カテゴリー「文学」の133件の記事

2019年1月13日 (日)

観劇感想精選(283) 紺野美沙子の朗読座「新春公演2019 源氏物語の語りを愉しむ ―紫のゆかりの物語」@びわ湖ホール

2019年1月5日 びわ湖ホール中ホールにて観劇

午後2時30分から、びわ湖ホール中ホールで、紺野美沙子の朗読座の公演「新春公演2019 源氏物語の語りを愉しむ ―紫のゆかりの物語」を観る。出演は、紺野美沙子(朗読とおはなし)、陣野英則(解説。早稲田大学文学学術院教授)、中井智弥(二十五絃箏、箏)、相川瞳(パーカッション)。演出は篠田伸二。

『源氏物語』から、第一ヒロイン的存在である紫の上(紫式部という通称の由来とされている)を中心とした恋物語のテキスト(早稲田大学名誉教授である中野幸一による現代語訳である『正訳 源氏物語』を使用)を用いた朗読公演である。


まずオープニング「新春を寿ぐ」と題した演奏がある。中野智弥作曲・演奏による箏曲「プライムナンバー」という曲が演奏され、その後、主役である紺野美沙子が現れて、中野とトークを行う。紺野美沙子は『源氏物語』ゆかりの帯を締めて登場。その写真が後方のスクリーンに映される。昨日、西宮の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで公演を行ったのだが、「もっと近くで帯の柄を見たい」という声があったため、今日は写真をスクリーンに投影することにしたそうである。前側が「浮舟」、後ろ側がおそらく葵祭の車争いの場面の絵柄である。着物の柄も平安時代を意識したもので、貝合の貝を入れる貝桶の絵が鏤められている。紺野は、『源治物語』の現代語訳を多くの人が行っているという話をするが、瀬戸内寂聴の紹介は物真似で行っていた。
中野が、「プライムナンバー」という曲名の解説を行う。「プライムナンバー」は「素数」という意味で(紺野美沙子はにこやかに、「素数。ありましたね」と語る)、4分の2拍子、4分の3拍子などの2や3が素数であると語り、素数の拍子を用いたこと、また箏は13弦で13は素数であることなどを語る。

ちなみに、『源氏物語』の主人公である光源氏は箏の名手であり、演奏を聴いた女性達が涙を流して感動したという話を中野がすると、紺野は、「あら? じゃあ、中野さんは、平成の光源氏?」と冗談を言い、中野も「そうだと嬉しいんですが。ローラースケートを履いてる方(光GENJI)じゃなく」と冗談で返す。紺野は、「次の時代もご活躍を」と更に畳みかけていた。

それから、二十五絃箏の紹介。邦楽は通常はペンタトニック(五音階)であるが、二十五絃箏は西洋のドレミの十二音階を奏でることが出来るそうである。

その後、パーカッショニストの相川瞳も登場。今日は25種類の打楽器を使うそうで、日本生まれの打楽器として木魚と鳥笛を紹介していた。

紺野美沙子は、有閑マダム層が使うような言葉遣いであったが、意識していたのかどうかはわからない。


その後、第1部のトークセッションに移る。ゲストは早稲田大学文学学術院教授の陣野英則。今日使用するテキストの現代語訳を行った中野幸一の弟子だそうである。
陣野は、『源氏物語』を長編大河小説と位置づける(紺野美沙子 「橋田壽賀子もびっくり」)。1000年前にこれほど大部の恋愛フィクションが書かれた例は海外にも存在せず、しかも作者が女性というのが凄いという話になる。海外ではこの時代、歴史書や叙事詩、戦争物や回顧録、エッセイ、日記文学などは書かれていたが、大部のフィクションの名作が現れるのはずっと後になってからである。

『源氏物語』がわかりにくいのは、古文ということもあるが、人間関係が入り組んでいるということを上げる。登場人物は450名ほどに上り、主人公の光源氏があちらと関係を持ち、こちらとも契りを結びということをやっているため、男女関係が滅茶苦茶になっている。ただ、陣野によると光源氏が素晴らしいのは、関係を持った全ての女性の面倒を見ることだそうで、ドン・ファンなど他の好色家には見られないことだとする。
スクリーンに人物関係図や男女関係図を投影しての説明。わかりやすい。
紺野美沙子は、「私、慶應義塾大学文学部国文科卒ということで、色々わからないといけないんですが、資料が多いもので、大和和紀先生の漫画『あさきゆめみし』で読んだ」と伝えると、陣野は、「今の学生は、ほぼ全員、『あさきゆめみし』から入っています」と答えていた。


第2部が今日のメインとなる「朗読と演奏」になる。

二十五絃箏の中井智弥は、東京藝術大学音楽学部邦楽科卒。伝統的な箏や地歌三絃の演奏も行いつつ、二十五絃箏の演奏をメインに行っている。2016年には三重県文化奨励賞を受賞。

パーカッションの相川瞳も東京藝術大学音楽学部出身。2007年にブルガリアで開催されたプロヴディフ国際打楽器コンクールDuo部門で2位入賞(1位なし)。大友良英 with あまちゃんスペシャルビッグバンドのメンバーとして紅白歌合戦に出場したこともあり、2019年の大河ドラマ「いだてん」オープニングテーマの演奏にも加わっている。

「いづれのおんときか女御更衣あまたさぶらいける中に、いとやんごとなききわにはあらねど、すぐれてときめきたもふありけり」の出だしからスタート。
光源氏と紫の上の出会い(といっていいのかな?)である「若紫」、光源氏と紫の上との初枕が出てくる「葵」、光源氏が須磨へと下り、紫の上と離ればなれになる「須磨」、源氏と結ばれた明石の君と、明石の姫君が大堰へと上る「松風」、光源氏と帝の娘である女三の宮が結婚することになるという「若菜上」、紫の上がみまかる「御法」と光源氏の死が暗示される「幻」の各帖から選ばれた文章が読まれ、和歌とその現代語訳が読み上げられる。映像も多用され、想像力の補完を行う。

紺野美沙子の朗読に凄みはないが、的確な読み上げは流石は一流女優の技である。テキストの背後にある心理をもさりげなく炙り出してみせる。

紫の上という女性の「女であることの哀感」と、光源氏の紫の上への愛と、愛するが故の切なさがありありと伝わってくる朗読であり、聞いていて一途に悲しくなったりもする。これが大和心の真髄の一つである「もののあはれ」だ。
哀しみと同時に、日本という国で生まれ育ったことの喜びが胸を打つ公演でもあった。


バラ色に彩られた雲が覆う琵琶湖の湖畔を歩いて帰途に就く。


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2019年1月 8日 (火)

これまでに観た映画より(120) 「ノルウェイの森」

2011年2月1日 TOHOシネマズ二条にて

TOHOシネマズ二条で上映されている「ノルウェイの森」を観に出掛ける。原作はもちろん村上春樹。ベトナム生まれでフランス育ちのトラン・アン・ユン監督作品。出演は、松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子、霧島れいか、初音映莉子、玉山鉄二ほか。なお、YMOのメンバーの内、主人公ワタナベ(松山ケンイチ)がアルバイトをするレコード店の店長として細野晴臣が、直子(菊地凛子)が入寮(実質的には入院)することになる阿美寮の門番として高橋幸宏が出演している。村上春樹と交流があるはずの坂本龍一は出演していないが、まあ、オファーがあっても教授は出演しないだろうな。

村上春樹の小説は映像化が困難であり、過去に村上春樹の中学の先輩である大森一樹が監督した「風の歌を聴け」があるのみ。それも不評だった(短編では「パン屋再襲撃」も映像化されている)。

「ノルウェイの森」は村上春樹の長編としては、ほぼ唯一といっていいリアリズムに書かれた小説であるが、それでも作品の魅力は繊細な心理描写の筆致にあり、映像化は困難である。今回の映画でも村上春樹作品の映像化として成功かというと否だろう。「ノルウェイの森」は村上春樹の作品の中でもとりわけリリカルなので、抒情派のトラン・アン・ユン監督がそれを映像化すると綺麗すぎるという結果になっていて、それを批判する人があるかも知れない。ただ、興味深いのは映画を観ているうちに、それが村上春樹を原作にしたものではなく、夏目漱石作品を映像化したものに思えてくる点である。「現代の夏目漱石」といわれることもある村上春樹だが、映像化されたものを観てそれを再確認することになった。
というわけで、村上春樹ファンよりも夏目漱石ファンにお薦めしたい映画である。

役者では、当初、ユン監督から「直子のイメージではない」と断られるも粘り勝ちで直子役を勝ち取った菊地凛子が、まるで直子が憑依したかのような演技を見せるのが印象的。ただ、直子に対する思い入れが強すぎるためか、キズキ(高良健吾)との関係をワタナベと草原で語るシーンでは感情表現が激しすぎて逆に観客に訴えかける力が弱まってしまっている。あそこはもっと淡々とやった方が効果的だし、村上春樹らしくもある。ただ、菊池凛子の直子は予想を遥かに超えて良かった。

主役のワタナベ(原作ではワタナベトオル。村上春樹はテレビを見ない人なので俳優の渡辺徹を知らなかったのだろう)を演じる松山ケンイチも細やかな演技を見せてで好演。ワタナベ役として最適だったのではないだろうか。

残念なのはミドリを演じた水原希子。演技未経験で、ユン監督から厳しい演技指導を受けたそうだが、それでも他の役者に比べると演技力の不足は顕著であり(ユン監督が日本語を理解出来たならOKを出さなかっただろうと思われるテイクも用いられている)、外見もキャラクターも直子と被ってしまっているので、ミスキャストだろう。ミドリはもっと元気溌剌としたタイプの女優がやらないと直子との対比が生まれない。


原作にない部分では永沢(玉山鉄二)とワタナベが女遊びをした話をしてハツミ(初音映莉子)を傷つける場面、雪の日のワタナベと直子の激しいやり取りとその直後の屋外でのシーン、直子がキズキの幻影を見る(実際はキズキは現れず、代わりにレイコ<霧島れいか>が直子を探して駆けてくる)情景などは効果的であった。

逆に私が原作の中で気に入っている、ワタナベとミドリがミドリの実家から火事を眺めるシーン(二人の感情の燃え上がりを象徴している)や、直子の葬式の場面(自殺者の葬儀ということで冷たさに満ちている)、レイコとワタナベによるギターを用いた音楽葬の話などはなく、残念である。ラストシーンは原作の通りだが、原作のままあれをやってしまうと、小説を知らずに映画を観に来た人には意味がわからないものになってしまっていたのではないだろうか。もう一工夫欲しかった。

ただ、村上春樹原作ということを意識せず、一つの映像作品として観た場合は出来は悪くはない。もしDVDやブルーレイが発売されたなら私は購入すると思う(その後、実際にブルーレイを購入した)。

原作は36歳になったワタナベがハンブルクの空港に着陸した旅客機内で「ノルウェイの森」を聴いてパニックに襲われるというシーンから始まるのだが、それはカットされている。ただ、私が今36歳で、その時に「ノルウェイの森」が映画化されるというのはタイミングが良かった。

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2018年12月29日 (土)

これまでに観た映画より(117) 「ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~」

DVDで日本映画「ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~」を観る。太宰治の小説の映画化。根岸吉太郎監督作品。出演:松たか子、浅野忠信、室井滋、伊武雅刀、妻夫木聡、広末涼子、堤真一ほか。

昭和21年、厭世的な小説家、大谷(浅野忠信)は、中野の小料理屋「椿屋」で5千円を盗む。椿屋の主(伊武雅刀)と女房(室井滋)は大谷の家まで押しかけてくるが、大谷はナイフを振りかざし、逃げてしまう。翌日、大谷の妻である幸(松たか子)は椿屋で働き始める。そこへ大谷がやってきて、盗んだ5千円を何とか返す。聞くところによると、京橋のバーで大宴会を繰り広げ、それを心配したママに5千円建て替えて貰ったというのだ。

生きるのが嫌で嫌でたまらない小説家と、それに寄り添い、振り回される妻の切ないドラマが繰り広げられる。

昭和21年当時を再現したセットや映像美が見事だが、ラストの生への力強いメッセージが、何にも勝って心に響いた。

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2018年12月28日 (金)

コンサートの記(482) 望月京 新作オペラ「パン屋大襲撃」

2010年3月12日 大阪・京橋のいずみホールにて

大阪・京橋の、いずみホールで、望月京(もちづき・みさと)の新作オペラ「パン屋大襲撃」を観る。

村上春樹の短編小説「パン屋襲撃」(糸井重里との共著『夢であいましょう』収録)と「パン屋再襲撃」(同名の短編集に収蔵)を原作に、イスラエル人のヨハナン・カルディが英語でテキストを書き、それをラインハルト・パルムがドイツ語に訳したテキストを用いる。

演出はイタリア育ちの粟國淳。出演は、飯田みち代、高橋淳、大久保光哉、畠山茂、太刀川昭、吉原圭子、井上雅人、7人組のヴォーカルグループであるヴォクスマーナ。演奏はヨハネス・カリツケ指揮の東京シンフォニエッタ。舞台後方にオーケストラボックスがあり、歌手達の指揮は副指揮者である杉山洋一が行う。

上演前に、作曲者の望月京と、演出の粟國淳によるトークがある。初めてオペラを手掛けた望月はこれまで用いてこなかった音楽の引き出しを開けるような感覚があり、「音のコスプレをしているような」感じがあったという。日本語とイタリア語両方のテキストを読んだという粟國が、日本語で村上春樹の作品を読むとグレーの部分が多いが、アルファベットで村上作品を読むと白と黒に分かれるよう感覚になるということと、日本人作家の作品をイスラエル人がオペラ台本化し、ドイツ人がドイツ語に訳したテキストを日本人キャストがドイツ語で歌うというインターナショナルなところが面白いと語った。

オペラ「パン屋大襲撃」の音楽は聴きやすいものであったが、現代作品にはよくあるように成功作なのか失敗作なのかわからない。

ドイツ語の作品ということで、字幕スーパーが両袖に表示されたが、私は前方の中央の席に座っていたので、演技と字幕を同時に見ることが出来ず、作品を十全に味わうことは叶わなかった。

「パン屋襲撃」と「パン屋再襲撃」は村上春樹の作品の中でも比較的解釈のしやすい作品であるが、それぞれのキーとなるワーグナー(ナチスドイツのプロパガンダ音楽であった)と、マクドナルドとコーラ(アメリカ型資本主義の象徴)の対比を音楽でもっとわかりやすく示せれば、より面白いものになったかも知れない。

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2018年12月16日 (日)

観劇感想精選(276) shelf 「私たち死んだものが目覚めたら」

2009年10月25日 下鴨のアトリエ劇研にて観劇

午後2時からアトリエ劇研で東京の劇団、shelfの公演「私たち死んだものが目覚めたら」を観る。原作:ヘンリック・イプセン、構成・演出:矢野靖人。出演:阿部一徳、桜井晋、山田宏平(山の手事情社)、秋葉要志、片岡佐知子、川渕優子、大川みな子。

「私たち死んだものが目覚めたら」はイプセン最後の作品である。

彫刻家のルーベック(阿部一徳)は若い頃に「復活の日」という傑作彫刻をものにしたが、それ以来創作意欲は衰えてしまっている。その「復活の日」のモデルを務めたイレーネ(川渕裕子)もまた、「復活の日」の完成後に魂の抜け殻となり、不幸な人生を歩んでいた。そんな二人がフィヨルドの前の温泉保養地のホテルの一角で再会する……。

大変優れた戯曲であり、それを再現する演出の力も高かったように思う。役者達の水準も高く、舞台は絵画として観てもきちんと絵になっていたし、イプセンのエクリチュールを的確に抑えていたように思う。

芸術と芸術家というものの在り方を追求するイプセンの視線は鋭い。芸術家が芸術を生み出す行為とは果たして本当の人生といえるのか。私も芸術家の端くれではあり、戯曲なり詩なりを書いているときには確かに充実感がある。しかしそれを一歩離れてみた場合、それが本当の人生といえるのだろうかという疑問を抱いてしまうのである。何もしていないのではないかという気にさせさせられてしまうのだ。イプセンもまたそうした思いに駆られたことがあるのではないだろうか。
真に充実した人生。だがそれは本当に存在するのかしないのか。

芸術の傑作をものにした日から、二人の人物が生ける屍になってしまったという下りからは、村上春樹の長編小説『ねじまき鳥クロニクル』の本多老人の話が思い浮かんだ。強烈な光を目にした時に自分の人生は終わってしまったのだという。
そうした特別な体験をする人がいるであろうことは想像出来る。体中が激しく揺さぶられるような体験。幸福の絶頂であると同時にその後の人生を台無しにしてしまう特別な経験。そうした体験をすることは果たして幸福なのか不幸なのか。

優れた戯曲による優れた公演であったように思う。

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2018年12月 8日 (土)

観劇感想精選(271) 椎名桔平主演「異人たちとの夏」

2009年7月28日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで行われる「異人たちとの夏」を観るためである。

「異人たちとの夏」は午後7時開演。原作:山田太一、脚本・演出:鈴木勝秀。主演:椎名桔平。出演は、内田有紀、甲本雅裕、池脇千鶴、羽場裕一ほか。ほかといっても他には女優が一人出ているだけなのだが、パンフレットを買わなかったので名前はわからない。

映画「異人たちとの夏」は結構好きな作品で、これまで何度も観ている。

ライターの原田(椎名桔平)は都心のマンションで一人暮らし。離婚したばかりで、家を引き払い、仕事場だったマンションの一室に今は住んでいるのだ。原田が住んでいるマンションには企業が多く入っており、深夜になると静寂に支配される。ある夜、同じマンションに住む藤野桂(内田有紀)という女性が原田の部屋を訪ねてくる。シャンパンがあるのだが、一人では飲みきれないので一緒にどうかと桂はいうのだった……。

場面が移動するために、暗転が多くなるのが舞台版の欠点ではある。でもそれは舞台用に作られた作品ではないので仕方のないことだ。脚本、演出ともに良く工夫されており、物語を楽しむ上では何の問題もなかった。

主演の椎名桔平は出ずっぱり。ということもあってか、上演時間約2時間の作品であったが途中に休憩が入った。

役者陣は全員、熱演。前の方の席だったが、椎名桔平と池脇千鶴は細やかな表情の演技をする。内田有紀は大変な熱演だったが、セリフの間をもう少し開けるとより自然だったように思うのだが。彼女もブランクをまだ埋め切れていないのかも知れない。

特に新しい発見はなかったが、安定感のある舞台だったと思う。

ちなみにすき焼きを囲むシーンだが、その場で本当に煮て作っており、芳香が漂っていた。

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2018年11月18日 (日)

観劇感想精選(266) 第15回明治大学シェイクスピアプロジェクト(MSP)「ヴェニスの商人」

2018年11月9日 東京・神田駿河台の明治大学駿河台キャンパス・アカデミーコモン3階アカデミーホールにて観劇

午後5時30分から、明治大学アカデミーコモン3階にあるアカデミーホールで、第15回明治大学シェイクスピアプロジェクト「ヴェニスの商人」を観る。一休さんのとんち的な解決が有名な作品。

アカデミーコモンは、私の在学中にはなかった建物である。明治大学の旧5号館(ゼミ棟)、6号館(文学部が主に使用)、7号館(政治経済学部が主に使用)、大学院棟の跡地に建てられている。地下にある明治大学博物館や阿久悠記念館には入ったことがあるが、上階に入るのは今日が初めてとなる。
私が卒業してからの明治大学に関してはそれほど多くを知っているわけではないのだが、講義は主にリバティタワーで行っており、アカデミーコモンは生涯学習の拠点になっているらしい。

明治大学は、文学部文学科に演劇学専攻があるが、ここはあくまでも学問としての演劇を研究する専攻であり、実践は演劇サークルに任せられていた。ただ、ライバルである早稲田大学の演劇専修が実技方面にも力を入れ出していたということもあり、アカデミーコモン竣工と同時に遅ればせながら追随を始めた結果始まったのが明治大学シェイクスピアプロジェクト(MSP)である。
毎年1回、明治大学の学生のみの出演、演出、制作でシェイクスピア作品を上演するというもので、今回も原書テキストの日本語訳から学生が手掛けている。

監修に明治大学文学部兼任講師の青木豪、コーディネーターに文学部准教授の井上優、各部門の指導にはプロがスタッフが入るが、実際の上演に携わるのは学生のみである。

演出は文学部4年の山﨑心(女性)さん。プロデューサーは文学部2年の関口果穂さん。
テキスト日本語訳を手掛けているのはコラプターズという学生翻訳チーム。19名からなる団体で、既卒生や大学院生のメンバーも含まれる。今年度は、やはり文学部生が11名と圧倒的に多いが、国際日本学部(現在は中野キャンパス)、理工学部や農学部(いずれも生田キャンパス)、法学部の学生も名を連ねている。「ヴェニスの商人」では法律用語も重要になるので、法学部生の協力も必要になるだろう。
下訳チームと検討会チームに分かれて作業を行ったそうで、下訳に約半年掛け、その後、本公演のテキストを仕上げたそうである。シェイクスピアのセリフには掛詞が多いのだが、英語の掛詞を日本語に直訳しても単語が違うために掛詞にならない。ということで、かなり苦労したであろうことが察せられる。

バンドメンバーも全員明大生。楽器を演奏するということで、ここは所属学部がばらけている。オーケストラで使われる楽器を担当しているのは明治大学交響楽団のメンバーなのかも知れないが、パンフレットには書かれていないためよくわからない。

出演者は文学部在学生が最大派閥。そのほかの分野でも文学部在学生はやはり目立つ。所属専攻に関しては書かれていないためわからない。


舞台中央に一際高い台が設けられており、真ん中から階段が降りている。下手の高い場所はバンドスペース、上手の台はバルコニーに擬されている。セットは比較的シンプルだ。エリザベス朝演劇を意識しているのだと思われる。

舞台通路なども使った演出である。

まずは、バンドがエリザベス朝風の音楽を奏でる中、出演者全員のダンスでスタート。

アカデミーホールであるが、多目的の講堂であるため、声が通りにくかったり響きすぎて発声が不明瞭になったりするが、次第にこちらの耳も慣れてくる。
内観はロームシアター京都サウスホールの客席をやや多くしたようなものである。天井が高いため、出演者が声を飛ばすのは難しそうに感じた。

出演者であるが、俳優志望ではない学生達であるということを考えれば十分レベルは高い。配役に関してであるが、「見る目があるな」という印象を受ける。役が各々の演技にちゃんと合っている。
演技に関しては仕草が説明的すぎるところがあったり、漫画のキャラクター的動きになってしまっていることがあるが、無料公演でこれだけの仕上がりのものが出来上がるのだから大したものだ。明治大学というのはやはり凄い大学だと思う。客席には制服を着た高校生も多くいたが(女子ばかりだよね、やっぱり。高校時代は女子の方が優秀だから)、この人達にも是非明治大学に入ってMSPに参加して貰いたいと思う。

喜劇なので、ラストも大団円で本来は終わるのだが、今回の演出ではラストに悪夢のシーンが設けられている。
ユダヤ人の高利貸しシャイロックが悪役として有名な「ヴェニスの商人」であるが、シェイロックの憎悪を生んだのは他ならぬアントーニオの行いと、ヴェニスの人々による苛烈なユダヤ人差別であり、これを告発する意味があったと思われる。正直、やり過ぎだとは思うが、若いんだからこれぐらい暴れてくれるのは頼もしいとも思える。


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2018年11月11日 (日)

観劇感想精選(264) 白井晃&長塚圭史 「華氏451度」

2018年11月3日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後3時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「華氏451度」を観る。レイ・ブラッドベリの有名小説を長塚圭史の上演台本、白井晃の演出で舞台化したもの。出演は、吉沢悠(よしざわ・ひさし)、美波、堀部圭亮、粟野史浩、土井ケイト、草村礼子、吹越満。ガイ・モンターグ役の吉沢悠を除いて、全員が複数の役を演じる。
長塚圭史の上演台本は、基本的に原作小説をパラフレーズしたもので、セリフやト書きも原作に忠実であることを心がけたそうである。

レイ・ブラッドベリの原作に関しては、個人的な思い出がある。1999年の秋に、藤沢と小田原に一泊ずつする神奈川県への小旅行に出たのだが、二泊目の小田原で『華氏451』を読了したことをなぜか覚えているのである。多分、感動したのだろう。その日は、藤沢のホテルを出て鎌倉文学館に行き、文学館前の公衆電話で小田原の宿を取り(まだ携帯電話を持っていない時代の話だ)、小田原文学館を訪ねた(近くに旧岸田国士邸の門あり)後で小田原駅前のビジネスホテルに泊まり。翌日は関白農道を上って石垣山一夜城を訪れてから静岡県の熱海と伊東を回りというコースであった。一連の旅の思い出と『華氏451度』が一体となっている。

ちなみに、「華氏451度」とは紙が発火する温度である(摂氏だと233度)。
『1984年』と『華氏451度』はディストピア小説の両輪ともいうべき有名作だが、今年は2本とも舞台化されることになった。

舞台上手下手奥の三方向にびっしり本で埋まった書棚が浮いている。役者はこの本棚のすぐ後ろでいて、出番が来るまで待機しているというスタイルである。
舞台が始まると、奥から出てきたファイアマン達が本を燃やし始める。近未来、建物の火事は最早なくなり、ファイアマンは消火ではなく焚書を仕事としている。近未来に於いては読書は有害なものとして禁止、思考力を働かせることすら忌避されている。「インテリ」というのは蔑称である。

ファイアマンの一人であるガイ・モンターグは本を燃やす仕事をしていることに何の疑いも持たず、「本が燃えるのは楽しかった」と述べ、本の発見と焼却に無邪気な誇りを持っていた。実は、モンターグの上司であるベイティー(吹越満)は、本の怖ろしさについて知悉していたようなのだが。
ある日、モンターグは、クラリスという少女(美波)と出会う。本の価値について語るクラリスにモンターグは戸惑う。帰宅したモンターグは妻のミルドレッド(美波二役)にクラリスのことを話すが、ミルドレッドは本を有害なものとしか思っていない。家庭内にはモニターが数台あり、そこに映り続ける「友達」の言うことを聞くのがコミュニケーションであり友情とされていた。「みな平等」という美名の下に、均質的な人間像が理想化され、異端者は静かに迫害されていた。そしてそれは「皆が望んだこと」なのだ。上や遠方から来るのではなく内側にいたものなのである。
ある老女(草村礼子)の自宅から本が発見され、ファイアマン達は焚書に向かう。ところが老女が本と共に焼かれることを選択したためにモンターグは困惑し……。

洗脳が常態化された世界にあって、知識と思考の有効性を述べた作品である。

フランソワ・トリュフォーが同作を映画化しており、私も観てはいるのだが、場面場面は思い出せても全体としての印象は忘却の彼方にある。ただ、小説はまあまあ覚えているということもあり、舞台としての「華氏451」を詳細まで楽しむことが出来た。

知識と思考と想像力を後世に伝えることの重要性と主体的な知者であり続けることの一種の義務が観客へと語られていく。

「1984年」と「華氏451度」の2作品が1年のうちに上演されるのは面白いことなのだが、演劇人達がそれほど切迫感を抱いているということでもあり、歓迎される状況ではないのかも知れない。

今日は、吉沢悠、美波、吹越満によるアフタートークがある。
開演前にホワイエでアフタートーク参加者への質問を募集しており、私も「本以外で記憶して語り継いでいきたいものはありますか?」と紙に書いており、質問として採用されたのだが、吉沢は「そんな立派なこと考えたことない」と戸惑い、色よい返事を貰うことは出来なかった。吉沢は初めて台本を貰ったときは何が書いてあるのかさっぱりわからなかったそうで、今も深くは理解していないのかも知れない。まあ、質問自体が悪かったのかも知れないが、そうご大層に捉えなくても、「記憶して語る」という行為はメタ的に考えれば演劇そのものであり、だからこそ長塚圭史もなるべく原作を尊重という姿勢を取ったのであろうし、演出の白井晃もそれを理解していてわかりやすい表現を意図的に避けたのだろう。白井は「抽象的な話なんだから具象的にやるな」とダメ出ししていたそうである。
意図は伝達の妨げと考えられる。意図はあるがままのものを認めずに歪め、誘導するのだ。
美波はその場では記憶と伝達には答えなかったが、アフタートークを締める最後のメッセージとして、舞台作品を記憶することと舞台経験の豊穣性について語り、一応は私の質問と呼応した形となった。


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2018年11月 1日 (木)

2346月日(4) 同志社女子大学公開講演会 ジェイ・ルービン 「夏目漱石と村上春樹 翻訳家の告白」

2018年10月23日 同志社女子大学今出川キャンパス純心館S013教室にて

同志社女子大学で開催されるジェイ・ルービンの公開講演会に参加する。アルティであった加藤健一事務所の公演を観た帰りに同志社女子大学の前を通ってたまたま見つけた講演である。同志社女子大学今出川キャンパスの中で最も新しいと思われる純真館で行われる。


「夏目漱石と村上春樹 翻訳家の告白」と題された講演。
ジェイ・ルービンは、村上春樹の小説の翻訳で知られる翻訳家・文学者である。ワシントンD.C.に生まれ、シカゴ大学大学院で文学博士号を取得。ワシントンD.C.ではなくワシントン州シアトルにあるワシントン大学の教授を経て、ハーバード大学教授。2008年に退官して、同大学名誉教授の称号を得ている。『ねじまき鳥クロニクル』の英語翻訳で野間文芸翻訳賞を受賞。村上春樹の『ノルウェイの森』、『1Q84』などの他に夏目漱石や芥川龍之介、謡曲の英訳なども手掛けている。また『村上春樹と私 日本文化に心奪われた理由』という本を上梓している。

ジェイ・ルービンは基本的に日本語で話す。

まず、京都の思い出。京都では、1995年から96年までと2000年から2001年までの2度、桂にある国際日本文化研究センター(日文研)に1年間滞在して研究を行ったことがあり、今回も京都を訪れて大変懐かしく思うと語る。

そして以前、伏見稲荷大社を訪れた時の話になる。伏見稲荷大社には何本もの寄進された鳥居があり、様々な人が勝手に祠を建てたりしている。ジェイ・ルービンはその中にとても古いと思われる祠を見つける。文字が最早見えなくなっており、「これは江戸時代以前に建てられたものに違いない」と思ったのだが、実はそれは昭和に入ってからのもので、夏目漱石の時代よりもはるかに新しいものであった。昭和といっても文字が見えないほど古びてしまうものが存在するのだが、更に古い時代に活躍した夏目漱石は「今でも新しい作家」である。

その後、早稲田大学のゲストハウスに泊まった話もする。早稲田大学のゲストハウスは夏目漱石の生誕地や邸宅が構えられたというゆかりの地である。
ルービンは、早稲田界隈で撮った写真をプロジェクター(投影機)を使っていくつか見せる。漱石山房記念館、夏目漱石生誕の地の碑、夏目漱石の銅像など。早稲田には今も夏目漱石が息づいている。

そこから村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を翻訳した時の話になる。夏目漱石のような物故者には翻訳に関して意見を聞くことは出来ないが、村上春樹は存命中であるため、いくらでもやり取り出来る。ただ、やり取りをしすぎてしまったという話になる。

ジェイ・ルービンは翻訳に関しては細かいところまで詰めるタイプであるため、村上春樹に質問し続けて、朝から晩までやり取りをすることになってしまい、共に疲労困憊になったそうである。
『ねじまき鳥クロニクル』は、「水」が重要なテーマになっているため、ネクタイの柄である「水玉の」を「polka-dot」にすべきか水を強調できる「water-drop pattern」にすべきか村上に問い、村上は「polka-dotがいい」と答えたそうである。

「塀」も『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』以来、重要な村上文学のモチーフなのだが、ジェイ・ルービンは「wallとすべきかfenceとすべきか」迷い、村上は「fence」をベターとした。

「幸江」という名前の女性が出てくるのだが、ルビが振られていない。そこでルービンは、「さちえ」と読むのか「よしえ」か、はたまた「ゆきえ」なのかを聞く。村上の答えは「ゆきえ」であった。

出てくる登場人物が掛けている眼鏡の縁の色が最初は茶色だったのが途中で黒に変わっている。これについては村上は「最初から黒にすべきだった」、つまり編集者も見つけることが出来なかったミスであったことがわかった。

ということで、村上春樹もルービンとの翻訳作業を終えて、「どうせ小説というのはいい加減なものだ」(やれやれ)と発言したそうで、村上春樹自身も翻訳を行うが、自身が書いたテキストが英訳される際に気にするのは英文として面白いかどうかであり、子細に点検するタイプではないようである。村上自身は自作の小説を読む返すこともほとんどないことが知られているが、読む直すと「欠点ばかり目につく」からであり、仮に間違いがあったとしても致命的でない限りは気にしないことにしているようである。
デビュー作である『風の歌を聴け』でも、日付の辻褄が合わなくなっていることが知られているが、村上春樹本人は後でそれに気づくも今に至るまで修正したことはない。確かに小説を読み進める上では大して問題にならない部分ではある。

ちなみに、ルービンは『ノルウェイの森』を英訳した際、村上に訳の間違いを指摘されたことがあるのだが、それは、「かわって」を「わかって」と誤読したために起こったものだそうである。村上はその時も、「『かわって』を漢字で『代わって』と書くべき所を平仮名で書いてしまったため」としており、ルービンは村上について「とても優しい人」という印象を抱いたそうである。


その後、ルービンが『アメリカひじき』を翻訳した野坂昭如の話になる。ルービンは銀座の店で野坂と待ち合わせをしていたのだが、いつまで経っても野坂がやって来ない。1時間ほど待ったところで、実はスタッフが店を間違えていたことに気づき、ルービンは野坂が待つ店へと移動する。
到着した時には野坂はすでに酔っ払っており、店にゴキブリが出たとかで、「人間はゴキブリ以上の存在だと思い込んで疑わない『傲岸さ』について延々と語った」そうである。


ルービンは、澤西祐典(さわにし・ゆうてん)という日本の若い作家を紹介する。優れた作家なのだが日本人はほとんど誰も知らないそうだ。


話は漱石に戻る。『三四郎』を英訳した時のことだが、ルービンは「漱石の頭の中をよりよく理解したい」ということで、漱石自身が書いた『文学論』を読んで研究を行ったという。「漱石は直角的ではなく細かな描写を好む」ことにルービンは気づいていたのだが、『文学論』で漱石は視覚や聴覚といった五感に関する記述を行っており、その細密な分析に感心している。
漱石は、ヴィルヘルム・ブントが書いた色彩に関する記述を挙げ、「白色は華美、緑色は静けき楽を想起し、赤色は勢力に通じるものなり」として、『三四郎』でも色彩理論を発展させている。
なんとなく、共感覚を連想させる手法であるが、夏目漱石が共感覚の持ち主なのかどうかは私は知らない。

その頃、ルービンは、『夏目漱石』を著したことで有名な文芸評論家・文学者の江藤淳を訪ねている。当時、江藤淳は東京工業大学の教授であり、江藤の研究室に招かれたルービンは江藤から「ここにある書籍は自由に使っていい」と言われたそうで、「本当に親切な人だ」という印象を受けたという。
江藤の不在時に、ルービンは「漱石の幽霊が現れるのでは?」という願いを抱きつつ研究室に籠もっていたことがあるそうだが、ついぞ幽霊は現れず、「自分は幽霊を見たことはないし、信じてもいないので」当然ではあると思いつつも、それは漱石が説いた「還元的感化」や、漱石が東京帝国大学の教員を辞して朝日新聞に小説専業の嘱託社員として入社したときの「妙境」に通ずるものがあるのではないかという答えを導く。村上春樹の小説では高確率で、能には常に異界のものが出現する。

最後は、世阿弥の謡曲「雲林院」を巡る話題。在原業平の幽霊が、自身が主人公のモデルとなった『伊勢物語』を本を持って現れるという筋書きに、ルービンは「還元的感化」と「妙境」を感じたという話である。


講義の後で質疑応答の時間となる。質問の優先順位はまず同志社女子大学の学生(普通の講義としても行われており、同女の学生は出席票やレポートを出す必要があるようだ)、次いで同志社大学など単位交換をしている他大学の学生、最後が一般人となるようである。

まず、ジェイ・ルービンの翻訳以外の文学先品があるかどうかという質問であるが、『日々の光(The Sun gods)』という戦中の日本を舞台にした小説を英語で書いており、日本語訳はルービン自身ではなく柴田が行ったそうだ。

2つめは、日本文学に興味を持ったきっかけについて。ルービンは、日本語を選んだのは「大きな間違いでした」と冗談を言う。英語を母国語とする者にとって日本語は最難関言語として知られ、とにかく難しい。大学時代にたまたま「日本文学入門」という講義を取り、先生が「原語で読むとますます面白い」と言ったため日本語に取り組むことになったのだが、「それが元々の間違いでした」

3つめは、村上春樹の小説がアメリカでどう受け止められているか、またノーベル文学賞に関して。
ノーブル文学賞に関してはイギリスの賭け屋が勝手にやっていることで、ノーベル文学賞委員の意向は全く不明である。ノミネートされているのかどうかすらわからない。ただ、「今の日本人でノーベル文学賞を受賞するとしたら村上春樹しかいない」のは事実である。ノーベル文学賞委員の不祥事で、ノーベル文学賞委員が解散。後継の賞は出来たが、これに関しては村上春樹自身がノミネートすら断っている。
アメリカのメディアで日本文学がどう取り上げられているかだが、文学以前に日本文化自体が話題になることがほとんどないそうで、村上春樹はその中で唯一の例外だが、それもノーベル文学賞絡みのことである。アメリカでは夏目漱石すらほとんど知られていないそうである。

4つめは、作者と読者の関係について。同女の英文科の学生の質問であるが、英語の小説を読もうとしても現時点では没頭出来ず、やはり日本語訳で読む方を好むのだが、原語による文章の差異についてはどう思うかというものである。
ルービンの場合、ドストエフスキーが好きだがロシア語を学んだことはないので、英訳で読むそうだ、「本当に理解出来ているのかわからない」というのが本音だそうである。
それと矛盾するが、ルービン自体は「文学は原語で読むべき」という考えを持っているそうだ。ただ、世界中で村上春樹は読まれているが、翻訳で読んだ全員が村上春樹について誤解しているかというとそういうことはないだろうとも思っており、伝わることは伝わるだろうとも考えているそうだ。

5つめ。深読みの可能性について。ハンガリーからの留学生からの質問である。
深読みしすぎて間違うことは往々にしておるが、物故者の場合、その深読みが合っているのかどうかを確認する術はない。「too much」になった場合はどう思うのか?
村上春樹は、「You think too much」という言葉をよく使うそうで、ルービンのように細部まで訳語を詰めなくても伝わることが伝われば良いという指向のようだ。
またルービンは学者だからこそやり過ぎると考えているようで、自戒としてもいるようである。

6つめは、「翻訳するに当たって重視しているものは」
第一に考えているのは。「正確さ」だそうである。「忠実に」行うのだが、日本語を英語にそのまま転換することは出来ないので、「英語の読者になるべく日本語の読者と同じ経験を与える」よう心がけているそうだ。

7つめは、「テキスト翻訳の際に解釈は許されるのか?」
日本語と英語は構造から何から全てが余りに違うというのが事実である。「Thank you」を日本語に訳すと「ありがとう」だが、「ありがとう」の元々の意味は「滅多にないこと」であり、「あなたに感謝します」の「Thank you」とはそもそも成り立ちが違う。「こんにちは」であるが、英語にそのまま置き換えると「Today is...」になる。そのまま言っても英語圏の人には何を言っているのかがわからない。そこで意味が一緒になるよう置き換える必要がある。ということは「解釈を入れないと翻訳出来ない」ということでもある。

私自身、中国語の翻訳家を目指したことがある。1990年代前半には、関東と北海道ローカルであったが、cx系の深夜番組である「アジアNビート」で中国、台湾、韓国のポップスが中心に紹介されていた。大学の第二外国語で中国語を選択していたこともあり、中華圏のポップスは良く聴いたのだが、ライナーノーツに記載されている日本語訳歌詞が間違いだらけなのがかなり気になった。なぜ間違いが生じてしまうのかというと、翻訳者は中国語には通じているものの文学的素養に欠けるため、何を言っているのか把握出来ないまま訳してしまっているのである。訳しているとは書いたが、内容把握出来ないまま日本語に置き換える作業を訳とは本当はいわない。訳とは言葉ではなく内容を置き換えるのである。


8つめは、7つめに関連した質問が白人男性からなされる。「内容転換はするのか?」
答えは勿論、「書き換えは許されていない」

原文のテキストが作者だとすると、翻訳者は演出家に相当する。演出家にも変な人が多いので、勝手に解釈して内容を改竄してしまう人はいるのだが、私に言わせればその時点でアウトであって、人前で表現する資格すらない。


9つめは、夏目漱石の『三四郎』に関するもので、知り合いの翻訳家が『三四郎』を英語に訳する際、わかりやすくするための言葉を足したらどうかと提案したら「No」と言われたそうである。
ルービンもやはり「わかりやすくしてはいけない」という考えのようである。
私自身も「読者を信頼すべき」と考えている。わかりやすくした場合は、原典ではなく私自身の文脈に誘い込むということになってしまうからだ。とはいえ、信頼したからといっていい結果が出るわけでもなく、逆になるケースがかなりあるのだが。

最後は同志社女子大学の教員からの感想で、村上春樹はスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を自身で日本語訳しているが、かなり解釈を入れており、村上自身が「これは村上春樹の『グレート・ギャツビー』だ」と断言していて、本当の『グレート・ギャツビー』を読みたいなら原文で読むことを薦めている。
ここでこの方は勘違いして、「自分は翻訳の際、解釈を入れているのに、自分のテキストを英訳する時はかなり細かく言葉を選ぶの意外」と言っていたが、村上春樹が細かいのではなく、ルービンが子細に聞く人なのである。先に出てきた通り、村上の考えは「どうせ小説というのはいい加減なものだ」である(やれやれ)。



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2018年10月29日 (月)

コンサートの記(446) 「時の響」2018楽日 アンサンブルホールムラタ第3部 京都フィルハーモニー室内合奏団×辻仁成 「動物の謝肉祭」

2018年10月21日 京都コンサートホール小ホール・アンサンブルホールムラタにて

「時の響」2018楽日。午後4時から、京都コンサートホール小ホール アンサンブルホールムラタ(通称:ムラタホール)で行われる第3部コンサートを聴く。大ホールでは第3部の演奏会は行われないので、これが「時の響」2018最後の催しとなる。

出演は、京都フィルハーモニー室内合奏団。語りは辻仁成(つじ・ひとなり)。辻仁成は、昨日今日とムラタホールに出演。ギター弾き語りなども行ったようだ(ミュージシャンの時は「つじ・じんせい」名義である)。
司会を舞台俳優の福山俊朗が務める。

曲目は、フォーレの「パヴァーヌ」、ドビュッシーの「ゴリウォーグのケークウォーク」と「夢」(いずれも室内オーケストラ編曲版)、ラモーの「タンブーラン」、サン=サーンスの組曲「動物の謝肉祭」朗読付き(台本&朗読:辻仁成)。


フォーレの「パヴァーヌ」。人気曲である。京都フィルハーモニー室内合奏団も典雅さを意識した演奏を行う。

ドビュッシーの「ゴリウォーグのケークウォーク」と「夢」は、いずれもピアノ曲を室内オーケストラ用に編曲したものの演奏。編成にピアノは含まれていない。
ピアノ向けの曲なので、室内オーケストラで演奏すると音が滑らかすぎて流れやすくなるようだが、なかなか聴かせる演奏になっていたように思う。


ラモーの「タンブーラン」は、太鼓とタンバリンが活躍。弦楽はピリオド不採用であったが、古楽の雰囲気を良く表したものになっていた。


メインであるサン=サーンスの組曲「動物の謝肉祭」。朗読を担当する辻仁成が、この日のために書き下ろしたオリジナルテキスト版を自ら初演する。

辻仁成で京都というと、「やっと会えたね」という言葉がよく知られているが、それももう過去のこととなった。

その後、中性を意識したスタイルへと変わった辻仁成。今日もそんな感じである。

辻仁成はまずミュージシャンとしてデビューし、その後に詩人として文壇に登場。小説家に進んだのはその後である。

辻が書いたテキストは、小説家・辻仁成よりも詩人・辻仁成の要素を強く出したものである。動物たちの集まったカーニバルの日の夜明けから日没までを舞台に、「人生」をテーマとした語りが行われる。
辻は、京フィルの団員や客席を笑わせることを第一としているようだが、慣れていないということもあって空回りする時もある。他は冗談音楽だから良いのだけれど、「白鳥」の時にテーマを歌うのは流石にやり過ぎである。チェロの旋律美を楽しみにしていた人もいるだろうし。
ともあれ、ラストは「悩みのない動物=人間の本能的部分」の礼賛で締め、メッセージにはなかなか良いものがあったように思う。

京フィルの演奏のレベルもなかなか。
ピアノは佐竹裕介と笹まり恵の二人が担当したのだが、「ピアニスト」では二人とも楽譜も満足に読めないレベルのピアノ初心者演技入りでたどたどしく弾き、かなりの効果を上げていた。サン=サーンスもこうしたものを望んでいただろう。

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