カテゴリー「演劇」の126件の記事

2008年12月 2日 (火)

観劇感想精選(55) プロペラ犬 「マイルドにしぬ」

2007年12月8日 大阪・梅田のHEPホールにて観劇

午後6時30分より、大阪・梅田のHEPホールで、プロペラ犬の旗揚げ公演「マイルドにしぬ」を観る。
プロペラ犬は女優の水野美紀が放送作家の楠野一郎とともに立ち上げた演劇ユニット。楠野一郎の脚本と水野美紀の主演だけが固定で、その他は、公演ごとにゲストを招くというシステムで公演を続ける予定だという。今回は河原雅彦との二人芝居。演出は入江雅人。共演の河原も演出の入江も、ともに水野の人選だという。

「マイルドにしぬ」は事前の情報に乏しかったが、ナンセンスなショートコメディーのオムニバス公演であった。オムニバスとはいえ、それぞれの話には繋がりがある。

笑えた。水野美紀がナンセンス・コメディーをやっているというので笑える要素も多いし(つまり無名の俳優が同じことをやっても笑えない)、河原雅彦の受けの芝居が良いと言うこともある。しかし何といっても(こういうことを書くと二人には却って失礼に当たるかも知れないが)水野美紀と河原雅彦の役者としての抜群の上手さ、これに尽きる。二人が舞台に立っているだけで演劇空間が作れてしまうのである。この二人ならどんな本でも、あるいは本なしセットなしのエチュードだけでもかなり面白いものが出来てしまうはずだ。

水野美紀の舞台には最近立て続けに接しているし、河原雅彦の舞台を生で観るのは5年ぶりだが(前回は木野花が演出した、鴻上尚史の「トランス」。紅谷先生役を演じたのは、ともさかりえで、この共演がきっかけとなって河原はともさかと結婚することになる)舞台を収録したDVDはいくつか観ていた。だが、これほど良い俳優だとは今日の今日まで気がつかなかった。

水野と河原の場合、その演技は演じているというよりも、あるべきものがあるべきところに嵌るという感覚に近い(指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンが岩城宏之に語ったという「ドライブするのではなくキャリーするんだ」という言葉があるが、音楽ではなく演劇でその言葉の意味を実感できたのはこれが初めてである)。更に、間近で観ていたからわかったのであるが、並の舞台俳優なら10の手順を要して表現するところを二人は2つか3つの段取りで出来てしまう。「凄い役者というのは本当に凄いんだな」と感心してしまった。

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2008年11月28日 (金)

観劇感想精選(54) 「狂言ござる乃座 in 京都」2008

2008年9月15日 京都市上京区の金剛能楽堂にて観劇

野村萬斎は雨男として知られる。

午後2時から、烏丸通一条下がるにある金剛能楽堂で、「狂言ござる乃座 in 京都」を観る。野村萬斎が続けている狂言のシリーズ。京都では今回で3回目の上演である。

午後1時30分の開場時間直前から雨が降り始める。やはり野村萬斎は雨男のようだ。

演目は、「舟渡聟(ふなわたしむこ)」と「弓矢太郎」。

「舟渡聟」は、京の男(野村萬斎)が、琵琶湖の向こうにある妻の実家に初めて挨拶に行く時の話である。
男が大津松本から舟に乗る。手土産に京酒を持っているのだが、船頭が大の酒好きで、「一口で良いから飲ませて欲しい」という。男は断るが、船頭はならばと、舟を揺らし、飲ませるように迫る。男は仕方なく一杯だけならと譲るが、船頭は一献酒は普通は飲まないということで、二口目を飲む。飲んだら飲んだで、「二回というのは回数が悪い」と言い始める。男はそれは断るのだが、船頭は梶を漕ぐのをやめてしまう。ということで三口目にありつくことになった。

さて、妻の実家に着いた男。姑(野村万之介)に「舅どのはいらっしゃるか?」と訊くと、「今、寄り合いに行っている」とのこと。そこで男は待つことにする。やがて舅(野村万作)が帰ってくる。が、実は先ほどの船頭の正体が舅で……。

「弓矢太郎」は、京都・北野の天満宮の森付近を舞台とした作品。天神講の集まり。太郎(野村萬斎)がやって来ない。太郎は常日頃から弓と矢を持ち歩いていて、「弓矢太郎」とあだ名されている。しかし、弓矢で獣を射たという話も、盗賊を捕らえたという話も聞かない。天神講の皆々は「太郎は実は臆病者で、それで弓と矢を持って空威張りをしているのでは」と話し合う。ならば怖い話をして太郎をからかってやろうと相談しているところへ、太郎が遅れてやって来る。
怖い話を始めると、果たして太郎は臆病者。鬼の話を間近でされると気絶してしまった。太郎のことをあざ笑う天神講の皆々。しかし、太郎は話がつまらないので「眠くなった」だけと言い訳をする。そこで皆は「丑の刻に、天神の森に行って、松の木に扇子を掛けてきてみろ」と提案する。天神の森は真っ暗。しかも鬼が出るという……。

私は、狂言を観るのはこれが5回目か6回目。野村萬斎の狂言を観るのは初めてである(そもそも人気者である野村萬斎の狂言はチケットを取るのが難しい)。

二作品とも、大笑いするというよりは、終始頬がゆるむという笑いを楽しむことが出来た。野村萬斎のキリリとした存在感はやはり際立っていて、公演を見終わったばかりだというのに、またすぐに萬斎の狂言を観たくなってしまった。

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2008年11月 7日 (金)

伝わらない領域

戯曲を予め読んで舞台に接すると、予想していたものと全く違う展開がそこで行われていることに驚かされるケースがある。

セリフに変更があったわけではない。役者の動きも想像と大きく異なってはいない。しかし、本と上演の懸隔は、ある時は埋めようにも埋められず、ある時は私個人の認識力を大きく揺さぶる。

文字や言葉だけ、あるいは視角やイメージをともなっても伝わらない領域に演劇の本質がある。当たり前のことだが「本=演劇」ではない。「舞台上での動作=演劇」でもない。しかしこの事実を私は不用意に忘れてしまうことが多い。言葉と文字と視角とで形成された日常に慣らされているためなのか。

視角や想像、文字や言葉だけでは伝わらない領域に本質があるということは、あるいは演劇は物語や小説よりも、詩や音楽に近い性質を持つともいえる(演劇が詩と音楽の発展形であることを考えればそれは当然なのかも知れないが)。意味以外でしつらえられた豊饒さに心が感応するのである。

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2008年11月 3日 (月)

観劇公演パンフレット(34) 「幕末純情伝」2008

つかこへいの代表作、「幕末純情伝」の2008年公演(石原さとみ、真琴つばさ主演)のパンフレットを紹介します。
2008年8月30日、京都四条南座にて購入。

「幕末純情伝」2008公演パンフレット パンフレットには、つかこうへいからのメッセージ、出演者へのインタビュー、マキノノゾミや横内謙介、羽原大介、秦建日子ら演劇人による寄稿、蓮見正幸や木俣冬によるつかこうへい作品の解説、京都の新選組ゆかりの名所紹介などが載っています。

「幕末純情伝」2008概要と感想

午後5時から、四条南座で「幕末純情伝」を観る。作・演出:つかこうへい。1989年に初演された、つかの代表作の一つ。タイトル通り、幕末の京都を舞台とした作品で、新選組の沖田総司は女だったという奇抜な発想からなる芝居である。

つかの代表作だけに、有名俳優陣によって何度も上演されている「幕末純情伝」であるが、今回の上演は、つか自身が18年ぶりに演出も手掛けるというのが見所。更に、沖田総司だけでなく、坂本龍馬も女であったという設定に変わり、奇抜さを増している。

キャストは、沖田総司に石原さとみ、坂本龍馬に真琴つばさ、近藤勇に山崎銀之丞、土方歳三役に何故か矢部太郎、高杉晋作役は吉沢悠、その他に舘形比呂一、橘大五郎、宇都宮雅代、早坂実、清家利一、若林ケンなどが出演。

実際の新選組も観劇に訪れたことがわかっている四条南座(「仮名手本忠臣蔵」が上演された時には、下っ端の隊士数名が舞台上に駆け上がって芝居を中断させるという事件も起こしている)で、新選組の芝居を観るというのは実にいいものだ。

幕末が舞台ではあるが、憲法第九条や、女性も参加できる普通選挙、アジア・太平洋戦争時の沖縄戦などの話を盛り込んでいる。

幕末。どうしようもなく駄目な人達を救うために隊士として向かい入れ、新選組を作った近藤勇(山崎銀之丞)は、将来の妻にするために女の赤子を貰い受ける。その女の赤子こそが後の沖田総司(石原さとみ)であった。沖田は赤子の頃から労咳(結核)を煩っている。

史実では新選組が京にいたのは僅かに5年であるが、芝居なので、それよりずっと長く京都にいた結果、沖田は成人して人を斬る女になった。新選組の他の隊士達は、みな刀を売ってしまったり人にあげたりしているので、新選組の隊士の中で刀を持っているのは近藤と沖田だけ。人を斬るのは専ら沖田の役目であった。

そんな沖田が、祇園祭の日に出会った坂本龍馬(真琴つばさ)に一目惚れ。坂本は憲法第九条死守や普通選挙の実施のために奔走しており、来るべき次の時代の年号を「自由」にしようと決めていた……。

卑語、差別語などを飛ばしながら、沖縄戦に散った人々、女性、病人、第三世界の人々など、弱い立場にある人達の視点にも立っているという、いかにもつからしい演出である。

慈しみ、育てるのは女。だから今回の坂本龍馬は女である真琴つばさが演じたのだろう。来るべき時代に必要なのは包み込むような優しさ。真琴つばさ演じる坂本龍馬はだからこそ女性も参政権を持つ時代を作ろうとするのであろう。

沖田総司を演じる石原さとみが何だかんだで実に可憐なのが良い。近藤勇役の山崎銀之丞、土方歳三役の矢部太郎も良い味を出しており、坂本龍馬を演じる真琴つばさも格好いい。

セリフが、叫びにも似た鋭い声により猛烈な早口で語られるので、何を言っているのかわからないところも多く、いかにもつかこうへいの芝居といった趣。それでも感動するし、悲劇的なラストの感銘は圧倒的であった(ドラクロアの絵画が元になった絵が垂れ幕に描かれ、絶大な効果を上げている。ドラクロアの何という絵がモチーフになったのかは、いわずともわかるはずなので敢えて書かない)。

カーテンコールで披露されたダンスも豪華でクールで、エンターテインメントの精神に溢れていた。

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2008年11月 2日 (日)

観劇感想精選(53) 下鴨車窓 「農夫」

2008年6月29日 京都・下鴨のアトリエ劇研にて観劇

アトリエ劇研で下鴨車窓の『農夫』を観劇。作・演出:田辺剛。出演:豊島由香、岩田由紀、鈴木正悟、柳原良平、清水陽子、辻井直幸、立木吉多、藤本隆志。

寓意に富んだ芝居である。

いつの時代、どこの国とも知れない場所にある、とある農村。人々は文字を知らず、農耕で自給自足の生活をしている。その村に「街」から三人の姉弟と長姉の夫、合わせて四人がやって来て、ある若い農民(鈴木正悟)が倉庫として使っている穴蔵に勝手に潜り込み、隠れていた。農民はそれを知って姉弟達を追い出そうとするが、長姉の夫が病気で動けないことを理由に、姉弟達は穴蔵に居続ける。

村は閉鎖的な場所であり、姉弟達がすんなり受けいれられるはずはない。ある日、末弟が井戸端で農民と諍いを起こす。

長姉の夫(舞台上に登場することはない)は詩のような文章を書くのが好きだった。彼は亡くなってしまうのだが、長姉(豊島由香)は夫が生前に語っていた言葉を綴り、その後も思いつくままに詩のような言葉を紙に、紙が無くなると布きれに書き付けるようになる。

次姉と末弟は「街」で「革命」を起こした張本人達であったのだが、立場が悪くなったので、長姉とその夫を連れて村に逃げてきたのであった。

穴蔵の主である、ある若い農民の兄(藤本隆志)が村に帰ってくる。彼は「街」に行っていたのだ。そこで色々な情報を得ており、姉弟達が街でしたことも当然知っていた。しかし彼は姉弟達に関わり合うことよりも農民達に産業を興して、商売を始めるよう勧める。

そして歳月が流れる。穴蔵の主であった若い農民もその兄も、「街」からやって来た次姉も末弟も、末弟と諍いを起こした農民も、みな忘却の彼方へと去り、長姉と彼女が書き続ける言葉だけが残った……。

敢えて舞台向きではなく、小説の中に出てくるような、または詩のようなセリフとモノローグを多用する。モノローグの多用と自己の内面だけを語るセリフによって、会話が成り立っているようで成り立っていない状況が作られ、コミュニケーションの不在が現れもする。

だが、この劇中においてもっと重要なのは言葉の大切さであり、伝え続けることの重要さである。原始的な自給自足の農耕産業にしろ、大衆を相手にした「産業社会」にしろ、あらゆる産業は人間のためにあるのであり、産業だけが化け物のように肥え太り、人間存在を圧迫している現実は異様であるともいえる。

語り継ぐことは人間存在の根本の一つである。生命存在の根本が子孫を残すことであるのと同様に、人間も子孫を残し、そして人間は言葉を持つが故に、その子孫に、そして身内以外の多くの人に対しても語り継ぐべきものを残していく。

語り、書き、それを伝える作業は、何も生み出さないように見えるけれども、それらは産業を興すことよりももっと人間存在にとって重要なことなのだ。

特殊なセリフを使っており、特に倒置法が連続する場面では、そうしたセリフに馴れていない役者の語りが急に停滞したりもしたが、京都の演劇として、堂々と他の街に出せるだけの演技水準には達していたように思う。

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2008年10月18日 (土)

木下半太 『悪夢のエレベーター』

大阪出身の木下半太が書いた『悪夢のエレベーター』。先に書いた記事の舞台の原作でもあります。原作での舞台は大阪のようで、登場人物のほとんどが大阪弁を話します。

木下半太 『悪夢のエレベーター』 停止したエレベーターに乗り合わせた、富永、槙原、小川、カオルの4人。そこで繰り広げられるブラックにしてコミカルな出来事の数々。
それが3人の視点により、3つの章で語られていきます。ある人の視点からはよくわからなかったことが、次の章で種明かしされ、おまけに笑いも誘うなど作品構成も見事です。

木下半太は演劇界の出身。長く大阪演劇界で活躍した後、今は本拠を東京に移して演劇活動を続けています。停止したエレベーターという舞台的空間の生かし方が抜群なのも、木下が演劇界出身であることと無関係ではないでしょう。

なお、『悪夢のエレベーター』はWeb上で続きを読むことが出来ます。(http://blog.qlep.com/blog.php/114535)。本編読了後はWeb上で続きを楽しむのも良いでしょう。

木下半太 『悪夢のエレベーター』(幻冬舎文庫) 紀伊國屋書店BookWeb

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観劇感想精選(52) 「悪夢のエレベーター」

2008年9月25日 大阪・茶屋町のシアタードラマシティにて観劇

午後7時から梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「悪夢のエレベーター」を観る。原作・脚本:木下半太、演出:ダンカン。

吹越満、片桐仁(ラーメンズ)、中村倫也、高橋真唯による4人芝居である。

15階建てのマンションのエレベーターが停止、乗り合わせた、富永(吹越満)、小川(片桐仁)、牧原(中村倫也)、カオル(高橋真唯)の4人が閉じ込められている。小川はしばらくの間気絶していて、エレベーターが停止した瞬間を憶えていない。

やがてエレベーターの電気が消える。4人は気を紛らわすためにゲームを始める。「告白ゲーム」。これまで誰にも話したことのない、誰にも話せない秘密を打ち明けるというゲームだった……。

ジャンルをいうと、サスペンス・ブラック・コメディーとなるのだろうか。役者4人の個性がともに生きていて、ラストのどんでん返しも効果的。良くできた舞台だった。

エレベーターの中に閉じ込められるという設定で、自分ならどういう展開にするかを考えつつ観ていたのだが、「俺ならこうする」という展開にまさになってしまったので、本と私の発想のオリジナリティに問題を感じてしまったのだが、本の方は、その後は練りに練られた展開を見せ、ブラックな味わいも利いていた。私が書くならもっと別の意味でブラックなものになると思うが。

構成作家、プロデューサー、映画監督としては評価を受けているダンカンだが、舞台演出家としてもしっかりした仕事をする人であることがわかった。

カーテンコールには客席にいたダンカンも舞台に上がる。

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2008年10月 7日 (火)

観劇公演パンフレット(33) さよなら緒形拳 緒形拳ひとり舞台「白野 ─シラノ─」2007

今月5日に逝去された緒形拳氏の一人芝居(ひとり舞台)「白野 ─シラノ─」の2007年版のパンフレットを紹介します。2007年11月15日、大阪・京橋の大阪ビジネスパーク円形ホールにて購入。

緒形拳ひとり舞台「白野 ─シラノ─」公演パンフレット 「白野 ─シラノ─」はエドモンド・ロスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」を、幕末の日本を舞台に置き換えて作られた「白野弁十郎」を、緒形拳独自の一人芝居として作り替えたものです。

パンフレットには、緒形拳のへのインタビューのほか、山田洋次、豊川悦司から緒形拳へのメッセージ(なお、緒形拳はトヨエツのことを、「豊川→豊川稲荷」ということで、「お稲荷さん」と呼んでいたとのことである)。串田和美、内野聖陽、竹内まりや、真田広之、竹野内豊、Gackt、秋元康、堤幸彦、池部良、三國連太郎からの緒形への応援メッセージなどが収められています。

緒形拳ひとり舞台「白野 ─シラノ─」概要と感想

午後7時30分より大阪・京橋の大阪ビジネスパーク円形ホールで、緒形拳ひとり舞台「白野 ─シラノ」を観る。エドモンド・ロスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」を額田六福と澤田正二郎が幕末を舞台にした芝居として翻案し、島田正吾が一人舞台として構成した「白野弁十郎」を基に、相手役のセリフまで語る緒形拳独自のバージョンである。
2006年に緒形版「白野」は初演され、教育テレビでも放映された。今回は再演となる。
演出は鈴木勝秀、音楽:朝比奈尚之、チェロ独奏:ウォルター・ロバーツ。

幕末の京。
京都守護職松平容保に率いられて入京している会津藩朱雀隊士の白野弁十郎。鼻が異様に大きいという特異な容貌をした男である(緒形拳は普通は用いる付け鼻なしで演じている)白野。剣を取っては京でも一、二、算術、詩作なんでもござれの多芸多才の人であるが、自身の容姿の醜さゆえに女にはからっきしである。白野は従姉妹の千種に恋しているが思いを打ち明けられないでいた。

四条南座で役者相手の大太刀回りを演じた翌日、白野は千種に祇園の店に呼び出される。機を得たりとばかりに千種に恋文をしたためる白野。しかし千種から好きな人がいると告白された白野は結局、恋文を渡しそびれる。千種が恋したのは会津藩朱雀隊に入隊したばかりの色男、来栖生馬であった。しかし、この来栖、色男だが田舎育ちで気の利いたことは一つも言えないし書けない。

来栖の後見人になると千種から約束させられた白野は、来栖も千草に恋していることを知る。しかし歌の一つも詠めない来栖を見るに見かねた白野は、自分の語る言葉をそのまま来栖に真似させることで来栖を教養と詩心に溢れる青年に仕立て、また千草への恋文も全て代筆してやることにするのだった……。

緒形拳の舞台を観るのは久しぶり。2002年に京都府立文化芸術会館で行われた「子供騙し」以来だと思う。

緒形は声は小さいが発音は明瞭でセリフは聴き取りやすい。余り声音を変えずに複数の役を演じるので、観る方も集中力と想像力がいるが、緒形は人を惹き付ける力があるので、大して難しいことではない。そもそも緒形拳が一人で演じるのだから、こちらも真剣勝負にならざるを得ない。

恋を語る場面の緒形拳の若々しさといったら、まるで青年のよう。こういう芝居を観ると、役者っていいな、素晴らしい仕事だなと心から思う。

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2008年10月 1日 (水)

観劇公演パンフレット(32) 加藤健一事務所 「レンド・ミー・ア・テナー」2008

加藤健一事務所の公演「レンド・ミー・ア・テナー」2008年公演のパンフレットを紹介します。2008年7月3日、京都府立府民ホールALTIにて購入。

加藤健一事務所「レンド・ミー・ア・テナー」2008公演パンフレット「レンド・ミー・ア・テナー」の副題は“オペラ騒動記”。歌唱力は抜群でありながら、内面は子供のままのようなオペラのテノール歌手が登場(現実にも内面が子供のまま生涯を終える音楽家は案外多いのです。例えば、ホ×ヴィッ○だとか、グー△ドなど。更にはクラシック界には「テノール馬鹿に……」といったような言葉もあり、高音を出すテノールは脳みそが余り詰まっていないので頭蓋骨に声がよく響くのだという、悪口もあったりします)。

そうした音楽家の生態に題材を取った抱腹絶倒(というのも古い言葉ですが、この作品にはこの言葉が一番ピッタリ来ます)のコメディーが「レンド・ミー・ア・テナー」。加藤健一と大島宇三郎の朗々としたアリアも見所の一つです。

パンフレットには出演者のインタビュー、題材となったヴェルディのオペラ「オテロ」の紹介。翻訳者である小田島雄志・若子夫妻へのインタビューなどが載っています。

「レンド・ミー・ア・テナー」の概要および感想

午後7時から、京都府立府民ホールALTIで、加藤健一事務所の公演「レンド・ミー・ア・テナー オペラ騒動記」を観る。「バッファローの月」「クレイジー・フォー・ユー」などを書いているケン・ラドウィッグの作、小田島雄志&小田島若子のテキスト日本語訳、久世龍之介の演出。出演は、加藤健一、日下由美、塩田朋子(文学座)、有福正志、大峯麻友、横山利彦、一柳みる(劇団昴)、大島宇三郎。

加藤健一事務所による「レンド・ミー・ア・テナー」は1990年と1996年に上演されており、今回は12年ぶりの上演とのことである。

1930年代のアメリカ・クリーヴランドが舞台。

クリーヴランド・グランド・オペラ・カンパニーは、イタリア人の偉大なテノール歌手であるティトー・メレリ(大島宇三郎)を迎えて、ヴェルディのオペラ「オテロ」を上演することになっている。しかし、肝心のティトーの到着が遅れており、オペラ・カンパニー総支配人のソーンダーズ(有福正志)も総雑用係のマックス(加藤健一)も気が気でない。

やっとのことでティトーが二人の待つホテルに到着する。しかし、このティトー、歌は上手いのだが、子供がそのまま大きくなったような人物。そしてティトーの奥さんであるマリアという女性が女帝のような性格。

マックスはオペラ・カンパニーの万年雑用係のような人物だが、長年に渡ってオペラ・カンパニーの公演に接しており、今回上演される「オテロ」の歌とセリフを全て憶えてしまうほどのオペラ好きでもある。

そんなマックスとティトーはなぜか馬が合い、マックスがオペラ好きだと知ったティトーは即席のレッスンをマックスに施す。

だがティトーは女好きであり、ティトーに憧れて訪ねて来た女性達にちょっかいを出すため、怒ったマリアは書き置きを残して、ホテルの部屋を出て行ってしまう。

マリアに去られて、絶望したティトーは自殺しようとするが、マックスが止める。疲れているのでぐっすり眠りたいというティトーのために、マックスは睡眠薬をワインに入れて出すが、ティトーも睡眠薬をすでに飲んでおり、効き目が強すぎて、ティトーは死んだようにぐっすり眠り込んでしまう。

叩いても揺さぶっても目を覚まさないティトーを見、マリアの書き置きをティトーの遺書と勘違いして、ティトーが自殺してしまったと思い込んだマックスとソーンダーズ。公演を中止にしようと考えた二人だが、ソーンダーズにある考えが浮かぶ。今日の演目は、ムーア人が主役の「オテロ」。オテロを演じる歌手は顔を黒塗りにするため、遠目からは誰がオテロをやっているのかわからないはず。そこでマックスをティトーだということにして、オテロを歌わせようと目論む……

加藤健一事務所が上演したケン・ラドウィッグの作品は、「バッファローの月」を観たことがあり、これも優れたコメディーであったが、「レンド・ミー・ア・テナー」は「バッファローの月」よりも更に笑える傑作コメディーであった。

加藤健一と元劇団四季の大島宇三郎によるアリアも聴き応えがあり、ストーリーも役者陣も最高。この公演を観に来なかった京都の演劇人が可哀想になる。と書くと反感を買いそうだが、私以外の京都の演劇人も、この作品を観たのなら同じような思いを抱くはずだ。

出演者全員によるアフタートークも面白く、良き夜を過ごすことが出来た。

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2008年9月27日 (土)

観劇感想精選(51) 「フキコシ・ソロ・アクト・ライブ 『(タイトル未定)』」 大阪公演のタイトルは『アボカド』

2008年3月5日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後7時より、大阪・茶屋町のシアター・ドラマシティで、吹越満のソロ・パフォーマンス「フキコシ・ソロ・アクト・ライブ『(タイトル未定)』」を観る。『(タイトル未定)』がタイトルである。

『(タイトル未定)』というタイトルであるが、吹越が登場し、タイトルを示すと同時に、「『(タイトル未定)』って作品を見に行くんだけど」、「タイトルが決まってないの?」、「いや『(タイトル未定)』ってタイトルなんだよ」、「でも『タイトル未定』なんでしょ? ということになると紛らわしいので」、と一人二役で語り、その場でタイトルを決めることにする。

吹越がお客さんに、「タイトルは何がいいですか?」と訊くが、お客さんもいきなりなので応えられない。そこで吹越は「好きな食べ物は何ですか?」と訊く。フミさんという女性が「アボカド」と応えたので、大阪公演のタイトルは、「フキコシ・ソロ・アクト・ライブ『アボカド』」に決定。吹越はもう一人のお客さんにも同じことを訊いて、「卵かけご飯」という返事を得たが、そちらは採用されず。

イッセー尾形も同じようなソロパフォーマンスを行っているが、吹越満はイッセー尾形よりもずっとシュールである。

アイデアの豊富さに感心する。私もこれからこのシーンがどう展開するのか先を読むのだが、読み切れない。まあ、当然で、読めてしまったら面白くないし、読めるんなら自分だってソロ・アクトを行える。多くの観客が先を読む中で、それを超えるものを見せる必要があるのだから、パフォーマーは大変である。

元ワハハのプリンス、吹越満。ワハハ本舗の公演は観たことがないのだが、彼は売れっ子になる前に、フジテレビ系深夜の推理番組でナビゲーターをやっていた。私が吹越満を知ったのはそれが最初である。

2003年だったと思うが、やはりシアター・ドラマシティで、「エレファント・バニッシュ」という公演を観ている。イギリスの演出家、サイモン・マクバーニーが村上春樹の短編小説数編を選んで舞台化した作品で、吹越満と高泉淳子が主演だった。作品自体は、村上春樹の短編小説をそのまま並べただけで、「ああ、サイモン・マクバーニー、村上春樹がわかってないや」という感想で終わってしまうものだったが、吹越満と高泉淳子は印象的な演技を見せた。
余談だが、カーテンコールでステージに呼ばれたサイモン・マクバーニー氏は、私の客席の前にあった階段で思いっきりこけて転がり落ちていた。怪我はしなかったようだけれど。

また、これはテレビで観たのだけれど、野田地図の「Right Eye」という公演での吹越も良かった。テレビ録画のあった日に、携帯電話を鳴らしたお客さんがいて、野田秀樹と吹越満に思いっきり突っ込まれていたっけ。

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観劇感想精選(50) 江守徹&西岡徳馬ほか 「サンシャイン・ボーイズ」

2008年7月2日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後2時から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「サンシャイン・ボーイズ」を観劇。いわずと知れたニール・サイモンの代表作である。

主演:江守徹、西岡徳馬。出演:笠原浩夫、高谷あゆみ、山崎ちか、池谷尚史、大橋てつじ。演出:福田陽一郎。

江守徹演じるウィリーと西岡徳馬演じるアルの二人の比重が非常に高い作品で、二人芝居+α的芝居である。

43年もの間コンビを組み、サンシャイン・ボーイズの名でコントを発表し続けていたウィリー(江守徹)とアル(西岡徳馬)。しかし、11年前、「エド・サリヴァン・ショー」に出演した直後に、アルが一方的に引退を表明してニュージャージーの田舎に移ってしまい、以後は絶交状態が続いている。

残されたウィリーはニューヨークで役者稼業を続けているが、高齢ということもあり、仕事は入ってこない。ある日、CBSからサンシャイン・ボーイズを11年ぶりに復活させようという企画が持ち上がり、アルはこの話に乗って、ニュージャージーからニューヨークにやって来る。しかし、ウィリーはアルを簡単に許そうとはせず……。

昨年、脳梗塞で入院した江守徹の舞台復帰作。江守は体力的には衰えたようだが、かなり元気そうで安心する。

三谷幸喜が主宰していた劇団「東京サンシャインボーイズ」の名の由来となった名作だけに、本が優れているのは当然だが、基本的にはウィリー役とアル役の俳優二人の力で見せる芝居であり、主役俳優の技量が問われる。江守、西岡はともに持ち味を存分に発揮しており、福田陽一郎のオーソドックスにして堅実な演出も冴えていて、優れたエンターテインメントとなっていた。

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2008年9月19日 (金)

笹野高史 『待機晩成』

副題は「日本一の脇役が語る人生の美学」。オンシアター自由劇場出身で、その後、商業演劇、映画にテレビ、ついには歌舞伎にまで出演してしまった俳優、笹野高史の著書『待機晩成』(ぴあ)を紹介します。

笹野が高校生の頃に、いとこがやった占いで「高っちゃんはね、大器晩成型」といわれ、しかし笹野曰く「大器じゃなくて待機していただけ」で晩成したというのがタイトルの由来です。

笹野高史 『待機晩成』 兵庫県の淡路島に、造り酒屋の四男坊として生まれた笹野高史。子供の頃は「笹野のぼん」などと呼ばれたそうですが、幼い頃に両親が死去し、以後は親戚の家を頼って、男兄弟四人で支え合って育ちます。そんな笹野少年の夢は映画俳優になること。しかし、決して男前とはいえない笹野少年は人前では「映画俳優になりたい」とは口に出来ませんでした。そんな笹野少年の心の支えだったのが、男前でないのに映画の主役を張っていた渥美清。

この本では、笹野高史が、上京して自由劇場の演劇に触れ、1年本ほどの舟乗り生活を経て、串田和美に呼ばれて自由劇場に戻り、10年間、自由劇場の役者として活躍した後(自由劇場にいるのは修行期間に相当する10年間と、本人もなぜかはわからないが決めていたそうです)、商業演劇に移り、それから映画で憧れの渥美清と共演するようになる様が、笹野らしく淡々としたタッチで書かれています。

渥美清との付き合いの他にも、自由劇場時代に出会った柄本明の話、映画「武士の一分」で共演した木村拓哉の話など、演劇ファン、映画ファンならずとも面白い話も収録。

「自分は主役の器ではないけれど……」と思いつつ、映画や演劇の世界に憧れている若い人にも是非読んで貰いたい本です。

笹野高史 『待機晩成』(ぴあ) 紀伊國屋書店BookWeb

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2008年9月11日 (木)

観劇感想精選(49) 燐光群 「ワールド・トレード・センター」

2007年11月11日 兵庫県伊丹市のAIホールにて観劇

午後2時より伊丹AIホールで、燐光群の公演「ワールド・トレード・センター」を観る。作・演出:坂手洋二。

2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件、いわゆる9・11を描いた作品。「ワールド・トレード・センター」というタイトルだが、舞台となるのはマンハッタンのECS社という日本語新聞社の編集部である。

開場時に燐光群のメンバーである杉山英之さんが、無料パンフレットと公演チラシの束を客に手渡す役をしていたので、「今日は杉山さんは出ないのかな?」と思ったが、ちゃんと出演していた。

無料パンフレットによると、坂手洋二は、9・11当時、ニューヨークのミッドタウン、グランド・セントラル駅に近いところに編集部を持つ情報誌「OCS NEWS」で時評の連載を持っており、坂手は9・11当日に「OCS NEWS」編集部に社員の無事を確認する電話をかけたという。テレビのニュースではミッドタウンが攻撃されるのではという情報も流れていた。「OCS NEWS」編集部員は無事であり、そして彼らはミッドタウンの編集部から帰ろうとはしなかった。更にニューヨーク市内では当日、指輪ホテルの羊屋白玉氏がニューヨークと東京をインターネット回線で繋いだ日米同時ライブ上演を企画していた。坂手は羊屋に自分なりの助言をしたという。

その当時のことをモチーフにして書かれた劇である。坂手洋二の体験が元になっているが坂手本人はフィクションであることを強調している。

「ワールド・トレード・センター」というタイトルであるが、ワールド・トレード・センター(WTC)のあるマンハッタンのダウンダウンから少し離れたミッドタウンにある新聞社の編集部を舞台にするという設定がいい。坂手本人がニューヨークに寄るたび「OCN NEWS」社の編集部を訪れており、そこの雰囲気をよく知っていたということが発想の源にありプラスに作用したと思われるのだが、とにかく臨場感がある。私自身も新聞社の編集部員の一員としてその場にいるかのような臨場感だ。

WTCのノースタワーに飛行機が突っ込んだのを知って、WTCに近くまで取材に出たECS社の記者がサウスタワーに2機目が突っ込むのを目撃したのを編集部員に語るシーンもまた臨場感たっぷりである。

9・11当日のニューヨークの様々な場所を舞台にし、語り手を置くというスタイルも燐光群なら選択出来たはずだが、そうした場合はこのような臨場感を生むことは出来なかっただろう。

羊屋白玉氏の体験が元になった演劇に関する事柄の数々もなかなか効果的であった。

そしてWTCにハイジャックされた旅客機が突撃するという自爆テロが起きたという大きな物語、否、大きな事実に比重を置くのではなく、登場人物個々の話を充実させ、最後は9・11という歴史的事件を各々の小さな物語に収斂させる(コンパクトに畳み込み)という手法も良かったと思う。

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2008年9月 8日 (月)

観劇感想精選(48) 大沢たかお主演「ファントム」

2008年1月18日 大阪の梅田芸術劇場メインホールにて観劇

大阪へ。午後6時30分より、梅田芸術劇場メインホールにて「ファントム」を観る。劇団四季のミュージカルでもおなじみ、ガストン・ルルー作の「オペラ座の怪人」を基に、アーサー・コピットが戯曲を手掛け、モーリー・イェストンが作詞と作曲を手掛けたミュージカル。
日本語版上演台本と演出は鈴木勝秀。主演:大沢たかお。出演は、徳永えり、ルカス・ペルマン、HISATO、中村まこと他。映像出演:姿月あさと。

脇役陣は、歌唱力を基準に選考したと思われ、その分、演技力は犠牲になっている。
だが、主役の大沢たかおの存在感がそれを補う。

「オペラ座の怪人」というと劇団四季の公演が有名で、私も数年前に京都劇場での公演を観ている。劇団四季の「オペラ座の怪人」はセットがとにかく豪華で、出演者も総じてレベルが高い。

そのため、セットが特に豪華とは言えず、演技力にもばらつきのある「ファントム」は最初のうちは不満が多かった。歌唱力で選んだ脇役陣は、歌はいいけれど、それでもある程度妥協しているのがうかがえたし、大沢たかおは意外に歌声が低いので(テノールの音域が要求される役だが、大沢たかおは完全なバリトンである)、高音を出すときは苦しそうだった。

しかし、「ファントム」は人間ドラマを中心に据えることで「オペラ座の怪人」にはない感動を生み出した。
あるいは、冷静に見れば、このドラマはやや通俗的なのかも知れない。しかしそれでも胸を打たれた。

ラストに照準を合わせ、俳優に高いレベルの演技を要求することで外連をそぎ落とさせた演出も見事である。


カーテンコールで、大沢たかおに向かって、「キャー、かっこいい」という黄色い声が盛んに飛んでいた。

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2008年8月29日 (金)

歌舞伎と能 映像で観た二つの「隅田川」

いずれもDVDでの鑑賞。

まず歌舞伎舞踊版の「隅田川」を観てみる。能の「隅田川」を基に明治になってから作られたもの。班女(狂女)に六世中村歌右衛門。舟人に十七世(先代)中村勘三郎。昭和56年1月、東京の歌舞伎座での収録。「隅田川」の班女は歌右衛門の当たり役であり、海外でも高い評価を受けたという。

武蔵と下総の国境、隅田川。班女が花道から出て来て身の上を語る。班女は京都の北白川に住む公家、吉田某の妻だったのだが、ある日、一人息子の梅若丸が、奥州から来た商人にかどわかされてしまう。それを追い、東国までやって来たのだ。

舟人が現れたので、班女は向こう岸(下総・葛飾)に渡して欲しいという。すると念仏が聞こえるので舟人が、「昨年の丁度今日、十歳ほどの稚児がその先で亡くなった。命日なので皆で念仏を唱えているのだ」という。班女はその稚児のことを訪ねる。「京の白川からやってきた梅若丸という稚児」であり、この地で病に倒れたが、商人は薄情なことにあっさり見捨てて一人奥州へと旅立ってしまった。梅若丸は「母が来たなら、梅若はこの地で亡くなったと伝えて欲しい」と村人に頼み、息絶えたという。

梅若丸の塚の前にやってくる班女と舟人。班女は墓を掘り返して姿を見たいと言うがそれは叶わない。その時、班女は梅若丸の声を聴き、姿を見る。しかしそれは都鳥(ゆりかもめ)の声であり、ポツンと立つ柳の姿であった。

中村歌右衛門の表情が絶妙である。先代の勘三郎も惻隠の情を自然に表出していて上手い。

隅田川の場が有名な「伊勢物語」の主人公のモデル・在原業平にかけて、「かくなることと業平の」といった掛詞を使ったり、「いざこととはむ、都鳥」の歌をアレンジしたりと本も洗練されている。上演時間は約30分。

今度は能の「隅田川」を観てみる。登場人物は舟人、商人(梅若丸を誘拐した商人ではない)、梅若丸の母、梅若丸の霊。

歌舞伎に比べると洗練度は不足しており、時間も長い。歌舞伎舞踊「隅田川」がラストに至るのと同じ時間を費やしてもまだ、梅若丸の母は船に乗ってすらいない。

商人は念仏を聴いて、昨年の今日、何があったのかを舟人と語らうだけの役で余り重要ではないが、能版「隅田川」では梅若丸の母は最初から狂女と決めつけられ、最初は船に乗ることも拒否されており、意気消沈していて話せる状態ではないということで、説明係として商人が必要なのだろう。

在原業平の歌を何度も何度も繰り返すなど無駄が多いが、その無駄を楽しめるかどうかが鍵となる。

梅若丸の塚の場で謡いが「南無阿弥陀仏」と何度も唱える。すると突然、その「南無阿弥陀仏」の声の中に子供の声が混じる。この場面はハッとさせられる。梅若丸の霊が現れる。母は梅若丸の手を取ろうとするが、梅若丸は姿を消してしまう。それが幻影であり、幻聴であったことを知った母の嘆き。そのまま、何の救いもないまま物語は終わる。無駄に耐えた分だけ、こちらの悲しみは深くなる。

上演時間は約80分。歌舞伎舞踊版「隅田川」の方が見やすいし、セリフや謡いも上だと思うが、感銘は能の「隅田川」の方がずっと強い。

狂女の面は角度や見るものの気持ちによって見え方が変わる。悲しみ、喜び、そしてラストの打ちひしがれた表情など、無表情な能面のはずなのに表情豊かだ。興味深い。

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2008年8月21日 (木)

観劇感想精選(47) 「道元の冒険」

2008年8月3日、大阪・京橋のイオン化粧品シアターBRAVA!にて観劇

午後3時より、大阪・京橋のシアターBRAVA!にて、「道元の冒険」を観劇。作:井上ひさし、演出:蜷川幸雄、音楽:伊藤ヨタロウ、出演:阿部寛、栗山千明、北村有起哉、横山めぐみ、高橋洋、大石継太、片岡サチ、池谷のぶえ、茂手木桜子、金子文、手塚秀彰、神保共子、木場勝己。

曹洞宗の開祖、道元の生涯を俳優達が入れ替わり立ち替わり演じてみせる。道元その人は阿部寛が一貫して演じる(サブストーリーとして、婦女暴行、重婚などの罪で精神鑑定を受けている男が出てくるが、これも阿部寛が演じる)が、少年期の道元を栗山千明が、青年期の道元を北村有起哉がそれぞれ劇中劇の形で演じてみせる。

井上ひさし一流の笑いの要素がふんだんに盛り込まれ、伊藤ヨタロウの音楽も、仏教の話なのに讃美歌風の曲があったり、カノンが用いられたりと楽しい。
早稲田大学の校歌と明治大学の校歌、慶應義塾大学の学生歌「若き血」のパロディーが歌われたのも(明大出身であるため)個人的には嬉しかった。

ラストに、現在流されている番組がそのまま映っているテレビモニターが出てくる手法は、蜷川幸雄がよく用いるものだが、「道元の冒険」と合っているのかどうかは疑問であった。内容よりも手法に拘ったような感じも受ける。

「道元の冒険」における、道元の仏教観は、演劇のみならず「表現」に対する我々の在り方という点でも哲学という点でも興味深く、「民衆こそが主役」という井上ひさし的な世界観もよく伝わってきた。

道元の冒険

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2008年8月20日 (水)

観劇感想精選(46) 少年王者舘KUDAN Project 「真夜中の弥次さん喜多さん」

2005年3月11日 大阪・なんばの精華小劇場にて観劇

大阪・なんばへ。精華小劇場で少年王者舘KUDAN Projectの二人芝居「真夜中の弥次さん喜多さん」を観る。原作は、しりあがり寿。脚本・演出は演劇界の魔術師、天野天街。しりあがり寿の原作は宮藤官九郎の脚本と監督で映画化もされる。

とにかく面白い劇だ。これまで禁忌とされてきた演劇表現を平気で行う。現実と虚構の壁を自由自在に通り抜け、メタ演劇やメタ漫画の手法を駆使する。
例によって、同じシーンも執拗に何度も何度も繰り返す。しつこいが、それが次第に快感に変わっていくのは不思議だ。

役者が本当に携帯電話をかけて実際にうどんの出前を取ってしまうという、舞台に現実を紛れ込ませるやりかたなど笑える。これは画でも小説でも漫画でも出来ない、舞台だからこそ可能な手法だ。
あまりに楽しいので、見ているこちらも最初から最後までずっと笑顔である。
装置の使い方も楽しいし、映像や文字や音楽の挿入など本当に巧い。
二人の役者(小熊ヒデジ、寺十吾)も達者である。超現実的な作品の登場人物に血を通わせることに成功している。

従来のリアリズムの演劇が古く感じる。本当に魔術を見ているような芝居で、このようなものを作れる天野天街の才能には脱帽せざるを得ない。

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2008年8月12日 (火)

観劇感想精選(45) 白石加代子朗読公演「百物語」第二十四夜「怪談牡丹灯籠」

2008年6月15日 京都府立文化芸術会館にて観劇

午後6時より、京都府立文化芸術会館で、白石加代子の朗読公演「百物語」第二十四夜「怪談牡丹灯籠」を観る。

「百物語」は、白石加代子が怪談、恐怖小説などを朗読するシリーズ。これまで86の話を語り終えており、いよいよ佳境である。ところで百物語なるもの。昔から百語り終えた途端に怪事が起こるとされているのだが……。

何と最前列であった。包丁が飛んできたときのことを考えて注意せねば、というのは冗談がきついか。放送じゃこのジョークはいえないんじゃないかな。

鈴木忠志の早稲田小劇場時代に演じた「劇的なるものをめぐって Ⅱ」での包丁を振り回す演技(誤って、一度、自身の眉間を割ったこともある)で、「狂気女優」の異名を取った白石加代子。野田秀樹も、白石本人に会う前は、「包丁を振り回しているイメージ」しかなくて、怖いおばさんだと思い込んでいたという。

狂気女優と呼ばれたその白石加代子が怪談を語る。面白くないはずがない。第一部、第二部ともに白石は枕として作品の肝や自分自身のことなどを話し、それからすっと「牡丹灯籠」の世界に入っていく。上手い。

登場人物の演じ分け(語り分け)は実に巧みで文句なし。もう、BRAVA! と書くだけで十分である。

恐い話をしたので、最後にお浄めの塩を撒く。白石さんが、「わたしが、一、二、三と言ったら塩を撒きますから、皆さんは『ソーレ!』と声を掛けて下さい」というので実際にそうする。一、二、三で白石加代子が塩を高々と放り上げ、観客は「ソーレ!」の掛け声。この舞台と客席の一体感も良かった。

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2008年8月 9日 (土)

観劇公演パンフレット(31) 東京セレソンデラックス 「夕(ゆう)」2008

東京セレソンデラックス(東京セレソンDX)の公演「夕(ゆう)」の公演パンフレットを紹介します。2008年7月19日、大阪・心斎橋そごう劇場にて購入。

東京セレソンデラックス 「夕」2008公演パンフレット

昨年、「あいあい傘」で初の関西公演を行った東京セレソンデラックスの二年連続二度目の関西公演となった「夕」。2003年に初演された劇で、今回は再々演。長崎の田舎町を舞台とした情感豊かな芝居です。

パンフレットには出演者紹介の他に、舞台となった長崎県と長崎市、長崎弁の紹介、背景となった1980年代のキーワード紹介などのコーナーがあります。


「夕」2008の概要と感想

大阪の心斎橋そごう劇場で、東京セレソンデラックス(東京セレソンDX)の公演「夕(ゆう)」を観る。午後6時開演。作・演出:サタケミキオ(宅間孝行のペンネーム)。出演:宅間孝行、永井大、木下智恵、いとうあいこ、杉田吉平、篠原あさみ、万田ユースケ、西村清孝、越村友一、水谷かおり、永田恵悟、武藤晃子、丸山麗、川又麻衣子、浜丘麻矢。

昨夏、東京・新宿御苑前のシアターサンモールで観た「歌姫」が連続テレビドラマになるなど、好調の東京セレソンデラックス。だが、その裏では内紛があり、主宰の宅間孝行がメンバー拡充のためのオーディションを行う際に、従来のメンバーにもオーディションを受けるようにいったところ、大多数のメンバーが劇団を去ることを選択した。主宰の宅間孝行一人が脚本家として売れてしまったことから生じた悲劇である。

「夕」は、長崎県の田舎町を舞台にした作品。セリフはほぼ全編、長崎弁が用いられている。2003年に初演された劇で、今回は再々演になるとのこと。基本的には悲恋物だが、じめっとした感じにはなっていない。

1980年代、長崎県にある海沿いのとある田舎町。欣弥(万田ユースケ)、元弥(宅間孝行)、雅弥(西村清孝)の相川三兄弟は、“長崎のキングギドラ”と呼ばれる有名な不良三兄弟である。

次男で高校生の元弥に、幼なじみの三上夕(木下智恵)は恋心を抱いているのだが、当の元弥は夕の女子高の同級生である薫(いとうあいこ)という女の子に気がある。だがその薫は元弥の弟分の塩屋憲太郎(永井大)のことが好きで、元弥の目の前で憲太郎に告白する。

数年後。東京の大学に進学した憲太郎の後を追うように薫も東京の大学へ。一方の元弥は牧場主に成りたいと言い、北海道の牧場に研修に出かける。ヤンキー上がりで日常生活のことはまるで駄目という元弥の面倒を見るために、夕は勤めている会社に「病気で入院することになった」と嘘をついて元弥に同行する。根性が無く、すぐに研修先の牧場から逃げ出してしまった元弥は、夕としばらく北海道旅行をする。夕はその旅行の間に、元弥に恋心を打ち明けようと決めていたのだが……。

物語の強靱さと推進力にまず魅せられる。心情吐露の長ゼリフが多用されるのだが、役者はみな適度に感情の乗った熱演を繰り広げた。今回の東京セレソンデラックスの公演も良い出来である。

東京セレソンデラックスには1年に1度などと贅沢はいわないから、これからも定期的に関西に来て欲しい。関西の演劇界にとって良い刺激となると思う。肝心の関西演劇人の顔は、今日は残念ながら客席にはなかったが。

東京セレソンデラックスの「夕」は今日が大阪初日で、全13回の上演が予定されている。チケットが完売ではないようなので、普段とは違った演劇を観たい関西の方は是非どうぞ。というより、東京セレソンデラックスの芝居は東京よりも大阪での方が受けいれられやすいのではないだろうか。

その東京セレソンデラックスの演劇なのだが、テレビや映画といった業界人には人気なのだが、演劇界での評価は必ずしも高くない。以前、とある演劇コンクールに参加したところ、客席からの受けは良かったのに、審査員からは「こういう劇はキャラメルボックスでやればいいんじゃないの」といった反応しかなかったと宅間孝行がある雑誌のインタビューで語ってた。

宅間孝行がサタケミキオの名で書くテキストは、先にも書いたように心情吐露の多い長ゼリフが中心なのだが、日本の主流である作劇法からいうと、これらは良くは思われていない。しかし、個人的には内容さえ良ければ劇作の手法なんてどうでもいいじゃないかと思われるのだが。

形式的に整った劇よりも、「夕」のように破綻はあってもリアリズムでなくても活気に溢れた劇の方が魅力的である。というより、ある程度の破天荒さとリアリズムからのズレがあった方が、演劇という装置には似付かわしいようにも思える。

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