カテゴリー「歴史」の41件の記事

2017年4月29日 (土)

史の流れに(3) 京都文化博物館 「戦国時代展」

2017年4月11日 京都文化博物館にて

三条高倉にある京都文化博物館へ。
    
京都文化博物館で現在行われているのは、「戦国時代展」。文書、日記、刀剣、鎧、絵図、屏風絵、肖像画などが展示されている。

まずは江戸城主であり、歌人としても知られる太田道灌の書状から展示は始まる。

足利将軍家が細川氏と六角氏に命令をしたことがわかる文書が展示されているのだが、本文には「六角」ではなく、「佐々木」と記されており、苗字ではなく氏(本姓)が用いられていたことがわかる(六角氏は佐々木源氏の流れである)。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人三人の発した文も展示されている。

昨年の大河ドラマは「真田丸」だったということで、真田氏の六文銭の旗や真田昌幸が使ったといわれる法螺貝などが展示されているほか、真田家の城として有名になった岩櫃城の絵図(珍しいことに立体図になっている)などもある。

城の図は他に、小谷城、吉田郡山城、そして大内氏の城下町である山口と後北条氏の城下町である小田原の絵図もある。

剣豪将軍としても知られる足利義輝の肖像画も展示されている。桐の紋が入った短刀を差しているのが確認出来た。

武田信玄の肖像画もあり、よく見かけるものとは異なるのだが、信玄の弟の筆によるものだそうである。こちらの肖像画の信玄は容姿は余りパッとしない。

武田信玄と上杉謙信が戦った川中島合戦図屏風も複数ある。いずれの絵でも穴山梅雪は目立っている。


小田原北条氏(後北条氏、北条氏)五代の肖像もある。後北条氏の初代である北条早雲(伊勢新九郎守時。早雲本人は北条を名乗ったことはないそうだ)は、伊勢氏の出だが、この伊勢氏は足利将軍の政所執事であった伊勢氏の流れであることが有力視されるようになっており、そうだとすると相当な名門の出ということになる。


上杉家文書が展示されているのも興味深く、上杉輝虎、武田晴信(信玄)、今川氏真、北条氏康・氏政連署、伊達輝宗、佐竹義重などの筆跡を知ることも出来る。


私自身が、「ひょっとしたらこの人が戦国最強なのではないか」とも思っている尼子経久の肖像画を見ることが出来たのも嬉しかった。

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2017年2月24日 (金)

史の流れに(2) 「大関ヶ原展」

2015年7月5日 京都文化博物館にて

三条高倉にある京都文化博物館で「大関ヶ原展」を観る。徳川家康公没後400年を記念した特別展示である。「大関ヶ原展」はまず東京都江戸東京博物館で春から行われ、夏には京都で、更には秋に福岡市博物館で展示が行われる。

1600年に起こった関ヶ原の戦いと、その前哨戦にまつわる史料や絵画、武具や鎧が展示されている。

関ヶ原の戦いを描いた絵巻物や合戦図屏風は複数ある。基本的に関ヶ原の戦いからかなりの年月が経ってから描かれたものなので、正確性は微妙と言わざるを得ないのだが、画としては面白く、絵巻物は関ヶ原の戦いに至るまでの過程がわかりやすくなっている。ちなみに、赤色の鎧を着た「赤備え」は甲斐武田氏に始まり、甲斐武田氏本流滅亡後は、武田氏を織田信長と組んで滅ぼした徳川家康の家臣で徳川四天王の一人、井伊直政に受け継がれたということが知られている。今年(2015年)は大阪の陣400年の記念年でもあるが、豊臣方についた真田信繁(幸村)も武田の遺臣ということで赤備えを用いている。
だが、徳川四天王の一人である榊原康政も赤い鎧を着ていたようで、赤い鎧を着ること自体は決して珍しいものではなかったようだ。石田方に付くも東軍に寝返った脇坂安治(京都市伏見区の中書島の語源を生んだ人)も赤い旗を使っており、鎧も赤だった可能性は高い。

石田三成というと、「大一大万大吉」という言葉が紋として知られているが、あれは正式には家紋ではない。石田三成の家紋は実は不明である。寺の小僧から出世した身であり、元々家紋を持っていなかったのかも知れない。ただ、秀吉から家紋は授かったはずであり、家紋は間違いなくあったはずだが、逆臣であったためか記録には残っていない。

家康を怒らせたという直江兼続の通称「直江状」も展示されている。織豊時代の文字は幕末の頃の文字よりも更に崩れており、専門家でないと解読不可能と断言できるほどのものである。他の文書には専門家でも文字が解読出来ず、□(四角形)で飛ばされているものも存在する。

石田三成を始めとする五奉行の内4人(長束正家、増田長盛、前田玄以)は全員、家康の奢った態度に怒りを覚えていたようで、特に「内府ちがいの条々」(内府とは内大臣のことで、当時、内大臣の地位にあった徳川家康を指す)では、豊臣氏への挑発行為を咎めた罪奸状となっている。おそらく一番頭に来たのは、家康が大坂城の西の丸に、秀吉が本丸に建てた天守と同規模の天守を建て、西の丸を本拠地として城主のように振る舞ったことだと思われる。また、秀吉が築いた名城・伏見城を勝手に居城としていることも面白くなかったようだ。

家康の罪奸状を発した三成らは、諸大名に文を送っている。そして、大坂城下の屋敷で過ごしてた大名の妻子を大坂城内へと入れて人質に取る作戦に出る。ただ、明智光秀の娘で、玉こと細川ガラシャ夫人はこれを拒否して死を選ぶ。細川ガラシャが信じていたキリスト教では自殺は罪とされているため(仏教や神道では必ずしも自殺が罪になるとは限らないため、日本では自殺の美徳が生まれた)、家来に命じて胸を槍で貫かせ、一応は他殺という形で死を遂げている。文字に「細川」の文字が見られ、胸を突かせて亡くなるところが描かれているのが細川ガラシャ夫人であると思われるのだが、案内には何も書かれていない。

織豊時代においては、お家全てが取りつぶされることのないよう、親子や兄弟で敵同士となることも多かった。負けた側についていた者は死亡するが、勝った側にも血を分けた者がいれば家自体は存続する。徳川秀忠を信濃・上田で足止めにした真田昌幸とその子・信繁(幸村の名で知られる。真田家の当代の子孫の方によると「名前は信繁。幸村は大坂入城後に名乗った」としているようで、大坂入城後に信繁自身が名を変えたのか、後世の創作によって幸村という名前が生まれたのかまでは把握出来ていないとのことである)は西軍に付いたが、信繁の兄である信之(信幸)は東軍に味方している。
吉川広家が寝返ったのも「西軍が戦に敗れても自分が東軍に味方しておけば、西軍の総大将である毛利輝元は助かるだろう」という計算があったためである。石田三成と徳川家康の大将として器を比べれば、地形的に有利であっても西軍が不利であることはわかったはずである。

石田三成は丹後田辺城にいる細川藤孝(幽斎)に味方に付くよう迫るのだが、幽斎は言うことを聞かず、田辺城での籠城戦を始めてしまったため西軍の1万5000人の兵が釘付けとなってしまい、関ヶ原での西軍の数が足りないという結果を招来する。本来は西軍の総大将になるはずだった毛利輝元は「大坂城内に裏切り者がいる」という情報を受け、真偽は定かではないものの大坂城を離れられなくなってしまう(史料には裏切り者として片桐且元らの名前が挙がっている。片桐且元は豊臣家の重臣として大坂冬の陣までは豊臣に忠義を尽くしたが、冬の陣の和睦工作の際に淀殿から「裏切り者」呼ばわりされて城を追い出され、夏の陣では逆に徳川方として大坂城を攻めている)。そこで兵だけ送ろうとしたのだが、今度はそれまで中立の立場を取っていた大津城主の京極高次が突然、徳川方に付き、大津城攻めで足止めをくらい、西軍は関ヶ原で戦う兵士を減らした。一方、東軍も有名な徳川秀忠の遅参などがあり、顔が揃ったというわけでもなかった(現在では秀忠の役目は専ら上田城攻略であり、遅参というわけではなかったという説が有力になっている)。

西軍が東征。まず家康の居城である伏見城を攻める。指月に造られた伏見城は隠居所の居館であったが、慶長の大地震で倒壊後、秀吉は少し離れた木幡山に難攻不落の新たな伏見城を築城する。伏見城の縄張り図も展示されているが、本当にこの通りなのかどうかはわかっていない。ただ東からも西からも攻めにくく、北は東山連峰が連なっているので、攻めるのに時間が掛かる。南方に広がるのは巨椋池であるが、伏見城の大手は南にあり、巨椋池に土橋として掛けられた太閤堤と呼ばれる狭い道を進むしかない。太閤堤の幅はかなり狭かったようであり、進軍中に伏見城の支城である向島城から鉄砲で狙い打ちされたらひとたまりもない。流石は築城の名手・豊臣秀吉の最高傑作である。
結果、西軍は、伏見城に留守居役として残された鳥居元忠の1800騎に対して4万の兵で挑みかかるが、落城まで10日以上を費やし、その間に徳川方に西に戻る余裕を与えてしまう。伏見城の堅固さは三成も熟知していたはずであるが、攻め落とすのにどれほどの時間が掛かるのか計算しきれていなかったようである。三成はあくまで有能な官僚であり、武人ではない。優れた武人だったら伏見城の戦いの最中か終わった後で、「何かおかしいのではないか」と思うはずだが、残念ながら三成は見抜けなかったようである。

大津城の絵図面もある。これも正確なのかどうかわからない。大津城は捕らえられた石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の三人が徳川方の武将と対面した場所であるが、その後に廃城となっている。現在の京阪浜大津駅付近に大津城はあったのだが、その北の埋め立て地に現在の大津港があることからもわかるように、琵琶湖を利用した湖上交通の要衝にあり、物資の輸送など経済的な理由で建てられた城であるため、元々戦には向いていなかったのだが、城内が西の長等山からの砲撃射程距離にあったことで、実戦に耐え得ないとして廃された。代わりに近江国内には膳所城と彦根城という二つの名城が築かれた(日本一美しい城といわれた膳所城は明治維新により廃城)。

関ヶ原の戦いというのは妙な戦であり、どちらも敵軍の大将が憎いという理由で味方になった武将が多い。そして、西軍には島津義弘などもいたが、島津義弘は最初は東軍に付いて、鳥居元忠と共に伏見城を守る予定であったが、連絡不行き届き(ということになっている)で鳥居元忠から入城を拒否されたため、成り行きで西軍に付いており、戦意は低かった。西軍の中で本当に戦意があったのは石田三成と島左近を始めとするその家来、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継ぐらいであり、他の武将は積極的に戦おうとはしなかった。大谷吉継は松尾山の下にいたが、本来なら宇喜多秀家の横に並んで福島正則らと戦っているはずの武将が松尾山の下にいて小競り合いをしている。つまり、石田三成も大谷吉継も松尾山山頂という一等地に陣取った小早川秀秋はすでに東軍に寝返っている可能性が高いと気付いており、大谷吉継は三成から「小早川が攻めてきたら防いでくれ」と頼まれていたのであろう。

関ヶ原の戦いの様子をCGで再現された映像があり、島津義弘が一人取り残されて強引に中央突破を図り、成功させたということになっている。ただ、東軍は総大将である徳川家康も含めてどんどん西に進み、最後は笹尾山の三成を追い詰めるために北上している。つまり、正面突破とはいえ、家康もすでに北に向かってしまった戦終盤では島津義弘の前にいた敵は思ったよりも少なかったと思える。本多忠勝も普通に考えれば北上して徳川家康の背後を突かれないような布陣に変えていたはずで、現実的に考えると島津軍が最も生き残りやすいのが敵軍手薄な関ヶ原の南側を正面突破することだったとも思われる。勿論、側面から本多忠勝らの攻撃を受けるとあやうく、実際に多くの将兵が討ち死にしたが、島津義弘が一番南に来るような編成で駆け抜ければ主君である島津義弘の命が助かる可能性は高い。

戦場に総大将である自分が行けないまま敗れた毛利輝元。当初は改易のはずであったが、吉川広家が「自分に与えられる長門国と周防国を毛利家に与え、自身は岩国で分家となりたい」という願いが聞き入れられ、中国地方一帯を領地とする112万石の大大名から、防長二州37万石の中大名への格下げとされ、居城も山陰の僻地である萩にしか認められなかったが毛利氏は存続した。

そんな毛利氏関連の展示であるが、二種類の旗が目を引く。一つは五七桐の入った旗、もう一つは「一文字三つ星」の毛利氏の家紋の上に「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」という二つの文字が縦に入った旗である。

展示数には満足であったが、関ヶ原の戦いに関しては実際に関ヶ原に行ってみないとわからないこともある。私も4年前に実際に関ヶ原に行って、レンタサイクルで回るまでは、関ヶ原がかなりの急勾配であることを知らなかった。西から東の下りは一度もペダルを踏むことなく目的地に着けてしまい、東から西の上りは急すぎてペダルを漕ぐことが出来ず、仕方なく降りて自転車を押しながら歩いたりもした。実はこの急勾配こそが家康が三成を関ヶ原におびき出す罠だったのかも知れない。三成も「関ヶ原なら西に陣した者が圧倒的に有利」と思っただろう。家康が野戦を得意としていることは当然知っていたと思われるが、地の利が逆に三成に油断を与えてしまったようである。

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2017年2月12日 (日)

これまでに観た映画より(85) 「戦場のピアニスト」

DVDで、ロマン・ポランスキー監督作品「戦場のピアニスト」を観る。フランス、ポーランド、ドイツ、イギリス合作映画。

実在のピアニストであるウラディスワフ・シュピルマンの戦中体験記を映画化した作品である。

1939年9月のワルシャワ。9月1日に、ナチス・ドイツはポーランドに何の布告もなく進軍する。
ウラディクという愛称で呼ばれていたユダヤ系ポーランド人ピアニストのウラディスワフ・シュピルマン(エイドリアン・ブロディ)はワルシャワの放送局で、ショパンの夜想曲第20番嬰ハ短調(遺作)を弾いていた。ラジオによる生中継である。しかし、演奏中に放送局はドイツ軍によって砲撃され、ウラディクも放送局から逃げ出さざるを得なくなる。
その時、ウラディクは、自分のファンだというドロタという若い女性(エミリア・フォックス)と出会う。ドロタはウラディクの友人であるユーレクの妹であった。ドロタは音大でチェロを学び、チェリストになりたいという夢を持っている。

ポーランド人もナチスに協力的であり、ウラディクがドロタと一緒に行った喫茶店には「ユダヤ人お断り」と書かれていた。ユダヤ人は公園に入ることが出来ず、ベンチに腰掛けることも出来ない。

状況は日増しに厳しくなる。ユダヤ人は所持できる金を制限され、ダビデの星のついた腕章をつけることを強要され、ついには居住区に強制移住させられる。居住区と他の地域は煉瓦の壁で仕切られ、ゲットーとなった。
ウラディク達が強制収容所に送られる日が来る。友人でユダヤ人警察の署長となったヘラー(ロイ・スマイルズ)によって、ウラディクはワルシャワに残ることが出来たが、家族は貨物車に詰め込まれ、死出の旅へと出かけていった。

ワルシャワでの強制労働生活を送るウラディク。だが、密かに拳銃などの武器を仕入れ、まだゲットーに潜んでいるユダヤ人達にドイツ兵に見つからないよう投げ送る。

労働している時に、知り合いの歌手・ヤニナ(ルース・プラット)と俳優のアンジェイ(ロナン・ヴィバート)の親切なポーランド人夫婦を見かけたウラディクは脱走し、彼らを頼ることになる。しかし、状況は更に悪化。ウラディクは、ヤニナの夫・アンジェイが逃げ場所として教えてくれたある家を頼る。そこにいたのはドロタであった……。

ユダヤ人というだけで、人間の権利が取り上げられるという。凄惨な歴史を描いた映画である。ユダヤ人達は、ドイツ兵達に無作為に選ばれて意味なく射殺される。ウラディクも「大晦日のお祝いだ」としてドイツ兵に殴られる。ナチスの手下達に取っては、ユダヤ人は虫けら以下の存在なのだ。

酸鼻を極めるワルシャワで、音楽だけがウラディクの救いとなるのだが、「音を立てたら危ない」ということで、アップライトのピアノがある家にいるにも関わらず、鍵盤に触れることは出来ず、鍵盤の上でエアピアノを奏でるしかない。

ワルシャワ蜂起などにより廃墟と化していくワルシャワの街。
やがて、ピアノがウラディクを救う日が来るのだが……。

人種が違うというだけで、低劣な存在とみなすという行為は、残念ながら現在進行形で行われている。人種差別だけではなく、「異なる」というだけで、人は人を貶め、自己満足に浸ろうとする。
そこには決定的に想像力が欠如している。

ポーランドの国民的作曲家であるショパンの音楽がキーになっているが、ポーランドは中世には強国だったものの、以後は何度も侵略されており、ショパンもまた11月蜂起計画に荷担したという疑いがあり、二十歳の時にポーランドを離れ、ウィーンへ。そして父親の祖国であるフランスのパリにたどり着き、生涯、祖国であるポーランドに帰ることはなかった。
ショパンの悲しみはポーランドの悲しみであり、心そのものを描くことの出来る唯一の芸術である音楽が、この映画でも観る者の胸に痛いほどに染み込んでくる。

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2017年2月 9日 (木)

コンサートの記(272) 平成28年度全国共同制作プロジェクト プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」新演出

2017年1月26日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後6時30分から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、平成28年度全国共同制作プロジェクト プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」を観る。

「蝶々夫人」を観るのは今日で多分4回目。最も多く観ているオペラとなる。

考えてみれば、フェスティバルホールで本格的なオペラ上演を観るのは初めてである。井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団によるバルトークの歌劇「青ひげ公の城」は観ているが、あれはオーケストラも舞台に上がり、セットなしで行われた上演である(「青ひげ公の城」は抽象的な内容であり、セットなしでも上演が出来る)。


ミヒャエル・バルケ指揮大阪フィルハーモニー交響楽団による演奏。演出:笈田(おいだ)ヨシ。出演は、中島彰子(なかじま・あきこ。蝶々夫人)、鳥木弥生(スズキ)、ロレンツォ・デカーロ(ピンカートン)、サラ・マクドナルド(ケイト・ピンカートン)、牧川修一(ヤマドリ公爵)、清水那由太(しみず・なゆた。ボンゾ)、晴雅彦(はれ・まさひこ。ゴロー)ほか。ダンサー(蝶々夫人の分身):松本響子。合唱はフェスティバル・クワイア。

今月(1月)22日に、金沢で幕を開けた公演で、今日は大阪での上演。この後、高崎、東京で公演を行う。


文学座、劇団四季での活動後、ヨーロッパに渡って俳優・演出家として活躍してきた笈田ヨシによる新演出である。
笈田ヨシは、アメリカ海軍士官に捨てられた可哀想な蝶々さんではなく、より幅を拡げた解釈を行う。

3階席6席目での鑑賞だが、舞台に置かれたものを確認するため、オーケストラピットのそばまで行く。帰りに、上手から、スタッフに誘導されて笈田さんが入ってくるのが見えた。その後、笈田さんは、私の後に続く格好で、1階後方の出入り口からホワイエに出た(笈田さんの席は1階席の一番後方であるようだ)。笈田さんに気づいた人は余りいなかったが、数名が気づいて、話したり記念撮影をしたりしている。


素舞台の上に平台に作った小さな舞台が置かれている。ここが蝶々さんの居住空間となる。平台の上に衝立が真横に6枚。漢字で何か書かれているが、近くにいってもよくはわからなかった。
舞台手前には、上手から松の盆栽(第2幕では笹に変わっている)、赤い花2つ(第1幕で用いられる)、石のオブジェ(蝶々さんとピンカートンの二人のシーンで火がともる)が置かれている。

無料パンフレットに笈田ヨシの挨拶が載っており、「蝶々さんはアメリカの全てを尊敬し愛していました」と定義した後で、自身の体験を話す。進駐軍の兵隊さんからガムを貰うために「ハロー!ハロー!」と叫びながらジープを追った日々、アメリカ兵相手の娼婦(俗にいう「パンパン」)が綺麗な洋服を着てチョコレートを食べているのを見て羨ましく思ったこと、アメリカのものが優れていると思い、日本のものは古くさいといわれて軽蔑された時代など。
笈田は、蝶々さんが絶望して死んだ場所を「ナガサキで!」とカタカナで書き、長崎で被爆した自分の友人達も死んでいったと綴っている。


ゴローが大きめの星条旗を持って現れる。それに続くピンカートン。ゴローは星条旗を平台の上手に差し、アメリカ国歌「星条旗」のメロディーが流れると、星条旗をはためかせて見せる。今回の舞台ではゴローは完全に旗持ちならぬ太鼓持ちである。
ゴローは衝立を移して、蝶々さんとの新居を説明する。
ピンカートンの友人である、領事のシャープレスは、この舞台では、ピンカートンの身勝手さに最初から呆れ気味のようであり、ラストではピンカートンを本気でなじる。

蝶々さんが現れる。背後の紗幕が透け、合唱している人々が見える。蝶々さんは天平時代の貴女のような格好で下手からゆっくりと進んでくる。
蝶々の形の旗を持った人々が数名。そして、折り鶴をつり下げた飾りが現れる。

ちなみに、今回は蝶々さんのキリスト教への改宗を責めるボンゾは、僧侶ではなく山伏(修験者)の格好をしている。

蝶々さんが、武家の出ながら芸者に身をやつしたこと、また父親が亡くなったことを語るシーンで、紗幕の向こうに、薄浅葱の死装束姿の父親(川合ロン)の姿が現れ、父親が切腹したことが示される。

蝶々さんとシャープレス二人の場面では、合唱団のメンバーが灯籠を手に現れる。多くの灯籠が浮かぶシーンは、広島で行われる原爆死者追悼のためのとうろう流しが連想される。また、折り鶴も原爆被害の象徴だ。もう前大統領になるが、バラク・オバマも広島で折り鶴を作って被爆者に捧げている。


第2幕では、蝶々さんもスズキも、戦中そして戦後すぐを思わせる質素な格好の女性として登場する。今回は蝶々さんとケイト(ケイト役のサラ・マクドナルドが今回唯一のアメリカ人キャストである。女優として「花子とアン」にも出ていたというサラは大学時代に、演劇、日本文化、日本語の3つを専攻しているそうだ)が会話を交わす場面のある1904年ブレシア版の楽譜が用いられている。ケイトは「子供は自分が育てる」と蝶々さんに誓う。ある意味、象徴的なセリフである。

第2幕でも、蝶々さんの幼さが強調されており、「ある晴れた日に」は、蝶々さんのピンカートンへの思いと同時にアメリカへの盲信が歌われているようでもある。

紗幕が透け、芸者の頃の可憐な蝶々さんが現れる。それを追う、ボンゾ、ヤマドリ公爵ら。最後にピンカートンが姿を現す。

蝶々さんが、家を花で飾ろうと歌う場面では、合唱団員が着物姿で現れて花びらを撒いていくが、最後に黒子が黒いものを投げていく。焼かれた街に残った炭だろうか。

蝶々さんが新婚時の姿に着替えようというとことで、再び衝立が一直線に横に並ぶ。今度は裏側をこちらに向けて並べる。光を放つ紙が切り貼りされており、ステンドグラスのように見える。どうやら大浦天主堂を仄めかしているようだ(浦上天主堂かも知れないが、ステンドグラスの種類がちょっと違う。いずれにせよナガサキの象徴である)。黒ずくめの合唱団員が現れ、ステンドグラスのように光る衝立の前に並んで歌う(ハミング・コーラス)。彼らの正体は死者だと思われる。
死者達が去った後、間奏曲が流れ、蝶々さんの化身が現れて舞う。下手から上手へと歩みながら。可憐だが、大きく反り返る様などは痛みを表しているようにも見える。


ピンカートンに裏切られたことを知った蝶々さんは、第2幕では平台の下手に場所を移して掲げられていた星条旗を引き抜き、放り投げる。紗幕の後ろに再び蝶々さんの父親が姿を現し、蝶々さんの自殺が仄めかされて終わる(自刃そのもののシーンはない)。


1945年8月6日に広島に、同年8月9日に長崎にアメリカにより原子爆弾が投下された。一瞬の光の下での大量虐殺。自身が虐殺行ったという実感を終生を持たぬままアメリカのパイロットは他界した。そしてアメリカ人の多くは「原爆は正義であった」と今も思っている。日本の国土を蹂躙したアメリカに戦後従い、追わなければならなかった日本人の根源的な哀しみと無念がヒシヒシと感じられる。そして同時に感じるのは強い怒りだ。アメリカに倣うのはある意味では仕方なかった。しかし、今なお徹底した従米路線良しとする一団に憤りを覚えるのだ。

アメリカが描いた自由、民主主義、理想、正義。それらが真っ赤な嘘であったことは今では知られている。戦争をすることで儲けるアメリカ。平和を掲げる日本が最も戦争大国アメリカを支持している国家だという矛盾。


フェスティバルホール3階で聴いた音であるが、オーケストラは美しいが響きが薄く、声は良く通るが、やはり巨大な空間であるため、声があちこちに反響してガタガタ軋むようなところがある。視覚的にも余り良くない。字幕は、上手下手のプロセニアム沿いにあるのだが、下手の字幕は私が座った席からは薄くて見にくい。上手の字幕はステージ中央から遠く、演技と字幕両方を見るには視線を大きく動かす必要がある。上手の字幕もそれほど見やすくはない。蝶々の形の旗が登場した時は上手の字幕が隠される格好になってしまい、難儀した。
ということで、オペラに向いたホールという印象は受けなかった。道理でオペラ上演が思ったよりも少ないわけだ。
そもそも3階席、綿ぼこりが舞ってるし、これあかんやろ。


タイトルロールを歌った中島彰子であるが、声が澄んでいて心地よい。また、一芝居のシーンがあるのだが、声音を変えて上手く演じていたように思う。

スズキを歌った鳥木弥生。衣装がずっと地味なので目立たないような印象を受けるが、しっかりとした歌唱を聴かせてくれる。

ピンカートン役のロレンツォ・デカーロの堂々とした演技も見事だったが、シャープレスを演じたピーター・サヴィッジの演技力が極めて高く、それがこの公演の成功に大きく貢献している。

今回は太鼓持ちであるゴローを歌った晴雅彦は、持ち前の剽軽さも発揮していた。


ミヒャエル・バルケの指揮は、拍を刻むオーソドックスなもの。叙情的な部分も良かったが、「宮さん宮さん」などのリズミカルな旋律の処理の方が達者である。

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2017年1月30日 (月)

史の流れに(1) 特別展覧会「坂本龍馬」

2016年11月9日と11月16日 京都国立博物館平成知新館にて

11月9日

京都国立博物館平成知新館で、特別展覧会「坂本龍馬」を観る。没後150年展覧会であるが、没後150年となる2017年に展示が行われるのは、長崎歴史文化博物館、江戸東京博物館と徳川慶喜家のお膝元である静岡市美術館に於いてであり、京都国立博物館での展示は今月中に終わる。

      龍馬の愛刀として知られる陸奥守吉行(坂本家の子孫が北海道に移住し、釧路にいた際に火災に遭ったために磨き直されたものである。刃こぼれがあるが、近江屋事件の時のものか正確には不明であると思われる。なお、坂本家の子孫である坂本弥太郎という元プロ野球選手と同じ名前の人が陸奥守吉行について、西郷吉之助の刀を龍馬が貰ったものだとしている。ただ、龍馬は実兄である坂本権平直方に、西郷経由で家宝の吉行を受け取ってことが書かれているので、坂本弥太郎の誤解であると思われる)や、近江屋で龍馬と中岡慎太郎が襲撃された際に血が飛び散った板倉筑前介(のちの淡海槐堂。説明書きには「板倉槐堂」とあったが、「淡海槐堂」四文字で号なので正確には誤り)の筆による掛け軸(「梅椿図」掛け軸)、同じく猫の部分に血が付着した屏風、坂本龍馬の手紙や三吉慎蔵の日記、芹沢鴨光幹(みつもと)と近藤勇昌宜(まさよし)が鴻池屋に借金した際の証文、永倉新八による「浪士文久報国記事」(芹沢鴨は、「水戸天狗党の出身」と自称していたが永倉の記述には「天狗隊隊長」と記されている)、山内容堂が「松平容堂」「山内土佐守」として出てくる「大政奉還意見書」。海援隊雄魂録(犠牲になった志士の欄に、宮部鼎蔵、橋本左内、頼三樹三郎、吉田寅次郎(松陰)などの名がある)などが展示されている。手紙には漢字書き下し文が付いているものも多く、じっくり読んでいたため、全部見るの約2時間20分を要した。

      龍馬が授けられた北辰一刀流の長刀免許目録(伝・千葉貞吉筆)もある。免許皆伝目録も実在したことは確かなようである。
      土佐上士は神田お玉が池の千葉周作の千葉道場(玄武館)で、土佐下士は千葉周作の弟、千葉貞吉による桶町千葉道場で学んだとされるが、千葉貞吉が道場を開いたのは龍馬が初めて江戸に遊学した時よりも後であり、龍馬は最初は玄武館で剣術を学んだが、千葉周作が亡くなったために千葉貞吉に師を替えたというのが真相に近いようである。
      北辰一刀流の免許目録には、最初に千葉周作の先祖である千葉常胤(平常胤、千葉介常胤)の名が記されており、その後の周作の先祖の名前も連なっている。玄武館で龍馬と同門だった清河八郎(齋藤元司のちに齋藤正明。清河八郎は偽名である)の免許皆伝目録(伝・千葉周作筆)にも同様に千葉常胤以来の千葉氏当主の名前が記されている。

      平成知新館3階は坂本龍馬が創設した亀山社中の地、長崎・亀山で制作された亀山焼きの展示であり、坂本龍馬関連の本格的な展示が行われているのは2階と1階である。亀山焼きの中には、見た目は漆器(JAPAN)だが、実際は陶器(CHINA)という手の込んだものもある。

      長府藩出身で龍馬の用心棒を務めた三吉慎蔵の日記には、寺田屋を襲撃したのは「肥後守ノ上意」を受けた者達との記述があり、松平肥後守容保の命だったという認識があったようだ。当時の伏見奉行もややこしいことに肥後守(林肥後守忠交)だったのだが、三吉慎蔵がそのことを知っていた可能性は低いと思われる。

      龍馬の師である勝海舟関連の展示もあるが、勝海舟は氏は「物部」としていたようである。坂本龍馬のように氏を「紀」としている人も珍しいが、物部氏の人はもっと珍しい。海舟の日記によると文久二年十二月二十九日に千葉重太郎(諱は一胤。因幡鳥取藩剣術指南役)と共に坂本龍馬が会いに来たことが記されている。

      備後・鞆の浦付近で起こった「いろは丸事件」(大洲藩の船を海援隊が借り上げて、「いろは丸」と名付けた船舶に紀州の明光丸が追突、いろは丸が沈没した事件)に関しては、龍馬は紀州藩をなじる記述をしており、「二三回挨拶に来て、頭を下げられたがそれでは済まぬ」「(紀州の対応は)女のいゝぬけのよふ」と怒り心頭に発している。

      龍馬は署名に、「坂本龍馬」、「龍馬」、「坂本龍」、「龍」、「りよふ」、「才谷梅太郎」、「才谷」、「梅」、「坂本直陰」、「直陰」、「坂本直柔(なおなり)」、「直柔」、「大濱涛次郎」、「取巻の抜六」、「自然堂(じねんどう)」など様々な名を使い分けている。「才谷」は坂本家の本家筋の商家・才谷家から取ったものであり、「大濱」は龍馬の先祖が名乗った苗字である。「自然堂」は下関における土佐の定宿で本陣を運営していた豪商・伊藤助太夫(伊藤九三)家の一室から採った、龍馬の号である。

      坂本龍馬は、後藤象二郎のことを一貫して「後藤庄次郎」と記しているが、一通だけ、「藤藤庄次郎」と誤記した手紙がある。また新選組に関しては、近藤勇が龍馬と懇意にしていた永井玄蕃頭尚志と共に広島に行ったということを記した手紙の中で、近藤の名は出さすに「みぶ浪人」という記述を一回だけしている。

11月16日

再び、京都国立博物館で行われている特別展覧会「坂本龍馬」を観る。2度目なので、読み飛ばしたところもあるのだが、それでも必要な展示を見て回るのに、約2時間10分かかった。

      坂本龍馬の先祖についてだが、郷氏となり、坂本を名乗ったのは龍馬の曾祖父である坂本八平直海である。それ以前の記述には、山城国出身で戦火を免れて土佐の才谷村に移り住み、才谷村の字である大濱から大濱姓を名乗ったとある。才谷も大濱も地名なのだが、坂本という苗字がどこから来たのかは不明である。大濱を名乗ったのも偽名として大濱涛次郎を名乗った龍馬だけになっているが、先祖も坂本姓だったかのような細工が行われたためのようである。近江坂本に居城を構えた明智光秀の家臣・明智左馬助秀満(明智光秀の親族である可能性は低いそうだ)の流れというのも先祖の誰かが言い出したことで、まず関係ないとされる。

      展示で気になったのは、「べきである」とされている解釈のある、龍馬の手紙である。龍馬が姪の春猪に宛てた悪口満載の手紙なのであるが、男というのは年下の異性親族にこうした手紙は普通に書くと思われるのだが(逆に年下の異性親族宛以外には書かない内容である)。
      おどけた調子がわかり、字面だけ追ったのとは異なる内容であると思われる。

      武市半平太が、山本琢磨(のちの沢辺琢磨)が時計を盗んだとされる事件について書いた文章もあるのだが、皆、「山本覚馬じゃないのか」という反応である。実は山本琢磨は大河ドラマ「龍馬伝」に出てくるのだが、もう忘れられているようだ(山本琢磨は龍馬の従兄弟であり、のちに函館の聖ハリストス正教会司祭となった人物で、「龍馬伝」では、坂本龍馬が山本琢磨を逃がすシーンがあり、番組の最後の「龍馬紀行」では山本琢磨が紹介された)。

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2017年1月16日 (月)

コンサートの記(267) オリジナルオペラ「鑑真東渡」

2016年12月28日 ロームシアター京都メインホールにて

午後6時30分から、ロームシアター京都メインホールで、オリジナルオペラ「鑑真東渡」を観る。南京を本拠地とする江蘇省演芸集団有限公司による上演。
作曲:唐建平、演出(監督、導演):邢時苗、脚本:憑柏銘&憑必烈。程嘩(「嘩」は正確には「日偏に華」)指揮江蘇省演芸集団交響楽団による演奏。日本箏演奏:松村エリナ。
出演は、田浩江(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場所属)、駱洋、柯緑娃、劉雨東、殷桂蘭ほか。合唱:江蘇省演芸集団歌劇舞芸院合唱団。特別ゲスト:仁如法師(中国・大明寺監院)。
主催:日中友好協会ほか。協力:毎日新聞社ほか、後援:外務省、文化庁、中華人民共和国日本大使館、奈良市、奈良県、京都市。

日本に戒律を授けるため、何度も渡海に失敗しながら来日し、唐招提寺を建てて日本で亡くなった鑑真和上の物語である。



天平の世。日本に仏教が渡ってからすでに200年余りが経った。しかし、仏教はすでに乱れており、兵役を逃れるためや権力欲しさにエセ出家するものが後を絶たないという状態だった。仏教による鎮護国家成立にはきちんとした仏教の戒律が必要なのだが、当時の日本には正式な戒壇も戒律もない。そこで、唐の国の高僧を招くことに決める。その際、唐に渡って高僧を招くために尽力した日本の僧侶が栄叡(ようえい)と普照の二人なのだが、今回は栄叡一人に纏められている。

史実では、鑑真の弟子を招こうとするも、日本に渡ってもいいという高僧は一人もいなかったため、鑑真自らが渡ることを決めるのだが、その辺のことはややこしいので、まず鑑真が日本に渡るということは鑑真本人がすでに決めており、弟子達がそれに反対するという展開を取る。

まず、オーケストラピットの下手端に高僧の座る椅子が設けられており、ここに仁如法師が陣取って読経を行い、スタートする。
江蘇省演芸集団歌劇舞芸合唱団のメンバーは木魚を手にしており、その木魚の音で音楽が始まる。唐建平の音楽は調整音楽ではないものの、わかりやすい。新ウィーン学派の音楽、オペラということもあって、就中、アルバン・ベルクの音楽を東洋風にしたものというと通じやすいかも知れない。

今日は3階席の5列目(一番安い席)に陣取ったのだが、開始前にレセプショニストさんから、「もっと前の席に移って頂いても結構です」と言われる。実は3階席の前の方は招待客向けの席だったのだが、招待客がほぼ一人も来なかったという惨状のようだ。私の他にも前に行くよう勧められた人は二人いて、共に3階席の最前列に移ったのだが、私は「取り敢えず見にくかったり、音が悪かったりしたら移ろう」ということで保留。実際に見てみると、3階席の5列目でもよく見えたし、音の通りは素晴らしく、不満はなかった。ということで頑として動かず。思いっきり日本人してしまったぜ。
日本のクラシック界はブランド志向であるため、日本ゆかりの人物のオペラとはいえ、中国の現代作品を観ようという人は、よっぽどのオペラ好きか仏教好き、もの好きに限られる。ちなみに私は全てに該当する。

ロームシアター京都メインホールでオペラを観るのは二度目だが、ここはオペラを聴くには本当に適しているようで、歌手や合唱団の声、オーケストラの音色などがクッキリと聞こえる。オペラ劇場としての音響は最上級。まだ遠い方の席でしか聴いたことはないが、これまでにオペラを聴いたことのあるどのホールよりも音が良いと断言できる。それだけに使い勝手の悪さが残念でもある。
今日はサイド席(バルコニー席)はほとんど使われていなかった。

日本箏の松村エリナを除いて、オール・チャイニーズによる演奏(江蘇省演芸集団交響楽団のメンバーには白人も含まれているようである。また漢民族以外の名前も持つ人もいる)。
私が若い頃は、世界で最も有名なアジア人作曲家は武満徹であったが、武満の死からすでに20年が経過。現役のアジア人作曲家として最も有名なのは中国出身の譚盾であると思われる。中国作曲界のレベルは映画音楽を聴いてもわかる通りかなり高い。


鑑真の渡海の場面からオペラは始まる。上手、下手、奥に白くて細い布が何本も下がっていて、通過可能な壁のようになっており、これが効果的に用いられる。セットは中央に円形のものがあり、これが後に月になったりもするのだが、基本的にセットはシンプルである。細い布はキャットウォークからも何本も下りてくる。
荒れ狂う海(東シナ海であるが、中国人キャストに遠慮して「東中国海」という字幕表示になっている。その代わり、日本を指す差別語の「東夷」は別の表記が用いられている)。波は今にも鑑真らの乗る船を飲む混もうとする。しかし、仏の加護により、波は静まる(ただし日本には行けない)。時系列的には、栄叡が鑑真に渡海するようお願いする場面は、この渡海の後に出てくる。舞台は揚州の大明寺。日本からの留学僧・栄叡(駱洋)が、鑑真(田浩江)に扶桑(日本の別名)に渡り、律宗の戒律を伝えるよう頼む。鑑真の弟子の静空(劉雨東)、尼僧の静海(鑑真の弟子に尼僧はおらず、架空の人物である。柯緑娃)らは渡海は危険だとして鑑真を止めるが、鑑真は海を渡ることこそ最大の修行であり、日本に渡らなければ自分は成仏出来ないとして、渡海を決定する。鑑真は、鳩摩羅什や玄奘(三蔵法師として日本でも有名)の姿を己に照らし合わせていた。
しかし、鑑真の身内に密告者がおり、海賊と通じているとして鑑真一向は捕らえられてしまい、渡海は失敗。密告者は静海であることが発覚。静海は自殺して詫びようとするが、鑑真に仏の道を歩むことこそが贖罪と諭されて思いとどまる。

栄叡の独唱の場面では、舞台上手から着物を着た松村エリナが台車に乗って現れ、箏で伴奏を奏でる。唐関連の人物の場面では、下手から中国箏演奏家の劉星延(女性である)がやはり台車に乗って現れるのだが、共にモーター音が響くため、ちょっと気になった。

江蘇省演芸集団歌劇舞芸院合唱団とダンサー陣の人海戦術も効果的であり、リアルな場面と幻想的なシークエンスの両方で存在感を示していた。


鑑真は渡海失敗を繰り返し、一度などは、南方の異境(振州=現在の海南島とされている)に船が流されてしまい、島の主の憑夫人(殷桂蘭)は、配下の祈祷師による「この島で疫病が流行っているのは、この僧侶達が原因」との言葉を信じ込み、鑑真を柴草で焼き殺そうとするが、鑑真に諭されて思いとどまる。鑑真は部下達に薬草を調合した薬を作らせ、島の疫病を鎮める。憑夫人は己の無知を恥じるが、鑑真に励まされ、島に菩提心を広めることを約束する。

海を渡ることが叶わぬまま、栄叡が唐の地で客死する。この時、鑑真は度々の艱難辛苦のためにすでに失明しており、栄叡の姿を見ることが出来ず、探し回る(字幕では、「栄叡どうしたのだ」とあったが、実際は、「栄叡在[口那]里(栄叡どこにいるのだ)」と歌っており、文字制限による意訳のために日本語では少しわかりにくくなっていた)。栄叡は故郷の難波津を思い出しながら息絶える。
弟子の静空もまた、「西方に浄土がある。私は東に渡るのではなく、西行します」と言って去って行った。
失意の鑑真であったが、「長明燈は常在不滅」という言葉を信じ、再び日本への渡海を試みる。

こうして苦難の末に、天平勝宝4年(754)に鑑真は日本に渡来し、奈良の都に戒律を伝え、東大寺に戒壇を気づき、唐招提寺を建立した後に当寺に於いて入滅するのだった。


東アジアにおける西洋音楽の受容というと、日本が最先端ということはこれまでは当たり前だったし、これからも当分は同じ状況が続くと思われるのだが、日本の国公立で音楽学部を持つ大学は東京芸術大学、愛知県立芸術大学、京都市立芸術大学、沖縄県立芸術大学など数えるほど。演劇や映画の学部は皆無という中にあって、中国は国共内戦後に中央音楽学院、中央戯劇学院、北京電影学院など、北京に国立の音楽大学、演劇大学、映画大学を創設。文化大革命による危機はあったものの、北京だけでなく、上海を始め各所に国立の芸術大学を設置して、国ぐるみで文化を後押ししている。

中国のクラシック音楽事情には私も通じているわけではなかったのだが、劇場付きのオーケストラが存在するというのは衝撃であった(日本では、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団が歌劇場付きの団体であるが、母体である大阪音楽大学のオーケストラという位置づけであり、編成も大きくない。ポピュラーでは宝塚歌劇団のオーケストラが座付きである。新国立劇場創設時に座付き国営オーケストラ設置案も挙がったが実現しなかった)。

以前の中国では、芸術家は国家認定システムであり、国立の芸術大学を卒業していないとプロの芸術家に認定されず、活動も出来なかったのだが、今はどうなっているのかよくわからない。ただ、国を挙げての文化発揚形式は今も力強いものがあるということは、この公演を観てもわかる。


北京語歌詞、日本語字幕による上演であるが、一部、日本語による合唱が行われる場面がある。また、般若心経や「南無阿弥陀仏」が唱えられるのだが、仁如教師は、2005年から2007年に掛けて岐阜県にある正眼短期大学に留学しており、帰国後に鑑真仏教学院で日本語基礎教育に関わったほか、2015年から今年の3月まで和歌山県の高野山専修学院で唐の密教に関する研究を行っており、日本語による読経が可能であり、般若心経が日本語読みで朗唱される場面もあった。
「ギャテイギャテイ ハーラーギャテイ ハーラーソウギャテイ ボダジソワカ」、「色即是空 空即是色」という般若心経のお馴染みの言葉も登場する。

江蘇省演芸集団交響楽団も予想を遙かに上回る優秀なオーケストラであり、仏教好きでなくても十分に楽しめる現代歌劇となっていた。

カーテンコールでは、作曲家の唐建平や脚本家の憑必烈らも登場。出演者達もオーケストラピットの楽団員も嬉々として拍手を送っていた。ロシアのマリインスキー・オペラによる「エフゲニー・オネーギン」を観た時もそうだったが、お国ものということで皆が誇りを持って演奏し、歌い、演じていた。日本ではオペラがまだ「お高くとまったもの」と認識されているためか、こうした光景は余り見られない。日中関係は悪化の一途を辿っているが、自国が生んだ芸術を純粋に愛する心も持つ隣国の人々が羨ましくなった。日本人は西洋音楽に対するコンプレックスが強すぎるようにも思う。

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2016年5月 9日 (月)

冨田勲作曲 大河ドラマ「徳川家康」オープニングテーマ

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2016年4月 2日 (土)

滋賀県制作 石田三成CM

かなりシュールな石田三成のCM。

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2016年3月 1日 (火)

観劇感想精選(177) 「Honganji」

2016年1月20日 大阪・上本町の新歌舞伎座にて観劇

午後6時から大阪・上本町(うえほんまち)の新歌舞伎座で「Honganji」を観る。本願寺石山合戦を描いた舞台。石山本願寺のあった大阪で今日初日を迎え、今後全国での公演が予定されている。

原作:保志忠彦、脚本:斎藤栄作、演出:ウォーリー木下。題字:紫舟(代表作:大河ドラマ「龍馬伝」ほか)。衣装:小篠ゆま(コシノヒロコの次女)。
出演:陣内孝則、水夏希(みず・なつき。元宝塚雪組トップ。私と同じ千葉市出身である)、諸星和己、姜暢雄(きょう・のぶお。代表作は「トリック」)、ウダタカキ、瀬下尚人、板倉チヒロ(男性)、植本潤、倉持明日香(元AKB48。父親は元プロ野球選手の倉持明)、岸祐二、ルウト(男装読者モデルとしても活躍する女優・女性モデル)、奥村佳恵、大橋吾郎、滝口幸広、渡辺大輔、佐野和真、蒼乃夕妃、尾花貴絵(父親は元プロ野球選手で現・読売ジャイアンツ投手コーチの尾花高夫)、押田瑞穂、木下政治、市川九團治ほか。

本願寺石山戦争の話で、知り合いの知り合いである市川九團治が出て、ウォーリー木下が演出を務めるという情報だけを手に入れて新歌舞伎座に向かったため、姜暢雄や倉持明日香などが出演するということは、新歌舞伎座の入り口前に飾られたお花の宛先で知った。

本願寺の話ということで、受付には「宗務関係者」という普通の舞台公演ではまず見受けられない部署も設けられていた。

夏目雅子が「西遊記」で三蔵法師を演じて以来、何故が僧侶には女優が扮するという習慣らしきものが出来てしまい、今回の舞台でも本願寺十一世・顕如光佐と本願寺十二世で東本願寺一世の教如は女優が演じている。なお、教如の弟で西本願寺一世(こちらもまた本願寺十二世を名乗っている)の准如は舞台には登場しない。

舞台後方には屏風上の壁。舞台中央には小さな坂があり、開演前からその上に作り物の生首が乗っている。

開演10分前当たりから後方の壁に石山本願寺寺内町の絵が投影される。今回の公演は、映像が徹底的に駆使された場面転換が行われる。

開演すると「かごめかごめ」の歌が流れてくる。やがて歌声が歪むと同時に溶暗。照明が舞台に当たると、生首は市川九團治演じる平将門のものに変わっており客席に向かって語りかける、やがて九團治は前身を現し、歌舞伎の見得を切る(新歌舞伎座という劇場名であるにも関わらず基本的に歌舞伎の公演は行われないという変わった劇場なので、「高島屋!」という声は掛からなかった)。
九團治演じる平将門は「Honganji」の狂言回し(ストーリーテラー)の役割も担う。

平将門は関東一円を支配し、新皇として独立を図るも、下野守藤原秀郷に敗れて戦死。首は京の七条河原にさらされるも東国目指して飛んで行き、下総岩井を目指すも江戸で墜落。将門の霊は怨念を持ったまま現世を彷徨っている。そして16世紀、再び日の本の国に乱世を起こすべく、将門の霊は凶暴化した。
その将門に斬りかかる少年が一人。三郎という名の少年こそ後の織田三郎信長であった。将門に「欲しいものは何か?」と問われ、「天下だ」と答えた三郎に将門は「情というものを掛けず鬼に徹するならそなたを天下人にしてやろう。ただし、ただ一度でも情を掛けたなら全ては水の泡となるだろう」と告げる。実はこの時の三郎信長の天下像は「この世を極楽浄土に変える」という日蓮宗的発想なのだが、それに関しては深く掘り下げられてはいない。
成人した信長(陣内孝則)は仏を信じぬ「第六天魔王」と称してして将門の力を受けながら天下人への道を突き進む。

一方、後に足利第十五代将軍となる足利義昭(木下政治)は朝倉氏を頼って越前にいたが、そこで十三代将軍・義輝(塚原卜伝に師事した剣豪将軍として知られる)が討ち死にしたことを知らされる。十四代将軍に就いたのは三好三人衆の傀儡・義栄。このままでは足利将軍家の威光は地に落ちると考えている義昭だが朝倉では頼りになりそうにない。そこで明智光秀(ウダタカキ)を通じて、織田を後ろ盾にしようと目論む。義昭の下にやって来た信長は横柄な態度ではあったが、義昭を将軍の座に押し上げることを約束する。
大坂の「天下一の要害の地」に建つ石山本願寺では、東の京にいる三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)、その更に東にいる足利義昭を擁した織田信長が共に西に寄せてくる気配を感じ、石山本願寺も危ないのではないかとの声が上がる。しかし、門主である顕如(水夏希)は徹底した「非戦」を説いていた。だが、顕如の息子である教如(ルウト)、紀伊の雑賀(鈴木)孫一(諸星和己)率いる雑賀衆に戦いを挑むなど好戦的。教如は勝手に本願寺寺内町の門徒らに信長への宣戦布告を行ってしまい、顕如も戦いを選ばざるを得なくなる。顕如は雑賀衆の頭領である雑賀孫一が真宗門徒であるため本願寺の味方になってくれるよう頼む。かつては織田信長に雇われたこともあったため様子見であった孫一だったが、雑賀衆数人が信長の配下で活躍する伴長信(板倉チヒロ)らに殺害されたことを知り、本願寺方に付くことに決める。

平将門の怨念が渦巻く中で、いよいよ信長の近畿における戦いが始まる。足利義昭を担いで上洛し(ただ、輿に乗っているのは信長で、どう見ても義昭ではなく信長の上洛である)。京を追われた三好三人衆は野田城や福島城(「野田」「福島」共に現在も駅名として残っており、大阪によく来る人ならどの辺に城があったすぐにわかる)を築城し信長の侵攻に備える。野田や福島と石山本願寺とは目と鼻の先である。三好三人衆と組んだ本願寺は信長との和議を結ぶ。

明智光秀が信長の使者としてやって来る。織田と本願寺の和睦の条件として5000貫を要求するのだが、顕如は門徒から寄付された金を信長のために払うつもりはないと拒否する。光秀は、本願寺の侍女である光(みつ。奥村佳恵)に何故か惹かれるものを感じるのだが、実は光は光秀の実の娘であることが後に判明する。
その光が慕っているのは教如。だが、教如は「自分は僧侶ではなく武将として生まれてくるべきだった」と今の境遇を嘆いている。
浅井・朝倉連合軍に味方したということで信長は比叡山延暦寺を焼き討ち(比叡山の焼き討ちの規模に関しては諸説あり、実態は不明である)。この劇では通説とは違い、明智光秀が延暦寺に容赦ない攻撃を仕掛け、羽柴秀吉は最初は比叡山に籠もる人達に同情的である。
石山本願寺も比叡山の二の舞になる可能性が高いことを悟った顕如はいよいよ信長との戦を決意する。ただそれは信長のような「攻め、奪うための戦い」ではく、あくまで石山や全国の門徒を「守るための戦い」と説くだが……。

平将門と本願寺の両方に繋がる武将には徳川家康がいるのだが、この劇では家康は一切登場しない(セリフにすら出てこない)。またその後、幕末に至るまで密接な関係にあった毛利氏の当時の当主である毛利輝元も声のみの出演に留まっている。毛利水軍は出てくるのだが、乗り組み員として登場するのは雑賀衆達である。

一方、架空の人物は数多く登場し、雑賀衆はほぼ全員架空の人物であり、雑賀孫一に父親を殺され、恨みを抱いている織田方の女鉄砲打ち橋本雷(はしもと・らい。演じるのは倉持明日香)も架空の人物である(織田信長の鉄砲指南役を務めた橋本一巴という実在の人物の娘という設定ではあるが、橋本一巴を殺したのは雑賀孫一ではない)。

本願寺石山合戦は正親町天皇の勅命により和睦となるのだが、これも実は五摂家筆頭・近衛氏とのパイプを持つ伴長信の策略によるものという設定になっている。

実在の人物の描き方に特徴があり、森蘭丸(姜暢雄)は無邪気にして残忍な性格(劇中で羽柴秀吉が「森蘭丸は浄土真宗の門徒」と語るシーンがあるがこれは史実である)、羽柴秀吉(瀬下尚人)は日和見主義者、明智光秀は知に優れているが一本気な性格が災いしている。
ルイス・フロイスは「キリスト教の布教を足がかりとして日本を植民地にすることを狙っている」奸計の人として描かれている。

また、平将門の桔梗姫伝説というものが登場し、明智光秀の家紋が桔梗であることはよく知られているため一応伏線にはなっているのだが、信長が光秀の謀反を事前に察知するということはない。
浄土真宗的な考えが展開されるということもないが、「戦いとは何か」と問いは強く打ち出されており、基本的には「良き戦いなどない」という結論で終わることになる。

ただ、平将門の怨霊は成仏することなく、次なる戦乱の時代を求めて、時代を下っていくことにはなる。将門の不気味な笑いで劇は終わる。


ウォーリー木下が演出する舞台を観るのは久しぶりであるが、ジャグリングなどを行うパフォーマンスのメンバーを多く入れるなど(ラストではちょっとした仕掛けがある)賑やかな演出を行っている。また映像を使うことで場面転換を一瞬に行う技術は興味深いが映画的であるということもいえる。それが良いことなのか悪いことなのかは保留としておくが。

ルイス・フロイスが「かごめかごめ」の歌詞はヘブライ語であると唱える場面がある。日ユ同祖論というものでよく取り上げられるものである。私自身は日ユ道祖論には懐疑的、というよりほぼ否定しているが、そういったものがあるということだけは紹介しておく。

初日ということで、演技の方は万全とまではいかなかったが、きちんとした仕上がりにはなっていた。比較的知名度の低いキャストが並んでいるが、殺陣を始めとするアクションシーンが多いため、運動神経の発達した俳優を優先して起用した結果だと思われる。
ただ、確かにお金が掛かった演出ではあるが、チケット料金はもう少し抑えても良いのではないだろうか。私は門徒だから行ったけれども、他の宗教若しくは無宗教だったら「高いので観に行かない」となったはずである。


終演後、カーテンコールに応えた陣内孝則は「トレンディ俳優の陣内孝則です」と冗談を込めた挨拶を行う。「本日はお足元のしっかりした中(大阪では雪も雨も降らなかったようだ)お越し下さいまして誠にありがというございます。本日はシリアスな劇でしたので、最後は和んで頂くためにパントマイムを行います。ご当地、後藤ひろひと氏から伝授された『カブトムシで脱臼』」と言って、左腕に乗せたカブトムシを上へと這わせる様を見ているうちに無理な姿勢になって脱臼するというパフォーマンスを行った。
その後、陣内は諸星和己に、「SMAPについてコメントを」と無茶ぶり。諸星はジャニーズ事務所の光GENJI出身であるがジャニーズを離れて20年以上経つということもあって、「「『カブトムシで脱臼』から『SMAPが号泣』」とボケた後で、「知ったこちゃない!」と言う。その後、「みなさん一人一人の幸せな人生、幸せになれる道を見つけて下さい」と言った諸星は「締めに良いこというなあ」と自画自賛するが、陣内孝則が、「明日はまた別のストーリーとなっております。別のお話を楽しむために明日も」とどう考えても出鱈目を言い始めてしまったため、銃を差し向けて「いい加減にしろ!」と止めていた。

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2015年11月 1日 (日)

観劇感想精選(166) 上賀茂神社奉納劇「降臨」

2015年10月24日 上賀茂神社特設野外ステージにて観劇

午後5時から、上賀茂神社(賀茂別雷神社)特設野外ステージで、奉納劇「降臨」を観る。作・演出:宮本亜門、脚本:齋藤雅文、音楽:福岡ユタカ、美術:松井るみ。

出演:小雪(語り部)、尾上紫(おのえ・ゆかり。玉依姫=玉依日賣)、藤間信乃輔(玉依日子)、団時朗(だん・じろう。賀茂建角身命)。竹笛・能管:澄川武史(すみがわ・たけし)、パーカッション:澤田聡(さわだ・さとる)

『山城国風土記』(一部を残してほぼ散逸)の、賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)創建と至るまでの物語を、小雪の語りと、主要キャスト三名、その他にも多くの出演者を使って狭い場所にしては結構な人海戦術が採られている。

上演時間約50分の中編であるが、午後5時過ぎに、演出家である宮本亜門が登場し、次いで門川大作京都市長が呼ばれてプレトークがある。宮本亜門は、「神道ではご神体は像や鏡やお札やそういうものではないということで、どう表現するかに苦労した」という。また、『山城国風土記』で現存しているのは十数行だけであり、そこから話を膨らますのも簡単ではなかったそうである。
なお、来場者には賀茂神社の社紋である双葉葵が描かれた紙の額縁に特殊フィルムが挟まれたものが配られており、小雪が「皆様、双葉葵の額を御覧下さい」と言ったら、特殊フィルムを通して舞台を見ることになるのだという。

門川市長は、子供の頃から上賀茂神社には良く訪れており、小学生時代の写生会なども上賀茂神社で行われたという。今回、上賀茂神社の田中宮司に「あの頃と全然変わっていないですね」と言ったところ、宮司は「市長、ここは千年間全く変わっていないんですよ」と返されたという。
更に、賀茂川を越えて上賀茂神社に至る橋が老朽化した上に、幅が狭くて混雑するという苦情が来ているので、近く、幅が広くて趣のある外観の橋に架け替える計画があると述べる。

細殿、橋殿、土舎が主舞台となるほか、橋殿から続く花道が作られており、そこでも演技が行われる。

天気が悪いと趣は今一つとなってしまうのだが、今日は快晴。月も出て、良い雰囲気である。

上演に先立って、神主が、舞台と観客のお祓いを行う。

まず細殿から、語り部である小雪が登場。元々色気のある女優のイメージであるが、実際に生で見てみると、匂い立つような妖艶さを持っていることがわかる。

小雪は、賀茂建角身命(団時朗)が八咫烏となって、神武東征に貢献したこと、その後、山城国に赴き、葛野川(現在の高野川)と賀茂川の合うところ(現在の下鴨神社付近。賀茂神社の社紋の双葉葵は二つの川が相合うことが由来になったと思われる)に赴き、賀茂川を「石川の瀬見の小川」と名付け、その地より北上して北山に居を置いたという。賀茂建角身命は、丹波国の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ。かぐや姫に似た名前だが偶然だろうか?)と契りを結び、玉依日子(藤間信乃輔)と玉依姫(尾上紫)を生んだことを語る。

その後、小雪の語りに合わせて、玉依姫が登場する。太古、神々は荒れていた、自分が一番強いということを示したいという、ただそれだけのために互いに諍い合っていたのだ。

賀茂建角身命は病身であり、玉依姫を守るのは兄の玉依日子しかいない。神々は大勢登場し、音楽に合わせて踊り、玉依姫に襲いかかる。玉依日子が何とか玉依姫と賀茂建角身命を逃す。

玉依姫は、神々が戦いに明け暮れる世を嘆き、石川の瀬見の小川(鴨川)で禊ぎを行う。すると、大きな丹塗りの矢が姿を現す(その直前に照明が明滅し、丹塗りの矢の登場を悟らせないよう工夫されている)。そして、「丹塗りに矢を枕元に立てて眠れ」と神のお告げがある。

その後、玉依姫は身籠もるが、父親が誰なのか自身にも分からない。玉依姫は、息子に父親の名前を聞くが、答えようとはしない。そもそも処女懐胎であるため答えられないのである。賀茂建角身命は八尋の家を作り(切り株の形をした楽器が賑やかなリズムを刻む。土舎が八尋の家に見立てられる)、神々を酒宴に招いて誰が玉依姫の父親なのか問いただすが、神々は皆が皆、「自分が玉依姫の子の父親である」と名乗って、玉依姫を自分のものにしようとする。逃げ惑う玉依姫。そして玉依姫の子供は、「我が父は天津神なり」と言い残して姿を消してしまう。この間は結構、アクロバティックな演技も用いられている。

数年が経ち、苦悩し続ける玉依姫であったが、その時、女神(小雪。この時は台本から離れてセリフを発する)が現れ、玉依姫に「石川の瀬見の小川で沐浴した時のことを思い出しなさい」と言い、共に舞う。尾上紫は苗字からも分かるとおり日本舞踊尾上流の血を引く舞の名手であるが、小雪の舞もなかなか堂に入ったものである。また、小雪には歌うイメージは全くないが、いざ歌わせると驚くほど上手い。余り好きなタイプの女優ではないのだが、やはり実力者なのだろう。

石川の瀬見の小川で、再び禊ぎをする玉依姫。すると、橋殿から布に覆われた神が姿を現す。ここで双葉葵の縁に入った特殊フィルムを通して幕陣の中を見ると、青い人影が動いているのが見える。ただ、特殊フィルムを外すと、陣幕の光しか見えない。こうすることで神格を保つという演出を行ったのである。なお、特殊フィルムは持ち帰っても意味がないので、帰る際に返却となる。

玉依姫の子供の正体は賀茂別雷神(雷をも引き裂く強力な神)。雷神の子供であった。賀茂別雷命は、「我を祀れば、国はとこしえに安寧となる」と告げる。かくして上賀茂神社(賀茂別雷神社)が建てられ、今に至るまで日本は続いているのである。

賀茂別雷神は上賀茂神社の祭神、賀茂建角身命と玉依姫は下鴨神社(賀茂御祖神社)の祭神である。

宮本亜門は、実際の馬(上賀茂神社は馬ゆかりの社であり、実際に白馬が飼われている)、矛に錦の直垂などを用いて、外連にも溢れた演出を行い、奉納劇ではるが、舞台上演の面白さを存分に楽しませてくれた。

小雪の安定した朗読、尾上紫の可憐な演技や舞(尾上紫は私と同い年なので、実は小雪よりも年上である)なども見所聴き所。総体的に男優陣は弱くなるが、そういう展開の劇なのでこれは仕方ないだろう。

今日は前から2列目、と思っていたら、1列目があるのは花道に近い位置だけで、実際は最前列であった。「こんな近くで良いのかな」とも思ったが、存分に楽しませ貰った。三柱の神に感謝したい。

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