立芸大の関係者から指摘を受けたそうで、「実際はブレヒトもちゃんとやっているそうです」と改めていた。
一般的に、芸術大学の音楽学部や音楽大学では、「高みを目指す」崇高な音楽が追究されることが多いのだが、ブレヒトや今日取り上げられる作曲家は、労働者階級などにも「拡げる」音楽を指向していたことを語る。

「三文オペラ」。ブレヒトの代表作である。ジョン・ゲイの「ベガーズ・オペラ(乞食オペラ)」を元に練り上げられており、「マック・ザ・ナイフ」はジャズのスタンダードナンバーにもなっている。
私自身が「三文オペラ」に最初に触れたのはCDにおいてである。ロンドン=DECCAから発売された、ジョン・モーセリ(マウチュリー)指揮RIASベルリン・シンフォニエッタの演奏、ミルヴァ、ルネ・コロ、ウテ・レンパーほかの歌唱によるもので、高校生の時に聴いている。このCDは当時発売されたばかりで大評判になっていたものだが、高校生で理解するのは無理であった。「三文オペラ」自体は、兵庫県立芸術文化センター中ホールで白井晃演出のものを、今はなき大阪厚生年金会館芸術ホールで宮本亜門演出のものを観ている。「ベガーズ・オペラ」も梅田芸術劇場メインホールでジョン・ケアード演出のものを観ている。
「三文オペラ」の名盤とされていたのは、クルト・ヴァイル夫人でもあったロッテ・レーニャが娼婦ジェニーを務めたものだが、これは録音後50年が経過したために著作権フリーとなっており、オペラ対訳プロジェクトの音源となってYouTubeで視聴することが出来る。

まず「海賊ジェニーの歌」。赤いドレス姿の藤田果玲は、銀色のハイヒールを手に持って登場。ドイツ語のセリフをつぶやき、ハイヒールを床に落としてから履き、ステージの中央へと歩み出る。
かなり良い歌唱である。他の演奏者も全員良い出来で、学部ではなく大学院レベルにおいてであるが、愛知県立芸術大学のレベルはかなり高いことがうかがわれる。
「海賊ジェニーの歌」は、娼婦のジェニーの夢想を歌ったものだが、破壊願望がかなり強く出ている。自分をこき使う男達が、最後は海賊に皆殺しにされるという内容である。

京都造形芸術大学在学中の2003年に、アメリカの演劇人であるジョン・ジェスランの作・演出で行われた授業公演の「バルド」で「海賊ジェニーの歌」の一部が使われていた。映画館内でカップルが「海賊ジェニーの歌」をデュエットするというあり得ない状況が描かれたのだが、劇自体が非現実性を狙ったものであった。曲の正体を知っていたのは間違いなく私だけだったと思われる。

おなじく「三文オペラ」から“バルバラ・ソング”。貞淑な乙女と思わせつつ実は、という内容の歌詞を持つ。「三文オペラ」のヒロインであるポリーのナンバーだが、白井晃演出の「三文オペラ」では実はポリーを演じていたのは篠原ともえ、ということでかなり異化効果が効いていた。

オペラ「マハゴニー市の興亡」より“アラバマ・ソング”。本能そのままというべきか、もはや中毒症の領域に達している欲望を歌っている。
そして「ヴィナスの接吻」より“スピーク・ロウ”は一転してメロウなナンバーであり、ヴァイルの作風の多彩さを知ることが出来る。

クルト・ヴァイルは、ドイツ・デッサウの生まれ。ベルリン音楽大学を中退後、前衛作曲家として活躍。ナチスの台頭によってパリへ、そしてアメリカへと亡命する。渡米後はブロードウェイ・ミュージカルの作曲家としてメロディアスな作風へと転換している。

パウル・デッサウは、ハンブルクの生まれ。1909年にベルリンのクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院に入学し、ヴァイオリンを専攻。その後、オペラのコレペティートアを経て指揮者としての活動も始めている。ケルン歌劇場でオットー・クレンペラーの許、カペルマイスターとして活躍し、その後はブルーノ・ワルター率いるベルリン国立歌劇場の音楽監督にもなっている。作曲家としてはディズニー映画「アリス」の音楽などを担当。1939年にパリへと亡命し、十二音音楽に取り組むようになる。1939年にアメリカに渡り、1942年にニューヨークでブレヒトと再会して、「肝っ玉おっかあとその子供たち」や「セチュアンの善人」の舞台音楽を手掛けた。戦後は東ドイツの国立演劇学校の教授などを務めている。

デッサウの「セチュアンの善人」より“八頭目の象の話”。この曲では藤田はマイクを手にして歌う。
7頭の荒くれた象と従順な1頭の象。従順な1頭の象が7頭の象をどんどん抑圧していくという内容であり、藤田もきつめのアクセントで歌う。

「セチュアンの善人」は、新国立劇場中劇場で串田和美演出の「セツアンの善人」を観ている。出演は、松たか子、岡本健一ほか。舞台上が稽古場という設定での上演であり、また出演者全員が楽器も奏でる。松たか子がアコーディオン、岡本健一がギター、串田和美は「上海バンスキング」でもお馴染みのクラリネットを担当していた。

「動物の詩」。ブレヒトが1934年に息子のシュテファンのために書いた「童謡」に収められた動物を描いた詩にデッサウがブレヒトの死後にメロディーをつけて発表したものである。皮肉や諧謔に満ちたいかにもブレヒトらしいというかユダヤの世界観にも通じる詩である。「ワシ」「ウマ」「カラス」「ワラジムシ」「ハリネズミ」の5曲。ソプラノの藤田果玲は全曲タイトルをドイツ語で読み上げてから歌う。表情豊かな旋律と歌唱である。

ピアノ・ソナタ ヘ長調より第1楽章。1947年に完成し、その後に修正を加えられた曲である。まさにロマン派と前衛の境目にあるような曲である。

ピアノによる「ゲルニカ」。ピカソの「ゲルニカ」にインスパイアされた作品である。1937年のパリ万国博覧会スペイン館に展示された「ゲルニカ」を観たデッサウはすぐさま作曲に取りかかり、翌38年に完成させている。衝撃的な冒頭は予想されるような曲調だが、後半ではミステリアスというか不穏というか、十二音技法を取り入れた静かであるが不安定な曲調が顔を覗かせる。

ハンス・アイスラーは、彼の名を冠するハンス・アイスラー音楽大学の存在によっても有名である。ライプツィッヒの生まれ。家族でウィーンに移住し、独学で音楽を学び始める。シェーンベルクに師事し、ヴェーベルンやアルバン・ベルクらと並ぶ新ウィーン学派の作曲家としてスタート。その後、シェーンベルクとは袂を分かち、ドイツ共産党に入党するなど独自路線を歩み始める。1930年からブレヒトとの共同作業を開始するが、1933年にナチスが政権を取ると亡命を選び、38年にはアメリカに移住。南カリフォルニア大学で教鞭を執り、チャップリン映画の音楽顧問なども務めるようになる。ハリウッド映画の作曲も手掛け、アカデミー賞作曲部門にノミネートされたりもしているが、赤狩りにより国外追放となり、1950年に東ドイツに戻る。その後はベルリン音楽大学の教授などを務めた。

アイスラー作品では、野村七海がピアノ伴奏を務める。

「ユダヤ人相手の娼婦、マリー・ザンダースのバラード」。1935年にニュルンベルク法が成立し、ユダヤ人と非ユダヤ人との婚姻と婚外セックスの禁止が決定する。それまでユダヤ人相手の娼婦として生きてきた女性や法律を破った者は、見せしめとして頭を丸刈りにされ、肌着一枚で首からプラカードをぶら下げられ、市中引き回しの刑に処される。
その様子を描いた曲である。かなり直接的な表現が用いられているが、物価の高騰が同列に挙げられるなど、皮肉も効いている。

「小さなラジオに」。ハリウッドでブレヒトと再会したアイスラーが作曲した歌曲である。ナチスの電撃作戦が成功している様をラジオで聞く悲しみを歌った短い歌である。ラストではピアノが不協和音を奏で、ラジオが壊れる様が描写されている。

2つの悲歌「あとから生まれてくる者たちに」。ブレヒトが自身の人生を省察するかのような詩であり、ブレヒトらしくない言葉で綴られている。生きた時代の不遇を嘆きつつ、未来とそこに生きる人たちへの希望を語っている。
まず、大塚がテキストを朗読してから歌がスタート。単純に美しい曲である。いずれも詩の内容を的確にくみ取った秀歌で、もっと知られていても良いように思う。

ハンス・ガルは、作曲家として以上に音楽学者や教育者、楽譜の校訂者として高く評価されているようである。

ウィーン郊外の村ブルンで代々医者の家系のハンガリー系ユダヤ人の子として生まれる。父がオペラ好きであり、ギムナジウムでは指揮者となるエーリヒ・クライバーと親友であったということもあって、音楽を志す。ウィーン大学で音楽学を専攻し、師であるマンディチェフスキと共にブラームス全集の校訂などを行っている。その後、マインツ音楽院の院長公募試験に合格し、1933年まで院長を務めている。この時代に多くの音楽家を見いだしており、中でもヴィルヘルム・フルトヴェングラーを高く評価していた。

ナチスが政権を奪った当時のヒトラーと間近で会ったことがあり、「こんな奴の政権が長続きするわけがない」と思ったそうだが、予想に反してナチス政権が維持されたため、ユダヤ人であるガルは公職追放となり、ウィーンで指揮者としての活動を始めるが、38年にオーストリアがドイツに併合されると、イギリス・スコットランドのエディンバラに亡命。エディンバラ大学の講師として音楽理論や対位法、作曲などを教えるようになる。音楽書『シューベルト』や『ブラームス』を著しており、ドイツ語圏では名著として知られているという。

97歳と長寿であり、80代で自作のピアノ曲を暗譜で初演するなど、晩年まで軒昂であった。「音楽は美しくなくてはならない」というのが持論であり、メロディーや調整を重視する作風を保ち続けた。

ブレヒトと一緒に仕事をしたことはないようが、同時代の劇作家であるエデン・フォン・ホルヴァートと知り合い、「行ったり来たり」という舞台作品の音楽を手掛けている。

ピアノのための3つの小品。演奏は、前半はピアノ伴奏を務めた家田侑佳が務める。前半は黒の上下であった家田はこの曲では白のドレスで演奏。ウィーンの正統的な音楽性を感じさせるピアノ曲だが、時代を反映して響きの美しさも追求されている。

ラストは、無伴奏チェロのための組曲より第1曲。
ドイツ音楽の祖であるJ・S・バッハを意識して作曲されたものであろうと思われるが、古典的な造形美よりも自由な音楽性と追求しているようにも聞こえる。

アンコールは、マレーネ・ディートリヒが歌ったことで知られる「リリー・マルレーン」が歌われる。ソプラノの藤田果玲は、ピアノに寄りかかり、本を拡げながら、歌詞に出てくる街灯の下にいるような雰囲気で歌った。

ユダヤ人の芸術家は、ナチスによって「退廃芸術」家と名付けられ、祖国を追われ、作品は発禁処分となっている。時を経て、今また、訳知り顔の「正しさ」が跳梁跋扈し、表現は制限・規制され、排除の理論が大手を振って歩くようになり、芸術は本来持っていた豊かさを奪われつつある。
ブレヒトやユダヤ人作曲家達が残した作品は、高踏的な人々が好むものでは決してなかったが、そこには未来を希求し、分け隔てのない世界を目指した「心」がある。ブレヒトが尊敬したベンヤミンは「アクチュアリティ」の重要さを唱え、20世紀ドイツ最大の詩人であるパウル・ツェランは「芸術には日付がある」として同時代的であることを追求した。100年ほど前のラジカルではあるが、それは常に「今」を照射している。

良質のコンサートであり、気分が良いので地下鉄に揺られようという気分にならず、伏見から名古屋駅まで歩く。



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2018年9月20日 (木)

観劇感想精選(255) 劇団京芸 「進め! ウルトラ整備隊」

2009年1月30日 伏見区納所の京芸DDシアターにて観劇

京都市の南端である伏見区納所にある京芸DDシアターで、劇団京芸の公演「進め! ウルトラ整備隊」を観る。石沢克宜:作、河口琢磨:演出。
富士山麓、青木ヶ原の樹海の中に作られた地球防衛軍極東基地、ウルトラ警備隊の事務所が舞台。このウルトラ警備隊というのが、天下り先や防衛費削減のために設けられた部署であり、宇宙からの攻撃に備えるという名目はあるが、当然ながら仕事は全くない。世間からは「ウルトラ整備隊」などと陰口をたたかれていた。
そんなある日、ウルトラ警備隊の事務所に、「自分は宇宙人だ」と名乗る男が現れて……。

ちょっと風変わりなファンタジー、いやファンタジーとリアルの中間に立ったような独特のテイストを持った芝居。
京芸DDシアターは新劇の劇団である劇団京芸の稽古場であり、キャパは狭い。新劇のハキハキした発声法は、このキャパには不向きに感じたが、劇自体は面白かった。
自らを宇宙人だという老人、山本コウタロウ(劇団京芸の代表である藤沢薫が演じた)のキャラ設定が絶妙のスパイスになっていたと思う。

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2018年9月 3日 (月)

観劇感想精選(254) 舞台「野球」~飛行機雲のホームラン~

2018年8月25日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後5時から梅田芸術芸場シアター・ドラマシティで舞台「野球」~飛行機雲のホームラン~を観る。作・演出:西田大輔。音楽:笹川三和。出演:安西慎太郎、多和田和弥、永瀬匡、小野塚勇人、松本岳、白又敦、小西成也、伊崎龍次郎、松井勇歩、永田聖一朗、林田航平、村田洋二郎、田中良子、竹内諒太、本間健大、書川勇輝、秋山皓郎、今井直人、田上健太、藤木孝。野球監修:桑田真澄。

第二次大戦中の中学野球(現在の高校野球に相当)を舞台に戦争と友情を主題にした群像劇が繰り広げられる。

伏ヶ丘商業学校の唐澤静(多和田和弥)と会沢商業学校の穂積均(安岡慎太郎)は小学校時代の友人にしてライバル。唐澤は甲子園の常連校である伏ヶ丘商業に進み、穂積は敢えて伏ヶ丘商業を避け、会沢商業に進んだ。1944年、戦争の激化のため、全国中等学校野球選手権は2年連続の中止が決定。予科練に進んだ野球部員は唐澤の神風特攻前日にかつての所属学校野球部ごとに分かれ、試合に臨む。南海軍(南海ホークス。英語が敵性言語であるとしてニックネームとしての使用も禁止されたための措置)に進むことが決まっていた唐澤だが、夢は絶たれた。肘を傷めていた唐澤だが、マウンドに上がるのは今日が最後であり、全力で投球する。

立ち上がりが不安定であるが、ストレートの威力は沢村栄治に匹敵するといわれる穂積。穂積が会沢商に進むきっかけとなった先輩の岡光司(永瀬匡)、併合当時は日本人とされたが差別も受けてきた朝鮮半島出身の伏ヶ丘・菱沼力(小野塚勇人)、唐澤の姉で新聞記者だったが反戦記事を書き続けたために解雇となった唐澤ユメ(田中良子)、ユメと共に狂言回しの役割を受け持つ海軍中佐の遠山貞昭(藤木孝)、新聞記者になること夢見て唐澤に関する記録を書き続けていた伏ヶ丘の三塁手・堂上秋之(松井勇歩)、会沢商業の監督に指名されるが野球には疎い街軍中尉の菊池勘三(名前の似ている菊池寛にちなんであだ名は「父帰る」である。演じるのは林田航平)らが時系列を飛ばす形でドラマを構成する。舞台後方には黒板状のスコアボードがあり、試合が進むごとに、出演者がチョークで得点を記していく。

八百屋飾りの舞台。マウンド、各塁、バッターボックスなどは特定の場所に置かれず、状況によって次々とフォーメーションを変えていく。客席通路も使用し内外野の守備が客席で行われることもある。

ボールは使用するが、投手役の俳優が直接投げることはない。なお、開演前に「本日は演出としてボールを使用いたします。ボールが客席に飛び込むことがあるかも知れませんが、ボールはスタッフが回収に伺いますので、くれぐれも客席に投げ返さないようお願いいたします」という影アナがあった。当然ながら劇場でそんなアナウンスを聞くのは初めてである。

PL学園時代に甲子園での高校通算最多勝記録となる20勝を挙げ、読売ジャイアンツとピッツバーグ・パイレーツで投手として活躍した桑田真澄が野球監修を手掛けており、そのためピッチャーの二人は桑田によく似た仕草をする。特に穂積均役の安西慎太郎は前屈みになったサインの見方、ワインドアップから右肩を下げながらのテイクバック、上体を捻って打者に背中を見せるところなどが桑田のフォームに瓜二つである。腕の使い方は桑田よりも元カープの池谷公二郎に似ているが、安西は世代的に池谷を知らないはずなので、たまたま似たのだと思われる。唐澤役の多和田和弥はサイン交換時のポーズは桑田や穂積と一緒だが、その後は違う。

俳優陣で私が知っているのはベテランの藤木孝だけ(最も重要なセリフを与えられているのも彼である)。若い俳優達に関してはほとんど知らないが、開場時間を予定より15分早めて行われたグッズ販売に女性が長蛇の列を作っており、相当な人気があることがうかがえる。後で調べたところミュージカル「テニスの王子様」の出演者が多いことがわかった。
私自身は「桑田真澄が野球監修をするなら」ということで観に行ったのだが、客席に男性はほとんどいない。劇場と球場に通う層はどうやら重なっていないようである。

戦時ということで野球自体が敵性競技として疎まれており、使用語はストライクが「良し!」、ボールが「駄目!」、ファールが「圏外球」、セーフが「安全」といった風に日本語に直され、アラビア数字も駄目で背番号は漢数字で書かれている。グローブも戦前戦中のものは現在と大きく異なるのだが(当時はスポットの浅い握るタイプのもの。挟み込むタイプの現在のものとは違い、片手を添えて両手で捕らないと取りこぼしてしまうことになる。日本では今でも「ボールは両手で捕る」が常識化しているのはこのためである)、客席にそこまでこだわる人はいないのと、ドラマ進行状に特に問題とはならないので、現代タイプのものを使用している。

漫画原作も手掛けるという西田大輔の本と演出はスピード感と視覚効果を大事にした上で外連味にも富むもの。一貫したストーリーよりもシャッフリングされた矢継ぎ早の展開を重視しており、各々のエピソードを絡めてラストへ持って行く形はラヴェルの「ボレロ」のようである。客席が女性中心ということで客席の各所からすすり泣きが聞こえ、上演としてはかなりの成功だと思える。

上演後は毎回アフタートークがあるようで、今日も永田聖一朗と伏ヶ丘商業の生徒達によるトークが行われる。天才エース・唐澤静役の多和田和弥は実は野球が大嫌いであったことを明かす。子供の頃のキャッチボールが顔に当たったことがトラウマになっており、野球が好きな人の気持ちが理解出来ないほどであったそうだが、この舞台をきっかけに野球が好きになったそうである。



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2018年8月20日 (月)

観劇感想精選(253) 「大人のけんかが終わるまで」

2018年8月10日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「大人のけんかが終わるまで」を観る。作:ヤスミナ・レザ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、上演台本:岩松了、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。出演:鈴木京香、北村有起哉、板谷由夏、藤井隆、麻実れい。

「偶然の男」、「アート」などで知られるヤスミナ・レザ。ペルシャ系ユダヤ人の父親とハンガリー系ユダヤ人の母親との間に、パリに生まれ、育った女性劇作家である。マクロン大統領も学んだパリ第10大学(ナンテール大学)で演劇と社会学を専攻した後、ジャック・ルコックの演劇学校で学び、舞台俳優としてキャリアをスタート。俳優としては大成しなかったが、1987年に初めての戯曲である「埋葬後の会話」でフランス最高の戯曲賞であるモリエール賞最優秀劇作家賞を受賞。1994年に発表した「アート」で世界的な名声を得ている。翌年、「偶然の男」を発表。「大人のけんかが終わるまで」は、2015年にベルリンで初演され、現時点ではレザの最新作となっている。原題は「Bella Figura(ベラ・フィギュラ」。「表向きはいい顔をする」「取り繕う」「毅然としている」という意味だそうだ。

開演前には、ヴィヴァルディの「四季」のピアノ編曲版が流れており、本編でもヴィヴァルディの音楽が要所要所で用いられる。

フランスの地方のレストランとその前の駐車場が舞台である。薬剤師助手のアンドレア(鈴木京香)と鏡の製造会社の社長であるボリス(北村有起哉)は不倫関係にある。ボリスはパトリシアという妻との間に二子がいて、一人は音楽院に入ったが、もう一人はフリーター(フランスにはアルバイトという概念がなく、パートタイムであっても正社員なので、日本のフリーターとは違ってフラフラしているだけなのだろう。フランスの若年失業率は極めて高い)である。アンドレアには9歳になるソフィーという娘がいるが、離婚しており、シングルマザーである。同じ薬局に勤める26歳の男性ともいい仲になろうとしているそうだ。
アンドレアとのデートにボリスが妻が薦めるレストランを選んだために、アンドレアは不機嫌である。レストランの駐車場でいがみ合う二人。更にボリスが事業を拡げようとして失敗し、間もなく破産することが判明する。

ボリスが車を出そうとバックした時に、誤って老婦人のイヴォンヌ(麻実れい)をはねてしまう。幸い、怪我はなかったが、今日が誕生日だというイヴォンヌと、イヴォンヌの息子であるエリック(藤井隆)、そしてエリックの妻のフランソワーズ(板谷由夏)と共にレストランに戻ることになる。フランソワーズとボリスの妻であるパトリシアとが幼い頃からの友人ということで、イヴォンヌの誕生日祝いである食事につきあうことにしたのだ。エリックとフランソワーズはまだ籍は入れておらず、いわゆるフランス婚状態である。イヴォンヌは認知症を患っており、言動が子供のようである(ただ観察眼は鋭い。ボリス曰く「三人の中で一番まとも」)。少しだけ同席してすぐに帰るつもりだったボリスとアンドレアだが、ヘリコプター会社の法務で働いているというエリックに破産回避の方法を聞いたりしているうちについつい帰りそびれてしまい……。

エリックはロマンティストで人は良いのだが単純で鈍いところがある。一方のフランソワーズはアンドレアがボリスの愛人であることをすぐに見抜き、親友のパトリシアのためにアンドレアに喧嘩を吹っかける。アンドレアは、薬局に勤めているのをいいことに(?)多数の薬を持ち歩いており、特に精神安定剤は何かあるごとに口にするという沙粧妙子状態(わかるかな?)で、心理的に危ういことがわかる。

「偶然の男」や「アート」でもそうだったが、ヤスミナ・レザの本はとにかくセリフが多い。登場人物が全員、饒舌で細かいところまで語る。ただ核心の部分は皆、明言を避けるのである。
時間が経つごとに、皆の心が安定し、今ある状況を受け入れるようになる。己の弱さに関しても、恋愛に関しても。素直にハッピーエンドになりそうな展開だったのだが、ラストは生きることの不安と人間存在の不安定さに関するセリフで締められる。単なる色恋沙汰を描いているわけではない。考えれば、脳天気なエリックを除けば、登場人物全員が危機に面している。

鈴木京香出演の舞台を観るのは3度目。野田秀樹の「カノン」は渋谷のシアターコクーンで、ジャン・コクトー作・三谷幸喜演出の「声」は同じく渋谷のスパイラルホールで観ているため、関西での舞台を観るのは初めてになる。今年で50歳を迎えた鈴木京香。この世代でアンドレアを演じられる女優としてはベストの配役であるように思う。事実婚状態が伝えられながら、いつまで経っても結婚しないというところもフランス的である。鈴木京香にはある意味、ジャンヌ・モローにも通じるセンスの持ち主であるように感じる。

私と同い年の北村有起哉。2002年に新国立劇場小劇場で観た「かもめ」のトレープレフ役が今も印象的だが、色気のある男の役も様になるようになってきた。

コミカルなイヴォンヌ役を演じる麻実れい。アンドレアやボリスよりもある意味重要な役であり、麻実の貫禄の演技が生きている。

いい人なのだがどこか抜けているエリックを演じた藤井隆、夫と義母の間で疲弊しているところのあるフランソワーズを演じた板谷由夏も持ち味を発揮した演技であった。



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2018年8月18日 (土)

観劇感想精選(252) オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズ(オックスフォード大学演劇協会) 「十二夜」

2018年8月11日 京都劇術劇場春秋座にて観劇

午後3時から、京都芸術劇場春秋座で、オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズ(オックスフォード大学演劇協会)の来日公演「十二夜」を観る。
オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズは、オックスフォード大学のドラマ・ソサエティであるオックスフォード大学演劇協会のメンバーからなるシェイクスピア作品に特化したツアーカンパニーである。メンバーはスタッフも含めて全員オックスフォード大学の学生で構成されており、出身者には、「Mr.ビーン」のローワン・アトキンソン、「ブリジット・ジョーンズの日記」のヒュー・グラント、「博士と彼女のセオリー」のフェリシティ・ジョーンズらがいるそうだ。

オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズは20年前から来日公演を行うようになっており、来日時には毎回、蜷川幸雄の出迎えを受けていたそうで、今回は蜷川没後としては初めての来日となるようだ。

イギリス最古にして最高の大学として知られるオックスフォード大学。日本でいう大学とは違い、オックスフォード大学という単一の大学があるわけではなく、39あるカレッジの集合体がオックスフォード大学という総称を名乗っている。オックスフォードの学生は、二つの分野を専攻するのが一般的である。

今回の演出は、セント・ヒューズ・カレッジで英語学と英文学を学ぶフレッド・ウィーナンドが担当。ウィーナンドは物語の舞台を光と影が一体になった1960年代に変更するという読み替えを行っている。日本でもジョン・ケアードが「お気に召すまま」の時代設定をアメリカの1960年代に変えた上演が行われたが、発想自体は完全に一緒である。イギリス人やアメリカ人にとっては60年代は特別な時代であるようだ。

今回の上演の特徴は、道化のフェステを女優(マートン・カレッジで英語学と英文学を学ぶスザンナ・タウンゼント)が演じるということ。ボーイッシュな雰囲気を出しているが、女性が道化役というのは珍しい(ただ史実はともかくとしてくオリヴィアの道化であるため、同性であったとしてもおかしくはないように思える)。

英語上演、日本語字幕付き。字幕は新たに作ったのではなく、白水社から出ている小田島雄志訳のものを使用している。小田島雄志の翻訳は映画の字幕とは違って文字制限ありの中で訳されたものではないため、字幕はめまぐるしく切り替えられ、中には0コンマ何秒で切り替わって読めないということもあった。

ギリシャのイリリアを舞台に、セバスチャンとヴァイオラの双子が嵐に遭ったことから起こるスラップスティックな喜劇が繰り広げられる。
音月圭が主演した「十二夜」では、ヴァイオラとその男装版のシザーリオ、そしてセバスチャンの三役を音月一人で演じる演出が施されていたが、今回はヴァイオラ&シザーリオとセバスチャンは別の俳優が演じている。

嵐に遭い、兄のセバスチャン(リンカーン・カレッジで考古学と古代史を学ぶローレンス・ベンチャーが演じる)とはぐれてしまったヴァイオラ(ユニバーシティ・カレッジで英語とロシア語を学ぶデイジー・ヘイズが演じる)は、生活のために男装して名をシザーリオと変え、土地の実力者であるオーシーノ公爵(セント・ピーターズ・カレッジで神学と東洋学を学ぶマーカス・ナイト=アダムズが演じる)に小姓として使えることにする。シザーリオとことヴァイオラはオーシーノ公爵に恋をする。そのオーシーノ公爵は伯爵令嬢であるオリヴィア(マグダレン・カレッジでスペイン語とイタリア語を学ぶクロエ・ディラニーが演じる)に夢中であり、シザーリオを恋の伝令としてオリヴィアのもとに使わすのだが、オリヴィアはシザーリオを本物の男だと思い込んで恋してしまう。恋の一方通行である。

一方、オリヴィアの叔父であるサー・トービー(クィーンズ・カレッジで歴史と英語を学ぶジョー・ピーテンが演じる)とサー・アンドリュー(セント・ジョンズ・カレッジで歴史と政治学を学ぶヒュー・タッピンが演じる)は、オリヴィアに執事として使えるマルヴォーリオ(クライスト・チャーチでイタリア学を専攻するジョニー・ワイルズが演じる))の態度が大きいため、反感を抱いている。トービーとアンドリューは侍女のマライア(キーブル・カレッジで古典考古学と古代史を学ぶケイト・ウエアが演じる)や召使いのフェービアン(ハートフォード・カレッジで英語学を専攻するアダム・グッドボディが演じる)を巻き込んで、マルヴォーリオにぎゃふんと言わせようと画策する。更には道化のフェステも仲間に加わり……。

今日は桟敷席と2階席は用いられていない。1階席の後ろの方にイギリス人の若者が固まっていて、普通のシーンでもドッカンドッカン受けているのだが、日本人の客は私も含めてどこが笑えるのかよくわからず、温度差がある。ドタバタのシーンや意図的なオーバーアクションの演技では国籍の差なく笑いが起こる。
衣装や装置も1960年代をイメージしたサイケデリックなものを使用。一般的なシェイクスピア上演とは異なる格好をしているが、若者達のエネルギーを表すのに効果的であったように思う。

英語の台詞回しに関しての巧拙は私には全くわからないが、動きや身のこなしについては一定の水準に達している。日本の俳優の場合、演技中の両手の置き方が上手くいかない場合が多いが、イギリス人でも若者達が演じる場合は同じ傾向があることがわかる。向こうは話しながら身振り手振りをつけるのが一般的なので、日本人俳優ほどには目立たないけれども。
道化のフェステ役のスザンナ・タウンゼントは美しい歌声の持ち主であり、これを聴くと、「フェステ役を女性にするのも悪くない」と思える。



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2018年8月13日 (月)

観劇感想精選(251) 「アンナ・クリスティ」

2018年8月4日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後5時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで「アンナ・クリスティ」を観る。近年、再び注目を浴びつつあるアメリカの劇作家、ユージン・オニールの初期作品の日本初演である。テキスト日本語訳:徐賀世子、演出:栗山民也。出演:篠原涼子、佐藤隆太、たかお鷹、立石涼子、原康義、福山康平、俵和也、吉田健悟。

「アンナ・クリスティ」は1921年にピューリッツァー賞を受賞している。1930年にグレタ・ガルボ主演で映画化されており、マリリン・モンローが自身の初主演舞台に選んだ作品でもあるそうだ。

ニューヨークの海岸近く、サウス通りの「坊さんジョニー」という酒場。スウェーデン系のクリス・クリストファーソン(たかお鷹)が、娘のアンナ・クリストファーソン(アンナ・クリスティの名で呼ばれる。演じるのは篠原涼子)との再会を待っている。クリスとアンナは、アンナが5歳の時に別れてから一度も会っておらず、15年ぶりの再会となる。

生まれてからずっと船乗りとして生活してきたクリスは家庭を顧みず、妻が亡くなってからもアンナをミネソタ州の親戚ところに預けっぱなしにしていた。アンナは数年前からミネソタ州のツインシティーの一つ、セントポールで暮らしていたという。子守をやって過ごしていると手紙には書いてあった。

クリスは家代わりにしているはしけ船に老いた商売女のマーシー(立石涼子)を住まわせていたが、娘に会う手前、出て行って貰いたいとお願いをする。

クリスが食事に出ている間にアンナがやって来る。マーシーは一目でアンナと気づくが、自身のことは「クリスとはたまに会う」間柄ということにする。共に酒を飲むうちに、アンナは自身の身の上話を始める。ミネソタの田舎では奴隷のように扱われ、親戚の男に犯されたこと、家を飛び出してセントポールに移ってからは子守の仕事に就くが、限界を感じ、売春婦へと身をやつしたこと。何もしてくれなかった父への愚痴。
やがて対面したクリスとアンナ。クリスはアンナのこれまでを全く知らず、想像しようともしない。二十歳になったアンナにクリスは「陸の男」と結婚するように言う。自分のような「海の男」は駄目だと。
だが10日後、ボストンの港に移った親子のところに、難破船が近づく。難破船に乗っていたアイルランド人のかま焚き係であるマット・バーグ(佐藤隆太)とアンナとは一目で恋に落ちるが、マットはクリスが嫌悪する「海の男」であり……。

「アンナ・クリスティ」というタイトルであり、クレジットにもタイトルロールである篠原涼子の名前が一番上に来るのだが、本当の主役というべき存在はアンナの父であるクリスであるように思われる。好き勝手に生きてきて娘のことを一度も顧みなかったが男の贖罪の物語ともいえる。もっとも自分に原因があることでもクリスは「海の運命」のせいにしてしまって正面から向き合おうとしないというダメ男の部分があるのだが。ユージン・オニールが自身と自身の父親を投影したのだろう。
今日はパンフレットを買ったのだが、実際、「アンナ・クリスティ」は初演時のタイトルは「クリス・クリストファーソン」だったそうで、2011年にはロンドン・ウエストエンドでジュード・ロウの出演で話題となったとあるから、イギリスでの上演はクリスが主役という解釈で行われたのだろう。

13年ぶりの舞台出演で、初の舞台単独主演となった篠原涼子。テレビドラマや映画ではヒット作をいくつも持っているが、今回はセリフが浮き気味であり、的を上手く射抜けないもどかしさがある。表情や佇まいは魅力的なのだが。やはり映像の人なのか。

日大芸術学部出身で、デビューが舞台だったという佐藤隆太。ワイルドで腕力だけが自慢のマットを飾り気のない演技で見せる。マットはクリスと相似形だけに噛み合った演技をする必要があるのだが、上手くはまっていたように思う。

真の主役ともいうべきクリスを演じた、たかお鷹。老いた放蕩児の悲哀をそこはかとなく感じさせる演技が良かった。

かつての自分や娘との和解を得たクリスだが、目の前に広がる霧に不鮮明な未来を見いだしたところで芝居は終わる。

今日はアフタートークがある。出演は、篠原涼子、佐藤隆太、たかお鷹の主要キャスト3人。司会は朝日放送の桂紗綾(かつら・さあや)アナウンサーが担当する。
「ほっとする時」、たかお鷹は「家で家内と二人で飲んでいる時」(「そう言えって言われてます」だそうだ)、篠原涼子は「台所」。水が流れる場所が好きだそうだ。阪神タイガースファンで日大櫻丘高校時代は野球部に所属しいた佐藤隆太は「甲子園」だそうで、明日から夏の全国高等学校野球選手権大会が甲子園で始まることから、「体調に気をつけて」と言うも、「ここで言うことじゃないですね」とも話していた。
子どもの頃の夢について、たかお鷹は「家具職人」と答え、「実は今でも夢を諦めていない」と語る。篠原涼子は「保母さんかメイクアップアーティスト」で、娘が生まれてから保育園やっていた「保母一日体験」のようなものに参加したことがあるそうだが、「無理だと思いました」とのこと。佐藤隆太は「先生」が子どもの頃の夢で、「英語教師になりたい」と本気で思ったことが一時期あったそうである。



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2018年8月 8日 (水)

コンサートの記(410) マルク・ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢第405回定期演奏会 フィルハーモニー・シリーズ ドビュッシー 歌劇「ペレアスとメリザンド」金沢公演(ステージ・オペラ形式)

2018年7月30日 金沢駅前の石川県立音楽堂コンサートホールにて

午後6時30分から、金沢駅前の石川県立音楽堂コンサートホールで、オーケストラ・アンサンブル金沢の第405回定期演奏会 フィルハーモニー・シリーズ 歌劇「ペレアスとメリザンド」を観る。ステージ・オペラ形式での上演。
原作:モーリス・メーテルリンク(メーテルランク)、作曲:クロード・ドビュッシー。演出:フィリップ・ベジア&フローレン・シオー(仏ボルドー国立歌劇場との共同制作で、2018年1月のボルドー公演に基づく上演)。マルク・ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢の演奏。ミンコフスキは今年の9月からオーケストラ・アンサンブル金沢の芸術監督に就任する予定で、そのための記念公演の一つである。出演は、スタニスラフ・ドゥ・バルベラック(テノール。ペレアス)、キアラ・スケラート(ソプラノ。メリザンド)、アレクサンドル・ドゥハメル(バリトン。ゴロー)、ジェローム・ヴァルニエ(バス。アルケル)、シルヴィ・ブルネ=グルッポーソ(メゾ・ソプラノ。ジュヌヴィエーヴ)、マエリ・ケレ(アキテーヌ・ユース声楽アカデミー・メンバー。イニョルド)、ジャン=ヴァンサン・ブロ(医師・牧童)。合唱・助演:ドビュッシー特別合唱団。映像:トマス・イスラエル。

フランス語上演・日本語字幕付きである(日本語訳:増田恵子)。なお上演前にロビーコンサートが行われており、ドビュッシーの「シランクス」などが演奏された。

舞台は四段構え。通常のステージの中央のオーケストラ・アンサンブル金沢とミンコフスキが陣取り、ステージの前の客席部分が取り払われていて、ここも使用される。ステージ上手はやや高くなっており、舞台奥は更に高くなっていて、ここがメインの演技の舞台となる。その背後に紗幕があるが、メリザンドが髪を下ろすシーンなどではひときわ高いところにある舞台が光で透けて現れる。
オーケストラのいる舞台の前方にも紗幕が垂れており、ここにも映像が映る。ラストのシーンを除いて、映像は基本的にモノクロームであり、人物の顔や目のクローズアップが頻用される。

ドビュッシー唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」。メーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」自体は劇付随音楽を複数の作曲家が手掛けており、フォーレ、シベリウス、シェーンベルクのものがよく知られている。1893年にパリで初演されたストレートプレーの「ペレアスとメリザンド」(メリザンド役はサラ・ベルナール)を観たドビュッシーはその魅力に取り憑かれ、すぐにオペラ化を計画。メーテルリンクの許可も得る。オペラが上演されるのはそれから8年後のことだが、メーテルリンクはメリザンド役に自分の愛人を起用するように迫った。ドビュッシーは音楽的素養のない人間をヒロインに抜擢することを拒絶。かくして裁判沙汰にまでなり、メーテルリンクの憎悪が極限に達した中で初演されるという、なんともドビュッシーらしい展開を見せた。独自のイディオムによる音楽が用いられたということもあり(そもそもアリアらしいアリアはほとんどない)、初演は不評に終わるが、その後10年で100回もパリで上演されるなどヒット作となっている。

メーテルリンクの戯曲では、ヒロインのメリザンドは実は水の精(オンディーヌ)であることが冒頭で示唆されているのだが、ドビュッシーは冒頭を全てカットしてしまったため、意味が通らなくなっているシーンもある。メリザンドが水の精(誤変換で「ミズノ製」と出た)だとすれば、ペレアスは水の世界へと導かれたことになり、水の精と人間の間に生まれた子供が未来を司るということになる。

いつかはわからない時代、アルケルが治めるアルモンド王国での物語。狩りの帰りに森の中で迷ってしまった王子のゴローは、泉のほとりで泣く少女を見つける。少女の名はメリザンド。泉の底にはメリザンドが落とした冠が輝いている。ゴローはメリザンドを連れて城に帰ることにする。ゴローはメリザンドとの結婚を望み、王のアルケルはこれを許す。
ゴローの弟であるペレアスは、船で旅立とうとしているのだが、その前にメリザンドと共に城内にある「盲人の泉」を訪れる。この泉にメリザンドはゴローから貰った指輪を落としてしまうのだが、これが悲劇を招くことになる。

物語造形からしておぼろな印象だが、噛み合わないセリフも多く、ミステリアスな戯曲である。
映像との相性も良く、お洒落だが仄暗い闇の中を進んでいくような感触の上演となっている。

マルク・ミンコフスキ指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢は極上の演奏を展開。音の輪郭がクッキリしており、密度も濃く、上品で上質のソノリティーを保ち続ける。
歌手達も大健闘であり、舞台装置も演出も見事だ。チケットを取るのが遅かったため3階席の券しか手に入らなかったが、石川県立音楽堂コンサートホールの響きは素晴らしく、少なくとも音に関してはステージから遠いこともハンデにはならなかった。
カーテンコールの最後でミンコフスキはスコアを掲げて作品への敬意を示す。極めてハイクオリティーの「ペレアスとメリザンド」と観て間違いないだろう。

音楽関係者も多数駆けつけたようで、終演後のホワイエには、野平一郎や池辺晋一郎といったオーケストラ・アンサンブル金沢ゆかりの作曲家の姿も見られた。



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2018年8月 7日 (火)

観劇感想精選(250) 「触覚の宮殿」

2018年7月27日 京都・東九条のstudio seeboxにて観劇

午後7時30分から、南区にあるstudio seeboxで、あごうさとし作・演出による「触覚の宮殿」を観る。太田宏(青年団)、辻本佳、松本杏菜による三人芝居。

studio seeboxはマンションの3階にある小スペースである。

照明は抑えめであり、セリフの99%以上は太田宏が発し、松本杏菜のセリフは二つだけ。辻本佳は言葉を発しない役である。

太田宏の一人語りで話は進む。あごうさとし(石見国吾郷氏の家系)の先祖である三善氏にまつわる物語とあごうさとしが子どもの頃の思い出の二つが瞬時に入れ替わるというスタイルである。

吾郷氏の祖である三善氏は百済からの渡来人。三善氏は百済系の渡来人と漢人系渡来人の二つがあり、現在まで続いているのは漢系の渡来人の家系らしいのだが、百済系と漢系が混じったという説もあり、今回の芝居では百済系一つに纏められている。百済系三善氏の最重要人物は大学頭にまで出世し、菅原道真のライバルとして有名で、一条戻橋の名の由来となる蘇生伝説でも知られる三善清行であるが、今回は鎌倉幕府の初代問注所執事となった三善康信(一応、漢系渡来人の家系とされる)が主人公になっている。三善康信は算術を生業とする下級公家の家の生まれである。

三善康信の母は源頼朝の乳母の妹であり、三善康信も幼い頃から頼朝を知っていたのだが、頼朝には可愛らしさよりもタナトスのようなあるいはサディスティックな願望を抱いたことが語られる。
一方、あごうさとしの話は、5歳の時に入院した時の記憶に始まり、10歳の時に父親の仕事の都合で香港に渡ったときのこと、バブル期の日本人は香港で傍若無人だったこと、12歳で香港の浮浪者に襲われそうになった時のことなどが語られる。入院した時に隣のベッドにいたのは喘息持ちのリョウタという青年であったこと、香港はまだイギリス統治下であり、クイーンズイングリッシュ(イギリス英語)が優勢で、アメリカの英語の発音をするとイギリス人の家庭教師に怒られたこと、中国語も北京語は美しく広東語は汚いとされていたことなどが語られ、あごう少年は、「東京の言葉は綺麗で、関西の言葉は汚いということか」と反発を覚える。香港のイギリス政府は日本人である吾郷ファミリーにも指紋押印を求めたそうで、東洋人は生まれながらにして犯罪者のような扱いだったらしい。

三善康信は、治承・寿永の乱で一貫して頼朝・義経方を支持、兄弟が対立した折は頼朝に与して、武家社会の到来に貢献している。下級公家の出では一大出世は見込めず、新しい武家の世で出世することに懸けたのだ。
康信は、「玉葉」で知られる関白・九条兼実とも交流。九条兼実はseeboxにほど近い九条殿を本拠としていたが、三善康信は九条殿に立ち寄った帰り道、鴨川沿いで一人の賤民を見かける。その男は自らの歯を抜こうとしていた。康信は男の姿に天台座主(セリフには一切出てこないが、九条兼実の実弟で「愚管抄」を著したことで知られる慈円である)よりも遥かに「聖人」に近いものを感じる。
また康信は、法然とも出会う。当時、「知恵第一」と呼ばれ、都においては尊きも貧しきも知らない者はいないと言われた法然坊源空の弟子の一人に康信は欲情する。「男と男が交わってもいいものか」と考える康信に法然は「結縁せねばならないのなら結縁するがよろしい」と説いた。

昭和の終わりは、香港では特に大きくは扱われなかった。そして栄華を誇った公家社会にも終わりが来る。寿永の乱が終わった時に、元号は文治に変わった。武断ではなく文治政治を続けたいという後白河法皇の願望が込められていたのだが、頼朝は納得せず、大軍を率いて上洛。九条兼実や後白河法皇と会談し、諸国守護権が認められ、元号は建久に変わる。かくして新しい世の中が訪れる。

ラストは松本杏菜の、「天皇は象徴として寿ぐ」という意味のセリフで閉じられる。

あらすじを見るだけで、大体のことは把握できるという内容である。

東九条を中心とした京都演劇新時代への意気込みを語る作品であるのだが、テイストが1970年代風であるため、アクチュアルな感じがしないのが難点といえるだろう。
なお、狂言の台詞回しがあるのだが、大蔵流の茂山あきらに指導しても貰ったことが無料パンプレットに記されている。

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2018年8月 2日 (木)

観劇感想精選(249) 市村正親主演「キーン」

2008年10月23日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター中ホールにて観劇

西宮の兵庫県立芸術文化センター中ホールまで、「キーン」を観に行く。午後6時30分開演。
ジャン・ポール・サルトルのテキストを小田島恒志が新たに訳したものを使用。演出は今年29歳の若手イギリス人演出家であるウィリアム・オルドロイド。タイトルロールを演じるのは市村正親。出演は他に、須藤理彩、高橋惠子、鈴木一真、西牟田恵ほか。
須藤理彩や西牟田恵の舞台を観るのは久しぶりである。

18世紀から19世紀にかけて活躍した、実在の英国人名俳優、エドマンド・キーンを主人公としたサルトルの代表的戯曲。
天下の名優でありながら、実生活では破綻者であったキーン。女ったらしで、派手好きで、金もないのに豪華なことを好み、巨額の借金を重ねていた。

狂気の名優、キーンの演技と実生活の境界線はぼやけており、それを出すために、テキストは幾層にも別れたリアルの間(意識的演技と無意識的演技と意識的日常と無意識的日常)を行き来し、役者と役の関係を引き離す演出が試みられていて、最後はセットが取り除かれ、役者達も衣装ではなく稽古着でカーテンコールに登場する。
私も、観客の役を観劇の間中続け、上演終了後に個人に戻るような感覚を味わった。

役者では市村正親と須藤理彩が良かった。市村正親の破滅的性格描写、須藤理彩の愛らしさ、ともに期待を裏切らない出来だった。

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2018年7月24日 (火)

観劇感想精選(248) 兵庫県立ピッコロ劇団第61回公演「蒲団と達磨」

2018年7月18日 尼崎・塚口の兵庫県立ピッコロシアター大ホールにて観劇

午後7時から、尼崎・塚口の兵庫県立ピッコロシアター大ホールで、兵庫県立ピッコロ劇団第61回公演「蒲団と達磨」を観る。作・演出:岩松了。
10年前からピッコロ劇団の代表を務める岩松了が30年前の自作を演出上演する。
1988年に初演された「蒲団と達磨」(当時は副題に「お父さんの性生活」というものがついていたそうだ)。1989年の岸田国士戯曲賞受賞作である。冒頭部分を「良い書き出しの例」として平田オリザが自著で挙げていることから知名度は高い。

出演:森好文、樫村千晶、平井久美子、堀江勇気、野秋裕香、山田裕、杏華、菅原ゆうき、今仲ひろし、風太郎、中川義文、岡田力。

ピッコロシアター大ホールの入り口にピッコロシアターの館長である大西裕士とピッコロ劇団代表の岩松了が立っており、お出迎えのお辞儀などをしていた。
私のようにチケットぴあの券で入る人は少数派のようで、取り置きチケットの机の前に人が並んでいる。チケットもぎりも今日は木全晶子さんらピッコロ劇団員が行っていた。

一人娘の結婚披露宴を終えた夜、夫(役名は野村春樹。高校の生物の先生である。演じるのは森好文)と妻(樫村千晶)が蒲団(田山花袋の「蒲団」は念頭に置いておいていいだろう)の上に座っている。背後には送迎の運転手(山田裕)が後ろを向いて寝転んでいる。
妻がお茶を入れ、二人でお手伝いの水谷(杏華)などのことなどを話している。ちなみに一番重要な役のはずの一人娘は一切舞台に登場しない。また夫妻の会話に登場する母親も姿を現すことはない。
夫の妹である久子(平井久美子)、妻の弟である和樹(堀江勇気)とその妻の時江(野秋裕香)なども集い、普段は心の奥に秘めている感情が不意に表に現れたり……。

会話劇であり、会話の情報量が多い。ただピッコロ劇団の団員は比較的抑えた発声を行っているため、肝心の場面でのセリフが上手く聞き取れないという憾みがある。
夫婦の部屋にはなぜかはわからないがカラオケの装置がある。1988年当時に使われていたものが復元されているのだが、モニターはなく、テープを差し込んで、歌詞本を見て歌うシステムである。ラスト近くで無口なコンちゃん(苗字は近藤らしい。演じるのは今仲ひろし)がこのカラオケを歌うシーンがある。コンちゃんの友人である新倉(風太郎)が「無口な奴の歌は本気だからな」と言うが、歌ったことでコンちゃんの感情のたがが外れてしまったことがわかる。
お堅い夫の秘密が露見したり、妻の前夫の小松(岡田力)が訪ねてきたり、久子が胸に秘めているものがさりげなく示されたりと、いくつかの大きな山のようなものはあるのだが、全体を通した起伏のようなものは抑えられており、ありがちな日常に波立ったちょっとした波紋のようなものを描く小津映画的手法が採られている。



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