カテゴリー「イギリス」の17件の記事

2018年8月31日 (金)

コンサートの記(416) 高関健指揮京都市交響楽団第626回定期演奏会 ブリテン 「戦争レクイエム」

2018年8月26日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第626回定期演奏を聴く。今日の指揮者は京都市交響楽団常任首席客演指揮者の高関健。
京響の8月定期は宗教曲を演奏することが恒例であり、今年もベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」が取り上げられる。
ソプラノ独唱は木下美穂子、テノール独唱:小原啓楼(おはら・けいろう)、バリトン独唱:大西宇宙(おおにし・たかおき)。京響コーラスと京都市少年合唱団も参加する。

編成が独特である。ポディウム席は合唱が入るため今日は販売されていない。ソプラノ独唱の木下美穂子もポディウムに陣取る。オーケストラは指揮台周辺の室内オーケストラのその外郭の大オーケストラに分かれる。室内オーケストラのコンサートマスターは客演の石田泰尚(いしだ・やすなお)。大オーケストラのコンサートマスターは泉原隆志。京都市少年合唱団は3階正面席の下手側に離れて置かれ、指揮は京都市少年合唱団の津幡泰子(つばた・やすこ)が行う。

午後2時から高関健によるプレトークがある。編成の関係か楽屋の位置によるのか、今日は普段と違い、舞台上手から登場した。
ブリテンの「戦争レクイエム」は1962年の初演。高関はこの時代に生まれた音楽の最高傑作と高く評価しており、匹敵する作品はメシアンのトゥーランガリラ交響曲のみであるとする。
高関は、10年前に群馬交響楽団の定期演奏会でこの曲を取り上げており、それ以前に小澤征爾指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏、初演者でもあるディートリヒ・フィッシャー=ディースカウのバリトン独唱で聴いたことがあり、強い感銘を受けたことを語る。
「戦争レクイエム」は初演の際は、室内オーケストラの指揮者と大オーケストラの指揮者、少年合唱団の指揮者の三人体制で演奏されたそうだが、室内オーケストラと大オーケストラが同時にで演奏することはほとんどないのでオーケストラの指揮者は一人でいいということになったそうだ。

イギリスの20世紀を代表する作曲家であるベンジャミン・ブリテン。ドイツ人から「作曲家のいない国」と揶揄されたイギリスが久しぶりに生んだ天才作曲家である。オペラに傑作が多いが、オーケストラ曲や声楽曲の部門でも活躍しており、日本の皇紀2600年記念として書かれたシンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)などが有名。皇紀2600年の曲に鎮魂曲を書いたため、物議を醸してもいる。
同性愛者としても知られ、テノール歌手のピーター・ピアーズとパートナーであり、「戦争レクイエム」の初演のテノール歌手はピアーズが務めている。
また指揮者としても活躍しており、「戦争レクイエム」の初演の指揮者を務め、英DECCAへのレコーディングでもタクトを執っている。DECCAの「戦争レクイエム」は日本の第1回レコードアカデミー賞大賞を受賞した。

演奏時間約85分の大作。滅多に上演されない曲であるため、今日の演奏会のチケットは完売である。

高関らしい構築感のしっかりとした演奏である。京響コーラスと京都市少年合唱団のレベルも高い。
「戦争レクイエム」は、一般的な「レクイエム」のラテン語詩の間に、第一次大戦中に25歳で戦死したウィルフレッド・オーウェンの英語詩が挟まれるという構成である。オーウェンの英語詩はテノールのバリトンによって歌われ、戦場の陰惨さと犠牲となる戦士達の悲惨さが独唱と対話の形式を用いて描かれている。イギリス人作曲家らしいというべきか、大仰さは丁寧に封じられており、淡々と、だが深く続く場面が印象的である。

この曲は、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団ほかのCDでしか聴いたことがないが、ブリテンによる自作自演盤なども聴いてみたくなる。

レセプションで高関の話を聞く。実は、7年前にも「戦争レクイエム」を指揮する機会があったそうだが、上演の予定日は2011年3月12日。東日本大震災発生の翌日である。3月11日には、高関は「戦争レクイエム」を演奏する予定であった東京フィルハーモニー交響楽団と共に千葉県内にいたそうだが、地震で交通網は全て遮断されてしまって東京には帰れない。更に会場となるはずだった新宿文化センター大ホールも地震によって具合の悪いところが発見されたということで演奏会は中止になったという。
プレトークで話そうかとも思ったそうだが、「プレトークが終わってから本番までの間に地震があったら嫌だな」ということで終演後に話すことにしたそうだ。



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2018年8月19日 (日)

アクラム・カーン振付「Chotto Desh/チョット・デッシュ」

2018年8月12日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて

午後3時からロームシアター京都ノースホールで、アクラム・カーン振付のダンス公演「Chotto Desh/チョット・デッシュ」を観る。

アクラム・カーンは1974年、ロンドン生まれの世界的振付家。父親はバングラデシュ人、母親はフィリピン人である。幼少期からインドの伝統舞踏であるカタックを学び、大学ではコンテンポラリーダンスと作品創作を専攻。2000年にアクラム・カーン・カンパニーを設立し、高い評価を得るようになる。2012年のロンドンオリンピックの開会式の振付も担当しているそうだ。

ダンサー1人による作品。無料パンフレットやチケットには、デニス・アラマノスまたはニコラス・リッチーニとクレジットされているが、今日はデニス・アラマノスのソロである。

今回は、子供も大人もロームシアター京都を楽しもうというイベントであるプレイ!シアター in Summerのプレ公演という位置づけであり、子供でも楽しめるよう特別に作成した日本語吹き替え版による上演が行われる。声の出演は、Masayo Mimura、Akira Koieyama、Meg Kubota、Lilian Carter。

「チョット・デッシュ」は、ベンガル語で「小さな祖国」という意味。アクラム・カーンのソロ作品である「デッシュ」を元に生まれており、カーン自身の自伝的要素を入れた作品である。「チョット・デッシュ」への翻案はスー・バックマスターが手掛けている。音楽は、Jocelyn Pookの作曲。ミニマルミュージック系の作風である。

アクラム・カーン(デニス・アラマノス)のスマートフォンに異常があったことから話は始まる。カスタマーサポートに電話をしたのだが、担当として出たのは12歳の女の子。混乱するカーンは、幼き日に毎年訪れていたバングラデシュの街を彷徨う。そして昔語りが始まる。

アクラム・カーンの父親は腕のいい料理人であり、息子のアクラムにも料理人になることを望んでいた。坊主頭のデニス・アラマノスは頭頂部に墨で目と口を書き入れ、アクラムの父親に見立てる。

落ち着きのない子どもだったアクラムは、祖母が読んでくれる絵本「ハニーハンター」が好きだった。舞台の背後に紗幕が降りているが、そこにアニメーションが投影される。飢饉の年に、父親から止められたにも関わらず蜂蜜を取りに行ってしまった男の子の話だ。船に乗り、木に登り、蝶を追う。やがて蜂の巣から蜜を取り出すことに成功した男の子だが木のてっぺんから墜落してしまい……。

16歳になったアクラムに父親は料理の仕事を手伝うように何度も言うのだが、アクラムは聞き入れない。アクラムは料理人ではなくダンサーになりたかったのだ。

父親と息子の関係についてはよくあるもので、特に目新しいところはないのだが、祖母が教えてくれた冒険譚には胸がワクワクする。私も幼い頃は冒険話が大好きで、映画版の「ドラえもん」を毎年楽しみにしていたり、コナン・ドイルの「失われた世界(ロスト・ワールド)」に心ときめかせていたりした。今の子供もそうだろう。

子供には希望と夢を、大人ノスタルジックな感情を与えてくれる名編である。



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2018年8月18日 (土)

観劇感想精選(252) オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズ(オックスフォード大学演劇協会) 「十二夜」

2018年8月11日 京都劇術劇場春秋座にて観劇

午後3時から、京都芸術劇場春秋座で、オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズ(オックスフォード大学演劇協会)の来日公演「十二夜」を観る。
オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズは、オックスフォード大学のドラマ・ソサエティであるオックスフォード大学演劇協会のメンバーからなるシェイクスピア作品に特化したツアーカンパニーである。メンバーはスタッフも含めて全員オックスフォード大学の学生で構成されており、出身者には、「Mr.ビーン」のローワン・アトキンソン、「ブリジット・ジョーンズの日記」のヒュー・グラント、「博士と彼女のセオリー」のフェリシティ・ジョーンズらがいるそうだ。

オックスフォード・シェイクスピア・プレイヤーズは20年前から来日公演を行うようになっており、来日時には毎回、蜷川幸雄の出迎えを受けていたそうで、今回は蜷川没後としては初めての来日となるようだ。

イギリス最古にして最高の大学として知られるオックスフォード大学。日本でいう大学とは違い、オックスフォード大学という単一の大学があるわけではなく、39あるカレッジの集合体がオックスフォード大学という総称を名乗っている。オックスフォードの学生は、二つの分野を専攻するのが一般的である。

今回の演出は、セント・ヒューズ・カレッジで英語学と英文学を学ぶフレッド・ウィーナンドが担当。ウィーナンドは物語の舞台を光と影が一体になった1960年代に変更するという読み替えを行っている。日本でもジョン・ケアードが「お気に召すまま」の時代設定をアメリカの1960年代に変えた上演が行われたが、発想自体は完全に一緒である。イギリス人やアメリカ人にとっては60年代は特別な時代であるようだ。

今回の上演の特徴は、道化のフェステを女優(マートン・カレッジで英語学と英文学を学ぶスザンナ・タウンゼント)が演じるということ。ボーイッシュな雰囲気を出しているが、女性が道化役というのは珍しい(ただ史実はともかくとしてくオリヴィアの道化であるため、同性であったとしてもおかしくはないように思える)。

英語上演、日本語字幕付き。字幕は新たに作ったのではなく、白水社から出ている小田島雄志訳のものを使用している。小田島雄志の翻訳は映画の字幕とは違って文字制限ありの中で訳されたものではないため、字幕はめまぐるしく切り替えられ、中には0コンマ何秒で切り替わって読めないということもあった。

ギリシャのイリリアを舞台に、セバスチャンとヴァイオラの双子が嵐に遭ったことから起こるスラップスティックな喜劇が繰り広げられる。
音月圭が主演した「十二夜」では、ヴァイオラとその男装版のシザーリオ、そしてセバスチャンの三役を音月一人で演じる演出が施されていたが、今回はヴァイオラ&シザーリオとセバスチャンは別の俳優が演じている。

嵐に遭い、兄のセバスチャン(リンカーン・カレッジで考古学と古代史を学ぶローレンス・ベンチャーが演じる)とはぐれてしまったヴァイオラ(ユニバーシティ・カレッジで英語とロシア語を学ぶデイジー・ヘイズが演じる)は、生活のために男装して名をシザーリオと変え、土地の実力者であるオーシーノ公爵(セント・ピーターズ・カレッジで神学と東洋学を学ぶマーカス・ナイト=アダムズが演じる)に小姓として使えることにする。シザーリオとことヴァイオラはオーシーノ公爵に恋をする。そのオーシーノ公爵は伯爵令嬢であるオリヴィア(マグダレン・カレッジでスペイン語とイタリア語を学ぶクロエ・ディラニーが演じる)に夢中であり、シザーリオを恋の伝令としてオリヴィアのもとに使わすのだが、オリヴィアはシザーリオを本物の男だと思い込んで恋してしまう。恋の一方通行である。

一方、オリヴィアの叔父であるサー・トービー(クィーンズ・カレッジで歴史と英語を学ぶジョー・ピーテンが演じる)とサー・アンドリュー(セント・ジョンズ・カレッジで歴史と政治学を学ぶヒュー・タッピンが演じる)は、オリヴィアに執事として使えるマルヴォーリオ(クライスト・チャーチでイタリア学を専攻するジョニー・ワイルズが演じる))の態度が大きいため、反感を抱いている。トービーとアンドリューは侍女のマライア(キーブル・カレッジで古典考古学と古代史を学ぶケイト・ウエアが演じる)や召使いのフェービアン(ハートフォード・カレッジで英語学を専攻するアダム・グッドボディが演じる)を巻き込んで、マルヴォーリオにぎゃふんと言わせようと画策する。更には道化のフェステも仲間に加わり……。

今日は桟敷席と2階席は用いられていない。1階席の後ろの方にイギリス人の若者が固まっていて、普通のシーンでもドッカンドッカン受けているのだが、日本人の客は私も含めてどこが笑えるのかよくわからず、温度差がある。ドタバタのシーンや意図的なオーバーアクションの演技では国籍の差なく笑いが起こる。
衣装や装置も1960年代をイメージしたサイケデリックなものを使用。一般的なシェイクスピア上演とは異なる格好をしているが、若者達のエネルギーを表すのに効果的であったように思う。

英語の台詞回しに関しての巧拙は私には全くわからないが、動きや身のこなしについては一定の水準に達している。日本の俳優の場合、演技中の両手の置き方が上手くいかない場合が多いが、イギリス人でも若者達が演じる場合は同じ傾向があることがわかる。向こうは話しながら身振り手振りをつけるのが一般的なので、日本人俳優ほどには目立たないけれども。
道化のフェステ役のスザンナ・タウンゼントは美しい歌声の持ち主であり、これを聴くと、「フェステ役を女性にするのも悪くない」と思える。



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2018年6月24日 (日)

観劇感想精選(246) 「ハングマン HANGMEN」

2018年6月15日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて観劇

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで「ハングマン HANGMEN」を観る。作:マーティン・マクドナー、テキスト日本語訳:小川絵梨子、演出・出演:長塚圭史、出演:田中哲司、秋山菜津子、大東駿介、宮崎吐夢、大森博史、市川しんぺー、谷川昭一朗、村上航、富田望生(みう)、三上市朗、羽場裕一。

「ビューティー・クイーン・オブ・リナーン」、「ウィー・トーマス」、「イニシュマン島のビリー」などで知られるマーティン・マクドナー。イギリスとアイルランドの二重国籍の劇作家であり、映画監督としても活躍。バイオレンス、ブラック・ユーモア、差別などを題材とした本を書いている。長塚圭史はマクドナーの作品を何度も演出しており、今回の「ハングマン」は、「ウィー・トーマス」、「ピローマン」、「ビューティー・クイーン・オブ・リナーン」に次いで4度目の演出となる。

開演前には舞台となる1960年代に流行ったブリティッシュロック(ビートルズなど)が流れている。出演者の平均年齢が高いことや京都ではマーティン・マクドナーの名前が余り知られていないこともあってか入りは「悲惨」の部類に入ると思う。

1963年、絞首刑執行人(ハングマン)であるハリー・ウェイド(田中哲司)が、ジェームズ・ヘネシー(村上航)という男を今まさに死刑にしようとしていた。ヘネシーは女性暴行犯として死刑を言い渡されたのであるが、最後まで無罪とアリバイを主張。ハングマンがハリーであることに関しても、「せめてピアポイント(最も腕が良いといわれた絞首刑執行人)を呼べ!」と言ったことからハリーを激高させる。ハリーがレバーを引き、死刑は執行された。

2年後。イングランドの北西部にある工業都市オールダムにあるパブ。ここはハリーの妻であるアリス(秋山菜津子)が経営する店である。絞首刑の執行が法律によって廃止になるその日、ハングマンをお払い箱になったハリーは、このバーでマスターのようなポジションとなり(この時代はビールを出すときにはカウンターにあるレバーを引いてグラスに注いでいたようである)馴染み客と飲んでいたのだが、そこに見知らぬ客が一人加わっている。マンチェスターから来た新聞記者のクレッグ(長塚圭史)である。クレッグは最後のハングマンであるハリーのインタビューを取ろうとやって来たのだが、ハリーは応じようとしない。ハリーは「2階で話すなら」と妥協案を出すのだが、ハリーは本質的にはお喋りであり、グレッグの口車に乗って、必要以上のことを話してしまう。ただこの記事のおかけで、ハリーは翌日にはオールダムの有名人となる。
店に新客がもう一人やって来る。金髪の若い男、ピーター・ムーニー(大東駿介)である。田舎の工業都市であり、教養も十分とはいえない(ニーチェという名前もキルケゴールの名も聞いたことがない)他の客とは違い、ムーニーはスマートではあるがミステリアスというより不気味な印象を抱かせる。
ハリーとアリスにはシャーリー(富田望生)という15歳の娘がいる。肥満気味で内向的なシャーリーは学校では浮いた存在のようで……。

ブラックな味わいのサスペンスである。ヘネシーが本当に犯人だったのか、またムーニーの正体は何者なのか、なぜムーニーは自らを危機にさらすような行動に出たのか(ニーチェの名前が出るのは伏線なのかも知れないが)、いずれにおいても最後まで解決はなされておらず、観る者の意識は死体さながらに宙づりになったまま。それこそがマクドナーの意図なのだろう。

マクドナー作品の特徴として不毛な恋愛という要素があるのだが、ハリーとアリスの娘であるシャーリーは異性にモテるどころか、学校も休みがちの存在であり、見た目と性格のハンディから今後も異性から相手にされるかどうかも怪しいという状態。それを見越したムーニーに付け込まれるのだが、当然ながら本物の恋愛に発展することはない。結局の所、ハリーもその家族も元の自分からは抜け出せず、未来は暗いままというマクドナーならではのラストが待っている。



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2018年3月10日 (土)

コンサートの記(357) サカリ・オラモ指揮BBC交響楽団来日演奏会2018大阪

2018年3月7日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールでサカリ・オラモ指揮BBC交響楽団の来日演奏会を聴く。

曲目は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏:小菅優)とマーラーの交響曲第5番。

BBC交響楽団の配置はヴァイオリン両翼だが、コントラバスが上手の第2ヴァイオリンの後ろに2列で並ぶところが古典配置とは異なる。

サカリ・オラモは、1965年生まれのフィンランドの中堅を代表する指揮者。シベリウス音楽院でヴァイオリンを学び、フィンランド放送交響楽団のコンサートマスターとして活躍。その後、名教師、ヨルマ・パヌラに指揮を師事し、1993年に急病になった指揮者の代役として指揮台に上がって大成功するという「バーンスタイン・ドリーム」の体現者の一人となった。1999年にサー・サイモン・ラトルの後任としてバーミンガム市交響楽団の音楽監督に就任。私が京都に来てから初めて聴いたコンサートがサカリ・オラモ指揮バーミンガム市交響楽団の来日公演であった。
その後、かつて自らが在籍していたフィンランド放送交響楽団の首席指揮者を経て、ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団やBBC交響楽団など複数のオーケストラのシェフを務めている。

プロムスでお馴染みのBBC交響楽団。NHK交響楽団のイギリス版として知名度も高い。ただロンドンの五大オーケストラの中ではずっとBクラスに甘んじている。1930年にエイドリアン・ボールトによって創設され、アンドリュー・デイヴィスが首席指揮者を務めた1990年代に一時代を築くが、21世紀に入ってからのレナード・スラットキンやイルジー・ビエロフラーヴェク時代は相性が今ひとつということもあって低迷気味であった。2013年からはサカリ・オラモが首席指揮者を務めている。オラモとの顔合わせでは初来日となる。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。出だしをアルペジオで開始した小菅優は、しっかりとした構築力と結晶化された音色を生かした正統派の演奏を展開する。デュナーミクの処理も上手い。
オラモ指揮のBBC交響楽団はいかにもイギリスのオーケストラらしい渋めの音色を基調としている。時折、合奏能力を高めて透明な音を出すが、これが効果的である。
オラモの指揮は造形はそれほど重視せず、流れに重きを置いている。管の音の通りが良く魅力的だが、リアルに過ぎる箇所があったのは気になった。

小菅優はアンコールとしてショパンの練習曲作品25の1を演奏。耳が洗い清められるような清冽な演奏であった。

マーラーの交響曲第5番。オラモはこの曲をバーミンガム市交響楽団とライブ録音しており、私も京都コンサートホールでオラモにサインして貰ったCDを持っているのだが、録音、演奏ともに今ひとつであった。
チェロとコントラバスを離しているということもあってか、低弦を強調しない摩天楼型のバランスである。金管がパワフルであるが時にバランスを欠いてうるさく響きこともある。

細部を整序せずむしろ強調することでマーラーの書いた音楽の異様性を明らかにしていくような演奏であり、初めてマーラーの音楽を聴いた聴衆の衝撃が理解出来そうでもある。
第2楽章はアタッカで突入。流れ重視の音楽が効果的である。
第3楽章では一時期、首席ホルン奏者を指揮者の横に立たせてホルン協奏曲のように演奏することが流行ったが、曲の性質から行けばホルン奏者が横一列に並んだ方が効果が上がるように思う。
第4楽章のアダージェットは少し速めのテンポで淡く儚く展開。この楽章だけでなくユダヤ的な濃厚さは抑えた演奏になっており、都会的ですらある。
最終楽章のラストはアンサンブルの精度よりも勢いを重視。熱狂的に締めくくる。
この曲でも、ここぞという時に聴かれる透明な音色が抜群の効果を上げていた。

聴衆の熱狂的な拍手に応えたオラモは、「シベリウス、アンダンテ・フェスティーヴォ」と言ってアンコール演奏が始まる。
これが音色といいテンポといい表情付けといい実に理想的な演奏である。フィンランド出身の指揮者とシベリウスを愛するイギリスのオーケストラの相乗効果であろう。マーラーをはるかに凌ぐ極上の演奏であった。今度があるなら、このコンビによるシベリウスの交響曲を聴いてみたい。



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2017年4月23日 (日)

美術回廊(10) ビアトリクス・ポター生誕150年「ピーターラビット展」大阪

2017年3月24日 グランフロント大阪北館ナレッジキャピタル地下1階イベントラボにて

グランフロント大阪北館ナレッジキャピタル地下1階にあるイベントラボで、ビアトリクス・ポター生誕150年「ピーターラビット展」を観る。
「ピーターラビット」でお馴染みのビアトリクス・ポター、というより私はピーターラビットしか知らなかったりするのだが、実はピーターラビットが脇役に回った絵本なども書いている。
裕福な家に生まれたビアトリクス・ポター。当時は、お金持ちの家の子は庶民のいる学校には通わず、家庭教師から全てを教わることになっており、ポターもまたそうして育った。それゆえ、友達に囲まれて育つという経験がなく、兎などのペットを飼って可愛がる時間が長かった。このことがポターがピーターラビットを生み出す契機にもなっている。

ビアトリクス・ポターのタッチは緻密でありながら柔らかく、「これだけの絵が描けたらそれは売れるわな」と思うのだが、実はポターは持ち込みを行った全ての出版社から書籍化を断られており、最初の作品は自費出版で出している。ピーターラビットを書くきっかけになったのは、病気になったノエル少年(ポターの元家庭教師であるアニー・ムーアの息子)を励ますために兎の絵入りで出した手紙だというが、今回の展覧会でもその写しもまた展示されている。アニー・ムーアがポターに兎の物語を書くことを勧めたようだ。
自費出版された私家版『ピーターラビットのおはなし』は口絵のみカラーで他は表紙も含めて着色はされていない。そこまでのお金がなかったのと、着色は余計と思われたという二つの理由があったようだ。

裕福な家に生まれたことはアドバンテージだけではない。有閑階級出身のポターは出版社の創業家出身で同社に勤務していたノーマン・ウォーンと恋に落ちるが、両親から「格下の男との結婚は認めない」と断られている。

ポターの少女時代の作品も展示されているが、すでに優れた描写力が見られる。なお、ポターの父親や弟の描いた絵も展示されているがいずれもデッサン力が高く、画才に恵まれた一族であったことが確認出来る。

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2017年3月20日 (月)

観劇感想精選(204) 「お気に召すまま」

2017年2月7日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「お気に召すまま」を観る。「人生は舞台、人はみな役者に過ぎぬ(今回の公演では、「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」という訳であった)」というセリフで有名な作品である。昨年が没後400年に当たったウィリアム・シェイクスピア。今年は様々なシェイクスピア作品が上演される。
白水社から出ている小田島雄志翻訳のテキストを使用。演出:マイケル・メイヤー。出演:柚希礼音(ゆずき・れおん)、橋本さとし、ジュリアン、横田栄司、伊礼彼方(いれい・かなた)、芋洗坂係長、平野良、平田薫、入絵加奈子、古畑新之(ふるはた・にいの)、武田幸三、新井将人、俵木藤汰(たわらぎ・とうた)、青山達三、マイコ、小野武彦ほか。音楽:トム・キット。

舞台を1967年のアメリカに移しての上演である。ということで、オーランドー(ジュリアン)やオリヴァー(横田栄司)、フレデリック(小野武彦)、アダム(青山達三)などは背広を着て登場する。ロザリンド(柚木礼音)やシーリア(マイコ)も、最初はフラッパーのような格好で登場する。

元宝塚歌劇団男役トップの柚木礼音の主演ということで、客席には宝塚ファンの女性が多い。

セットは、パルテノン宮殿を思わせるエンタシスの柱数本に三角形の屋根。アメリカの首都ワシントンD.C.という設定だという。アーデンの森はヒッピー達の祭典サンフランシスコのヘイトアシュベリーを起点に起こったムーブメント「サマー・オブ・ラブ」に置き換えられており、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア(カリフォルニア・ドリーミン)」が流れて、セットがサイケデリックなものに変わる。ギター、エレキベース、キーボード、チェロの生演奏があり、アミアンズ役の伊礼彼方はギターの弾き語りを行う。

「お気に召すまま」は、長兄のオリヴァーから冷遇され、ろくに教育も受けることが出来なかった末弟のオーランドー。フレデリックから追放された前公爵など、抑圧された存在が登場するのだが、なぜか皆、瞬く間に仲直りという、不思議な展開を見せる。

今回の舞台では、オーランドーとチャールズ(武田幸三)が戦うのは相撲やレスリングではなく、総合格闘技となっている。

父の追放を悲しんでいるロザリンド。親友でフレデリックの娘であるシーリアはロザリンドに従妹としてまた友人としての絶対的な愛を語り、慰める。格闘技の試合に勝ったオーランドーを見たロザリンドは一目で恋に落ち、銀のブレスレットをプレゼントする。オーランドーもロザリンドに惚れていた。

だが、オリヴァーの不興を買ったオーランドーは、今回はヘイトアシュベリーということになっているアーデンの森に執事のアダムと共に逃げ込む。アーデンの森にはロザリンドの父親である前公爵(小野武彦二役)もいた。フレデリックから追放を宣告されたロザリンドは自らもシーリアと共に森に行くことにする。ロザリンドは「女同士では危険。だが私は普通の娘としては背が高い方だから、男装しようと思う」としてギャニミードという男性名を名乗り、シーリアはギャニミードの妹であるアリーナということにして、道化のタッチストーン(芋洗坂係長)とを連れて森に向かう。

オーランドーは空腹で倒れたアダムのために、公爵が率いるヒッピーの一団を襲うが、彼らの落ち着いた態度に己の行為を恥じ、ヒッピー達と行動を共にするようになる。またオーランドーは森の木という木に、七五調と韻を駆使した恋文を紙に書いて張っていく。

森の別の場所では老いた羊飼いのコリン(俵木藤汰)が、若き羊飼いであるシルヴィアス(平野良)の女羊飼いフィービーへの思いを感じているのだが、フィービーはシルヴィアスを相手にしない。コリン達とシルヴィアスの姿を見たギャニミードとシーリア。ギャニミードは更にオーランドーの恋文も発見する。韻を踏んでいることに感心するギャニミードであったが、タッチストーンは「簡単だ」と言って、韻文を作ってみせる。
オーランドーが現れる。ギャニミードは男装していたので自分の正体が女のロザリンドだと知らせることはなく、「女の心に通じた男」としてオーランドーに女の口説き方をアドバイスし、「自分をロザリンドだと思って接して欲しい」と言って、シミュレーションをたっぷり味わう。だが、フィービーもギャニミードに恋してしまい……。

実は、オーランドーとロザリンドが妙なやり取りをしている一方で、アリーナに扮したシーリアとオリヴァーは一目で恋に落ち、タッチストーンはオードリーというおつむの少し弱い女(入絵加奈子)を見つけて恋仲になろうとしているのである。オーランドーとロザリンドの恋だけが回り道をしていることになる。恋について語る役割でもあるといえるのだが(オーランドーが「恋のために死にたい」というと、ロザリンドに扮したギャニミード正体はロザリンドというややこしい人物が、「人類の歴史は6000年あるが、これまで恋で命を落とした男はいない」と答えるなど)。

「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」というセリフを語るのは、オーランドーの次兄・ジェークイズ(橋本さとし)である。オーランドーから「憂鬱病」と称される彼は、「お気に召すまま」の登場人物の中でかなり異色の存在である。恋の物語になぜ厭世家が紛れ込んでいるのか。ジェークイズを見ていると、「お気に召すまま」が単なる喜劇には見えなくなる。
時について語られる場面がいくつかある。オーランドーやギャニミードのセリフに出てくる。だが、時について最も語られるのがジェークイズの「この世界はすべてこれ」で始まるセリフの後半である。人間には7つの時代があるとされる。「赤ん坊」「子供」「恋する若者」「軍人」「裁判官」「老人」「そして再び赤ん坊。忘却へと帰る」。いずれも良いイメージでは語られない。これは何を意味するのか。
恋する人達の中で厭世家のジェークイズが滑稽に浮かぶ上がるという説もあるが、少なくとも今回の上演ではそうは思えない。ジェークイズは精神的に老いた男で恋する若者達を俯瞰で見ているのか。あるいはジェークイズは未来の視点からヒッピー達を見ているのか。
1967年のアメリカに設定が変わっていることを考えれば、その後のアメリカ史と重ねているという解釈も出来る。1969年のウッドストックで、音楽のムーブメントは変わり(イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」ではそのことが暗示されているとされる)、ベトナム戦争は1975年にアメリカ建国以来初の負け戦として終わる。

マイケル・メイヤーの演出は、俳優にかなり細かな演技をつけたもので、「カッチリした」という言葉が一番ピッタリくる。日本人がやっているとお堅く見えるレベルだ。
また音楽を多用して賑やかな舞台にしており、政治都市ワシントンD.C.から離れた理想郷(一種のカウンターカルチャー)を企図しているように思う。

ラスト(エピローグ)のロザリンドの口上は、柚木礼音が歌を加えて披露した。

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2017年2月28日 (火)

これまでに観た映画より(89) ヒッチコック9「下宿人」

2017年2月23日 新京極のMOVIX京都にて

午後7時からMOVIX京都で、ヒッチコック9「下宿人」を観る。アルフレッド・ヒッチコック監督初のスリラー映画としてとても有名な作品である。英国での封切りは1926年(日本の年号に直すと大正15年=昭和元年)。近衛秀麿と山田耕筰がNHK交響楽団の前身である新交響楽団(アマチュアオーケストラの新交響楽団とは別)を立ち上げたのがこの年である。
2階の部屋をうろつき回る下宿人(演じるのはアイヴァ・ノヴェロ)を下から捉えたカット(ノヴェロにガラス板の上を歩かせて撮影した)はよく知られている。

切り裂きジャックをモデルにした映画とされるが、マリー・ベロック・ロウデンスによる原作小説があり、ヒッチコック本人は、切り裂きジャックにインスパイアされた映画を作ろうという気持ちは薄かったといわれる。
なお、「霧のロンドンの物語」という副題がついているが、ヴィクトリア朝のロンドンというと枕詞のように「霧の」という形容詞がつく。だが、当時のロンドンが特に霧が発生しやすい街だったというわけではなく、その霧の正体は実は工場から出る煤煙だったということで人工的な現象だったわけである。

女性が断末魔の声を上げる映像でスタート。舞台はロンドン。毎週火曜日に金髪の巻き毛の女性が殺害されるという事件が続いている。遺体には「復讐者」と書かれたカードが必ず添えられていた。
目撃者の証言によると、犯人は顔の下半分をマフラーで覆った背の高い男だったという。モデルをしているデイジー(ジューン・トリップ)は金髪の巻き毛であるため、同僚に「用心しなくちゃね」などと語っている。
デイジーには恋人がいる。スコットランドヤードの刑事であるジョー(マルコム・キーン)である。ジョーがデイジーの実家に上がり込んで殺人事件の話をしている。仕草から見て、ジョーの方が一方的に惚れているようだ。
その時、デイジーの家をノックする男がいた。デイジーの実家では下宿人を募集しており、下宿を希望して来たのだ。男は背が高く、マフラーで顔の下半分を隠している。背後には霧が立ちこめ、バックライトも当たっていて、いかにも怪しそうである。男はデイジーを見ると興味を引かれたような目つきをする。
2階の下宿人用の部屋に案内された男は、そこにブロンドの女性の肖像画がいくつも掛かっているのを見て眉をひそめ、絵を取り替えるよう注文する。
火曜日の夜。男は密かに家を抜け出して表に出る。デイジーの母親(マリー・オールト)は男が出て行ったことに気づく。男は30分後に足音を潜めて帰ってきたのだが、その間にまたも金髪の女性が殺害されていた。デイジーの母親は男を怪しいとにらむ。


娯楽映画であるが、実験的要素を取り込んでおり、後に「ヒッチコック・シャドー」と呼ばれることになる長く不気味な影もすでに登場している。実はそのために配給側から「この映画は酷すぎる」と難癖を付けられてお蔵入りになりかけたそうである。当時はまだ映画には芸術的要素はお呼びでなかったことが窺える。
ヒッチコック映画ではお馴染みのヒッチコックのカメオ出演もこの映画から始まっているが、理由は遊び心からではなく、「エキストラが足りなかったため」監督本人も出る必要があったとされている。

サイレント映画ということで、俳優は表情豊かに演じている。「目は口ほどにものを言う」という諺通り、就中、目の表情が重要ということで、ギョロ目の演技も目立つ。今の映画であんな演技をしたら「大根」のレッテルが貼られるだろうが、当時はそうした演技のようが良しとされたのだろう。今の演技で重要なのは表情よりもセリフ回しの上手さで、いくら美男美女でもセリフが喋れなければお声は掛からないが、当時はセリフが録音出来ないので、見た目重視だった。トーキーの時代になり、見た目は良いがセリフの喋れない俳優が淘汰される様を描いた映画が「雨に唄えば」である。

サー・アーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズを読むと、ブランデーを気付け薬代わりに飲ませるシーンがたびたび出てくるが、同じ対処法がこの映画でも見られる。

今回の音楽はアシッド・ジャズの大家であるニティン・ソーニーが新たに手掛けたものを使用し、ロンドン交響楽団が演奏している。とてもお洒落な音楽である。
「リング」では字幕によるセリフは余り出てこなかったのだが、「下宿人」はセリフが比較的多く、「リング」同様、劇団とっても便利の大野裕之が日本語訳を読み上げた。
1コマ1コマデジタル修正を行ったというだけあって、映像はかなり綺麗になっている。映像はモノクロであるがセピア色に染められたものとブルー系に染められたものの二種類があり効果的に用いられている。

「下宿人」を映画館で観ることなどないのだろなと思っていたが、幸運にしてその機会を得た。ありがたいことである。

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2017年2月25日 (土)

観劇感想精選(200) 中谷美紀&神野三鈴二人芝居「メアリー・ステュアート」

2015年7月11日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後7時から梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、パルコ・プロデュース公演「メアリー・ステュアート」を観る。中谷美紀と神野三鈴による二人芝居。作:ダーチャ・マライーニ(フリードリヒ・シラー作『メアリー・ステュワート』の自由な翻案)、テキスト日本語訳:望月紀子、演出:マックス・ウェブスター。リュート演奏:久野幹史/笠原雅仁。音楽監督:辻康介。衣装デザイン:ワダエミ。

数奇な運命を辿ったスコットランド女王メアリー・ステュアートの主に後半生を女優二人のみで演じるという舞台である。作者のダーチャ・マライーニはフィレンツェ生まれだが幼少期の7年間を日本で過ごしているという。父母がイタリアのファシスト党を支持していなかったために敵性外国人と見なされ、最後の2年間は名古屋の強制収容所で暮らした。46年にイタリアに帰国。25歳で小説家としてデビューし、フェミニズムの立場から積極的に社会活動にも参加し、「怒れる女」という異名も取っているという。

今回が3度目の舞台となる中谷美紀。初舞台「猟銃」でも、2度目の舞台となる「ロスト・イン・ヨンカーズ」でも圧倒的な演技を披露し、私が生で演技を観たことのある舞台俳優の中では迷うことなくナンバーワンに挙げたい天才女優である。今回も役作りのためにスコットランドを旅して回ったとのこと。

中谷美紀の演技を受けて立つのは、いつの間にかベテラン女優の領域に達した神野三鈴。新劇から小演劇まで幅広く演じてきた女優である。彼女も役作りのためイングランドまで行ったらしい。

中谷も神野も数役を演じる。基本は中谷はメアリー・ステュアート、神野がエリザベス女王(エリザベスⅠ世)であるが、中谷はメアリーを演じている時には神野はメアリーの乳母であるエリザベス・ケネディを演じ、神野がエリザベス女王を演じている時には中谷が侍女のナニーに扮する。いずれも気位の高いメアリー・ステュアートとエリザベス女王に対し、ナニーとケネディはどちらかというと気弱であり、二人の女優が正反対の女性を交互に演じることになる。二人は男性の役も声のみで演じ、また中谷美紀はレティス・ノールズという女性も演じる。

メアリー・ステュアートとエリザベス女王、更にその周囲の関係はかなり込み入っている。イギリスがまだU.K.ではなく、イングランドとスコットランドとに分裂していた時代の話である。メアリー・ステュアートとエリザベス女王は従姉妹に当たる(正確には更に遠い血縁である)。ヘンリーⅦ世がエリザベス女王の祖父であり、メアリー・ステュアートの曾祖父になる。ヘンリーⅦ世は娘をスコットランド王室に送り込み、ジェームズⅣ世と結婚させる。ジェームズⅣ世の息子であるジェームズⅤ世がメアリー・ステュアートの父親である。またヘンリーⅦ世の後を継いてイングランド王となったヘンリーⅧ世の娘がエリザベス女王である。

メアリー・ステュアートは生後6日でスコットランド女王として即位するが、その後イングランドとスコットランドの争乱から逃れるためにフランスに渡り、スコットランド女王であり続けながらフランス王妃にもなっている。フランス王フランソワⅡ世と結婚したメアリーであるが、病弱なフランソワは若くして亡くなり、メアリーもスコットランドに戻る。グレートブリテン島内はプロテスタントとカトリックの間で争いが起きていた。イングランド領内はプロテスタントが、スコットランドではカトリックが優勢であり、メアリーは一貫してカトリックの信仰を続けた。エリザベス女王はイングランドとスコットランド統合のためにレスター卿ロバート・ダドリーとメアリー・ステュワートとの結婚を画策するも上手くいかなかった。
その後も、アン・ブーリンが殺害されてエリザベスは庶子扱いとなってため、血筋の上ではメアリー・ステュアートの方が上であり、エリザベス女王の悩みの種となっていた。

中谷演じるメアリー・ステュアートも、神野演じるエリザベス女王も芯の強い女性であるが、メアリー・ステュアートの方がどちらからというとスマートで色恋も多いのに対し、エリザベス女王は石頭という印象を受ける。またメアリーが「お世辞は嫌い」と言い切るのに対して、エリザベスはアメリカでの黒人の扱いを美辞麗句で飾ることに腐心しており、好対照である。メアリーにとっては取り繕わないのが正義であるが、エリザベスはいかに上手く取り繕うかが国家運営のためには大事だと思っている節がある。

舞台後方は鏡張りになっており、かなり効果的に使われる。特にメアリー・ステュワートの裁判シーンの手法は鮮やかだ。セットは比較的簡素であり、テーブルに椅子、いくつかの木の箱などが置かれているだけである。

イングランド国内で軟禁生活を送っているメアリー・ステュアート。国内統治のためにはメアリーを処刑した方がいいのだが、エリザベスは処刑の話をするナニーに、「王の首が跳べば、民衆は王の首を刎ねても良いのだと思って次は自分の首を狙う」と話す。このように、中谷美紀演じるナニーが中谷美紀演じるメアリーを追い込むセリフが幾つかあり、鏡に映ったような転倒が見て取れる。「シンメトリーの鏡」という言葉もセリフの中に登場する。メアリーはある意味自滅した女性であるため、こうした手法は効果的である。

メアリーはこれまでの人生や自分を巡る男達についてケネディに語る。音楽家のダヴィッド・リッチョ暗殺の場面では狂乱の場も用意されており、中谷美紀の見せ場である。ヘンリー・ダーンリーの子を身籠もった時は、破水から出産に至るまでも演技と語りで表現される。ヘンリー・ダーンリーとメアリー・ステュアートの間に生まれたジェームズⅥ世が後にスコットランド王からイングランド王ジェームズⅠ世になり、ブリテン統一が果たされるのである。
ちなみにエリザベス女王の命令で無理矢理結婚させられそうになったレスター卿ロバート・ダドリーに対してはメアリーは一貫して冷たい。メアリーは命令されるのが嫌いな女なのだ。これに対してやはり中谷が演じるエリザベス女王の侍女ナニーは命令されるのが大好きであり、余りに素直すぎるのでエリザベスに怒られたりする。一方で、エリザベスは自分に無断でレスター卿ロバート・ダドリーと結婚した若いレティス・ノールズ(中谷美紀)をたしなめたりもする(レスター卿ロバート・ダドリーとエリザベス女王は恋仲だったという説がある。このシーンではレティスとエリザベスのシーンでは女性の方が喜びそうなことも行われる)。このレティス・ノールズは自らの意思に忠実という、ある意味自立した理想的な女性像として特別に登場している節がある。

大英帝国の礎を築いたエリザベスも自立した強い女性であるが、一国の君主であることのくびきからは逃れることが出来ない。人々はエリザベスに皇太子を生むことを求める。
 

基本的にスリリングでタイトな心理劇であるが、途中でロバート・ダドリーを「豚」とおちょくるユーモラスな歌が用意されており、中谷と神野の二人がマイクを手に歌う。アイドルグループ出身であり、坂本龍一のプロデュースでヒット曲も生んでいる中谷と、音楽劇などにも多数出演している神野は二人とも歌がかなり上手であった。ちなみに「豚」はイケメンだったらしい。

「イギリスと結婚した」として生涯独身だったエリザベス女王と、何人もの男性と付き合いイングランド王を生んだメアリー・ステュアート。メアリーの子がイングランド王室を継いだ(ステュアート朝)ということを思えば、U.K.はエリザベスとメアリーの共作ということにもなるだろう。劇中ではメアリーがエリザベスに向けた手紙で「わたしたちのいずれかが男であったなら」という手紙を読み上げるシーンがあり、もっと直接的な共作の夢が語られている。

メアリー・ステュアートとエリザベスⅠ世は、手紙のやり取りは頻繁に行っていたが、実際に会ったことはないそうである。だが、この舞台「メアリー・ステュアート」では夢の中でエリザベスとメアリーが出会う場面がある。その時のメアリーを演じる中谷は急に愛らしい女性へと変身。流石の演技力を見せる。

構造自体は歴史的背景もあって複雑であり、かなり巧みに出来ている。そのためイギリスの歴史のグチャグチャさに呆れることにもなるのだが、中谷も神野も別の女性へと一瞬で、それも自然にチェンジしているため、二人の演技力を存分に楽しめる公演になっている。

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2016年7月 6日 (水)

コンサートの記(246) 山田和樹指揮 バーミンガム市交響楽団来日公演2016大阪

2016年6月26日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後2時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、山田和樹指揮バーミンガム市交響楽団の来日演奏会を聴く。

イギリスのEU離脱の中で行われる来日公演。時期がたまたま重なってしまった。

バーミンガム市交響楽団(City of Birmingham Symphony Orchestra。略称はCBSO)の来日演奏会を聴くのは通算で3度目。最初は1990年代後半に、東京・初台の東京オペラシティコンサートホール“タケミツ メモリアル”で、サー・サイモン・ラトル指揮の演奏会を聴いた。ラトルはすでにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団芸術監督への就任が決まっていたはずだが、前半に現代音楽が並んだということもあり、当日のタケミツホールは半分も入っていないというガラガラ状態。聴衆の現代音楽アレルギーを目の当たりにした格好だった。後半のベートーヴェン交響曲第5番の演奏は刺激的でとても面白かったが、それが「ピリオド・アプローチ」なるものによって演奏されたものだと知るのは少し経ってからのことである。

2度目は、2002年、京都コンサートホールにおいて。私が京都コンサートに初めて足を踏み入れたのがバーミンガム市交響楽団の来日演奏会だったのだ。指揮者は当時、CBSOの音楽監督を務めていたサカリ・オラモ。メインで演奏されたシベリウスの交響曲第2番が清心な出来映えであった。

ただ、前回聴いたのが2002年ということで、実に14年ぶりのバーミンガム市交響楽団体験となる。メンバーも大幅に変わったはずで、ファゴットの女性奏者はクラシックではまだ珍しい黒人である。

曲目は、ウェーバーの歌劇「オベロン」序曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番(ピアノ独奏:河村尚子)、ベートーヴェンの交響曲第7番。

日本人若手指揮者界のトップランナーともいうべき山田和樹は、1979年生まれ。東京芸術大学在学中にオーケストラ(トマト・フィルハーモニー管弦楽団。現:横浜シンフォニエッタ)を立ち上げ、2009年には第51回ブザンソン国際コンクールで優勝という経歴から、「リアル千秋真一」と呼ばれたこともある。今年の秋からは先日来日もしたモンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督に就任することが決定している。その他に、スイス・ロマンド管弦楽団の首席客演指揮者、日本フィルハーモニー交響楽団の正指揮者、仙台フィルハーモニー管弦楽団とオーケストラ・アンサンブル金沢のミュージックパートナー、横浜シンフォニエッタの音楽監督など多くのポストを牽引している。現在はベルリン在住。

ウェーバーの歌劇「オベロン」序曲。今日のメインはベートーヴェンの交響曲第7番だが、その初演を聴いて、「ベートーヴェンもついに気が狂ったか」と日記に記しているのが他ならぬウェーバーである。

アメリカ式現代配置での演奏。バーミンガム市交響楽団はラトルの時代から仄暗い響きを特徴としていたが、それは今も守られているようである。
弦はビブラートを抑えたピリオド奏法だが、盛り上がりを見せるようになるとビブラートを盛大に掛けるため折衷様式の演奏である。ティンパニが堅めの音出しているのが古楽風だ。
山田のオーケストラ統率力は極めて高い。

 

ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番。フェスティバルホールはステージが広いので、予めオーケストラを奥寄りに配置し、ピアノを下手奥から正面へと移動させることで、楽団員が退場しなくても場面転換が可能になっている。

真っ赤なドレスで登場した河村尚子(かわむら・ひさこ)。今、最も注目に値するピアニストの一人である。1981年、兵庫県西宮市生まれ、5歳の時の一家で渡独。ドイツで普通教育と音楽教育を受け、現在もドイツ在住である。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番は、超絶技巧が必要なことで知られており、「弾き終わったら気が狂う」といわれるほど難しい。そのため、技巧を見せびらかすためにバリバリと弾くピアニストも多いのだが、河村尚子のスタートは慎重である。何かを探しながらためらいつつ進むという趣。技巧よりもラフマニノフの内面に光を当てたピアノである。
河村の特長であるヒンヤリとした音色を持つエッジの効いたピアノはラフマニノフにピッタリである。山田が指揮するバーミンガム市響も立体的な伴奏を奏でる。山田はスケールの的確さというものを理解しており、徒にスケールを拡げすぎることがない。

第2楽章を煌めきと不安とで彩った河村。その河村が第3楽章に入ると技巧を前面に出して、熱烈な凱歌を奏でる。ベートーヴェン的解釈と読んで良いのかはわからないが、第1楽章や第2楽章での憂鬱が圧倒的な音の波に呑み込まれていく。ラフマニノフの勝利を河村は鍵盤に刻みつける。決して、情熱をまき散らす様な演奏ではなく、今この時に刻印する。ただの「お祭り」に陥らない音楽を河村は創造する。本当に優れたピアニストだ。

山田指揮するバーミンガム市交響楽団の迫力も虚仮威しでなく、良かった。

河村のアンコール曲は、ラフマニノフの前奏曲変ト長調作品23の10。
音楽が底から沸き上がってくるような、不思議な曲であり、演奏であった。

ベートーヴェンの交響曲第7番。山田は以前、大阪フィルハーモニー交響楽団を指揮して同曲を演奏している。
アメリカ式の現代配置ではあるが、ティンパニは指揮者の正面でははく、上手奥に位置する。しかも古楽用のバロックティンパニでの演奏である。

ということで、このベートーヴェンでは徹底したピリオド・アプローチによる演奏が展開された。弦楽器がビブラートを用いることはほとんどない。ホルンはモダン楽器を使用していたが、トランペットは通常のものとはやや違うように見えた。ピストンが着いているようには見えないのである。ナチュラルトランペットにも見えないが、過渡期的な楽器を使ったのだろうか。

ピリオドによって様式は異なるが、演奏の出来不出来に影響はしない。山田の楽曲構造把握は抜群で、マスとしてのスケールをきちんと把握して演奏している。そのため、決して大言壮語のベートーヴェンにはならない。

ベーレンライター版の楽譜を用いてるため、通常とは異なるところがいくつかあったが、特に気にする必要はないだろう。第3楽章のティンパニとトランペットの強奏は意図が余り伝わってこなかったが。

第1楽章と第2楽章で一つの音楽、第3楽章と第4楽章でもう一つの音楽という昨今流行のスタイルでの演奏。
少し軽い気もしたが、爽快な演奏ではある。第3楽章と第4楽章ではジャンプも飛び出すなど、指揮姿も躍動感に溢れていた山田。金管の強奏、ティンパニの強打も効果的で迫力ある第7を生み出した。ただノリが良すぎてベートーヴェン的要素が後退してしまったのはマイナスかも知れない。

アンコール。まず山田のスピーチ。「イギリスではシェイクスピア没後400年ということで、コンサートでシェイクスピアにまつわる様々な楽曲が毎回のように演奏されています。それではウォルトンという作曲家による『ヘンリー五世』より“彼女の唇に触れて別れなん”」。山田がオーケストラの方に向き直って演奏スタート。弦楽合奏のための曲である。映画音楽だそうだが、気高い曲調で、演奏もエレガントであった。

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