カテゴリー「野球」の37件の記事

2008年9月 3日 (水)

ホームランの日 記憶に残る一発

9月3日はホームランの日。

ということで、私の記憶に深く刻み込まれているホームランシーンを紹介します。

まずは、原辰徳が伊東昭光から放った一発。

ホームランを打った後、原がバットを投げ捨てるところや、打たれた直後に、伊東がしばらく動かないことが印象的な一撃です。

続いては、吉村禎章が1990年に、ヤクルトの川崎憲次郎から打った、セリーグ優勝を決める一発。

更に、1992年の日本シリーズ第一戦で、ヤクルトの杉浦亨が放った代打サヨナラ満塁ホームランです。

左膝靱帯断裂という大怪我から復帰した吉村の劇的サヨナラアーチ。

日本プロ野球史に残る激戦となった1992年の日本シリーズで、大ベテランの杉浦亨が放った一発。

いずれも強烈に印象に残っています。

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2008年6月30日 (月)

スピードガンと勝負しなかった男

投手の世界では、「スピードは麻薬」という言葉が使われることがあります。ここで使われているスピードとは覚醒剤の隠語では勿論なく、球速のことです。

スピードガン表示で良い数字が出るとそれが快感となり、やみつきになって、「もっと速い球を投げてやろう」と思うようになり、それが高じると、バッターよりもスピードガンと勝負するようになってしまいます。「快速球投手」と呼ばれながら、出れば打たれるで活躍出来なかった投手の中にはスピードガンと勝負してしまった人が少なからずいます(1球ごとにスピード表示を確認する投手は要注意です。かつて、西武のU投手は、勝ち星を満足に挙げられないという状態だったのに、ストレートを投げるたびにスコアボードを振り返って球速確認を行ったため、首脳陣から「スピードガンと勝負する奴はいらない」と言われてトレードに出されています)。

かつて、中日のリリーフエースとして活躍した牛島和彦氏が千葉ロッテの選手時代にテレビ出演した際に、自身の球速(前の記事で紹介した「データルーム」によると牛島の最速は中日時代にマークした143km)のことを訊かれて、「どこ行こうと関係ないというならもっと速い球は投げられますけれど、コントロールを重視しなければいけないので」というようなことを語っていました。

余興としてのスピードガンコンテストでなら、スピードガンと勝負してもいいのでしょうが、野球の場合は、投手の相手はあくまでバッター。いくら速くてもストライクが入らなかったり、打たれてしまうような球なら意味がないということです。

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2008年6月29日 (日)

野球の速球王データが充実 「データルーム」

野球に関する様々なデータ(歴代の速球王、年度別速球王、本塁打距離記録、選手年俸など)を集めたホームページ「データルーム」を紹介したいと思います。

「データルーム」 http://speed.s41.xrea.com/index.html

一個人のホームページですが、その充実ぶりは驚くばかり。特に速球王のページは更新も頻繁に行われていて、データも豊富。日本のプロ野球、高校野球、メジャーリーグ・ベースボールの歴代、年度別。四国・九州アイランドリーグ、社会人野球、大学野球、高校野球甲子園大会、韓国プロ野球、台湾職業棒球、世界最強といわれるキューバチームの通算。日本国内主要球場での最高記球速記録までも載っています。

しかし、速球王のデータを見て思うのは、スピードガンで上位に入る記録を出しながら、ほとんど活躍出来ないままプロ野球生活にピリオドを打った選手が多い一方で、「遅球王」というスピードガンがマークした最高記録速度が遅い投手の中に名投手とされるピッチャーが多く含まれており(山田久志のように、スピードガンが導入された時代には軟投派に転じていたピッチャーもいるが、全盛期でもMAX計時の低いピッチャーも多い)、改めて投手はスピードではないのだということがわかります。

また、速球派のイメージが強いのに、スピードガンが計時した最高速度がそれほどでもない投手や、軟投派とみなされながら、最高速度の記録においては速球派投手よりも上の投手がいたりするのも興味深いところ。

高校野球の通算本塁打記録のページもありますが、興味深いのは、高校時代の本塁打数で上位30名に入った選手で、プロ入り後もホームランバッターとして本当に活躍したのは清原和博(西武→巨人→オリックス)、江藤智(広島→巨人→埼玉西武)、城島健司(福岡ダイエー→福岡ソフトバンク→シアトル・マリナーズ)の三人(しかもシーズン本塁打王になったことがあるのは江藤智ただ一人)。ホームランバッターとしてそれなりに活躍したのも鈴木健(西武→ヤクルト)ぐらいしかいないということ。上位50名までを見ても、ホームランバッターとして活躍しているのは松井秀喜(巨人→ニューヨーク・ヤンキース)、山崎武司(中日→オリックス→東北楽天)の二人が加わるだけで、高校時代のスラッガーがプロに入っても活躍出来るという保証はどこにもないということになります。

ちなみに現在、日本プロ野球屈指のパワーヒッターとして知られる小笠原道大選手は「データルーム」の高校野球本塁打記録には登場しません。なぜかといえば小笠原選手は高校時代は非力で、本塁打を1本も記録していないためです。やはり高校時代の記録というのは当てにならないようです。

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2008年5月27日 (火)

佐野真 『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』(講談社現代新書)

昨シーズン、利き腕である左腕の肘の靱帯の手術をし、今季の開幕には間に合わなかったものの、復帰後は5連勝と、さすがの活躍を見せている福岡ソフトバンクホークスの和田毅投手。速球はMAXでも140キロちょっとで、ほとんどが130キロ台。カーブ、スライダー、チェンジアップと、変化球の種類も多くはないのに、東京六大学の通算最多奪三振記録を持ち、プロ入り後も軟投派と見られながらも抜群の奪三振率を誇る和田の投球の秘密に迫ったのが、佐野真の書いた『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』(講談社現代新書)。帯には、「こうすればあなたも速くなる?!」という文句が書かれていますが、結論からいうと速くはなるかもしれませんが、和田のようなストレートを投げるのは無理です。

佐野真 『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』(講談社現代新書) 和田毅が注目されたのは、島根県の浜田高校時代。120キロ台のストレートを相手が打てず、地元のテレビの高校野球解説者も困惑。
和田を擁する浜田高校は、甲子園への切符も二度手にしますが、和田が三年の時の夏の甲子園大会で、強豪・帝京高校に勝ち、帝京の選手が「(和田のストレートは)150キロに見えた」とコメントしたことで、バッターボックスでの体感速度がかなり速いストレートを和田が投げていたことがわかります。

しかし、実際の速度は120キロ台。早稲田大学に進学後、最初の試合でのMAXも129キロであり、和田もチームメイトも落ち込んだそうですが、現在も和田のトレーナーを務める土橋恵秀(当時は早稲田大学1年生の学生トレーナー)のアドバイスにより、その年の夏にはストレートのスピードは142キロをマークするなど急速に伸びています。
和田のストレートが遅かったのは下半身が巧く使えていなかったというのが最大の原因でした。

と、いうことで、投球動作の際の体の使い方は参考になります。巻末には和田が書いた、投球モーションに関する卒業論文を全文掲載されており(文学部出身の私から見ると「こんな短い論文でいいんかいな?」という気にもなりますが、クレバーな論文であることは確かです)、和田本人の身体に関する探求心を窺い知ることが出来ます。

ただ、和田が130キロ台のストレートで次々と三振を奪うことの出来る理由は、和田の持って生まれた身体能力によるところが大きいのも事実です。和田の指は後ろに反らすと90°も曲がり、手首も柔らかく、そのためリリースの際に常識を超えた回転数をボールに与えることが出来、初速は遅くてもスピードが余り落ちないまま打者の手元まで来るので打てないのです。

和田のストレートが打ちにくい理由をここで明かしてしまいましたが、それを明かしたくらいでは面白さが全く減らないのがこの本の良さ。野球ファンは必読です。

佐野真 『和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか』(講談社現代新書) 紀伊國屋書店BookWeb

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2008年4月 7日 (月)

矢島裕紀彦 野球花伝書vol.2『山田久志 投げる』(小学館文庫)

阪急ブレーブスのサブマリンエースとして通算284勝を挙げた山田久志。
野球花伝書vol.2『山田久志 投げる』(小学館文庫)は、その山田久志の投球の秘技に矢島裕紀彦がインタビューを通して迫った一冊。

矢島裕紀彦 『山田久志 投げる』 まず、タイトルが良い。『山田久志 投げる』。直球勝負で格好いい。もっとも、これは山田久志がプロのピッチャーだったからで、例えば、『安倍晋三 投げる』だったら別の意味が出てしまって格好悪くなるのだが。

そんなことはどうでもいいとして、通算284勝を挙げたピッチャーの投球に関する奥義はやはり興味深い。

まずは、山田個人が何故にアンダースローを選んだのか、アンダースローの好投手が少ないのは何故か、から始まり(山田は背が低く、ただバネがあったので、高校の頃にアンダースローにするよう監督に言われたのだという。山田自身は高校時代は野手で、送球の時に、下から投げると良い球が行くということは自覚していたようだ。アンダースローのピッチャーが少ないのは指導できる人がアマチュアに少ないというのが本当のところのようである)、速球派であった山田が、交わすピッチングを憶えてからのこと、バッターとの駆け引き、連打される時はどういう心理状態なのかについてにまで山田は語っていく。

やはりプロでも一流になるピッチャーとは凄いもので、山田は、試合後も自分がその日投げた球を全て記憶していて、帰り道に思い出しては、どうすべきだったかを考えていたとのこと(おかげで、信号が青になったのに気付かず、後ろの車からクラクションを鳴らされることがしょっちゅうだったという)。また次の登板までも、どういう投球をするか常にイメージトレーニングを行っており、ストライクを取りに行って取れた場合と取れなかった場合を考え、何球目で勝負するかといった、あらゆるパターンを想定するという。それでもバッターとの読みに負ける場合は往々にしてあり、そういう場合は、自軍のバッターにどういった球を待つのかを聞くなどして参考にし、常に相手の裏を掻くことを狙っていたという。プロでなくてもピッチャーならばそうしたイメージトレーニングは行うが、山田の場合はそれが徹底しており、だからこそ284という、今後、この数字に達するピッチャーが現れるのかどうかというほど多くの勝ち星を挙げ得たということになるのだろう。

この本に収められたインタビューは1998年頃に行われたもので、当時はフォーク全盛の時代だったのだが、山田はいずれチェンジアップの時代が来ると語っており、その山田の言葉通り、現在ではチェンジアップを投げないピッチャーの方が少数派の時代。こうした山田の読みの的確さに感心させられる書物である。

矢島裕紀彦 『山田久志 投げる』(小学館文庫) 紀伊國屋書店BookWeb

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2008年4月 6日 (日)

スワローズグッズ総合カタログ2008

東京ヤクルトスワローズの2008年度のグッズカタログが届いたので紹介します。

スワローズグッズ総合カタログ2008 今年から背番号が22に変わった、2年目の増渕竜義投手のグッズが増えています。

一番多いのは、天才バッター青木宣親選手のグッズで、レプリカユニフォーム、ユニフォームTシャツ、Tシャツ、シグネチャーナンバーTシャツ、漢字レプリカユニフォーム、レディースレプリカユニフォーム、プレイヤーズロングTシャツなど、全てに青木選手の背番号23のものが用意されています。

オリジナルマスコットである、つば九郎のグッズも多彩。そして、ドラえもんやハローキティなど、スワローズと直接関係のないグッズもなぜか充実しています。

カタログの表紙左下隅にいる、背番号11、由規投手のグッズはまだ載っていませんが、活躍次第では、シーズン中に出来る可能性もあると思います。

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2008年3月28日 (金)

私選 プロ野球・記憶に残る名勝負(4) 桑田真澄 対広島カープ戦 プロ入り初完封

現役引退を表明した桑田真澄投手。

桑田が演じた名場面で記憶に残るものは多く、PL学園時代に池田高校の水野雄仁から放ったホームランや、ルーキーイヤーに初勝利を挙げた対阪神戦、1994年のペナントレース最終戦、巨人対中日の勝った方が優勝という試合(10・8決戦)で胴上げ投手になった場面などがありますが、私の記憶に残っているのは、1987年、札幌円山球場でプロ初完封を達成した試合。この試合で桑田はバッターとしてもホームランを放つなど全打点を一人で叩きだし、まさにワンマンショーを演じてみせました。

札幌円山球場での北海道シリーズは平日のデイゲームでしたが、丁度この日は中学の期末試験の期間であり、家に早く帰っていたので、テレビ中継を見ることが出来ました。最後のバッターを外野フライに打ち取り、頭の上でグラブをポンと叩いた桑田の姿は今でもよく憶えています。

桑田真澄のプロ入り初完封試合を含むドキュメンタリー映像(YouTube)

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2008年2月 5日 (火)

プロ野球の日 プロ野球関連ユニーク占い集

2月5日は「プロ野球の日」。
ということで、プロ野球関係の占いを集めてみました。
簡単に占いを作ることのできる同一ツールで作成されたものが多いので、精度に関しては「?」ですが、お遊びなので気軽に楽しみましょう。

「12球団占い」 http://u-maker.com/218356.html
ちなみに私の結果は、「広島(カープ)」でした。

「阪神占い」 http://uranai.am/7873/
私の結果は、快速右腕「藤川(球児)選手」でした。

「スワローズ占い」 http://uranai.am/6152
私の結果は、甲子園最速男、ゴールデンルーキーの「佐藤由規投手」でした。

「北海道日本ハムファイターズ占い」 http://uranai.am/13358/
私の結果は、日本のエース「ダルビッシュ有タイプ」でした。

「巨人占い」(相性占い) http://u-maker.com/70486.html
私と相性が良いのは、史上最強の1番打者「高橋由伸選手」でした。

「横浜ベイスターズ占い」 http://uranai.am/5320/
私の結果は、メカゴジラ(って今でもいうのか?)「佐伯(貴弘)タイプ」でした。

「千葉ロッテマリーンズ占い」 http://u-maker.com/181474.html
私の結果は、WBCベストナインの「里崎(智也)選手」でした。

「ソフトバンクホークス占い」 http://uranai.am/6404/
私の結果は、左のエース「和田毅投手」でした。

なお、「阪神占い」と「ソフトバンクホークス占い」の性格分析は完全に同じ内容でした。ということは、藤川球児と和田毅は同じタイプってことか? 二人とも奪三振の多いピッチャーだけれど。

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2008年1月16日 (水)

これまでに観た映画より(16) 「オールド・ルーキー」

DVDでアメリカ映画「オールド・ルーキー」を観る。実話を基にしたベースボール・ドリーム・ムービー。

ジミー・モリスは大学を出て、ミルウォーキー・ブリューワーズに入団。130キロ前半のスピードしか出ないピッチャーであり、肩を壊して夢は破れた。35歳になったモリスはテキサスのビッグ・レイク高校で化学の教師と野球部の監督を務めている。昨年、一昨年と1勝しかできなかった弱小チームの監督だ。
しかしモリスの野球への情熱は冷めていなかった。夜毎、一人で金網に向かって投げ込みを続けるモリス。ボールのスピードは常時150キロを超えるようになっていた。
ある日、モリスの豪腕ぶりが生徒に知れる。

試合に負けた日、モリスは、「夢や希望を簡単に捨ててしまうから負けるんだ」と生徒を諭す。しかし生徒からは「夢を捨てたのは監督の方だ」と言われ、もし自分達が優勝したら監督もメジャーの入団テストを受けるという約束を交わす。ビッグ・レイク高校はこれまでの成績が嘘だったかのように勝ち続け、地区大会で優勝。モリスはメジャーのテストを受け、時速156キロを叩き出して合格。デビルレイズ傘下のマイナーチームに入団する。そしてテキサスでの対レンジャース戦でついにメジャーのマウンドに立つのだった。

夢と希望を与えてくれる映画であり、観ていて胸が熱くなる。単なる野球映画やサクセスストーリーではなく、家族の問題や、父と子の関係など、男なら誰でも通過する苦悩を真摯に描き、丁寧な作りで自然な感動を呼ぶ。

「諦めない」というそのことが、いかに大切かを教えてくれる秀作であった。

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2007年12月27日 (木)

私選 プロ野球・記憶に残る名勝負(3) 清原和博 VS山田久志 引導を渡したホームラン

1988年6月21日、前年まで通算280勝を挙げながら、このシーズンはここまで勝ち星を挙げられなかった山田久志投手(阪急ブレーブス)が、この日の対西武ライオンズ戦(西武球場)でシーズン初勝利を挙げました。しかし、この試合で山田に引退を決意させる出来事がありました。

初回、西武の若き四番打者、3年目の清原和博が打席に入ります。山田は自信を持ってウイニングショットのシンカーを投げますが、清原はこれをバックスクリーンに運びました。

山田は、鳴り物入りで入ってきた清原和博に常に闘志満々で挑んできましたが、この日、清原に打たれたことで、現役は今年で最後だと決めたといわれています。

この年、4勝を挙げた山田は、300勝まであと16勝と迫りながらユニフォームを脱ぐことになりました。

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2007年12月 3日 (月)

星野ジャパン、北京オリンピック出場決定

星野ジャパンこと野球・日本代表が、台中インターコンチネンタル球場で行われた対台湾戦に10対2で逆転勝利し、北京オリンピック出場を決めた。

アジア野球ではトップという日本への評価はプレッシャーでもあり、韓国戦、台湾戦は緊張感一杯の戦いであった。

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2007年11月27日 (火)

私選 プロ野球・記憶に残る名勝負(2) 伊藤智仁 VS篠塚和典 無念のサヨナラ被弾

ヤクルトスワローズの黄金期であった1990年代を代表するピッチャー、伊藤智仁。150キロを超えるストレートと驚異的なキレを見せる高速スライダー、更にフォークボールを武器に1993年のルーキーイヤーは怪我で規定投球回数に満たなかったものの防御率0点台という驚異的なピッチングを披露し、ドクター0(ドクターオー)の異名を取ります。

しかし、バルセロナオリンピック壮行試合、プロアマ対決戦でアマチュア時代の伊藤と対戦した古田敦也をして「来るとわかっていても打てない」と言わしめた高速スライダーは肘や肩に強度の負担をかける諸刃の剣であり、度重なる怪我に泣かされ続けた伊藤智仁は「ガラスのエース」でもありました。

その伊藤智仁の悲運の野球人生を象徴するような試合が、1993年6月9日に、金沢の石川県立球場で行われた対巨人戦。
伊藤智仁はセリーグ最多タイ記録となる16個の三振を奪う快投で巨人打線を0点に抑え続けるも、味方のヤクルト打線も沈黙。結局、9回裏に篠塚和典にサヨナラソロホームランを打たれ、試合の主役でありながら負け投手となってしまったのでした。

1993年6月9日の対巨人戦の模様も含まれたドキュメンタリー(YouTubeより)

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2007年11月13日 (火)

稲尾和久の死

「鉄腕」、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた名投手、稲尾和久氏が死去。70歳。

日本記録であり、今後も破られないと思われるシーズン42勝(ビクトル・スタルヒンとタイ記録)を始め、数々の記録を打ち立てた名投手、稲尾。

稲尾の持ち味はスピードではなく、抜群のコントロールとウイニングショットのスライダー。実際に稲尾のピッチングを見た人で、「稲尾は球が遅かった」と証言する人は何人もいます。

漁師の子として別府に生まれた稲尾和久は、少年時代から船の櫓を漕いでいました。左足を上げる際に軸足である右足の踵も上げて、つま先立ちになるというコントロールのぶれやすいピッチングフォームだったにも関わらず抜群の制球力を誇ったのは、少年時代から櫓を漕いだことで培われた足腰の強靱さにあったと思われます。また、船板一枚隔てて下は海で、死が待っているという感覚を少年時に抱いたという稲尾は、ピンチにも動じない精神力をも手に入れました。

スライダーのコントロールは抜群で、例しに、ブルペンで目を閉じたままアウトローのスライダーを投げ込んだところ、20球以上連続で捕手の構えたミットと寸分違わぬところに球が行ったと言われています。

なお、広島カープと巨人軍で活躍した川口和久氏と、東京ヤクルトスワローズの石井一久投手は、いずれも父親が稲尾和久のファンであったことから、「かずひさ」と命名されたそうです。

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2007年11月 4日 (日)

私選 プロ野球・記憶に残る名勝負(1) 落合博満 VS斎藤雅樹逆転サヨナラ3ラン

三冠王に三度輝いた史上唯一のバッターで、「史上最強の右打者」と呼ばれた落合博満(ロッテ→中日→巨人→日本ハム)。中日ドラゴンズを日本一に導いたことで監督としての評価も高まっていますが、そんな落合の現役時代において、最も私の記憶に鮮明に残っているのは、中日ドラゴンズ時代の1989年8月12日、ナゴヤ球場で行われた対巨人戦での一打です。

巨人の先発は「平成の大エース」と呼ばれることになるサイドスローの斎藤雅樹。巨人が3-0でリード。斎藤は9回1アウトまで中日打線に1本のヒットも許さず、このままノーヒットノーラン達成かと思われました。斎藤の夢は中日の左バッター音重鎮(おと・しげき)のヒットで砕かれるのですが、その後もランナーを許し、1点を失ったところで打席に落合を迎えます。ここで落合は右中間に逆転サヨナラスリーランホームランを打ち込みます。マウンド上で唖然呆然とする斎藤を尻目に悠々とダイヤモンドを一周する落合。勝負の恐さを思い知らされた一打でした。

その試合のドキュメンタリー(YouTubeより)

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2007年11月 1日 (木)

中日ドラゴンズ53年ぶりの日本一

2007年の日本シリーズは第5戦も中日ドラゴンズが勝ち、4勝1敗で日本一に輝く。
第5戦は先発の山井が8回をパーフェクトピッチング、更にリリーフエースの岩瀬も9回を3人で抑え、北海道日本ファイターズ打線を完全に抑えての勝利である。

53年前(1954年)、中日ドラゴンズが日本一になったときの監督は天知俊一、エースは杉下茂(ともに明治大学出身。以降、ドラゴンズは明大閥が続く)であった。なお、俳優の天知茂(1931-1985)は名古屋出身であり、天知俊一と杉下茂から苗字と名前を取って芸名とした。

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2007年10月31日 (水)

キッズ・ジャイアンツ 野球ゲーム

Web上で出来る野球ゲーム。これもまた子供向けですが、読売ジャイアンツのキッズ向けページにある野球ゲームです。
キッズ・ドラゴンズの野球盤より何度は幾分高め。自分のチームはジャイアンツしか選べないので、巨人ファン以外には向いていないかも知れません。

キッズ・ジャイアンツ野球ゲーム

http://kids.giants.jp/game/game08.html

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中日ドラゴンズ キッズ・ドラゴンズ野球盤

Web上で出来る野球ゲームは意外に少ないのですが、今回はその数少ないWeb上野球ゲームの一つ、キッズ・ドラゴンズの野球ゲームを紹介します。子供向けのゲームで、昔懐かしい野球盤形式ですが、勝つのは案外難しかったりします。

キッズ・ドラゴンズ野球盤 

http://www.prownet.jp/kids/baseball/baseball.html

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2007年10月18日 (木)

中学・高校・大学で二番手の投手がプロに入って活躍するまで 渡辺俊介 『アンダースロー論』

千葉ロッテマリーンズ 渡辺俊介 『アンダースロー論』 『アンダースロー論』(光文社新書)。千葉ロッテマリーンズのアンダースロー投手として活躍している渡辺俊介投手の著書です。

史上最も低いところからボールをリリースする投手として知られ、プロ球界現役最高のピッチャーの一人と称される渡辺俊介投手ですが、中学でも高校でも、更には國學院大學に進学してもエースの座は射止められず、常に二番手かそれ以降でした。足も遅いし、跳躍力もない。普通ならプロ野球入りは無理と思われ、実際に渡辺俊介投手自身もプロ野球入りは小さい頃から考えていなかったし、プロになれるなんて思ってもいなかったそうです。

しかし、自身の体の最も優れた部分である体の柔らかさを生かしてアンダースローの投手となったことで、様々なチャンスが訪れます。

本書は渡辺俊介投手が、次世代のアンダースロー投手のために自分の技術と経験を伝えることを主目的として書かれたもので、ボールの握り方や変化球投げ方、緩急の付け方など、野球に興味がない人にはとっては「関係ない」で済まされてしまうページもあるのですが、自分の長所を最大限に生かし切って世界を渡る術を知るという点に置いては大変参考になります。

プロ野球ファンと渡辺俊介ファンにとっては必読の書ですが、その他の方々にも読んで貰いたい書籍です。

それにしても渡辺俊介投手のストイックなこと。先発する三日前からは外出を控えて、酒もほとんど飲まず、テレビも映画も観ずに目を休め、登板する日のために精神を集中させるそうです。
昔はプロ野球の投手でも登板前日まで遊んでいたという豪遊伝を持っている人がいたりしましたが、時代は確実に変わっています。

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街の想い出(16) 横浜その1 1998年、横浜ベイスターズ優勝の年

街の想い出(16) 横浜その1 横浜そごう前 かってここにハマの大魔神社があった

1998年に横浜ベイスターズは38年ぶりにセリーグを制覇し、日本シリーズでも西武ライオンズを降して日本一に輝きました。その前年である97年に最後まで優勝争いを続けながらヤクルトスワローズに競り負けて優勝を逃していただけに、ペナントレースが始まるまえから、「今年こそはベイスターズの優勝を見てみたい」と思っていた人とも多かったようです。ヤクルトファンである私も、前年にヤクルトが日本一になったこともあって、「今年は横浜の優勝でいいんじゃないの」と思っていました。

98年のペナントレースでも横浜ベイスターズは強さを見せ、シーズン中盤には、JR横浜駅の地下街、横浜そごう入り口付近に、当時の横浜の守護神・佐々木主浩投手を祀った、ハマの大魔神社が作られて、結構な観光名所になっていました。

写真は今年(2007年)の夏に横浜そごうを訪れた時のものですが、あの頃とは雰囲気が違っていて、ハマの大魔神社がどこにあったのかも定かではなくなっていました。

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2007年10月 3日 (水)

巨人軍リーグ優勝に思う

その昔、といってもそれほど昔のことではありませんが、現在の「報道ステーション」の前身である「ニュースステーション」で、熱心な広島カープファンであるメインキャスターの久米宏氏が「今年、巨人が優勝したら坊主になる」と宣言。その年は巨人が見事にリーグ優勝を果たし、久米宏は坊主になりました。たかがプロ野球の結果で坊主頭になるとは妙なことではありましたが、それほどプロ野球というのは、また巨人軍というのは特別な存在でした。

しかし、今は、巨人の優勝がかかった試合も地上波では放送されないという時代に。優勝がかかった試合であっても、前々からその枠は埋まっていたので中継を入れられないとのことでしたが、昔は臨時放送でプロ野球の優勝決定戦を中継したこともあったのに(1988年10月19日、川崎球場でのロッテ・オリオンズ対近鉄バファローズ戦ダブルヘッダー第2戦。勝てば近鉄優勝という試合をテレビ朝日が臨時で中継。結局、試合終了まで試合中継は延長され、近鉄はロッテ相手に引き分けてしまい、西武ライオンズが優勝した。「10・19」として今でも語り種になる好ゲームであった)。

時代が変わったのか、巨人軍の親会社である読売新聞系列の日本テレビの姿勢だけが変わったのか。

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2007年9月23日 (日)

プロ野球占い

名前と生年月日、血液型、好きな野手と投手を入力して占うタイプのプロ野球占いを紹介します。

「プロ野球占い」 http://uranai.am/6230/

私の結果は、「伊東勤」。今年の西武ライオンズは弱いのでした。

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2007年9月18日 (火)

これまでに観た映画より(9) 「ナチュラル」

DVDで「ナチュラル」を観る。ロバート・レッドフォード主演の野球映画、というより野球ファンタジーと言った方が適当だろう。
1918年。将来有望な若手投手ロイ・ハブス(ロバート・レッドフォード)はシカゴ・カブスの入団テストを受けようとしていた。しかしシカゴに向かう列車の中で出会った、スポーツ選手を殺害し続けていたサイコパスの女に銃で撃たれてしまう。
16年後、35歳になったロイはルーキーとして弱小球団、ニューヨーク・ナイツに入団する。

高校生の時にビデオで観て、大変な感銘を受けた映画。当時はロバート・レッドフォード演じるロイ・ハブスの格好良さに痺れたものだが、今見直してみると、神秘的な側面に目がいく。雷で割れた大木で作ったバット。精霊か何かのような存在。
物語自体は「がんばれベアーズ」同様、弱小チームが優勝するまでのサクセスストーリーである。しかしそれだけでない、アメリカ人にインプットされ、受け継がれていく野球スピリッツのようなものを感じさせる。これは単なるスポーツ映画ではないのだ。むしろ大人のためのお伽話に近い。この映画にリアリズムを求める人はあるいは大人でないのかも知れない。
ロイがサヨナラホームランを照明塔に打ち込み、ライトが破裂して花火のように降りかかる中でロイがダイヤモンドを一周する有名なシーンは今見ても「クール」である。
100%悪人という奥行きの全くないタイプの人間が出て来てしまうのがハリウッド映画の限界を感じさせ、唯一の難点といえる。
ところで、ニューヨーク・ナイツは架空の球団なのだが、相手チームのシカゴ・カブス、フィラデルフィア・フィリーズ、ピッツバーグ・パイレーツなどは実在の球団である。この設定の中途半端さは何なのだろう?

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2007年9月 5日 (水)

『もう一度、投げたかった 炎のストッパー津田恒美最後の闘い』

『もう一度、投げたかった 炎のストッパー津田恒美最後の闘い』 150キロを超える快速球を武器に、「炎のストッパー」と呼ばれ、広島カープのリリーフエースとして活躍しながら、脳腫瘍のためにわずか32歳で他界した津田恒美(登録名は昭和60年より津田恒実)投手の人生を追った、NHKスペシャル「もう一度、投げたかった」の文庫化『もう一度、投げたかった 炎のストッパー津田恒美最後の闘い』(幻冬舎文庫)を紹介します。
NHKプロデューサーであった山登義明と、同じくNHKのディレクターであった大古滋久の共著。

昭和35年8月1日、山口県新南陽市(現在の周南市)和田に生まれた津田恒美は、長身と強力な背筋、更には後方に60°以上反るという右手中指のスナップを生かした速球を武器に、南陽工業高校を甲子園に導き、協和発酵を経て広島東洋カープにドラフト1位で入団します。

球団創設以来、まだ一人も新人王のタイトルホルダーを出していなかった当時の広島カープにおいて、津田は新人王獲得を至上命題とされ、見事にそれに応えてみせます。

しかし、速球派投手ならではの肩の故障。更には人並み外れた速球を生み出す秘密であった柔軟な中指を持つが故の血行障害など、何度も苦境に立たされました。

高校時代には「ノミの心臓」と呼ばれ、プロ入り後も自身の気の弱さに悩まされながらも、中学時代にコーチを受けた、早稲田大学の投手・道方康友から授けられた「弱気は最大の敵」という言葉を胸に刻み、逆境を乗り越えていきます。

しかし平成3年、30歳の津田を悲劇が襲います。春先から頭痛に悩まされ、そのシーズンの初登板となった4月14日の対巨人戦でKO。シーズン開幕前から晃代(てるよ)夫人に体調不良を訴えていた津田は、翌15日に検査を受け、脳腫瘍であることがわかります。

気の弱い津田に本当の病名を打ち明けられない晃代。何とかごまかし続けますが、2ヶ月後に限界を感じ、津田に本当の病名を打ち明けます。その瞬間、津田は子供のように泣き崩れたといいます。

気の弱さから生きることを諦めかけた津田。しかし、晃代夫人の献身的な看護に支えられているうちに、病気と闘っていくことを決意します。

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2007年8月22日 (水)

夏の甲子園 佐賀北高校優勝

夏の甲子園は佐賀県代表の佐賀北高等学校が、8回裏に一気に5点を奪い、5対4で優勝。広島の名門・広陵高等学校を下した。

佐賀北高校の勝因は、逆転満塁ホームランを放った副島選手や、粘り強いピッチングを繰り広げた久保投手、さらには判官贔屓の観衆の後押しもさることながら、一番は佐賀北ナインの守備の堅さだろう。普通なら抜けて当然の打球を佐賀北高の選手達は次々とグラブに収める。高校野球を見慣れている人ならわかるはずだが、佐賀北高の守備力は驚異的である。その驚異の守備力で、7、8点のリードを奪われて当然のところを4点に抑えた。4点に抑えなければ8回裏のドラマはなかった。

佐賀北高は練習の3分の1を基礎練習に費やすそうだが、基礎を徹底的に固めた守備が勝利に繋がった。野球の名門でない普通の公立校が勝つにはやはり野球の基礎である守備を徹底させるのが一番ということなのだろうか。

佐賀北高校、優勝おめでとう。

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2007年5月 6日 (日)

日本野球の父、ホーレス・ウィルソンの人生を追う 『明治五年のプレーボール』

野球関連のノンフィクションライター・佐山和夫。彼が、「日本野球の父」と呼ばれながら資料が少ないためにその生涯がヴェールに包まれていたホーレス・ウィルソンに取材し、ものにした著書『明治五年のプレーボール 初めて日本に野球を伝えた男-ウィルソン』(NHK出版)。
2002年に発売されたこの本は、翌2003年のホーレス・ウィルソン日本野球殿堂入りをアシストしたと思われる好著です。帯に記された推薦文は長嶋茂雄の手によるもの。

佐山和夫著『明治五年のプレーボール』

明治4年(1871)に東京大学の前身である南校(この学校は、その後数年の間に、第一大学区第一中学校→開成学校→東京開成学校→東京大学および東京大学予備門と何度も名前を変える)の英語、普通学(一般教養)および数学の教師に着任したホーレス・ウィルソンは、翌明治5年に第一大学区第一中学校と名前を変えた同校において、初めてバットとボールを使ってベースボールというスポーツの存在の日本人に知らせました。
ウィルソンは、明治6年には、東京開成学校と名前を変えた同校において、ゲーム形式の練習を行っており、ベールボールというゲームの形式、ルール、そして何よりその面白さを日本人に伝えています。
ウィルソン自身、プレーヤーとしても活躍し、東京在住の外国人による野球倶楽部と横浜在住の外国人の野球倶楽部との試合に東京側チームの主力として出場しています。

そんなホーレス・ウィルソンですが、来日前と米国帰国後の消息については、多くが知られてきませんでした。
この本は、ホーレス・ウィルソンの生まれ故郷であるメーン州のゴーラムや、ウィルソンが帰米後、亡くなるまで暮らしたサンフランシスコに著者の佐山和夫自らが出向き、徹底した取材のもとに完成させた力作。野球のみならず明治時代初期の日本の教育文化およびウィルソンも参加した南北戦争時代のアメリカについても詳述されており、往時の空気を読者に伝えてくれます。

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2007年4月14日 (土)

スワローズグッズ総合カタログ2007

昨年、東京ヤクルトスワローズのグッズを購入したため、ヤクルト商事から2007年版の「東京ヤクルトスワローズグッズ総合カタログ」が送られてきました。

スワローズグッズ総合カタログ2007

今現在持っているスワローズグッズは、ユニフォーム型Tシャツ2着、ロングシャツ1着、つば九郎の携帯ストラップです。

さて、2007年版の「スワローズグッズ総合カタログ」ですが、今やスワローズの顔となった青木宣親選手のグッズの多さが目立ちます。青木選手のグッズの数は古田監督とほぼ同数で、他の選手を大きく引き離しています。

カタログには載っていませんが、東京ヤクルトスワローズ公式サイトのグッズコーナーでは、鮮烈デビューを飾った増渕竜義投手のグッズなども売り出し始めたようです。増渕グッズは、「購入してもいいかな」と思っています。

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