カテゴリー「演劇」の316件の記事

2017年7月15日 (土)

観劇感想精選(219) 下鴨車窓 「渇いた蜃気楼」2017大阪

2017年7月7日 大阪・周防町のウイングフィールドにて観劇

午後8時から、大阪・周防町のウイングフィールドで、下鴨車窓の公演「渇いた蜃気楼」を観る。
「渇いた蜃気楼」は、2014年に「わたしの焦げた眼球/遠視」というタイトルでOFT名義で初演され、翌年に現在のタイトルに変わっての下鴨車窓での再演が行われ、その後毎年上演が行われている。今年は先に札幌での公演が行われ、今日から3日間、大阪での上演がある。
作・演出:田辺剛。出演:大沢めぐみ、藤原大介、高杉征司(三人のローマ字表記の頭文字を採ったOFTというユニットを組んでいる)。

「渇いた蜃気楼」は電子版の台本が発売されている。私も台本は読んでいるのだが、上演を観る上では本を読まずにフラットな状態で臨んだ方が良かったように思う。


とある田舎町が舞台である。酷暑。内陸にあるこの町では水が不足しており、亮と真澄の夫妻が暮らす高台のアパートには水が回らなくなっている。仕方がないので、亮がポリタンクを手に、スーパーに設置された給水所から水を運んでいる。亮は自転車にポリタンクを乗せて運んでいたのだが、その自転車が盗まれるという出来事が発生、舞台はその直後から始まる。

亮はこの町の工場で働いていたのだが、クビになり、現在は退職金と真澄のパート代で暮らしている。亮と真澄は高校の同級生。東京で出会い、出身地に近いこの町に戻ってきて入籍した。
どことなく「隘路」のようなこの場所に高校時代の同級生である雄二が訪ねてきたことで、過去の記憶により現在が波立つという物語である。

過去も現在も不安定である三人の、バランスの不確かさが明らかになっていく。現在は過去に束縛され、過去は現在によって歪む。平穏な日常に「何か」が黒い口を開けて潜んでいるようにも見える。
ホラーではないので、追求を行うことはなく、舞台は日常へと戻っていくのだが、それ故に起きたさざ波が印象深くなるようになっている。

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2017年6月27日 (火)

観劇感想精選(218) ミュージカル「パレード」

2017年6月8日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、ミュージカル「パレード」を観る。1913年にアメリカ・ジョージア州アトランタで起こったレオ・フランク事件に基づく作品である。1998年にアメリカで初演され、1999年度のトニー賞最優秀作詞・作曲賞、最優秀脚本賞を受賞している。

作:アルフレッド・ウーリー、作詞・作曲:ジェイソン・ロバート・ブラウン、共同構想およびブロードウェイ版演出:ハロルド・プリンス、演出:森新太郎。出演:石丸幹二、堀内敬子、武田真治、新納慎也、坂元健児、藤木孝、石川禅、岡本健一ほか。

1913年、アトランタ。南軍戦没者記念日。南北戦争終結から半世紀が過ぎたが、南北戦争従軍者や南部の男達はパレードに参加して南部の誇りを歌い上げていた。
ニューヨーク出身のユダヤ人であるレオ・フランク(石丸幹二)は、アトランタ生まれのユダヤ人であるルシール(堀内敬子)と結婚し、アトランタに住んでいる。アトランタの鉛筆工場に工場長として就職したためで、工場長の職は妻のツテを伝って得たものだった。北部出身のレオはアトランタの街に馴染めないものを感じていた。

南軍戦没者記念日にも仕事に出掛けたレオは、訪ねてきた13歳の少女、メアリー・フェイガンに給料を渡す。

だが、その日、メアリーは家に帰らず、黒人のニュート・リーがメアリーの遺体を発見する。第1発見者のニュート・リーと、工場長であるレオ・フランクが容疑者として逮捕される。逮捕されたのが黒人だとユダヤ人だと知ったジョージア州検事のヒュー(石川禅)は、差別の問題なども絡めてレオ・フランクを裁判に掛けるよう命令する。裁判では反ユダヤ反北部の気風により偽証が相次ぎ、レオには死刑が宣告される……。

レオ・フランク事件は、その後、完全な冤罪であるとされ、真犯人と思われる人物もわかっているのだが、レオはレイシズムの犠牲者のなったことがわかっている。ただ、今もレオが真犯人だと思い込んでいる人達がいるそうである。

偏見によるでっち上げが真実とされ、犠牲者が出ていく。冤罪が生まれる過程は、海の向こうのよそ事ではない。


ストリートプレーでなくミュージカルとして制作されたのは、音楽が物語の陰鬱さを中和するとともに物語を強く推し進める役割を果たしているからだと思われる。スネアが鳴るなど、南部特有の荒っぽく、リズミカルな伴奏に乗ってメロディーが紡がれていく。オーケストラピットが用いられており、上手と下とに橋が渡してあって、出演者がそこに乗って歌や演技を行うこともあり、またキャストがオーケストラピットから入退場を行うこともある。

重苦しくて嫌な話だが、出演者の好演と音楽や歌の充実もあり、骨太の上演となった。

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2017年6月18日 (日)

観劇感想精選(217) ミュージカル「王家の紋章」2017大阪

2017年5月24日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇
 

午後6時から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「王家の紋章」を観る。細川智栄子あんど芙~みんによる同名少女アニメのミュージカル化。原作マンガは1976年に連載開始で、現在も連載中という、41年の歴史を誇るロングヒット作である。エジプトで考古学を学ぶアメリカ人の少女・キャロルと古代エジプトの王・メンフィスとのロマンが描かれる。
脚本・作詞・演出は、荻田浩一。作曲・編曲は、シルヴェスター・リーヴァイ。音楽監督:鎮西めぐみ。東宝の製作。
出演は、浦井健治、新妻聖子、平方元基(ひらかた・げんき)、伊礼彼方(いれい・かなた)、愛加あゆ、出雲綾、矢田悠祐、木暮真一郎、濱田めぐみ、山口祐一郎ほか。

古代エジプトが舞台の上に、日本人役の人がいないということもあり、説明ゼリフが多用される。現代日本と地続きの作品ではないので、説明がないとわからないのだ(例えば姉弟で夫婦というのは古代エジプト王朝ではごくごく当たり前だが、現代日本ではありえないので、王の姉であるアイシスがメンフィス王に恋しているということは第三者によって仄めかされる)。傍白や、録音を用いた心情吐露のセリフも比較的多めである。


まず古代エジプト人達によるデモストレーションがあり、本編に入る。考古学を学ぶためにエジプトに留学しているアメリカ人少女のキャロル(新妻聖子)が、兄のライアン(伊礼彼方)と電話をしている。ライアンはリード・コンツェルンの総帥であり、キャロルがエジプトに留学出来ているのもリード家に生まれたおかげだ。キャロルは新たに発掘されたメンフィス王の墓の見学が叶ったことをライアンに告げる。
だが、メンフィス王の棺内に備えられていた花束を見たキャロルは、「古代のロマンス!」とばかりにその花束に手を伸ばし、それが王墓を犯した罪と古代エジプト人達(アイシスら)の霊に見なされ、断罪のために古代にタイムスリップさせられてしまう。妹の失踪を知ったライアンは動揺する。

古代エジプト。メンフィス王(浦井健治)がまさに即位したところだ。メンフィスはエジプト全体の王と上エジプトの王を兼ね、下エジプトを治めるのはメンフィスの異母姉のアイシス(濱田めぐみ)。彼女は祭礼の長でもある。エジプトの宰相を務めるのは賢人・イムホテプ(山口祐一郎)。
ヒッタイトからの来賓としてメンフィスの即位式に参加したミタムン(愛加あゆ)は、ヒッタイトの王女である自分がメンフィスと結ばれることで、ヒッタイトが繁栄することを夢見ている。

ナイルの川岸で失神しているところを奴隷の青年に保護されたキャロルは、金髪であるため異国人であると見抜かれる。異国人であるとわかったら処罰されるかも知れないということで、マントをかぶって出歩くようキャロルは注意される。
だが、やがてメンフィス王と巡り会ったキャロルは、古代エジプト人がまだ持っていない知識(水の濾過や鉄の知識、解毒の方法)などを駆使し、伝説として伝わるナイルの神が生んだ金色に輝く少女「ナイルの少女」として崇められるようになる。しかし、キャロルは歴史を変えてしまうことに罪悪感を抱いており……。

世界史上、初めて鉄器の鋳造に成功したといわれるヒッタイトと、エジプトの闘争のドラマでもある。キャロルは己一人が原因となって戦争が起ころうとしていることにも苦しむ。

「俺様」を絵に描いたようなメンフィスと、現代からタイムスリップしたキャロルの時代を超えたロマンスであり、客席には当然ながら女性の姿が多い。私もいくらシルヴェスター・リーヴァイが作曲した作品だからといっても、新妻聖子が出演していなかったら観に行ってはいない。ちなみにキャロルはWキャストで、新妻聖子の他に元AKB48の宮澤佐江が出演している。宮澤佐江のキャロルだったら、観に行っていないはずである。

新妻聖子もそこそこいい年なのであるが、喋り方が少女のそれであり、流石の演技力を見せている。なぜ、そうした演技が出来るのかというと、「頭が良い」からという身も蓋もない結論になるのだが、更に書くと、おそらくであるが、二十歳前後の知り合い(何人もいるはずである)の喋り方を観察して参考にしているのだと思われる。新妻聖子は頭で組み立てて考えるタイプの女優である。

新妻聖子の他にも、浦井健治、濱田めぐみ、山口祐一郎といった各世代の日本ミュージカル界のエースを注ぎ込んでいるため、演技や歌唱は文句なしに楽しめる。単純にエンターテインメントとしても充実した作品である。


えーっと、ところで、歴史を変えることになんのためらいも恥じらいも感じない方々がいらっしゃるようで。

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2017年6月16日 (金)

観劇感想精選(216) 白井晃演出 「春のめざめ」

2017年5月27日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて観劇

午後6時からロームシアター京都サウスホールで「春のめざめ」を観る。今日のロームシアター京都はメインホールで槇原敬之のコンサートがあるようで、賑わっている。
ドイツの作家、フランク・ヴェデキントの出世作である戯曲「春のめざめ」。ドイツのギムナジウムに通う、今年14歳を迎える少年少女を軸に展開される物語である。
ドイツの中等教育というと、ヘルマン・ヘッセの小説『車輪の下』を連想する方が多いかも知れないが、「春のめざめ」の初演と『車輪の下』の発表は同じ1906年である。「春のめざめ」の戯曲の方が出来たのは先で、1891年に書かれた戯曲であるが、その過激な内容ゆえ15年の間、発禁とされていたのだった。

KAAT 神奈川芸術劇場の製作。演出:白井晃。出演は、志尊淳(しそん・じゅん)、大野いと、栗原類、あめくみちこ、河内大和(こうち・やまと)、那須佐代子、大鷹明良(おおたか・あきら)ほか。音楽:降谷建志。

演出の白井晃に取って、京都は挫折と再生の地である。大阪生まれの白井晃は大阪府立天王寺高校時代には京都大学を目指していたが、入試に失敗。立命館大学には合格し、入学金と学費は払うが通うことはほとんどなく、京大のそばに下宿して翌年の京大受験に備えて勉強を続けていた。そんなある日、早稲田大学の演劇サークルが京都公演を行うこと知った白井は観に行って感激。「彼らと共に演劇がしたい!」と志望校を早稲田に切り替えて今に至るまで演劇活動を続けている。
だから京都公演を行うということではないかも知れないが、京都で上演を行ってくれるのはありがたいことである。


開場時からすでに客席通路には男性のアンサンブルキャストが立っており、劇場内全てがギムナジウムの中という設定であることがわかる。中央通路の上手側入り口(今日は一般客には閉鎖されている)付近には白井晃が立っているのも確認出来た。開演時間が近づくと、栗原類など主役クラスの俳優も客席通路に現れ、女子生徒役の女優も姿を見せる。

舞台は2階建て。背面にはアクリル板が立てられており、照明の当て方によって鏡の役割を果たしたり、透明になったりする。

出演者が横一列に並び、照明が変わると一様に激しく暴れ出す。青春期の疾風怒濤を表しているかのようだ。
なお、アクリル板には白い液体が塗りつけられるが、それがなんのメタファーかはすぐにわかるようになっている。
ポストトークで白井晃は舞台美術について、生徒達がガラスケースに閉じ込められた実験動物をモチーフにしたと明かしていたが、私にはそこは「出口のない戦いの場所」のように見えた。

ギムナジウムの女子部に通うヴェントラ(大野いと)は、「こんな丈の長いスカートはけない!」と母親(あめくみちこが演じている)に文句を言っている。ヴェントラは女に生まれた喜びを噛みしめているが、どうして子供が生まれるのかはまだ知らない。

一方、ギムナジウムの男子部に通うメルヒオール(志尊淳)は頭脳明晰でありながらそのエネルギーをどこに向ければいいのかわからず、悩んでいた。メルヒオールの親友であるモーリッツ(栗原類)は成績不振であり、進級できるかどうか微妙である。ギムナジウムは全員が進級できるわけではなく、落第者が一人は出る仕組みになっているようだ。モーリッツは競争に耐えられず、アメリカに渡ろうと考えている。
そんなモーリッツにメルヒオールは「子供の作り方」を教えるのだった。


青春の身もだえるような日々が、直截な表現で叩きつけるように描かれている。

若い出演者達の演技は十分とはいえないも知れないがエネルギーがあり、ベテラン陣には安定感がある。


私はもう、青春の日々からは大分遠ざかってしまったため、痛切さという意味では若い人達に比べると感じにくくなっているのかも知れないが(なんといっても14歳の子供がいてもおかしくない年であり、彼らを抑圧する親や社会の側に立つような年齢である)、第2次ベビーブーマーという抑制が多い世代を生きた者として、往時を思い返すとその「痛み」に胸が苦しくなるのをまだ思い出すことも出来る。

ラストには機械仕掛けの神を模したと思われる謎の人物が登場し、未来への希望と怖れを含みつつ芝居は終わる。

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2017年6月13日 (火)

観劇感想精選(215) 大阪松竹座「五月花形歌舞伎」 「野崎村」&「怪談乳房榎」

2017年5月17日 大阪・道頓堀の大阪松竹座にて観劇

大阪・道頓堀にある大阪松竹座で、「五月花形歌舞伎」を観る。午後4時開演の会で、演目は、新版歌祭文「野崎村」と「怪談乳房榎」

大阪松竹座の「五月花形歌舞伎」には、中村勘九郎、中村七之助の兄弟が出演。市川猿之助も出る。「怪談乳房榎」は、勘九郎・七之助兄弟がニューヨークで行われた平成中村座で大当たりを取った演目でもある。


「野崎村」は、近松半二が人形浄瑠璃のための書いた本を基にした世話物の義太夫狂言である。「心中」がキーワードになっている。
大坂の野崎村が舞台。百姓の久作(板東彌十郎)には一男一女があったが、息子の久松(中村歌昇)は実子ではなく、武士の家の出。訳あって実家が断絶し、久作に引き取られたのだ。久作には実の娘であるお光(中村七之助)がいて、久松とお光は将来を約束した仲だった。
久松は大坂の油屋に奉公に出ていたが、実家に戻ってくる。
冒頭に、久松の男っぷりとお光の容色を村人が褒めるセリフが加わっている。
七之助演じるお光は、久松が戻ってきて結婚も間近ということで浮き浮きとした様子。何度も鏡を見て、自らの容姿におかしなところはないかと確かめるが、どうやら少しナルシストの傾向があるようでもある。
大坂で久松と恋仲だった、油屋の娘・お染が久作の家を訪ねてくる。訪ねて来た人が噂に聞くお染だと悟ったお光は、つれなくして家に入れようとしない。

色々あって、久松とお染は心中しようとして久作に止められ、お光は身をひくため仏門に入る決意をするのだが、「身をひくために仏門に入る」という感覚は、正直、今ひとつピンとこない。現代では「身をひくために仏門に入る」ということはまずないということもあるのだが、身をひくような状況であるのかどうか。お光が幼かったとすればそれまでになるのだが。

七之助のお光は色気があってとても良い。


「怪談乳房榎」。三遊亭円朝の落語が原作である。中村勘九郎は、菱川重信、下男の正助、うわばみ三次の3役を早替りで演じる。

隅田川河畔の隅田堤。絵師の菱川重信の妻であるお関(七之助)が、桜の名所である堤の茶屋で休んでいると、従兄弟の松井三郎(市川猿弥)がやってくる。松井の主家である谷家で、金蔵に盗賊が押し入り、二千両が盗まれるという事件が発生。佐々繁(さっさ・しげる)という侍の羽振りが急に良くなったという話を聞いた松井の父親は佐々を捉えようとするが、佐々は逐電。事件を解決できないまま亡くなった父親の無念を晴らすため、松井は佐々の行方を追っていたのである。

松井が去った後、器量よしであるお関は、通りがかりの者に絡まれるが、深編み笠の浪人がお関を助ける。浪人の名は磯谷浪江(市川猿之助)。磯谷は、「絵師になりたい」ということで、菱川重信に弟子入りする運びとなったのだが、磯谷の正体こそ佐々繁であり……。

中村勘三郎は、正助役として下手に去ったかと思えば、うわばみ三次としてすぐに現れたり、うわばみ三次と正助が階段ですれ違う場面で、三次から正助へ瞬く間に化けたりする。
花道で他の役者と入れ替わるのだが、これがまた実に巧みで、どうなっているのかやはりわからない。勘九郎が早替りを行うたびに、客席から感嘆の声がもれる。歌舞伎の外連の極みである。

今回は、角筈十二社大滝の場では、本水が使用される。勘九郎は水を思いっきりはね飛ばして、客席から笑いが起こる(一階席前から5列目までの人には水よけ用のシートが予め配られていた)。
角筈という地名は現在では消滅しているが、西新宿の一帯であり、東京都庁の辺りである。角筈一二社(じゅうにそう)大滝は、現在の新宿中央公園内にあった人工の滝。淀橋浄水場建設の際に埋めたてられ、現在では影も形もない。

勘九郎は正助の剽軽ぶりがよくはまっている。勘九郎も七之助も実にいい役者である。実いい役者なのだが、二人合わせてもまだ父親の勘三郎には遠く及ばない。勘三郎は不世出の名優であり、超えるのは至難の業であると思われる。

猿之助が出演ということで、勘九郎は猿之助がテレビCMに出ているソルマックの話をしたり(「CMに出ているのがまたいい男」と言っていた)、キーになる印籠に「澤瀉」の家紋が入っているという設定にして笑いを取っていた。

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2017年6月 6日 (火)

観劇感想精選(214) ジョン・ケアード演出 内野聖陽主演 「ハムレット」

2017年5月6日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後7時から兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「ハムレット」を観る。作:ウィリアム・シェイクスピア、テキスト日本語訳:松岡和子、上演台本:ジョン・ケアード&今井麻緒子、演出:ジョン・ケアード。出演:内野聖陽、貫地谷しほり、北村有起哉、加藤和樹、山口馬木也、今拓哉、大重わたる、村岡哲至、内堀律子、深見由真、壌晴彦、村井國夫、浅野ゆう子、國村隼。
ホレイショー役の北村有起哉以外は全員が複数の役をこなすという演出。クローディアスと先王ハムレットの亡霊は同一の役者が務めることが多いが、その他の役を複数という上演は珍しい。

舞台下手に客席が設けられており、舞台上特設席となっている。舞台は八百屋飾りであり、上手奥から下手手前に向かって傾斜がついている。舞台上手にも椅子があり、出番を待つ俳優が座っていたりする。音楽と尺八演奏担当の藤原道山もここで演奏を行う。
一般の客席からは舞台を観るというよりも、「ハムレット」の上演が行われている劇場を別の角度から観るという趣になる。新たなる視座からの「ハムレット」だ。劇中劇があることで有名な「ハムレット」であるが、ジョン・ケアードの演出により、更なる入れ子構造となった。

まずホレイショー役の北村有起哉が登場する。舞台中央に進んでしばし佇み、舞台床へと手をやる。他の俳優が全員登場。北村有起哉演じるホレイショーが手を置いたところから光が溢れ、「あるか、あらざるか」という声が聞こえる。「To be,or not to be」が今回の松岡和子訳ではこの言葉になっている。「To be,or not to be」がハムレットのセリフのみでなく、劇全体への問い掛けとして響くのである。
その後、これまた自己への問い掛けのような「誰か?」という通常の「ハムレット」の最初がセリフが発せられる。

内野聖陽のハムレットということで、男くさいものを予想していたのだが、それとは大きく異なる、若々しくてナイーブだが線が細いわけではないという独特のハムレット像を生み出している。

貫地谷しほりも早いものでもう三十路を越えたが、可憐さがオフィーリア役に良く合っている。ただ時折、「演じすぎなのでは」と思える場面もあった。狂気のオフィーリアの場面では良い演技をしてくれたように思う。

國村隼のクローディアスは悪役的でも怜悧な雰囲気でもないが、人間臭さを感じられるところが魅力的である。

舞台上で俳優が羽織っているものを取ったり、仮面を被るなどして別人に変わるため、「演じる」という行為に、より注視することが出来る。ハムレットは「復讐」という役割を与えられた男だ。そして役者というのは皆、役割を与えられた者でもある。ハムレットが役者を丁重にもてなすのも、そう考えれば納得出来る。


「ハムレット」の謎の一つとして、「ハムレットは何故いつまで経っても復讐を行わないのか」というものがある。「臆病だから」「悩む性格(ハムレット型性格)だから」という考えもあるが、ポローニアスをなんの躊躇もなく刺し殺しているところから、これは当たっていないと思われる。ならば復讐できない理由があるのではないかと思うのが自然である。

ハムレットはガートルード(浅野ゆう子)の貞操観念の欠如に失望を覚えている。そのため愛するオフィーリアには「母親のような淫らな女になって欲しくない」ということで「尼寺(今回の上演では「尼僧院」)へ行け!」と語る。つまり母親のガートルードもハムレットの目にはクローディアスと同様、罪深き存在と映っているようである。また、ハムレットのセリフに「夫婦は一心同体」というものがある。ハムレットにとってはガートルードも先王ハムレットを卑しめる存在であり、クローディアスと同罪なのだろう。ということはハムレットはガートルードも殺害しなければならないのだが、実母を殺すことは心情的にも倫理的にも不可能である。ということで、ガートルードが死ぬことでようやく「母親殺し」のスティグマ回避がなされてクローディアスを討つことが可能になるのだ。この「母親殺し」をハムレットが無意識では感じているものの、はっきりとは自覚していないため、「謎」を生んだのだと予想される。自覚されていないとため、「復讐者」の役を上手く演じられない自身をハムレットが嘆くシーンにおいてもハムレットはその原因を己の演技力の不足としか捉えられていない。


ハムレットとレアティーズ(加藤和樹)の決闘は、フェンシングや剣術で行われることが多かったのだが、今回は棒術で行われる。内野聖陽と加藤和樹の殺陣も見事だった。

内野聖陽はハムレットの他にノルウェーの王・フォーティンブラスも演じるのだが、フォーティンブラスの父親もフォーティンブラスという名前であることから、二世という意味でハムレットとフォーティンブラスは重なっており、その重なりが意図的に見えるように演出されているように思われる。

ホレイショーはデンマーク王室で起こった物語を伝えるために生きることを決めるのだが、今回の舞台の内容を人に伝えるのは今日客席にいる人々ということで、ホレイショーは観客の代理人という役割を担っているのだと思われる。一番最初に舞台に現れ(この舞台が「ホレイショーの語る『ハムレット』であることを示唆していると思われる)、最後に一人で舞台を去るのは「全てを観て語るため」なのだろう。ホレイショーを演じる北村有起哉だけ一役なのは「単一の視座の確保」のためだと思われる。


カーテンコールは3回。3回目はオールスタンディングとなり、10年前の大河ドラマ「風林火山」のコンビである内野聖陽と貫地谷しほりが喝采を浴びた

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2017年5月20日 (土)

観劇感想精選(213) 「エレクトラ」

2017年4月29日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「エレクトラ」を観る。
女版エディプス(オイディプス)・コンプレックスであるエレクトラ・コンプレックスの語源としても有名な「エレクトラ」。ただギリシャ悲劇に限っても「エレクトラ」という作品はソフォクレス(ソポクレス)とエウリピデスのものがあり、更にアイスキュロスらによるエレクトラを巡るギリシャ悲劇が複数ある。
今回は、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスらのギリシャ悲劇を中心に、笹部博司が上演台本を制作し、鵜山仁が演出を手掛ける。出演は、高畑充希、村上虹郎、中嶋朋子、横田栄司、仁村紗和、麿赤児、白石加代子。
りゅーとぴあ(新潟市民文化芸術会館)の製作。

舞台下手袖に演奏のための空間があり、チューブラーベルズ、プリペアードピアノなどが生演奏される。

舞台中央にトーテムポールもしくはオベリスクのような柱が一本立っている。トロイア戦争の時代、ミュケナイの王・アガメムノン(麿赤児)の一人語りで物語り始まる。トロイアの王子・パリスがギリシャの王女・ヘレネを掠い、トロイアへと行ってしまったことからトロイア戦争が起こる。トロイアに向かおうとしてギリシャ軍だが風が止んでしまい、船が進まない。ここでアガメムノンはアルテミス神から長女のイピギネイアを生贄として捧げるようお告げを受かる。イピギネイアを生贄として差し出さない場合はギリシャ軍は進退窮まる。そこでアガメムノンは託宣通りイピギネイアを生贄として差し出した。だが、これにアガメムノンの妻でイピギネイアの母であるクリュタイメストラ(白石加代子)が激怒。クリュタイメストラは情夫であるアイギストス(横田栄司)を使ってアガメムノンを暗殺する。
アガメムノンとクリュタイメストラの次女であるエレクトラ(高畑充希)は母であるクリュタイメストラを毛嫌いしている。クリュタイメストラはアイギストスと再婚し、次女・エレクトラと三女のクリュソテミス(仁村紗和)は隠忍自重の日々。エレクトラの憎悪は日毎に増すばかりだ。
使者(麿赤児二役)に連れられて、オレステス(村上虹郎)がミュケナイに戻ってくる。エレクトラとクリュソテミスの実弟であるオレステスは他国に亡命していたのであるが、アポロン神の神託を受け、実父を殺害したクリュタイメストラとアイギストスに復讐しに来たのだ。アポロン神は「オレステスが死んだ」と偽の情報を流すことで王室を油断させるようオレステスに告げていた。

アイギストスの宮殿でエレクトラとクリュタイメストラが言い争いをしている時に、使者がやって来て、オレステスが死んだことを告げ、オレステスの最期をまことしやかに語る。オレステスによる復讐を唯一の生き甲斐にしていたエレクトラは絶望。「もう生きていたくない」とまで語る。
そこへクリュソテミスが、「オレステスが帰ってきた」と言いながらアイギストスの宮殿へ。クリュタイメストラに命じられてアガメムノンの墓を清めに行ったクリュソテミスは墓に髪の毛が手向けられているのを見て、オレステスの帰還を確信したのだ。本気にしないエレクトラだったが、やがて配達夫に扮したオレステスがアイギストスの宮殿に入ってくる。長い間、顔を合わせていなかったため、お互いが実の姉弟だと気づかないエレクトラとオレステスだったがやがて……。

第1幕の上演時間が約1時間40分、休憩を挟んで第2幕の上演時間が約1時間。第1幕がよく知られているソフォクレスの「エレクトラ」の筋書きであり、第2幕はそれとは別の物語が続く。
ギリシャ悲劇が原作であるがラストは悲劇的ではない。エレクトラの「この世に幸福の国を築きたい。それが私の希望、それが私の夢」という一人語りで芝居は終わる。

高畑充希は憑かれたような演技を見せるが、一つ一つの仕草や台詞回しがきちんと計算されたものであり、上手くコントロールされていることがわかる。全ての演技が方程式を解くように解明出来るからである。ということで、彼女は憑依型の女優ではないようだ。「実力派」として知られる高畑だけに、神経の行き届いた迫力のある演技を展開する。
ミュージカル女優として期待されている高畑なので、やはり歌のシーンがある。これはその直後に笑いの要素に変えられる。

白石加代子と麿赤児の存在感も流石。この世代の俳優はただいるだけで、ある意味、異種の空気を作り上げることが出来る。
中嶋朋子の安定感のある演技も優れていたし、村上虹郎と仁村紗和という二人の若手俳優の演技も新鮮だった。横田栄司は二役を演じたがが、いずれも出番は少なめ。アイギストスを演じていた時にはそれをネタにしたセリフもあった。


カーテンコール。高畑充希は、「私は大阪出身なので、親戚一同が、今日、来てます」と言い、これが初舞台でこれまた大阪出身という仁村紗和は、「素敵な観客の皆さんを前に、尊敬する先輩方と舞台に立つことが出来て幸せです」というようなことを述べた。

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2017年5月16日 (火)

第180回「鴨川をどり」

2017年5月10日 先斗町歌舞練場にて

午後4時10分から、先斗町歌舞練場で、第180回「鴨川をどり」を観る。明治5年に始まった鴨川をどりは、以前は春・秋の年2回公演を行っていたため、五花街の舞踏公演の中でも最多の公演数を誇っている。他の花街の踊りに比べて演劇的要素が濃いのが特徴。

鴨川をどりを観るのは約12年ぶりである。


今回の演目は、「源平女人譚(げんぺいにょにんものがたり)」と「八千代壽先斗町(やちよはなのぽんとちょう)」。作:今井豊茂、振付:尾上菊之丞、作曲:常磐津文字兵衛、作詞:藤舎呂船&藤舎名生。

「源平女人譚」は、木曽義仲(源義仲)と正室の巴御前、側室の山吹、平中三位資盛(織田信長が織田氏の祖とした人物でもある)とその側室である卿の局が中心となる。
まず、丸に揚羽蝶の平氏の家紋の入った部隊で、平資盛(演じるのは市楽)と卿の局(朋佳)の別れと、山吹(久加代)が卿の局を捕らえるまでが描かれる。
第二場は、木曽義仲(豆千佳)の陣。丸に二引きの木曽源氏の家紋が描かれた陣幕が描かれている。資盛が巴御前(もみ蝶)に捕らわれてくる。義仲は猫間中納言こと藤原光隆(市兆)をもてなすのだが、木曽出身の義仲は田舎料理を出し、猫間中納言を驚かせる。巨大なおにぎりを猫間中納言が食べるシーンではある工夫がなされている。

義仲が卿の局に惹かれていることを知った山吹は、貴船神社で卿の局を呪うための五寸釘を打っている。そこへ義仲と卿の局が病の調伏のためにやって来て……。

その後の展開は書かないでおくが、移動を描く際に役者が動くのではなく、大道具が変わっていくという見せ方が面白かった。
「源平女人譚」は、女歌舞伎や邦楽版宝塚歌劇という趣である。


「八千代壽先斗町」は、今年が大政奉還150年ということで、幕末が描かれる。こちらは踊りの方がメインである。
舞妓達の舞(リズムはコンチキチンである。ラストでは「ええじゃないか」が歌われる)が終わった後で、ひな祭りの内裏雛(市乃&あや野)の場となる。その後、鶴ヶ城天守の絵をバックに会津の娘子隊の舞があり、更に西郷吉之助を慕う仲居のお玉の舞(背景の掛け軸には「敬天愛人」の文字がある)、お玉と西郷吉之助((久富美)は、「面白き事もなき世を面白く」という高杉晋作の歌に合わせて踊る。そして二条城では将軍・徳川慶喜(豆千佳)が大政奉還を決意する。
最後は、勢揃いで舞が披露される。静と動の拮抗する見事な空間が目の前に広がった。

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2017年5月11日 (木)

観劇感想精選(211) フェスティバルシティ・オープン記念「祝祭大狂言会」2017

2017年4月22日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて観劇

午後3時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、フェスティバルシティ・オープン記念「祝祭大狂言会」2017を観る(「だいきょうげんかい」と打ったら、「大凶限界」と変換された。晴れの舞台だというのに変なIMEだ)。先日、フェスティバルタワー・ウエストが竣工したことを記念しての公演である。
「千鳥」、「奈須与一語(なすのよいちのかたり)」、「唐人相撲(とうじんずもう)」の三つの狂言の演目が上演される。

狂言上演前に、野村萬斎による解説がある。野村萬斎は自他共に認める雨男だが、今日の大阪は晴れである。
今日の舞台は一風変わっていて、左右両方に橋掛かりがある。野村萬斎は上手の橋掛かりから登場。野村萬斎はまず左右の橋掛かりのことを語る。

最初の演目である「千鳥」は狂言大蔵流の茂山千五郎家によって上演される。野村萬斎は、「『千鳥』は(野村萬斎のいる)和泉流にも大蔵流にもあるのですが、悔しいことに大蔵流の方が面白いんですね。くそー!」と悔しがる振りをして、「金がないのに酒を買ってこいと命令する。今で言うパワハラ」と解説を行う。
続いては、野村萬斎は一人で演じる「奈須与一語」の解説。萬斎は、「那須与一の人を教科書で習ったという人」、「知っている人」と聞く。そして、「源義経のことを判官と呼びます。プロレスラーじゃないですよ。この話がわかった人はある程度年の行った方だと思いますが」と続けて、屋島の戦いでの那須与一の活躍を説明する。八幡大菩薩が源氏の氏神であるということと、那須与一が那須出身だということで、那須の神様である湯泉大明神が信仰の対象であることを語る。一人で数人を演じ分けるのだが、「早替えをいたします。実基という少し年上の武将になります。脱いだりはしませんよ。仕草だけで変わったということにするのが狂言です。『そこにいるのは誰か?』『実基』が狂言。『そこにいるのは誰か?』『野村萬斎だ』では狂言にはなりません」
「唐人相撲」。大人数が登場する珍しい演目であるが、野村萬斎が上演した「唐人相撲」は以前、びわ湖ホール中ホールで観たことがある。「唐音という偽物の中国語を語るのですが、流派によっては本物の中国語を使う場合がある。なんの意味があるんでしょうか?(一応補足すると、大半の日本人は中国語を解さないため、語られているのが本物の中国語なのか偽物の中国語なのか判別出来ないので本物の中国語を使っても意味がない)」「京劇を意識した本格的なアクロバットを行う上演もあるそうです。だったら京劇を観た方が良い」とユーモアを込めて語る。
ちなみにまだ解説の時間なのに客席ですでに居眠りをしていた人がいたようで、野村萬斎にネタにされていた。


「千鳥」。先に書いたとおり、京都を拠点とする茂山千五郎家(狂言大蔵流)による上演である。出演:茂山千五郎(太郎冠者)、茂山茂(主人)、茂山千作(酒屋の亭主)。

太郎冠者が主人から酒屋に行って酒を買ってくるよう命令される。しかし、主人は酒屋につけを沢山貯めている上に太郎冠者に金を渡してくれない。それでも酒屋にやって来た太郎冠者はなんとか酒をせしめようとする。
「千鳥」というのは、尾張国にある津島神社の津島祭で行われる千鳥流しのことである。太郎冠者は酒樽を千鳥や山車に見立てて、かっさらおうとするのだが、酒屋の亭主に見つかってしまう。そこで、流鏑馬をすると言って……。

以前にも一度観たことがある「千鳥」。太郎冠者と酒屋の亭主の駆け引きが見物である。


野村萬斎独演による「奈須与一語」。一人語りであり、狂言でありながら笑いの要素はない。
上手側の橋掛かりから登場した野村萬斎は、地語り、源九郎判官義経、後藤兵衛実基、奈須与一(那須与一)を演じ分けるほか、平家方で扇を掲げる若い女も仕草で表現する。
フェスティバルホールは多目的ホールであるがクラシック音楽用の音響設計がなされているため、セリフを発するとビリビリと響いてしまうところがあるのだが(ミュージカル「レ・ミゼラブル」が上演される予定があるが、今のところストレートプレーの上演がほとんどなされていないのはおそらくそれが理由だと思われる)、野村萬斎は声が相当奥深いところから発せられるため、発音も明瞭で声に張りがある。
奈須与一が弓を構えて馬で駆ける場面を野村萬斎は立て膝で演じるのだが、本当に馬に乗っているかのように見える。野村萬斎はやはり凄い。
なお、「奈須与一語」はセリフが古文調でわかりにくいため、無料パンフレットには全てのセリフが載っている。


休憩を挟んで後半。まず、守家由訓(もりや・よしのり。大鼓)、中田弘美(大鼓)、成田達志(小鼓)、一噌隆之(いっそう・たかゆき。笛)による能楽囃子がある。

そして最後の演目である「唐人相撲」。出演は、野村萬斎、石田幸雄、野村万作ほか。総勢40人ほどによる大規模演目である。「唐人相撲」では二つある橋掛かりが効果的に用いられる。
ちなみに背後にあった松の木を描いた書き割りは上演中に上にはけ、玉座が現れる。その背後のスクリーンには入退場時の唐人達の影絵が投影される。
唐に滞在していた日本人相撲取り(野村萬斎)が、皇帝(野村万作)に帰国したい旨を告げる。そこで、皇帝は日本人相撲取りに最後の相撲を取るというに命じ、通辞(通訳。演じるのは石田幸雄)の行事により、日本人相撲取りと唐人達の対決が始まる。
唐人役の狂言方は、二人ずつ肩車をして日本人力士に挑んだり、組体操の人間ピラミッドを作ったりする。
出鱈目中国語が使われているのだが、「ワンスイ!(万歳!)」や、「イー、アー、サン、スー」などの基礎的な中国語は案外そのまま使われていたりする。古代から明治時代頃までの日本人の知識階級には実際に漢語が出来た人も多かったので(彼らは漢詩を詠んでいた。今でこそ日本における漢詩文化は廃れてしまっているが、長い間、漢詩は和歌や俳句などよりも上位に置かれた)、部分部分では漢語そのままの発音が用いられているのであろう。
野村萬斎はアクロバットには否定的であったが、とんぼを切ったりという初歩的なアクロバットは用いられている。全く用いないと、唐人役の人々の見せ場が皆無になってしまうので。
野村萬斎演じる日本人相撲取りは気合いや息だけで相手を飛ばしたりするという念力も用いる。リアリズムの芝居ではなく狂言なので何でもありということである。
子役も数名登場し、見せ場を作っていた。

華やかな狂言公演であった。

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観劇感想精選(210) 日中国交正常化45周年記念「中国国家京劇院 愛と正義と報恩の三大傑作選」

2017年4月2日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて観劇

午後6時30分から、ロームシアター京都メインホールで、日中国交正常化45周年記念「中国国家京劇院 愛と正義と報恩の三大傑作選」を観る。
北京の伝統芸能である京劇。その京劇の総本山ともいうべき中国国家京劇院の来日公演である。中国国家京劇院は中国文化部直属の団体であり、京劇の歴史的名女形の梅蘭芳が設立に関与していて初代院長に就任している。

演目は、「西遊記・金銭豹」、「太真外伝」より抜粋、「鎖麟嚢」の3つ。いずれも上演の前に紗幕に内容を説明する映像が投影される。日本語字幕付きでの上演。

京劇を観るのは今回が2度目。前回は、NHK大阪ホールで観ている。

陳凱歌監督の映画「さらば我が愛 覇王別姫」でも知られる京劇。故レスリー・チャンが女形を演じていたため、現在でも歌舞伎同様、女形が存在していると思われることが多いようだが、清朝時代は女は舞台に上がれなかったものの、その後は徐々に状況が変わり、改革開放以降は、女役は基本的に女優が歌い、演じている(男性が老女役を演じることはある)。
ちなみに、中国の地方演劇の中には京劇よりも早い時代に女優制度を取り入れたものも存在する。

今回の公演では、ロームシアター京都メインホールはバルコニー席(サイド席)は用いられていなかった。
今日は4階席最前列の真ん真ん中の席での観劇。手すりが多少目障りになるが、手すりがないと移動する際に命が危ないのでこれは我慢するしかない。

開演前には中国の民謡などがインストゥルメンタルで流れていたのだが、中国初のロックンローラーとして知られる崔健が中国共産党批判のメッセージを込めてカバーしたとされることでも有名な「南泥湾」も流れていた。


「西遊記・金銭豹」。天竺に向かう途中の三蔵法師(演じるのは陳旭之)の一行、紅梅山という山の麓に差し掛かった時の話である。紅梅山に住む妖怪の金銭豹(張志芳)は、地元の住人である鄧洪(馬翔飛)の娘(劉夢姣)に一目惚れして、鄧洪に娘と結婚させるようせまる。そこに三蔵法師の一行が宿を借りに鄧洪の家にやって来る(京劇は庶民のための娯楽として発展したため、かなりご都合主義の筋書きが多い)。鄧洪の悩みを聴いた孫悟空(馬燕超)は、猪八戒(危佳慶)と共に、鄧洪の娘と娘の侍女(戴忠宇)に化けて金銭豹に近づき、退治しようとする。

アクロバットな要素が多く、孫悟空役の馬燕超はバック転にバック宙と身軽であり、如意棒の捌き方も巧みである。金銭豹役の張志芳も武器とする棒を巧みに操る。

孫悟空役の馬燕超と鄧洪の娘役の劉夢姣、猪八戒役の危佳慶と侍女役の戴忠宇は化けたという設定で入れ替わりながら演技をする。

日本でも有名な『西遊記』であるが、内容が通俗的であるため、「子供のうちは『西遊記』は難しくて読めないが、大人になったら『西遊記』は馬鹿馬鹿しくて読めない」という言葉が中国にはあり、実際、どの層が主に読んでいるのか謎の物語であったりする。

京劇は基本的に歌う劇であり、北京オペラ(もしくはチャイニーズ・オペラ)とも呼ばれている。演劇の台本を戯曲というが、中国では戯曲というと、京劇など古典演劇のことを指す。歌があるので曲という字が入っている。わかりやすい。

高いところにある席には高い音色の直接音が飛んで来やすい。「西遊記・金銭豹」は活劇であるため、銅鑼や鐘がやたらと打ち鳴らされて、かまびすしく感じた。


「太真外伝」より抜粋。楊貴妃(本名:楊玉環。演じるのは朱虹)と玄宗皇帝(本名:李隆基。演じるのは劉塁)のロマンス劇である。喧嘩をした玄宗皇帝と楊貴妃。だが、七夕の夜に織姫と彦星のことを祈る楊貴妃を見た玄宗は再び心惹かれ、二人で鵲の橋(西洋の星座でいうはくちょう座のこと)となり、比翼連理の誓いを結ぶ。
抜粋上演なので、短く、少し物足りなかった。


「鎖麟嚢」。これが最も本格的な上演演目である。山東半島にある登州が舞台。富豪の令嬢である薛湘霊(李文穎)が嫁入りする日。侍女の梅香(載忠宇)がまず登場して状況を説明する。この作品は現代京劇であるためか、聞いていてもセリフの内容がわかりやすい。
薛湘霊というのがまた、わがままな女性で、嫁入り道具のデザインが気に入らないというので、執事の薛良(王宝利)に何度も買いに行かせては「買い直してきて」と命令している。
登州には、嫁入りする娘に鎖麟嚢という袋を持たせることになっている。この袋に宝石などを詰め込んで持たせると娘が子宝に恵まれるというのだ。だが薛湘霊は、鎖麟嚢に書かれた麒麟が「豚や犬に見える」と文句を付けている。薛夫人(張静)は、そんな娘にわがままを言わないよう諭す。

婚礼の一行は、雨に降られたため、春秋亭という東屋で雨宿りをする。そこで薛家の人々は、趙守貞(朱虹)というやはり嫁入りする女性の泣き声を聞く。趙朱貞は貧しい家の娘であり、嫁入りなのにみすぼらしい体裁しか取れないのを嘆いていたのだ。薛湘霊は誰もが自分のように恵まれているのではないということを悟り、趙守貞に鎖麟嚢を与えるのだった。

これまたラストではかなりご都合主義な展開になるのだが、庶民は悲劇よりも予定調和の大団円を好んだのであろう。日本で「水戸黄門」が好まれるのも同じ心理だと思われる。
なお、この劇に出てくる男の子の役は女優(「西遊記・金銭豹」で鄧洪の娘役で出ていた劉夢姣)が演じていた。

元々、京劇の伴奏楽器として発達した胡弓(二胡)の響きも心地よく、楽しめる演目であった。

カーテンコール。出演者達はまず、中国式の拱手で拍手に応え、その後、西洋式の胸に手を当てる形のお辞儀を行った。

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