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2018年9月12日 (水)

春秋座「志の輔らくご」10周年・立川志の輔独演会「大河への道」―伊能忠敬物語―

2018年9月7日 京都芸術劇場春秋座にて

午後6時から、京都芸術劇場春秋座で、春秋座「志の輔らくご」10周年・立川志の輔独演会「大河への道」―伊能忠敬物語―を観る。

前半と後半に分かれての公演で、前半が「バールのようなもの」、後半が「大河への道」―伊能忠敬物語―の上演である。

まず松永鉄九郎による三味線弾き語りの「三番叟」があり、続いて志の輔が登場する。

実は志の輔は明治大学の先輩なのである。彼は経営学部を卒業しているが、以前、クイズ番組の回答者としてテレビ出演した時に明治大学のサークルがゲストとして出演したことがあった。そこで志の輔が先輩として一言も求められたのだが、「明治大学は卒業論文がなくて楽ですので」と発言、こちらはテレビ向かって、「違う違う! それは経営学部だけ! 他全部ある!」と突っ込むことになった。志の輔は名門として知られる明大落研出身で、トップの高座名である紫紺亭志い朝(しこんていしいちょう)の5代目である。4代目紫紺亭志い朝が三宅裕司、6代目が渡辺正行という黄金期の在籍者なのだが、全員が経営学部出身であるため勘違いしたのだと思われる。三宅裕司も渡辺正行も演劇サークルを兼ねていたということもあり、志の輔も自然と影響を受けて演劇を志し、卒業後は劇団の研修生になる。その後、一時は広告会社のサラリーマンとなるが、30歳を目前に控えた時にラストチャンスとの思いから立川談志に弟子入りしている。
富山県出身であるが、富山県は舞台人の出所であり、現役に限っても、西村まさ彦、室井滋、柴田理恵(明治大学文学部文学科演劇学専攻卒)らが輩出している。

枕として春秋座での10周年を迎えたことを語り、春秋座が2001年オープンで17年目、春秋座が入る京都造形芸術大学も前身である京都芸術短期大学から数えて40年が経過したという話をするのだが、ベトナムでのホーチミン市での公演も毎年行っていて今年で同じく10周年を迎えたことを語り、春秋座での公演では10周年記念として造形大の学生に記念グッズを作って貰ったが、ホーチミンでは「富山出身ですよね?」ということで、全国的に有名な富山民謡「こきりこ節」の歌と踊り富山の人達を呼んでやって貰うということになった。ホーチミン公演には駐在大使の方も夫妻で駆けつけてくれたのだが、「いやあ、私は落語を観るのは今回が初めてで」と言われたそうで、「初めて? その年で? 日本にいるとき何やってたの? 駐在大使は日本文化を広める役でしょ?」と内心思ったそうである。演目が終わった後、客席背後のドアから富山出身の謡い手踊り手が現れ、客席通路を通って舞台の上までやって来る。志の輔はそれを見て泣くほど感動したのだがそれは、「私、18まで富山に住んでいたんですが、こきりこ節見るのはその時が初めて」だったからということで、「落語を観るのは今日が初めてという方がいらっしゃっても、いっこうに問題ない」

登場人物二人の小咄で知ったかぶりをするものがあるというので、「夏はなんで暑いんだい?」「そりゃあ、冬の間、ずっとストーブを焚いてて、その熱が空に上がって、落ちてくるに連れて暑くなるんだろうよ」「じゃあ、なんで冬は寒いんだい?」「夏の間、ストーブを焚かなかったからだろうよ」などと言ってから、「バールのようなもの」に入る。品川区の宝石店でシャッターがバールのようなものでこじ開けられたというニュースを聞いた大工のはっつぁんが、ご隠居に、「ニュースの意味がわからない」といって内容を教えてくれるように言う。大工なのでバールはわかるのだが、「バールのようなもの」というのが何なのかわからないという。ご隠居は誰も見ていなかったから「ようなもの」としかいえないのだと言うが、「女のようなって女かい? 女のようなってのは男のことだろう」、「ダニのようなってダニかい?」、「ハワイのようなってハワイかい? 違うだろ、宮崎のようなところで言うんだろう」「夢のようなっていったら夢かい?」ということで、「バールのようなものはバールじゃない」という結論に達する。
ところではっつぁんは、昨夜、熊さんのところに行くと言ってバーに行き、そこでママの姪っ子でお手伝いに来ていたというナツミちゃんという女性に一目惚れ。上品で大人しくてそれでいて華があってというナツミちゃんとカラオケでデュエットをしていたのだが、そこに熊さんに連れられて旦那を探しに来た山の神にコテンパンにやられてしまったのだという。
ご隠居の話を聞いたはっつぁんは、奥さんに「あれは妾じゃない。妾のようなものだ」と、言い訳して却って火に油を注ぐ結果になるという展開である。

メインの「大河への道」―伊能忠敬物語―。上演時間約1時間半という長編創作落語である。講釈台を用いての上演。
千葉県を代表する歴史上の偉人の一人である伊能忠敬。今の山武郡九十九里町小関の名主の家に生まれている。志の輔は知っているのかどうかはわからないが、忠敬の父親は富山を拠点としていた豪族・神保氏の流れとされる。明治大学駿河台キャンパスのすぐそばにある神田神保町も神保氏の屋敷があったためにその名がある。その後、佐原(現在の香取市佐原)の豪商・伊能氏の婿養子となり、数字に抜群に強かったことから商才を発揮。名主となってからは正式に苗字を名乗ることを許可され、帯刀も許された。
50歳で隠居の後、忠敬は江戸に出て、幕府天文方の高橋至時に師事。至時は忠敬より19歳年下だったそうだが、志の輔も談志より19歳下、ということで、突然、「おう、弟子にしてくんな!」とあの濁声で言われるようなものだそうで、「自分なら断る」そうだが、忠敬は至時に「地球一周の長さを測りたい」と申し出たそうで、そのために自宅のある深川と学んでいる暦局の間を一定の歩幅で歩く訓練も繰り返す。志の輔はこの時に講釈台の上を指で歩く真似を行った。
学問と修業を重ね、55歳の時に、蝦夷地の観測に出発。子午線1度の距離を割り出し、蝦夷地南部の地図を完成させる。地図の出来に感嘆した幕府のお墨付きを得て、「御用」の文字を掲げることを許され、日本全国六十余州の観測に乗り出すことになる。その後、17年を費やして、測量を終え(北海道北部の観測は間宮林蔵に託された)、その後、病を得て程なく他界。「大日本沿海輿地全図」は本格的な作図作業に入っておらず、その姿を見ることはなかった。1818年、今から丁度200年前である。

志の輔は今から十数年前に、現在は市町村合併で香取市となっている街で公演を行っている。公演終了後、知り合いのコピーライターの運転で東京に帰ることになったのだが、「近くに小江戸として知られる佐原という街があるので寄っていかない?」と誘われ、佐原に行き、伊能忠敬記念館に入ったのだが、そこで、人工衛星がとらえた日本の映像と、忠敬の観測に基づく大日本沿海輿地全図がピタリと重なることに感動し、4年ほど費やして「大河への道」―伊能忠敬物語―を作り上げたそうだ。

大日本沿海輿地全図が完成したのは西暦1821年のこと。ここで話は、完成200周年に当たる2021年に、大河ドラマ「伊能忠敬」の放送を目指す千葉県の職員と、作家として指名した若手の加藤という男を主人公にしたものへと移る。大河ドラマは全50話。しかし、伊能忠敬の功績の大半は測量の場面であり、ドラマとしては著しく起伏に欠けたものとなってしまう。そこで測量者にジャニーズやAKBのメンバーを加えようだとか、毎回変わる風景を撮ろうだとか(「世界の車窓から」のようだとしてボツ)、その土地のグルメを紹介しようだとか(「食いしん坊万歳」と大して変わらないということでボツ)色々と手を加えようとするが、上手くいかず、遂には、大日本沿海輿地全図が完成するまで忠敬の死は極秘事項として伏されたことから、幕府天文方・高橋景保ら関係者による群像劇となるが、その場合は大河ドラマ「高橋景保」になってしまうそうで、最終的には大河ドラマ「伊能忠敬」の企画立案は断念となる。「伊能忠敬の人生はドラマに収まるほど小さなものではない」というのが決めのセリフとなった。

特別にエンドロールが流れる。2010年の初演時に作られたものだそうで、海岸沿いの断崖絶壁のそばを中空から撮影された映像が映されるが、当時はまだドローンというものは存在せず、飛行撮影家の矢野健夫がパラグライダーを使った撮影したものを使用しているそうである。ギターは高中正義のものをセレクトしたそうだ。

最後は三本締めで終えようとした志の輔であるが、座席番号によるプレゼント抽選会がある。10周年記念グッズの中から手ぬぐいが10名に送られるのだが、私も当たる。多分、明大の縁だろう。

語りは老練の領域であり、もう話に身を任せるだけで十分である。



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2018年7月20日 (金)

観劇感想精選(247) 広田ゆうみ+田中遊 「耳で楽しむ古事記」上巻連続上演

2018年7月8日 京都・松原京極商店街のカフェギャラリー ときじくにて観劇

今日は特に予定はなかったのだが、松原京極商店街にあるカフェギャラリー ときじくで「耳で楽しむ古事記」というイベントをやっているのでそれに行くことにする。

「耳で楽しむ古事記」は、京都で活躍している田中遊と広田ゆうみによる朗読劇。「古事記」は原文は「漢文+万葉仮名」で書かれているのだが、そのままでは読めないので、書き下し文が読まれ、更に現代語訳が朗読される。適宜映像や小道具などを加えての上演である。今回は5部に分けての上演であり、この世の成り立ちから天孫降臨までを描いた上巻が朗読される。

記紀と呼ばれることもある「古事記」と「日本書記」。正史である「日本書紀」に対して、「古事記」は皇統の正当性を説く歴史物語であり、歴史そのものではなく様々な彩りのあるロマン溢れる物語となっているのが特徴である。まだ小説や物語文といった観念のない時代に生まれており、リアリズムからは外れた(後世から見ると)大胆な展開が見られる。地方の伝承なども多く取り入れているため、後代では何を指しているのか分からない部分も多く、「古事記伝」の本居宣長を始めとする多くの国学者や国文学者、日本史学者、民俗学者が訓詁注釈に挑む日本最古にして最大のミステリー書とも捉えられる。

失われた歴史書である「帝紀」と「旧辞(くじ)」の内容を諳んじている稗田阿礼という人物が暗唱したものを太安万侶が書き取ることで成り立ったと伝わる「古事記」。稗田阿礼は猿女(さるめ)氏の出身とされ、大和郡山の稗田環濠集落にある売太(めた)神社に主祭神として祀られているが、生没年も性別もわかっておらず架空の人物説もある。舎人なので男であると中世から近世に掛けては思われていたが、阿礼というのが女性の名前であること、稗田氏は代々女官が輩出する家だったこと、また暗唱するだけで自ら書き記さなかったのは読み書き教育を受けていない女だったからではないのかという理由により、国学隆盛期以降は女性とされることも多い。
売太神社には2012年に行ったが、古事記成立1300年ということで記念の幟が沢山立っていた。

太安万侶は奈良市内に陵墓が発見されており、実在の人物と見られている。

日本の歴史の面白いことは天地創造がないことで、天地は始めから存在し、「神」も性別も正体もよくわからないものであるが最初からいる。

イザナギとイザナミが柱の周りを巡り、この時、母系社会が父系社会に入れ替わった象徴的に描かれるのだが、描かれただけで、そう簡単に社会は変わらない。日本はアジアにおいては極めて異例というほど女性が活躍しており、女帝も何人もいる(中国王朝史においては女帝は則天武后ただ一人、朝鮮王朝史上は新羅時代に三人である)。日本の場合は連続して女帝が生まれたり、重祚した人までいる。

男女が入れ替わっているのではないかというケースも存在し、それを象徴するように、中巻においては日本武尊が熊襲を騙すために女装するシーンがある。更に下巻には史実とは逆に「女摂政が立った」という記述が存在する。

上巻は黛敏郎のドイツ語オペラ「古事記」で、中巻の神武東征は信時潔の交声曲(カンタータ)「海道東征」で描かれており、音楽との相性も良い。

2部ずつの上演であり、途中に1時間ほどの休憩がある。

様々な神が生まれるうちに、天照大神、月読命、素戔嗚尊の三姉弟が生まれる。それぞれ、昼間、夜、海を支配する神様である。月読命(ツクヨミ)だけは影が薄いが、太古の夜は今と違って真っ暗。何も出来ないし怖れの対象であるため、神としてドラマティックはエピソード生まれにくかったのかも知れない。それでも暦などは月を基本に設定されたため、重要な神様(性別不明)である。月が海に影響を及ぼすということも太古からわかっていたのだろう。読み方から「着く黄泉」と取れるのも面白い。伊勢神宮内宮から近鉄五十鈴川駅に向かう途中に月読宮があり、京都にも松尾大社の近くに月読神社がある。
ただ、この中に陸地の神様はいない。陸地の神様は大国主命だと考えられるが、この時点では大国主命は異朝の神であったと思われる。かつて出雲を中心とした地域に朝鮮渡来の民族が一大勢力を誇っており、吉備などを従えていた。大和王朝には青銅の剣しかなかったが、出雲王朝は大陸由来の鉄の精製技術を持っており、古代日本のヒッタイト状態で圧倒的に強い。というわけで、出雲王朝を倒すべく、古代の国盗り物語が始まる。神々に寿命がない時代にあって、大国主命だけは何度も死んでは甦っているが、大国主命の正体が何度が入れ替わっていることを暗示しているように思う。

大国主命が主人公となる第三部では行灯社による伴奏が加わり、終了後には行灯社によるミニコンサートがある。フルートとアイリッシュ・ハープによる女性デュオ、歌も唄う。イギリスと北欧の民謡を中心としたプログラム。いわゆる耳コピーで曲を覚えられるようだ。アイリッシュ・ハープを使っているからかどうかはわからないが、どことなくケルティックな印象を受ける。エンヤが加わって歌を歌い始めても違和感がないような。
アンコールは予定していなかったようだが、「1万マイル」という曲の弾き語りを行う。「500マイル」でも遠いのに「1万マイル」は比較にならない。メートル法に直すと1万6093キロ。地球の半径が約1万3000キロ、地球1周が約4万キロだからいかに遠いかがわかる。

第4部に少名彦命が登場する。その名の通り、名を問われても名乗らない神様である(言葉が通じなかったのかも知れない)。おそらく日本と朝鮮半島の間で通信のようなことをしていた部族が神格化されたものだと思われる。少名彦命の招待を当たる「山田のかかし」は、日本で最も有名な山田という地名に何があるかを思い浮かべるとわかる。伊勢山田には伊勢神宮外宮があり、ここの神官の家だった山田氏の本家は日本屈指の名家である。ということで豊受大神らしいことがわかるのだが、かかしとは何かという謎がある。「足が不自由だった」とあり、他の神のように動き回れないことがわかる。伊勢神道ではこれをもって天之御中主神と同一視しているのだが、果たしてそうか。天照大神はよく卑弥呼なのではないかという説が唱えられるが、だとすれば豊受大神は、すでに名前に「トヨ」という読みが入っていることからも分かる通り、台与ということになるのだが。
国譲りでは、鹿島神(タケミカヅチ)が大活躍する。藤原氏の氏神である春日大社では、タケミカヅチは藤原氏を補佐する軍神で東方よりやって来たとしている。ということは名付けるなら征北狄将軍的役割をしていたのは藤原氏の祖の中臣氏ということになる。中臣氏の根拠地は現在の京都・山科で、関門海峡から瀬戸内海、淀川、宇治川、琵琶湖(当時はまだ日本海側に通じている)を経て、北陸、丹後に至る「天安河ライン」の中枢に位置している。

「古事記」では、兄が政治を受け持つが上手くいかず、弟に位を譲ると大成功となるケースが執拗に語られている。これが何を意味するのかは、「古事記」の編纂を命じたのが天武天皇であることを考えれば明々白々で、「自分(天武)が兄である天智天皇の子である大友皇子を滅ぼして天皇となったのは皇位簒奪には当たらない」と主張したかったからに他ならない。「日本書紀」に天武天皇は天智天皇より6歳年上とあることを根拠に天智と天武は実の兄弟ではないとする説もあるが、「古事記」でここまで愚兄賢弟を描いていることを考えれば、天智と天武は実の兄弟で間違いないと思われる。
さて、最初の男兄弟同士の争いが海彦、山彦の間で起こる。日本のカインとアベルともいうべき存在だが、二人の間にもう一人、正体がよく分からない男の神がいる。正体不明ということを軸に考えると、聖徳太子のモデルになった人の可能性が浮かび、とすれば海彦・山彦は蘇我と物部という飛鳥時代の二大勢力に例えられる。ちなみに蘇我氏については渡来系氏族説の他に、有力皇族説もある。

そしていよいよニニギノミコトによる天孫降臨があり、猿田彦が登場し、天鈿女命が猿女に名を変え(猿女氏の子孫が稗田氏である)、玉依姫(下鴨神社の祭神)が登場し、日本の初代天皇である神武天皇が生まれる。この神武天皇家来というのが徹底して愚兄賢弟なのだが、それは中巻でのお話である。ちなみに太安万侶は神武天皇の子孫である多(おお)氏の出であるとされる。

正午にスタートして全てが終わったのは午後8時近く。帰る時にようやく広田さんにご挨拶。途中で「古事記」解釈の話をしてしまうとよろしくないので、意図的に話掛けなかったのである。


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2018年2月14日 (水)

幻の沢村栄治

※ この記事は2017年12月2日に書かれたものです。

戦前の日本を代表する名投手、沢村栄治が、1944年の12月2日、乗船していた軍隊輸送船が撃沈されて戦死しました。享年27。

京都商業(現・京都学園高校)時代に山口千万石とバッテリーを組み、甲子園に出場。慶應義塾大学に進むかと思われましたが、京都商を中退してベーブ・ルースやルー・ゲーリックが来日した際の第2回日米野球に参加。トータルではいい成績は残せませんでしたが、1934年11月20日に草薙球場で行われた第10戦での好投で一躍名を挙げます(ただこの時、西日が邪魔してバッターボックスからボールが見にくかったという証言あり。ベーブ・ルースは沢村がドロップを投げる時に口を真一文字に結ぶ癖を発見。自分は倒れましたが、続くルー・ゲーリックにこの癖を教え、ゲーリックが沢村のドロップをソロホームランにして決勝点を挙げたといわれています)。

その後、大日本東京野球倶楽部に参加。1935年2月14日に横浜港から出帆したアメリカ遠征(大日本東京野球倶楽部は東京ジャイアンツというニックネームを名乗る)ではマイナーリーグ相手に登板。好投を披露し、「スクールボーイ・サワムラ」としてアメリカでも人気になります。ファンがサインを求めたので応じたところ、相手は実はファンではなく、サインしたのはメジャー球団の入団契約書だったという騒ぎがあったりもしました。

東京巨人軍に入団後、数々の賞を獲得。現在でも沢村の名はその年最高の先発完投型投手に与えらえる沢村賞に残されています。

さて、全盛時の並外れた快速球は今も伝説となっており、「150キロか160キロか」と話題になりますが、本格的な投球時の映像が残されておらず、沢村の投球と球速は幻となっていました。
近年、沢村栄治のものとされる投球映像が発見されました。

足を高々を挙げるフォームがトレードマークとされ、西本聖のような後継者を生みましたが、実際のフォームはそれほど足を高くは挙げていなったとされ、発見された映像でも足を自然に踏み出す姿が確認できます。

映像を解析したところ、「160キロ近く出ていた可能性がある」という結果が出ました。ただ、古い映像なのでコマ送りの速度が一定しておらず、映像だけで速度を断定することはできないというのが本当のところのようです。
今のところ、沢村の球速が何キロだったのかは、可能性しか語ることはできませんが、もう目にすることの不可能な幻だからこそ、その快速球へのロマンが無限に広がるような気がします。

沢村栄治よ永遠なれ。

中京大学スポーツ科学部・湯浅景元教授による沢村栄治の球速分析


巨人軍の同僚、千葉茂と青田昇による検証

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2018年2月11日 (日)

無類力士 雷電為右衛門

文政8年2月11日、「無類力士」と呼ばれ、史上最強の呼び声も高い雷電為右衛門が死去。

信濃国小県郡に生まれた雷電為右衛門。実家の関家は農家である。小諸に出稼ぎに出た際に怪力を見込まれ、相撲の世界へ。一方で学問にも秀でるという文武両道の人物であった。

角界入りした雷電は出雲国(雲州)松江松平家のお抱え力士となり、雲州にちなんだ雷電の四股名を名乗るようになる。

通算254勝10敗という驚異的な成績からもその強さはわかるが、「余りに強すぎるので突っ張りや閂といった得意技を封印させられた」という伝説(史実ではないようである)の存在が力士としてのカリスマ性に拍車を掛けている。

にも関わらず横綱にはなっていないという事実が雷電のミステリーとして人々の興味を惹くのだが、これはただ単に当時の横綱は名誉職的なものであり、通常の最強の位が大関だったというだけのことのようである。横綱は大老のようなもの、大関が老中のようなものと考えれば良いだろうか。

晩年がこれまたよく分かっていないということが雷電という人物をより魅力的にさせてもいるのだが、一応、私の出身地に近い千葉県佐倉市には「晩年の雷電はここで過ごした」という伝説が残っている。

そんな雷電為右衛門の墓は実は都心にある。東京都港区赤坂の報土寺の境内にである。

これが報土寺にある雷電夫婦の墓石
報土寺 雷電為右衛門の墓

生前の雷電と付き合いのあった報土寺に特別に墓石が建てられたといわれている。


また、江東区の富岡八幡宮(残念が事件があったが)の横綱力士碑には雷電為右衛門が「無類力士」の称号と共に横綱相当の力士として顕彰されている。
雷電為右衛門の銘


これはおまけになるが、YMO(イエローマジックオーケストラ)の「雷電(RYDEEN)」は、雷電為右衛門をイメージして作られた楽曲とされている(本当かどうかはわからない。元は高橋幸宏の鼻歌から生まれた曲である)。
 

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2018年2月 6日 (火)

「港が見える丘」は何を語るのか

※ この記事は2018年1月4日に書かれたものです。


1919年(大正8)1月4日、歌手の平野愛子が生まれました。

平野愛子の大ヒット曲として知られているのが、「港が見える丘」です。横浜市に港の見える丘公園がありますが、この公園は「港が見える丘」という歌にインスパイアされて造設されたものです。それほどの影響力があった曲です。

発表後50年が経過していますので、歌詞を載せておきます。

横浜の海(5) 港の見える丘
横浜 港の見える丘公園から見た横浜港の風景



「港が見える丘」 作詞・作曲:東辰三

あなたと二人で来た丘は
港が見える丘
色あせた桜 唯一つ
淋しく咲いていた
船の汽笛 咽(むせ)び泣けば
チラリホラリと花片(はなびら)
あなたと私に降りかかる
春の午後でした

あなたと別れたあの夜は
港が暗い夜
青白い灯り 唯一つ
桜を照らしてた
船の汽笛 消えて行けば
チラリチラリと花片
涙の雫できらめいた
霧の夜でした

あなたを想うて来る丘は
港が見える丘
葉桜をソヨロ訪れる
しお風 浜の風
船の汽笛 遠く聞いて
ウツラトロリと見る夢
あなたの口許 あの笑顔
淡き夢でした


出会いと別れを描いた恋愛の王道曲ですね。ただ、この二人がなぜ別れたのかに思いを馳せると別の側面が浮かび上がります。

「港が見える丘」が発表されたのは、1947年(昭和22)。終戦後2年目のことでした。このことを考えれば、戦争が影響を与えているのはむしろ当然のことのように思われます。

このカップルの男性の方は、実は戦争に行ったのではないでしょうか。そして女性の方が、今も男のことを思っているということは、不可抗力の別れがあったことを暗示しているように思えます。つまり男性は、海外の戦地で戦死したのではないかという想像が出来ます。男性はこの港から船で戦地へと赴き、港に戻ってくることはなかった。そう考えれば、極めて悲劇的な楽曲と捉えることが可能です。というより1947年当時の人々はそう受け取ったのではないでしょうか。

桜というのは日本を象徴する花であり、咲いたと思ったらすぐに散る花です。戦地に散ったあの人を想うのに相応しい花のような気もします。

港が見える丘に佇む女性の姿は、あたかも映画「慕情」(封切りは「港が見える丘」よりも遅い1955年ですが)のラストシーンを想起させるものがあります。


戦争の悲劇を歌った曲だと思って聴けば、また別の感興が起こる曲です。


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2018年2月 4日 (日)

京都の東照宮

※ この記事は2017年12月26日に書かれたものです。
 

天文11年12月26日(1543年1月31日)、三河国岡崎に後の天下人、徳川家康が生まれました。

家康は、伏見城を事実上の居城とした時期もあり、京都にも多くの足跡を残しています。

ただ一つ一つ辿っていくと膨大な時間を費やすことになりますので、今回は家康が死後に東照大権現の神号を贈られて成立した東照宮を二つ紹介することにします。

京都市内にある最も有名な東照宮は、南禅寺の塔頭、金地院にある金地院東照宮です。

金地院東照宮2017正月

金地院は、家康のブレーンで「黒衣の宰相」といわれた以心崇伝(金地院崇伝)の寺です。

金地院の東照宮は、家康の遺言によって建てられたものであり、創建当初は日光東照宮(家光が建てた現在のものよりは幾分地味だったと思われる)と比べられたと伝わります。

今も東照宮には楼門が残っていますが、現在は楼門をくぐって参拝することは出来ず、参拝するには必ず金地院の入り口から拝観料を払って入る必要があります。

経年により、今では往時の絢爛さは失われてしまっていますが、横から見るとはっきりとそれとわかる権現造の社殿は京都唯一のものであり貴重です。

拝観料は400円。金地院には他にも小堀遠州作庭の鶴亀の庭(特別名勝)、伏見城からの移築と伝わる本殿、崇伝の像がある開山堂など見どころは多くあります。

 

洛北一乗寺にあるのが、臨済宗圓光寺の東照宮。歩いて20分ぐらいの場所に真宗大谷派の圓光寺のもあるので注意が必要です。

臨済宗圓光寺 新しくなった東照宮

こちらの東照宮は実は出来たばかりです。以前は徳川家康公墓所のある山の麓に地味な感じの東照宮がありましたが、2017年の春に、家康公の墓所の隣に小さいながらも白木の立派な東照宮が建立されました。

臨済宗圓光寺の開基が実は徳川家康公。慶長6年(1601)に家康が下野国足利学校から三要元佶を開山に迎えて伏見に建てた圓光寺寺院および学校が源流です。圓光寺はその後、相国寺の山内を経て、寛文7年(1667年)に現在の地に移っています。一乗寺付近には茶屋四郎次郎の山荘、石川丈山の山荘(現在の詩仙堂)などもあり、大坂の陣で豊臣方主戦派となった一乗寺渡辺氏(渡辺綱の子孫)の監視強化の意味もあったのかも知れません。

臨済宗圓光寺は京都市内屈指の紅葉の名所であり、また水琴窟があることでも有名です。拝観料は500円とちょっとお高めですが、墓所には「花の生涯」で有名になった女隠密・村山たか女の墓があるなど、こちらも見ごたえ十分の寺院です。

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2018年1月30日 (火)

元禄15年12月14日夜 江戸・両国 本所松坂町で起こった出来事 またそれに至るまでとそれから

※ この記事は2017年12月14日に書かれたものです。

 

播州・赤穂浪士討ち入り 本所・吉良邸跡 本所松坂町公園

元禄15年12月14日(1703年1月30日)赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りを果たす。

そもそもの発端は、播州赤穂浅野家の当主である浅野内匠頭長矩が、江戸城本丸松の廊下で、高家肝煎・吉良上野介義央(よしひさ)に突然斬りつけた事件である。四十七士が吉良邸に討ち入る前年、元禄14年3月14日のことである。

なぜ浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったのかについては諸説ある。吉良上野介は幕府と朝廷の間を取り持つ高家筆頭であり、江戸城を訪れる勅使接待の指南役であった。複数の大名が勅使を接待するための礼儀作法を吉良上野介から伝授される。浅野内匠頭も当然ながら吉良上野介の教えを乞うたわけだが、実は浅野内匠頭は以前にも勅使接待役を仰せつかっており、元禄14年の勅使接待は自身二度目のものであった。この元禄14年の初頭に吉良上野介は年始の挨拶と朝廷との折衝のために京都に赴いている。なんのための折衝かというと、時の将軍・徳川綱吉が母親である桂昌院に従一位の位階を贈りたいと切望しており、吉良が朝廷に働きかけていたのである。ということで、吉良はこの時は浅野内匠頭らに教える時間が十分に取れないという事情があった。勅使接待は複数の大名が行うが、この時は浅野内匠頭が吉良の補佐役であった。このため、儀礼を授かった経験のある浅野内匠頭が吉良のいぬ間に勝手に他の大名に指示を出していた可能性が指摘されている。

浅野内匠頭と吉良上野介にはそもそも因縁があった。徳川吉宗が町火消を創設するまでは、江戸の火事には大名火消といって、火事の延焼を防ぐ役割を大名家が交代で受け持っていたのだが、元禄11年9月、江戸で大火があり、吉良上野介の鍛治屋橋の屋敷も延焼を防ぐために取り壊された。この時の大名火消を担っていたのが実は浅野内匠頭だったのである。この時に吉良が浅野に恨みを持ったのかどうかはわからない。「火事と喧嘩は江戸の華」であり、十分な消火装置のなかった時代にあっては建物を壊されるのは当たり前であるため、いちいち気に留めなかったかも知れない。ただこのことがその後に全く影響しなかったのかどうかも不明なのである。

ちなみに、赤穂浪士が吉良邸に討ち入る時には、大名火消を表すだんだらの羽織で固めているというイメージがあるが、これは「仮名手本忠臣蔵」などで生まれたフィクションであり、事実ではない。

ともあれ、互いにあるいは片方に遺恨があったのか、松の廊下で刃傷事件が起こる。将軍・綱吉にとっては母親に従一位を贈れるかどうか重要な接待の場。それを血で汚されたのであるから、綱吉の怒りが尋常でなかったのもうなずける。

もっとも、殿中で刃傷に及べば切腹なのは当たり前であり、「両成敗」の原則が当てはまるのはどうかも微妙である。ただ浅野内匠頭は十分な取り調べも受けずに即日切腹となった。このことが赤穂浪士の怒りを買いその後の討ち入りを招いたことは確かだと思われる。

さて、ここで吉良家と浅野家の由緒について書いてみたいと思う。

吉良家は高家筆頭であり、足利源氏の血を引く名門である。石高こそ低かったものの、自家よりも格の高い吉良家は徳川将軍家にとって面白くない存在でもあった。

浅野家は、豊臣秀吉の正室である高台院(北政所)が養女に入った家であり、本家は安芸広島42万石の大藩である。豊臣恩顧の大名が次々と改易される中で浅野家だけが命脈を保っていた。赤穂浅野家はその広島浅野家の分家である。そして一族の誰かが問題を起こしたら本家にも類が及ぶ。そういう時代である。

徳川将軍家にとって松の廊下事件は、目障りな吉良・浅野の両家を取り潰す機会でもあったわけである。

しかし、徳川家も吉良上野介には簡単に手出しできない状況があった。吉良上野介の長男・三之助が、米沢・上杉氏の養子に入り、藩主・上杉綱憲となっていたのである。吉良に処分を下すと上杉からの反発があるのは目に見えており、吉良がお咎めなしとなった理由の一つとして出羽国主・上杉氏の存在があったのかも知れない。

さて、当主を失い、浪士となった赤穂の侍たちであるが、当初の目標は吉良への復讐ではなく、長矩の弟、浅野大学長広を次期藩主としてお家の再興であった。しかし、赤穂浅野家の再興は許されず、浅野大学は永蟄居処分。赤穂城にいた浪士たちは芸州広島の浅野本家から大人しく開城するよう命じられ、これに応じている。この頃から巷間でも赤穂の浪士たちが吉良に復讐するのではないかという噂が立つようになった。

吉良邸に討ち入りがあるとしたらリーダーとなるのは当然ながら家老の大石内蔵助良雄をおいて他にない。しかし大石はといえば、京の東にある山科に閑居し(現在、大石の山科邸の後に大石神社が建っている)伏見の橦木町遊郭への出入りを繰り返しており、家老時のあだ名である「昼行燈」そのものの行動を見せる。もっともそれは見せかけだけで、橦木町遊郭では吉良邸討ち入りのための密議が行われていた。ただ大石はなかなか旗幟を鮮明にしない。そうこうしているうちに江戸の堀部安兵衛らが自分達で行動を起こそうとしてるという情報を入る。ちなみに、大石内蔵助が祇園の一力で遊んだという話が広まっているが、一力で遊んだのは「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助で、大石が一力に出入りしたという事実はない。

江戸でも動きがある。吉良上野介が呉服橋から本所松坂町への屋敷替えを命じられたのである。呉服橋は町中の大名屋敷街であったが、本所松坂町は隅田川の東、当時はまだ下総国である新興住宅地。江戸最大の歓楽街である両国がすぐそばに出来るのはまだ先の話である。江戸の渦郭式町並の外でもあり、討ち入ろうと思えばいつでも討ち入れるような守備の手薄な場所でもあったわけである。このことについて、幕府が赤穂浪士に吉良を討たせるよう仕向けたという説も存在する。

討ち入り決行のための環境は整っていた。

元禄15年12月14日は、浅野内匠頭の祥月命日であった。吉良は屋敷を空けることも多く、首を挙げるには吉良が確実に在宅している日を狙う必要がある。この日、吉良邸で吉良も出席する茶会が開かれることを赤穂浪士たちはつかんでおり、吉良上野介が屋敷にいることは明白であった。なお、残念ながらこの日は雪ではない。雪が降っているのは芝居の中だけの話である。

さて、ここからは有名な討ち入りの話となるのだが、「忠臣蔵」が日本を代表する敵討ちの話として人気があり、赤穂浪士たちが忠臣の鑑として褒めたたえられるのもある意味当然といえる。討ち入りがあったその日から、隅田川界隈では町人たちが吉良の首を掲げて泉岳寺へと向かう浪士たちに喝采を送り、握手やサインまで求めたという話が残っており、明治に入ってからも泉岳寺には「忠臣蔵」大好きの川上音二郎が毎月墓参に訪れていたりする。討ち入りの直後から今日に至るまで赤穂義士はずっと人気なのだ。

なのであるが、この「忠臣蔵」、本当に美談なのだろか? 客観的に見れば、一人の老人を四十七人の大の男が追い詰めて殺す話であり、陰険な印象まで受ける。

本所松坂町には現在、小さな公園が出来ており、吉良上野介義央の像が建っており、この像を見て吉良をしのぶ人も少なくないように思う。「悪人吉良を正義の赤穂浪士たちが討ち果たす」果たしてそんな筋書きだけで良いのだろうか?

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園内 吉良上野介義央公像

赤穂浪士には討ち入る大義があるように思われる。主君を自害に追い込まれ、お家の再興もならない。「ならば吉良邸に討ち入って華々しく散ろう」。これが巷間流布されている討ち入りの大義である。しかし、実は浪士たちは自分達全員が切腹処分になると覚悟していた節はどうやらないようなのである。仇の首を取って潔く散るためでなく吉良邸に討ち入った理由が浮上する。浪士になってしまったからには再就職を果たしたいという現実的で切実な理由である。本所松坂町での出来事は再就職のためのデモストレーションだったという説もある。忠義のために行ってはいたであろうが、「忠臣ぶりを発揮して他家に取り立てて貰おう」という計算をしていた浪士が一人もいなかったというのは美談に過ぎるようにも思われる。

討ち入りに至るまでには様々な要素が入り混じっている。将軍・綱吉は母親への従一位贈位に腐心しており、朝廷からの勅使の前でいいところを見せておきたかったのだが、それに冷水を浴び去るような出来事が起こった。そのために浅野内匠頭は即日切腹となるもこれが遺恨となった。刃傷沙汰の理由はわからないものの、吉良上野介は幕府から目を付けられる出自を持っていた。赤穂浅野家再興はならず、お取りつぶしが決まったが広島の浅野本家を守るために抵抗は出来ず、最早やることといえば吉良邸の討ち入りしか見いだせなくなった。幕府も吉良に直接処分を下せば米沢上杉家の離反を招くかも知れないが、赤穂浪士に討ち入らせたなら自らは手を下すことなく目の上のたんこぶである吉良家を取り潰すことが出来る。

歴史というものは一人の作者によって書かれるものではない。トルストイが『戦争と平和』で繰り返し書いたように巨大な流れがあり、人一人はその流れの中の一要素に過ぎないのである。しかし様々な要素がまじりあった結果、一つのストーリーようなものが出来上がる。最も有名なのが「忠臣蔵」として知られるストーリーである。しかしそこには綱吉の姿も、桂昌院への従一位贈与問題も、上杉家の事情も見えない。諸要素が取り除かれて、「悪を正義の士たちが討つ」というわかりやすい話に仕立てられている。あるいはあったかも知れない徳川の陰謀は美談の後ろに消えてしまっているのである。また浪士の志が一つだったとすることで個々の事情なども見えなくなってしまっている。本当は忠義よりも大切なものがあったかも知れないのに。浪士が全員切腹させられたことで小さなストーリーはこの世に証拠すら残すことなく消え去ってしまった。

勧善懲悪のストーリーに、人々は歓呼の声を挙げる。そこにあったかもしれないもう一つの、あるいは複数の物語に思いをはせることなく。

元禄15年12月14日夜、本所松坂町で起こったのは、一人の老人を四十七人の浪士が襲い、首を挙げたということである。悪や正義がどちらにあったのか、あるいはどちらにもあったのかなかったのか。そのことは歴史に準備されたことをなぞっただけだったのかあるいは個人の意思によるものだったのか。彼らが本当に望んでいたことがその他にあったのか。小さな団体が巨大な組織の手のひらで転がされただけなのかあるいは風向きを変えることに成功したのか。

 

その後、四十七士は名誉の切腹となり、吉良上野介義央の孫である義周は事件の責任を取らされて改易処分となった。桂昌院は無事に従一位を賜り、将軍・徳川綱吉は討ち入り事件の6年後に死去。浅野内匠頭の処分に深く関与していたといわれる柳沢吉保は順当に出世し、広島浅野家は英雄となった大石内蔵助の息子・大三郎を家臣として召し抱え、重用した。

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2018年1月23日 (火)

油小路の変 新選組崩壊への道程

※ この記事は2017年12月13日に書かれたものです。

 

伊東甲子太郎

慶応3年11月18日(1867年12月13日)、新選組元参謀(ナンバー2)で、御陵衛士首座の地位にあった伊東甲子太郎(新選組脱退後は伊東摂津と名前を変えていますが、紛らわしいので伊東甲子太郎で統一します)が、新選組局長・近藤勇の私邸での酒席に臨んだ帰りに大石鍬次郎らに襲撃され、油小路の本光寺門裏にて絶命するという油小路の変が起こりました。坂本龍馬暗殺の3日後の出来事です。大石鍬次郎は維新後に伊東暗殺を自白したため、打ち首となっています。

新選組隊士らは、御陵衛士の殲滅を企図し、「士道に背く」ととれる行動に出ます。伊東の遺骸を七条通まで運んで放置。御陵衛士隊士たちが伊東の亡骸を引き取りに来るのを待ち伏せして襲撃し、全滅させようとします。御陵衛士に加わっていた藤堂平助(津・藤堂家のご落胤説あり)は、新選組結成以前の江戸・試衛館時代から近藤の盟友であったため、二番隊組長・永倉新八や十番隊組長の原田左之助らに「平助だけは見逃せ」と近藤や土方からの指示が出ていたといわれていますが、藤堂は逃げることを潔しとせず、討ち死にして果てました。新選組と御陵衛士の戦闘現場となった七条油小路には、御陵衛士らの指など体の一部がいくつも転がっていたと伝わっています。かつてのナンバー2と以前からの盟友が他界することになったこの事件は新選組の終焉を早めた事件とみなすことが出来るように思います。

さて、伊東甲子太郎とは何者かという問題から入りたいと思います。坂本龍馬が暗殺される直前、潜伏先の河原町・近江屋を伊東が訪ねていることがわかっています。伊東は坂本に「新選組があなたの命を狙っているので気を付けるように」との忠告を行ったといわれています。身を潜めていた時期の坂本と会うことが出来ているため、二人が親しい、少なくとも互いの顔を知っている間柄であったことがわかります。

伊東甲子太郎は、最初の名を鈴木大蔵といい、新選組九番隊組長であった鈴木三樹三郎の実兄です。常陸国の出身で水戸で学んでおり、実は近藤によって壊滅させられた芹沢鴨ら水戸派と近しい尊王思想の持ち主でした。江戸に出て、伊東誠一郎に剣術を学び、実力を認めれて師の婿養子となり、伊東大蔵として伊東道場の主となりました。この時期に伊東道場に通っていたのが藤堂平助であり、伊東と藤堂は子弟の関係となっています。伊東の新選組入隊を斡旋したのは藤堂と見てほぼ間違いないと思われます(藤堂平助が伊東に新選組乗っ取りを持ち掛けたという話がありますが真偽不明)。新選組に入隊したのが元治元年が甲子の年であったため、伊東は甲子太郎を名乗ります(「かしたろう」と読みますが、永倉新八はなぜか「きねたろう」を間違って記憶していました)。

伊東は新選組加入に際して実力を大いに認められ、いきなりナンバー2の座として新設された参謀に就任、文学師範も兼任します。それまでのナンバー2は総長の地位にあった山南敬助(さんなん けいすけ)でしたが、伊東の参謀就任により山南は隊内での求心力を失い、切腹へと追い込まれたとする解釈も存在します。

問題は伊東甲子太郎という男の在り方でした。水戸に学んだ伊東甲子太郎は強烈な尊王思想の持主。しかも当時において英語を話し、町を歩けばすれ違う女がみな振り返るといわれるほどの美男子でもありました。同じ美男子でも尊王佐幕で本格的な学問に励んだことのない土方歳三や、同じく尊王佐幕で「御公儀(徳川家)第一」「攘夷」を掲げる近藤勇から見ても文学師範として夷狄の言葉である英語を教え始めた伊東は面白い存在ではなかったはずです。新選組の主導権を伊東に奪われるのではという危機があったかも知れません。

そもそも伊東の新選組入隊の目的は、新選組の戦力をもって朝廷の私兵たらしめるためだったと言われており、まさに清河八郎斎藤正明の建策と軌を一にするものでした。

新選組では脱退は御法度でしたが、近藤も危険人物とみなすようになった伊東の「孝明天皇の陵を守る隊として独立したい」という提案は、平和裏に袂を分かつ手段として体面的には望ましいことだったでしょう。

しかし、新選組の分裂はこれで三度目になります。京都に着いてすぐの新徳禅寺での清河八郎との決別、芹沢鴨ら水戸派の粛清(その前に殿内義雄暗殺もありました)、そして伊東一派の離脱です。伊東には近藤子飼いの藤堂平助も同行。近藤にとってみれば愛弟子に背を向けられたようなものです。このまま行けば新選組の空中分解は避けられそうにありません。新選組三番隊組長で、沖田総司と双璧をなすとまでいわれた剣の使い手である斎藤一をスパイとして御陵衛士に送ったというのはほぼ間違いないでしょう。さすがに本当に斎藤が離反したのだとしたらこの時点で新選組は王手をかけられたことになりますので。

伊東甲子太郎の暗殺に近藤が直接的な命令を下したのかは今でもわかっていません。ただ、私邸の酒宴に呼び出し、酔わせてから暗殺するという手段は芹沢鴨暗殺に似たものがあり、関与を匂わせています。

幕末を駆け抜けた剣豪集団であり、歴女たちのアイドルでもある新選組ですが、その歴史は粛清の歴史であり、その過程も手段も似ています。邪魔になる相手は斬る。それも徹底的にです。新選組が私的警察であり、御公儀に逆らう者の捕縛と最終手段としての殺害を受け持っていたということから、そうした性質を持つのも当然なのかも知れません。しかし味方に対しても容赦なく牙をむき、殲滅を目指す組織が長続きするはずがないのです。三度目の同士討ちを行ったこの時点で新選組の命運は尽きたのかも知れません。その後、新選組は西本願寺に勝手に屯所を移し、その後、新選組を煙たがった西本願寺の出費により(つまりお金を払ってでも出て行ってほしかった)不動堂村に大名屋敷並みといわれた屯所を築きますが、壬生時代のような栄光を取り戻すことは一切できず、約5年という短い歴史に幕を下ろします。

坂本龍馬という人物に関してはまだ謎の部分も多いのですが、彼が合議制による新世界を目指していたことは間違いのないところです。龍馬一人のみならず、時の将軍である徳川慶喜もまた幕藩体制ではなく多くの意見によって築かれる新時代を模索していました。本来、徳川を守る存在であった新選組は徳川将軍家と幕臣たちの意図を汲めず、完全に時代を見誤っただけでなく、隊の保身のために邪魔者を排除し続けるという旧態依然の象徴的存在になってしまいました。ある意味、時代のあだ花です。

実は新選組はその知名度に比して、歴史的な研究がほとんど進んでいない組織としても有名です。歴史家の間では「研究に値しない団体」とまでみなされており、研究対象として注目されるようになったのは、2004年の大河ドラマ「新選組!」放送以降です。

その武勇がクローズアップされがちな新選組ですが、私はむしろ「新選組はなぜ瓦解したのか」に注目したいと思います。会津中将松平肥後守容保からの覚えも目出度く、トップ(近藤勇)とその片腕(土方歳三)が農民階級出身でありながらほぼ全員が幕臣に取り立てられるという異例の出世を遂げた、ある意味「夢の組織」「成功したベンチャー」であった新選組。しかし、「邪魔無駄排除」という思想によって命を縮めました。

邪魔なものや無駄なものを排除する。これは、昨今吹き荒れている新自由主義の発想に似てはいないでしょうか。「スリム化」の美名のもと、多くの企業が無駄を排除する経営を行っています。無駄を許容する体力がないということでもありましょう。しかし世界は多くの無駄なものによって形成されているのです。「排除の理論」が通ったら果たしてどうなるのか。

「排除」という言葉を使ってしまったため選挙に惨敗した政治家がいました。その敗北の姿は新選組にも重なるような気がするのです。

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2018年1月19日 (金)

西郷どんの顔

※ この記事は、2017年12月18日にかかれたものです。

 

Saigo

1898年12月18日、上野公園で西郷隆盛銅像除幕式がありました。作は高村光雲(高村光太郎の実父としても有名です)。西南戦争での西郷の自刃から21年後のことです。ただこの時、西郷未亡人の糸さんが除幕式に立ち合い、「宿んし(主人)はこげんなお人じゃなかった」と語ったというエピソードは有名です。また西郷を高く評価していた板垣退助は、上野の銅像の出来に不満であり、自らが動いて西郷の顔によく似た肖像画を作らせています(現在は行方不明)。

2018年の大河ドラマ「西郷(せご)どん」の主役である西郷隆盛。木戸孝允、大久保利通と共に「維新三傑」の一人に数えられ、知名度も抜群の人なのですが、本当はどんな顔をしていたのか、今になってはわからないという人でもあります。西郷は写真嫌いであり、俗に「幽霊と西郷には写真がない」といわれている通り、あの時代にありながら写真を一枚も残しませんでした。戊辰戦争時に東征大総統府下参謀などを務めた西郷ですが、文字通り参謀的な役割を担うことが多く、自身の顔が広まるのを嫌ったという話もあります。

西郷隆盛の顔としてよく知られているものは、上半分が西郷の実弟である西郷従道(じゅうどう)、下半分が西郷の従兄弟の大山巌の顔を参考に、明治天皇の肖像画などで知られるイタリア人画家のキヨッソーネの手がけた銅版画で、あくまでも肖像画であり、写真ではありません。キヨッソーネは西郷と面識はなかったそうで、あの顔は想像の産物です。西郷隆盛の軍服などが残っているのですが、それから推察すると従来のイメージほどには肥満体型の人ではなかったことがわかります。

一方で、生前の西郷に会ったことがある人が描いた肖像画がいくつか残っていますが、西郷隆盛の顔のイメージから大きく離れたものという印象を受けないのも確かです。意志の強そうな大きな目、角張った顔立ち、大きな耳が共通した特徴です。ともあれ、肖像画も西郷本人を目の前にして描いたものはないようで、決定版といえるものは存在せず、今後も現れることはないでしょう。

ただ、西郷隆盛の実際の顔がわからないということは、同時代の偉人達の多くが写真を残しており、本当はどんな顔をしていたのかわかっているからこそ問題になるわけで、それ以前の肖像画しか残っていない歴史上の人物と同列だと考えれば、特に問題ではありません。考えてみれば政治家の場合、顔が違ったら成したことも変わっていただろうと思われるケースは、ジョン・F・ケネディなど少数にとどまるはずで、顔の影響を重要視するのは、マスメディアが発達した時代の考え方なのかも知れません。

「それでも西郷の本当の顔が知れたいんだ!」という方(果たして何人いることやら)には、西郷の曾孫である西郷隆文氏の写真をご覧になることをお薦めします。肖像権侵害の可能性があるのでここには載せませんが、こちらのサイトなどで見ることが出来ます。「ああ西郷の顔だ」と納得される方が多いと想像します。

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月と文化

※ この記事は2017年12月4日に書かれたものです。

 

「でっかい月だな」

「月見れば千々にものこと悲しけれ 我が身一つの秋にはあらねど」(大江千里。おおえのちさと)

「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」(西行)

 

昨夜、12月3日の満月は、スーパームーンといって特別に大きな月でした。

私は深草にある京セラ美術館に行った帰りにスーパームーンを見ましたが、東山の山の端に鎮座まします満月は威厳があるというか、主張が強いというか、とにかく独特の風情がありました。

月は、人類の歴史において、常に特別な存在であり続けました。

日本においての月の神様は、月読神です。物静かな神様なので、姉の天照大神(太陽神)、弟の素戔嗚命(元々は海の神)に比べると地味な印象ですが、伊勢の月読宮は立派な社ですし、京都・松尾の月読神社(松尾大社摂社)は、安産の神様として、厚い信仰を集めています。

月は満ちてはかけるため、気まぐれな性質の象徴となっており、ギリシャ神話のヘカテーは、後世、魔女として扱われることになりました。

月にまつわる話として日本で有名なのは、なんといっても「竹取物語」。月に帰っていくかぐや姫の物語です。

さて、このかぐや姫の性格を「満ちては欠ける月のように気まぐれで、どうしようもなくわがままな箱入り娘」とする解釈がありますが、それにはどうしても承服できかねる部分があるので、独自の解釈を示してみたいと思います。

かぐや姫を月の国からのスパイだと仮定してみましょう。彼女は日ノ本の国での情報収集のために遣わされました。さて、見目麗しい赤子としておじいさんに拾われ、この国で生活するための基盤を築きますが、その美貌が災いして、多くの美男子より求婚されることになります。結婚してしまったら任務を遂行することも月に帰ることも叶わなくなってしまう。そこでかぐや姫は求婚者たちに絶対に実現不可能な要求を突きつけます。達成されることはないので結婚に漕ぎつけられることはないだろうし、相手を傷つけず、無理なく結婚の申し込みを断ることが出来る。それでも向う見ずにも宝を探すための危険を冒して命を落としてしまう者や、嘘をついて宝物を獲得できたなどの吹聴する輩が出てきてしまうわけですが、これはかぐや姫側の問題というよりも求婚者の浅ましさと見るべきでしょう。かぐや姫は放恣な性格のとんでも女ではなく、思慮深く相手思いな女性だったように思われます。

かぐや姫が月に帰る場面でも、多くの人が「月には返すまじ」と戦っているので、彼女は人々からあたかも月そのもののように愛されていたことがうかがえます。

最後に、月に対する大和心を表していると思われる、吉田兼好の『徒然草』からの一説を紹介して締めたいと思います。

 

「長月廿日の比、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。

よきほどにて出で給ひぬれど、なほ、事ざまの優に覚えて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口をしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。

その人、ほどなく失うせにけりと聞き侍りし」

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