カテゴリー「文学」の116件の記事

2018年5月26日 (土)

観劇感想精選(243) 「1984」

2018年5月16日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「1984」を観る。ジョージ・オーウェルのディストピア小説の舞台化。脚本:ロバート・アイク&ダンカン・マクミラン、テキスト日本語訳:平川大作、演出:小川絵梨子。新国立劇場の制作。出演:井上芳雄、ともさかえり、神農直隆(かみの・なおたか)、曽我部洋士(そがべ・ひろし)、武士太郎(たけし・たろう)、山口翔吾、森下能幸(もりした・よしゆき)、宮地雅子、堀元宗一郎、下澤実礼。

近未来。人々がオーウェルの『1984』を読んで語らっている。彼らから少し離れたところにいるウィンストン・スミス(井上芳雄)は、監視された世界の住人としてエクリチュールを試みているうちに、オーウェルが書いた1984年の世界に入っていく。そこでは世界がオセアニアとユーラシア、イースタシアの3国に分かれて争っている。ウィンストンのいるオセアニアでは巨大政党が専制を行っており、国民は全て監視下にあった。ニュースピークという言葉が使われているのだが、それは年々、語彙が減っており、簡潔になっている。思想統制が行われており、ビッグ・ブラザーに刃向かう者は思考犯(思想犯ではない)として拷問され、あるいは抹殺されていた。無謀にもビッグ・ブラザーに反旗を翻そうとしてウィンストンは、ジュリアという美しい女性(ともさかりえ)と出会い、勇気づけられるのであったが……。

映像やマジックミラーなどを効果的に用いた演出である。

個がシステムに飲み込まれ、思考すること自体が犯罪となる世界を描いた舞台である。そこでは個人であるということが否定され、個々は全体の一つでしかない。
ウィンストンは、最後まで個の尊厳を守ろうとするのが、メリッサを裏切ることで、最後の砦を失ってしまう。

大きな流れの中にあること、ものを考えなくてもよいことは楽で心地よく、人から支持されやすいだけに人々は飲み込まれやすい。そういえばマクロビオティック狂信者になっていた時代の×××は思考を放棄しただけあって実に生き生きとしていた。そう、ポピュリズムとは快活なものなのだ。そして極めてプライベートであるが故に広汎性を持ち、受け入れられていく。まさに思考警察化だ。
そして、もし自分が演劇的、文学的、芸術的でありたいと欲する人間は、思考犯であるべきだと当然ながら思う。そうなれない表現者はビッグ・ブラザーに魂を売ったのだ。いや、見渡してみれば、もうビッグ・ブラザーに魂を売った、というよりも自分がビッグ・ブラザーとうそぶく人ばかりだが。
ビッグ・ブラザーは特定の誰かではなく、我々民衆の総体なのだ。



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2018年5月12日 (土)

観劇感想精選(242) 「夢と錯乱」

2018年5月6日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後3時から、京都芸術劇場春秋座で「夢と錯乱」を観る。27歳で夭逝したオーストリアの詩人、ゲオルク・トラークルの散文詩「夢と錯乱」を取り上げる上演。演出:クロード・レジ、テキストフランス語訳:ジャン=クロード・シュネデール&マルク・プティ。出演:ヤン・ブードー。フランス語上演、日本語字幕付き(テキスト日本語訳:中村朝子、字幕:浅井宏美)。特設座席を使っての上演である。

現在93歳のクロード・レジ。フランスの前衛演出家である。1960年代にはマルグリット・デュラスと共に仕事を行い、その後、ヨン・フォッセの「だれか、来る」やサラ・ケインの「4時48分サイコシス」などの演出を行っている。本作が最後の演出作になる予定。

ゲオルク・トラークルは、モーツァルトの街として知られるザルツブルクの生まれ。裕福な商人だった父親と芸術好きな母親の間に生まれた。ゲオルクは、幼少時から文学に興味を示し、音楽的な才能を発揮する。同様の気質を持つ妹が一人おり、彼女は後にピアニストになるのだが、ゲオルクと彼女は近親相姦の関係にあったといわれている。
ギムナジウムで文学仲間と共に同人誌を始めたゲオルクだが、飲酒や薬物に溺れるようになり、二度の落第を経験して学校を中退。その後、薬剤師になるための3年の実習を経てウィーン大学薬学部に入学し、薬剤師の免許を取ったが、薬剤師としての仕事に馴染めず、公務員になるも長続きせず、デカダンスな生活を送る。困窮したゲオルクは第一次大戦に志願。薬剤試官として前線に赴くも繊細な神経が戦場の地獄絵図に耐えられず、精神を病み、ピストルによる自殺未遂を経てコカインの過剰摂取により死亡。自殺とみられている。彼の死から3年後、妹もまたピストル自殺により世を去った。
悲惨な人生を歩んだゲオルクであるが、ヴィットゲンシュタインから「天才」と称されるほどの詩才を持ち、現在ではドイツ表現主義最大の詩人という評価を得ている。

ゲオルク・トラークルの散文詩「夢と錯乱」は、伝記的内容を持つ。

「すべては薄明のなかで」起こる。
闇の中、何かが光っている。その何かが徐々に揺れ出し、移動する。明度が上がると、その何かが俳優のヤン・ブードーであることがわかる。上部にアーチ。その下でブードーは絞り出すような声で、「夢と錯乱」のテキストを語っていく。ゲオルク・トラークルの言葉には「赤」や「青」を始めとする様々な色が散りばめられているのだが、照明は灰色であり、ラスト近くで黄昏の赤が入るほかはモノクロームの世界が展開される。
ゲオルクの後悔の言葉、過去に築き上げた思惟の城、青い色をした妹の影、旅立ちゆく父親と神経質な母親の像。ヤン・ブードーは哀れな狂人としてテキストを読み上げていく。
そして石のように彼は死へと落ちていく。
「呪われた種族」のことを彼は繰り返し語る。ゲオルク、彼の妹、彼の家族、これらは間違いなく呪われた種族に入る。そしてその外、今に至るまでの人間の歴史を呪いとして告発しているようでもある。

死の淵にある彼の姿に、演出のクロード・レジはおそらく自身を重ねているのだろう。イエスを始めとする「人類の苦悩を引き受けた」存在の一人として。

上演時間約1時間程度であるが、そこには濃密な時間が流れていた。



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2018年4月28日 (土)

青空文庫 芥川龍之介 「或阿呆の一生」

精神を病んでからの芥川は、死神に取り憑かれたかのように凄まじい。

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2018年4月20日 (金)

これまでに観た映画より(100) 「まあだだよ」

DVDで日本映画「まあだだよ」を観る。黒澤明監督作品。黒澤明の遺作である。「冥途」、「阿房列車」などで知られる作家、内田百閒とその教え子達の友情を描く。出演:松村達雄、香川京子、井川比佐志、所ジョージ、油井昌由樹、日下武史、小林亜星、平田満、渡辺哲、吉岡秀隆ほか。

法政大学でドイツ語教師として働きながら作家として活躍していた内田百閒だが、本が売れ、専業作家になることに決める。昭和18年のことである。2年後、米軍占領下の日本で内田は還暦を迎える。教え子達は内田の誕生日に「摩阿陀(まあだ)会」を開くことを決める。

黒澤明最後の作品であるが、評判は芳しくない。作家を主人公にしながら特にそれとは関係ない展開が続く。黒澤が何を思ってこの映画を撮ったのかはわからないが、少なくとも「面白いものを撮ろう」とはもう思っていなかったように思われる。弟子達の歌には黒澤が若かった頃の思い出が込められているだろうし、最初は男だけだった摩阿陀会に百閒の妻が参加するようになり、弟子達の娘が入り、孫まで現れというところに時の流れが感じられる。黒澤が自身のために撮ったプライベートフィルムのような映画だったのかも知れない。

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2018年3月15日 (木)

コンサートの記(361) 團伊玖磨 歌劇「夕鶴」2018西宮

2018年3月10日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、團伊玖磨の歌劇「夕鶴」を観る。作:木下順二、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)。園田隆一郎指揮ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の演奏。今日明日と公演があり、ダブルキャストだが、今日の出演は、佐藤美枝子、松本薫平、柴山昌宣、豊島雄一(とよしま・ゆういち)。児童合唱は夙川エンジェルコール。美術:島次郎。副指揮者に広上淳一の弟子で第2回ニーノ・ロータ国際指揮者コンクールで優勝した石﨑真弥奈の名前がクレジットされている。

日本のオペラとしてはトップクラスの上演回数を誇る「夕鶴」。木下順二の戯曲を「一字一句変えることなく」という条件でオペラ化したものだが、今では純粋な演劇公演として取り上げられることはほとんどなく、専らオペラ版で親しまれている。元の戯曲が子ども達の合唱で始まり、モノローグが多用されるなど、オペラ向きということもその一因だろう。

指揮者の園田隆一郎は関西でのオペラ公演で活躍することも多い。東京藝術大学音楽学部指揮科卒、同大学院修了。イタリア・シエナのキジアーナ音楽院に留学。その後、ローマでも学び、現在もローマ在住。指揮を遠藤雅古、佐藤功太郎、ジェイムズ・ロックハート、ジャンルイジ・ジェルメッティ、アルベルト・ゼッタらに師事。ロッシーニのオペラを十八番とし、現在は、藤沢市民オペラの芸術監督の座にある。

木下順二の原作は、助けた鶴と結婚して幸せに暮らしている与ひょうが、資本主義の権化のような惣どと相方のような運ずに唆されて妻に鶴の羽で出来た織物を作るよう命令し、更に機を織っている妻の姿をのぞいてしまったことで別れることになるという物語である。純粋な二人が資本絶対主義、第一主義によって引き裂かれるという解釈で良いだろう。木下順二もそうした想定で書いたはずである。ただ、「作者が意図した通りに読むのが正解」というわけでは必ずしもない。そもそも正解のある文学作品など面白くもなんともない。

民話の「鶴の恩返し」と違うのは、鶴が恩返しのために機を織るのではなく、人間に惚れて押しかけ妻になっているところであり、異種交際の物語となっているところである。最も古い形としては「日本書紀」にも登場する箸墓伝説(旦那の正体が実は蛇であったという話)に見られ、安倍晴明伝説(母親が信太狐の葛の葉)でも知られる。
岩田達宗の演出ノートによると、「本来全ての生き物は種を存続させるために生きている。だから種を超えた恋は、自然の摂理を犯す行為であり、生命の円環を破壊する恐ろしい行為だ(中略)「夕鶴」の主人公つうはその罪を犯した鶴だ」と述べられている。「葛の葉は」などの書き出すと話がややこしくなるので出さずにおく。とにかくそれは「人智を超え、自然の摂理を凌駕する激しい恋の物語だったのだ」(岩田達宗の演出ノートよる)
更に、つうが織る「鶴の千羽織」は、主人公二人の子供に見立てられた解釈がなされている。舞台の後半で千羽織を織り上げたつう(佐藤美枝子)が、千羽織二反を赤子を抱くように抱えているのを見れば、その解釈が徹底されているのがわかる。人間と鶴の間に子供は出来ないので(やはり葛の葉の件は棚上げとしておく)千羽織を代わりに生むのだ。そして千羽織を売り飛ばして金を得るという行為は人身売買にすら見立てられている。

とまあ、岩田さんの解釈を書いたが、ここからは私自身の考えを述べていく。与ひょうは千羽織を売ることで金銭を得ていた。昔は貧乏ながら働き者だったが、今は寝て過ごしていても苦労はしていない。少なくとも惣どや運ずのところにも話が伝わっているほどには大金を得ている。ただ、家を新築するというではなし、食べ物が豪勢になったということでもなく、妻のつうと二人で睦まじく暮らせればいいというだけの素朴な青年のように見受けられる。つうがもう千羽織は織れないと言っても特に文句はなく納得してしまっている。金にさほど執着はないのだ。つうが黄金を貯めた袋を開けて驚く場面があるが、与ひょうは金を貯めるだけで散財はしていないという見方も出来るわけで、与ひょうが金のために魂を売ったというつうの考えは勘違いなのかも知れないのである。与ひょうの態度も惣どに言われたままにやっただけで、本意からとは思えない。朴訥ゆえに上手く操られてしまったのだろう。

与ひょうとつうの関係は、所詮人間と鶴であり、そのそもの考え方にすれ違いが見られ、悲劇という形で終わるしかないものだったともいえる。
つうは、与ひょうが惣どにたぶらかされて千羽織を売った金で都に行っていまい、自分は捨てられると考えた。だが、実際は与ひょうが金を得たいと思った理由は、つうと二人で都に行きたい、そして二人で今よりも良い暮らしをしたいからであり、つうと別れる気は微塵もないのである。与ひょうが「つうのために」と思っていることがつうには伝わらない。そしてつうが千羽織のためにいかに苦痛に耐えているかを与ひょうは知らない。完全にすれ違いのドラマ、そう見た方が奥行きが出る。
つうは与ひょうと別れたくないがために最後の千羽織を織ることにするのだが、皮肉にもそのことが原因で自分から与ひょうの下を去る羽目になり、与ひょうはつうと幸せになりたいがためにつうを永遠に失うことになるのである。そしてそれはあくまで決定打であり、最初からすれ違っていた以上、破局は必定で、この時でなくともいつかは訪れるはずのものなのだ。

つうも与ひょうも望んでいるのはイノセントな幸福だ。二人とも子供が好きで子供達と仲良く遊んでいることからもそれはわかる。だが、そんなイノセントな夢がいつまでも続くのだろうか。まして人間と鶴の関係である。昔話なら「いつまでも幸せに暮らしましたとさ。目出度し目出度い」でいいのかも知れないが、リアリスティックに考えれば、この無邪気な喜びは、いつか破られることが決まっている。いつまでも子供のように生きてはいられない。惣どの功利的な考えやその存在が全く理解出来ない大人など存在しないだろう。汚れなき世界の喪失は、誰もがなんらかの形で経験することである。幸か不幸か良い年になっても王様や女王様でいられる人も皆無ではないが、大多数の人は痛みと共に夢幻の楽園を去って行く。

だからこのオペラは若い人にこそ観て貰いたい、若い人にこそ、喪失の痛切さがありありと分かるはず、なのだが若い人は余り来ていない。オペラはチケット料金がネックのようである。

ロームシアター京都では、毎年、新国立劇場の主催による高校生のためのオペラ鑑賞会教室を行っている。京都市交響楽団の演奏で、指揮は広上淳一や高関健といった京響の常任指揮者達が務めている。残席がある場合は一般向けの当日券が発売されるのだが、「(仮に行ったとしても)高校生ばかりの中でオペラを観ても居心地が悪い。みんな若い若い! オレ浮いてる浮いてる! 『なんや? あのおっさん?』と思われたらどうしよう?(実際、思われるだろうが)」という話を開演前に岩田さんと話した。
なお、今年ロームシアター京都で行われる新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室・関西公演は園田隆一郎指揮の「魔笛」が予定されている。

解釈ばかり書いていても仕方ないので、作品自体をもっと具体的に語ると、島次郎による舞台は比較的シンプルなものである。つましく暮らしている夫婦なのでこれで十分であろう。余りセットに凝られると歌い手に目がいかない可能性もある。

つうを演じた佐藤美枝子は声も佇まいも良い。与ひょうとの別れの場面などは絵になっていた。
それこそ資本の権化のようないかめしい惣ど(つうの正体が鶴であることを知っても驚きも悪びれもしない)をいかめしく演じた豊島雄一も好演である。

園田隆一郎のしやなかにして浮遊感のある音楽作りも好感が持てるものだった。

阪急中ホールの音響だが、それほど空間が大きくないということもあり、声もオーケストラの音も良く通っていたように思う。



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2018年3月 1日 (木)

好きな短歌(38)

明日ありと思う心の徒桜
夜半に嵐の吹かぬものかは(親鸞聖人)

親鸞聖人が9歳の時に、青蓮院で得度する前に詠んだ歌と伝わる。

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2018年2月10日 (土)

観劇感想精選(228) 中谷美紀&井上芳雄 「黒蜥蜴」

2018年2月1日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後6時から、梅田芸術劇場メインホールで、「黒蜥蜴」を観る。原作:江戸川乱歩、戯曲:三島由紀夫、演出:デヴィッド・ルヴォー。出演は、中谷美紀、井上芳雄、相良樹(さがら・いつき)、朝海(あさみ)ひかる。たかお鷹、成河(ソンハ)ほか。

明智小五郎シリーズの一つである「黒蜥蜴」。耽美的傾向の強い江戸川乱歩の小説を、これまた耽美的傾向の強い三島由紀夫が戯曲化した作品の上演である。
歌舞伎の影響を受けたというデヴィッド・ルヴォー。今回も冒頭で移動するドアを戸板のように用いたり、船のシーンでの波の描写をアンサンブルキャスト数人が棒を手にすることで表現したりと、歌舞伎の影響が見られる。

まずは大阪・中之島のKホテルのスイートルームを舞台とするシーンでスタート。日本一の宝石商・岩瀬庄兵衛(たかお鷹)の東京の自宅に、「娘を誘拐する」という脅迫状が毎日のように届く。そこで岩瀬の娘の早苗(相良樹)は、Kホテルに匿われていた。岩瀬家の昔なじみである緑川夫人(中谷美紀)もたまたまKホテルに泊まっている。更に岩瀬庄兵衛は娘の警護として日本一の名探偵である明智小五郎(井上芳雄)を雇っており、ガードは鉄壁に思えた。だが緑川夫人の正体は女賊・黒蜥蜴であり、黒蜥蜴は部下の雨宮潤一(成河)を用いて、まんまと早苗を誘拐することに成功。だが明智は緑川夫人の正体が黒蜥蜴であることを見破っており、早苗を奪還。だが、明智も黒蜥蜴も互いが互いに惹かれるものを感じていた。敵にして恋人という倒錯世界が始まる……。

まずは圧倒的な存在感を示した中谷美紀に賛辞を。例えば井上芳雄の演技については、「井上芳雄が明智小五郎を支えている」で間違いないのだが、中谷美紀は、「中谷美紀が黒蜥蜴を支えると同時に黒蜥蜴が中谷美紀を支えている」という状態であり、観る者の想像を絶する強靱な演技体が眼前に現れる。どこまでが役の力でどこまでが俳優の力なのかわからないという純然たる存在。それはあたかも「黒蜥蜴」という作品そのもののようであり、余にも稀なる舞台俳優としての才能を中谷美紀は発揮してみせた。

「黒蜥蜴」には三島由紀夫らしいアンビバレントな展開がある。共に犯罪にロマンティシズムを見いだし、憎しみ合いながら同時に愛し合う明智と黒蜥蜴。黒蜥蜴は明智への愛情を感じながら、人を愛した黒蜥蜴自身を憎み、黒蜥蜴を抹殺するべく明智を殺そうとする。明智は犯罪者としての黒蜥蜴は憎悪しているが、一人の女性としての黒蜥蜴の内面を「本物の宝石」と呼ぶほど高く評価していた。明智から見れば宝石で儲ける岩瀬は俗物であり、真の美を極めようとしている黒蜥蜴には聖性が宿っているのであろう。

長椅子の中に潜んだ明智(乱歩の小説「人間椅子」を彷彿とさせる)と、黒蜥蜴のやり取りの場面は秀逸であり、愛とエロスの淫靡で清らかな奔流が観る者を巻き込んでいく。

黒蜥蜴の、人間の心に対する不信感と外観に対する賛美、女性の外見は好きだが内面には興味がないという、倒錯的な愛着に由来する迷宮的世界が上手く描かれていたように思う。

飄々としていながら同時に理知的な明智小五郎像を生み出した井上芳雄は流石の好演。可憐な令嬢を演じた相良樹と、黒蜥蜴に対する愛情と憎悪を併せ持つ雨宮潤一役の成河の演技も光っていた。

こうした耽美派傾向の文学作品は慶應義塾大学文学部の「三田文学」を根城にしている。私が出た明治大学文学部は早稲田大学文学部同様、自然主義文学と親和性があり、慶大文学部とは対立関係にある、というほどではないかも知れないが、少なくとも明大文学部では耽美派の作家を卒業論文の題材に選ぶことは歓迎されていない。というわけで私も耽美的な作品は余り好まないのだが、この作品は高く評価出来る。

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2018年2月 5日 (月)

コンサートの記(342) 細川俊夫 オペラ「班女」2018広島

2018年1月28日 広島市のJMSアステールプラザ中ホールにて

午後2時から、JMSアステールプラザ中ホールで、細川俊夫のオペラ「班女(はんじょ)」を観る。2004年にフランスのエクスプロヴァンス音楽祭で初演されたもの。原作は三島由紀夫(『近代能楽集』より「班女」)、台本・作曲:細川俊夫、テキスト英語訳:ドナルド・キーン、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)。川瀬賢太郎指揮広島交響楽団の演奏。出演は、柳清美(ユウ・チョンミ)、藤井美雪、折河宏治(おりかわ・ひろはる)。



私の初舞台は『近代能楽集』に収められている「綾の鼓」なのである。演出は観世榮夫と無駄に豪華であった。その時の観世榮夫はもう相当なお年だったのだが、鼓を投げ渡す時のアイデアなどは上手くはまり、「やっぱり凄いんだな」と皆で確認したものである。ちなみに私が演じた藤間春之輔は女形という設定だったのだが、どう考えても私に女形は無理なので、デフォルメして普通じゃない人を勝手に演じてしまった思い出がある。

三島由紀夫の「班女」は初演時には英訳したもので行われている。原典は世阿弥の「班女」。美濃国の遊女・花子が吉田少将なる人物と恋に落ち、扇を交換して別れたことに端を発する物語で、二人は京で再会することになる。この花子は狂言「花子」にも登場、更に歌舞伎舞踊「身替座禅」へと転じている。「花子」の主人公や「身替座禅」の山陰右京のモデルは後水尾天皇、怖ろしい奥さんのそれは東福門院和子といわれている。私は「身替座禅」は二度ほど観ている。

武満徹亡き後、海外で最も名を知られた日本人作曲家の一人となっている細川俊夫。広島市の出身で、国立音楽大学中退後、渡独。ベルリン芸術大学で尹伊桑(ユン・イサン)に師事。その後、フライブルク大学でも学んでいる。

能舞台を使用。橋懸りの下に広島交響楽団の楽団員が陣取る。開演前に本田実子(じつこ)役の藤井美雪が能舞台の上に現れ、新聞紙をハサミで切り刻んでいく。
下手から指揮者の川瀬賢太郎が現れ、演奏がスタート。この上演では冒頭と第4場で地下鉄の駅で録音された轟音が鳴り響く。騒音の暴力性と21世紀の環境を感じさせる音として細川が指定したものである。

細川俊夫は個性が強い作曲家であり、その作品には「細野節」ともいうべき音響が刻印されている。今回もキュルキュルと鳴る弦楽の音に細野らしさが宿っている。特徴なのはバスフルートの用い方で、尺八に似た音を出しながら随所で効果的に用いられていた(フルート:森川公美)。
日本センチュリー交響楽団を経て広響コンサートミストレスに就任した蔵川瑠美を始めとする弦楽群が鋭く且つきめ細かい響きを発し、夢と現の間を彷徨うかのような音像を作り上げていく。

英語による上演であるが、セリフの部分にはところどころ日本語が用いられており、対比の手法が用いられている。そういえば三島由紀夫と親交のあった観世榮夫も「もっと対比させろ!」と言っていた。

恋い焦がれて狂女となった元遊女の花子(柳清美)と彼女を独占しようと企む四十路の売れない画家・実子(藤井美雪)の名前からして「花と実」という好対照のものである。花のように咲いては散ってしまいそうな儚い花子と、毒々しい生命力を持つ実子のコントラストの妙である。

実子は夢見る存在の花子を囲って、いわば隠棲のような暮らしをしている。それが新聞報道によって掻き乱されるのだが、今回の上演では実子はラップトップパソコンを使って情報収集しているという設定である。また花子を「奪いにくる」吉雄(折河宏治)は タブレット端末を手に登場。あたかも「情報化社会」=「正義面した外界」の化身のようだ。

私個人の話になるが、インターネットを始める前、二十代前半の頃と今を比べると、情報が手軽に入るようになってからは便利になったが、人間の核になる部分が―「実」と言い換えてもいいかもしれないが―薄くなったようにも思えるのだ。ある意味、情報の洪水に押し流されて掻き乱されて、「間違えようがなく私個人である部分」 が不鮮明になったというべきか。前回、広島に来たときはまだガラケーを使っており、広島駅で降りてすぐに駅ビルの書店で広島の観光案内を買ったのだが、今回はスマートフォンでなんでも検索できてしまうので楽なのは楽なのだが、「生きている手応え」のようなものを感じにくくなっているような気もするのだ。 「自我が外部に浸食されている」。そして普段はそれを感じなくなってしまった恐怖が、こうした作品に触れることでふいに突きつけられたように思える。

岩田達宗の演出は、情報過多な世界と浸食される人間の内面の競り合い、つまり内外の戦いを前面に出したものだが、もし私が同様の演出をするなら(同様の演出はしないと思うが)、すでに半ばハイジャックされた形の内面における内々の葛藤、そして内部にいる「他」の排斥と自己の回復(内戦)を描いたと思う。そこが違いである。おそらく私がSNSを徹底して使い倒すタイプだからだろう。
藤井美雪演じる実子は感情の激しい人物として描かれており、三島のテキストから見てもこれは妥当なのであるが、これも私だったら氷のように凜然としている女として舞台に立たせたい。単純にクールな女が打ち崩されていく様が見たいということでもある。

そして自分が花子=「夢見ることを許されている存在」に肯定されていくのだ。

細川俊夫、岩田達宗、川瀬賢太郎によるアフタートークでは、ラストがハッピーエンドなのかどうかという話になっていたが、私が思うに実子に関しては「そこにしかいけないよね」という印象が強い。嵌まるべき場所に嵌まったということだと思う。社会的にはともかくとして文学的にはそれは大団円だと言えるのだろう。「許された存在」によって「許された」のだから。
柳清美の可憐さ、藤井美雪の恐ろしさ、折河宏治の存在感などもありキャストについては演劇的には満点である。なお、藤井美雪は福山市在住(広島市中区幟町にあるエリザベト音楽大学声楽科講師)、折河宏治は広島市在住(同じくエリザベト音楽大学准教授)で地元キャストが活躍している。昨日の上演でも吉雄役は広島市在住の山岸玲音(やまぎし・れおん)が歌っており、広島音楽界の充実がうかがえる。


アフタートークでは、細川俊夫が広島交響楽団の演奏について「これまで60何回演奏された(「班女の)演奏の中で最高」と褒め称え、賞賛を受けた指揮の川瀬賢太郎が冗談でガッツポーズを繰り出す場面があった。川瀬は「班女」がオペラ指揮デビューであり、同じオペラの再演で指揮を執るのも今回の「班女」が初めてだそうである。
演出の岩田達宗が川瀬と初めて一緒に仕事をしたのはモーツァルトの「フィガロの結婚」だそうだが、フィガロと「班女」の共通点についても語った。また能の仕草の内実についても語り、能舞台がキャストに与えた影響についても話していた。岩田は能や歌舞伎の要素を取り入れた演出を行うことが多いのだが(奥さんの影響らしい)、今回、能舞台を使った演出をすることで、「倒錯」ともいうべき状態が起こっていたことも明かされた。

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2018年1月22日 (月)

もっと泣いてよフィッツジェラルド

※ この記事は2017年12月21日に書かれたものです。

スコット・フィッツジェラルド

 

1940年12月21日、アメリカの小説家、フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド(一般にはスコット・フィッツジェラルドで知られる)が死去。享年44。

ヘミングウェイらと共にアメリカの「失われた世代(ロストジェネレーション)」を代表する作家であるフィッツジェラルド。23歳にして『楽園のこちら側』でデビューし、前途洋洋かと思われたものの、時代の流れから取り残され、悲劇的な生涯を歩むことになる。

父方の遠縁に、アメリカ国歌「星条旗」の作詞者であるフランシス・スコット・キーがいるという名家の出身。若き日から美男子で知られ、成績が足りなかったものの美貌を買われてプリンストン大学に合格したという本当かどうかよくわからない話もある。

陸軍に所属していた時期に若く美しいフラッパーのゼルダと出会う。このゼルダとの出会いがフィッツジェラルドにとって転機となる。フィッツジェラルドが小説家になろうと本気で志したのは、ゼルダと結婚するためだったといってもよい。

作家として順調なスタートを切ったフィッツジェラルドであるが、自身とゼルダの浪費癖が災いし、常に金銭的問題に悩まされることになった。よく世間も知らないまま若くして作家デビューしてしまったこともマイナスに作用したと思われる。フィッツジェラルド本人は自虐的に「歯医者の待合室での退屈な三十分を共に過ごすにはうってつけの作家」と考えていたが、やがて小説は売れなくなり、歯医者の待ち時間を過ごすための作家ですらいられなくなって、フィッツジェラルドも方向転換を迫られることになる。

一方のゼルダも、フィッツジェラルドの妻というポジションだけにとどまるつもりはなく、幼い頃からレッスンに励んだわけでもないのにバレリーナになろうとしたり、画家を志したり、夫を同じ作家を目指したりするもことごとく失敗(1000部ほどしか売れなかった)。精神を病むようになった。

フィッツジェラルドは、生活のためにハリウッドに渡る。ハリウッド映画の脚本家、といえば聞こえはいいが、文芸大作などにはなかなか起用されず、意に染まない台本を書くのが彼の仕事だった。思うような本が書けないことへの苛立ちから彼はアルコールに溺れ、それが元で命を落とすことになる。

スコット・フィッツジェラルドは、村上春樹が最も影響を受けた作家の一人である、村上春樹は短編集『マイ・ロスト・シティー』や代表作である『グレート・ギャツビー』を翻訳。また『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』という案内本も著している。

「グレート・ギャツビー(華麗なるギャツビー)」は実に5回も映画化されている。その中ではロバート・レッドフォードが主演した3度目の映画化(アカデミー賞衣装デザイン賞受賞)が最も有名であるが、レオナルド・ディカプリオが主演した5度目の映画化も話題を呼んだ。

「最もアメリカ的な小説家」と称されるフィッツジェラルド。だが真に高い評価を得るのは彼が亡くなってからである。享楽的なジャズエイジという「アメリカの青春の時代」を生きた彼の作風は、その後のアメリカの流転を経て、再び注目されるようになった。

ある意味時代のあだ花であったフィッツジェラルドは、あたかも過ぎ去った時代に対する郷愁のように今では読む人を惹きつけている。

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2018年1月19日 (金)

月と文化

※ この記事は2017年12月4日に書かれたものです。

 

「でっかい月だな」

「月見れば千々にものこと悲しけれ 我が身一つの秋にはあらねど」(大江千里。おおえのちさと)

「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」(西行)

 

昨夜、12月3日の満月は、スーパームーンといって特別に大きな月でした。

私は深草にある京セラ美術館に行った帰りにスーパームーンを見ましたが、東山の山の端に鎮座まします満月は威厳があるというか、主張が強いというか、とにかく独特の風情がありました。

月は、人類の歴史において、常に特別な存在であり続けました。

日本においての月の神様は、月読神です。物静かな神様なので、姉の天照大神(太陽神)、弟の素戔嗚命(元々は海の神)に比べると地味な印象ですが、伊勢の月読宮は立派な社ですし、京都・松尾の月読神社(松尾大社摂社)は、安産の神様として、厚い信仰を集めています。

月は満ちてはかけるため、気まぐれな性質の象徴となっており、ギリシャ神話のヘカテーは、後世、魔女として扱われることになりました。

月にまつわる話として日本で有名なのは、なんといっても「竹取物語」。月に帰っていくかぐや姫の物語です。

さて、このかぐや姫の性格を「満ちては欠ける月のように気まぐれで、どうしようもなくわがままな箱入り娘」とする解釈がありますが、それにはどうしても承服できかねる部分があるので、独自の解釈を示してみたいと思います。

かぐや姫を月の国からのスパイだと仮定してみましょう。彼女は日ノ本の国での情報収集のために遣わされました。さて、見目麗しい赤子としておじいさんに拾われ、この国で生活するための基盤を築きますが、その美貌が災いして、多くの美男子より求婚されることになります。結婚してしまったら任務を遂行することも月に帰ることも叶わなくなってしまう。そこでかぐや姫は求婚者たちに絶対に実現不可能な要求を突きつけます。達成されることはないので結婚に漕ぎつけられることはないだろうし、相手を傷つけず、無理なく結婚の申し込みを断ることが出来る。それでも向う見ずにも宝を探すための危険を冒して命を落としてしまう者や、嘘をついて宝物を獲得できたなどの吹聴する輩が出てきてしまうわけですが、これはかぐや姫側の問題というよりも求婚者の浅ましさと見るべきでしょう。かぐや姫は放恣な性格のとんでも女ではなく、思慮深く相手思いな女性だったように思われます。

かぐや姫が月に帰る場面でも、多くの人が「月には返すまじ」と戦っているので、彼女は人々からあたかも月そのもののように愛されていたことがうかがえます。

最後に、月に対する大和心を表していると思われる、吉田兼好の『徒然草』からの一説を紹介して締めたいと思います。

 

「長月廿日の比、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。

よきほどにて出で給ひぬれど、なほ、事ざまの優に覚えて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口をしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。

その人、ほどなく失うせにけりと聞き侍りし」

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