カテゴリー「ノート」の45件の記事

2008年10月12日 (日)

誰だって苦しむのはいやだけれど

苦しみの中にある時の方が人生の実相により触れているというのも経験上確かなことのように思えるのだ。

楽なときは何もしないが、苦しいときはそれを乗り越えようとする。ただそれだけのことなのかも知れないが。

この世は誰か一人のためにあるのではなく、誰か一人の楽しみのためにあるのでもない。世は多くの人とのせめぎ合い。とすれば自然と苦しみが増すのが道理。苦しむ人が増えるのも道理。とすれば、苦が世の人との触れ合いに寄与するものであるのもまた道理。

楽よりも苦の方が分かち合える。

とはいえ、苦よりは楽の方がいいのもまた事実であるが。

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2008年9月25日 (木)

豊かすぎず貧しすぎず

物質的に豊かすぎず貧しすぎず生きるのは、重要であるともいえる。だが、今、私が問うのは、想像力についてだ。

日本の女性シンガーソングライターのアルバムを何枚か立て続けに、ではあるが丹念に聴いてみた。歌詞とメロディーと伴奏を追い、彼女たちの中で創造された世界を私の中で再創造する。

言葉とは具体的でありながら曖昧で、規定的でありながら創造的でもある。言葉から受けたイマジネーションを膨らますのは自由である。しかし、恣意的な捉え方をしていたのでは、何も伝わっては来ない。

鑑賞というのは確かに一方通行的なものではある。伝える側はちゃんと伝わったかがわからないし、受け取った側もきちんと受け取れたのかどうか正確には確認できない。

伝える側は、伝えることが仕事だという意識はもちろんあるだろう。だが、受け取る側は受け取ることが仕事だと考えないことからすれ違いが生じやすい。

受け手が想像力を伸ばしすぎて、どこか別の場所に着地して、勝手に確定してしまうというのも困ると言えば困る。逆に想像力を縛り付けて、言葉を字義通り受け取っても、そんな広がりのない世界が面白いはずもなく、またそうなっては危険でもある。

だから言葉の両面に注意を向け、想像力を豊かすぎず貧しすぎず駆使するように心がけることは、鑑賞の、いやコミュニケーションの、いや存在とそれを形作る上で重要だと思うのだ。

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2008年9月24日 (水)

得られるもの

得られるものの大半はオモチャ同然なのかも知れないと思うことがある。

得ることばかりが人生だと考えている人もいるようだけれど、何を捨てるのかを慎重に選び出す能力の方が、生きるには大切なようにも思う。

世界に同化することなく対立することなく、面と向かい合うには、出来るだけ少ない道具でも形作れるものを考え、シンプルな自己を築く覚悟もまた必要なのではないだろうか。

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2008年9月21日 (日)

永久に解けない知恵の輪

私の人生は永久に解けない知恵の輪に挑んでいるようなものだ。

なぜ、そんなことをやっているかというと、

なぜ解けないのかを知りたいからだ。

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2008年9月18日 (木)

先を問うのが我々の仕事

だが、先端がどこにあるのかを見極めるのがまずは先決である。

周回遅れでありながら、前に人が見えないので先頭だと勘違いする様な真似は避けたいものである。

だから点ではなく線だ。線を見つけることが出来れば、少なくとも大きく逸れることはないだろう。

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2008年9月15日 (月)

飛ぶ夢を見たことがない

飛ぶ夢を見たことがない。

空または空中を飛ぶ夢を見たことのある人は案外多いようであるが、私はこれまでそういった類の夢は見たことがないし、飛んでいる時の感じがどういったものなのかも想像できない。飛んでいる時も重力は感じるものなのだろうか? それとも宇宙遊泳のように無重力の中を飛ぶ感覚なのだろうか。

フロイトによると飛ぶ夢は余り良い意味を持たないようだが、他の説によると、飛ぶ夢は創造性と結びついているのだという。

創造性か、格好いいな。

そういわれると飛ぶ夢の一つや二つくらいは見たことがないと駄目なように思えるのだが、そもそも私は創造性ということに根本的な疑問を持っていて、本当の意味での創造というのは魔法で生み出すもののようにある日突然、ポッと生まれるものだとは考えていない。生み出すということは、これまで人類が築き上げてきた様々なものの末端に何かを接ぐことなのではないかと思っている。

「生み出す」=「創造」と考えるなら、そうしたことも創造といえば創造なのだろうけれど、私は生み出すとはむしろ研究の成果のようなものに近いのではないか感じる。

ということで、飛ぶ夢を見たことがなくても別にいいか、とも考えているのである。

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2008年8月15日 (金)

あの~、1位獲っちゃったんですけど

携帯のゲーム「クイズみんなの学園」の8月第1回試験で全国単独1位を獲る。といっても、今回は帰省の時期ということもあって参加者も少なかったのか、500点満点中460点(25問中23問)での1位であった。500点満点取っても4位だったこともあるので、今回は全体的なレベルがそう高くなかったということだろう。正直言って、今回1位を獲れるとは思っていなかった。

知識を問うゲームだが知識は所詮知識でしかない。あるに越したことはないけれど、知識が邪魔になってあるべきものが見えなかったり、ないはずのものが見えてしまうことが往々にしてある。

そして何より大切なことだが、知識を誇ることで私は裸の王様になりたくはないのだ。

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2008年4月 8日 (火)

闇の映像

目を閉じないと物事を思い浮かべることが出来ない人がいるということを知ったのは、私が二十歳頃のこと。それまでは、そんな人がいるとは思わずにいた。どうやら読書の習慣がないと、目を開けたままイメージを見つめるというのは難しい作業のようだ。

私の場合は、明るい場所で目を閉じると、逆に浮かび上がる白っぽい残層が気になって、イメージの世界に没頭出来なかったりする。

でもたまに、夜中に電気を消してイメージの世界を広げていくという作業は良いものだ。余り頻繁に行うと、心が沈みがちになるので、それは避けた方がよいと思うが。

闇の映像は、時に具体的で現実以上に鮮明で、あるいは抽象的で非現実的で、ときおり哲学的であり、メタ哲学的であったりする。

あらゆる感覚を研ぎ澄ますと、ある種の世界のエッセンスがそこに浮かぶのを感じることがある。それは真実ではないかも知れないが、私個人の答えだ。これまで経てきた記憶と今生まれる思考が相まって、闇の中に啓示を見る。そうしたことは頻繁には起きない。むしろ頻繁に起きたのなら嘘くさい。宗教じゃないんだから。
単なる「インスピレーション」、そういう見方も出来る。ただ、闇の映像に浮かぶ啓示は、日常生活で得るインスピレーションより、一層濃厚であることが多い。あるいはかつて夜行性であったという人間の、より本能に近い場所からの発想がそこに加わるためなのか。

人間社会は次第に闇の領域を削り、人々が闇の映像を見る時間も奪う。しかし、人間が闇を殺せば殺すほどに、人間の領域が狭まっていくように感じるのは気のせいなのだろうか。闇の中で、人々は多くのイメージを生み、イマジネーションの能力を高めていた。生産社会において、イマジネーションの能力の高さは必ずしも求められない。生産中に個々のイメージに浸られた困るからである。しかし、世界の流れが変わると、追放した闇の領域が人間を苦しめることになるのかも知れない。物質生産の時代ではなく、イメージ性の強い生産品が主流になる時代は近い。しかし、一般の人々がそうした流れに簡単についていけるようになるとは思えないのだ。

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2008年4月 6日 (日)

鳥葬

車に轢かれた鳩の屍骸を烏がついばんでいた。

たったそれだけのことだと、言えば言える。

ただ、車という現代が生み出したものがもたらした死に、鳥辺山(鳥部山)の名の由来であり、京都の歴史を語る上で落とせない鳥葬が行われているのを目にすると、遠く離れているはずの歴史上の地点と地点が結びつけられたかのような、奇妙な錯覚に陥るのだった。

死の見えない現代が生み出した鳥葬。

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2008年3月19日 (水)

怖ろしく単純にして自明であり、宣言らしくもない宣言

私が住んでいるのは「演劇界」ではなく「世界」だ。

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2008年3月 1日 (土)

ある時期を過ぎると

人は自然には成長しなくなる。身体的にはもちろんだが、精神的にもそうである。だが、進歩思想の影響か、はたまた右肩上がりを基準とする経済的発想が人間の思考回路に深く染み込んでしまったためか、こうした当たり前のことに気付きにくい状態がいつの間にか出来上がってしまっているように見える。

成熟はする。しかし「熟す」という言葉は成長を意味するわけではない。肉体的にいえば、むしろ「衰え」に親和性のある言葉である。

肉体も精神も、子供時代から青春期にかけてはドラスティックに進化する。それに比べれば20代前半以降の成長は緩やかなものだ。ある意味、青年期以降は「成長したいと思わなければ成長しない」期間へと移行するのだ。
移行は誰にでも起こる。年を取れば誰でも過去の自分とは変わる。しかしそれは成長ではない。年を取れば取るほど精神的に成長するという疑似進歩認識はあるいはこの移行を取り違えたものともいえる。

成長の疑似認識を取り違えたまま社会が進むことは決して歓迎すべきことではない。一つの認識のミスはまた別のミスを生む。そしてそのミスがパターン化されれば、停滞よりは衰退に近い状態が世界を覆うということにもなりかねない。

「これでいい」と思ったら、人間とはそれより先には進もうとしないものであり、そこから先に進むには勇気がいるからである。

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2008年2月23日 (土)

「絶対」があれば楽ではある

もしこの世に「絶対」というものがあるのだとすれば、人間が生きるのは非常に楽になる。我々は「絶対」からあらゆるものを甘受するだけでいい。ある意味では、主体的に生きる必要もなくなる。楽である。

だが、人間が楽を求める生き物であるからなのか、人類は何度も「絶対」を生み出しては破壊してきた。「絶対」は破壊される。絶対を押しつけようとするが故に。

「絶対」の現れ方には法則がある。先触れは「不安」だ。人々に不安を募らせれば、その不安から逃れたい人々は「絶対」を求めたくなる。「絶対」の存在、「絶対」の存在による庇護、「絶対の安全」。

不安から逃れるために、不安が現れる前にその芽を摘もうという思いから、法律が生まれたりもした。「治安維持法」というのだが。

そしてこれまでも、また最近も、不安増加に伴う「絶対」が待望されている。「絶対」は楽だ。全て守ってくれる。物事を自身で検討する必要もない。小さな世界を絶対視も出来る。世界の向こうを想像する力が無くても良い。
そうした「絶対」に対抗するためには何が必要なのか。絶対に対して絶対を打ち出すのは良くない。アメリカとイスラムの戦争のようになる。

「相対」は時間が掛かる。そして「絶対」のような力強さも持てない。何千年も前からわかっていたことだ。だがやはりこれしかないのだろうか。「絶対」と「相対」の間は空漠としているのだろうか。

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2008年2月11日 (月)

一片の骨から全体を想像する考古学者のように

一片の骨から全体を想像する考古学者のように、私は社会というものを捉えるしかない。

架空の全体に一片の骨を無理矢理合わせるようなことはしたくない。間違った結論に事実は決して合わない。

全能や絶対は人間の弱さから生まれるもの。そんな弱さを正義としていいものかどうか。

とにかく結論は永遠に出ない。永遠に出ないから人は生きるしかなく、人が生きる意味もある。

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2008年2月 3日 (日)

「現実」そのものを生きることは出来ない

人間が知覚し、意識し、決定し、想像し、創造する存在である以上、「現実」そのものを生きることは出来ないし意味がない。

人間とは、絶えず、内的な意識の世界と外的な現実の世界を行き来する現象である。もし外的な現実のみを生きるとするなら、そこに想像が入ってはいけないことになる。決定一つ下すにも想像と記憶と意志が働いている。もしそれらが働いていないというなら人間は人間らしい営みを行うことが出来ないはずだ。

「現実」そのものは人間を屈服させない。「現実」はある意味、唯物的な現象でしかない。予定調和は存在しない。人間を服従させるのは内的な意識であることが多く、それを生み出す要素が「現実」にあるのかどうかは定かではない。定かではないものにしばしば人間は頭を垂れる。

定かでない「現実」そのものを生きているかのように錯覚することは歩みを止めることである。未来は決まっておらず、自身は未決定で、世界は拡がる余地がある。

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2008年1月28日 (月)

アフリカを感じるとき

母方の祖父が「野生の王国」というテレビ番組が好きだったということもあり、私も子供の頃は、アフリカのサバンナにおいて繰り広げられる動物たちのドラマが好きだった。

ただ、残念ながら、「動物に興味津々で動物学者になる」というレベルには達しなかった。というよりも、何にでもなることは出来ないわけだし、アフリカの動物以上に興味が持てる対象も多かった。

ただ、幼き日に見たアフリカは、その後、何度か私に幸福をもたらすことになる。

アフリカに行ったことはない。私の知っているアフリカのサバンナはあくまでも私の頭の中に拡がっている世界だ。ただ、「今よりずっと若くて傷つきやすかった時代に」、アフリカが心の支えになることもあった。

「今は、この日本の、この千葉県の、この千葉市の、そのまた狭い世界にいるかも知れない。だが、私の周りの世界だけではなく、世の中にはアフリカのサバンナのように全く違う次元で成り立っている世界がある。だから周りの世界だけにとらわれることはないじゃないか」

言葉にしてしまうとどうしようもなくありきたりで格好悪いものになってしまうが、かっての私が考えていたことをそのまま書き出すとこのようになる。

私の周りの世界が全てだと思っていたら、若い頃の私はもっともっと駄目になっていただろう。
子供の頃にアフリカのサバンナに興味を持っていたこと、アフリカという別の価値次元の大陸を感じていたこと、それはささやかではあるが大切な福音だったのだと、今もそう思うのである。

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2008年1月21日 (月)

中国の諺

「人生は真実を探求すること、そして世に真実はない」(中国の諺)

この言葉に関する解釈は色々あるようですが、「真実」は「真実という概念」として厳然と存在してはいないと捉えることが出来ます。

真実が真実としてデンと存在していたら、人間はそれ以上は何も求めず、考えず、受け取るだけでいいのです。しかしそんな生き方が面白いでしょうか。

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2007年12月 4日 (火)

格好悪いのもいいもんだ

スマートに暴論を唱えるのが格好いいということなのだろうか。

わからないなら「わからない」と正直に言って格好悪く生きるのもいいもんだ。

シェイクスピアの芝居に出てくる道化のように格好悪くていいじゃないか。

空気を読まないトリックスター。格好を整えるのに懸命な世界を、寝っ転がって眺めていようや。

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2007年11月30日 (金)

模範解答

「用意された答えに出来るだけ近づくのが良いこと」

果たしてそうだろうか。

だが、良くも悪くも「用意された答えに近づけること」が現代教育の本質となっている。

答えを用意した側の意図を読み取った上で、それでも近づくというのなら、否定したりはしないのだけれど。

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2007年11月22日 (木)

実相観入

眺める人生は高校で終えようと思ったのが、東京に出た最初の年のこと。一浪して大学に入った年のことだ。具体的に書くと1994年の春。

煙草や酒といった苦痛を和らげるものに手を染めないことに決めた。幸い、煙草は嫌いだったし、酒も飲めなかった。

作家の吉行淳之介は、自分の皮膚感覚しか信じなかったというが、そこまでいかなくても、自身の痛みと真っ向から向き合わねば、何もつかめないだろうという確信が私にもあった。

「実相観入」などという言葉を用いると格好良すぎるし、そんな大したものでもないのだが、私はあらゆる事柄を自分の内側を通して「感じる」ことに決めた。五感、もしくはそれ以上の何かを用いて、見、分け入り、多くの事柄に触れた。いうまでもなくそれは危険な行為で、私も多くの青年が陥ったのと同じ罠にはまることにもなった。自意識の相克、目に見えぬものを追う不確かさと湧き起こる不安、あらゆる欺瞞、陰、見えなくていいもの知らなくても良かったもの。

でもいいさ。なるようにしかならないんだもの。
眺める生き方は楽だ。自分についてだけ、あるいは他人についてだけ語っていればいい。でもそんなことに「私が私であること」、「私でしかあり得ないこと」の意義を見出すことは絶対にない。それは「絶対」を何度繰り返しても恥じないほど私にはわかっていたのだった。

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2007年11月14日 (水)

意識の流れは

単語の選び方一つで完全に読まれてしまうこともある。

だからご用心。人間はそれほど愚かではない。

自分がわかっていることは他人もわかっていると思った方がいい。だから自分は一歩でも先に行こうとする。そうした意識で丁度良い。

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2007年10月28日 (日)

「外」の不在

ある演劇誌を読んでいて暗澹たる気持ちになる。「演劇」という「世界の片隅」に閉じこもり、答えのあらかじめ決まった質問を交わし合い確認し合うということ。そうした閉鎖的な認識を是として疑わない態度からは「外」への意識が無残なまでに欠けているのだった。
あたかも「外」など存在しないといわんばかりに。

「外」という言葉の選択はあるいは正確ではないのかも知れない。崩れることのない確固たる「内」があり、「外」はその周辺を取り巻くようにあるというイメージを与えるからだ。だが確固たる「内」など幻想でしかない。あるいは確固たる「内」はあり得てもその「内」には生命がない。

逆説的な言い方になるが、本当の「外」は内在しているとも言える。人が自分自身の体内を見ることが出来ないのと同様に。

「外」を「未知」と言い換えた方がいいのかも知れないが、当然ながら「外」=「未知」ではない。だから「外」を換言するのは難しいのであえて括弧付きの「外」とする。

「外」があるから内的なるものは絶対的な倨傲を免れ、「外」なるものへの畏敬を覚え、「外」への探求心を生む。
「内」から「外」は規定出来ない。規定した瞬間にそれは「外」ではなくなる。

「外」の存在を忘れ、「内」に固執し、それでいて「外」を規定できるものだと思いこんでの発言の多さ。
人間を問うことなく、あるいは人間を忘れ、身内だけを世界と規定し、自らが属する「内」を自ら奉る。これが演劇なのか?

演劇に再び「暗黒の中世」に似た現象を呼び起こそうとしていることに、羞恥は覚えないのだろうか。

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2007年10月24日 (水)

要約できない部分

世界はただ投げ出されており、人は五感と言葉によって世界を切り取り、組み立て、点検する。

しかしそれでも要約できない部分は残る。認識が容易でなく、規定も不確かで、それゆえ要約も出来ない。フロイトが要約できずに「それ(es)」としか言えなかった部分を例に挙げるとわかりやすいだろうか。
要約できない部分の重要度は個人個人によって異なるのだが、要約できない部分があるということを意識するかしないかによって人生の幅が変わってくるのも確かである。

要約できる部分は全人に共通する、または共通する可能性が高いので、その範囲内において全てを規定しがちだが、それは何とも恐ろしいことである。
そして要約できない部分を無理に「理解した」と思いこんで進むことは、それと同様、あるいはそれ以上の恐怖を生む可能性がある。

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2007年8月17日 (金)

見過ごされがちなこと

歴史が長ければ、当然ながら負の歴史も長くなる。

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2007年6月 3日 (日)

繋がっていること

大切なのは繋がっていることで完全に独立することではない。完全な独立など不可能である。また完全な独立が達成されたとしても、それには「完全な独立が達成された」という意外の意味はほとんどない。

自分以外に関心のない人は、「完全な独立」を夢見がちだ。そんなことは無理なのに。

我々は緩やかに繋がり緩やかに独立する。集合的に、山脈のように、同じ流れの中に、「個」として。

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2007年5月29日 (火)

進んで迷え

盲信して無理に安定を得るくらいなら進んで迷え。

いずれにせよ暗闇の中を歩んでいるということに変わりはない。

そして迷ったことのない人間に「本当の地図」など描けるはずがない。

だったら進んで迷え。

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2007年5月 9日 (水)

自分のいない風景

あらゆる事象および現象について語るとき、自分のいない風景を見てしまっていることに時折気付く。自分のいない世界について述べている人が多いようにも感じる。
本当は自分もいるべきはずの風景についての話なのに。

なぜか?

あるいはそれは内外の「世界」と本当の意味で対峙していないということなのか。

または「世界」は「ない」ということを無意識に自覚しているからなのか。

それとも語っている言葉が本当に「私」のものではないからなのか。

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2007年4月30日 (月)

逆説的だが

私で「有る」ためには、「私」を限りなく「無」に近づけなくてはならない。

私を「私たらしめてしまっている」のは、他ならぬ「私」なのだから。

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2007年4月28日 (土)

『かわいそうなぞう』

今日は象の日なのだそうです。

子供の頃に読んだ童話で、特に印象に残っているものの一つに『かわいそうなぞう』(土家由岐雄:作)というノンフィクション童話作品があります。

続きを読む "『かわいそうなぞう』"

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2007年4月24日 (火)

話す前に

まず聴くこと。

聴く前に返された反応は往々にして的を外す。

何故聴くのかがわからない人は、まず的を射る意味を考えると良い。姿勢を整え、弓を手にせずに的を見つめる。上手く呼吸が整えられれば、これまでとは違ったものが見え、違った言葉が読めるはずだ。

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2007年4月 7日 (土)

考えれば当然なのに誤解されていること

解けない暗号はない。誰も解けなかったらそれはもう暗号ではない。

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2007年3月22日 (木)

かつての自分に教えられる

今、20歳から21歳の頃に書いた詩をWeb上に発表する作業をしているのですが、かつての自分に教えられることも多いです。それらの詩は基本的には流れ重視の水平的思考が多く、垂直的な深みや語彙の多様性、意表を突く展開などには欠けているのですが、今の自分に通底する部分があったり、昔の方が詩に対する情熱があったこともわかります。

拙いながらも世界に向かって発信しているのだという気概があったことを思い出しました。今でもそれはあるつもりですが。

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2007年3月20日 (火)

相手について語るとき

面と向かった相手について語るとき、人は自分の内面を最もさらけ出すことになる。相手に剣を振りかざす時に最大の隙が生まれるように、相手について語ったときに見極められる語り手の内面が、その語り手の最大の弱点を示すことは少なくない。

致命傷になるのは、自分について語らないことで自分の愚かさを露呈してしまうこと。

その点においては、「沈黙は金」という格言は常に正しい。少なくとも荒涼たる内面を他者に悟られることはないから。

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2007年3月10日 (土)

共通語

石川啄木は、「悲しみは世界の共通語である」と言った。確かに。

私も言おう、「痛みは世界の共通語である」と。より肉体的であることを意図して。

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2007年2月26日 (月)

帰郷

故郷 千葉

久しぶりに生まれ故郷の千葉に帰る。写真はJR千葉駅前の風景。中央の白い建物は千葉都市モノレール千葉駅。

千葉は特にこれといった名所も何もない街だが、久しぶりに帰ると、何もなくても「やはりいいなあ」と思える。私にとっての故郷とはそういうものだ。「遠くにありて思ふもの」でも「そして悲しくうたうもの」でもない。

千葉という街に生まれて良かったと思うのは、東京や京都といった大都会や歴史ある都市を相対化出来ること。千葉は大都会ではなく、田舎でもない。鎌倉時代には栄えたが、その後廃れ、再び発展を始めたのは明治以降だ。だから相対化のための「視座」を手に入れるのは丁度良い街なのだ。東京や京都の何が良く、何が悪いかを判断しやすい。田舎に生まれてしまうと都会は「圧倒的な存在」となり、客観視しづらい。逆に大都会や特別な街に生まれていたら、そうした街の良さ、そしてそこで暮らすことがいかに恵まれたことであるかを意識出来なかったかも知れない。

ということもあり、私は今も千葉を愛している。

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2007年2月21日 (水)

甘い痛み

高校生の頃に愛聴したアルバムを今聴き直してみると意識がグラグラと揺れて心臓の襞が破れそうなほどの甘い痛みを感じることがある。
目の前に広大な世界が開けているのにそこに踏み込むことを許されなかった恨み。
失うとわかっているのにそれを強いられた怒り。
あの頃の喪失感を補って余りあるほど多くのものを手にした今でも奪われた「可能性」が心の奥で呪詛の声を上げる。
当時、私は余りにも多くのものを失ってしまったから、目的地もわかり、地図も手にしていながら、時に途方に暮れることになるのだ。

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2007年2月20日 (火)

芸術家よ、黙せよ

私のように、「自分は職人で芸術家ではない」と断言できる人は別にして、自分は芸術家だと自認している人は黙するに如くはなし。気まぐれな人々のこと、黙していれば騙されてくれる。
みだりに喋るべからす、書くべからず、姿を見せるべからず。この「三べからず」を遵守すれば世界は味方してくれる。世界に味方しなくないなら職人を名乗るべし。華やかなることから遠ざかり、都のかたゐとなることを恐れるなかれ。

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