カテゴリー「歴史」の57件の記事

2018年10月27日 (土)

コンサートの記(444) 「時の響」2018楽日 大ホール第1部 広上淳一指揮京都市交響楽団 広上淳一リクエスツ「音楽維新 NHK大河ドラマテーマ音楽で聴く歴史の波形」

2018年10月21日 京都コンサートホールにて

京都コンサートホールで行われている「時の響き」2018。大ホールでの第1部と第2部の出演は、広上淳一指揮京都市交響楽団。
コンサートマスターは今日も渡邊穣で、第1部の木管楽器の首席奏者はオーボエの髙山郁子のみ、第2部では勢揃いという顔触れである。

午前11時開演の第1部は、広上淳一リクエスツ「音楽維新 NHK大河ドラマテーマ音楽で聴く歴史の波形」と題されたコンサートで、幕末を舞台とした大河ドラマのメインテーマ曲を中心にした曲目が編まれており、

谷川賢作の「その時歴史が動いた」エンディングテーマ、坂本龍一の「八重の桜」、川井憲次の「花燃ゆ」(ヴォーカル:平野雅世&迎肇聡)、湯浅譲二の「徳川慶喜」、吉俣良の「篤姫」、佐藤直紀の「龍馬伝」(ヴォーカル:平野雅世)、林光の「花神」、富貴晴美の「西郷どん」が演奏される。

司会は、FM京都 a-stasionのDJである慶元まさ美(けいもと・まさみ)が務める。

NHK職員の息子であり、子どもの頃から大河ドラマを見ていて、自称「大河フェチ」の広上淳一の解説も聞き物である。


現在は「歴史秘話ヒストリア」となっている枠で流れていた「その時歴史が動いた」。詩人の谷川俊太路の息子で、作曲家の谷川賢作の作品である。
広上によると、「ラストで、取り上げられた人物の金言といいますか、箴言、まあ金言ですね。それが松平さん(松平定知アナウンサー)のアナウンスで流れて、最後にトランペットが鳴るところで涙を流す」と「自分自身の体験なってしまいましたが」語る。広上はよく泣く人のようである。

午前中にスタートするということで、広上は「おはようございます」と挨拶していた。


「八重の桜」。慶元が、同志社大学の創設者である新島襄の妻となった新島八重(山本八重)を紹介し、広上は「私の頭の中では綾瀬はるかになっています」と語る。
八重の兄である山本覚馬が西郷隆盛と仲良くなり、御所の北にあった二本松の薩摩藩邸跡地を安値で譲られて、新島襄の同志社が出来たという話を広上はする。

「八重の桜」のテーマ曲は、放送中であった2013年に、坂本龍一のピアノと栗田博文指揮東京フィルハーモニー交響楽団の演奏で聴いてことがある。新しくなったフェスティバルホールで聴いた初のコンサートであった。
尾高忠明指揮NHK交響楽団による本編用の音源でも、坂本龍一&栗田指揮東京フィルの演奏でも最初から壮大でドラマティックな展開となっていたが、今日の広上はそれらとは違い、一瞬一瞬の光の明滅を描いたかのような儚げなものであった。尾高や坂本&栗田が咲き誇る桜を描いたのとは対照的に、散りゆく花びらを音の変えたかのような演奏である。


「花燃ゆ」。吉田松陰の妹である杉文を主人公にした作品。広上は「私にとっては井上真央」。井上真央もこの作品の低視聴率があだとなったのか、最近はいい噂が聞こえてこない。
本編で指揮を行っていたのは、広上の弟子である下野竜也。下野竜也はNHKに気に入られているようで、その後も何度も大河ドラマのテーマ曲指揮を手掛けており、「真田丸」では謎の商人役(真田信之役の大泉洋に「誰?」と言われる)で出演までしてしまっている。「RAMPO」などの作曲家である川井憲次のメインテーマはドラマティックで良かったのだが、本編自体は脚本家を4人も注ぎ込むも音楽に負ける出来となってしまっていた。


「徳川慶喜」。作曲は20世紀の日本を代表する作曲家の一人であった湯浅譲二。現代音楽の要素を取り入れており、大河ドラマのメインテーマの中では取っつきやすい方ではない。広上は、徳川慶喜については「昔は余り好きじゃなかった」と語り、「軍事力は負けないだけのものを持っていたのに、兵を見殺しにして逃げて謹慎しちゃって情けない人だと思っていた」
ただ、「当時の列強に日本を乗っ取られる」危険性を避けるためと知ってからは見る目が変わったようである。
演奏前に、大政奉還の舞台となった二条城のCGがスクリーンに映る。
本編でもオープニングタイトルは個性的であり、江戸の写真や絵と共に縦書きの字幕が左から右へと流れていくという絵巻物手法が取られていたのを覚えている。


吉俣良の「篤姫」。21世紀に入ってからの大河の中では平均視聴率が最高を記録した作品である。広上は、「まさか岡田准一と結婚するとは思わなかった」と宮﨑あおいについて語る。
ちなみに影の脚本家を巡る噂のある作品でもある。
広上は、「地味だけど」と前置きしつつ、曲に関して褒める。
本編での指揮は井上道義で、耽美的な演奏を行っていたが、広上の指揮する「篤姫」は井上のものに比べるとスタイリッシュである。


佐藤直紀の「龍馬伝」。本編を指揮したのも広上淳一である。
佐藤直紀は、広上の東京音楽大学の後輩であり、教え子でもあるそうだが、「彼は私の授業には出ませんで」と広上は語る。「龍馬伝」のレコーディングの時に、佐藤は「あの時はお世話になりました」と言いに来たそうだが、広上が「そんなにお世話したっけ?」と返すと、「いや、最初の1回しか授業に出ていませんで、それで、『単位あげるよ』と言われたので、もう出ませんで」だそうである。広上は単位はあげたが、大学から授業に出ない学生に単位をあげたのが問題視されたそうで、翌年からは当該授業からは外されてしまったそうである。
佐藤は、インドやネパールなどの南アジアの「エキゾチックな」民族音楽を学ぶのが好きな人だそうである。

本編ではオーストラリアのミュージシャンであるリサ・ジェラルドがヴォーカルを担当していたが、今回は平野雅世がマイクなしのソプラノで歌う。
ただこの曲は、マイクありのヴォーカルで歌った方が効果的なように思えた。


林光の「花神」。大村益次郎こと村田蔵六を主人公にした作品である。「花神(かしん)」は「花咲か爺さん」の中国での呼称。自分は去ってしまうけれど咲かせた花は残るという姿を司馬遼太郎が花神に例えたものである。

広上は林光について「大天才」と最大級の賛辞を送る。林光は尾高尚忠の弟子であり、十代の頃からすでに尾高に認められていて鞄持ちなどをしており、東京芸大に入るも学ぶものが何もないため1年で中退して作曲活動に入ったという早熟ぶりについても話す。
基本的にオプティミスティック人であり、どんな時でも明るかったという。

「花神」は、現在は総集編のVTRのみが残っている。私も総集編のみDVDで見た。
林光は、作風が比較的平易なことでも知られ、どの作品でも明快な旋律を一番大事にしている。曲と広上の相性も良いようだ。


現在放送中の大河ドラマ「西郷どん」のオープニングテーマ。一昨日、岩村力指揮京都市交響楽団の演奏で聴いているため、聞き比べが出来る。
広上の指揮する「西郷どん」は、岩村のそれと比べて重層的であり、より多くの音が聞こえる。劇伴としては主題が明確に浮かぶ演奏が好まれる傾向にあるのだが、広上の解釈はクラシック作品に対するのと変わらないスタイルが貫かれているようだ。

全般を通していえることだが、広上の奏でる大河のメインテーマはどこか儚げで移ろいやすく、どんなに明るいメロディーや和音にも憂いが影に潜んでいるという日本人的美質が聴き取れる。まるで「桜」の美意識だ。

広上の大河指揮デビュー作も幕末ものの「新選組!」なのだが、残念ながら演奏はなし。「時の響」は時間の関係でアンコール演奏も一切なしのようである。


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2018年10月18日 (木)

観劇感想精選(260) アルテ・エ・サルーテ 「マラー/サド」@クリエート浜松

2018年10月11日 浜松市のクリート浜松 ホールにて観劇

午後5時30分から、クリエート浜松のホールで、アルテ・エ・サルーテの「マラー/サド(原題は「マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院の患者たちによって演じられらジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」)」を観る。フランス革命時のジャコバン派首領であるジャン=ポール・マラーと、サディズムの語源として知られ、後世に多大な影響を与えたマルキ・ド・サド(サド侯爵)を軸にした芝居である。

アルテ・エ・サルーテは、浜松市の音楽文化交流都市であるイタリア・ボローニャに拠点を置く非営利協会。エミリア・ロマーニャ州立地域保健機構ボローニャ精神保険局の精神障害者80名以上が通っており、そのうち41名がプロの俳優として、散文劇団(コンパニィア・ディ・プローザ、児童向け劇団(コンパニィア・ディ・テアトロ・ラガッツィ)、人形劇団(テアトロ・ディ・フィーグラ)、精神を題材とした放送局であるサイコラジオに所属している。
今回来日したのは散文劇団のメンバーである。2000年の創設で、ボローニャに本拠を置く劇団としては最古参になるという。

イタリアからはエミリア・ロマーニャ州の州知事代理やアルテ・エ・サルーテの主治医が同行しており、上演前にスピーチを行う。イタリア語通訳の方が頼りなく、州知事代理の方が遠州方言である「やらまいか」を観客達とやりたいと申し出るも上手く通じる、バラバラになってしまう。スタッフも演劇上演には明らかに慣れていないが、地方都市であるだけにこれは仕方がない。

今回の浜松上演は、静岡文化芸術大学の名誉教授&理事で、イタリア語・イタリア演劇を専門とする高田和文の招聘によって実現したものであり、高田氏が真っ先にスピーチを行った。

舞台後方の白い壁には、「じゆう」「障害はあるけど奴隷じゃない!」「革命しよう 拘束反対」「自由 平等 友愛」「マラー万歳!」といった言葉が赤と青の文字で記されている。


「マラー/サド」。作:ペーター・ヴァイス。脚色・演出:ナンニ・ガレッラ。オリジナル音楽:サヴェルオ・ヴィータ。制作はエミリア・ロマーニャ演劇財団、NPOアルテ・エ・サルーテ、エミリア・ロマーニャ州立ボローニャ地域保健連合機構精神保険局。
1964年に初演が行われたドイツ演劇作品で、1967年にはピーター・ブルックによって映画化されている。

イタリアには1978年まで精神科の閉鎖病棟があり、多くの人がそこに強制入院させられていたが、今ではそうした押し込め型の精神病院はなくなっているという。


シャラントン精神病院に収監されたマルキ・ド・サド(演出であるナンニ・ガレッラが演じている)が、患者達を使ってマラーの人生を描いた芝居を上演する模様を上演するいう劇中劇の入れ子構造になっている。

出演は、布告役(口上役。劇中劇では窃盗罪と境界例があるという設定):ミルコ・ナンニ、サド侯爵(ここには殺人の罪で入っている。偏執狂の持ち主):ナンニ・ガレッラ、ジャン=ポール・マラー(過激派、妄想型統合失調症):モリーノ・リモンディ、シャルロット・コルデー(嬰児殺人罪、躁鬱病、ナルコレプシー):ロベルタ・ディステファノ、シモンヌ・エヴラール(家庭虐待、ヒステリー):パメラ・ジャンナージ、デュペレ(強制性交等、錯乱性色情症):ロベルト・リジィ、ジャンヌ・ルー(破壊行為、誇大妄想症虚言癖):ルーチォ・パラッツィ、ロッシニュール(売春、強迫性窃盗症):イレーオ・マッツェティ、キュキュリュキュ(放火魔):増川ねてる 、ポルポック(麻薬密売、強迫症):デボラ・クインタバッレ、ココル(麻薬常用、境界例):ルカ・ファルミーカ、患者1(殺人により強制措置):ファビオ・モリナーリ、患者2:ニコラ・ベルティ、女医(医院長):マリア・ローザ・ラットーニ、看護士:ロレッタ・ベッキエッティ&カテリーナ・トロッタ、看守:ダビデ・カポンチェッリ。


まず、医院長からの挨拶で芝居が始まる。舞台は鉄格子の向こうであるが、医院長だけは客席側に出て、芝居を観る(これも演技の内)ことが出来る。クリエート浜松ではなく、シャラントン精神病院での院内上演という設定で、観に来ているのも同じ入院患者として劇の紹介を行う。

フランス革命直後のフランス。貴族階級が否定され、この世の春を謳歌していた貴族達は次々とギロチン送りにされている。庶民達は自分達の時代を築こうとしているが、そちらの方は順調には進んでいない。血気盛んな庶民達は自由を望み、決起を、というところで医院長からストップが掛かる。「熱くなりすぎる! もっと冷静に」との注文を受けて芝居再開。

多数の貴族をギロチン送りにしているマラー。だが重度の皮膚病に苦しみ、症状を和らげるために常に浴槽に水を張って浸かっていないと症状が悪化してしまう。身の回りのことは家政婦のシモンヌに全て任せていた。
理想に燃えるマラーであるが、浴槽に幽閉されたような状態である。

パリに出てきたばかりのカーン出身の少女がマラーの命を狙っている。シャルロット・コルデー。後に「暗殺の天使」として世界に知られることになる下級貴族出身のこの女性も閉鎖的な修道院から出たばかりで、自由と理想を追求していた。
ちなみにコルデー役の女優さんが一番症状が重いという設定であり、常に眠気に襲われている上に重篤な鬱状態ということで、自分の出番が来るまでは看護士の膝を枕にして眠っている。
シャルロットは1日に3度、マラーを訪問し、3度目に刺し殺すのであるが、気が昂ぶったシャルロッテは最初の訪問でいきなりマラーを殺そうとしてサドから注意を受ける。

反体制派のマラーと貴族階級出身のサドの意見は対立する。このマラーとサドのディベートが一つの軸になっている。
サドは自然を嫌う。自然は偉大なる傍観者、弱者が滅びるのを観察しているだけ。あたかも「沈黙の神」に対するかのような姿勢だ。一方のマラーは自然がもたらすことには意味があり、それを超克したいという希望がある(西洋においては自然の対語が芸術である)。

マラーは急速に革命を推し進めようとするが、サドに革命が起こっても何も変わっていないと指摘される。下層階級は革命の前も後も苦しみのただ中にいると。

マラーを支持する下層階級のグループは自分達の改革の邪魔になりそうな人物の名を挙げて、血祭りに上げようと騒ぐ。ラファイエットやビュゾー、ロベスピエールの名が挙がるが、そのうちに医院長や医師の名前が挙がったため医院長に芝居を止められる。そもそもカットされたはずの部分が上演されてしまっていたらしい。

マラーは貴族階級を憎み、下層階級に与えられた苦しみに比べれば、貴族階級の苦悩などまだまだ浅いと考えており……。

音楽が流れ、歌い、隊列を作って行進しと様々な要素を取り入れた芝居である。
イタリアでは1978年にバザーリア法により精神病院と閉鎖病棟の制度は廃止されたが、日本では精神障害者のうち重度の患者は何十年にも渡って精神病院に閉じ込められているという現実がある。そこに精神障害者の自由はない。
登場人物の多くも幽閉されている。現実の精神病院にだけではなく、あるいは病気に、あるいは階級に、あるいは年齢に、あるいは修道院に代表される宗教に。

芝居は、コルデーが意識の解放を遂げた後で、フランス国歌にしてフランス革命歌「ラ・マルセイエーズ」を全員で歌って終わる。「marchons,marchons(進め! 進め!)」の部分を「マラー、マラー」に変えられ、その後の歌詞もマラーへの応援歌となり、「障害はあるけど奴隷じゃない!」と希望を望む言葉で締めくくられる。

最後は、「ラ・マルセイエーズ」をファンファーレとして使用したビートルズの「愛こそはすべて(All you need is love)」が流れる中を出演者が踊って大いに盛り上がる。
「自由」そして「解放」を訴える芝居だけあって、革命期の高揚を伴う展開に説得力があり、病気や環境によって真に抑圧されてきた経験のある俳優が演じているだけあってオーバーラップの効果は大変なものである。
ラストの選曲も実に上手かった。


芝居の上演の後に、ティーチインのようなものがあり、浜松市内のみならず日本全国から集まった当事者、医療関係者によって様々な質問がなされ、演出家のナンニ・ガレッラや劇団員達が答えていた。


精神障害者が精神障害から完全に抜け出る日は、あるいは来ないのかも知れない。来るとしてもまだまだ先なのかも知れない。ただ、演じることで苦しみのある現実から一瞬でも抜け出すことは可能であるように思われる。自分ではない他者として生きる経験を持つということ。この点において演劇は有効だ。



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2018年9月29日 (土)

コンサートの記(431) NHKスペシャル 映像の世紀コンサート@フェスティバルホール

2018年9月17日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後3時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、NHKスペシャル 映像の世紀コンサートを聴く。音楽&ピアノ:加古隆、岩村力指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏。ナレーションを元NHKアナウンス室長の山根基世が受け持つ。

1990年代に放送され、大反響を呼んだNHKスペシャル「映像の世紀」。21世紀に入ってからは「新・映像の世紀」も制作され、2016年3月に放送を終えている。「映像の世紀」では加古隆の音楽も話題になったが、加古の音楽と番組からのダイジェスト映像で行われるコンサートである。

ホール上方に巨大スクリーンが下がり、そこに映像が投影される。映像は、アメリカ、フランス、ドイツ、イギリス、ロシアのテレビ局とNHKが制作したものである。

加古隆は大阪府出身である。府立豊中高校を経て、東京藝術大学音楽学部および大学院作曲研究室を修了。三善晃らに師事した。その後、フランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院でオリヴィエ・メシアンに作曲を師事。パリで現代音楽を学ぶと同時にフリージャズのピアニストとしてもデビューしている。1976年に高等音楽院を最高位で卒業して帰国。以後は映画音楽を始めとする映像音楽を中心に作曲活動を行っている。

指揮の岩村力は、早稲田大学理工学部電子通信学科卒業後に桐朋学園大学音楽学部演奏学科に入学。マスタープレイヤーズ指揮者コンクール優勝後、2000年から2007年までNHK交響楽団のアシスタントコンダクターを務め、現在は兵庫芸術文化センター管弦楽団のレジデント・コンダクターでもある。

今日の大阪フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターは崔文洙。

プログラムは、「パリは燃えているか」のショートバージョン(ピアノオクターブ上げての演奏がないもの)に始まり、第1部から第7部に分けられた映像と音楽の饗宴が繰り広げられる。

第1部「映像の始まり」では、リュミエール兄弟の映画の発明に始まれ、ロシア、オーストリア、大英帝国などの王室の映像が流れる。大津事件で知られ、後に殺害されることになるニコライⅡ世の姿も映っている。演奏されるのは「時の刻印」「シネマトグラフ」「はるかなる王宮」

第2部「第一次世界大戦」。世界で初めて全編が映像に収められた戦争である。その時代の若者は、戦争にロマンティックな幻想を抱いており、進んで募兵に応じたそうだが、映像は戦争の現実を冷徹にとらえており、多くの人々が戦場のリアルに気づいたとされる。
演奏されるのは「神のパッサカリア」「最後の海戦 パート1、2」「パリは燃えているか」

第3部「ヒトラーの野望」。大戦による景気の回復により、アメリカは黄金の20年代を迎える。一方、ドイツは敗戦から立ち直れなかったが、そこにアドルフ・ヒトラーという男が登場。ドイツ経済を好転させ、90%という高い支持率を得る。ドイツ国外でもその手腕は高く評価されたが、ヒトラーの野望にはまだ多くの人が気づいていなかった。
1929年10月24日、のちに「暗黒の木曜日」と称されるこの日に世界恐慌が発生。世界情勢がめまぐるしく変わる中で、ヒトラー率いるナチスドイツは1938年にヒトラーの祖国でもあるオーストリアを併合。翌39年にポーランドへ侵攻し、英国がこれに宣戦を布告。当初は中立の立場にあったアメリカも1941年12月8日に日本の真珠湾攻撃を受けて参戦する。

休憩後、加古隆のピアノ・ソロによる「パリは燃えているか」が演奏されてから第4部に入る。
第4部「第二次世界大戦」。演奏されるのは「大いなるもの東方より」「最後の海戦 パート2」「神のパッサカリア」「狂気の影」。ナチスドイツのソビエト戦、そしてアメリカが撮影した日本の神風特攻隊の映像からカラーに変わる。

第5部「冷戦時代」。ジョン・F・ケネディ米国大統領、ソ連のニキータ・フルシチョフ書記長、チューバのフィデル・カストロ議長らによるキューバ危機があり、核戦争への恐怖が人々の心を波立たせる。演奏は「パリは燃えているか」「シネマトグラフ」「最後の海戦 パート1」「黒い霧」。核実験は当時は健康被害はないという嘘の報道がなされ、それを信じた人々が間近で核実験の見物を行ったりしている。

第6部「ベトナム戦争、若者達の反乱」。アメリカはアジアの共産化を恐れ、当時南北に分かれていたベトナムに介入。共産国である北ベトナムへの攻撃(北爆)を開始、米ソの代理戦争が始まった。当初はベトナムで行われているのは戦争ではないとしていたが、戦況悪化により多くのアメリカの若者がベトナムに兵士として派遣されるようになり、国際的にも問題視されるようになる。ベトナムではスパイ掃討のために民家を燃やしたり無差別虐殺
行うといった蛮行が現地民の怒りを買って戦況は泥沼化。結果として南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、アメリカは史上初の敗戦を喫することになる。アメリカの蛮行に怒ったのはベトナム人だけではなく、アメリカ国内を始め、イギリス、フランス、ドイツ、日本などで若者達による反戦運動が繰り広げられ、ヒッピームーヴメントを始めとするカウンターカルチャーを生んだ。
1969年、アポロ11号が月面に着陸。月から見た地球には国境はなく、憤りの声も届いてこない。ただ青と白の二つがあるだけである。
演奏されたのは、「パリは燃えているか」、「ザ・サード・ワールド」「睡蓮のアトリエ」。元々はクロード・モネが映った映像のために書かれた「睡蓮のアトリエ」であるが、ここでは地球の姿が睡蓮に例えられている。

第7部「現代の悲劇、未来への希望」。9.11、フランスでの自爆テロなど21世紀に入ってからの悲劇の映像が流れる。だが、宗教や人種、思想を超えた人類としての愛を追い求める人々も存在している。
「愛と憎しみの果てに」が演奏される。

ラストは「パリは燃えているか」のフルバージョンである。歴史を彩った有名人達の姿と、名もなき人々の笑顔を見ることが出来る。

朝比奈隆の時代には不器用なオーケストラというイメージがあった大阪フィルハーモニー交響楽団であるが、今はアンサンブルの精度も表現力も上がり、持ち前のコクとまろやかさのある音を生かした味わい深い演奏を行う。岩村力の指揮も的確なスケールのフォルムを描くことに長けており、ハイレベルな音楽作りに貢献している。加古隆のピアノもフランス的な色彩に溢れており、上質である。

アンコールとして、加古隆のピアノ・ソロによる「黄昏のワルツ」が演奏された。


 

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2018年9月12日 (水)

春秋座「志の輔らくご」10周年・立川志の輔独演会「大河への道」―伊能忠敬物語―

2018年9月7日 京都芸術劇場春秋座にて

午後6時から、京都芸術劇場春秋座で、春秋座「志の輔らくご」10周年・立川志の輔独演会「大河への道」―伊能忠敬物語―を観る。

前半と後半に分かれての公演で、前半が「バールのようなもの」、後半が「大河への道」―伊能忠敬物語―の上演である。

まず松永鉄九郎による三味線弾き語りの「三番叟」があり、続いて志の輔が登場する。

実は志の輔は明治大学の先輩なのである。彼は経営学部を卒業しているが、以前、クイズ番組の回答者としてテレビ出演した時に明治大学のサークルがゲストとして出演したことがあった。そこで志の輔が先輩として一言も求められたのだが、「明治大学は卒業論文がなくて楽ですので」と発言、こちらはテレビ向かって、「違う違う! それは経営学部だけ! 他全部ある!」と突っ込むことになった。志の輔は名門として知られる明大落研出身で、トップの高座名である紫紺亭志い朝(しこんていしいちょう)の5代目である。4代目紫紺亭志い朝が三宅裕司、6代目が渡辺正行という黄金期の在籍者なのだが、全員が経営学部出身であるため勘違いしたのだと思われる。三宅裕司も渡辺正行も演劇サークルを兼ねていたということもあり、志の輔も自然と影響を受けて演劇を志し、卒業後は劇団の研修生になる。その後、一時は広告会社のサラリーマンとなるが、30歳を目前に控えた時にラストチャンスとの思いから立川談志に弟子入りしている。
富山県出身であるが、富山県は舞台人の出所であり、現役に限っても、西村まさ彦、室井滋、柴田理恵(明治大学文学部文学科演劇学専攻卒)らが輩出している。

枕として春秋座での10周年を迎えたことを語り、春秋座が2001年オープンで17年目、春秋座が入る京都造形芸術大学も前身である京都芸術短期大学から数えて40年が経過したという話をするのだが、ベトナムでのホーチミン市での公演も毎年行っていて今年で同じく10周年を迎えたことを語り、春秋座での公演では10周年記念として造形大の学生に記念グッズを作って貰ったが、ホーチミンでは「富山出身ですよね?」ということで、全国的に有名な富山民謡「こきりこ節」の歌と踊り富山の人達を呼んでやって貰うということになった。ホーチミン公演には駐在大使の方も夫妻で駆けつけてくれたのだが、「いやあ、私は落語を観るのは今回が初めてで」と言われたそうで、「初めて? その年で? 日本にいるとき何やってたの? 駐在大使は日本文化を広める役でしょ?」と内心思ったそうである。演目が終わった後、客席背後のドアから富山出身の謡い手踊り手が現れ、客席通路を通って舞台の上までやって来る。志の輔はそれを見て泣くほど感動したのだがそれは、「私、18まで富山に住んでいたんですが、こきりこ節見るのはその時が初めて」だったからということで、「落語を観るのは今日が初めてという方がいらっしゃっても、いっこうに問題ない」

登場人物二人の小咄で知ったかぶりをするものがあるというので、「夏はなんで暑いんだい?」「そりゃあ、冬の間、ずっとストーブを焚いてて、その熱が空に上がって、落ちてくるに連れて暑くなるんだろうよ」「じゃあ、なんで冬は寒いんだい?」「夏の間、ストーブを焚かなかったからだろうよ」などと言ってから、「バールのようなもの」に入る。品川区の宝石店でシャッターがバールのようなものでこじ開けられたというニュースを聞いた大工のはっつぁんが、ご隠居に、「ニュースの意味がわからない」といって内容を教えてくれるように言う。大工なのでバールはわかるのだが、「バールのようなもの」というのが何なのかわからないという。ご隠居は誰も見ていなかったから「ようなもの」としかいえないのだと言うが、「女のようなって女かい? 女のようなってのは男のことだろう」、「ダニのようなってダニかい?」、「ハワイのようなってハワイかい? 違うだろ、宮崎のようなところで言うんだろう」「夢のようなっていったら夢かい?」ということで、「バールのようなものはバールじゃない」という結論に達する。
ところではっつぁんは、昨夜、熊さんのところに行くと言ってバーに行き、そこでママの姪っ子でお手伝いに来ていたというナツミちゃんという女性に一目惚れ。上品で大人しくてそれでいて華があってというナツミちゃんとカラオケでデュエットをしていたのだが、そこに熊さんに連れられて旦那を探しに来た山の神にコテンパンにやられてしまったのだという。
ご隠居の話を聞いたはっつぁんは、奥さんに「あれは妾じゃない。妾のようなものだ」と、言い訳して却って火に油を注ぐ結果になるという展開である。

メインの「大河への道」―伊能忠敬物語―。上演時間約1時間半という長編創作落語である。講釈台を用いての上演。
千葉県を代表する歴史上の偉人の一人である伊能忠敬。今の山武郡九十九里町小関の名主の家に生まれている。志の輔は知っているのかどうかはわからないが、忠敬の父親は富山を拠点としていた豪族・神保氏の流れとされる。明治大学駿河台キャンパスのすぐそばにある神田神保町も神保氏の屋敷があったためにその名がある。その後、佐原(現在の香取市佐原)の豪商・伊能氏の婿養子となり、数字に抜群に強かったことから商才を発揮。名主となってからは正式に苗字を名乗ることを許可され、帯刀も許された。
50歳で隠居の後、忠敬は江戸に出て、幕府天文方の高橋至時に師事。至時は忠敬より19歳年下だったそうだが、志の輔も談志より19歳下、ということで、突然、「おう、弟子にしてくんな!」とあの濁声で言われるようなものだそうで、「自分なら断る」そうだが、忠敬は至時に「地球一周の長さを測りたい」と申し出たそうで、そのために自宅のある深川と学んでいる暦局の間を一定の歩幅で歩く訓練も繰り返す。志の輔はこの時に講釈台の上を指で歩く真似を行った。
学問と修業を重ね、55歳の時に、蝦夷地の観測に出発。子午線1度の距離を割り出し、蝦夷地南部の地図を完成させる。地図の出来に感嘆した幕府のお墨付きを得て、「御用」の文字を掲げることを許され、日本全国六十余州の観測に乗り出すことになる。その後、17年を費やして、測量を終え(北海道北部の観測は間宮林蔵に託された)、その後、病を得て程なく他界。「大日本沿海輿地全図」は本格的な作図作業に入っておらず、その姿を見ることはなかった。1818年、今から丁度200年前である。

志の輔は今から十数年前に、現在は市町村合併で香取市となっている街で公演を行っている。公演終了後、知り合いのコピーライターの運転で東京に帰ることになったのだが、「近くに小江戸として知られる佐原という街があるので寄っていかない?」と誘われ、佐原に行き、伊能忠敬記念館に入ったのだが、そこで、人工衛星がとらえた日本の映像と、忠敬の観測に基づく大日本沿海輿地全図がピタリと重なることに感動し、4年ほど費やして「大河への道」―伊能忠敬物語―を作り上げたそうだ。

大日本沿海輿地全図が完成したのは西暦1821年のこと。ここで話は、完成200周年に当たる2021年に、大河ドラマ「伊能忠敬」の放送を目指す千葉県の職員と、作家として指名した若手の加藤という男を主人公にしたものへと移る。大河ドラマは全50話。しかし、伊能忠敬の功績の大半は測量の場面であり、ドラマとしては著しく起伏に欠けたものとなってしまう。そこで測量者にジャニーズやAKBのメンバーを加えようだとか、毎回変わる風景を撮ろうだとか(「世界の車窓から」のようだとしてボツ)、その土地のグルメを紹介しようだとか(「食いしん坊万歳」と大して変わらないということでボツ)色々と手を加えようとするが、上手くいかず、遂には、大日本沿海輿地全図が完成するまで忠敬の死は極秘事項として伏されたことから、幕府天文方・高橋景保ら関係者による群像劇となるが、その場合は大河ドラマ「高橋景保」になってしまうそうで、最終的には大河ドラマ「伊能忠敬」の企画立案は断念となる。「伊能忠敬の人生はドラマに収まるほど小さなものではない」というのが決めのセリフとなった。

特別にエンドロールが流れる。2010年の初演時に作られたものだそうで、海岸沿いの断崖絶壁のそばを中空から撮影された映像が映されるが、当時はまだドローンというものは存在せず、飛行撮影家の矢野健夫がパラグライダーを使った撮影したものを使用しているそうである。ギターは高中正義のものをセレクトしたそうだ。

最後は三本締めで終えようとした志の輔であるが、座席番号によるプレゼント抽選会がある。10周年記念グッズの中から手ぬぐいが10名に送られるのだが、私も当たる。多分、明大の縁だろう。

語りは老練の領域であり、もう話に身を任せるだけで十分である。



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2018年7月20日 (金)

観劇感想精選(247) 広田ゆうみ+田中遊 「耳で楽しむ古事記」上巻連続上演

2018年7月8日 京都・松原京極商店街のカフェギャラリー ときじくにて観劇

今日は特に予定はなかったのだが、松原京極商店街にあるカフェギャラリー ときじくで「耳で楽しむ古事記」というイベントをやっているのでそれに行くことにする。

「耳で楽しむ古事記」は、京都で活躍している田中遊と広田ゆうみによる朗読劇。「古事記」は原文は「漢文+万葉仮名」で書かれているのだが、そのままでは読めないので、書き下し文が読まれ、更に現代語訳が朗読される。適宜映像や小道具などを加えての上演である。今回は5部に分けての上演であり、この世の成り立ちから天孫降臨までを描いた上巻が朗読される。

記紀と呼ばれることもある「古事記」と「日本書記」。正史である「日本書紀」に対して、「古事記」は皇統の正当性を説く歴史物語であり、歴史そのものではなく様々な彩りのあるロマン溢れる物語となっているのが特徴である。まだ小説や物語文といった観念のない時代に生まれており、リアリズムからは外れた(後世から見ると)大胆な展開が見られる。地方の伝承なども多く取り入れているため、後代では何を指しているのか分からない部分も多く、「古事記伝」の本居宣長を始めとする多くの国学者や国文学者、日本史学者、民俗学者が訓詁注釈に挑む日本最古にして最大のミステリー書とも捉えられる。

失われた歴史書である「帝紀」と「旧辞(くじ)」の内容を諳んじている稗田阿礼という人物が暗唱したものを太安万侶が書き取ることで成り立ったと伝わる「古事記」。稗田阿礼は猿女(さるめ)氏の出身とされ、大和郡山の稗田環濠集落にある売太(めた)神社に主祭神として祀られているが、生没年も性別もわかっておらず架空の人物説もある。舎人なので男であると中世から近世に掛けては思われていたが、阿礼というのが女性の名前であること、稗田氏は代々女官が輩出する家だったこと、また暗唱するだけで自ら書き記さなかったのは読み書き教育を受けていない女だったからではないのかという理由により、国学隆盛期以降は女性とされることも多い。
売太神社には2012年に行ったが、古事記成立1300年ということで記念の幟が沢山立っていた。

太安万侶は奈良市内に陵墓が発見されており、実在の人物と見られている。

日本の歴史の面白いことは天地創造がないことで、天地は始めから存在し、「神」も性別も正体もよくわからないものであるが最初からいる。

イザナギとイザナミが柱の周りを巡り、この時、母系社会が父系社会に入れ替わった象徴的に描かれるのだが、描かれただけで、そう簡単に社会は変わらない。日本はアジアにおいては極めて異例というほど女性が活躍しており、女帝も何人もいる(中国王朝史においては女帝は則天武后ただ一人、朝鮮王朝史上は新羅時代に三人である)。日本の場合は連続して女帝が生まれたり、重祚した人までいる。

男女が入れ替わっているのではないかというケースも存在し、それを象徴するように、中巻においては日本武尊が熊襲を騙すために女装するシーンがある。更に下巻には史実とは逆に「女摂政が立った」という記述が存在する。

上巻は黛敏郎のドイツ語オペラ「古事記」で、中巻の神武東征は信時潔の交声曲(カンタータ)「海道東征」で描かれており、音楽との相性も良い。

2部ずつの上演であり、途中に1時間ほどの休憩がある。

様々な神が生まれるうちに、天照大神、月読命、素戔嗚尊の三姉弟が生まれる。それぞれ、昼間、夜、海を支配する神様である。月読命(ツクヨミ)だけは影が薄いが、太古の夜は今と違って真っ暗。何も出来ないし怖れの対象であるため、神としてドラマティックはエピソード生まれにくかったのかも知れない。それでも暦などは月を基本に設定されたため、重要な神様(性別不明)である。月が海に影響を及ぼすということも太古からわかっていたのだろう。読み方から「着く黄泉」と取れるのも面白い。伊勢神宮内宮から近鉄五十鈴川駅に向かう途中に月読宮があり、京都にも松尾大社の近くに月読神社がある。
ただ、この中に陸地の神様はいない。陸地の神様は大国主命だと考えられるが、この時点では大国主命は異朝の神であったと思われる。かつて出雲を中心とした地域に朝鮮渡来の民族が一大勢力を誇っており、吉備などを従えていた。大和王朝には青銅の剣しかなかったが、出雲王朝は大陸由来の鉄の精製技術を持っており、古代日本のヒッタイト状態で圧倒的に強い。というわけで、出雲王朝を倒すべく、古代の国盗り物語が始まる。神々に寿命がない時代にあって、大国主命だけは何度も死んでは甦っているが、大国主命の正体が何度が入れ替わっていることを暗示しているように思う。

大国主命が主人公となる第三部では行灯社による伴奏が加わり、終了後には行灯社によるミニコンサートがある。フルートとアイリッシュ・ハープによる女性デュオ、歌も唄う。イギリスと北欧の民謡を中心としたプログラム。いわゆる耳コピーで曲を覚えられるようだ。アイリッシュ・ハープを使っているからかどうかはわからないが、どことなくケルティックな印象を受ける。エンヤが加わって歌を歌い始めても違和感がないような。
アンコールは予定していなかったようだが、「1万マイル」という曲の弾き語りを行う。「500マイル」でも遠いのに「1万マイル」は比較にならない。メートル法に直すと1万6093キロ。地球の半径が約1万3000キロ、地球1周が約4万キロだからいかに遠いかがわかる。

第4部に少名彦命が登場する。その名の通り、名を問われても名乗らない神様である(言葉が通じなかったのかも知れない)。おそらく日本と朝鮮半島の間で通信のようなことをしていた部族が神格化されたものだと思われる。少名彦命の招待を当たる「山田のかかし」は、日本で最も有名な山田という地名に何があるかを思い浮かべるとわかる。伊勢山田には伊勢神宮外宮があり、ここの神官の家だった山田氏の本家は日本屈指の名家である。ということで豊受大神らしいことがわかるのだが、かかしとは何かという謎がある。「足が不自由だった」とあり、他の神のように動き回れないことがわかる。伊勢神道ではこれをもって天之御中主神と同一視しているのだが、果たしてそうか。天照大神はよく卑弥呼なのではないかという説が唱えられるが、だとすれば豊受大神は、すでに名前に「トヨ」という読みが入っていることからも分かる通り、台与ということになるのだが。
国譲りでは、鹿島神(タケミカヅチ)が大活躍する。藤原氏の氏神である春日大社では、タケミカヅチは藤原氏を補佐する軍神で東方よりやって来たとしている。ということは名付けるなら征北狄将軍的役割をしていたのは藤原氏の祖の中臣氏ということになる。中臣氏の根拠地は現在の京都・山科で、関門海峡から瀬戸内海、淀川、宇治川、琵琶湖(当時はまだ日本海側に通じている)を経て、北陸、丹後に至る「天安河ライン」の中枢に位置している。

「古事記」では、兄が政治を受け持つが上手くいかず、弟に位を譲ると大成功となるケースが執拗に語られている。これが何を意味するのかは、「古事記」の編纂を命じたのが天武天皇であることを考えれば明々白々で、「自分(天武)が兄である天智天皇の子である大友皇子を滅ぼして天皇となったのは皇位簒奪には当たらない」と主張したかったからに他ならない。「日本書紀」に天武天皇は天智天皇より6歳年上とあることを根拠に天智と天武は実の兄弟ではないとする説もあるが、「古事記」でここまで愚兄賢弟を描いていることを考えれば、天智と天武は実の兄弟で間違いないと思われる。
さて、最初の男兄弟同士の争いが海彦、山彦の間で起こる。日本のカインとアベルともいうべき存在だが、二人の間にもう一人、正体がよく分からない男の神がいる。正体不明ということを軸に考えると、聖徳太子のモデルになった人の可能性が浮かび、とすれば海彦・山彦は蘇我と物部という飛鳥時代の二大勢力に例えられる。ちなみに蘇我氏については渡来系氏族説の他に、有力皇族説もある。

そしていよいよニニギノミコトによる天孫降臨があり、猿田彦が登場し、天鈿女命が猿女に名を変え(猿女氏の子孫が稗田氏である)、玉依姫(下鴨神社の祭神)が登場し、日本の初代天皇である神武天皇が生まれる。この神武天皇家来というのが徹底して愚兄賢弟なのだが、それは中巻でのお話である。ちなみに太安万侶は神武天皇の子孫である多(おお)氏の出であるとされる。

正午にスタートして全てが終わったのは午後8時近く。帰る時にようやく広田さんにご挨拶。途中で「古事記」解釈の話をしてしまうとよろしくないので、意図的に話掛けなかったのである。


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2018年2月14日 (水)

幻の沢村栄治

※ この記事は2017年12月2日に書かれたものです。

戦前の日本を代表する名投手、沢村栄治が、1944年の12月2日、乗船していた軍隊輸送船が撃沈されて戦死しました。享年27。

京都商業(現・京都学園高校)時代に山口千万石とバッテリーを組み、甲子園に出場。慶應義塾大学に進むかと思われましたが、京都商を中退してベーブ・ルースやルー・ゲーリックが来日した際の第2回日米野球に参加。トータルではいい成績は残せませんでしたが、1934年11月20日に草薙球場で行われた第10戦での好投で一躍名を挙げます(ただこの時、西日が邪魔してバッターボックスからボールが見にくかったという証言あり。ベーブ・ルースは沢村がドロップを投げる時に口を真一文字に結ぶ癖を発見。自分は倒れましたが、続くルー・ゲーリックにこの癖を教え、ゲーリックが沢村のドロップをソロホームランにして決勝点を挙げたといわれています)。

その後、大日本東京野球倶楽部に参加。1935年2月14日に横浜港から出帆したアメリカ遠征(大日本東京野球倶楽部は東京ジャイアンツというニックネームを名乗る)ではマイナーリーグ相手に登板。好投を披露し、「スクールボーイ・サワムラ」としてアメリカでも人気になります。ファンがサインを求めたので応じたところ、相手は実はファンではなく、サインしたのはメジャー球団の入団契約書だったという騒ぎがあったりもしました。

東京巨人軍に入団後、数々の賞を獲得。現在でも沢村の名はその年最高の先発完投型投手に与えらえる沢村賞に残されています。

さて、全盛時の並外れた快速球は今も伝説となっており、「150キロか160キロか」と話題になりますが、本格的な投球時の映像が残されておらず、沢村の投球と球速は幻となっていました。
近年、沢村栄治のものとされる投球映像が発見されました。

足を高々を挙げるフォームがトレードマークとされ、西本聖のような後継者を生みましたが、実際のフォームはそれほど足を高くは挙げていなったとされ、発見された映像でも足を自然に踏み出す姿が確認できます。

映像を解析したところ、「160キロ近く出ていた可能性がある」という結果が出ました。ただ、古い映像なのでコマ送りの速度が一定しておらず、映像だけで速度を断定することはできないというのが本当のところのようです。
今のところ、沢村の球速が何キロだったのかは、可能性しか語ることはできませんが、もう目にすることの不可能な幻だからこそ、その快速球へのロマンが無限に広がるような気がします。

沢村栄治よ永遠なれ。

中京大学スポーツ科学部・湯浅景元教授による沢村栄治の球速分析


巨人軍の同僚、千葉茂と青田昇による検証

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2018年2月11日 (日)

無類力士 雷電為右衛門

文政8年2月11日、「無類力士」と呼ばれ、史上最強の呼び声も高い雷電為右衛門が死去。

信濃国小県郡に生まれた雷電為右衛門。実家の関家は農家である。小諸に出稼ぎに出た際に怪力を見込まれ、相撲の世界へ。一方で学問にも秀でるという文武両道の人物であった。

角界入りした雷電は出雲国(雲州)松江松平家のお抱え力士となり、雲州にちなんだ雷電の四股名を名乗るようになる。

通算254勝10敗という驚異的な成績からもその強さはわかるが、「余りに強すぎるので突っ張りや閂といった得意技を封印させられた」という伝説(史実ではないようである)の存在が力士としてのカリスマ性に拍車を掛けている。

にも関わらず横綱にはなっていないという事実が雷電のミステリーとして人々の興味を惹くのだが、これはただ単に当時の横綱は名誉職的なものであり、通常の最強の位が大関だったというだけのことのようである。横綱は大老のようなもの、大関が老中のようなものと考えれば良いだろうか。

晩年がこれまたよく分かっていないということが雷電という人物をより魅力的にさせてもいるのだが、一応、私の出身地に近い千葉県佐倉市には「晩年の雷電はここで過ごした」という伝説が残っている。

そんな雷電為右衛門の墓は実は都心にある。東京都港区赤坂の報土寺の境内にである。

これが報土寺にある雷電夫婦の墓石
報土寺 雷電為右衛門の墓

生前の雷電と付き合いのあった報土寺に特別に墓石が建てられたといわれている。


また、江東区の富岡八幡宮(残念が事件があったが)の横綱力士碑には雷電為右衛門が「無類力士」の称号と共に横綱相当の力士として顕彰されている。
雷電為右衛門の銘


これはおまけになるが、YMO(イエローマジックオーケストラ)の「雷電(RYDEEN)」は、雷電為右衛門をイメージして作られた楽曲とされている(本当かどうかはわからない。元は高橋幸宏の鼻歌から生まれた曲である)。
 

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2018年2月 6日 (火)

「港が見える丘」は何を語るのか

※ この記事は2018年1月4日に書かれたものです。


1919年(大正8)1月4日、歌手の平野愛子が生まれました。

平野愛子の大ヒット曲として知られているのが、「港が見える丘」です。横浜市に港の見える丘公園がありますが、この公園は「港が見える丘」という歌にインスパイアされて造設されたものです。それほどの影響力があった曲です。

発表後50年が経過していますので、歌詞を載せておきます。

横浜の海(5) 港の見える丘
横浜 港の見える丘公園から見た横浜港の風景



「港が見える丘」 作詞・作曲:東辰三

あなたと二人で来た丘は
港が見える丘
色あせた桜 唯一つ
淋しく咲いていた
船の汽笛 咽(むせ)び泣けば
チラリホラリと花片(はなびら)
あなたと私に降りかかる
春の午後でした

あなたと別れたあの夜は
港が暗い夜
青白い灯り 唯一つ
桜を照らしてた
船の汽笛 消えて行けば
チラリチラリと花片
涙の雫できらめいた
霧の夜でした

あなたを想うて来る丘は
港が見える丘
葉桜をソヨロ訪れる
しお風 浜の風
船の汽笛 遠く聞いて
ウツラトロリと見る夢
あなたの口許 あの笑顔
淡き夢でした


出会いと別れを描いた恋愛の王道曲ですね。ただ、この二人がなぜ別れたのかに思いを馳せると別の側面が浮かび上がります。

「港が見える丘」が発表されたのは、1947年(昭和22)。終戦後2年目のことでした。このことを考えれば、戦争が影響を与えているのはむしろ当然のことのように思われます。

このカップルの男性の方は、実は戦争に行ったのではないでしょうか。そして女性の方が、今も男のことを思っているということは、不可抗力の別れがあったことを暗示しているように思えます。つまり男性は、海外の戦地で戦死したのではないかという想像が出来ます。男性はこの港から船で戦地へと赴き、港に戻ってくることはなかった。そう考えれば、極めて悲劇的な楽曲と捉えることが可能です。というより1947年当時の人々はそう受け取ったのではないでしょうか。

桜というのは日本を象徴する花であり、咲いたと思ったらすぐに散る花です。戦地に散ったあの人を想うのに相応しい花のような気もします。

港が見える丘に佇む女性の姿は、あたかも映画「慕情」(封切りは「港が見える丘」よりも遅い1955年ですが)のラストシーンを想起させるものがあります。


戦争の悲劇を歌った曲だと思って聴けば、また別の感興が起こる曲です。


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2018年2月 4日 (日)

京都の東照宮

※ この記事は2017年12月26日に書かれたものです。
 

天文11年12月26日(1543年1月31日)、三河国岡崎に後の天下人、徳川家康が生まれました。

家康は、伏見城を事実上の居城とした時期もあり、京都にも多くの足跡を残しています。

ただ一つ一つ辿っていくと膨大な時間を費やすことになりますので、今回は家康が死後に東照大権現の神号を贈られて成立した東照宮を二つ紹介することにします。

京都市内にある最も有名な東照宮は、南禅寺の塔頭、金地院にある金地院東照宮です。

金地院東照宮2017正月

金地院は、家康のブレーンで「黒衣の宰相」といわれた以心崇伝(金地院崇伝)の寺です。

金地院の東照宮は、家康の遺言によって建てられたものであり、創建当初は日光東照宮(家光が建てた現在のものよりは幾分地味だったと思われる)と比べられたと伝わります。

今も東照宮には楼門が残っていますが、現在は楼門をくぐって参拝することは出来ず、参拝するには必ず金地院の入り口から拝観料を払って入る必要があります。

経年により、今では往時の絢爛さは失われてしまっていますが、横から見るとはっきりとそれとわかる権現造の社殿は京都唯一のものであり貴重です。

拝観料は400円。金地院には他にも小堀遠州作庭の鶴亀の庭(特別名勝)、伏見城からの移築と伝わる本殿、崇伝の像がある開山堂など見どころは多くあります。

 

洛北一乗寺にあるのが、臨済宗圓光寺の東照宮。歩いて20分ぐらいの場所に真宗大谷派の圓光寺のもあるので注意が必要です。

臨済宗圓光寺 新しくなった東照宮

こちらの東照宮は実は出来たばかりです。以前は徳川家康公墓所のある山の麓に地味な感じの東照宮がありましたが、2017年の春に、家康公の墓所の隣に小さいながらも白木の立派な東照宮が建立されました。

臨済宗圓光寺の開基が実は徳川家康公。慶長6年(1601)に家康が下野国足利学校から三要元佶を開山に迎えて伏見に建てた圓光寺寺院および学校が源流です。圓光寺はその後、相国寺の山内を経て、寛文7年(1667年)に現在の地に移っています。一乗寺付近には茶屋四郎次郎の山荘、石川丈山の山荘(現在の詩仙堂)などもあり、大坂の陣で豊臣方主戦派となった一乗寺渡辺氏(渡辺綱の子孫)の監視強化の意味もあったのかも知れません。

臨済宗圓光寺は京都市内屈指の紅葉の名所であり、また水琴窟があることでも有名です。拝観料は500円とちょっとお高めですが、墓所には「花の生涯」で有名になった女隠密・村山たか女の墓があるなど、こちらも見ごたえ十分の寺院です。

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2018年1月30日 (火)

元禄15年12月14日夜 江戸・両国 本所松坂町で起こった出来事 またそれに至るまでとそれから

※ この記事は2017年12月14日に書かれたものです。

 

播州・赤穂浪士討ち入り 本所・吉良邸跡 本所松坂町公園

元禄15年12月14日(1703年1月30日)赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りを果たす。

そもそもの発端は、播州赤穂浅野家の当主である浅野内匠頭長矩が、江戸城本丸松の廊下で、高家肝煎・吉良上野介義央(よしひさ)に突然斬りつけた事件である。四十七士が吉良邸に討ち入る前年、元禄14年3月14日のことである。

なぜ浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったのかについては諸説ある。吉良上野介は幕府と朝廷の間を取り持つ高家筆頭であり、江戸城を訪れる勅使接待の指南役であった。複数の大名が勅使を接待するための礼儀作法を吉良上野介から伝授される。浅野内匠頭も当然ながら吉良上野介の教えを乞うたわけだが、実は浅野内匠頭は以前にも勅使接待役を仰せつかっており、元禄14年の勅使接待は自身二度目のものであった。この元禄14年の初頭に吉良上野介は年始の挨拶と朝廷との折衝のために京都に赴いている。なんのための折衝かというと、時の将軍・徳川綱吉が母親である桂昌院に従一位の位階を贈りたいと切望しており、吉良が朝廷に働きかけていたのである。ということで、吉良はこの時は浅野内匠頭らに教える時間が十分に取れないという事情があった。勅使接待は複数の大名が行うが、この時は浅野内匠頭が吉良の補佐役であった。このため、儀礼を授かった経験のある浅野内匠頭が吉良のいぬ間に勝手に他の大名に指示を出していた可能性が指摘されている。

浅野内匠頭と吉良上野介にはそもそも因縁があった。徳川吉宗が町火消を創設するまでは、江戸の火事には大名火消といって、火事の延焼を防ぐ役割を大名家が交代で受け持っていたのだが、元禄11年9月、江戸で大火があり、吉良上野介の鍛治屋橋の屋敷も延焼を防ぐために取り壊された。この時の大名火消を担っていたのが実は浅野内匠頭だったのである。この時に吉良が浅野に恨みを持ったのかどうかはわからない。「火事と喧嘩は江戸の華」であり、十分な消火装置のなかった時代にあっては建物を壊されるのは当たり前であるため、いちいち気に留めなかったかも知れない。ただこのことがその後に全く影響しなかったのかどうかも不明なのである。

ちなみに、赤穂浪士が吉良邸に討ち入る時には、大名火消を表すだんだらの羽織で固めているというイメージがあるが、これは「仮名手本忠臣蔵」などで生まれたフィクションであり、事実ではない。

ともあれ、互いにあるいは片方に遺恨があったのか、松の廊下で刃傷事件が起こる。将軍・綱吉にとっては母親に従一位を贈れるかどうか重要な接待の場。それを血で汚されたのであるから、綱吉の怒りが尋常でなかったのもうなずける。

もっとも、殿中で刃傷に及べば切腹なのは当たり前であり、「両成敗」の原則が当てはまるのはどうかも微妙である。ただ浅野内匠頭は十分な取り調べも受けずに即日切腹となった。このことが赤穂浪士の怒りを買いその後の討ち入りを招いたことは確かだと思われる。

さて、ここで吉良家と浅野家の由緒について書いてみたいと思う。

吉良家は高家筆頭であり、足利源氏の血を引く名門である。石高こそ低かったものの、自家よりも格の高い吉良家は徳川将軍家にとって面白くない存在でもあった。

浅野家は、豊臣秀吉の正室である高台院(北政所)が養女に入った家であり、本家は安芸広島42万石の大藩である。豊臣恩顧の大名が次々と改易される中で浅野家だけが命脈を保っていた。赤穂浅野家はその広島浅野家の分家である。そして一族の誰かが問題を起こしたら本家にも類が及ぶ。そういう時代である。

徳川将軍家にとって松の廊下事件は、目障りな吉良・浅野の両家を取り潰す機会でもあったわけである。

しかし、徳川家も吉良上野介には簡単に手出しできない状況があった。吉良上野介の長男・三之助が、米沢・上杉氏の養子に入り、藩主・上杉綱憲となっていたのである。吉良に処分を下すと上杉からの反発があるのは目に見えており、吉良がお咎めなしとなった理由の一つとして出羽国主・上杉氏の存在があったのかも知れない。

さて、当主を失い、浪士となった赤穂の侍たちであるが、当初の目標は吉良への復讐ではなく、長矩の弟、浅野大学長広を次期藩主としてお家の再興であった。しかし、赤穂浅野家の再興は許されず、浅野大学は永蟄居処分。赤穂城にいた浪士たちは芸州広島の浅野本家から大人しく開城するよう命じられ、これに応じている。この頃から巷間でも赤穂の浪士たちが吉良に復讐するのではないかという噂が立つようになった。

吉良邸に討ち入りがあるとしたらリーダーとなるのは当然ながら家老の大石内蔵助良雄をおいて他にない。しかし大石はといえば、京の東にある山科に閑居し(現在、大石の山科邸の後に大石神社が建っている)伏見の橦木町遊郭への出入りを繰り返しており、家老時のあだ名である「昼行燈」そのものの行動を見せる。もっともそれは見せかけだけで、橦木町遊郭では吉良邸討ち入りのための密議が行われていた。ただ大石はなかなか旗幟を鮮明にしない。そうこうしているうちに江戸の堀部安兵衛らが自分達で行動を起こそうとしてるという情報を入る。ちなみに、大石内蔵助が祇園の一力で遊んだという話が広まっているが、一力で遊んだのは「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助で、大石が一力に出入りしたという事実はない。

江戸でも動きがある。吉良上野介が呉服橋から本所松坂町への屋敷替えを命じられたのである。呉服橋は町中の大名屋敷街であったが、本所松坂町は隅田川の東、当時はまだ下総国である新興住宅地。江戸最大の歓楽街である両国がすぐそばに出来るのはまだ先の話である。江戸の渦郭式町並の外でもあり、討ち入ろうと思えばいつでも討ち入れるような守備の手薄な場所でもあったわけである。このことについて、幕府が赤穂浪士に吉良を討たせるよう仕向けたという説も存在する。

討ち入り決行のための環境は整っていた。

元禄15年12月14日は、浅野内匠頭の祥月命日であった。吉良は屋敷を空けることも多く、首を挙げるには吉良が確実に在宅している日を狙う必要がある。この日、吉良邸で吉良も出席する茶会が開かれることを赤穂浪士たちはつかんでおり、吉良上野介が屋敷にいることは明白であった。なお、残念ながらこの日は雪ではない。雪が降っているのは芝居の中だけの話である。

さて、ここからは有名な討ち入りの話となるのだが、「忠臣蔵」が日本を代表する敵討ちの話として人気があり、赤穂浪士たちが忠臣の鑑として褒めたたえられるのもある意味当然といえる。討ち入りがあったその日から、隅田川界隈では町人たちが吉良の首を掲げて泉岳寺へと向かう浪士たちに喝采を送り、握手やサインまで求めたという話が残っており、明治に入ってからも泉岳寺には「忠臣蔵」大好きの川上音二郎が毎月墓参に訪れていたりする。討ち入りの直後から今日に至るまで赤穂義士はずっと人気なのだ。

なのであるが、この「忠臣蔵」、本当に美談なのだろか? 客観的に見れば、一人の老人を四十七人の大の男が追い詰めて殺す話であり、陰険な印象まで受ける。

本所松坂町には現在、小さな公園が出来ており、吉良上野介義央の像が建っており、この像を見て吉良をしのぶ人も少なくないように思う。「悪人吉良を正義の赤穂浪士たちが討ち果たす」果たしてそんな筋書きだけで良いのだろうか?

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園内 吉良上野介義央公像

赤穂浪士には討ち入る大義があるように思われる。主君を自害に追い込まれ、お家の再興もならない。「ならば吉良邸に討ち入って華々しく散ろう」。これが巷間流布されている討ち入りの大義である。しかし、実は浪士たちは自分達全員が切腹処分になると覚悟していた節はどうやらないようなのである。仇の首を取って潔く散るためでなく吉良邸に討ち入った理由が浮上する。浪士になってしまったからには再就職を果たしたいという現実的で切実な理由である。本所松坂町での出来事は再就職のためのデモストレーションだったという説もある。忠義のために行ってはいたであろうが、「忠臣ぶりを発揮して他家に取り立てて貰おう」という計算をしていた浪士が一人もいなかったというのは美談に過ぎるようにも思われる。

討ち入りに至るまでには様々な要素が入り混じっている。将軍・綱吉は母親への従一位贈位に腐心しており、朝廷からの勅使の前でいいところを見せておきたかったのだが、それに冷水を浴び去るような出来事が起こった。そのために浅野内匠頭は即日切腹となるもこれが遺恨となった。刃傷沙汰の理由はわからないものの、吉良上野介は幕府から目を付けられる出自を持っていた。赤穂浅野家再興はならず、お取りつぶしが決まったが広島の浅野本家を守るために抵抗は出来ず、最早やることといえば吉良邸の討ち入りしか見いだせなくなった。幕府も吉良に直接処分を下せば米沢上杉家の離反を招くかも知れないが、赤穂浪士に討ち入らせたなら自らは手を下すことなく目の上のたんこぶである吉良家を取り潰すことが出来る。

歴史というものは一人の作者によって書かれるものではない。トルストイが『戦争と平和』で繰り返し書いたように巨大な流れがあり、人一人はその流れの中の一要素に過ぎないのである。しかし様々な要素がまじりあった結果、一つのストーリーようなものが出来上がる。最も有名なのが「忠臣蔵」として知られるストーリーである。しかしそこには綱吉の姿も、桂昌院への従一位贈与問題も、上杉家の事情も見えない。諸要素が取り除かれて、「悪を正義の士たちが討つ」というわかりやすい話に仕立てられている。あるいはあったかも知れない徳川の陰謀は美談の後ろに消えてしまっているのである。また浪士の志が一つだったとすることで個々の事情なども見えなくなってしまっている。本当は忠義よりも大切なものがあったかも知れないのに。浪士が全員切腹させられたことで小さなストーリーはこの世に証拠すら残すことなく消え去ってしまった。

勧善懲悪のストーリーに、人々は歓呼の声を挙げる。そこにあったかもしれないもう一つの、あるいは複数の物語に思いをはせることなく。

元禄15年12月14日夜、本所松坂町で起こったのは、一人の老人を四十七人の浪士が襲い、首を挙げたということである。悪や正義がどちらにあったのか、あるいはどちらにもあったのかなかったのか。そのことは歴史に準備されたことをなぞっただけだったのかあるいは個人の意思によるものだったのか。彼らが本当に望んでいたことがその他にあったのか。小さな団体が巨大な組織の手のひらで転がされただけなのかあるいは風向きを変えることに成功したのか。

 

その後、四十七士は名誉の切腹となり、吉良上野介義央の孫である義周は事件の責任を取らされて改易処分となった。桂昌院は無事に従一位を賜り、将軍・徳川綱吉は討ち入り事件の6年後に死去。浅野内匠頭の処分に深く関与していたといわれる柳沢吉保は順当に出世し、広島浅野家は英雄となった大石内蔵助の息子・大三郎を家臣として召し抱え、重用した。

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