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2019年10月 9日 (水)

2346月日(16) 水谷彰良講演会「サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長」

2019年9月23日 関西大学梅田キャンパスKANDAI Me RISE8階Me RISEホールにて

午後2時から、関西大学梅田キャンパス8階Me RISEホールで、水谷彰良(みずたに・あきら)講演会「サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長」を聴く。

関西大学梅田キャンパス KANDAI Me RISEは3年前に出来たばかりのまだ新しいキャンパスである。大阪でも大学の都心志向が顕著であり、宝塚大学梅田キャンパス(看護学部)や大阪工業大学梅田キャンパス(ロボディクス&デザイン工学部)など、新設学部のためのキャンパスを設けるところもあるが、関西大学の梅田キャンパスは他の多くの大学同様、学部の教育ではなく、社会人向け講座(エクステンション)や就職活動の利便性のための出張所的なもの(サテライトキャンパス)であり、8階建てのビルであるが大工大や宝塚大のような大規模ビルキャンパスではない。1階にはスターバックスと書店が入っており、学生達でほぼ満員であった。

 

今年に入ってから大阪では、サリエリルネッサンスともいえる企画が続いているが、今回は春先にあったサリエリムジカとの関連講演である。水谷彰良は『サリエーリ 生涯と作品』の著者であり、オペラを中心とした音楽の研究家で、日本ロッシーニ協会の会長でもある。サリエリムジカの主催で、今回の講演では協力という形で携わっているナクソス・ジャパンの公式サイトに「聴くサリエーリ」を連載中である。
今回は大阪よみうり文化センターの主催、読売新聞大阪本社の後援となっている。

最近、サリエーリがスマホゲームの登場人物として話題になっているそうで、若い人にとってはサリエーリというとゲームのイメージが強いようだ。お年の方、55歳以上となると映画「アマデウス」のサリエリを思い浮かべることが多いのだが、私はそこまでは年ではない。55歳以上というのはロードショーで「アマデウス」を見た層で、私の場合は高校2年生の時にテレビ放送された「アマデウス」を観ている。その後、1994年3月5日の明治大学の受験日に、受験を終えて三省堂の神田神保町本店でピーター・シェーファーの戯曲『アマデウス』を買ったのだが、これが東京で買った最初の本であった。翌1995年には池袋のサンシャイン劇場で、九代目松本幸四郎のサリエリ、七代目市川染五郎のモーツァルト、中島梓のコンスタンツェで「アマデウス」を観ている。映画版と演劇版とでは異なっている部分が結構多い。実は大阪でも2011年に幸四郎のサリエリ、武田真治のモーツァルトで「アマデウス」を観る予定があったのだが、これは叶わなかった。

 

さてフィクションのサリエーリではなく、実在のサリエーリについて語ると、1750年8月18日、北イタリアのレニャーゴという街で商人の子として生まれている。家は裕福で、10歳の時にレニャーゴ大聖堂のオルガニストであったジュゼッペ・シモーニに就いて音楽を学び始めている。13歳で母と14歳で父と死別するという悲運に遭ったものの、音楽の才があったためか程なくしてヴェネツィアの貴族に引き取られ、ウィーンの宮廷作曲家であったガスマンに見出されてウィーンに渡り、当時の皇帝ヨーゼフ2世に気に入られたということもあり、当時の大作曲家であるグルックに師事することを許されたほか、帝室歌劇場のマエストロ・アル・チェンバロ助手として出入りするようになり、実地でオーケストレーションを学んでいく。当時のイタリアやオーストリアには音楽的才能のある少年はゴロゴロいたそうで、その中でガスマンらに特別に見出されたということで、サリエーリは神童クラスであったのだろうと推測されるそうだ。
19歳でオペラ作曲家デビュー。処女作は「女文士たち」というオペラだったが、この作品は残念ながら散逸してしまっているそうである。同年にグルックがオペラ「オルフェーオとエウリディーチェ」の改訂版初演が行われるのだが、サリエーリはこの作品に影響を受けていることが、1771年初演のオペラ「アルミーダ」で確認出来るそうだ。「アルミーダ」の序曲がCDで流され、グルックの「オルフェーオとエウリディーチェ」の映像がスクリーンに投映されるのだが、黄泉での出来事を描いた「オルフェーオとエウリディーチェ」の音楽が、サリエーリの「アルミーダ」序曲の、怪物の咆哮の描写に生かされている。当時はこうした激しい「疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)」形式の音楽は最先端を行くものであった。
グルックからは相当可愛がられたようで、グルックに委嘱された作品を譲られる形で書いたりもしているそうである。

歌劇「アルミーダ」でサリエーリは、独自の手法を発揮している。この作品はサリエーリの自筆譜が残されているのだが、スコアにト書きが施されているそうで、こうしたことはこれまで行われていなかったそうである。

さて、サリエーリの直接の師であるガスマンは、オペラ・ブッファ(喜劇的歌劇)の名手であったため、サリエーリも、オペラ・セリア(シリアスなオペラ)よりもオペラ・ブッファを多く手掛け、得意とするようになっていく。
ガスマンは、歌手に任せる部分であるカデンツァも自身で書き込むという習慣があったのだが、サリエーリもこれに倣うようになり、歌劇「奪われた手桶」では、歌の旋律だけでなく楽器の伴奏など全てが書かれているという「十八世紀に書かれた最も奇妙なカデンツァ」と呼ばれる手法を行っている。本来、音楽家の即興性を発揮するはずの部分も作曲家が全て書いてしまっているわけで、演奏家と作曲家の分離がいち早く行われているかのようである。この時期のイタリアオペラの特徴として、ソプラノにコルラトゥーラなど超高音の技法を要求していることが挙げられる。モーツァルトの夜の女王のコルラトゥーラが有名だが、これはモーツァルトがイタリアオペラを真似たということのようだ。サリエーリもコロラトゥーラによるアリアを書いている。
だが、サリエーリがグルックの後継者としてフランスで仕事をする機会が増えるとこれに変化が生じる。フランスでは歌よりも芝居が好まれたため、ストーリーが重視され、歌手のこれ見よがしな技巧は好まれなかったようである。またバレエが盛んだったため、オペラの中に必ずバレエのシーンがあった。ということで、サリエーリの作風も落ち着いたものへと変化していく。

23歳の時にガスマンが亡くなると、サリエーリは後任としてウィーン宮廷室内作曲家兼イタリア・オペラ指揮者に任命される。モーツァルトがウィーン宮廷での就職に失敗したのはその前年で、モーツァルトは父に宛てたサリエーリを憎む手紙を残しているが、サリエーリの方はモーツァルトについてはこの時ほとんど知らなかったようで、人事面でも関与していなかったらしい。その後、ウィーン宮廷楽長に就任。名実ともにヨーロッパ楽壇のトップに立った。

モーツァルトがウィーンに移住したのは、1781年のこと。ただその直後、モーツァルトにとっては悲運なことにヨーゼフ2世が劇場の改革を行う。これによってオペラ・セリアはつまらないとして否定され、オペラ・ブッファのみがオペラとされる時代となったのである。モーツァルトもオペラ・ブッファは書くが、オーストリア人ということもあって本当はオペラ・セリアの方が得意である。折角、大司教の下を離れてウィーンに来たのに、ここでも得意なジャンルの作品を発表出来なくなるのだ。

モーツァルトが「フィガロの結婚」などで思想面での革新性を示したことは知られているが、サリエーリもボーマルシェの本によるオペラ「タラール」で身分社会の否定を取り上げている。こう考えると、モーツァルトだけが時代から突出してたということはなく、なかなか上には行けない状態だったことがわかる。更にモーツァルトにとっての不運は続き、今も人気作として有名な「コジ・ファン・トゥッテ」がヨーゼフ2世の死去によって初演からわずか5回の上演で打ち切られる。新皇帝のレオポルト2世はそもそも音楽に興味のない人で、音楽家は全て冷遇されるようになった。

サリエーリは、モーツァルト最晩年のジングシュピール(オペラ)「魔笛」を絶賛していたことがわかっている。モーツァルト自身の手紙にこのことは記されており、最大級の賛辞を得たことを妻のコンスタンツェに伝えている。その7週間後にモーツァルトは他界するのだが、サリエーリはシュテファン大聖堂で行われたモーツァルトの葬儀に参列している。

ということで、モーツァルトの冷遇と死に関してはサリエーリは全く関与していない。

サリエーリは、モーツァルトの死後も積極的に作曲活動を行い、オペラ10作を作曲。ハイドンの「天地創造」初演に協力したり、イタリア語版上演では指揮を行っていたりと自身以外の作曲家の活動にも参加している。ちなみにモーツァルト作品の初演のいくつかでもサリエーリは初演の指揮を手掛けており、交響曲第40番の公式初演はサリエーリが指揮したことが確実とされている。
現在のウィーン国立音楽大学の前身となる教育機関を作ったのもサリエーリであり、音楽の弟子にベートーヴェンやシューベルトがいる。ベートーヴェンは「サリエリがモーツァルトを毒殺したと告白した」と日記に記しているが、この時にはサリエーリはウィーン総合病院に入院しており、意識がはっきりしていたのかどうかも定かではない。

栄光に包まれた生涯を送ったサリエーリだが、晩年にイタリア人作曲家の後輩に当たるロッシーニの台頭で状況に変化があったようである。「全盛期のビートルズよりも人気があった」といわれたウィーンでのロッシーニブームにより、ドイツ語圏の作曲家は不遇をかこつことになる。なにしろ歌劇場で上演されるのはロッシーニ作品ばかりなのだ。ベートーヴェンすら不満を漏らしているほどである。そして起こったロッシーニ憎しの空気がイタリア人作曲家に向かい、イタリア出身の宮廷楽長であったサリエーリにも怨嗟の声が上がるようになっていった。これがモーツアルト暗殺説に繋がっていったようである。

「アマデウス」によって悪名が高くなったサリエーリであるが、知名度が上がったことも確かであり、その後、録音される作品も増えている。ただ、サリエーリの本領が発揮されたオペラに関してはまだ録音される機会が少ないというのが現状である。

 

思えば、サリエーリは、音楽史の変換点を生きた人物であった。サリエーリが若い頃は、ウィーンでは「音楽はイタリア人がやるもの」という認識があり、イタリア人が宮廷作曲家や宮廷楽長になることに抵抗はほとんどなかったと思われる。オペラはイタリアのものであり、イタリア語のオペラが上演されるのが当たり前だった。そしてサリエーリが生まれ育った北イタリアは当時はハプスブルク家が治めており、親近感も持たれていた。
勿論、バッハやヘンデルなど、それまでにも優れたドイツ人作曲家はいたが、バッハは内容が高度であるため、この時期はプロのための音楽という認識で民衆の間では忘れられた存在になっており、ヘンデルはロンドンに移住してイギリスの作曲家となっていた。ハイドンはサリエーリの同時代人だが、長年に渡ってハンガリーのエステルハージ候に仕えており、ウィーンの作曲家というイメージではない。それがモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトと、ドイツ語圏出身の作曲家が立て続けに現れたことで、音楽におけるナショナリズムの高揚が起こる。これはモーツァルト自身も唱えていることである。ドイツ語によるオペラが立て続けに生まれ、更にはオペラではなくドイツ生まれのアウフヘーベンの理論を取り入れた交響曲やピアノ・ソナタが音楽の主役になる。そんな時代のウィーンの楽壇のトップに君臨していたことが、あるいはサリエーリにとっては不幸なことだったのかも知れない。

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2019年10月 7日 (月)

観劇感想精選(320) 青年団 「走りながら眠れ」2019京都公演

2019年10月3日 THEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後7時30分から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで青年団の「走りながら眠れ」を観る。作・演出:平田オリザ。古屋隆太と能島瑞穂による二人芝居である。

THEATRE E9を訪れるのは初めてであるが、観客としてはかなり使いづらい小屋という印象を受ける。絶妙に危なそうな段差があるし(実際、帰り道に後ろの方で転倒したお客さんがいた)。
多分、もう当分行くことはないだろう。


「走りながら眠れ」は、青年団が1992年に初演した二人芝居である。登場人物は、アナキストとして史上最も有名な人物である大杉栄と伊藤野枝の二人だけ(二人芝居なので二人だけなのは当然なのだが、大杉栄と伊藤野枝で二人芝居というのは特殊である)。大杉栄と伊藤野枝は、関東大震災の直後に、憲兵大尉の甘粕正彦らによって扼殺されたことでも知られている(甘粕事件)が、この芝居では甘粕事件も描かれないし、二人のアナキスト的面は意図的に封印されており、なんとなくおどろおどろしいイメージもある二人の何気ない日常を描いている。
ある意味、最も平田オリザ的ともいうべき、物語を動かすのではなく空間と時間を埋めるようにセリフが置かれていく手法が顕著であり、大杉栄と伊藤野枝でありながら大杉栄でも伊藤野枝でもない二人と時間を過ごせば良いだけである。大杉栄と伊藤野枝に関する知識があれば、奥行きが出て見えるのも確かであるが、それは観る側の問題であって、今目の前で演じている二人の俳優がしていることとは直接的な関係はないのだと思われる。そもそも平田オリザがそういうことを嫌う人である。

というわけで、観ていればいいのである。それだけである。そういうものであっても構わない、というよりそうあるべきである。
そもそも大杉栄も伊藤野枝もかなりぶっ飛んだ人なので、普通にしていてもその辺の男女にはならない。明らかに宮澤賢治と思われる人を野枝が見掛けていたり、大杉栄がいう「内田さん」というのが内田百閒らしかったり(平田オリザが内田百閒のことを無料プログラムに書いているので多分そうだろう)、二人で『ファーブル昆虫記』を翻訳する過程でのやり取りが見られたり、大杉が高踏派と目されていた時代の芥川龍之介を嫌っていたり(芥川の自殺が昭和2年、大杉栄が殺されるのがその4年前の大正12年なので、芥川が狂気の作家となることを大杉は知る由もない)と様々な人物が話に出てくるが、まさにその時代にいるようにして観るのが最も面白いはずである。


それにしても劇場の空調が酷い。始まって早々は「空調がないのか?」と思われるほどに暑い。ジャケットを脱がなければならない羽目になったのは多分初めてである。お陰で体調が悪くなってしまう。その後、クーラーが入るが、古屋隆太は最初はスーツ姿で登場するため、難儀したかも知れない。


終演後に平田オリザによるトークがある。かなり前に書いた作品なので、内容を聞かれても答えられないと平田は最初に語る。まあ、そのままの作品なので聞かれてもそのまましか返しようがないのであり、変に解釈するのは野暮この上ないことである。
平田オリザは、兵庫県豊岡市に新たに設営される予定の専門職大学の学長に就任する予定であり、6月に豊岡に移り住んで「関西の人間になりました」と語る。東京と地方演劇の現在や豊岡での演劇祭のことなど、当事者しか持っていない情報を聞くことが出来てかなり興味深かった。

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2019年10月 3日 (木)

これまでに観た映画より(130) 「記憶にございません!」

2019年10月1日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で「記憶にございません!」を観る。三谷幸喜監督作品。脚本も勿論、三谷幸喜である。出演:三谷幸喜、石田ゆり子、小池栄子、ディーン・フジオカ、迫田孝也、ROLLY、木村佳乃、田中圭、小林隆、宮澤エマ、濱田龍臣、有働由美子、佐藤浩市、吉田羊、斉藤由貴、草刈正雄ほか。

政策に不満な男が投げた石が頭に当たったことで記憶喪失になった総理大臣・黒田啓介(中井貴一)を巡るコメディー映画である。名前も風景も日本なのだが、政治家の振る舞いなどは日本と異なっており、会見の時に使われる国を表す印も「五七桐」ではなく、微妙に違う文様である。

消費税を上げに上げまくり、一方で生活保護費などは減らすという政策、更に自己中心的で人を見下した態度から「史上最低の総理」と言われている黒田。支持率は2%台と低迷中である。妻の聡子(石田ゆり子)、息子の篤彦(濱田龍臣)という家族、更には身辺を守るSPからも嫌われているという鼻持ちならない男であり、黒田をブラックジョークで批判するニュースショーのキャスター(有働由美子)が人気を博しているほどだ。
だが、記憶を失った黒田は、総理時代とは全く異なる小市民的好人物。政治家になる以前の記憶は残っているということで、元々の性格はそれなりに良かったことが想像される。実は、総理大臣は傀儡であり、官房長官である鶴丸(草刈正雄)が黒田を含めて5人の総理の下で立て続けに官房長官を務めていて、実質的には鶴丸の独裁体制が敷かれていた。

黒田を「無能」と見下していた首相秘書の井坂(ディーン・フジオカ)や総理夫人の聡子の面倒を見ることも多い事務秘書官の番場のぞみ(小池栄子)らは、黒田が記憶喪失となったことを隠したままで「全力で押し通る」路線を選び、定例記者会見を一言で打ち切らせたりと、ボロを見せないよう苦心するのだが、黒田が倒れた女性記者を助け起こしたりしたことなどから、総理の変化が徐々に周囲に伝わり始める。

政治という大きな舞台を設定しているが、実際にはファミリードラマであり、妻の聡子や息子の篤彦との関係修復に最後は繋がっていく。三谷版「心の旅」(ハリソン・フォード主演の映画の方)と観ることも出来るかも知れない。

三谷ファンには嬉しい小ネタが充実しているのも特徴であり、三谷が好む人物再登場の法ならぬ小ネタ再登場の法とも呼ぶべきものである。いずれにせよ人間喜劇の手法と取れるのだが、ドミソピザ(舞台&映画「12人の優しい日本人」に登場。キーになっている)が出てきたり、ラストの回想で黒田が語る内容は、1994年に上演された三谷の舞台「出口なし」(サルトルの「出口なし」とは別物である)の主人公である野村東馬(唐沢寿明が演じていた。実は彼は本当は野村東馬ではないのだが、ややこしくなるのでここでは書かないでおく)のセリフがほぼそのまま転用されていたり、人物造形には九代目松本幸四郎(現・二代目松本白鸚)と七代目市川染五郎(現・十代目松本幸四郎)の二人舞台である「バイ・マイ・セルフ」との共通点が見られたりする。「バイ・マイ・セルフ」に登場する幸四郎演じる謎の老優は、自分を特別な人物になんとか仕立てようとするのだが、自分の素の部分が本来は魅力的であるということを染五郎演じる若きフリーライターに指摘されるという筋を辿る。この映画でも黒田が政界を生き抜くために身につけた要素に決別し、家族を再構築しようという様が素敵でもある。
黒田は妻の聡子についてある軽薄な印象を受ける言葉を何度も繰り返すのだが、種明かしされた後では「男なら妻に言ってみたいセリフ」へと変わる。ある意味、言葉の魔術である。

政治家としての部分とファミリードラマを両立させるために流れは悪くなっており、場面によってはグダグダ続くところもあるが、見終わった後はファミリードラマならではのほのぼのとした気持ちになれる。大したことのない作品かも知れないが、三谷本人が大したことない作品を目指しているようなところがあり、政界を扱ったのは背景を大きくすることで小さなドラマをより有効に進めるためでもあるように思われる。成功はしなかったが連続ドラマ「総理と呼ばないで」と同じ路線であり、自らの演出で復讐を図っているように思われる。ただ演説や告白が上手く書けないという三谷の弱点は克服されておらず、今後に持ち越しということになるようだ。

 

中井貴一演じる黒田は小劇場なら小林隆(この映画には省エネルックの大臣として登場)が演じるのに相応しいような役であり(別に中井貴一でもいいのだが)、ROLLYが演じていた鰐淵影虎は、あるいは伊藤俊人が生きていたら抜群に上手く演じられた役のように思われる。ディーン・フジオカが演じていた井坂は若い頃の西村まさ彦が合いそうな役でもある。これまでの三谷作品と重ねながら観るのも面白いだろう。ディーン・フジオカは海外でキャリアを築いてきた俳優ということで、今も発声に問題があり、かなり残念ではあったが、雰囲気は役に合っている。三谷幸喜は全て当て書きの人であり、三谷幸喜に「会ってみたらトンチンカンな人でした」と言われている石田ゆり子などは素の良さが生きているのだと思われる。一方、ROLLYや有働由美子は普段とは違った魅力で見せることに成功している。

 

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2019年9月26日 (木)

観劇感想精選(319) 京都四條南座 九月花形歌舞伎 通し狂言「東海道四谷怪談」

2019年9月12日 京都四條南座にて観劇

午後4時30分から、京都四條南座で九月花形歌舞伎 通し狂言「東海道四谷怪談」を観る。四世鶴屋南北の作。今回は坂東玉三郎監修での上演である。通常は1日に1回上演の「東海道四谷怪談」を昼夜と上演するために約1時間ほどのカットを入れての上演であり、三角屋敷の場は丸々端折られていて、片岡亀蔵が語りで済ませるということで、評判が良くないようである。ただ、三角屋敷の場を語りにしたということには、実は仕掛けがあり、かなりの効果を上げていた。そのことは一番最後に記す。
出演:片岡愛之助、中村七之助、市川中車、中村壱太郎、片岡千次郎、中村歌女之丞、中村鶴松、中村勘之丞、片岡亀蔵、中村山右衛門、市村萬次郎ほか。

歌舞伎に詳しくない人にも名前や大筋は知られている「東海道四谷怪談」。何度も映画化されており、スピンオフ的な作品である「嗤う伊右衛門」(京極夏彦の小説を蜷川幸雄が監督して映画化)なども生まれている。歌舞伎の代表的演目の一つである。
ただ、関西で「東海道四谷怪談」が上演されるには実に26年ぶりのこと。21世紀に入ってからは初ということになる。やはり江戸が舞台ということで、東京で上演されることが多いのだろう。

元々は「東海道四谷怪談」は、「忠臣蔵」の外伝として生まれたもので、登場人物は塩冶判官(浅野内匠頭がモデル)か高師直(高家筆頭の吉良上野介を暗に示している)のどちらかの家来筋である。塩冶判官の元家臣はお取り潰しということでその日暮らしの浪人生活。浪人となった民谷伊右衛門も傘貼りの内職をしている。一方、高師直はおとがめなしということで、家臣もそのまま裕福な暮らしを続けている。

今回は、中村七之助が、お岩、小仏小平、佐藤与茂七の三役を演じ分けるのが見所である。お岩役の時はだんまりの場面も引き込む力があり、狂乱の場や提灯くぐり、仏壇返しなども迫力十分である。一方、2つの立役の方は今ひとつ。ただ立役をやる時は声が父親によく似ている。先に兄である勘九郎の声が父親に似始めたが、七之助もそれを追っている。「血は争えない」。

出演者の中で一番良かったのは、お岩の妹であるお袖と小平の女房であるお花の二役を演じた中村壱太郎(かずたろう)。可憐な見た目と愛らしさを感じさせる仕草で、若手ナンバーワン女形の実力を存分に示した。今すぐにでもお岩役も出来そうである。

民谷伊右衛門役の片岡愛之助は場面によってムラがあるように感じた。愛之助の資質なのだが重さに欠ける嫌いがある。伊右衛門の苦みや虚無感が出にくいのだ。

市川中車も、以前に南座で観た時よりはかなり良くなっていると思うが、やはり猿翁の息子ではあっても梨園で育ってはいないため、限界はあるのだと思われる。直助(のちに権兵衛)役なのでまだ見られるが、伊右衛門がやれるかといったらまず無理だろう。現代劇としての「東海道四谷怪談」や映画での伊右衛門役なら可能だろうが、キャリア豊かな俳優を従えて歌舞伎で伊右衛門をやるとなったら、仮に話があったとしても周りが止めるはずである。

客席はほぼ満員で、若い女性や外国人の姿も目立つ。興行としてはまず成功である。
ただ、出演者の技量やカットがあるということも含めて、人間の業の描写や心理劇の要素は後退し、ショー的にはなっていた。良くも悪くもあるのだが。
歌舞伎も昭和後期の芸術至上路線によって客足が遠のき、平成期にはその揺り戻しで見世物小屋時代の歌舞伎の復権が盛んに唱えられ、七之助の父親である中村勘三郎が始めた平成中村座などはその最たるものだったが、令和に入った今もその路線は継承されるようである。

さて、カットされた三角屋敷の場であるが、舞台番助三を演じる片岡亀蔵はあらすじをひとしきり語った後で、「『東海道四谷怪談』が演じられる時には、お岩さんが必ず客席にお出でになっていると申します。お岩さん、ご着席でございます」という言葉で締める。これが観客の記憶に残るため、客席3階席や2階席通路にお岩さんが実際に現れると、若い女性が「キャーキャー!」と悲鳴を上げるというお化け屋敷状態になるのである。潜在意識の効果、玉三郎の思うつぼである。三角屋敷の場の因縁を見せて観客を引き込むよりも直接的に巻き込むことを優先させたわけで、古典歌舞伎的かつ現代歌舞伎的であるように思われる。

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2019年9月23日 (月)

観劇感想精選(318) 「人形の家 PART2」

2019年9月14日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて観劇

午後6時から、ロームシアター京都サウスホールで、「人形の家 PART2」を観る。作:ルーカス・ナス、テキスト日本語訳:常田景子、演出:栗山民也。
永作博美、山崎一、那須凜、梅沢昌代による4人芝居。

ヘンリック・イプセンの有名作「人形の家」の15年後を描いた作品である。ルーカス・ナスは、1979年、アメリカ・フロリダ州オーランド生まれの劇作家。ニューヨーク大学を卒業し、現在は同大学の助教授を務めているという。もともとイプセンの大ファンであり、「人形の家 PART2」は2017年に書かれて初演。これがナス初のブロードウェイ進出作品となったそうである。

新劇のレパートリーとして最も重要な「人形の家」だが、関西で観る機会はほとんどない。一度、兵庫県立芸術文化センターで北乃きいのノラによる上演があり、チケットは取ったのだが、行くことは叶わなかった。

女性の自立を描いたとして、演劇史上に残るマイルストーンとなった「人形の家」。主人公の名前であるノラもとても有名だが、ではノラは家を出た後どうなったのかについて想像を巡らすと、余り良い展開は望めないというのが一般的な回答である。実は「人形の家」の続編として書かれた戯曲はいくつかあるそうなのだが、いずれも悲劇となっている。当時は女性は自立しようと思っても、まず経済的に自立出来る立場には置かれていなかった。「人形の家」ではノラが内職として裁縫をしていることが語られる場面があるが、当時は結婚した女性が労働を行うのは法律で禁じられており、屋内で細々と内職をする以外にお金を稼ぐ当てはなかったのである。

ところが、「人形の家 PART2」で、15年ぶりにヘルメス家に帰ってきたノラ(永作博美)は、ベストセラー作家となっている。書いたのは私小説であり、自身と夫のトルヴァル・ヘルメス(山崎一)との決別を赤裸々に描いたものだった。ペンネームを使っての発表であるため、ヘルメス家の人々は正体がノラだと気がついていなかったが、ノラの書いた小説は多くの女性に感銘を与えた。しかし、感銘を与えすぎて離婚に走る女性が増えたため、社会問題をも生み、ノラも多くの人の怒りを買うことになる。ノラを憎悪する文芸評論家がノラの本名を暴いた。「ノラ・ヘルメス」。ここでノラは自分の姓が結婚時のヘルメスのままになっていることに気づく。夫のトルヴァルは自分が出て行った後に離婚の手続きをしたものだとノラは思い込んできたのだが、実際はそうではなかった。離婚が成立していなければ本の印税などは自分のものとはならない。そこでノラは15年ぶりにヘルメス家を訪れたのだった。

乳母のアンネ・マリー(梅沢昌代)もすっかり老女となり、幼かった娘のエミー(那須凜)も大きくなっていた。だが、アンネ・マリーはエミーらを母親代わりとして育てたことをノラが全く感謝しないことに苛立ち、ノラの行いを社会秩序を乱すものと見なして批難する。エミーも結婚観を巡ってノラと対立。更に実は15年の間にノラは世間によって他界したと見なされるようになっており、トルヴァルも寡夫として周囲の人々からの援助を受けてきたことがエミーによって知らされる。もし今、ノラが生きていて離婚を迫っていると知られたら、トルヴァルは詐欺罪で告訴されるだろうとエミーは告げる。

 

4人の人物が登場するが、基本的にダイアローグの形で話は進んでいく。ノラ役の永作博美だけが出ずっぱりである。1幕5場からなる上演時間約1時間45分の作品。1場のタイトルは「ノラ」、2場が「トルヴァル」、3場が「アンネ・マリー」、4場が「エミー」、5場が「ノラ&トルヴァル」で、タイトルは、背後の壁に光の文字で投影される。

ノラとトルヴァル、アンネ・マリー、エミーの対話が繰り広げられるのだが、そこには多くの誤解、思い込み、すれ違い、価値基準の懸隔など、「わかりあえない」要素が含まれている。
最も大きな対比は、「因習」と「自由」であり、いかにもアメリカの劇作家が書いた作品という印象も受ける。

「人形の家」では、自立したとされるノラだったが、実際には、妻を「許す」だと「教育する」だのと言うトルヴァルの傲岸な態度とその裏に横たわる伝統に反旗を翻したという側面も強い。つまり反抗者だ(と考えてみれば、ノラはペール・ギュントなどと実は近しい存在と見ることも出来る)。一方、「人形の家 PART2」でのノラは作家として新たなる女性の価値観や存在意義を打ち出そうという野心を持っており、かなり積極的で革新的な創造者となることを夢見ている。15年の歳月がそうさせたという解釈なのだと思われるが、ルーカス・ナスがそれ以上に現代における女性の立場を描くために「人形の家」を枕として物語を構築したと見ることが出来るように思う。イプセンの時代にあっては、女性は夫に隷属する存在であったが、現代に生きるルーカス・ナスは、シングルでたくましく生きる多くの女性への吶喊としてこの物語を示しているように思われる。「人形の家 PART2」におけるノラは、まさにトップランナーでありヒロインだ。

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2019年9月21日 (土)

2346月日(15) 村田沙耶香×松井周 inseparable 『変半身(かわりみ)』プレトークイベント

2019年9月15日 ロームシアター京都3階共通ロビーにて

今日もロームシアター京都へ。午後3時から3階共通ロビーで、村田沙耶香×松井周 inseparable『変半身(かわりみ)』プレトークイベントに参加する。

3階共通ロビーからは、京都市美術館別館の屋根が見え、時が経つにつれて緑色の屋根の色が少しずつ変化していくのが趣深い。遠くには黒谷こと金戒光明寺の文殊塔も見える。

12月に、東京、津、京都、神戸で、村田沙耶香と松井周の原案、松井周の作・演出による「変半身(かわりみ)」という舞台が上演され、村田沙耶香がその作品を小説化するという試みが行われる。

司会は、筑摩書房編集者の山本充が担当する。

「変半身(かわりみ)」は、村田と松井が共に好きだという、奇祭や儀式に取材した作品にしたいということで、創作するに当たって、山本、村田、松井の3人で様々なところに出掛けたという。村田と松井は、対談で出会ったのだが、互いに「変態」という印象を抱いたそうである。松井周の性格についてはよく知らないが、『コンビニ人間』で芥川賞を受賞した村田沙耶香は作家デビュー後もコンビニ勤務を続けたことで、「かなりの変人」という定評がある。

まず、伊豆諸島の神津島へ。天上山という、高尾山(標高599m)と同じぐらいの高さの山があるというので、山本の提案で登ってみたのだが、高尾山はそもそも標高200mか300mぐらいのところに登山口があるのに対して、天上山は標高0のところから登るため倍ぐらいしんどかったそうで、村田は「死に覚悟した」そうである。山本も天上山を嘗めていたようで、ペットボトル1個だけ持って登山したのだが、村田は「あれ(ペットボトルの水)がなくなったら死ぬんだ」とずっと山本のペットボトルを見ていたらしい。山本はそれを察して嘘をついたそうで、山頂に行くと自動販売機があるだの、素敵なテラスがあるだのといった思いつきを、さも本当のように述べていたらしい。
翌日、また神津島を回ったのだが、山本と松井がお墓に入って写真ばかり撮るので、村田は「罰が当たる」と思い続けていたそうである。子どもの頃から、神様だとか天罰だとかを信じるタイプだったようだ。お墓から出て、道を歩いていたら、突然、黒い人影が現れたので、村田は「ほら罰が当たった」と思ったそうだが、その人影の正体は酔っ払った地元のお爺さんで、倒れて血を流していたらしい。

神津島では、松井は「なんかお洒落なところがある」というので、見掛けた建物に近づいたりもしたそうだ。そこは、リゾートホテルとして建てられ、オープン寸前まで行きながら運営元が倒産したか何かで白紙になり、建物だけが残っている場所だったという。松井と山本は近づいて行ったのだが、村田は「そうしたところには人殺しが潜んでいて殺される」と思い込んでいたそうで、一人逃げ出したそうである。
神津島は江戸時代には流刑の島だったということで、豊臣秀吉の朝鮮征伐の際に、朝鮮で捕らえられて日本に渡り、その後、徳川家康に才気を認められて侍女となるも、キリスト教信仰を捨てなかったため神津島に流罪となったジュリアおたあの祭りがあるそうで、それを見てきたようである。

その後、兵庫県の城崎温泉で10日ほど合宿を行う。演劇祭に参加し、村田は新作の小説を書き上げて朗読を行うというので、ずっと籠もって書いていたのだが、腱鞘炎が酷くなったため、城崎中の湿布を買い求めてずっと貼りながら書いていたという話をする。ちなみに山本はその時、ずっと温泉巡りをしていたそうだ。
城崎で、村田が島を舞台にした作品にしたいと提案し、流れが決まったそうである。

その後、山本と松井は台湾の緑島に向かう。村田は仕事の都合で緑島には行けなかったそうだ。
緑島は台湾の流刑地である。現在はリゾート地なのだが、以前は政治犯の収容所があり、国民党が国共内戦で敗れて台湾に逃れた直後、反国民党派を弾圧する白色テロと呼ばれる恐怖政治が行われ、共産主義者やエリート層などが緑島に送られたという。台湾では1945年に日本統治が終わったばかりであり、緑島に送られた人の中には日本式の教育を受けた人も多かったそうである。
ここで、演劇祭があったのだが、白色テロの際には、転向のための教育が行われ、心からの転向をしないと死が迫るということで、転向を演じるにしても本気でやらなければならず、松井はそこに演劇との共通点を見たようである。

最後に訪れたのは三重県にある神島。三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台になった島として知られており、三島が『潮騒』の執筆を行った部屋や机が今もそのまま残っているそうである。
神島自体も時が止まったままのような島で、人口は三島が滞在した時からほとんど変わらない500名前後。ただ、神島は多くの祭りが伝わることでも有名なのだが、それらを継続するのに問題が生まれているそうである。様々な準備や手配や食事の用意やらは女性が行うのだが、今はやりたがる人が少ない。男性の方も高齢化が目立ってきたが、いったん若い人に譲ると年長者はもう参加出来なくなるという決まりがあるそうで、世代交代もままならないそうである。山本などは、「決まりを変えちゃえばいいんじゃなの」とも思ったそうだが、そう簡単にはいかないそうである。

「半変身(かわりみ)」について、松井は、「殉教者のような人を描くことになる」と言い、村田は人間を箱のようなものと認識しているというところから様々な要素によって変化していく、例えば「私はゴキブリを食べないけれど、国によっては食べたりもするじゃないですか」ということで、文化や風習によって変化するということを書きたいようである。
ちなみに本が出来上がる前に、漫画家の鳥飼茜による宣伝イラストが出来たそうで、二人とも鳥飼のイラストに影響されて本を進めるようである。

タイトルに纏わる話で、松井には変身願望があるそうなのだが、「満員電車が好き」という話になり、理由は「込みすぎていて人間じゃないものに変わる」からだそうで、やはり変態っぽいかも知れない。村田は自身の中に謎の怒りがわき上がる時があるということを語る。なぜかティッシュ配りに人に猛烈な怒りを覚えたのだが、原因は自分でも不明だそうである。ただ、自分の中にそうした部分があると知ったのは発見だったそうだ。


オーディエンスからの質問を受ける中で、村田の小説である『殺人出産』の話が出る。10人産んだから1人殺していいという正義の話になるのだが、「正義感がラスコーリニコフだなあ」と感じたりもした。モラルや正義とそのフィクション性を問う作品になるようである。松井は「日本には西洋の神のような超越的な存在がない」ことがややこしさに繋がっていると考えているようで、村田は逆に子どもの頃から神様の存在を感じていて、自然と自律的になり、小説を書くということも神と繋がることと捉えているようである。執筆自体が儀式的ということなのだろう。

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2019年9月15日 (日)

観劇感想精選(317) 松本白鸚主演・演出 ミュージカル「ラ・マンチャの男」2019

2019年9月7日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて観劇

午後6時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、ミュージカル「ラ・マンチャの男」を観る。今回は1969年の日本初演から半世紀が経過したことを記念しての上演である。主演・演出:松本白鸚。脚本:デール・ワッサーマン、作詞:ジョオ・ダリオン、日本語訳:森岩雄&高田蓉子、作曲:ミッチ・リー、振付・演出:エディ・ロール(日本初演)。出演:瀬奈じゅん、駒田一、松原凜子、石鍋多加史、荒井洸子、祖父江進、大塚雅夫、白木美貴子、宮川浩、上條恒彦ほか。
50年に渡って「ラ・マンチャの男」で主役を張ってきた松本白鸚。50年前に演じ始めた時には市川染五郎の名であり、松本幸四郎を経て、松本白鸚の名では初の「ラ・マンチャの男」となる。

前回、「ラ・マンチャの男」を観たのは、丁度10年前の2009年の5月、今はなきシアターBRAVA!に於いてだった。その時、アルドンザを演じていたのは松たか子であり、親子共演であった。
おりしも、5月2日、忌野清志郎が亡くなり、以前に大阪城ホールで清志郎と共演したことのあった松たか子は訃報を聞き、シアターBRAVA!の前で第二寝屋川を挟んで向かいにある大阪城ホールに向かって頭を下げ、清志郎への感謝の祈りを捧げたという。

 

フェスティバルホールの入っているフェスティバルタワー2階には、「ラ・マンチャの男」の写真パネルや公演記録が展示されている。それによると松たか子はまずアントニア役として出演を重ねた後で2002年から2012年までアルドンザを務め、2015年からアルドンザは霧矢大夢に交代。今回からは、瀬奈じゅんがアルドンザを務める。

 

地下牢が舞台であるが、「ドン・キホーテ」が劇中劇として行われ、即興劇という設定なのでセットこそさほど変わらないが、小道具などを用いることで場面は次々に展開されていく。
宗教裁判にかけられたセルバンテス(松本白鸚)は、地下牢の中で判決を待つことになる。その間、牢名主(上條恒彦)に牢内での裁判に問われることになったセルバンテスは、即興劇の形で申し開きを行うことにし、自作の「ドン・キホーテ」を牢内の人々と一緒に演じ始める。騎士の時代が終わってから数百年が経つのに、自身を騎士だと思い込み、遍歴の旅に出るドン・キホーテ(松本白鸚二役)。風車を巨人だと勘違いして突っ込み、城郭だと思い込んで乗り込んだ小さな旅籠で出会った売春婦のアルドンザを思い姫のドルシネアだと思い込んだドン・キホーテは、端から見ると滑稽でしかない騎士遍歴を繰り返す。
滑稽でしかないのだが、ドン・キホーテには信念がある。それはセルバンテスも同じで、二人ともラ・マンチャの男であり、夢の大切さとそれを追うことの重要性を観る者に訴えかける。本来は道化役でしかなかったドン・キホーテが夢を貫くことで人々を鼓舞する英雄に変わるのである。
セルバンテスはラストで、「私もドン・キホーテも、ラ・マンチャの男だ」というセリフがあるのだが、半世紀に渡って二人を演じ続けてきた松本白鸚もまた、見果てぬ夢に生きるラ・マンチャの男なのだろう。

 

フェスティバルホールはオペラ上演を前提としている劇場で、オーケストラピットも当然ながら存在するが、今回は演出の都合上、オーケストラピットではなく、ステージの両袖にミュージシャンが陣取って演奏を行うというスタイルである。音が通りやすいフェスティバルホールであるが、楽器の音が鮮明に聞こえるため、歌が覆い隠されてしまう場面もあった。

セルバンテスとドン・キホーテという二人のラ・マンチャの男は、松本白鸚が千回以上演じている当たり役であり、貫禄の出来映え。他にも10年前からずっと「ラ・マンチャの男」に出続けている俳優が複数おり、今回の新キャストを含めて優れたアンサンブルを見せていた。

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2019年9月11日 (水)

観劇感想精選(316) 「神の子ども達はみな踊る after the quake」神戸公演

2019年8月31日 神戸文化ホール大ホールにて観劇

神戸へ。午後6時30分から、大倉山にある神戸文化ホール大ホールで「神の子ども達はみな踊る after the quake」を観る。

昨年、NHK交響楽団を聴くために初めて訪れた神戸文化ホール。すでに事実上の閉館が決まっており、神戸市の文化施設は三宮駅周辺に集められる予定である。席の前の通路が狭いという欠点があり、客席部分の傾斜も緩やかで前のお客さんの頭で舞台の一部が見えなくなったり、多目的であるため、残響調節機能はあると思われるがそれでも声にエコーが掛かって聞き取りにくかったりと、演劇には向いていないホールである。

「神の子ども達はみな踊る」は、村上春樹の同名短編小説集に収められた「かえるくん、東京を救う」と「蜂蜜パイ」という二つの短編を舞台化した作品である。フランク・ギャラティの脚本、倉持裕の演出。テキストはギャラティの脚本を平塚隼介が日本語に直したものであり、村上春樹の原作とは言い回しが異なる。出演は、古川雄輝、松井玲奈、川口覚、木場勝己ほか。川口覚というと、今でも長澤まさみの笑いを止まらなくさせた「舞台上スライディング事件」を思い出してしまう。

「神の子ども達はみな踊る」で描かれた阪神大震災の地にして村上春樹が青春時代を過ごした神戸での上演である。

「蜂蜜パイ」の小説家が、「かえるくん、東京を救う」の作者であるという、入れ子構造になっており、「蜂蜜パイ」のラストは、「かえるくん、東京を救う」で描かれた邪悪なるものへの返答となっている。取りようによっては、小田和正の「Little Tokyo」的世界観だ。

三方にジェンガを積み重ねたような壁が立つというセット。ジェンガの一つのピースが外れて、そこから登場人物が現れるというシーンもある。

 

「かえるくん、東京を救う」は、主人公・片桐が突然目の前に現れた「かえるくん」と共に東京直下型の大地震発生を食い止めるという話である。
巨大なみみずくんが地下にいて、暴れることで大地震が起こるのでそれを防ぐという、それだけ考えると荒唐無稽な話なのだが、よくわからない場所で、よくわからない誰かによって、よくはわからないが禍々しいことが起ころうとしているという、得体の知れない不気味さがある。あるいはそれは、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に出てくる「やみくろ」と繋がっているのかも知れないし、『ねじまき鳥クロニクル』 に登場するフィクサー、綿谷昇的なものなのかも知れない。「怒り」という要素においては、『ねじまき鳥クロニクル』と密接にリンクしており、昨今のなんとも言えない「不機嫌な時代」を先取りしているようでもある。
川口覚の演技と倉持裕の演出は、それを考えるとちょっと納得がいかない。なぜかえるくんが片桐を相棒に選んだのかを考えると、それにはまず震源の真上にある銀行に勤めているということが第一条件なのだが、それと同じくらい重要なのは感情が余り動かない人間であるという要素である。悪くいうと鈍いということなのだが、みみずくんの激しい怒りに怒りで反応することがない。実は東京で起こる地震というのは、実際の地震というより怒りによって引き起こされる禍々しい出来事のメタファーなのだと思われる。怒りと怒りのぶつかりが更なる別の激しい怒りを呼ぶということは、今の社会を見ているとよくわかる。

 

発表当時から、「村上春樹の私小説なのではないか?」と言われた「蜂蜜パイ」。「文藝春秋」の今年の6月号に、村上春樹は「猫を捨てる――父親について語るときに僕の語ること」という手記を発表して話題になったが、そこで初めて明かされた村上春樹と父親の村上千秋の関係は、思った以上に「蜂蜜パイ」に書かれていたことに近いことがわかる。「文藝春秋」に記されていた、「二十年近くまったく顔を合わせなかったし、よほどの用件がなければほとんど口もきかない、連絡も取らない状態が続いた」という親子の関係は、「蜂蜜パイ」の淳平が置かれている状況ほぼそのものである。
淳平と小夜子と高槻の三人の関係は、『ノルウェイの森』の僕(ワタナベトオル)と直子、キズキの関係と相似形であり、『ノルウェイの森』も村上春樹の実体験がなんらかの形で反映されたものであることがわかるのだが、「蜂蜜パイ」にしかない要素として子どもの登場が挙げられる。高槻と小夜子の娘の沙羅である。高槻は夫や父親としては完全な失格者であり、淳平は小夜子や沙羅と過ごすうちに、沙羅との結婚を考えるようになるのだが、その時に阪神大震災が発生する。

 

地の文とセリフの両方を語るというスタイル。木場勝己は共に見事にこなしていたが、古川雄輝や松井玲奈という若い俳優は、セリフに比べて地の文の読み上げは1ランク落ちる。単純に経験の問題だと思われる。

 

希望を感じるラストで好感を持ったが、考えてみれば村上春樹が書いた短編小説「ゾンビ」の世界はすでに現実のものとなってしまっている。
箍が外れてしまった。

 

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2019年9月 5日 (木)

観劇感想精選(315) ロームシアター京都 「能楽チャリティ公演 ~被災地復興、京都からの祈り~」2019 第2部

2019年8月29日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて観劇

午後6時30分から、ロームシアター京都サウスホールで、「能楽チャリティ公演 ~被災地復興、京都からの祈り~」2019 第2部を観る。

毎年恒例のロームシアター京都での能楽チャリティ公演。1日に昼夜の2回公演である。ただ昨年は台風が直撃し、公演自体は行われたが、私は行くとこが出来なかった。他のお客さんの多くも来られなかったようで、昨年度の募金額のみ例年より少なくなっている。

演目は、半能「賀茂」、狂言「呼声(よびこえ)」、能「善界(ぜがい)」

 

半能「賀茂」。上賀茂神社と下鴨神社の賀茂神社が舞台となっている。京都が舞台になっているため、景色がはっきり目に浮かぶ。
播磨・明石の室明神の神職が、京都の賀茂神社に参拝した時に、目の前に賀茂別雷神(上賀茂神社の祭神)と賀茂御祖神(下鴨神社の祭神=玉依姫)が現れて舞い始めるのを目にするという話である。
賀茂別雷大神は、雷の神様だが、雷は豊かな実りをもたらすとされ(故に「稲妻」である)、玉依姫は、神武天皇の母親にして物事の始まりを祝う神、ということで元号の移り変わりを寿ぐ演目として選ばれたのだと思われる。

 

狂言「呼声」。太郎冠者が勝手に旅に出てしまい、戻っては来たのだが、引きこもっていて、主人のところへ顔を出さない。そこで、主人が次郎冠者を連れて、太郎冠者の家に行き、呼びかけるが、太郎冠者は出て行ったら主人に大目玉を食らうことは目に見えているため、声音を変えて「太郎冠者はいない」と嘘をつく。太郎冠者は、自分は太郎冠者ではなく隣の者だと言い張る。
そこで、次郎冠者が平家節を歌うと太郎冠者も平家節で返し、主人が小歌節で呼び出すと太郎冠者も小歌節を歌う。そのうちに主人と次郎冠者が歌って踊り出すと、太郎冠者も誘い出されて一緒に踊り出し……、ってなんかこれ「天岩戸」っぽいなあ。
本当にそう意味で選ばれたのかどうかはわからないが、芸が物語を動かしていく話であり、猿楽を生んだ猿女の祖である天鈿女命の力を称える演目ともいえる。

 

能「善界」。中国の仏教界を堕落させた中国の天狗・善界坊は、次は日本の仏教界も堕落させようと企み、まず京・愛宕山の天狗である太郎坊に相談に出掛ける。太郎坊は比叡山が日本仏教の最高峰であると善界に教え、比叡山の僧正を標的にするよう進言する。
善界坊は、山から下りてきた僧正を攻略しようとするが、逆に仏法によって調伏される。

「日本は小国なれども神国として、仏法興隆の地なれば」という言葉が何度も繰り返される。今回は善界坊を自然災害に見立て、「災害に日本は負けない」というメッセージと祈りを込めて選ばれたのだと思われる。

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2019年8月18日 (日)

観劇感想精選(314) 二人芝居「グレーテルとヘンゼル」

2019年8月15日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて観劇

午後3時からロームシアター京都ノースホールで、「グレーテルとヘンゼル」を観る。台風によって上演が危ぶまれたが、正午過ぎに予定通り行われることがホームページ上で発表になった。

グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」をカナダ・ケベック州の劇団ル・カルーセルがリライトした二人芝居作品である。作:スザンヌ・ルボー、演出:ジェルヴェ・ゴドロ、テキスト日本語訳:岡見さえ。出演は、土居志央梨と小日向星一。

カナダ第二の都市であるモントリオールを擁することでも知られるケベック州はフランス語圏であり、何度かカナダからの独立を試みているところだが、ケベック演劇という心理描写に長けた独自の演劇色を打ち出していることでも知られ、日本でも白井晃の一人芝居である「アンデルセン・プロジェクト」や、中谷美紀主演の「猟銃」などを生んでいる。

グレーテル役の土居志央梨は、1992年福岡県生まれ。京都造形芸術大学映画俳優コース卒。在学中に林海象監督の北白川派の映画「彌勒」に出演し、その後も行定勲監督作品などに出演している。

ヘンゼル役の小日向星一は、1995年東京生まれ。小日向文世の長男である。明治大学政治経済学部卒。在学中には演劇サークルに所属し、第12回明治大学シェイクスピアプロジェクト(MSP)「ヘンリー六世」ではタイトルロールを演じている。兵庫芸術文化センター阪急中ホールで上演された松田龍平主演の「イーハトーボの劇列車」では、風の又三郎らしき少年役を演じていた。

1週間以内に別の場所で小日向親子の演技を見られるというのも良いものである。

 

原作の「ヘンゼルとグレーテル」は、継母に捨てられた二人がお菓子の家を発見し、そこに住む魔女に捕らえられて、というストーリーが主だが、「グレーテルとヘンゼル」は姉弟間の心理に光を当てている。

第一子と第二子の関係は、心理学でも定番中の定番であり、カインとアベルに由来する「カインコンプレクス」という名も与えられている。第一子は第二子が生まれるまでは親の愛情を独占しているが、第二子が生まれると親の関心は第二子に完全に移り、更には「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだから」「大きいんだから」と新たな役割を半ば強制されるようになる。第一子は第二子に脅威を感じるようになるのである。

私も長男(第一子)で、妹が一人いるのだが、そんなことがあったようななかったような。うちは兄妹仲は比較的良好なのでよく覚えてはいない。

 

ベビーチェアが15脚、円になって並んでいるというシンプルな装置による上演である。ベビーチェアを並べ替え、照明を生かすことによって、森やかまどなどを表現する。

ヘンゼルが生まれたのは木曜日。グレーテルの家では「野菜スープの日」で、グレーテルは野菜スープが登場するのを心待ちにしていたのだが、突然、母が産気づき、野菜スープはお預けとなってしまう。元々、妹も弟も欲しくないと思っていたグレーテルは、ヘンデルの存在を嫌悪し続けることになる。ヘンゼルの方は、言葉を覚えると「グレーテル」「お姉ちゃん」と呼ぶようになるのだが、グレーテルはヘンゼルのことを「弟」と呼び続けた。
グレーテルが5歳、ヘンゼルが4歳のある日、両親が兄弟のためにと取っておいたパン二切れをヘンゼルが二つとも食べてしまうという事件が発生し、激昂したグレーテルはヘンゼルを木のスプーンで思いっ切り打擲する。異変を察した母親が二人を見に来たのだが、グレーテルはヘンゼルがパンを二きれとも食べてしまったことを告げず、ヘンゼルもグレーテルから折檻を受けたことを明かさなかった。そこで変化が訪れそうな気配もあったのだが、帰ってきた父親が母親に何かを告げ、一家4人は森の中へ。実は両親は二人の子供を捨てる覚悟を決めており……。

子供と大人のための舞台として書かれており、今まさにグレーテルとヘンゼルのような幼い姉弟のいる子達にリアルタイムで届ける作品である。終演後の親子連れの会話を聞いていると、違和感が勝っていて余り内容を理解されてはいなかったようだが、子供達に伝わると嬉しく思う。関係者でも何でもないんだけれど。

 

土居志央梨は映像中心のためか、演技が少し過剰になる嫌いがあったが、可憐さもあり、クラシックバレエをやっていたということで身のこなしも軽く優雅で、火にくべられようとする間際までヘンゼルを憎むグレーテルの心の揺れを上手く表していたように思う。

小日向星一は、顔はそれほど父親に似ていないのだが、雰囲気や声は小日向文世を連想させるものがある。幼いヘンゼルの素朴さを上手く出した演技だった。

 

 

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