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2018年2月14日 (水)

幻の沢村栄治

※ この記事は2017年12月2日に書かれたものです。

戦前の日本を代表する名投手、沢村栄治が、1944年の12月2日、乗船していた軍隊輸送船が撃沈されて戦死しました。享年27。

京都商業(現・京都学園高校)時代に山口千万石とバッテリーを組み、甲子園に出場。慶應義塾大学に進むかと思われましたが、京都商を中退してベーブ・ルースやルー・ゲーリックが来日した際の第2回日米野球に参加。トータルではいい成績は残せませんでしたが、1934年11月20日に草薙球場で行われた第10戦での好投で一躍名を挙げます(ただこの時、西日が邪魔してバッターボックスからボールが見にくかったという証言あり。ベーブ・ルースは沢村がドロップを投げる時に口を真一文字に結ぶ癖を発見。自分は倒れましたが、続くルー・ゲーリックにこの癖を教え、ゲーリックが沢村のドロップをソロホームランにして決勝点を挙げたといわれています)。

その後、大日本東京野球倶楽部に参加。1935年2月14日に横浜港から出帆したアメリカ遠征(大日本東京野球倶楽部は東京ジャイアンツというニックネームを名乗る)ではマイナーリーグ相手に登板。好投を披露し、「スクールボーイ・サワムラ」としてアメリカでも人気になります。ファンがサインを求めたので応じたところ、相手は実はファンではなく、サインしたのはメジャー球団の入団契約書だったという騒ぎがあったりもしました。

東京巨人軍に入団後、数々の賞を獲得。現在でも沢村の名はその年最高の先発完投型投手に与えらえる沢村賞に残されています。

さて、全盛時の並外れた快速球は今も伝説となっており、「150キロか160キロか」と話題になりますが、本格的な投球時の映像が残されておらず、沢村の投球と球速は幻となっていました。
近年、沢村栄治のものとされる投球映像が発見されました。

足を高々を挙げるフォームがトレードマークとされ、西本聖のような後継者を生みましたが、実際のフォームはそれほど足を高くは挙げていなったとされ、発見された映像でも足を自然に踏み出す姿が確認できます。

映像を解析したところ、「160キロ近く出ていた可能性がある」という結果が出ました。ただ、古い映像なのでコマ送りの速度が一定しておらず、映像だけで速度を断定することはできないというのが本当のところのようです。
今のところ、沢村の球速が何キロだったのかは、可能性しか語ることはできませんが、もう目にすることの不可能な幻だからこそ、その快速球へのロマンが無限に広がるような気がします。

沢村栄治よ永遠なれ。

中京大学スポーツ科学部・湯浅景元教授による沢村栄治の球速分析


巨人軍の同僚、千葉茂と青田昇による検証

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2018年1月21日 (日)

プロ野球 セントラル・リーグの愉しみ(3) ドラゴンズ、スワローズ編

※ この記事は2017年12月15日に書かれたものです。


中日ドラゴンズは、中京圏唯一のプロ野球団です。大都市圏に1チームというのは恵まれていることでもありますが、タニマチが幅を利かせやすいという難点があり、ドラゴンズの場合はタニマチがスターティングオーダーに容喙することが問題視されたりもしました。

名古屋でメイダイといえば名古屋大学(名大)のことなのですが、ドラゴンズはメイダイではメイダイでも明治大学(明大)出身者が多いのが特徴です。「燃える男」星野仙一を始め、初代エースの杉下茂、初優勝時の監督である天知俊一、牧野茂、川上憲伸、筒井壮(星野仙一の甥)、小笠原孝、岩田慎司、柳裕也らが明治大学野球部OBです。

本拠地は中日球場、ナゴヤ球場を経て、現在はナゴヤドームでホーム試合を行っています。

1954年の初優勝・初日本一以降、リーグ優勝はするものの日本一は逃すというパターンが続いていましたが、2007年はシーズン2位ながらクライマックス・シリーズで逆転、日本シリーズでも山井大介、岩瀬仁紀の継投パーフェクトがあるなど北海道日本ハムファイターズを圧倒して実に53年ぶりの日本一になりました。ただシーズン1位通過での日本一は今なお1954年が最後です。

近年では広いナゴヤドームを本拠地としていることもあり、投手力を徹底して補強する守りのチームとなっています。

エースナンバーを20とするなど、独自の系譜を持っている球団でもあります。読売ジャイアンツのV10を阻止したチームでもあり、それ以来のファンが多いのも特徴です。

 

野村克也を監督に据えた1990年代にID野球で球界を席巻した東京ヤクルトスワローズ。本拠地としているのは学生野球のメッカでもある明治神宮球場です。

1950年に社会人野球の強豪だった国鉄鉄道局がプロ化を目指し、外郭団体などを親会社とするウルトラCの手段でプロ球団・国鉄スワローズとなりました。しかしチームのメンバーは国鉄鉄道局の選手が主体。アマチュアでは強豪でもプロでは心もとない。「名古屋にとてつもなく速い球を投げる少年がいる」という話を聞きつけた西垣徳雄監督がその少年・金田正一をスカウト。金田は享栄商業(現・享栄高校)を中退して国鉄入りします。

金田正一という大エースがいたものの、エース一人ではどうにもならず、国鉄は万年Bクラス球団でした。金田も親会社がサンケイグループに変わるのを機にBクラス球団所属10年制度を使ってジャイアンツに移籍します。

サンケイスワローズ、サンケイアトムズ、アトムズ時代もパッとしなかった球団ですが、チーム名をヤクルトスワローズに変えてから4年目の1978年に広岡達郎監督のもとで初優勝。絶対的エースの松岡弘、「ペンギン」安田猛といった投手陣に、「赤鬼」チャーリー・マニエル、「月に向かって打て」大杉勝男、「小さな大打者」若松勉らの打線がかみ合い、日本シリーズでも阪急ブレーブスを下して日本一に輝きました。ただ、この時は神宮球場の優先使用権が東京六大学野球にあったため、日本シリーズのホームゲームでは後楽園球場を使用しています。

神宮球場で日本シリーズが開催されるようになったのはやはり1990年代で、投手では岡林洋一、西村龍次、川崎憲次郎、石井一久、伊藤智仁、高津臣吾、打者では広沢克己、池山隆寛、古田敦也、飯田哲也、稲葉篤紀、土橋勝征、真中満らが神宮球場で躍動。チーム層が薄かったため、優勝の翌年には疲れ果てたのかBクラスに転落、その翌年にまた優勝というエレベーターチームではありましたが、一時代を築きました。日本一に輝いた回数は5回で、これはさりげなくセ・リーグ単独2位の記録だったりします。

ヤクルトの企業イメージそのままの「ファミリー球団」を指向しており、明るくのびのびとしたチームカラーで、退団後にヤクルト本社でお世話になる選手もいます。「そんな体質だから弱いんだ」という声もありますが、球界のオアシスのような存在であり、「アンチのいない不思議な球団」としても知られています。

近年では徹底した打のチームであり、2013年には総得点数が12球団1位なのに投手陣が崩壊していたために最下位という珍記録(総得点1位のチームが最下位になるのは日本プロ野球史上初)を生みました。

東京に本拠地を構えるセ・リーグ球団同士としてジャイアンツのことは強く意識しており、慶大罰の強いジャイアンツに対抗して早稲田大学出身の選手を多く取る傾向が以前はありました。

背番号の象徴的意味合いは他のチームよりも濃く、1が「ミスタースワローズ」の背番号(若松勉→池山隆寛→岩村明憲→青木宣親→山田哲人)。エースナンバーは17(松岡弘、川崎憲次郎、川島亮、成瀬善久ら)で、23は藤井秀悟、青木宣親、山田哲人と引き継がれた出世番号です。

日本のプロ野球では、高卒か高卒社会人経由の投手がエースを張ることが多いのですが、21世紀入ってからのスワローズでは、青山学院大学出身の石川雅規、日本大学出身の館山昌平、創価大学出身の小川泰弘といったように大卒エースの系譜が出来ているのも大きな特徴です。

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プロ野球 セントラル・リーグの愉しみ(2) ジャイアンツ、タイガース編

※ この記事は2017年12月15日に書かれたものです。


現存するプロ野球チームの中で最長の歴史を誇る読売ジャイアンツ。大日本東京野球倶楽部を前身とし、かつては後楽園球場を、今は東京ドームを本拠地としています。

リーグ優勝回数はセパ両リーグ中ダントツとなる45回、日本一に輝いた回数も22回と他を圧倒しています。

ジャイアンツというニックネームは、当時、アメリカで最も強く、人気もあったニューヨーク・ジャイアンツ(現在のサンフランシスコ・ジャイアンツの前身)に由来しており、元々は大日本東京野球倶楽部が渡米した際に付けられた臨時名称でしたが、すぐに公式ニックネームに採用されています。

日本プロ野球が発足する際、「プロ野球が世間の信頼を得るためには大学のスター選手を入れないといけない」ということで、早稲田大学の三原修、慶應義塾大学の水原茂を相次いで加入させます。三原と水原は不仲というわけではなかったのですが、のちに三原がジャイアンツを去り、水原が監督に就任したことで、その後長きに渡るジャイアンツの慶応閥が始まりました。

ジャイアンツは好き嫌いは別として日本最高の名門球団であることは間違いないため、名選手が綺羅星の如く並んでいます。沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒン、中島治康(日本プロ野球における初代三冠王)、川上哲治(赤バット。打撃の神様)、千葉茂(猛牛)、青田昇、別所毅彦、中尾碩志(初代背番号18のエース。ちなみに左腕である)、藤本英雄(日本プロ野球完全試合達成者第1号)、城之内邦雄(エースのジョー)、金田正一、長嶋茂雄(ミスタージャイアンツ)、王貞治(世界最多本塁打記録保持者)、藤田元司、堀内恒夫(V9のエース。悪太郎)、高橋一三(元祖・左のエース)宮田征典(八時半の男)、江川卓(怪物)、西本聖、原辰徳、桑田真澄、斎藤雅樹(平成の大エース)、槙原寛巳(ミスターパーフェクト)、松井秀喜(ゴジラ)、清原和博、高橋由伸、上原浩治。これらがジャイアンツのユニフォームに袖を通した選手たちです。

永久欠番の数も12チーム最多で、1(王貞治)、3(長嶋茂雄)、4(黒沢俊夫)、14(沢村栄治)、16(川上哲治)、34(金田正一)と実に6つもの永久欠番が存在します。

 

ジャイアンツとの対戦が「伝統の一戦」として盛り上がるのが阪神タイガース。日本で2番目に長い歴史を誇る球団です。本拠地はいわずと知れた阪神甲子園球場。旧称は大阪タイガースであり、大阪の球団というイメージが強いタイガースですが、阪神甲子園の所在地が兵庫県西宮市ということで、保護区域は兵庫県ということになっています。

タイガースというニックネームは、当時、アメリカで強かったデトロイト・タイガースに由来します。

実はジャイアンツの応援歌(「読売ジャイアンツの歌(闘魂込めて)」)とタイガースの応援歌(「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」)は作曲者が一緒(古関裕而)だったりします。

大阪を中心に、ジャイアンツと人気を二分しているタイガースですが、必ずしも強いチームというわけでもなく、セ・リーグ制覇は9回あるものの、日本一に輝いたのは1985年のわずか1度だけです。ただその1985年のタイガース優勝は社会現象になりました。

所属選手にも人気者・実力者が並びます。景浦将(沢村栄治のライバル)、若林忠志(元祖背番号18のエース)、藤村富美男(物干し竿)、吉田義男(今牛若丸。ムッシュ)、藤田平、小山正明(針の穴をも通すコントロール)、村山実(ザトペック投法)、江夏豊(シーズン奪三振世界記録保持者)、田淵幸一、掛布雅之(ミスタータイガース)、真弓昭信(史上最強の1番バッター)、岡田彰布、ランディ・バース(史上最強の助っ人外国人)、小林繁、赤星憲広、井川慶、金本知憲、藤川球児、今岡誠、福留孝介、鳥谷敬といった選手が挙げられます。

打高投低のシーズンが多く、1985年の日本一の年もエース不在で、この年のタイガースは今に至るまで「打だけで日本一を勝ち取った唯一のチーム」といってもいいでしょう。

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プロ野球 セントラル・リーグの愉しみ(1) ロビンス、ベイスターズ、カープ編

※ この記事は、2017年12月15日に書かれたものです。

 

1949年12月15日、セントラル・リーグが成立。それまで1リーグ制だった日本プロ野球は2リーグに分裂します。日本プロ野球への新球団参入を認めないチームがセントラル・リーグ(セ・リーグ)を立ち上げたわけですが、数合わせのためもあって、複数の新球団がセ・リーグに加わりました。

セ・リーグ結成時の球団は、読売ジャイアンツ、松竹ロビンス、中日ドラゴンズ、大阪タイガース(現・阪神タイガース)、広島カープ(現・広島東洋カープ)、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)、西日本パイレーツ(1年限りで活動停止)、そして期限ぎりぎりで加入したのが国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)です。

国有会社である国鉄がプロ野球団を持っていたことを不思議に思う方もいらっしゃると思いますが、さすがに国鉄本体がプロ野球チームを持つことは許されず、国鉄の外郭団体である交通協力会を中心に、鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社(現・JTB)などが親会社になっています。

 

1950年、第1回のセ・リーグ公式戦でチャンピオンに輝いた松竹ロビンスは、実は京都に本拠地を置く球団でした。フランチャイズは衣笠球場。この球場は現在・立命館大学衣笠キャンパスになっている場所にありましたが、今は往時をしのばせるものは何も残っていません。立命館大学衣笠キャンパスは今でも交通アクセスが不便なことで知られていますが、それは昔も変わらず、本拠地球場として登録されていながら、実際はロビンスは難波駅の目の前にある交通至便な大阪球場でホームゲームのほとんどを行っていました。
松竹ロビンスは後に大洋ホエールズと合併します。

その大洋ホエールズ。大洋漁業を親会社とするチームで、当初の本拠地は山口県下関市に置かれていました。ホエールズは3年間、下関市営球場(現存せず)でホームゲームを行っていましたが、松竹との合併により、本拠地を大阪球場に移転。更に川崎球場時代を経て、現在の横浜スタジアムを本拠地とするに至っています。
大洋ホエールズはとにかく弱い球団でした。1960年に、知将・三原修の三原マジックによりセ・リーグ制覇と日本一を達成しますが、その後は鳴かず飛ばず状態。カミソリシュートでお馴染みの平松政次が長年に渡ってエースを張り、通算201勝で名球会入りを果たしていますが、平松は優勝の経験がありません。名球会入りしている投手でリーグ優勝経験がないのは平松一人だけです。

今も記憶に新しい1998年。権藤博監督率いる横浜ベイスターズはマシンガン打線と呼ばれた強力打撃陣と、「ハマの大魔神」こと佐々木主浩を守護神とした投手陣の踏ん張りで38年ぶりのセ・リーグ制覇を達成。日本シリーズでも西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)を4勝2敗で下して日本一に輝きました。この1998年の横浜ベイスターズの快進撃は社会現象となり、1998年は「横浜ベイスターズの年」として記憶されているといっても過言ではないほどです。

横浜の市民球団を目指していた横浜ベイスターズですが、TBSが撤退し、DeNAが親会社となることで横浜市民球団としての色彩は後退しました。ただDeNAは野球に力を入れており、ファンも増加。今年、2017年にはリーグ3位ながらクライマックス・シリーズを勝ち上がって日本シリーズに進出。福岡ソフトバンクホークスに敗れはしたものの、健闘は称えられました。

大洋ホエールズ、横浜ベイスターズ、横浜DeNAベイスターズの名選手というと、先に挙げた平松政次が第一に挙がるでしょうが、「ハマの番長」として横浜ファン以外にも愛された三浦大輔、「ハマの大魔神」佐々木主浩、ウォーレン・クロマティに「メジャーでも通用する」と断言された遠藤一彦、打者ではスーパーカートリオと呼ばれた俊足の高木豊、加藤博一、屋敷要が有名です。

 

日本初の市民球団として知られるのが広島東洋カープです。広島市と広島県をフランチャイズとして、かつては広島市のど真ん中にあった広島市民球場、現在はメジャーリーグの球場を参考にしたマツダズZoomZoomスタジアム(新・広島市民球場)を本拠地としています。

創設に当たって樽募金が行われたことが有名ですが、この樽募金は実は今も続いています。

カープな長年に渡ってセ・リーグのお荷物扱いされていましたが、1975年に古葉竹織監督の下で初優勝。この広島カープ初優勝も社会現象になりました。ただ日本シリーズでは阪急ブレーブスに敗れています。

カープが日本一に輝いたのは、1979年のことです。3勝3敗で迎えた日本シリーズ最終戦。舞台は今はなき大阪球場ですが、ここで今も語り草になっている「江夏の21球」がありました。1点リードで迎えた9回裏、広島の守護神となっていた江夏豊がノーアウト満塁のピンチを招きながら一死後、スクイズをカーブの握りのまま外すという離れ業で三塁ランナーをタッチアウトとして二死。そして石渡茂を空振り三振に切って取り、日本を決めました。

広島東洋カープは1980年代には投手王国を築いて常勝球団となりましたが、1991年の優勝を最後にリーグ制覇から遠ざかり、2016年に実に四半世紀ぶりのセ・リーグ王者となっています。

広島の名選手というと、ともに名球会入り&永久欠番となっている「ミスター赤ヘル」山本浩二(背番号8)と「鉄人」衣笠祥雄(背番号3)が双璧でしょう。山本浩二はオールスターでのホームランが14本で歴代1位、衣笠祥雄は連続出場試合日本記録保持者です。

投手で鮮烈な記憶に残っているのは、「炎のストッパー」津田恒実(津田恒実)。全球ストレート勝負で三球三振に打ち取られたバースは、「津田はクレージーだ」という言葉を残しました。

投手王国と呼ばれた時代の広島には、その他にも「精密機械」北別府学、「月に向かって投げる」大野豊、「奪三振マシーン」川口和久ら錚々たるメンバーが揃っていました。比較的最近の選手として大きな業績を残した投手に、前田健太、黒田博樹(背番号15は永久欠番に)らがいます。

打者では、「天才」前田智徳、「曲者」達川光男、そして今では「史上最強のセカンド」菊池涼介や「神ってる」鈴木誠也がカープの顔となっています。

カープの野球は伝統的にディフェンス重視で、レベルの高い投手と守備陣で失点を最小限に抑える野球を行う傾向にあります。

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2018年1月12日 (金)

ヴィクトル・スタルヒン散る

その車は、世田谷区三宿の国道246号線を走っていた。そしてそのまま三宿駅に停車中の渋谷発二子玉川行きの列車に激突。運転していた男は病院に搬送されたが30分も経たないうちに死亡した。その男、ヴィクトル・スタルヒンは、東京巨人軍、パシフィック、太陽ロビンス、大映スターズ、高橋ユニオンズで活躍し、日本プロ野球初の300勝を挙げ、シーズン42勝の日本記録を持つ大エースだった。

スタルヒンは、白系ロシア人の子供だった。スタルヒンの両親は、ロシア革命から逃れるためにシベリアへ。さらに中国東北部のハルビンを経て北海道・旭川へと渡ってきた。スタルヒンは無国籍であった。

旧制旭川中学校時代に好投手として注目を浴びる。全国中等学校野球選手権(現在の全国高等学校野球選手権)北海道予選では決勝まで進みながら夏の甲子園に届かず。北海道時代に対戦したチームのスタルヒン評が残っているが、「ボールが見えない。煙にしか見えない」というものでスタルヒンの傑出したスピードをうかがい知ることが出来る。
その後、旭川中学校を中退して全日本東京野球倶楽部に参加。スタルヒン自身は旭川中学校に残りたかったが、全日本東京野球倶楽部は恫喝手段を用いてでもスタルヒンを手に入れたがっていた。

そして、東京巨人軍に入団。沢村栄治と共に二枚看板として巨人軍の投手陣を支えた。
無国籍の人間であるスタルヒンは兵隊に取られることはなく、徴兵に応じて戦地に赴いた沢村栄治に代わって巨人軍のエースとして奮闘するも、敵性外国人との評価を受けるようになり、その疑いを晴らすために須田博(すた ひろし)と改名。日本人になろうとするが、「どう見ても日本人じゃない」と申請を却下される。日本で育ち、日本語を母語とするスタルヒンにとってこの決定はショックであった。

その後、軽井沢に強制移住させられたスタルヒン。約2年間ほど野球から遠ざからざるを得なかった。
戦後の1946年。スタルヒンに巨人軍からの復帰の誘いがある。しかしスタルヒンはこれを断り、パシフィックに入団。この経緯については色々取り沙汰されるが、詳しいことはわかっていない。巨人軍とは確執があったらしいのだが、その内容については事実かどうか確認出来ないものもある。最も大きな要因としては実父のように慕っていた藤本定義が巨人から捨てられ、パシフィックの監督に就任したということが挙げられる。スタルヒンはその後も、一貫して地味なチーム、弱小球団を渡り歩くことになった。

沢村栄治に勝るとも劣らないといわれたスタルヒンのストレート。当時スピードガンがあったら何キロ出ていたのかということがやはり話題になる。巨人軍時代の同僚であった千葉茂や青田昇が、ピッチングマシンを使って、何キロの設定の時にスタルヒンのストレートと同等になるのかをマスコミの依頼で試してみたことがある。二人が「まあこんなもんやろ」と確認しあった時のピッチングマシンの設定は158キロであったといわれる。

運命の1957年1月12日、スタルヒンは旭川中学校の同窓会に出る予定だった。しかし彼が車を走らせたのは同窓会が行われる東中野方面とは真反対の道だった。最初は同じ会場に向かう同窓生を助手席に乗せていたのだが、途中で降ろし、同窓生に一人で向かうよう告げて車を走らせている。明らかにおかしかった。
そしてスタルヒンの運転する車は列車へと突っ込むのである。状況的にはどう見ても自殺だった。

愛されるキャラクターであったスタルヒンだが、生涯に渡って彼には孤独の影が付きまとう。アイデンティティとしては間違いなく日本人であると確信していたスタルヒンであったが、誰もそうは見てくれなかった。彼は日本人ではなく、外国人でもない無国籍人のデラシネであった。その死に際して、マスコミはスタルヒンの300勝という偉業を秘した。実績が数字になる野球というわかりやすい世界に生き、大記録を打ち立てたにも関わらず、最後まで日本人とは認められず日本人からも認められなかったのだ。

地面に白墨で300と書かれ、その横にしゃがんだスタルヒンが上にあるカメラに視線を送っている写真がある。300勝達成時の写真である。スタルヒンの現役最後のシーズンとなる1955年、高橋ユニオンズ時代に撮られたものだ。
満面の笑顔を浮かべているスタルヒンはとても幸せそうに見える。だがこの時から2年も経たないうちに彼は謎の死を遂げた。その胸に何が去来していたのか今となっては誰にもわからない。


旭川スタルヒン球場前に立つスタルヒンの像

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2018年1月 8日 (月)

『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』刊行記念「伝説の高速スライダー・伊藤智仁が関西凱旋! プロ野球人生25年をすべてぶっちゃける!」

2018年1月4日 大阪・宗右衛門町のLOFT PLUS ONE WESTにて

午後7時から、大阪・宗右衛門町のLOFT PLUS ONE WESTで、『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』刊行記念「伝説の高速スライダー・伊藤智仁が関西凱旋! プロ野球人生25年をすべてぶっちゃける!」というトークライブに参加する。『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』の主人公である伊藤智仁と著者である長谷川晶一による野球トークである。こちらも東京ヤクルトスワローズのホームレプリカユニフォームに「正装」して臨む。

客席の後ろの方は、伊藤智仁の古くからの知り合いが多いようで(後で知ったが伊藤の実兄も来ていたそうだ)、開演20分ほど前にステージに現れた伊藤智仁は、下手の階段を降りて、客席後方へと歩いて行った。


まず長谷川晶一が登場し、東京ヤクルトスワローズの応援歌「We are the Swallows」の流れる中、伊藤智仁が登場。「俺が歌うの?」とボケる。その後、昨日放送されたTBS系列「消えた天才」をモニターに映す際には、「俺が映すの?」とまたボケていた。


「史上最高の投手は誰か?」という問いに対する答えの中に必ず挙がっている伝説の最強エース・伊藤智仁。エースと書いたものの、実際には伊藤智仁がエースであったことはない。なったことがあるのはリリーフエースだが、それ以上に1993年のルーキーイヤーの輝きが鮮烈である。規定投球回数には足りなかったものの、防御率は驚異の0点台。実働3ヶ月ほどだったにも関わらず、松井秀喜を抑えて新人王を獲得している。
伊藤が三菱自動車京都在籍時代にバルセロナオリンピック壮行プロアマ交歓試合で対戦した古田敦也が「来るとわかっていても打てない」と語った高速スライダーと伸びのあるストレート、プロに入ってから覚えたフォークボールを武器にセリーグの並み居る強打者をなぎ倒して行く姿は、まさにヒーローそのものだった。ただ度重なる故障により、ヒーローは悲劇のヒーローに、エースはガラスのエース、幻のエースに変わっていく。
その悲劇性も相まって生きながら伝説となっている人物である。運動なら何をやっても超一流で「百獣の王」の称号を得ている武井壮は、ラジオ番組で「自分が思う史上最高の投手」として伊藤智仁を挙げており、高速スライダーがいかにして生まれたのかについても触れていた。

伊藤は昨シーズン、スワローズが球団ワースト記録となる96敗で最下位になった責任を取り、投手コーチを辞任。今年からはベースボールチャレンジリーグ(BCリーグ)の富山GRNサンダーバーズの監督に就任する。

まず伊藤のスワローズ入団の経緯。伊藤をドラフト1位指名したのは、ヤクルトスワローズの他に広島東洋カープ、オリックス・ブルーウェーブであった。その中で事前にスカウトが挨拶に来なかった球団がヤクルトだそうである。当時、スワローズフロントは松井秀喜を1位指名することで一本化されていたのだが、当時の野村克也監督が「何が何でも伊藤を獲れ」と厳命。ドラフト会議直前で方向転換している。
伊藤に声を掛けた球団は他にも西武ライオンズ、当時まだ福岡ダイエーだったホークスなどがあるそうだが、これらの球団は焼き肉をおごってくれたりしたそうである。当時からお金がないことで有名だった広島カープからはデニーズに呼ばれたそうで、カープらしいといえばカープらしい話である。それでも一番熱心だったのはカープだったそうで、「練習厳しい、(当時の広島市民)球場汚い、お金出ないという(皮肉を込めて)良い条件」のカープに伊藤は一番の好印象を抱いたようである。
巨人からは「うちはドラフト1位は松井秀喜で行くが、君が巨人にしか行かないと言えばドラフト2位で指名する」という条件(「球界の寝業師」こと根本睦夫がよく用いた手法である。根本は西武ライオンズ時代に目をつけた選手に「プロには行かない」と表明させ、大卒や社会人の選手はドラフト2位か3位、高卒の選手は下位指名で手に入れていた)が出されたが、「自分を高く評価してくれた球団の方がいい」ということで、巨人ファンではあったがこの話には乗らなかった。
スワローズに入団することになったが、神宮球場が東京にあるということも本気で知らなかったという。「三菱自動車京都というところにいたのですが、当時、神宮球場で投げてる」そうなのだが、「宿舎からバスに乗って目を閉じていたら(神宮球場に)着いてる」そうで土地勘が全くなかったらしい。「バルセロナオリンピック壮行試合も神宮球場で投げる」もののやはり神宮球場が東京にあるという認識はなぜかなかったらしい。プロアマ交歓試合で伊藤が投げている試合は私もテレビで見ている。

女房役であった古田敦也についてだが、プロの選手というよりもトヨタ自動車のキャッチャーという認識だったそうで、三菱自動車京都野球部入部して最初の年は予選で日本新薬に敗れてしまったそうだが、出来て間もない東京ドームを見に行きたいということで、新幹線に乗って日本新薬の試合を見に行ったそうである。その時の日本新薬の相手がトヨタ自動車だったそうで、古田ついては「ホームランを打ったんですけど、それ以外よく覚えていない」そうである。入団前の古田敦也の印象についても「打つのは特に凄いわけじゃない。スローイングだけは良い」と評して、長谷川に「なんでそんなに上から目線なんですか?」と突っ込まれていた。

長谷川は、古田にインタビューした際に、「僕が受けたことのあるピッチャーの中では伊藤智仁がナンバーワン」と古田が断言し、「特にスライダーは1番。スライダーという、プロのピッチャーなら10%投げる球の中で1番。松坂のスライダーも受けたことがあるけれど、伊藤のスライダーを見た後では松坂のスライダーも平凡に見えた」と言うのを聞いたそうである。
伊藤は、「松坂のスライダーもダルビッシュのスライダーも凄い」と語り、「ダルビッシュなんて、一度、春先に北海道でやったオープン戦で、春先だから仕上がってるじゃない、3イニング限定とかだし、本気で投げてきたら(ヤクルトのバッターが)打てない、掠りもしないんだもん」とコーチ時代のことを振り返っていた。

入団直後の思い出を語る。ユマキャンプでは古田と同室になったのだが、「古田さん、困ったことにあんまり寝ないんです」とのことで、年下で部屋子の自分が先に寝るわけにはいかないのだが、古田は「寝てていいよ」と言って出掛けてしまう。「寝てていいよ」とは言われたものの本当に眠るわけにもいかず、照明はつけたままにし、本を手にしてページの間に指を挟んで、あたかも「頑張って読書しながら起きてたんだけど寝てしまった」と見せかけて寝ていたそうである。古田も気づいていたはずだが何も言われなかったとのこと。
ユマでは十分に眠れず、日本に帰ってすぐに宮崎県でのキャンプが始まるということですっかり体調を崩してしまい、開幕1軍を逃すことになったそうだ。

ちなみに2軍でのデビューはイースタン・リーグ開幕戦の対ジャイアンツ戦だったのだが、ジャイアンツの1番バッターが松井秀喜という嘘のような顔合わせが待っていたそうだ。その試合なのだが、「松井にホームラン打たれたことしか覚えてない」という「カウントを取りに行ったスライダー」を打たれたそうである。ただ同期のドラフト1位ではあっても、伊藤の登板機会が少なかったということもあって、伊藤智仁と松井秀喜がライバルという感じはほぼない。「18歳だし、まだプロのスピードに慣れていないだろし」ということで伊藤も松井を特に意識してはいなかったようだ。


野村監督について。伊藤が野村監督に怒られたことは余りないそうだが、褒められたこともないそうで、一度、「(野村監督の真似で)『昨日、良かったな』と言われただけ」と語る。怒られるのはもっぱら古田敦也の役目だったそうで、古田はとにかく怒られていたらしい。伊藤の野球人生を象徴するような試合として語られる、1993年6月9日、石川県立球場での対巨人戦で、篠塚和典にサヨナラホームランを打たれた時には、野村が古田に対して激高したそうで、「ベンチ裏で古田さん、ずっと怒られてた。それを傍目で見ながら帰ったんだけど、こっちが引くぐらい怒られてた」そうである。その試合、伊藤は9回2死までにセリーグタイ記録となる16個の三振を奪っていたのだが、野村は「自分で新記録達成になるのを阻止するために篠塚は絶対当てに来る。そういうバッターに対してああいう配球をするとは」と怒り心頭に発したらしい。「誰が悪いって、打たれた僕が悪いんですけど」と伊藤は言う。「バッター篠塚か。ホームランは絶対にないな。せいぜいレフト前のヒットだろう」と舐めていたのも一因らしい。ただ篠塚のホームラン映像を見て、「球場、狭いですよね。70mぐらいしかない」と負け惜しみを言っていた(石川県立球場は確かに狭いしフェンスも低いが70mということはない)。
ドラフト指名以前の野村監督のイメージは、「陰気くさいおっさん」そして「怖そう」だったそうなのだが、入団してもイメージは変わらなかったそうだ。
「消えた天才」では、戸田市民会館で2時間ほどインタビューを受け(しかし使われたのはたった2分ほどだそう)、その後、スタッフに「(ヤクルト)戸田球場に行きましょう」と言われて、「え? なんで?」と思ったものの、行ってみると遠くに「あれ、野村監督じゃない?」という人影が見え、最初は別の取材かと思ったものの、「あれ? 野村監督ってTBSで解説持ってたよな」ということで、そういう番組だということに気づいたらしい。ただ、「僕も業界が長いので」どうやったらテレビ的に良いのかを考えながら「どうしたんですか?」などとしらばくれたそうである。

ルーキー時代のキャンプで、野村監督が打席に入って伊藤の投球を確認し、絶賛したということがあったのだが、伊藤はというと「当てたら困る」というので萎縮しがちになってしまい、野村監督のパフォーマンスを結構迷惑に感じていたそうだ。
また、松井秀喜が始球式で長嶋茂雄をバッターボックスに迎え、安倍晋三(ヤクルトファンとして有名である)が主審の位置に立った時のことを振り返り、「普通は投げられない。まともには投げられない。だからとんでもないとこ行ったじゃない」「よっぽどのアホでない限り投げられない」と語り、同じケースで始球式の話が来たらという振りに「俺だったら断る」と即答していた。


実は出演した時には、タイトルが「消えた天才」になるということも知らないままだったそうである。天才と言われることについては、「ありがたいとは思うけれども自分はそこまでではない」と思っているという。伊藤が「天才なのは自分ではなく」と言って挙げたのはスワローズ黄金期の左腕エース・石井一久である。
入団したばかりの伊藤は先輩の投手達、中でも岡林洋一や西村龍次といったエースピッチャーの投球を観察し、「自分が負けてる部分もあるが勝っている部分もある」と分析、石井一久に関しては「持っているものは凄いけど、荒削りに過ぎる」という印象だったという。「ただその潜在能力が嫉妬するぐらい凄い」そうである。とにかく球が速く、しかも左投手。最初の頃はストライクを取るのに汲々としている状態だったが、「うなりを上げるストレート」は驚異的だったという。「岡林さんや西村さんは真似しようと思えば真似られたけど、石井は真似出来ない、無理」だそうである。そして凄いのは球の速さよりも勢いや力強さだという。確かに90年代の絶好調時の石井一久の投球は相手がお手上げ状態になることがあり、ど真ん中のストレートでも空振り、バットに当たってもなかなか前に飛ばないという調子で、90年代のスワローズのエースといえば勝ち星からいっても石井一久だろうと思われる。1973年生まれの石井は、私と同い年の松井と1歳差であり、松井秀喜のライバルを敢えて挙げるならこれも石井一久ということになるのだろう。

伊藤と同学年のスワローズの投手にエースナンバー17を背負った川崎憲次郎がいた。伊藤曰く、川崎の「球自体はたいしたことない」そうだが、「シュートを覚えてから勝ち始めた。『お前、シュート覚えろ!』って言われてからすぐにものにした」そうである。伊藤はシュートは練習したが投げられなかったそうである。「こっち(スライダー)側に曲げる球は得意だったけど、こっち(シュート側)に曲げられなかった」と手振りを加えながら話す。
スワローズ現役のシュートピッチャーである原樹理と川崎憲次郎の比較になり、伊藤は「球の種類が違う。川崎のシュートはボール1個分しか曲がらない。だからバッターはストレートだと思って打ちに行って芯を外される。原樹理のシュートは結構曲がるが、バッターがシュートだと気づくから見逃す。見逃すとボールになる。ボールになったらいくらいい球でもただのボール。だから原樹理の場合はシュートでストライクが取れないといけない」のだが何度言ってもストライクが取れるようにはならないそうで、「コーチ(つまり伊藤本人)が悪かったんじゃないですか」と言っていた。

1990年代後半に、石井一久、川崎憲次郎と共に伊藤が三本柱に数えられた時には、互いに「あいつには負けない」というバチバチの空気を飛ばし合っていたそうである。

ちなみに野村時代からスワローズはストライクゾーンとその少し周りのボールゾーンを含めて9×9の81分割し、何番にボールを投げるかという作戦や指令があるそうである。ただ81分割というのはあくまで理想論で、実戦では2分割が4分割でやっていたそうである。「ヤクルトの場合は、アウトコースという指令は来ない。番号で来る」そうである。ストライクゾーン付近の81分割というと1個のマスは、「(人差し指と親指で輪っかを作って)これぐらい」だそうだが、「そこまでのコントロールはなかった」
長谷川が、「ライアン(小川)や原樹理も81分割で何番ってわかるんでしょうか?」と聞くと、伊藤は、「ライアンはわかってるだろけど、原樹理はどうかな? ミーティングに鉛筆持ってくるの忘れるような子だから」と答えて、客席から笑いが起こっていた。

野村監督のミーティングについてだが、練習後、午後6時から1時間ほど夕食の時間となり、午後7時からの1時間ほどがミーティングだったそうである。「ノートを見返すと凄いことが書いてある。コーチになってからも何度も見返すほど」だというが、「練習が終わって食事したら眠いじゃないですか」ということで、ノートにも「たまにミミズが這っている」。そして、「うちには、古田というキャッチャーがいたので」難しいことは古田に任せておけばいいかという空気があったという。もし野村ミーティングの凄さに当時気づいていたら「あと、2~3勝は出来た」と伊藤は言う。ちなみに通算で2~3勝である。伊藤曰く「野球は体でやるもので、頭で積み上げられるのはそんな程度」だそうである。


「怒り新党」の3大○○の映像も流れる。「消えた天才」は音声を消しての上映だったか、「怒り新党」は音声付きで、伊藤と長谷川、客席と共に映像を見る。「消えた天才」ではあたかも伊藤の現役生活が1993年の1年だけで終わってしまったかのような描き方だったが、「怒り新党」ではその後のリハビリや復活劇までもちゃんと描いているそうである。
石川県立球場での試合。伊藤の調子は決して良くなかったそうで、「三振でしかアウトが取れない」状態だったという。その証拠に16奪三振を記録したが、被安打は8と多い。
吉原孝介が打席に立っている映像が出たときに、長谷川が「(球数が多いので)バットに当たってとか思わなかったの?」と聞くと、「吉原風情じゃバットに当たらんって」と一笑に付し、伊藤が13イニングスを投げた甲子園での対阪神戦(ちなみに三塁側アルプススタンドはガラガラで笑い声が起こる。「あの頃、阪神弱かったからね」と伊藤)で新庄剛志を三振に打ち取った映像でも、「いっても新庄だよ。メジャーにも行ったけど」と一刀両断。ピッチャーらしい強気の性格は健在のようだ。
和田にヒットを打たれた場面で、伊藤が「後で聞いたら癖がわかってたみたい。だけど誰にも言わなかったって」と言い、長谷川が「いかにもプロという感じですが嫌らしい奴ですね」と話して、会場が爆笑に包まれる。その後も和田がヒットを打つ場面があり、解説の声が「和田、今日4本目の安打です」と言うのを聞いてまた爆笑が起こっていた。

ちなみにラスト登板となったコスモスリーグの対ジャイアンツ戦で伊藤は大胆不敵なことをやってのけるのだが、それは『幸運な男』を読んだ人だけのお楽しみとしておく。

伊藤は、由規のスライダーを「自分より上」と賞したが、「スライダーだけよ、他の球は屁みたいなもん」という。それでも「良くやってる方、あの野球音痴にしては」と言う。由規は入団当時は球の握り方も間違っているような状態であり、「キャッチボールが下手なピッチャーって結構いるけど、並外れて」下手だったそうである。「キャッチボールから教えなきゃいけない」選手だったそうだ。由規は左利きなのだが、右利きの兄のグローブをお下がりで貰って野球を始めたため右投げである(打撃は左で行う)。今はメジャーにいる岩隈久志も左利きだが右投げ、逆に右利きだが左投げの投手には今中慎二がいる。長谷川が「(由規は)左投げだったら良かったんじゃないか」と言うが、伊藤は、「いや、もっと駄目だったんじゃないの?」とつれなかった。


事前アンケートで客席からの質問を募集したのだが、長谷川が、「みんな優しい。『どうしてライアンを抑えに回したんですか?』という質問がない」と言って笑いを誘う。あの時点で「球に力があって、三振も取れて」というピッチャーがライアンしかいなかったため、抑えに起用したのだが、小川泰弘は怪我開けの上にリリーフの適性も欠き、七夕の夜のカープ戦で炎上して大逆転を許し、再び先発をやることになっている。

「寺島(成輝)、高橋(奎二)、梅野(雄吾)は今年活躍しますか?」という質問には伊藤は「今の時点では難しい」と答えた。「高橋は(龍谷大)平安高校から入って3年目かな。その間、怪我でほとんど出られない」という状態である。昨年のフレッシュオールスターなどでは好投したが、「そのうち体が大きくなるかなと思ってたけど、そうでもない」そうで、体力がまだまだのようだ。高橋は「左のライアン」といわれるほどダイナミックなフォームで投げるのだが、それを支えるだけのパワーがまだないのだろう。

「仲のいい外国人選手は誰ですか?」という質問に伊藤は「ハッカミー」と即答。「同い年」だそうである。ヤクルト在籍中は、「ブラット・ピット似の男前」といわれたハッカミーだが、伊藤は「今はデブのハゲだよ」という。
今も連絡を取ってる外国人選手については伊藤は、「ハッカミー、バーネット」と続けるが、最後に「オンドルセク」と言って、長谷川も「オンドルセク?!」とオウム返しになる。オンドルセクは味方の守備のミスに激高してベンチから謹慎を言い渡されるもアメリカに帰ってしまい、そのまま退団したという選手である。伊藤によるとオンドルセクは「ヤクルト球団はまだ怒ってるのか?」と聞いてくるそうで、「(アメリカの球団との)契約が取れないんじゃないですか」とのことだった。

外国人の話になったところで長谷川が、ヤクルトと横浜に在籍した投手で、スワローズ在籍中の2004年には開幕投手も務めたジェイソン・ベバリンの話をする。ベバリンは肘の怪我でヤクルトから自由契約になり、横浜に拾われたのだが肘は回復していなかった.。それでもベバリンは「投げたい」とベンチに直訴。当時の横浜の監督は投手出身の牛島和彦である。当然ながら無理はさせない方針だ。牛島は、「いいか、今投げたら今後投げられなくなるどころか、日常生活にも支障をきたすことになるかも知れないんだぞ。それでもいいのか?」と説き伏せようとしたが、ベバリンは、「いい! 僕は日本に遊びに来てるんじゃないんだ、投げに来てるんだ。投げる」と言って聞かなかったそうだ。
「投手コーチとして、そういう選手がいた場合、伊藤さんは投げさせますか?」と長谷川は聞く。「僕は、投げさせます」と伊藤は断言する。投手の投げたいという本能にあらがうことは出来ないそうだ。

もし怪我しなかったら、もしスポーツ科学の発達した現在、現役の選手だったら何勝出来るか、という話にも当然なるのだが、伊藤は「リハビリも含めて僕」、「勝ち星なんて自分の力でどうにかなるものでもない」ということで、「こだわりがあるのはイニング」だそうで、「200イニング投げたい」という話はしていたが、長谷川に「200イニング投げたら何勝出来ますか?」と聞かれ、「15勝ぐらいは」と答える。長谷川が、「15勝だったら今の時代なら最多勝じゃないですか」と話を振るも、伊藤は「たられば」の話には興味がなさそうな顔をしていた。

そしてヤクルトで一番凄いのは石川雅規だという話になる。伊藤は、「ローテーションをきっちり守ってくれる。投手コーチとしてこれほど頼もしい存在はない」と絶賛。確かに投手も野手も怪我人が多く、誰かしらいないという中で石川だけはいつもいる。無事これ名馬の見本のようである。


打者の話にもなり、伊藤は最も評価している現役のバッターとして読売ジャイアンツの坂本勇人の名を挙げ、「あの内角の捌き方は天才的」と評した。「ショートじゃなかったらもって打ててる」ということで、長年に渡ってスワローズのショートを守り続けていた宮本慎也の話にもなる。スローイングが上手かったそうで、「一場靖弘という出来の悪い子」よりも精密なコントロールを誇っていたという。ただ始めの頃はバッティングが苦手であり、「大体、宮本8番で、俺9番なのよ。その頃、俺、バントしたことない。宮本、塁に出ないから」


関西では初のイベント出演となった伊藤智仁。関西に帰ってきた印象を長谷川から聞かれる。「周り全て、関西弁。変な歩き方してる兄ちゃんがいる」ということで関西らしいと思ったそうだが、「大阪と京都じゃ全然違うんで。京都の方がはんなりしてる」と言って、「また京都の人は、はんなりとか曖昧な言葉使うんだから」と突っ込まれていた。

伊藤は最後に、「アウェーになるのかなと思っていましたが、こうしてみんな集まってくれて嬉しく思います。僕はもういなくなりますが、今年もヤクルトスワローズの応援を宜しくお願いします。そして、暇があったらたまに富山に……」というようなことを話した。

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2018年1月 6日 (土)

追悼 星野仙一

2018年1月4日、元中日ドラゴンズの投手で、中日ドラゴンズ、阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルス、北京オリンピック野球日本代表などの監督を務めた星野仙一が死去。70歳。明治大学の大先輩である。

現在の岡山県倉敷市に生まれた星野仙一。小学生の頃は足が不自由な同級生を毎日背負って登校したという話が有名である。また子供の頃は指導者に恵まれた環境にはなかったそうで、野球の指南書などを読み漁って独学で多くの技術を身に着けたそうである。

倉敷商業高校に進んだ星野は好投手として注目されるようになる。この時代の岡山県にはプロで通算201勝を挙げた平松政次が岡山東商業に、東映フライヤーズで活躍する森安敏明が関西(かんぜい)高校にいるなど激戦区だったが、倉敷商業は岡山県予選を突破。ただ当時は1県1代表ではなく東中国地方大会を勝ち抜く必要があり、星野の甲子園出場は叶わなかった。

倉敷商業卒業後に明治大学に進学。当時の東京六大学野球には、法政大学に田淵幸一、山本浩二、富田勝の「法政三羽烏」がおり、早稲田大学にはのちにチームメイトになる矢沢健一らがいるという華やかな時代。星野は明治大学のエースとして活躍。優勝とは縁がなかったものの大学野球屈指の好右腕という評価を勝ち得る。

六大学野球の野球部というと、例えば法政の田淵幸一のように、大学に行くような素振りをして寮を出るもそのまま映画館に入り、映画三昧で帰ってくるというような不真面目な学生も多いが、星野は真面目に授業に出ており、成績も優秀であった。

大学4年時には、巨人のスカウトから「ドラフト1位は田淵幸一で行くが、外した場合は君を指名する」という確約を貰っていた星野。だがいざドラフト会議が始まると、巨人は無名の高校生投手である島野修(プロ野球選手としてよりも阪急ブレーブスやオリックス・ブルーウェーブのマスコットの「中の人」として有名)をドラフト1位で指名。その報を知った星野は、「シマ野? ホシ野の間違いではないか?」と訝ったという。巨人は「星野は肩を痛めている」という情報を得ており、そのことが指名回避に繋がったようだ。実際、星野は肩を痛めたことがあったという。

巨人の代わりにドラフト1位指名した中日ドラゴンズに入団。チーム事情で当初はリリーフに回ることが多かったが、その後は中日のエースナンバーである20を獲得し、先発にリリーフに大車輪の活躍を見せるようになる。

長嶋茂雄や王貞治が語る星野は、「普段は礼儀正しい奴なのに、グラウンドでは人が変わる」
闘魂を剥き出しにした投球スタイルから「燃える男」の異名を取るようになった。

自身を裏切った読売ジャイアンツ戦に強く、「巨人キラー」と呼ばれた。また阪神タイガースにも強く、阪神の監督に就任する際の会見で飛び出した「現役の頃から阪神が大好きでした。沢山勝たせてくれましたから」という言葉は有名である。

星野は快速球で知られたわけでも代名詞になる変化球があったわけでもない。気で抑え込む投手である。そのため現役を離れて以降は投手としてのスタイルが不明瞭になってしまったきらいがある。「星野仙一ってどんな投手だったの?」と聞かれても上手く答えられないのである。

 

現役引退後は、NHKの野球解説者となる。グラウンドを離れるとやはり温厚な性格で、「仏の星野」とまで見られたが、中日ドラゴンズの監督に就任するや「鬼の星野」に激変。鉄拳制裁で知られるようになる。山本昌によると、「山崎武司やら今中やらが監督室に呼ばれて、口から血を流しながら出てくる」そうで、噂は本当のようだ。

中日の監督として優勝2回、11年間でAクラス8度という監督としては優秀な部類に入る成績を残す。選手時代同様の熱い指揮姿により「闘将」と呼ばれた。

その後、2001年に阪神タイガースの監督に迎え入れられる。星野を阪神の監督に推薦したのは前任者の野村克也だった。当時の阪神の選手たちには甘えが見られたようで、野村の著書『阪神タイガースの黄金時代が永遠に来ない理由』(宝島社新書)によると、「ヤクルトの選手はミーティングで話をよく聞いてくれた。楽天の選手もまあ聞いてくれたが、阪神の選手は聞いてくれない。しきりに時計を気にしていたりするが、この後、タニマチとの待ち合わせでもあるのか」という惨状。後任には「怖い人がいい」ということで星野を推したのだった。

阪神タイガースの監督として2年目になる2003年に星野は胴上げ監督となった。

北京オリンピック野球日本代表監督としては、大学時代からの付き合いである田淵幸一と山本浩二をコーチとして招き、結果が出せずに「お友達内閣」などと揶揄されたが、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督としては3年目の2013年に、この年24勝無敗という空前絶後の成績を残した田中将大などを擁してリーグ制覇。それまでは選手としても監督としても日本シリーズを制した経験がなく、「日本一とは無縁の男」と見る向きもあったが、この年の日本シリーズでは田中将大の熱投で相手の読売ジャイアンツをねじ伏せ、日本一を味わうことにも成功した。

 

私自身は現役時代の星野のピッチングをリアルタイムで見たことはなく、せいぜい珍プレーとして知られる宇野勝のヘディング時のピッチャーとしての認識しかない。そのため、「星野仙一=監督」というイメージである。中日ドラゴンズの監督時代には自身の母校である明治大学の選手を積極的に獲得。中日における明大閥を更に進めたことには賛否両論あるだろう。ただ巨人の独走を阻むために、巨人移籍が濃厚とされていた落合博満を獲得したり、高卒ルーキーの近藤真一(現・近藤真市)の初登板を初先発で飾らせ、ノーヒットノーランまで達成させる、楽天監督時代にはルーキーの則本昂大を開幕投手に指名するといった大胆且つ耳目を引く起用が多く、球界を沸かせた。とにかく話題を生み出せる人だった。そして多くの人から慕われる人物であった。

 

2004年に、星野仙一は母校である明治大学のイメージキャラクターの一人として広告に登場している。慕われるパーソナリティーを買われてのことだった。

そんな星野が好んで揮毫する文字は「夢」。夢を見続け、夢に挑み続けた生涯であった。


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2017年7月27日 (木)

コンサートの記(312) レナード・スラットキン指揮デトロイト交響楽団来日公演2017大阪

2017年7月16日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後2時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、デトロイト交響楽団の来日演奏会に接する。指揮はデトロイト交響楽団音楽監督のレナード・スラットキン。

デトロイト交響楽団は、アメリカを代表する工業都市で「自動車の街」としても知られるデトロイトを本拠地とするオーケストラ。1914年の創設。ポール・パレーとのフランスものやアンタル・ドラティとのストラヴィンスキーなどの名盤で日本でもよく知られている。来日は19年ぶりだが、関西で公演を行うのは初となるようである。

レナード・スラットキンは、「史上最もアメリカ的な指揮者」とも呼ばれるアメリカ出身の名匠(ただしWASPではなく、ウクライナ系ユダヤ人の血筋である)。日本でもNHK交響楽団への客演で知られており、NHK交響楽団の初代常任指揮者候補のラスト3人の中の1人となっている(最終的にはシャルル・デュトワに決定。もう一人の候補であるガリー・ベルティーニはその後、東京都交響楽団の指揮者となった)。父親はポップスオーケストラであるハリウッド・ボウルの指揮者であったフェリックス・スラットキン。
1980年代に、音楽監督を務めていたセントルイス交響楽団を全米ランキングの第2位に押し上げて注目される。ワシントンD.C.のナショナル交響楽団やロンドンのBBC交響楽団の音楽監督時代にはレコーディングがなくなったということもあって低迷したと見られていたが、2008年にデトロイト交響楽団の音楽監督に就任するや復活。「全米の音楽監督」との名声を得ている。NAXOSレーベルへの録音も継続中。

MLBの大ファンであり、セントルイス交響楽団音楽監督時代には同地を本拠地とするカージナルスの大ファンであったことで知られる。スラットキンがナショナル交響楽団の音楽監督に転任する際には、「問題はただ一つ、彼がセントルイス・カージナルスのファンからボルチモア・オリオールズのファンに乗り換われるかどうかだ」という記事が書かれたこともある(当時まだワシントン・ナショナルズは存在せず、D.C.最寄りの球団はボルチモア・オリオールズだった)。現在ではデトロイト・タイガースのファンのようである。


曲目は、レナード・バーンスタインの「キャンディード」序曲、シンディ・マクティーの「ダブルプレー」、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」(ピアノ独奏:小曽根真)、チャイコフスキーの交響曲第4番。

アメリカのオーケストラらしく、黒人の奏者が何人もいる。
基本的にドイツ式の現代配置での演奏だが、第2ヴァイオリンとチェロの副首席奏者は指揮者の正面に回り込むという独自の配置。金管はホルンは管楽の最後列に陣取るが、他の楽器は少し離れて、舞台上手奥に斜めに陣取るというロシア式の配置に近いものを採用していた。


レナード・バーンスタインの「キャンディード」序曲。デトロイト交響楽団の音色は美しく、輝きと軽やかさもある。日本のオーケストラも90年代からは考えられないほど成長したが、デトロイト交響楽団に一日の長があるように思う。


シンディ・マクティーの「ダブルプレー」。
シンディ・マクティーは、現代アメリカを代表する女性作曲家であり、レナード・スラットキン夫人でもある人物。
「ダブルプレーは」、チャールズ・アイヴズの「答えのない質問」にインスパイアされた作品で、現代音楽的側面と伝統に基づくそれの両方が上手く息づいているように思う。
演奏終了後、作者のシンディ・マクティーがステージに上がり、夫君でもあるスラットキンと共に喝采を浴びた。


ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」。スラットキン指揮のデトロイト交響楽団はお国ものということもあり、万全の演奏を聴かせる。ノリもリズムも日本のオーケストラとは桁違いで、本場であることの強さが感じられる。
小曽根真のピアノは色彩感豊か。アドリブの場面では、印象派的な響きやエスパニッシュスタイルの旋律を奏でるなど表現が巧みである。

小曽根はアンコールとして自作の「Home」を演奏した。


チャイコフスキーの交響曲第4番。デトロイト交響楽団の弦は合奏を徹底的に整えることで生まれる透明で冷たい響きを発し、チャイコフスキーの楽曲に相応しい雰囲気を作り出す。スラットキンは適度に客観的なアプローチを行い、そのことでチャイコフスキーの苦悩がより把握しやすいようになっていた。管楽器奏者達の腕も達者であり、力強さも万全に発揮されている。
第2楽章と第3楽章はアタッカで繋がれ、曲調のコントラストが強調されている。第4楽章ではスラットキンはそれほどペシミスティックな解釈は行っていないように感じられた。


アンコール演奏。まずは、「悪魔の夢」。演奏前にスラットキンは1階席の方を振り返り、「ファースト、アメリカン・ナンバー(中略)アレンジド バイ マイ ファーザー」と語ってから演奏を始めた。煌びやかなオーケストレーションが印象的である。スラットキンは聴衆に手拍子を求め、手拍子も指揮する。

アンコール2曲目、スラットキンは「サプライズ!」と語り、「六甲おろし(阪神タイガースの歌)」が演奏される。デトロイトにもTIGERSがあるための特別演奏。スラットキンは阪神タイガースのキャップ(黄色のつばに縦縞の入ったウル虎の夏仕様のもの)をかぶっての指揮である。
別の曲のように美しい「六甲おろし」であった。

レナード・スラットキン指揮デトロイト交響楽団大阪公演アンコール

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2016年1月26日 (火)

観劇感想精選(175) 第7回さざなみ演劇祭より グループ「橋」 「雲のうえの『べゑすぼおる』」

2015年12月20日 滋賀県大津市のスカイプラザ浜大津7階スタジオ1にて観劇

第7回さざなみ演劇祭。グループ「橋」という劇団の「雲のうえの『べゑすぼおる』」という作品を観る。午後2時開演。
東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)の投手として活躍するも、22歳の若さでフィリピン・レイテ島の戦場に散った大津出身の広瀬習一と広瀬を囲む人々の話である。

原作は上田龍の『戦火に消えた幻のエース』。ちなみに著者である上田龍は客席に招かれていた。東京からみえられたそうである。脚本は草川てつを。

広瀬習一の話であるが、主人公は追分(大津市の中でも京都市方面の山側にある町である)に住む絵描きの八軒先生である(気合いを入れるときには五郎丸ポーズをする)。

広瀬も追分の出身であり、戦前の大津市のメイン球場は追分からも近い緑が丘球場(緑が丘グラウンド、緑が丘運動場)という野球場(現存せず)だったようである。戦前には全国中等学校野球選手権(全国高等学校野球選手権の前身)の京滋大会の舞台となった他、京津戦という中等学校(現在の高等学校に相当)の野球交流戦があったそうで、京都市の平安中学(現・龍谷大平安高校)、京都商業(現・京都学園高校)、膳所中学(現・滋賀県立膳所高校)、大津商業(今も高校として存在)などが定期的に試合を行っており、またこの球場で行われた大津商業対膳所中学の試合は、「大津の早慶戦」とも言われて人気を博していたそうである。商売人の人たちは大津商業(略称は「大商(だいしょう)」。一般的に「大商」というと大阪商業大学を連想しがちだが、大津に限っては大津商業のことを指すようである)を、サラリーマン家庭は膳所中学を応援したそうである。

広瀬習一も勿論登場するが、出番はそれほど多くなく、広瀬を巡る人々の人間ドラマとなっている。
広瀬は運動神経抜群で、尋常小学校時代には水泳選手としても大人を驚嘆させるほどであり、陸上競技をやらせても大津一の俊足で、大津商業に入った時には運動部の間で取り合いになったそうだが、広瀬は野球を選んでいる。
広瀬は最初はショート兼投手だったようで、春の選抜甲子園には1番・ショートとして先発出場している。試合の模様は、八軒先生の家のラジオで聴かれるという設定なのであるが、広瀬は2つもエラーをしてしまい(史実のようである)、1-3で初戦敗退。広瀬は社会人野球を経て東京巨人軍に入団することになる。

巨人軍の藤本定義監督が今日の先発投手をどうするか、飯泉春雄マネージャーと話している場面から劇は始まる。戦中であり、敵性言語である英語は用いることが出来ず、東京ジャイアンツは東京巨人軍としか名乗ることを許されなかった。巨人には戦地から復帰した沢村栄治がいたが戦場で肩を故障しており、また最近は不調が続いている。須田博(すた・ひろし)と名前を変えざるを得なかったヴィクトル・スタルヒンは肋膜炎で戦線離脱。巨人の初代背番号18のエースで左腕の中尾輝三(戦後は中尾碩志に改名)も酷使で使いづらい。そこで、藤本は大津商業出身のルーキーピッチャー広瀬習一に白羽の矢を立てる。広瀬は期待に応えてデビュー戦を散発3安打の完封で勝利。巨人のデビュー戦完封勝利投手第1号となるのだったが、戦局が悪化し、やがて広瀬も戦場へと送られることになる……。

名前だけの登場であるが、若林忠志や野口二郎の名前が出てくるなど、野球好きが相好を崩すこと必至の劇である。

アマチュアの劇団であるが、出演者の演技も楽しめる水準に達している。脚本も上手いが、ラストは演劇しすぎである。ただ、優れた実績を上げながら余り知られていない人物に光を当てるのは後世の人がやらねばならない仕事であり(広瀬習一は1942年に21勝6敗、防御率1.19の好成績で最高勝率投手に輝いている)、良い劇を観させて貰った(日本語としては余り使いたくない言い回しだが他に良い書き方がない)と思う。

演劇祭のための上演で上演時間は1時間と決まっていたのだと思われるが、広瀬習一もただ純朴な野球小僧というだけではなかったはずであり、倍の尺で広瀬についてもっと掘り下げたバージョンも観てみたいと思った。

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2015年10月 6日 (火)

東京ヤクルトスワローズ 2015 セントラル・リーグ優勝 2015/10/2 ハイライト

私も当日、神宮球場の内野一塁側席にいました。延長11回裏、雄平が打ったサヨナラの打球が一塁線を破るのを目の前で目撃しています。

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