カテゴリー「演劇」の378件の記事

2018年11月11日 (日)

観劇感想精選(264) 白井晃&長塚圭史 「華氏451度」

2018年11月3日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後3時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「華氏451度」を観る。レイ・ブラッドベリの有名小説を長塚圭史の上演台本、白井晃の演出で舞台化したもの。出演は、吉沢悠(よしざわ・ひさし)、美波、堀部圭亮、粟野史浩、土井ケイト、草村礼子、吹越満。ガイ・モンターグ役の吉沢悠を除いて、全員が複数の役を演じる。
長塚圭史の上演台本は、基本的に原作小説をパラフレーズしたもので、セリフやト書きも原作に忠実であることを心がけたそうである。

レイ・ブラッドベリの原作に関しては、個人的な思い出がある。1999年の秋に、藤沢と小田原に一泊ずつする神奈川県への小旅行に出たのだが、二泊目の小田原で『華氏451』を読了したことをなぜか覚えているのである。多分、感動したのだろう。その日は、藤沢のホテルを出て鎌倉文学館に行き、文学館前の公衆電話で小田原の宿を取り(まだ携帯電話を持っていない時代の話だ)、小田原文学館を訪ねた(近くに旧岸田国士邸の門あり)後で小田原駅前のビジネスホテルに泊まり。翌日は関白農道を上って石垣山一夜城を訪れてから静岡県の熱海と伊東を回りというコースであった。一連の旅の思い出と『華氏451度』が一体となっている。

ちなみに、「華氏451度」とは紙が発火する温度である(摂氏だと233度)。
『1984年』と『華氏451度』はディストピア小説の両輪ともいうべき有名作だが、今年は2本とも舞台化されることになった。

舞台上手下手奥の三方向にびっしり本で埋まった書棚が浮いている。役者はこの本棚のすぐ後ろでいて、出番が来るまで待機しているというスタイルである。
舞台が始まると、奥から出てきたファイアマン達が本を燃やし始める。近未来、建物の火事は最早なくなり、ファイアマンは消火ではなく焚書を仕事としている。近未来に於いては読書は有害なものとして禁止、思考力を働かせることすら忌避されている。「インテリ」というのは蔑称である。

ファイアマンの一人であるガイ・モンターグは本を燃やす仕事をしていることに何の疑いも持たず、「本が燃えるのは楽しかった」と述べ、本の発見と焼却に無邪気な誇りを持っていた。実は、モンターグの上司であるベイティー(吹越満)は、本の怖ろしさについて知悉していたようなのだが。
ある日、モンターグは、クラリスという少女(美波)と出会う。本の価値について語るクラリスにモンターグは戸惑う。帰宅したモンターグは妻のミルドレッド(美波二役)にクラリスのことを話すが、ミルドレッドは本を有害なものとしか思っていない。家庭内にはモニターが数台あり、そこに映り続ける「友達」の言うことを聞くのがコミュニケーションであり友情とされていた。「みな平等」という美名の下に、均質的な人間像が理想化され、異端者は静かに迫害されていた。そしてそれは「皆が望んだこと」なのだ。上や遠方から来るのではなく内側にいたものなのである。
ある老女(草村礼子)の自宅から本が発見され、ファイアマン達は焚書に向かう。ところが老女が本と共に焼かれることを選択したためにモンターグは困惑し……。

洗脳が常態化された世界にあって、知識と思考の有効性を述べた作品である。

フランソワ・トリュフォーが同作を映画化しており、私も観てはいるのだが、場面場面は思い出せても全体としての印象は忘却の彼方にある。ただ、小説はまあまあ覚えているということもあり、舞台としての「華氏451」を詳細まで楽しむことが出来た。

知識と思考と想像力を後世に伝えることの重要性と主体的な知者であり続けることの一種の義務が観客へと語られていく。

「1984年」と「華氏451度」の2作品が1年のうちに上演されるのは面白いことなのだが、演劇人達がそれほど切迫感を抱いているということでもあり、歓迎される状況ではないのかも知れない。

今日は、吉沢悠、美波、吹越満によるアフタートークがある。
開演前にホワイエでアフタートーク参加者への質問を募集しており、私も「本以外で記憶して語り継いでいきたいものはありますか?」と紙に書いており、質問として採用されたのだが、吉沢は「そんな立派なこと考えたことない」と戸惑い、色よい返事を貰うことは出来なかった。吉沢は初めて台本を貰ったときは何が書いてあるのかさっぱりわからなかったそうで、今も深くは理解していないのかも知れない。まあ、質問自体が悪かったのかも知れないが、そうご大層に捉えなくても、「記憶して語る」という行為はメタ的に考えれば演劇そのものであり、だからこそ長塚圭史もなるべく原作を尊重という姿勢を取ったのであろうし、演出の白井晃もそれを理解していてわかりやすい表現を意図的に避けたのだろう。白井は「抽象的な話なんだから具象的にやるな」とダメ出ししていたそうである。
意図は伝達の妨げと考えられる。意図はあるがままのものを認めずに歪め、誘導するのだ。
美波はその場では記憶と伝達には答えなかったが、アフタートークを締める最後のメッセージとして、舞台作品を記憶することと舞台経験の豊穣性について語り、一応は私の質問と呼応した形となった。


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2018年10月30日 (火)

観劇感想精選(263) 宮本亜門演出「三文オペラ」

2009年5月4日 大阪厚生年金会館芸術ホールにて観劇

午後5時より、大阪厚生年金会館芸術ホールにて「三文オペラ」を観劇。作:ベルトルト・ブレヒト、テキスト日本語訳:酒寄進一、音楽:クルト・ワイル(ヴァイル)、音楽監督:内橋和久、演出:宮本亜門、主演&訳詞:三上博史。出演は他に、安倍なつみ、秋山菜津子、松田美由紀、明星真由美、米良美一、田口トモロヲ、デーモン小暮閣下など。

「三文オペラ」は、一昨年に白井晃演出のものを観ており、更に昨年には「三文オペラ」の原作である、ジョン・ゲイの「乞食オペラ」も観ているので、それとの比較になる。

まず、音楽はアンプを使った大音量の生演奏で、いかにもエレキな感じ。
舞台装置はベニヤ板を使った巨大ボードがスクリーン代わりに使われたり(客席の映像やアニメーションなどが投射された)、幕の代わりになったりと効果的に用いられている。

主な登場人物は、デーモン小暮閣下は勿論、全員顔を白塗りにして登場、役者のイメージの切り離しを行う。また、出番を待っている役者を舞台端に、客席から見えるように座らせているのも、劇と舞台とを切り離す効果を狙っているようだ。

白井晃演出の「三文オペラ」に比べると、ブレヒトの戯曲本来の泥臭さがそのまま生かされており、解釈そのものはオーソドックスだ。

安倍なつみやデーモン小暮閣下といったプロの歌手陣の歌は流石の出来。安倍なつみはちょっと頭の足りない娘としてポリーを演じており、予想以上の好演である。

口上役として客席に話しかけるという米良美一の役割の与え方も効果的で、客席を告発するかのような戯曲のどぎつさを中和させることに成功しており、全体として見応えのある舞台になっていた。

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2018年10月26日 (金)

コンサートの記(442) 「時の響」2018初日 大ホール第2部 羽田美智子×松尾葉子×オーケストラ・アンサンブル金沢 プロコフィエフ 「ピーターと狼」朗読付き公演ほか

2018年10月20日 京都コンサートホールにて

京都コンサートホールで行われる「時の響」2018初日。
今日は午後3時開演の大ホール第2部「親子で楽しむ『朗読』付きコンサート」から聴く。出演は、松尾葉子指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢。朗読:羽田美智子。

曲目は、ラヴェルの「マ・メール・ロア」より3曲とプロコフィエフの「ピーターと狼」


日本における女性指揮者の草分け的存在である松尾葉子。1982年のブザンソン国際指揮者コンクールで、コンクール史上初の女性覇者となる。日本人としても小澤征爾に次ぐ二人目の優勝者であった。
教育者としても著名で、30年に渡って東京藝術大学指揮科教官を務め、芸大出身の中堅から若手の指揮者のほとんどは松尾の弟子である。現在は愛知県立芸術大学客員教授、セントラル愛知交響楽団特別客演指揮者の座にある。


日本初のプロの常設室内管弦楽団として組織されたオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)。今や日本を代表する音楽団体の一つである。幼少期を金沢で過ごしたこともある岩城宏之を音楽監督として発足し、2代目の井上道義時代を経て現在はマルク・ミンコフスキが芸術監督を務めている。
日本で最も外国籍楽団員の割合の多いプロオーケストラとしても知られ、今日は第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのトップが白人である。

ドイツ式の現代配置での演奏であるが、ホルンが上手に来るなど、独自色が強い。


ラヴェルの「マ・メール・ロア」。雅やかでしなやかなアンサンブルが印象的。彩りも鮮やかであり、日本における理想的なラヴェルが聴ける。


プロコフィエフの「ピーターと狼」朗読付き上演。
羽田美智子は、今日は第1部のオオサカ・シオン・ウインド・オーケストラのオープニングMCと務め、第2部では朗読担当として参加する。

羽田美智子は、子どもの頃はピアニストになるのが夢で、小学校の卒業文集には「ピアニストになって大きなホールで演奏する」と書いたそうだが、大人になるに連れて「あのレベルまで行くのは難しい」と気づき、演技の道に進んだそうだ。
以前、ドラマでヴァイオリニストの役をしたことがあり、ホールで弾く真似だけしたことがあったそうだが、音楽会の本番に出演者として参加するのは初めてであり、「夢が叶った」と嬉しそうに語った。

羽田美智子の朗読は明るめの声で行われ、親しみやすい。そのためプロ女優の凄みは感じないが、「ピーターを狼」ということもあり、これで良いと思う。今は「ピーターと狼」の朗読にこれといったものはないので、色々な人に挑戦して貰いたいとも思っている。小澤征爾が朗読を務めたCDはあるが、小澤さんは朗読は素人なのでね。

松尾葉子指揮のOEKは温かみのある愛らしい演奏を行った。


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2018年10月21日 (日)

観劇感想精選(262) 京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2018 ウースターグループ 「タウンホール事件」

2018年10月14日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から京都芸術劇場春秋座で、ニューヨークの前衛劇団であるウースターグループの「タウンホール事件」(クリス・ヘジダスとD・A・ペネベイガーによる映画「タウン・ブラッディ・ホール」に基づく)を観る。英語上演日本語字幕付。上演時間約65分の中編である。演出:エリザベス・ルコンプト。

1971年にニューヨークのタウンホールで行われたフェミニズムのためのパネルディスカッションの様子を収めたドキュメンタリー映画「タウン・ブラッディ・ホール」の映像を流しながら演劇も同時に上演される。

開演の15分前開場であったが、開演するまでの間、ヘッドホンを装着した若いアジア系スタッフ役の若い女性が舞台と客席の間をうろうろするなど臨場感を演出している。

パネルディスカッション(討論会)出席者の後ろにモニターがあり、そこに1971年のタウンホール内での模様が映し出される。

1971年の討論会に出席したのは、自称フェミニストだが実際は男性至上主義的なノンフィクション作家、ノーマン・メイラー、ウーマン・リブ運動の王道を行くような思想の持ち主である作家のジャーメイン・グリア、レズビアンである作家のジル・ジョンストン、女性という言葉で一括りにされるのを嫌う文芸評論家のダイアナ・トリリングらである。

今回の上演では、アリ・フリアコスとスコット・シェパードという二人の男優がノーマン・メイラーを交互に演じる。どちらかが出演出来なくなる可能性を考えて、二人に台本を送ったのだが、二人とも出演可能になったため二人一役にしたそうである。もっとも、男優一人対複数の女優という構図にした場合、誤解を招く恐れもあったため男優二人システムを採用したとも考えられる。男優二人が取っ組み合いの喧嘩をする挿話(ノーマン・メイラーが手掛けた映画のワンシーンらしい)を入れているが、これも男優二人でないと成立しないことだろう。

女性達はウーマン・リブだのフェミニズムだので一括りにされがちだが、主張や立場はそれぞれ異なる。

芝居はまずジルの一人語りで始まるのだが、これはジルが書いた『レズビアン・ネーション』に出てくるタウンホールでの討論会の記憶に忠実に基づいているようだ。ジルは自分がいかにアピール出来るかに掛けており、最初から場の空気を乱す気満々である。
「女は全員レズビアンだ」という主張を繰り広げる。

ジャーメイン・グリアは『去勢された女』という本で成功を収めたのだが、彼女を引き立てようとしたのが他ならぬノーマン・メイラーだったようである。
男性の詩人と女性の詩人を比較し、男性詩人はその活動が名誉に繋がるが、女性詩人の場合は逆に男性から敬遠されるということで、成功する女性詩人が生まれるためには女性の立場の向上が必須であると考えている。
また女は聖女か侍女のどちらかにしかなれないことを問題視している。

ノーマン・メイラーは、女性の人権を認めてはいるが、それは天賦のものではないと考えているようで、「努力で勝ち取るべき」としている。

ダイアナ・トリリングを演じているのは男優のグレッグ・マーテン。ダイアナは、オーガズムが一人一人違うように同じ女性でも思想が個々に異なるとして、安易に女性の立場を代表するようなスタンスを取ってはならないと考えている。また彼女は左翼思想の持ち主だが、ノーマンは「左翼全体主義は地獄」と考えており、思想面でまず対立している。

俳優のみが見られるモニターが3つほどあり、そこに流れる映像や字幕、俳優がつけているイヤホンなどを通して聞こえるセリフなどの情報の中から俳優が適宜選択をして表現していくという手法を取っている。効果的なのかどうかは見た限りでは判然としない。
ドキュメンタリー映画の映像と目の前にいる俳優が同じ仕草をしたり、声が重なったりするのは視覚的には面白いが、それだけといえばそれだけのような気がする。今目の前で起こっているという感覚にはどうしてもなれなかった。


この作品は基本的にジルの視点を主体に描かれており、女対男、女対女、急進派対伝統主義の構図で争いが起こってる間にもジルは女性同士で愛し合うなど、一人だけ上のステージにいるような立場にあるのは当然ともいえる。ジルにだけは自己愛でない愛があるようだ。実際にどうだったのかはわからないが。

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パネルディスカッション「About The Wooster Group」@ロームシアター京都

2018年10月8日 ロームシアター京都3階共通ロビーにて

午前11時から、ロームシアター京都3階共通ロビーで、パネルディスカッション「About The Wooster Group」に参加する。今週末に京都芸術劇場春秋座で上演される京都国際舞台芸術祭「タウンホール事件」のプレイベントである。事前申し込み制無料。

午前10時10分頃にロームシアターに到着し、今後の公演のチケットを受け取ってから、3階にあるミュージックサロンへ。今日は新国立劇場オペラの映像が流れている。


「About The Worcester group」の出演者は、ウースターグループの創設者であるエリザベス・ルコンプトと創設メンバーのケイト・ヴァルク。モデレーターは、パフォーマンス研究者・劇評家の内野儀(ただし)。

ウースターグループは、1975年創設のアメリカ・ニューヨークのパフォーマンス団体。独自の演劇観を持った作品を上演し続けている.

「タウンホール事件」は、1971年にニューヨークのタウンホールで行われたウーマン・リブの討論会での騒動を記録した映画「タウン・ブラッディ・ホール」の映像を使いながら行うパフォーマンスである。


インターネットで申し込みをした人にはパスワードが送付され、ウースターグループが配信している映像を見ることが出来る。
ただ、未見の人のことを考えて、最初の20分間は、同じ映像をモニターで視聴することに費やす。

まずは、2004年に上演された「Poor Theater」という作品について。この作品から、デジタル技術が本格的に導入され、ドキュメンタリー映像の編集速度が格段に速くなったため、表現が広がったという。グロトフスキーの「アクロポリス」を題材にしたものだが、過去の様々な映像を鏤められるようになったそうだ。

ウースターグループの俳優達は、事前に台本を読んでセリフを暗記してくるのだが、上演中にイヤホンから流れてくるセリフを耳にしながら、イヤホンの声をなぞるかなぞらないかの選択から始まり、流れてくる声の抑揚に近づけるか否かといった選択肢をその場その場で選ぶという即興性が重視されているようである。今では演者のみが見ることの出来るモニターも使用しているそうで、動きに関しても選択が行われるようである(「チャネリング」や「トランスダクティング」と呼ばれるようだ)。
日本にも書道などで同じ字を何度も練習して身につける技法があるが(型のことのようである)それに通じるものがあるという。

「ハムレット」を上演したときには、リチャード・バートン主演の映画「ハムレット」を流し、ハムレット役の俳優がバートンに近づけるのか近づかないのかという試みを行ったという。

その他、コンテンポラリーダンスの鬼才、ウィリアム・フォーサイスの動きを研究したり、西部劇などの影響を受けながらモダリティ(即興技術)の表現を拡げる試みを行ったそうだ。

またテレビの模倣も取り入れ、映像では可能な一回でそれそのものに成り切る表現(舞台の場合は稽古を重ねる必要があるので不可能である)を追求し、その場その場で「ゲームのように」「ノンロジカル」な取捨選択を行うという。その場で流れる映像や音声であるが、稽古場で録られたものが任意に選ばれるそうで、そのために稽古の模様は全て録画しているそうである。
勿論、稽古場でNGを出すこともあるのだが、これは「神聖な事故」(なんかジャン・コクトーみたいだな)として採用テイクに加えることもあるという。
意識と動きを乖離させる行為は、岡田利規とニューヨークで一緒に仕事をしたときに興味を覚えて取り入れたそうである。

テクノロジーとニューメディアアートの導入については、虚仮威しの意図は全くない。
最初は、エリザベスは学生時代には演劇に特に興味を持っていたわけではなく、共にウースターグループを立ち上げたスポルティング・グレイが、母の自殺をきっかけに、父親や祖母へのインタビューを試みて、視覚と聴覚のデザイニングを行い、作品にまとめ上げたことに端を発するという。
スタニスラフスキーやストラスバーグのリアリズム演劇と違った「奇妙さ」を追求した結果だそうだ。
アジアの演劇、能などがそうだが、西洋の演劇とは焦点の置き方が異なっており、目の前にいない人に話しかけることがる。それを理解してかみ砕くためにも映像やメディアを使うことが有効だそうだ。

ヨーロッパの男性演出家は、一般にだが、台本を理詰めで読み解き、理屈で演出を構築することが多い。ただ、「タウンホール事件」の演出はそれとは異なり、解釈は行わず、そこにあったことだけを再現するよう努めたそうだ。「タウンホール事件」に関してはウースターグループのモーラ・ティアニーの提言によってプロジェクトとして進められたものだが、最初はケイトなどは「タウン・ブラッディ・ホール」を舞台化することに難色を示したそうである。ただ当初取り上げる予定だったハロルド・ピンター作品の上演がボツになってしまったことで、「やりたい」という気持ちになって作り上げたという。

アジア系の学生から何人か質問があったが、Me too運動などが起こったから「タウンホール事件」を上演するのではなく、「タウンホール事件」のプロジェクトがスタートしてしばらくしてからMe too運動が盛り上がってきたのだそうで、シンクロシティのようなものかも知れないが、ウースターグループとしては「やりたいものをやる」を信条としており、時代に流されたりはしないそうである。

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2018年10月20日 (土)

観劇感想精選(261) 加藤健一事務所 「Out of Order ~イカれてるぜ!~」

2018年10月13日 京都府立府民ホールALTIにて観劇

午後2時から、烏丸迎賓館通りにある京都府立府民ホールALTIで、加藤健一事務所の公演「Out of Order ~イカれてるぜ!~」を観る。作:レイ・クーニー、テキスト日本語訳:小田島恒志、演出:堤泰之。出演:加藤健一、浅野雅博(文学座)、さとうこうじ、坂本岳大、阪本篤(温泉ドラゴン)、加藤忍、日下由美、頼経智明子(文学座)、はざまみゆき(ハイリンド)、新井康弘。
1990年初演の作品。レイ・クーニーはこの本でローレンス・オリビエ賞最優秀コメディ賞を受章している。

イギリス・ロンドンのウェストミンスター・ホテルのスイートルーム648号室が舞台である。

与党・保守党の副大臣であるリチャード(加藤健一)が妻(日下由美)に電話をしている。リチャードは、野党・労働党の議員秘書であるジェーン(加藤忍)と不倫を楽しもうとしており、妻には電話で「今、大英博物館の資料閲覧室にいる」 と嘘をついた。
ところが、カーテンを開けるとそこにはなんとも異様なものが。このままでは警察沙汰になって二人の関係がばれると気づいたリチャードは必死の隠蔽工作を試みる。


文学の手法に「妨害」というものがあるが、それを徹底させたシチュエーションコメディーである。ここで来たら最悪という時に誰よりも来て欲しくない人が現れたり、今なら大丈夫という時に何も起こらなかったりというバッドタイミングに人々は翻弄される。

レイ・クーニーは三谷幸喜が最も影響を受けた劇作家の一人であり、「Out of Order」の中にも「これはあの作品の元ネタ」と思えるものがちりばめられている。まさに笑いのジェットコースターであり、三谷作品が好きな人は是非観るべき、といっても今日も知り合いには出会わなかったけれど。

政治への揶揄もあり(国会議事堂に戻れというリチャードにジェーンは「あんなところじゃ眠れないわ」と反論するも、リチャードに「どうして? みんないつも居眠りしてるじゃないか」と返されるなど)、ブリティッシュ・コメディーらしいどぎつい内容もあったりするが、出演者のレベルが高いということもあって心から笑える内容になっていた。



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2018年10月18日 (木)

観劇感想精選(260) アルテ・エ・サルーテ 「マラー/サド」@クリエート浜松

2018年10月11日 浜松市のクリート浜松 ホールにて観劇

午後5時30分から、クリエート浜松のホールで、アルテ・エ・サルーテの「マラー/サド(原題は「マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院の患者たちによって演じられらジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」)」を観る。フランス革命時のジャコバン派首領であるジャン=ポール・マラーと、サディズムの語源として知られ、後世に多大な影響を与えたマルキ・ド・サド(サド侯爵)を軸にした芝居である。

アルテ・エ・サルーテは、浜松市の音楽文化交流都市であるイタリア・ボローニャに拠点を置く非営利協会。エミリア・ロマーニャ州立地域保健機構ボローニャ精神保険局の精神障害者80名以上が通っており、そのうち41名がプロの俳優として、散文劇団(コンパニィア・ディ・プローザ、児童向け劇団(コンパニィア・ディ・テアトロ・ラガッツィ)、人形劇団(テアトロ・ディ・フィーグラ)、精神を題材とした放送局であるサイコラジオに所属している。
今回来日したのは散文劇団のメンバーである。2000年の創設で、ボローニャに本拠を置く劇団としては最古参になるという。

イタリアからはエミリア・ロマーニャ州の州知事代理やアルテ・エ・サルーテの主治医が同行しており、上演前にスピーチを行う。イタリア語通訳の方が頼りなく、州知事代理の方が遠州方言である「やらまいか」を観客達とやりたいと申し出るも上手く通じる、バラバラになってしまう。スタッフも演劇上演には明らかに慣れていないが、地方都市であるだけにこれは仕方がない。

今回の浜松上演は、静岡文化芸術大学の名誉教授&理事で、イタリア語・イタリア演劇を専門とする高田和文の招聘によって実現したものであり、高田氏が真っ先にスピーチを行った。

舞台後方の白い壁には、「じゆう」「障害はあるけど奴隷じゃない!」「革命しよう 拘束反対」「自由 平等 友愛」「マラー万歳!」といった言葉が赤と青の文字で記されている。


「マラー/サド」。作:ペーター・ヴァイス。脚色・演出:ナンニ・ガレッラ。オリジナル音楽:サヴェルオ・ヴィータ。制作はエミリア・ロマーニャ演劇財団、NPOアルテ・エ・サルーテ、エミリア・ロマーニャ州立ボローニャ地域保健連合機構精神保険局。
1964年に初演が行われたドイツ演劇作品で、1967年にはピーター・ブルックによって映画化されている。

イタリアには1978年まで精神科の閉鎖病棟があり、多くの人がそこに強制入院させられていたが、今ではそうした押し込め型の精神病院はなくなっているという。


シャラントン精神病院に収監されたマルキ・ド・サド(演出であるナンニ・ガレッラが演じている)が、患者達を使ってマラーの人生を描いた芝居を上演する模様を上演するいう劇中劇の入れ子構造になっている。

出演は、布告役(口上役。劇中劇では窃盗罪と境界例があるという設定):ミルコ・ナンニ、サド侯爵(ここには殺人の罪で入っている。偏執狂の持ち主):ナンニ・ガレッラ、ジャン=ポール・マラー(過激派、妄想型統合失調症):モリーノ・リモンディ、シャルロット・コルデー(嬰児殺人罪、躁鬱病、ナルコレプシー):ロベルタ・ディステファノ、シモンヌ・エヴラール(家庭虐待、ヒステリー):パメラ・ジャンナージ、デュペレ(強制性交等、錯乱性色情症):ロベルト・リジィ、ジャンヌ・ルー(破壊行為、誇大妄想症虚言癖):ルーチォ・パラッツィ、ロッシニュール(売春、強迫性窃盗症):イレーオ・マッツェティ、キュキュリュキュ(放火魔):増川ねてる 、ポルポック(麻薬密売、強迫症):デボラ・クインタバッレ、ココル(麻薬常用、境界例):ルカ・ファルミーカ、患者1(殺人により強制措置):ファビオ・モリナーリ、患者2:ニコラ・ベルティ、女医(医院長):マリア・ローザ・ラットーニ、看護士:ロレッタ・ベッキエッティ&カテリーナ・トロッタ、看守:ダビデ・カポンチェッリ。


まず、医院長からの挨拶で芝居が始まる。舞台は鉄格子の向こうであるが、医院長だけは客席側に出て、芝居を観る(これも演技の内)ことが出来る。クリエート浜松ではなく、シャラントン精神病院での院内上演という設定で、観に来ているのも同じ入院患者として劇の紹介を行う。

フランス革命直後のフランス。貴族階級が否定され、この世の春を謳歌していた貴族達は次々とギロチン送りにされている。庶民達は自分達の時代を築こうとしているが、そちらの方は順調には進んでいない。血気盛んな庶民達は自由を望み、決起を、というところで医院長からストップが掛かる。「熱くなりすぎる! もっと冷静に」との注文を受けて芝居再開。

多数の貴族をギロチン送りにしているマラー。だが重度の皮膚病に苦しみ、症状を和らげるために常に浴槽に水を張って浸かっていないと症状が悪化してしまう。身の回りのことは家政婦のシモンヌに全て任せていた。
理想に燃えるマラーであるが、浴槽に幽閉されたような状態である。

パリに出てきたばかりのカーン出身の少女がマラーの命を狙っている。シャルロット・コルデー。後に「暗殺の天使」として世界に知られることになる下級貴族出身のこの女性も閉鎖的な修道院から出たばかりで、自由と理想を追求していた。
ちなみにコルデー役の女優さんが一番症状が重いという設定であり、常に眠気に襲われている上に重篤な鬱状態ということで、自分の出番が来るまでは看護士の膝を枕にして眠っている。
シャルロットは1日に3度、マラーを訪問し、3度目に刺し殺すのであるが、気が昂ぶったシャルロッテは最初の訪問でいきなりマラーを殺そうとしてサドから注意を受ける。

反体制派のマラーと貴族階級出身のサドの意見は対立する。このマラーとサドのディベートが一つの軸になっている。
サドは自然を嫌う。自然は偉大なる傍観者、弱者が滅びるのを観察しているだけ。あたかも「沈黙の神」に対するかのような姿勢だ。一方のマラーは自然がもたらすことには意味があり、それを超克したいという希望がある(西洋においては自然の対語が芸術である)。

マラーは急速に革命を推し進めようとするが、サドに革命が起こっても何も変わっていないと指摘される。下層階級は革命の前も後も苦しみのただ中にいると。

マラーを支持する下層階級のグループは自分達の改革の邪魔になりそうな人物の名を挙げて、血祭りに上げようと騒ぐ。ラファイエットやビュゾー、ロベスピエールの名が挙がるが、そのうちに医院長や医師の名前が挙がったため医院長に芝居を止められる。そもそもカットされたはずの部分が上演されてしまっていたらしい。

マラーは貴族階級を憎み、下層階級に与えられた苦しみに比べれば、貴族階級の苦悩などまだまだ浅いと考えており……。

音楽が流れ、歌い、隊列を作って行進しと様々な要素を取り入れた芝居である。
イタリアでは1978年にバザーリア法により精神病院と閉鎖病棟の制度は廃止されたが、日本では精神障害者のうち重度の患者は何十年にも渡って精神病院に閉じ込められているという現実がある。そこに精神障害者の自由はない。
登場人物の多くも幽閉されている。現実の精神病院にだけではなく、あるいは病気に、あるいは階級に、あるいは年齢に、あるいは修道院に代表される宗教に。

芝居は、コルデーが意識の解放を遂げた後で、フランス国歌にしてフランス革命歌「ラ・マルセイエーズ」を全員で歌って終わる。「marchons,marchons(進め! 進め!)」の部分を「マラー、マラー」に変えられ、その後の歌詞もマラーへの応援歌となり、「障害はあるけど奴隷じゃない!」と希望を望む言葉で締めくくられる。

最後は、「ラ・マルセイエーズ」をファンファーレとして使用したビートルズの「愛こそはすべて(All you need is love)」が流れる中を出演者が踊って大いに盛り上がる。
「自由」そして「解放」を訴える芝居だけあって、革命期の高揚を伴う展開に説得力があり、病気や環境によって真に抑圧されてきた経験のある俳優が演じているだけあってオーバーラップの効果は大変なものである。
ラストの選曲も実に上手かった。


芝居の上演の後に、ティーチインのようなものがあり、浜松市内のみならず日本全国から集まった当事者、医療関係者によって様々な質問がなされ、演出家のナンニ・ガレッラや劇団員達が答えていた。


精神障害者が精神障害から完全に抜け出る日は、あるいは来ないのかも知れない。来るとしてもまだまだ先なのかも知れない。ただ、演じることで苦しみのある現実から一瞬でも抜け出すことは可能であるように思われる。自分ではない他者として生きる経験を持つということ。この点において演劇は有効だ。



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2018年10月15日 (月)

楽興の時(25) 京都コンサートホール×ニュイ・ブランシュ KYOTO 2018「瞑想のガムラン――光と闇に踊る影絵、覚醒の舞」

2018年10月5日 京都コンサートホール1階エントランスホールにて

京都コンサートホール1階エントランスホールで行われる、京都コンサートホール×ニュイ・ブランシュ KYOTO 2018「瞑想のガムラン――光と闇に踊る影絵、覚醒の舞」という公演が午後9時半からあるので参加する。1階エントランスホールはそう広くはないし、西川貴教の出演するコンサート帰りの客が参加したら入りきらないのではないかと懸念されたが、西川貴教ファンでガムランにも興味があるという人はほとんどいないようで、一杯にはなかったが移動にも苦労するというほどではない。ただカーペット席や椅子席は満員で、多くの人が立ち見ということになった。私も立ち見である。

パリ市が毎年秋に行う現代アートのイベント、ニュイ・ブランジェ(白夜祭)。今年は京都・パリ友情盟約締結60周年ということで、今日10月5日に京都市内各所でもニュイ・ブランジェの催しが行われ、京都コンサートホールではフランスを代表する作曲家であるドビュッシーの没後100年を記念して、ドビュッシーに多大な影響を与えたガムランの演奏が行われることになった。

ガムラン演奏と影絵芝居(ワヤン)の上演を行うのは、インドネシア伝統芸能団ハナジョスのローフィット・イブラヒム(男性)と佐々木宏美の二人。
インドネシア伝統芸能団ハナジョスは、2002年11月にジャワ島ジョグジャカルタで結成されたジャワ芸能ユニット。ガムランの演奏、影絵芝居ワヤンの上演、ワークショップ、作曲、演奏指導などを行っている。2005年に京都に拠点を移し、2009年からは大阪を中心とした活動を行っている。

ローフィット・イブラヒムは、1979年ジョグジャカルタ生まれ。インドネシア芸術高校を経てインドネシア芸術大学伝統音楽科を卒業。同大学の芸術団のメンバーとなる。2005年から日本在住。
佐々木宏美も1979年の生まれで、イブラヒムと同い年である。神戸大学発達科学部人間行動表現学科音楽コース在学中にガムランと出会い、2002年からインドネシア政府国費留学生としてインドネシア芸術大学パフォーミングアーツ学部伝統音楽学科に2年留学。帰国後にインドネシア伝統芸能団ハナジョスに参加している。

鐘を叩き、歌いながら二人が登場。まずは打楽器演奏を行った後で、金属製の楽器や胡弓のような楽器を演奏し、歌う。

その後、影絵芝居ワヤンの上演がある。佐々木宏美が「インドネシアの影絵は表からも裏からも見ることが出来る」と語ったので、まずはスクリーンの背後から見ることにする。影絵に使う人形に彩色が施してあり、裏からは人形劇として見ることが出来ることがわかる。ただ、影絵の効果はこれでは十分にわからないので表の方へと回り、結局エントランスホールを一周する。

「ワヤン・クリ 太陽神の子カルノ」
ストーリー自体はフォークロアに良く出てくる類いのもので、太陽神スルヨの子どもを宿したマンドゥロ国王女のクンティが、王様の怒りを買い、生まれたカルノという男の子を川に流すことから始まる。優しい老夫婦(多少、ボケが始まっているようだが)に拾われたカルノは大事に育てられ、17歳になる頃には特別な若者へと成長していた。太陽神スルヨはカルノを見て自身の子どもと確信し、超能力を持つ弓矢を与える。弓矢の名人として武芸の大会で活躍するカルノ。そのカルノを見て、アスティノ国の王子であるドゥルユドノはカルノをアスティノ国の将軍に迎え入れることに決める。
ラストは影絵の上演を離れ、イブラヒムが紙の馬にまたがっての馬術を見せる。表現が多彩である。


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2018年10月11日 (木)

観劇感想精選(259) 「チルドレン」

2018年10月3日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇

午後1時から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、「チルドレン」を観る。1984年生まれのイギリスの若手劇作家、ルーシー・カークウッドが2016年に手掛けた戯曲の翻訳上演。イギリスを舞台にした作品であるが、モチーフとなっているのは2011年3月11日に日本の福島で起こった原発事故である。
演出:栗山民也、テキスト日本語訳:小田島恒志、出演:高畑淳子、鶴見辰吾、若村麻由美。

イギリスの東沿岸沿いの田舎町。地震と津波を原因とする原子力発電所の事故があり、一帯は立ち入り禁止区域となっている。そこから少し離れた家にヘイゼル(高畑淳子)とロビン(鶴見辰吾)の夫妻が移り住んでいる。二人は以前は原子力発電所に勤める科学者で原発の近くに住んでいたのだが、放射能の影響で家を離れ、ロビンの持ち物だったこの家に今は住んでいる。

幕が上がると、ローズ(若村麻由美)が鼻から血を流して立っている。ローズはヘイゼルとロビンの元同僚であり、3人とも原子力発電所の建設に一から携わってきたのだが、ローズはその後、アメリカのマサチューセッツ州に移り住んでいた。ヘイゼルの耳には「ローズが自殺した」という噂が届いており、それを信じていたため、突然、目の前に現れたローズを幽霊か死神かと勘違いして咄嗟に手が出てしまったのだ。
実は最初はローズがロビンの恋人だったのだが、二人が別れてすぐにヘイゼルがロビンといい仲になり、ヘイゼルが妊娠したことで敗北を悟ったローズがアメリカへと逃げていたことがわかる。ヘイゼルは完璧主義者であり、つい避妊を忘れたなどということはあり得ない。妊娠したということは、計画通りだったということである。

科学者であったヘイゼルとロビンは、今ではパソコンも使わず、計画停電があるため電気にも頼らず、オーガニックの野菜を育て、牛を飼いというアーミッシュさながらの生活を送っている。あたかも科学者だった時代の反動でもあるかのように。
ヘイゼルはヨガに凝り、若さを保つことにもこだわっている。
ロビンが牛を飼っている牧場は、今では立ち入り禁止区域内にある。だが、ロビンは牛たちのために、毎日朝から晩まで牧場で過ごしていた。

ローズが突然この家にやって来たのには、当然ながら訳があった。原発の廃炉作業に携わることに決めた彼女は、行動を共にしてくれる60歳以上の科学者をスカウトしていたのだ。計画では20人以上を集める予定だが、現時点で集まっているのは18人である。つまりそういうことだった。ヘイゼルがローズを見た時に感じた不吉さは実は正しかったということになる。
ローズは言う。「原発で働いているのは私たちの子どもの世代」。未来ある若者達に代わり、自分達、原発を生んだ科学者が責任を取るのは当然だという思いがローズにはあった。ローズは乳がんを患っており、もう先は長くない。
だが、ローズと違い、ヘイゼルとロビンには実の子どもがいる。特に長女は障害を抱えており、38歳で今も独身。ヘイゼルは自分がいなくなった時のことを考えてためらう。

原発で働く自分達の子ども世代の若者達、実の子ども達、そして自分達が生み出した原発、それら全てが「みんな我が子」であり、等しく責任を取らなくてはいけない。あちらが立てばこちらが立たぬ状態であるが、それが冷酷ではあるが現実であり、人としてなすべきこと。

はっきりとは口に出さないが、皆、自罰の意識を持っており、贖罪の思いを常に抱いていたことがうかがわれる。ロビンは牛たちのために立ち入り禁止区域に入って作業をしているということになっているが、実際は緩慢な自殺の手段として放射線を大量に浴びるために敢えて立ち入っているのではないかと思える節もある。ロビンとヘイゼルが元科学者でありながら科学に背を向けた生活を送っているのもある種の贖罪なのではないか。

福島第一原発事故から7年が経過したが、今なお誰も責任を取ろうとはしていない。いや、原発事故だけではない。あらゆる事柄について「なかったことにしたい」という空気が蔓延し、この国は自家中毒に陥っているとしか思えないような状況が続いている。「気に入らないことはないことにしてしまっても構わない」という幼稚なナルシシズムが服を着て大手を振って歩いているかのような。
だが自己愛だけではどこにも行けないのである。とにかく受け入れ、呑み込むこと。「敢然と」。それは幸福なことではないかも知れないが、生きるということの実相でもある。

若村麻由美も鶴見辰吾も大好きな俳優で、実力も文句なしなのだが、やはり高畑淳子の凄さは目立つ。空間に溶け込める俳優は何人もいるけれど、存在するだけで空間を作り出せる俳優はそう多くはない。息子さんのことで色々あったけれど、やはり彼女は女優であり続けるべきだと強く思う。


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2018年10月 9日 (火)

観劇感想精選(258) ミュージカル「シティ・オブ・エンジェルズ」

2018年9月29日 大阪・上本町の新歌舞伎座にて観劇

午後5時30分から、大阪・上本町の新歌舞伎座で、ミュージカル「シティ・オブ・エンジェルズ」を観る。1940年代のロサンゼルスとハリウッドを舞台としたサスペンス・コメディ。トニー賞6部門に輝き、ローレンス・オリビエ賞なども受賞した評価の高い作品である。
脚本:ラリー・ゲルバート、上演台本・演出:福田雄一。出演:山田孝之、柿澤勇人(かきざわ・はやと)、渡辺麻友、瀬奈じゅん、木南晴夏、勝矢、山田優、佐藤二朗ほか。作曲は「スウィート・チャリティ」(大阪でも玉置成実主演で上演されたことがある)のサイ・コールマン。

スタイン(柿澤勇人)は、ハリウッドの駆け出し脚本家。自身の分身ともいうべき存在のストーン(山田孝之。スタインもストーンも共に「石」という意味である)を主役にしたハードボイルドサスペンス「シティ・オブ・エンジェルズ」が映画化されることが決まり、希望に燃えている。しかし、プロデューサーで映画監督のバディ・フィドラー(佐藤二朗)から再三にわたる脚本へのダメ出しを受け、書き直しを余儀なくされる。駆け出し脚本家だけにスタインの本は拙いところも多いが、バディからの指示を受けるごとに更に酷いものへと変わっていく。

本の中ではロサンゼルスの私立探偵ストーンが、アローラ・キングズリー(瀬奈じゅん)という富豪夫人から、家出した義理の娘のマロリー(渡辺麻友)を探して欲しいという依頼を受けている。その後、元警官だったストーンの回想シーンになるのだが、警察時代の同僚であったムニョス(勝矢)との間で白人対有色人種を巡る諍いとなった場面がアーヴィングからダメ出しを受け、イケメン対非モテの対立に変えざるを得なくなってしまう。
納得がいかないスタインだが立場が弱いため、ハリウッドの大物であるバディに逆らうことは出来ず、作品中にバディをモデルにしたプロデューサーのアーウィン・S・アーヴィングを登場させて抵抗するのが精一杯で……。

比較的制作されることの多いハリウッドものである。新歌舞伎座でもフランシス・スコット・キー・フィッツジェラルドを主役にしたミュージカル「スコット&ゼルダ」が上演されたことがあり、それ以前にも筒井道隆と長塚京三が主演した「グッドラック、ハリウッド」という同傾向の作品を観たことがある。

ラストで「フィクションとリアルの合体」が語られるのだが、「フィクションの力」が全面に押し出されており、爽快な仕上がりとなっている。

山田孝之と柿澤勇人以外は、基本的に一人の俳優が現実世界での役とフィクション内での役の二役を演じる。

山田孝之は本当に器用な役者で、パントマイム、アクション、歌にダンスと何でもこなす。チョイ抜けイケメンのストーンの存在にリアリティーを持たせることが出来ているのは彼の実力の高さ故だろう。

大阪府出身の木南晴夏。デビューから数年はヒロイン役を射止めることが出来ずにいた苦労人である。美人タイプではないが、深夜の連続ドラマ「家族八景」で主役の火田七瀬を務めて以降は順調で、今年の6月には玉木宏と結婚している。
この芝居では時事ネタ(ZOZOTOWNの前澤社長と剛力彩芽、「万引き家族」など)がアドリブやオリジナルのセリフとして語られるのだが、木南が演じるウーリーが恋人について語る場面では、「カンタービレを奏でるのが上手いイケメンの指揮者」と玉木のことを示唆するセリフを言って客席から拍手を貰っていた。

佐藤二朗はとにかくアドリブを飛ばしまくる。おそらく演出家から「佐藤が笑わせるようなことを言い、他の出演者は絶対笑わないようにする」と指定された場面では、徹底して他の出演者を笑わせにかかっていた。

一線級の俳優を揃えているため、演技の水準は高いのだが、やはり本職のミュージカル俳優である柿澤勇人の歌とダンスの実力は図抜けており、彼という柱がいたからこそ、他の俳優も生きるという結果になっていたように思う。

最後は、出演者全員が1階席客席通路を通ってのハイタッチ会となり、私も通路に近い席にいたため、全員とハイタッチを交わすことが出来た。



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