カテゴリー「演劇」の349件の記事

2018年5月26日 (土)

観劇感想精選(243) 「1984」

2018年5月16日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「1984」を観る。ジョージ・オーウェルのディストピア小説の舞台化。脚本:ロバート・アイク&ダンカン・マクミラン、テキスト日本語訳:平川大作、演出:小川絵梨子。新国立劇場の制作。出演:井上芳雄、ともさかえり、神農直隆(かみの・なおたか)、曽我部洋士(そがべ・ひろし)、武士太郎(たけし・たろう)、山口翔吾、森下能幸(もりした・よしゆき)、宮地雅子、堀元宗一郎、下澤実礼。

近未来。人々がオーウェルの『1984』を読んで語らっている。彼らから少し離れたところにいるウィンストン・スミス(井上芳雄)は、監視された世界の住人としてエクリチュールを試みているうちに、オーウェルが書いた1984年の世界に入っていく。そこでは世界がオセアニアとユーラシア、イースタシアの3国に分かれて争っている。ウィンストンのいるオセアニアでは巨大政党が専制を行っており、国民は全て監視下にあった。ニュースピークという言葉が使われているのだが、それは年々、語彙が減っており、簡潔になっている。思想統制が行われており、ビッグ・ブラザーに刃向かう者は思考犯(思想犯ではない)として拷問され、あるいは抹殺されていた。無謀にもビッグ・ブラザーに反旗を翻そうとしてウィンストンは、ジュリアという美しい女性(ともさかりえ)と出会い、勇気づけられるのであったが……。

映像やマジックミラーなどを効果的に用いた演出である。

個がシステムに飲み込まれ、思考すること自体が犯罪となる世界を描いた舞台である。そこでは個人であるということが否定され、個々は全体の一つでしかない。
ウィンストンは、最後まで個の尊厳を守ろうとするのが、メリッサを裏切ることで、最後の砦を失ってしまう。

大きな流れの中にあること、ものを考えなくてもよいことは楽で心地よく、人から支持されやすいだけに人々は飲み込まれやすい。そういえばマクロビオティック狂信者になっていた時代の×××は思考を放棄しただけあって実に生き生きとしていた。そう、ポピュリズムとは快活なものなのだ。そして極めてプライベートであるが故に広汎性を持ち、受け入れられていく。まさに思考警察化だ。
そして、もし自分が演劇的、文学的、芸術的でありたいと欲する人間は、思考犯であるべきだと当然ながら思う。そうなれない表現者はビッグ・ブラザーに魂を売ったのだ。いや、見渡してみれば、もうビッグ・ブラザーに魂を売った、というよりも自分がビッグ・ブラザーとうそぶく人ばかりだが。
ビッグ・ブラザーは特定の誰かではなく、我々民衆の総体なのだ。



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2018年5月13日 (日)

第181回鴨川をどり 「真夏の夜の夢より ~空想い」&「花姿彩京七小町」 2018年5月8日

2018年5月8日 先斗町歌舞練場にて

午後4時10分から、先斗町歌舞練場で、第181回鴨川をどりを観る。私が鴨川をどりを観るのは今日で3回目。都をどりと京おどりが2回ずつ、祇園をどりは1回しか観ていないため、鴨川をどりを観る回数が一番多いということになる。

鴨川をどりは演劇の上演が行われるのが特徴である。今年の演目は、W・シェイクスピア「真夏の夜の夢より ~空想い」1幕4場と、「花姿彩京七小町(はなのいろどりきょうななこまち)」全7景。

パンフレットには、就任したばかりの西脇隆俊京都府知事が、門川大作京都市長と共に挨拶の言葉を載せている。私が目にする西脇府知事の初仕事だ。

なぜかはわからないが今日は最前列で観ることになる。最前列は舞台に近いが、近すぎて全体を見通しにくくなるため、特別良い席というわけではない。ただ、「花姿彩京七小町」では、以前に木屋町・龍馬で出会ったことのある舞妓のもみ香さんの目の前だった。向こうはこちらのことを覚えていないだろけれど。

「真夏の夜の夢より ~空想い」。タイトル通り、シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」を翻案した作品である。

夏の夜。森の王様である松の王であるが、浮気がばれたため、お后である月と松の王との仲が悪くなる。そのため、月は松の王が目を閉じている間だけしか顔を覗かせない。森の中では、花の精の白百合と撫子、白い子犬の白狗丸、鯉の精の鯉四郎らが、松の王の話を語らっている。そこへ、都の公達である来井左衛門と羽雅姫が森の奥へと逃げ込んで来たという話が伝わる。結婚を反対されて駆け落ちして来たのだという。羽雅姫は出味明之丞という貴公子と結婚させられそうになっている。その明之丞も羽雅姫を追って森へと入ってきた。さらに明之丞を恋い慕う蓮音姫までが森へとやって来る。鯉四郎は白狗丸(原作ではパックに当たる)に“じゃらじゃら草”を渡し、じゃらじゃら草の露を目にかければ次に見た者を恋してしまうと教える。白狗丸が露をかけると男同士までもが愛し合うようになってしまい……。

彼女たちは、芸舞妓であって女優ではないので、演技力を求めてはいけないだろう。本当に見られる演技をするならかなり長期の稽古を行わねばならないため無理である。踊りの技術と華やかさがあれば十分だろう。
「真夏の夜の夢」ということで、唄(録音)が「パパパパーン、パパパパーン、パパパパンパパパパン、パパパパンパパパパン、パーンパパパパパパ」とメンデルスゾーンの劇付随音楽「真夏の夜の夢」より“結婚行進曲”を口ずさむ場面があった。

「花姿彩京七小町」。舞妓総出演の序章に続き、紫式部の一人舞である「式部の章」、静御前が登場する「静の章」、出雲阿国らが舞う「阿国の章」、滝口入道と横笛による「横笛の章」、吉野太夫が一人で現れる「吉野太夫の章」、藤の絵を背景に大勢で舞う「藤の章」の7つの章からなる。女であることの光と影が描かれるが、最後の「藤の章」では、おかめの面を被った白川女が登場するなど、ユーモアを交えて終わった。



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2018年5月12日 (土)

観劇感想精選(242) 「夢と錯乱」

2018年5月6日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後3時から、京都芸術劇場春秋座で「夢と錯乱」を観る。27歳で夭逝したオーストリアの詩人、ゲオルク・トラークルの散文詩「夢と錯乱」を取り上げる上演。演出:クロード・レジ、テキストフランス語訳:ジャン=クロード・シュネデール&マルク・プティ。出演:ヤン・ブードー。フランス語上演、日本語字幕付き(テキスト日本語訳:中村朝子、字幕:浅井宏美)。特設座席を使っての上演である。

現在93歳のクロード・レジ。フランスの前衛演出家である。1960年代にはマルグリット・デュラスと共に仕事を行い、その後、ヨン・フォッセの「だれか、来る」やサラ・ケインの「4時48分サイコシス」などの演出を行っている。本作が最後の演出作になる予定。

ゲオルク・トラークルは、モーツァルトの街として知られるザルツブルクの生まれ。裕福な商人だった父親と芸術好きな母親の間に生まれた。ゲオルクは、幼少時から文学に興味を示し、音楽的な才能を発揮する。同様の気質を持つ妹が一人おり、彼女は後にピアニストになるのだが、ゲオルクと彼女は近親相姦の関係にあったといわれている。
ギムナジウムで文学仲間と共に同人誌を始めたゲオルクだが、飲酒や薬物に溺れるようになり、二度の落第を経験して学校を中退。その後、薬剤師になるための3年の実習を経てウィーン大学薬学部に入学し、薬剤師の免許を取ったが、薬剤師としての仕事に馴染めず、公務員になるも長続きせず、デカダンスな生活を送る。困窮したゲオルクは第一次大戦に志願。薬剤試官として前線に赴くも繊細な神経が戦場の地獄絵図に耐えられず、精神を病み、ピストルによる自殺未遂を経てコカインの過剰摂取により死亡。自殺とみられている。彼の死から3年後、妹もまたピストル自殺により世を去った。
悲惨な人生を歩んだゲオルクであるが、ヴィットゲンシュタインから「天才」と称されるほどの詩才を持ち、現在ではドイツ表現主義最大の詩人という評価を得ている。

ゲオルク・トラークルの散文詩「夢と錯乱」は、伝記的内容を持つ。

「すべては薄明のなかで」起こる。
闇の中、何かが光っている。その何かが徐々に揺れ出し、移動する。明度が上がると、その何かが俳優のヤン・ブードーであることがわかる。上部にアーチ。その下でブードーは絞り出すような声で、「夢と錯乱」のテキストを語っていく。ゲオルク・トラークルの言葉には「赤」や「青」を始めとする様々な色が散りばめられているのだが、照明は灰色であり、ラスト近くで黄昏の赤が入るほかはモノクロームの世界が展開される。
ゲオルクの後悔の言葉、過去に築き上げた思惟の城、青い色をした妹の影、旅立ちゆく父親と神経質な母親の像。ヤン・ブードーは哀れな狂人としてテキストを読み上げていく。
そして石のように彼は死へと落ちていく。
「呪われた種族」のことを彼は繰り返し語る。ゲオルク、彼の妹、彼の家族、これらは間違いなく呪われた種族に入る。そしてその外、今に至るまでの人間の歴史を呪いとして告発しているようでもある。

死の淵にある彼の姿に、演出のクロード・レジはおそらく自身を重ねているのだろう。イエスを始めとする「人類の苦悩を引き受けた」存在の一人として。

上演時間約1時間程度であるが、そこには濃密な時間が流れていた。



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2018年5月11日 (金)

観劇感想精選(241) ミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」2018大阪

2018年5月4日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後7時から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」を観る。「ウエストサイド・ストーリー」や「スウィーニー・トッド」などの名作ミュージカルを手掛けたスティーヴン・ソンドハイムの最高傑作とされる作品の日本初上演である。作曲・作詞:スティーヴン・ソンドハイム、脚本:ヒュー・ホィーラー、翻訳・作詞:高橋知伽江、演出:マリア・フリードマン、振付:ティム・ジャクソン。音楽監督・指揮:小林恵子。出演:大竹しのぶ、風間杜夫、安蘭ケイ、栗原英雄、蓮佛美沙子、ウエンツ瑛士、木野花、安崎求、トミタ栞、瀬戸たかの(瀬戸カトリーヌ改め)。リーベリーダー(アンサンブルキャスト):彩橋みゆ、飯野めぐみ、家塚敦子、中山昇、ひのあらた。

19世紀のスウェーデンが舞台。本作はスウェーデン映画の巨匠であるイングマール・ベルイマン監督の映画「夏の夜は三度微笑む」に着想を得た作品で、1973年に初演。トニー賞7部門、グラミー賞2部門を獲得している。これほど評価の高いミュージカルがなぜ日本で上演されなかったかはナンバーを聴けばすぐにわかる。完成度は恐ろしく高いが難度もそれ以上に高い。ミュージカル初挑戦となる風間杜夫の最初のナンバーは、なんとレチタティーヴォ調。ただでさえ難しいのにレチタティーヴォに不向きな日本語で歌うのはほぼ不可能。ということで、風間杜夫は音程もリズムも外しまくっていた。元々歌はそれほど得意ではないのだと思われるが、初挑戦のミュージカルが本作というのは酷である。

朗読や朗読劇への出演はあるものの、本格的なミュージカルに挑戦するのは初となるのが、風間杜夫演じる弁護士のフレデリック・エイガマンの幼妻・アン役の蓮佛美沙子。蓮佛美沙子は現在27歳だが、アンは18歳ということで10歳ほど下の女性を演じることになる。「若さ」と「幼さ」の表現に長け、かなり高めの音が要求される歌もこなしていた。ただ、魅力が十分に出ていたかというとそうでもないように思う。

リーベリーダーという役割を与えられている5人は、いずれも歌唱力が高い。年中ミュージカルで出ているような気がする飯野めぐみを始め、歌第一で取られた人達なのだから当然ともいえるが、歌に関しては有名キャストを上回っていたようにも思える。
ストーリーはリーベリーダーがワルツのリズムに乗って登場するところから始まるのだが、このミュージカルはとにかく3拍子系の楽曲が多い。全体のおそらく9割前後が3拍子系の楽曲で占められている。舞踏のリズムである3拍子系が多用されていることには勿論、意味がある。作品自体がエンドレスワルツ的狂騒を描いたお話なのである。

ストーリーであるが、第一幕を観ている時はとにかく退屈に感じられる。第一の理由は私の年齢にある。この手の話を気楽に観られるほど若くはないが、切実に感じるほどには年を取っていない。
第1幕を見終えて、本気で「もう帰ろうか」と思ったが、今後が面白くなりそうな予感もあり、第2幕の予定上演時間は約55分と短めであったため続けて観ていくことにする。

第2幕では、フレデリックの息子のヘンリック(ヘンリック・イプセンにちなんだ名前であることが暗示される場面がある。演じるのはウエンツ瑛士)、アン、カールマグナス伯爵(栗原英雄)と妻のシャーロット(安蘭けい)、舞台女優のデジレ(大竹しのぶ)などが入り乱れた恋の話になる。盲目状態の愛が繰り広げられ、人間という存在が根本に持つ愚かしさとそれゆえの愛おしさが照射されていく。

悲惨な状況であるにも関わらず滑稽という場面が第2幕には登場する。ヘンリックが縊死しようとする場面や、フレデリックの「不思議だ。庭のベンチに腰掛けて休んでいたら、人生が終わってしまった」というセリフは、悲劇性を伴っているはずだが妙に可笑しく、客席が笑いで沸く。フレデリックのこのセリフをこれほどリアルに語れる俳優は風間杜夫をおいて他にいないはずで、歌唱力の不足を補って余りある配役といえるだろう。

この感想は時間の関係で当日には書かず、翌日、翌々日に書いたものなのだが、時間が経てば経つほどこの作品に対する愛着は強くなっている。そういう作品はこれまでに何度か観たことがある。
すぐにわかることなど、その程度のものでしかないということなのかも知れない。

終演後にアフタートークがあり、ウエンツ瑛士と安蘭けいが参加する。司会を置かず、ウエンツがリードする形で二人が自由に喋るというスタイルである。ウエンツは「みんな僕を馬鹿にする」としてふさぎの虫に取り憑かれているヘンリックを、安蘭けいは頭が空っぽの夫にうんざりしているシャーロットをそれぞれ好演していた。ともにミュージカル経験が豊富だけに、この難しい作品と役を手の内に入れていた印象を受ける。
途中、カールマグナス伯爵役の栗原英雄とアン役の蓮佛美沙子が舞台を上手から下手へと横切っていった。

今回は、演出がマリア・フリードマン、振付がティム・ジャクソンということで稽古は全て英語による指示で行われたのだが、ウエンツ瑛士と瀬戸たかの(安蘭けいはまだ「カトリーヌちゃん」と呼んでいるようだ)というハーフが二人おり、いかにも英語が出来そうな雰囲気を持つもの、実は二人とも英語でのコミュニケーションは一切出来ないということで苦労があったようである。ウエンツは、義母でありながら恋心を寄せているアン役の蓮佛美沙子と二人一組になることが多かったのだが、蓮佛美沙子は英語が得意で、マリアの指示を大体理解することが出来るため、横にいるウエンツにも「通訳が言わなくてもわかるよね」と暗に示されることが多く、ウエンツもさも分かったような振りをせざる得ず、稽古が終わった後でマリアに「あれ、なんて言ってたの?」と聞きに行く羽目になったそうだ。
安蘭けいによると、マリア・フリードマンは「リトル・ナイト・ミュージック」に女優として出演した経験があり、マリアが演じたことのあるシャーロットとペトラ(今回は瀬戸たかのが演じた)には思い入れが強いようで、指示も細かかったそうである。

なお、デジレの娘、フレデリカ(演じるのはトミタ栞)の名はフレデリックの女性形なのだが、フレデリカがフレデリックとデジレの間に出来た娘なのかどうかについては答えが書かれていないという。フレデリカの父親がフレデリックなのかどうか、ウエンツが客席に拍手の大きさでアンケートを取る。今日のお客さんは、フレデリックとフレデリカは親子だと考えている人が比較的多いようだった。



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2018年5月 3日 (木)

観劇感想精選(240) 二兎社 「歌わせたい男たち」

2008年4月19日 大阪・梅田のシアター・ドラマシティにて観劇

午後7時より、大阪のシアター・ドラマシティで、二兎社の公演「歌わせたい男たち」を観る。作・演出:永井愛。出演:戸田恵子、大谷亮介、中上雅巳、小山萌子、近藤芳正。

高校の保健室が舞台。テーマは国歌斉唱である。もっとも、歌いたくない女を歌わせようとする男達というわかりやすい構造は取らない。そもそも、そんな誰でも思いつく構想の作品だったら、いくら永井愛の作・演出といえども観たいという気にはなれなかっただろう(永井愛も最初は歌いたくない女と歌わせたい男の設定にしようかと思ったそうだが、それでは物語がふくらまないということでやめたとのことだ。正解だと思う)。

音大を出てシャンソン歌手として活動を続けたものの、売れないままいい歳になってしまった仲ミチル(戸田恵子)は、高校の音楽教諭の免許をいかして、何とかかんとか、ある都立高校の音楽教師になることが出来た。音大時代はピアノが得意だったが、長いことろくにピアノを弾いていなかったので、今やピアノの腕は散々。ミスタッチが多いので、生徒に「ミス・タッチ」とあだ名され、与田校長(大谷亮介)なども陰では「ミス・タッチ」と呼んでいたりする。それほどピアノの腕のまずい彼女が音楽教師になれたのには理由があった。前任の音楽教師が、国歌の伴奏を拒否して学校を辞めてしまったのだ。ミチルが着任した高校には、国歌斉唱に反対する教師がおり、音楽教師もその問題にシビアになるため、次々に学校を去っていった。ミチルが音楽教師になれたのは、もう他に音楽教師を探し出すあてがなかったからである。

ミチル自身は国歌のピアノ伴奏をすることに特に抵抗は感じていないのだが、国歌斉唱が義務づけられた状態の都立高校にあって、国歌斉唱に反対の立場を取る拝島(近藤芳正)という教師のいるこの高校では、校長を始めとする教師達は、懲罰を怖れて、何が何でも滞りなく卒業式を終えねばならないとやっきになっていた……。

国歌斉唱が本来の意義からずれて強制を伴うようになり、違反した場合は懲罰まであるという何とも妙な現状が描かれているのだが、主役は誰で、根本は何かが問われないまま、形式だけが奉られる状態はシニカルな笑いを誘う。

あらゆることの根本であり、主役であるのは人間のはずなのだが、このままでは、主役は儀式ということになってしまい、また本来は人間が利用するはずの思想も、いつの間にか固定されてしまって逆に人間を振り回している。

結局、根本が問われないまま、不必要に入り組んだ思考でやっとたどり着くのはねじれにねじれた答え。普通に考えれば、ねじれがなければ出てこない答えは、それそのものが不自然である。そんな不自然な過程を踏まなければならない人間存在は哀れであると同時に滑稽である。

多くのものが転倒する現代社会。戦争反対の思想が争いを生み、存在しないものの方が実在の人間よりも価値が置かれる。

転倒はある意味では歴史の必然である。言葉もなく、意識も不分明だったころの人間を想像してみる。多くの言葉を持たない動物や植物と同じように、その頃の人間にとっては存在こそが価値だったはずだ。ところが人間はもう、価値あるものや価値があるとされるものに奉仕(あえて「奉仕」という言葉を用いる)しなくては存在意義を否定すらされる。完全に価値が転倒してしまっているのだ。これも奇妙といえば奇妙ではある。もう奇妙などとは言っていられないところまで人間は来てしまっているのだが(ただし人間の価値に関していうなら、後戻りが完全に不可能だとは私は考えていない)。

人間は本来もっとシンプルな存在だったはずなのだが、歴史を経て、もともとの意義からずれた場所でずれたことをするようになる。これはある意味避けられない。

国歌斉唱も、最初はそれほど重要な意義はなかったはずだ。あったとしても、富国強兵の日本を打ち立てるための国民意識向上と国威高揚のための国歌としての意義。そして、外国にも国歌があるんだから日本にも国歌があってしかるべきといった程度の認識だったはずだ。しかし戦争を経て、それが大きくねじれてしまう。

ねじれた存在であったとしても、そのねじれた存在として受けいれられる可能性もなくはなかったのだが、思想の闘争により(思想の闘争だってある意味戦争である)、元々の場所から更に遠い場所、もう誰も正確な認識など出来ない場所へと遠ざけられてしまった。
思想も信条も人間を縛るためのものなのか。ある意味そうであり、ある意味そうでない。そうでないなどと断言は出来ない。

しかし、多くの人が「妙だ」と思いながらも思想や信条に推し進められて状況だけが暴走する状態に終止符を打つことは誰にとっても困難である。あらゆる人間は、もうシステム化された社会の下に置かれてしまっているからだ。転倒した社会の中で誰一人として主役になることなく世界は進んでいく。客観的に見た場合、この状況は悲しくも滑稽以外の何ものでもない。
と、劇本来の内容からはずれた場所に私も出てしまっているわけだが、これは私が考えさせてくれる劇を好み、「歌わせたい男たち」がそうした考えさせてくる劇だったからである。

「歌わせたい男たち」というタイトルには二重の意味がある。もっと正確にいえば、歌わせたい曲は最低でも二曲ある。一曲はいうまでもなく「君が代」。もう一曲は……、ここまでバラしてしまうと面白くないか。

役者についていうと、舞台に近い席で観たということもあり、戸田恵子の──テレビからは伝わってこない──チャーミングな魅力を味わうことが出来た。また戸田の歌声はとても素敵だった。

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2018年4月24日 (火)

コンサートの記(375) ローム ミュージック フェスティバル 2018 二日目(楽日)

2018年4月22日 左京区岡崎のロームシアター京都にて

今日も、ローム ミュージック フェスティバル 2018を聴くためにロームシアター京都に出向く。昨日も今日もロームシアターのある左京区岡崎までは歩いて往復した。

 

今日最初に行われるコンサートは林美智子らメゾ・ソプラノ歌手達の共演であるリレーコンサートCであるが、これはチケットを買わずにパスして、午後3時30分開演のリレーコンサートDから聴く。

ロームシアターに着いたのはローム・スクエアで行われる立命館高校吹奏楽部の演奏が準備に入っているところで、何の音もしていないという時間帯であった。サウスホールからはリレーコンサートCを聴き終えた人々が続々と出てくるのが見える。

 

午後3時30分から、ロームシアター京都サウスホールで、リレーコンサートD 朗読劇「兵士の物語」~彼の運命や如何に!?を聴く。

曲目は、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番(ヴァイオリン独奏:玉井菜採)、ブーレーズの「ドメーヌ」(クラリネット独奏:亀井良信)、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」(朗読:西村まさ彦、ヴァイオリン:玉井菜採、コントラバス:佐野央子、クラリネット:亀井良信、ファゴット:佐藤由起、トランペット:三澤慶、トロンボーン:今込治、打楽器:西久保友広)。西村まさ彦(本名である西村雅彦から改名)が登場するという、ある意味、今回のローム ミュージック フェスティバル最大の目玉ともいうべき公演である。

まずは、玉井菜採(たまい・なつみ)の独奏によるJ・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番。
関西では聴く機会も多い玉井菜採。京都市生まれ、大津市育ちのヴァイオリニストである。母親は京都市交響楽団のヴァイオリン奏者であった。桐朋学園大学在学中にプラハの春国際コンクール・ヴァイオリン部門で優勝。桐朋学園大学卒業後にアムステルダム・スヴェーリンク音楽院、ミュンヘン音楽大学に学ぶ。ミュンヘン音楽大学在学中にローム・ミュージック・ファウンデーションの奨学生となっている。J・S・バッハ国際コンクール最高位獲得、エリザベート王妃国際コンクールやシベリウス国際コンクールで入賞と、コンクール歴も華麗である。

玉井のヴァイオリンは艶があり、歌も淀みがない。演奏スタイルやスケールもバッハに合っており、上質の演奏を繰り広げた。

ピエール・ブーレーズが書いたクラリネット独奏のための作品である「ドメーヌ」。6片の楽譜からなるが演奏する順番は決まっておらず、楽譜は縦から読んでも横から読んでもOKという、ブーレーズらしい尖った作品である。縦からも横からも読める楽譜がどういうものを指すのかはわからないが、五線譜に書かれたものではないであろう。

クラリネットの亀井良信は、桐朋女子高校音楽科(共学)卒業後に渡仏。パリ市12区立ポール・デュカ音楽院とオーベルヴィリエ・ラ・クールヌーヴ地方国立音楽院をいずれも1位で卒業。ブーレーズに認められて、騎馬オペラ団ZINGAROのソリストに起用されたこともある。現在はソリストとしての活動の他、桐朋学園大学准教授も務める。

暗闇の中、亀井が忍び足で登場。6つある譜面台の内、上手奥の譜面から演奏を始める。6つとも当然ながら現代的曲調だが個性は様々。「怒りのブーレーズ」と呼ばれ、様々な権威に挑戦して先鋭的な作品を生み出して来たブーレーズだが、今聴くと案外わかりやすい音楽であることがわかる。思いのほかメロディアスであり、少なくともブーレーズよりも後に登場した現代音楽作曲家の作品に比べると把握のしやすい内容である。思えば現在では「傑作」として誰もが認める作品が初演時に「メロディーがない」と批評されたという事実がある。

様々な特殊奏法が駆使されるが、亀井は余裕を持ってこなしていく。

10分間の休憩を挟んで、メインであるストラヴィンスキーの「兵士の物語」。ロシア革命の翌年である1918年に書かれた作品だが、ストラヴィンスキーもご多分に漏れずロシア革命に巻き込まれて財産を失い、人が雇えないので小編成で演奏可能な舞台上演用作品を、ということで書かれたのがこの曲である。
テキスト日本語訳は新井鷗子。

物語は、許嫁のいる故郷に帰る途中の兵士・ジョセフが悪魔と出会い、愛用しているヴァイオリンを手放す代わりに未来が読める本を得たということから始まる。ジョセフは文盲であったが、悪魔から渡された本は読むことが出来た。悪魔のお屋敷で2日を過ごしたジョセフだが、実際の世の中では3年が過ぎていた。故郷に帰ったジョセフであるが、人々はジョセフはもう死んだものだと思い込んでおり、「幽霊が出た」と思って門扉を堅く閉ざしてしまう。許嫁ももう他の男と結婚しており、子どもまでいた。失意の内に隣国にやって来たジョセフは未来が読める本のお陰で巨万の富を得るが友達はゼロになり、女にももてず、食欲も減退して心は全く満たされない。そんな時、その国の王様がお触れを出す。お姫様がどんな名医でも治すことの出来ない病気に罹患しており、治すことが出来る者が現れたらその者に姫をやろうというものであった。どう治療すればいいか知っていたジョセフは王宮へと向かうのだが、再び悪魔が現れ……、というもの。人間の幸福と芸術の問題が語られる寓話である。

朗読担当の西村まさ彦は、テレビや映画、舞台でお馴染みの俳優。出世作はエキセントリックな指揮者を演じた「MAESTRO(マエストロ)」である。富山商業高校卒業後、東洋大学に進学するが高校時代の失恋を引きずったままであり、ほとんどキャンパスに通うことなく中退。出身地である富山市の写真専門学校に入り、この時に文化祭のようなもので演劇(専門学校のM先生が書いた坂本龍馬を主役にしたオリジナル作品だったという)に初めて触れている。一時、カメラマンの助手になるが、地元のアマチュア劇団で演劇の面白さに触れ、俳優を目指して再び上京。劇団文化座に所属しつつ、様々な劇団に客演を重ねていた(文化座は無断外部出演がばれたら首だったらしい)。知り合いを通じて三谷幸喜が主宰していた東京サンシャインボーイズに入団し、看板俳優となる。1990年代前半にはすでに、佐々木蔵之介、堺雅人、升毅、古田新太らと並んで小劇場のエース的存在として注目を浴びていた。彼らの中で一番最初にお茶の間での人気を得たのが西村である。
現在では俳優業の他に、出身地である富山市などでの演劇ワークショップ講師を務めるほか、大正大学表現学部の特任客員教授として後進の育成にも当たっている。
舞台俳優としては演劇の新たなる可能性を探究しており、劇作家ではなく構成作家など演劇畑以外の作家を起用した公演を行っている。

玉井と亀井以外の演奏メンバーを紹介していく。
佐野央子(さの・なかこ)は東京藝術大学および同大学院出身のコントラバス奏者。小澤征爾音楽塾塾生などを経験し、現在は東京都交響楽団のコントラバス奏者である。
佐藤由起(さとう・ゆき)は桐朋学園大学卒業後、シドニー大学大学院修士課程を修了したファゴット奏者。シドニー大学大学院時代にシドニー交響楽団契約奏者として活動している。小澤征爾音楽塾などを経て現在はNHK交響楽団のファゴット奏者を務めている。
三澤慶は東京音楽大学卒業後にフリートランペッターとして活躍。現在は東京室内管弦楽団トランペット奏者でもある。東京音楽大学在学中に京都・学生フェスティバルに参加。
今込治(いまごめ・おさむ)は大友良英ビッグバンドなどで活躍するトロンボーン奏者。東京藝術大学卒業後、ロストック音楽演劇大学も卒業。横浜シンフォニエッタのシーズンメンバーでもある。東京藝大在学中に京都・学生フェスティバルに参加している。
打楽器の西久保友広は東京音楽大学卒業同大学院修了。在学中にKOBE国際学生音楽コンクール打楽器部門の最優秀賞および兵庫県教育委員会賞を受賞。JILA音楽コンクール打楽器部門1位、神戸新聞文化財団松方ホール音楽賞大賞などを受賞している。小澤征爾音楽塾に参加。現在は読売日本交響楽団打楽器奏者を務める。

西村は全身黒の衣装で登場。朗読を始める前に何度も咳き込んで、客席のみならず演奏者からも笑いが起こる。
語りであるが、いかにも西村まさ彦らしい味のあるものである。ジョセフという兵士の朴訥な感じもよく伝わってくる。

ストラヴィンスキーの音楽であるが、ファゴットが「春の祭典」を想起させる旋律を吹いたりはする。ただ、後年、「カメレオン作曲家」と呼ばれる傾向は見えており、多彩な音楽語法が使用されている。

 

午後6時から、ローム ミュージック フェスティバル 2018の最終公演であるオーケストラ コンサート Ⅱ 天才と英雄の肖像を聴く。メインホールでの上演である。演奏は下野竜也指揮の京都市交響楽団。

曲目は、天才・モーツァルトのピアノ協奏曲第20番(ピアノ独奏:小林愛実)とリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」

昨日に引き続き、朝岡聡がナビゲーターを務めて、前半後半とも演奏開始前に一人で現れて楽曲の紹介と解説を行った。

コンサートマスターに泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平という布陣は昨日と同様である。

モーツァルトのピアノ協奏曲第20番。ソリストの小林愛実(こばやし・あいみ)は1995年、山口県宇部市生まれの若手。5歳でピアノ全国大会の決勝に進出、9歳で国際デビューを果たし、14歳でEMIからCDデビュー、サントリーホールでのリサイタル日本人および女性演奏家最年少記録保持者という神童系ピアニストである。桐朋女子高校音楽科に全額奨学金特待生として入学。現在はローム奨学生としてフィラデルフィアのカーティス音楽院で学んでいる。

下野と京響はピリオドスタイルを採用。音色も旋律の歌い方もモダンスタイルとは明らかに異なる。今日は昨日とは違って3階席正面5列目で聴いたのだが、メインホールの3階席でピリオドスタイルの演奏を聴くのはやはり厳しいように思う。音が小さすぎる。

小林のピアノは冒頭から仄暗さと輝きという相反する要素を止揚した極めて優れたものである。孤独の告白の部分は勿論だが、第2楽章のような一見典雅な曲調であっても常に涙を滲ませている。第1楽章と第3楽章のカデンツァは聴き慣れないものだったが、誰のものを使用したのかは不明である。

今の日本人若手ピアニストはまさに多士済々。技術面で優れているだけでなく極めて個性的な逸材が顔を揃えている。ピアニストが書いた本を読むと、今はもうバリバリ弾けるのは前提条件で、和音を作る際にどの指に最も力を入れるかなど、かなり細かい解釈と計算を行っていることがわかる。技巧面で完璧なら問題なしという時代はとっくに終わったようだ。20世紀スタイルのピアノを弾いている人は段々仕事が減っていくかも知れない。

小林のアンコール演奏は、ショパンの夜想曲第20番(遺作)。冒頭は遅めのテンポで痛切な感じを出し、主部は立体感を出しと孤独と悲しみを歌う。そのままのスタイルでいくのかと思ったが、舞曲風の場面では快活さを前面に出すなど一筋縄ではいかないピアノであった。相当な実力者と見て間違いないだろう。

リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。リヒャルト・シュトラウスは下野の得意レパートリーの一つである。京響の機能面での充実が感じられる好演となった。
ステージ上をびっしりと埋めるオーケストラ。メインホールの音響は残響こそ1秒もないほどだが音の通りは良く、個々の楽器の音がクッキリと聞こえる。これにより、下野の肺腑を衝く高い音楽性が明らかになっていく。ヴァイオリン群と低弦群、管楽器群の対話の明確さなど、リヒャルト・シュトラウスの意図が手に取るようにわかる。
惜しむらくは終盤が一本調子になってしまったことだが、日本を代表する存在とはいえまだ50歳にもならない指揮者による演奏であるため、完璧を望むのは酷だろう。音の充実だけを取ればヨーロッパの第一級のオーケストラに匹敵する水準に達していたように思う。



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2018年4月22日 (日)

観劇感想精選(239) 白井晃演出 「三文オペラ」

2007年11月9日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター中ホールにて観劇

午後7時より兵庫県立芸術文化センター中ホールで、「三文オペラ」を観る。ベルトルト・ブレヒト作、クルト・ワイル音楽。酒寄進一による新訳テキストによる公演。演出は白井晃。音楽監督:三宅純。出演は、吉田栄作、ROLLY、篠原ともえ、銀粉蝶、佐藤正宏、大谷亮一、細見大輔、猫背椿、六角慎司、内田紳一郎ほか。

ブレヒトは演劇に「異化効果」を持ち込んだことで知られるが、現代の観客は安易に登場人物に同化せず、冷静に眺めていることが多いので、「異化効果」について特に気にする必要はない。
ただ、演出の白井晃がわかりやすい「異化効果」を用いているのでそれは参考になる。白井晃は主人公の悪党ミッキ・メッサーに恋する女性ポリーに篠原ともえをキャスティングしている(白井本人の希望によるキャスティング)。ポリーはセクシーで挑発的な歌や仕草をするのだが、篠原ともえがそれをやると予想されるとおりセクシーにも挑発的にもならない。むしろ可笑しい。これが「異化効果」の一例である。

ブレヒトの芝居は何本か観ているが「三文オペラ」を観るのは初めて。ただ戯曲は二十歳の頃に読んでいるし、同時期にジョン・モーセリ(ジョン・マウチュリー)指揮ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)、ウテ・レンパーほかによるクルト・ワイルの「三文オペラ」全曲盤を聴いているので、内容も歌も一応はわかっている。


通常はオーケストラピットとして使われる部分を平土間にし、そこに三階建てのセットを組み上げている。電光掲示の文字が浮かび上がり、いくつかのト書きが随時示される。

モーセリ盤などではチープなオーケストレーションによる演奏が行われているが、白井晃の音楽好きは有名なだけに、三宅純を招いてゴージャスなサウンドを築いた。


ジョン・ゲイの「ベガーズ・オペラ」を下敷きにした作品(なお、「ベガーズ・オペラ」も来年2月に大阪の梅田芸術劇場メインホールで上演された)。舞台はヴィクトリア女王即位直前のロンドンのソーホー。大英帝国時代初期よりソーホーには移民が多く移り住み、風俗店や貧民窟などが立つ雑多な街となっていた。
ジョナサン・ジェルマイヤ・ピーチャム(大谷亮一)は、ソーホーで乞食衣装屋を営んでいる。汚らしい衣装に身を包み、車いすに乗って身障者に見せかけたホームレスの男達に乞食をさせて金儲けをするという一種の詐欺商法である。ヴィクトリア朝のロンドンの乞食というと、サー・アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズの一作「唇のねじれた男」が有名だが、当時のロンドンの乞食について研究したシャーロキアン(熱狂的なシャーロック・ホームズ信奉者)によると、実際、大英帝国では乞食は結構な稼ぎになったらしい。

ソーホーを根城にした盗賊団のキャプテン(リーダー)メッキ・メッサー(吉田栄作)。メッサーは、ピーチャムの娘であるポリー(篠原ともえ)と結婚式を挙げる。しかし、盗賊団のリーダーで殺人、強盗、放火、強姦などの常習犯であるメッサーとの結婚にピーチャム夫妻はポリーとメッサーの仲を裂こうとする。

実はメッキ・メッサーは、ロンドン警視庁(スコットランドヤード)のタイガー・ジャッキー・ブラウン総督とかっての戦友であり、またブラウンに盗んだ金の何割かを与えており、捕まる心配はまずないのだった。ところがピーチャムは、娘とメッサーの仲を裂くために、メッサーを逮捕させようと画策する……。

お洒落な演出で知られる白井晃だけに、「三文オペラ」であっても決して汚くはならない。そして悪党どもが次々出てくるシーンでも粗暴な感じは表にでない。だからこちらも安心して笑っていられる。

ブレヒトの劇作は敢えてギクシャクした方法を選択しているのだが、それは余り気にならなかった。


休憩時間に、演出ノートを手にした白井晃がロビーを一人で歩いていた。それを目ざとく見つけた女の子が白井晃に握手を求める。白井さんは快く応じていた。


2007年に「三文オペラ」を上演するに当たり、白井晃は現代社会の諸問題とのオーバーラップを狙っており、成功している。思い切って現代風の訳を施した酒寄進一のテキストの力も大きい。


一つ一つを書くほど野暮ではないが、ブレヒトの時代と現代とでは共通の点も多い。社会構造の根っこや人間の本質は当時と今とでもそれほど変わっていないのだから当然といえば当然なのだが、21世紀に入り、一時期の日本では忘れられていた(あるいは忘れるよう仕向けられていた)構造がより明確にわかるようになってきている。問題の直接の出発点はイギリスで起こった産業革命にあるのだからこれまた当然といえば当然なのだが、それを可視的にする演劇の力は今なお有効である。

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2018年4月20日 (金)

観劇感想精選(238) 「憑神」

2007年10月2日 道頓堀の大阪松竹座にて観劇

午後4時30分より、大阪・道頓堀にある大阪松竹座で、浅田次郎の小説を原作とした舞台「憑神」を観る。脚本・演出:G2。出演は、中村橋之助(現・八代目中村芝翫)、鈴木杏、葛山信吾、升毅、藤谷美紀、、陰山泰、コング桑田、デビット伊東、秋本奈緒美、螢雪次郎、笠原浩夫、初嶺麿代、福田転球、野川由美子ほか。


「憑神」開演。3階席の一番前の列で観たのだが、視界に、3階席の柵の上の高さ15cmほどのガラス板が入る。私自身は特に邪魔とは思わず、ガラス越しに見ると役者の顔の輪郭が逆にクッキリしたりして良かったのだが、気になる人は気になるだろう。

頃は幕末。御徒士(将軍の出立の際に、徒歩で護衛を務める下級御家人)である別所家の次男・彦四郎(中村橋之助)は、お堅すぎる性格が玉に瑕だが武芸に秀でた侍。しかし家督も何も継げない次男ということで(江戸時代は長子単独相続である)、小十人組頭である井上家の養子に入っていたのだが、陰謀によって井上家を追われ、実家の別所家に出戻っている。別所家は、大坂夏の陣の際に先祖が徳川家康の影武者となって、真田幸村相手に名誉の討ち死にを遂げたという家柄で、代々江戸城西の丸紅葉山の具足番を務めている。とはいっても、具足の手入れが主な仕事であり、毎日のように仕事があるわけでもない。太平の世が続き、具足の出番はなくなり、具足番の仕事も名前だけのものになりつつあった。現在の別所家の当主は、彦四郎の兄・左兵衛(デビット伊東)であるが、この左兵衛というのがものぐさで、具足の管理をろくにしていない。

ある日、彦四郎は、草むらに隠れていた小さな祠を見つける。三巡と書かれたその祠に手を合わせた彦四郎。ところがその祠が、貧乏神と疫病神と死神を祀る祠だったからたまらない。早速、両替商・伊勢屋を名乗る貧乏神(升毅)が現れる。名ばかりの仕事しかない別所家の台所事情は当然苦しい。貧乏神から逃れようとする彦四郎に、貧乏神こと伊勢屋は、“宿替え”なるものを提案する。何でも貧乏神が取り憑く先を替えることを“宿替え”というのだそうで、取り憑く先は彦四郎が決められるという。彦四郎は、自らを罠にはめ、井上家から追い出した、義父の井上軍兵衛(螢雪次郎)を宿替え先にしてみた。すると井上家は火事を出し、お取りつぶしに。しかし、貧乏神の次には疫病神が巡ってくることになり、最後は死神までやってくるという。彦四郎はまたもや宿替えをすることになるのだが……。

江戸幕府の崩壊を背景に、混乱の世をいかに生きるかを問うた作品。

原作も脚本も演出も良いのだが、何といっても役者、それも中村橋之助を見せる芝居である。橋之助も観衆のためのサービス精神に満ちた魅せる芝居をする。それが、舞台の上だけで世界が完結しているリアリズムの芝居とは違うところである。もちろん橋之助の芝居が悪かろうはずがない。他の出演者の演技も充実していたが、何といっても橋之助がいなくては成立しない舞台ある。

音楽はスカやロックを使用した現代的なもの(作曲は佐藤史朗)。出演者が、舞台上でパーカッションを演奏する場面もあり、エンターテインメントの精神に満ちている。
メッセージも分かり易く、難しいことを考えなくとも、単純に「芝居って良いなあ」と思える舞台であった(内容が単純なわけではない。念のため)。

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2018年4月 7日 (土)

観劇感想精選(237) 国立文楽劇場 第106回文楽公演午後の部 「粂仙人吉野花王」&「加賀見山旧錦絵」

2007年4月12日 大阪・日本橋の国立文楽劇場にて観劇

大阪・日本橋(にっぽんばし)の国立文楽劇場で、第106回文楽公演午後の部、「粂仙人吉野花王(くめせんにんよしのざくら)」と、「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」を観る。
「粂仙人吉野花王」は、有名な久米仙人の話である。全五段からなるが、今日は吉野山の段のみが乗船される。
聖徳太子の兄ともいわれる粂仙人は、吉野の滝に龍神龍女を閉じこめ、干魃を起こし、それを帝と太子の不徳によるものだとして退位させようと企んでいる。それを察した朝廷は花ますという女を送る。花ますは久米仙人を誘惑して泥酔させ、滝に張られた注連縄を切って龍を天に昇らせる。果たして日照りは収まり、朝廷は権威失墜を免れるのである。
粂仙人を誘惑し、髪を振り乱して注連縄を切る花ますの姿は凛々しくも艶やかだ。また粂仙人の二人の弟子(大伴坊と安曇坊)のコミカルさも最高だ。

「加賀見山旧錦絵」は文楽作品の中でも特に有名であり、「女忠臣蔵」の俗称でも知られる。加賀藩のお家騒動をモチーフにした十一段からなる作品。今日もそうだったが、現在では後半の四段のみが上演されることが多い。
時は室町(ということになっている)。多賀家(加賀藩をもじったもの)では跡継ぎ騒動が起きようとしていた。局の岩藤は花若を世継ぎにしようとしていたが、足利将軍家からの書状は花若の兄を跡継ぎとして認めるというものであった。その書状は岩藤とともにお家乗っ取りを狙う弾正によって握りつぶされたが、岩藤は陰謀の密書を落としてしまい、中老の尾上にそれを拾われたことで悪事が露見するのを怖れる。
鶴岡八幡宮への参拝の折、岩藤は尾上を散々にいたぶる。悪事が露見する前に尾上を多賀家から追い出そうというのである。屈辱の余り尾上は自害、尾上の侍女であるお初は主の仇である岩藤を討とうと決意する。
江戸時代に書かれたものだけに、少々展開が回りくどいが名作であった。作品自体にのめり込んでしまい、余計なことは気にならなかった。
それにしても文楽の表現のバリエーションの多彩さとアイデアの豊富さには圧倒されてしまう。文楽を生み出した江戸時代の日本人の知的水準の高さに、改めて感心する。

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2018年3月27日 (火)

観劇感想精選(236) 文楽京都公演2018「桂川連理柵」より“六角堂の段”“帯屋の段”“道行朧の桂川”

2018年3月23日 京都府立文化芸術会館にて観劇

午後4時から、京都府立文化芸術会館で、文楽京都公演「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」を観る。今回の文楽公演は「桂川連理柵」と「曽根崎心中」の二本立てなのだが、「曽根崎心中」の方はスケジュールが合わず諦める。以前に「曾根崎心中」は2度観たことがある。

「桂川連理柵」はタイトルからも分かる通り、桂川のある京都が舞台となっている。帯屋の主である長右衛門38歳が隣の信濃屋の娘お半14歳と恋仲になってしまうという、今ならそれだけで犯罪という話だが、お半は長右衛門の子を宿しており、長右衛門は金策と大名から預かった刀剣の紛失で追い詰められ、心中を選ぶことになる。
長右衛門には義母のおとせと義理の弟である儀兵衛がいるのだが、この二人が実に嫌な人物として描かれている。
後半である「六角堂の段」「帯屋の段」「道行朧の桂川」の上演。20分弱の六角堂の段の後に15分の休憩が入り、その後はラストまで通される。お絹に横恋慕する儀兵衛とお半に恋している長吉の動きがコミカルだ。主遣いが冷静な表情でコミカルな動きを付けてるので更に可笑しくなる。「洟垂れ」などと言われる長吉はピエロそのものでああるが、儀兵衛にもそうした要素はある。
長右衛門が最後までお半の命を助けようとするのが人間的でもあり、彼の性格が出ていて良かったと思う。

文楽の場合、人形が主役ということでビジュアルが絵画的であり、ここぞというときは文字通り絵になる。俳優を使った演劇の場合は大半は役者の力量によって絵になっているのだが、人形は場面そのものが混じりけのない絵になっている。勿論、人形の作者や人形遣いの技量も加わっているのだろうが、それ以上に人形そのものの美が表に出ている。世界中の人形劇を観たわけではないが、おそらく文楽こそが世界で最も美しい人形劇であると思われる。



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