カテゴリー「アメリカ」の18件の記事

2017年7月20日 (木)

コンサートの記(309) 第55回大阪国際フェスティバル 井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団ほか レナード・バーンスタイン シアターピース「ミサ」

2017年7月14日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、第55回大阪国際フェスティバル2017 レナード・バーンスタイン作曲のシアターピース「ミサ」を聴く。

レナード・バーンスタインの「ミサ」は、1971年に、ワシントンD.C.に完成したジョン・F・ケネディ・センターの杮落とし演目として初演されたものであり、宗教曲でありながら反キリスト教的要素が濃く、音楽的にもロック、ミュージカルナンバー風、ジャズ、現代音楽を取り入れたアマルガム的なものになっている。

今回の上演は、日本初演以来23年ぶりの舞台上演。フェスティバルホールでの2公演のみであり、関西のみならず、日本中からファンが駆けつけたと思われる。

指揮は、「ミサ」の日本初演も手がけた井上道義。井上は、総監督、演出、日本語字幕訳も手がける。
演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団。オーケストラピットに入っての演奏である。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。出演は、大山大輔(バリトン)、小川里美、小林沙羅、鷲尾麻衣(以上ソプラノ)、野田千恵子、弊真千子(へい・まちこ)、森山京子(以上メゾソプラノ)、後藤万有美(アルト)、藤木大地(カウンターテナー)、古橋郷平、鈴木俊介、又吉秀樹、村上公太(以上テノール)、加耒徹(かく・とおる)、久保和範、与那城敬(以上バリトン)、ジョン・ハオ(バス)、込山直樹(ボーイソプラノ)、ファルセットコーラスを担当するのは奥村泰徳、福島章恭、藤木大地の3人。
ボーイソプラノコーラスは、キッズコールOSAKA。
従者役は、孫高宏と三坂賢二郎の二人(ともに兵庫県立ピッコロ劇団)。
バレエダンサーは、堀内充バレエプロジェクト所属のバレエダンサー9人と大阪芸術大学舞台芸術学科舞踏コースの学生6人。
副指揮者は角田鋼亮(つのだ・こうすけ)。
ミュージックパートナーは佐渡裕(本番には出演せず)。

従者達が運んだジュークボックスから声が響き、エレキギターを奏でていた男(大山大輔。今回はレナード・バーンスタイン本人を演じるという設定である)が、祭服を纏い、司祭となることからストーリーは始まる。
司祭は、「神に祈ろう」、「神の言葉は絶対だ」と歌うのだが、神の存在をどうしても信じられないという人や、神の言葉の矛盾を突く人などが次々と現れ、司祭がついには信仰を投げ出してしまうという筋書きである。

ラストは、言葉のない歌(スキャット)や簡単な歌詞(「ラウダ、ラウデ」という言葉が繰り返される)による歌が歌われることになる。このラストの部分はとても美しいのだが、レナード・バーンスタインがそうなるように仕掛けたのだと思われる。

「はじめに言葉ありき」という聖書の言葉がある。この「ミサ」にも登場する有名な言葉なのであるが、音楽家としてはこの言葉に簡単には首肯できないのではないだろか。「音楽はともかくとして、音より先に言葉があるとはどういうことなのか?」
レナード・バーンスタインはここで音楽の言葉に対する優位性を唱えたように思う。言葉による神をめぐる思想は矛盾や争いを生み、地上に地獄をもたらす。一方、言葉のない音楽の世界は天上のように美しい。つまり音楽こそがレナード・バーンスタンの求める平和を体現するものだということだろう。こうした意思の表明は極めてわかりやすく提示されている。

日本初演も手がけた井上道義の指揮はノリが良く、大阪フィルハーモニー交響楽団の音色も鮮やかで、この曲を再現するのに最適の演奏となった。一方で井上の演出は余計なことが多いような。やはり音楽家が演出も兼務するには限界があるのだろう。

今日は3階席の後ろの方、ほぼ真ん真ん中で聴いたのだが、この席で聴くフェスティバルホールの音響は優れたものであった。

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2017年6月27日 (火)

観劇感想精選(218) ミュージカル「パレード」

2017年6月8日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、ミュージカル「パレード」を観る。1913年にアメリカ・ジョージア州アトランタで起こったレオ・フランク事件に基づく作品である。1998年にアメリカで初演され、1999年度のトニー賞最優秀作詞・作曲賞、最優秀脚本賞を受賞している。

作:アルフレッド・ウーリー、作詞・作曲:ジェイソン・ロバート・ブラウン、共同構想およびブロードウェイ版演出:ハロルド・プリンス、演出:森新太郎。出演:石丸幹二、堀内敬子、武田真治、新納慎也、坂元健児、藤木孝、石川禅、岡本健一ほか。

1913年、アトランタ。南軍戦没者記念日。南北戦争終結から半世紀が過ぎたが、南北戦争従軍者や南部の男達はパレードに参加して南部の誇りを歌い上げていた。
ニューヨーク出身のユダヤ人であるレオ・フランク(石丸幹二)は、アトランタ生まれのユダヤ人であるルシール(堀内敬子)と結婚し、アトランタに住んでいる。アトランタの鉛筆工場に工場長として就職したためで、工場長の職は妻のツテを伝って得たものだった。北部出身のレオはアトランタの街に馴染めないものを感じていた。

南軍戦没者記念日にも仕事に出掛けたレオは、訪ねてきた13歳の少女、メアリー・フェイガンに給料を渡す。

だが、その日、メアリーは家に帰らず、黒人のニュート・リーがメアリーの遺体を発見する。第1発見者のニュート・リーと、工場長であるレオ・フランクが容疑者として逮捕される。逮捕されたのが黒人だとユダヤ人だと知ったジョージア州検事のヒュー(石川禅)は、差別の問題なども絡めてレオ・フランクを裁判に掛けるよう命令する。裁判では反ユダヤ反北部の気風により偽証が相次ぎ、レオには死刑が宣告される……。

レオ・フランク事件は、その後、完全な冤罪であるとされ、真犯人と思われる人物もわかっているのだが、レオはレイシズムの犠牲者のなったことがわかっている。ただ、今もレオが真犯人だと思い込んでいる人達がいるそうである。

偏見によるでっち上げが真実とされ、犠牲者が出ていく。冤罪が生まれる過程は、海の向こうのよそ事ではない。


ストリートプレーでなくミュージカルとして制作されたのは、音楽が物語の陰鬱さを中和するとともに物語を強く推し進める役割を果たしているからだと思われる。スネアが鳴るなど、南部特有の荒っぽく、リズミカルな伴奏に乗ってメロディーが紡がれていく。オーケストラピットが用いられており、上手と下とに橋が渡してあって、出演者がそこに乗って歌や演技を行うこともあり、またキャストがオーケストラピットから入退場を行うこともある。

重苦しくて嫌な話だが、出演者の好演と音楽や歌の充実もあり、骨太の上演となった。

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2017年3月20日 (月)

観劇感想精選(204) 「お気に召すまま」

2017年2月7日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「お気に召すまま」を観る。「人生は舞台、人はみな役者に過ぎぬ(今回の公演では、「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」という訳であった)」というセリフで有名な作品である。昨年が没後400年に当たったウィリアム・シェイクスピア。今年は様々なシェイクスピア作品が上演される。
白水社から出ている小田島雄志翻訳のテキストを使用。演出:マイケル・メイヤー。出演:柚希礼音(ゆずき・れおん)、橋本さとし、ジュリアン、横田栄司、伊礼彼方(いれい・かなた)、芋洗坂係長、平野良、平田薫、入絵加奈子、古畑新之(ふるはた・にいの)、武田幸三、新井将人、俵木藤汰(たわらぎ・とうた)、青山達三、マイコ、小野武彦ほか。音楽:トム・キット。

舞台を1967年のアメリカに移しての上演である。ということで、オーランドー(ジュリアン)やオリヴァー(横田栄司)、フレデリック(小野武彦)、アダム(青山達三)などは背広を着て登場する。ロザリンド(柚木礼音)やシーリア(マイコ)も、最初はフラッパーのような格好で登場する。

元宝塚歌劇団男役トップの柚木礼音の主演ということで、客席には宝塚ファンの女性が多い。

セットは、パルテノン宮殿を思わせるエンタシスの柱数本に三角形の屋根。アメリカの首都ワシントンD.C.という設定だという。アーデンの森はヒッピー達の祭典サンフランシスコのヘイトアシュベリーを起点に起こったムーブメント「サマー・オブ・ラブ」に置き換えられており、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア(カリフォルニア・ドリーミン)」が流れて、セットがサイケデリックなものに変わる。ギター、エレキベース、キーボード、チェロの生演奏があり、アミアンズ役の伊礼彼方はギターの弾き語りを行う。

「お気に召すまま」は、長兄のオリヴァーから冷遇され、ろくに教育も受けることが出来なかった末弟のオーランドー。フレデリックから追放された前公爵など、抑圧された存在が登場するのだが、なぜか皆、瞬く間に仲直りという、不思議な展開を見せる。

今回の舞台では、オーランドーとチャールズ(武田幸三)が戦うのは相撲やレスリングではなく、総合格闘技となっている。

父の追放を悲しんでいるロザリンド。親友でフレデリックの娘であるシーリアはロザリンドに従妹としてまた友人としての絶対的な愛を語り、慰める。格闘技の試合に勝ったオーランドーを見たロザリンドは一目で恋に落ち、銀のブレスレットをプレゼントする。オーランドーもロザリンドに惚れていた。

だが、オリヴァーの不興を買ったオーランドーは、今回はヘイトアシュベリーということになっているアーデンの森に執事のアダムと共に逃げ込む。アーデンの森にはロザリンドの父親である前公爵(小野武彦二役)もいた。フレデリックから追放を宣告されたロザリンドは自らもシーリアと共に森に行くことにする。ロザリンドは「女同士では危険。だが私は普通の娘としては背が高い方だから、男装しようと思う」としてギャニミードという男性名を名乗り、シーリアはギャニミードの妹であるアリーナということにして、道化のタッチストーン(芋洗坂係長)とを連れて森に向かう。

オーランドーは空腹で倒れたアダムのために、公爵が率いるヒッピーの一団を襲うが、彼らの落ち着いた態度に己の行為を恥じ、ヒッピー達と行動を共にするようになる。またオーランドーは森の木という木に、七五調と韻を駆使した恋文を紙に書いて張っていく。

森の別の場所では老いた羊飼いのコリン(俵木藤汰)が、若き羊飼いであるシルヴィアス(平野良)の女羊飼いフィービーへの思いを感じているのだが、フィービーはシルヴィアスを相手にしない。コリン達とシルヴィアスの姿を見たギャニミードとシーリア。ギャニミードは更にオーランドーの恋文も発見する。韻を踏んでいることに感心するギャニミードであったが、タッチストーンは「簡単だ」と言って、韻文を作ってみせる。
オーランドーが現れる。ギャニミードは男装していたので自分の正体が女のロザリンドだと知らせることはなく、「女の心に通じた男」としてオーランドーに女の口説き方をアドバイスし、「自分をロザリンドだと思って接して欲しい」と言って、シミュレーションをたっぷり味わう。だが、フィービーもギャニミードに恋してしまい……。

実は、オーランドーとロザリンドが妙なやり取りをしている一方で、アリーナに扮したシーリアとオリヴァーは一目で恋に落ち、タッチストーンはオードリーというおつむの少し弱い女(入絵加奈子)を見つけて恋仲になろうとしているのである。オーランドーとロザリンドの恋だけが回り道をしていることになる。恋について語る役割でもあるといえるのだが(オーランドーが「恋のために死にたい」というと、ロザリンドに扮したギャニミード正体はロザリンドというややこしい人物が、「人類の歴史は6000年あるが、これまで恋で命を落とした男はいない」と答えるなど)。

「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」というセリフを語るのは、オーランドーの次兄・ジェークイズ(橋本さとし)である。オーランドーから「憂鬱病」と称される彼は、「お気に召すまま」の登場人物の中でかなり異色の存在である。恋の物語になぜ厭世家が紛れ込んでいるのか。ジェークイズを見ていると、「お気に召すまま」が単なる喜劇には見えなくなる。
時について語られる場面がいくつかある。オーランドーやギャニミードのセリフに出てくる。だが、時について最も語られるのがジェークイズの「この世界はすべてこれ」で始まるセリフの後半である。人間には7つの時代があるとされる。「赤ん坊」「子供」「恋する若者」「軍人」「裁判官」「老人」「そして再び赤ん坊。忘却へと帰る」。いずれも良いイメージでは語られない。これは何を意味するのか。
恋する人達の中で厭世家のジェークイズが滑稽に浮かぶ上がるという説もあるが、少なくとも今回の上演ではそうは思えない。ジェークイズは精神的に老いた男で恋する若者達を俯瞰で見ているのか。あるいはジェークイズは未来の視点からヒッピー達を見ているのか。
1967年のアメリカに設定が変わっていることを考えれば、その後のアメリカ史と重ねているという解釈も出来る。1969年のウッドストックで、音楽のムーブメントは変わり(イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」ではそのことが暗示されているとされる)、ベトナム戦争は1975年にアメリカ建国以来初の負け戦として終わる。

マイケル・メイヤーの演出は、俳優にかなり細かな演技をつけたもので、「カッチリした」という言葉が一番ピッタリくる。日本人がやっているとお堅く見えるレベルだ。
また音楽を多用して賑やかな舞台にしており、政治都市ワシントンD.C.から離れた理想郷(一種のカウンターカルチャー)を企図しているように思う。

ラスト(エピローグ)のロザリンドの口上は、柚木礼音が歌を加えて披露した。

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2017年2月 9日 (木)

コンサートの記(272) 平成28年度全国共同制作プロジェクト プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」新演出

2017年1月26日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後6時30分から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、平成28年度全国共同制作プロジェクト プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」を観る。

「蝶々夫人」を観るのは今日で多分4回目。最も多く観ているオペラとなる。

考えてみれば、フェスティバルホールで本格的なオペラ上演を観るのは初めてである。井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団によるバルトークの歌劇「青ひげ公の城」は観ているが、あれはオーケストラも舞台に上がり、セットなしで行われた上演である(「青ひげ公の城」は抽象的な内容であり、セットなしでも上演が出来る)。


ミヒャエル・バルケ指揮大阪フィルハーモニー交響楽団による演奏。演出:笈田(おいだ)ヨシ。出演は、中島彰子(なかじま・あきこ。蝶々夫人)、鳥木弥生(スズキ)、ロレンツォ・デカーロ(ピンカートン)、サラ・マクドナルド(ケイト・ピンカートン)、牧川修一(ヤマドリ公爵)、清水那由太(しみず・なゆた。ボンゾ)、晴雅彦(はれ・まさひこ。ゴロー)ほか。ダンサー(蝶々夫人の分身):松本響子。合唱はフェスティバル・クワイア。

今月(1月)22日に、金沢で幕を開けた公演で、今日は大阪での上演。この後、高崎、東京で公演を行う。


文学座、劇団四季での活動後、ヨーロッパに渡って俳優・演出家として活躍してきた笈田ヨシによる新演出である。
笈田ヨシは、アメリカ海軍士官に捨てられた可哀想な蝶々さんではなく、より幅を拡げた解釈を行う。

3階席6席目での鑑賞だが、舞台に置かれたものを確認するため、オーケストラピットのそばまで行く。帰りに、上手から、スタッフに誘導されて笈田さんが入ってくるのが見えた。その後、笈田さんは、私の後に続く格好で、1階後方の出入り口からホワイエに出た(笈田さんの席は1階席の一番後方であるようだ)。笈田さんに気づいた人は余りいなかったが、数名が気づいて、話したり記念撮影をしたりしている。


素舞台の上に平台に作った小さな舞台が置かれている。ここが蝶々さんの居住空間となる。平台の上に衝立が真横に6枚。漢字で何か書かれているが、近くにいってもよくはわからなかった。
舞台手前には、上手から松の盆栽(第2幕では笹に変わっている)、赤い花2つ(第1幕で用いられる)、石のオブジェ(蝶々さんとピンカートンの二人のシーンで火がともる)が置かれている。

無料パンフレットに笈田ヨシの挨拶が載っており、「蝶々さんはアメリカの全てを尊敬し愛していました」と定義した後で、自身の体験を話す。進駐軍の兵隊さんからガムを貰うために「ハロー!ハロー!」と叫びながらジープを追った日々、アメリカ兵相手の娼婦(俗にいう「パンパン」)が綺麗な洋服を着てチョコレートを食べているのを見て羨ましく思ったこと、アメリカのものが優れていると思い、日本のものは古くさいといわれて軽蔑された時代など。
笈田は、蝶々さんが絶望して死んだ場所を「ナガサキで!」とカタカナで書き、長崎で被爆した自分の友人達も死んでいったと綴っている。


ゴローが大きめの星条旗を持って現れる。それに続くピンカートン。ゴローは星条旗を平台の上手に差し、アメリカ国歌「星条旗」のメロディーが流れると、星条旗をはためかせて見せる。今回の舞台ではゴローは完全に旗持ちならぬ太鼓持ちである。
ゴローは衝立を移して、蝶々さんとの新居を説明する。
ピンカートンの友人である、領事のシャープレスは、この舞台では、ピンカートンの身勝手さに最初から呆れ気味のようであり、ラストではピンカートンを本気でなじる。

蝶々さんが現れる。背後の紗幕が透け、合唱している人々が見える。蝶々さんは天平時代の貴女のような格好で下手からゆっくりと進んでくる。
蝶々の形の旗を持った人々が数名。そして、折り鶴をつり下げた飾りが現れる。

ちなみに、今回は蝶々さんのキリスト教への改宗を責めるボンゾは、僧侶ではなく山伏(修験者)の格好をしている。

蝶々さんが、武家の出ながら芸者に身をやつしたこと、また父親が亡くなったことを語るシーンで、紗幕の向こうに、薄浅葱の死装束姿の父親(川合ロン)の姿が現れ、父親が切腹したことが示される。

蝶々さんとシャープレス二人の場面では、合唱団のメンバーが灯籠を手に現れる。多くの灯籠が浮かぶシーンは、広島で行われる原爆死者追悼のためのとうろう流しが連想される。また、折り鶴も原爆被害の象徴だ。もう前大統領になるが、バラク・オバマも広島で折り鶴を作って被爆者に捧げている。


第2幕では、蝶々さんもスズキも、戦中そして戦後すぐを思わせる質素な格好の女性として登場する。今回は蝶々さんとケイト(ケイト役のサラ・マクドナルドが今回唯一のアメリカ人キャストである。女優として「花子とアン」にも出ていたというサラは大学時代に、演劇、日本文化、日本語の3つを専攻しているそうだ)が会話を交わす場面のある1904年ブレシア版の楽譜が用いられている。ケイトは「子供は自分が育てる」と蝶々さんに誓う。ある意味、象徴的なセリフである。

第2幕でも、蝶々さんの幼さが強調されており、「ある晴れた日に」は、蝶々さんのピンカートンへの思いと同時にアメリカへの盲信が歌われているようでもある。

紗幕が透け、芸者の頃の可憐な蝶々さんが現れる。それを追う、ボンゾ、ヤマドリ公爵ら。最後にピンカートンが姿を現す。

蝶々さんが、家を花で飾ろうと歌う場面では、合唱団員が着物姿で現れて花びらを撒いていくが、最後に黒子が黒いものを投げていく。焼かれた街に残った炭だろうか。

蝶々さんが新婚時の姿に着替えようというとことで、再び衝立が一直線に横に並ぶ。今度は裏側をこちらに向けて並べる。光を放つ紙が切り貼りされており、ステンドグラスのように見える。どうやら大浦天主堂を仄めかしているようだ(浦上天主堂かも知れないが、ステンドグラスの種類がちょっと違う。いずれにせよナガサキの象徴である)。黒ずくめの合唱団員が現れ、ステンドグラスのように光る衝立の前に並んで歌う(ハミング・コーラス)。彼らの正体は死者だと思われる。
死者達が去った後、間奏曲が流れ、蝶々さんの化身が現れて舞う。下手から上手へと歩みながら。可憐だが、大きく反り返る様などは痛みを表しているようにも見える。


ピンカートンに裏切られたことを知った蝶々さんは、第2幕では平台の下手に場所を移して掲げられていた星条旗を引き抜き、放り投げる。紗幕の後ろに再び蝶々さんの父親が姿を現し、蝶々さんの自殺が仄めかされて終わる(自刃そのもののシーンはない)。


1945年8月6日に広島に、同年8月9日に長崎にアメリカにより原子爆弾が投下された。一瞬の光の下での大量虐殺。自身が虐殺行ったという実感を終生を持たぬままアメリカのパイロットは他界した。そしてアメリカ人の多くは「原爆は正義であった」と今も思っている。日本の国土を蹂躙したアメリカに戦後従い、追わなければならなかった日本人の根源的な哀しみと無念がヒシヒシと感じられる。そして同時に感じるのは強い怒りだ。アメリカに倣うのはある意味では仕方なかった。しかし、今なお徹底した従米路線良しとする一団に憤りを覚えるのだ。

アメリカが描いた自由、民主主義、理想、正義。それらが真っ赤な嘘であったことは今では知られている。戦争をすることで儲けるアメリカ。平和を掲げる日本が最も戦争大国アメリカを支持している国家だという矛盾。


フェスティバルホール3階で聴いた音であるが、オーケストラは美しいが響きが薄く、声は良く通るが、やはり巨大な空間であるため、声があちこちに反響してガタガタ軋むようなところがある。視覚的にも余り良くない。字幕は、上手下手のプロセニアム沿いにあるのだが、下手の字幕は私が座った席からは薄くて見にくい。上手の字幕はステージ中央から遠く、演技と字幕両方を見るには視線を大きく動かす必要がある。上手の字幕もそれほど見やすくはない。蝶々の形の旗が登場した時は上手の字幕が隠される格好になってしまい、難儀した。
ということで、オペラに向いたホールという印象は受けなかった。道理でオペラ上演が思ったよりも少ないわけだ。
そもそも3階席、綿ぼこりが舞ってるし、これあかんやろ。


タイトルロールを歌った中島彰子であるが、声が澄んでいて心地よい。また、一芝居のシーンがあるのだが、声音を変えて上手く演じていたように思う。

スズキを歌った鳥木弥生。衣装がずっと地味なので目立たないような印象を受けるが、しっかりとした歌唱を聴かせてくれる。

ピンカートン役のロレンツォ・デカーロの堂々とした演技も見事だったが、シャープレスを演じたピーター・サヴィッジの演技力が極めて高く、それがこの公演の成功に大きく貢献している。

今回は太鼓持ちであるゴローを歌った晴雅彦は、持ち前の剽軽さも発揮していた。


ミヒャエル・バルケの指揮は、拍を刻むオーソドックスなもの。叙情的な部分も良かったが、「宮さん宮さん」などのリズミカルな旋律の処理の方が達者である。

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2016年12月 3日 (土)

美術回廊(5) 「メアリー・カサット展」京都

2016年11月27日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて
 

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「メアリー・カサット展」を観る。

メアリー・カサット(1844-1926)はアメリカに生まれ、祖国とフランスで活躍した女流画家。学生時代は古典美術を描いていたが、渡仏後に印象派に作風を変え、その後、独自の画風を生み出してアメリカ画壇の先駆者となっている。
現在の米ペンシルバニア州ピッツバーグの生まれ。現在は斜陽都市として知られるピッツバーグだが当時はまだ景気が良く、父親は成功した株式仲買人、母親は銀行家の娘で、金銭的には恵まれた幼少期を過ごした。
フィラデルフィアの絵画アカデミーで絵を学んだメアリーは、プロの画家を目指すために渡仏。普仏戦争により一時帰国するも再びヨーロッパに渡り、パリでカミーユ・ピサロに師事した。その後、ドガの描いた絵に激しく惹かれ、ドガと対面。ドガの勧めもあって印象派の作品を発表するようになる。

まず「画家としての出発」という、学生時代の作品の展示から始まる。「フェルメール」という言葉が説明に用いられているが、影響は一目見ればわかる。顔を分厚く塗って立体感を持たせた油彩画であり、構図もいかにもフェルメール的である。

渡仏後には作風をガラリと変え、柔らかで淡い感触の絵が並ぶ。絵画なので当然ながら静止しているのだが、カンヴァスの向こうから光が差し込んでいるように感じられたり、描かれた対象が今にも「揺れ」そうなイメージ喚起力を持っている。
「浜辺で遊ぶ子どもたち」からは、潮騒が聞こえてきそうだ。

メアリーは観劇を好んだそうで、劇場に集う婦人達の絵画を発表している。好んで観劇をする女性は、当時、時代の先端を行く新たな女性像でもあった。女性達が家庭から自由になりつつあったのである。

印象派の画家であるため、「ジャポニズム」の影響も受けており、浮世絵にインスパイアされた「化粧台の前のデニス」など、合わせ鏡の絵を描いている。
個人的にはこの「化粧台の前のデニス」が最も気に入ったのだが、絵葉書などにはこの絵は採用されていなかった。

その後の絵画は、タッチよりも内容重視であり、何かを求める赤子の姿を通して、「新たなる生命を求める存在」を描くようになる(作品としては、「母の愛撫」、「果実をとろうとする子ども」など)。内容重視と行っても絵画の技術をなおざりにしたわけではなく、三角形を二つ合わせた構図(北条氏の家紋を思い浮かべるとわかりやすい)を用いて安定感を出している。ドライポイントで描かれた「地図」(「レッスン」とも呼ばれるそうである。二人で何かを熱心に読んでいる子供の姿である)という絵にも惹かれた。

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2016年10月 7日 (金)

観劇感想精選(192) 「DISGRACED ディスグレイスト 恥辱」

2016年9月30日 西宮北口の兵庫芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後7時から西宮北口にある兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「ディスグレイスト 恥辱」を観る。1970年、アメリカ生まれの劇作家・脚本家であるアヤド・アフタルのピューリッツァー賞戯曲賞受賞作の舞台化。ニューヨークの高級アパートメントの一室を舞台に、宗教や人種差別などを主題とした硬派な演劇が展開される。このような硬派な作品はもっと体調の良いときに観たかったのだが仕方ない。こちらとしても全力を尽くすだけである。

作:アヤド・アフタル、テキスト日本語訳:小田島恒志&小田島則子、演出:栗山民也。出演:小日向文世、秋山菜津子、安田顕、小島聖、平埜生成(ひらの・きなり)。

作者のアヤド・アフタルはパキスタン系アメリカ人であり、イスラムの視点を取り入れて書かれている。
 

弁護士のアミール(小日向文世)をモデルに妻のエミリー(秋山菜津子)がベラスケスの「ファン・デ・パレーハ」をモチーフにした絵を描いている。ベラスケスが描いたファン・デ・パレーハはムーア人(アフリカ系ムスリム)である。エミリーは「ムーア人」と形容するものの、アミールは「奴隷だよ!」と楯突く。
アミールはパキスタン生まれなのであるが、現在では苗字も変え「英領インド出身」ということにしている。実際、アミールが生まれた時にはその場所は英領インドだったのだが、アミールが生まれた翌年にはイスラム教圏であるとしてインドより分離独立している。アミール自身も青年時代まではイスラム教の信徒として過ごしていたのだが、今は棄教している(ムスリムにとっては本来はイスラム棄教は「死に値すること」である)。

アミールは優秀な弁護士であるがユダヤ人弁護士二人が連名で運営する弁護士事務所の雇われであり、人種差別もあってうだつは上がらない。そこで同じ弁護士事務所に所属するジョリー(小島聖)と共に今の弁護士事務所から独立しようと考えている。

アミールの甥であるエイブ(平埜生成)がアミールのアパートメントを訪ねてくる。エイブは現役のイスラム教徒であり、彼が入れあげているイスラム教尊師がテロリストの容疑で逮捕されたのでアミールに弁護してくれるよう頼む。エイブは「おじさんこそが誰よりも尊師の立場を理解してくれる」というのだが、アミールは弁護をする気はない(結局は裁判には弁護士ではなく傍聴者の立場で出て、つい「イスラムだから」という理由を否定する発言を行ったための、イスラム側の弁護士と誤解されることになるのだが)。
ちなみにエイブは元の名をフセインといったのだが、サダム・フセインと重なるために改名している。ただアミールは「フセイン」と呼び続けている。

エミリーはWASPで、主婦業の傍ら画家としても活動している。知り合いでホイットニー美術館のキュレーターをしているユダヤ人のアイザック(安田顕。クラシック音楽に詳しい人はご存じだと思われるが「アイザック」というのはユダヤ人が好んで付けるファーストネームである)に作品を観て貰い、自作をホイットニー美術館に展示して貰うのが夢だ。
エミリーの作品はイスラム風の唐草模様(アラベスク)を効果的に取り入れたものである。エミリー自身はキリスト教徒であるが夫が元イスラム教徒ということもあり、イスラム教は信じないがイスラム芸術には興味があり、詳しい。そして「コーラン」に一番共鳴しているのも実はイスラム棄教のアミールではなくエミリーだ。

実はアイザックとジョリーは夫妻である。ある夜、夕食を共にしようとした4人は宗教観のことで揉め始める……。
私は宗教に関しては多少なりとも知識があるから良いが、基本的に無宗教の人が多い日本人にはピンとくるような題材ではない。ただ「異国の話だから」と放っておけるほど遠くの物語ではない。

*イスラム教(天使ガブリエルがムハンマドに命じて暗唱させた「コーラン」を聖典とする他、天使ガブリエルが登場するからも分かる通り、キリスト教の聖書も神聖視する。最初からキリスト教補完を目指した宗教である。唯一無二の神(アラー)を信じ、アラー以外の神を信じることは邪教として排するという性質を持つ。かつてはスペインとポルトガルを支配下に治めていたことがある。偶像崇拝は厳禁)

*キリスト教(神の子イエスを通じて神を信じる教え。ユダヤ教より派生。最初はユダヤ教を易化した民衆のための宗教として広まったが独自に発展。一神教とされるが、マザー・テレサが聖人に叙されたことから分かる通り聖人崇拝を行っており、一神教という捉え方は実際とは異なる。フランスのように聖母マリアを信仰の主対象とする国もある)

*ユダヤ教(厳格な戒律があり、それを行わなければならない。行為が上手くいかない時は再三再四に渡って検討を行う。当初はキリスト教を邪教として排除するも現在は異教徒に寛容)
などの宗教観が入り乱れ、潜在化された宗教的思想が表に出てしまって当事者がハッとするシーンもある。
      
ちなみにアメリカ・ユタ州を事実上支配下に入れているモルモン教(モルモン教こそが正統派のキリスト教だと自称するもカルト扱いではある。一夫多妻容認時代があるなどキリスト教のイメージからは離れたしきたりを有する)の話も出てくる。
2001年9月11日の同時多発テロ、フランスでのISのテロの話などが登場し、内容自体がホットである。
アイザックはシオニズムには反対であり、イスラエルを認めていないが、アミールの「『イスラエルなんて地中海に沈んでしまえ!』と言ったらどうする?」という発言に激怒する。
ジョリーは実は黒人であるが、小島聖は頭をカーリーヘアーのショートにして、化粧を濃くしているだけで黒人らしくはしていない。シェイクスピアのオセロ(ムーア人である)のように黒塗りにしたら却って変ではあるが。小島聖の演技は舞台に馴染んでいないように感じたが、黒人ということで意図的に浮くような演技をした可能性も高い。ジョリーは黒人であるためか、宗教に関する発言はするが(「フランスのテロリストを一方的になじることは出来ないがテロは支持しない」「コーランを憲法のように扱うのはおかしい」「ブルカは女性差別」など)他の人々に比べると信仰熱心な感じはしない。このジョリーの登場によりアミールは結果として道化師的立場に追い込まれることになる。

コーランには「絵と犬のいる家には幸いはやってこない」という文句がある。絵に関しては「偶像崇拝に繋がる」という理由が明確であるが、なぜ犬が駄目なのかは不明のようだ。宗教なので合理性はない。エミリーの作品についてアイザックはイスラムからの影響を指摘するが、エミリーはアラベスクに関しては「アルハンブラ宮殿にだってあるわ。それよりずっと前にも」とイスラムだけが特別であることを否定する。

イスラム棄教後もイスラムの精神からは完全に抜け出ていないアミールは9.11事件の際、WTCに聖戦を挑んだイスラムの若者を誇りに思ったと告白する。作者のアフタルの深層心理とも受け取れる。

その後も、コーランにある「妻が従わなかったら殴れ」というものが伏線になった出来事などが起こるのだが、最終的にアミールを押しつぶすのは資本主義である。対イスラムの構図は宗教同士ではなく、イスラム教対資本主義という捻れたものである。エイブは「アメリカ人達は世界を占領した。これは我々に取って恥辱だ!」と叫ぶが、アメリカ人が世界征服に動いたのはプロテスタントのためではなく資本的理由からである。そしてこれも資本的理由からなのだがアルカイダを結果としては生むことになってしまう。
アミールは自分が奴隷のムーア人と同じだということを受け入れざるを得ない。

出演者は全員日本人であるが、外見によって解釈が歪むということがないため却って作者の意図が通じやすいという結果になっている。

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2016年7月13日 (水)

美術回廊(2) 姫路市立美術館 「アンドリュー・ワイエス素描画展」

2004年5月21日 姫路市立美術館にて

姫路に行く。

今回は姫路城に来たのではなく、姫路市立美術館で開催されている、「アンドリュー・ワイエス素描画展」を見に来たのだ。絵を見る前に美術館の入り口脇にある軽喫茶でレモンケーキとレモンティーを注文する。レモンは私の誕生花である(11月12日の花)。

今回の「アンドリュー・ワイエス素描画展」は彼が関わりを持ったオルソン家をテーマに描いた素描画の特集である。最初の画から早くも不吉な印象を受ける。オルソン家の外観を描いた美しい画なのだが、病的な青が施されている。廃墟となった病院が佇んでいるように見える。ほとんどの画に描かれているのは圧倒的な孤独感、絶望感である。

「幽霊」という画がある。いつもは閉まっている部屋のドアの鍵が開いていた。ワイエスはドアを開けて中に入った。中には一人の痩身の男がいた。ワイエスは驚く。実はこれは姿見に映った彼自身の姿だったのだが、ワイエスはこれを幽霊に例えて描写した。不吉な青がここかしこに塗られている。有名な「クリスティーナの世界」の習作が飾られている。クリスティーナは足が不自由だったそれでも懸命に生きようとする意志が伝わってくる。這って帰ろうとする。だが家が遠い。
「カモメの案山子」。オルソン家ではブルーベリーを栽培していた。それを海カモメが狙いに来る。そこで一羽の海カモメの死骸を柱からつるし、見せしめとして海カモメを遠ざけようとした。残酷なまでにリアリスティクな筆致でワイエスはこの画を描ききっている。

今回展示されたワイエスの画には複数の人物が描かれていることは少ない。描かれていてもそのうちの一人だけくっきりとしていて後の人物は輪郭がぼやけていたりする。無人の部屋や建物を描いた画も多い。全体的に画のトーンが暗いが、その中で青だけが死神の流した血のように鮮やかである。クリスティーナが亡くなる。ワイエスはクリスティーナの墓標を描く。荒涼とした平野に小さくポツンとクリスティーナの墓碑が建っている。身も凍るような寂寞感。最後の画、「オルソン家の終焉」はオルソン家の煙突を描いた画だ。かってオルソン家の人々の声がこの煙突から木霊した。今は静寂があるだけ。

アンドリュー・ワイエスは予言者ではない。全ての人間はいずれ死を迎える。人間の死亡率は100%である。だからいずれ来る死をワイエスが描いたとしてもそれはおかしなことではない。

生きることの悲しさが激しく胸に突き刺さる。背筋の震えが止まらない。人は必ず死ぬ、でも生きて行かなくてはならない。展示会場を一周する。出口と入り口は一緒だ。出口を出たらもうお終いではない。そこでもう一周する。驚くほど素晴らしい画の数々。最後まで行き着く。今度は逆走する。本当はこんなことをしてはいけません。ただ今回は遡行する意味があるのだ。不幸な結末。圧倒的な死のイメージから幸福だった時代へと。
最初から2枚目の画、「小舟のそばの二人」だけがこの上ない幸福感に包まれているように見える。この画には、この画だけには救いがある。最後にこの画を見て会場を後にする。ワイエスは絵筆の詩人だ。世界史上最高の画の詩人だ。リアリスティクで象徴主義の残酷で優しい天才詩人だ。

アンドリュー・ワイエス。1917年、ペンシルバニア州に生まれる。小学校に入学するも虚弱体質と神経衰弱(この歳で!)のため半年で退学。以後16歳まで家庭教師につく。経歴には書かれていないが相当孤独な少年時代を送ったことは間違いない。19歳で本格的にデビュー。第二次世界大戦の徴兵検査を受けるが身体虚弱のため不合格。当時、徴兵検査に落ちることは屈辱以外の何ものでもなかった。体の弱い彼であるが、長寿の運命にあり、86歳になる現在も創作意欲は衰えていない(2004年当時。その後、2009年に逝去)。私は中学校の美術の教科書で初めて彼の絵を見た。「遠雷」と「1946年の冬」。画からほとばしるような霊感に圧倒されたのを昨日のことのように憶えている。彼は私に取って永遠に特別な画家であり続けることだろう。

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2016年1月31日 (日)

コンサートの記(227) 広上淳一指揮京都市交響楽団第597回定期演奏会

2016年1月24日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から京都コンサートホールで京都市交響楽団の第597回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は京都市交響楽団常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一。2日連続同一曲も演奏会の2日目である。

曲目は、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番(ヴァイオリン独奏:コリヤ・ブラッハー)、コープランドのバレエ組曲「アパラチアの春」、ガーシュウィンの「パリのアメリカ人」

一応、アメリカン・プログラムとされているが、実際はバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番はバルトークがアメリカに渡る前に書かれたものである。

開演20分前から広上淳一によるプレトークがある。広上はバルトークのヴァイオリン交響曲第2番のソリストであるコリヤ・ブラッハーの紹介と、曲目の解説を行った後で、2016年度の京響の定期演奏会の紹介をする。

京都市交響楽団の定期は4月始まりだが、まず2016年度最初となる4月の定期が京都市交響楽団の記念すべき第600回定期演奏会となり、広上淳一がタクトを執る。コープランド、モーツァルト、リヒャルト・シュトラウスと、広上が得意とする作曲家の作品が並んでいる。京響初登場の指揮者としてはチェコの名匠、ラドミル・エリシュカの登場が特筆事項。お国もののスメタナとドヴォルザークを振るが、すでに大阪では数度指揮した曲なので、大阪で聴いたことのある人はオーケストラの違いを楽しむのがメイン、京響しか聴いていない人には「期待出来る指揮者」とだけ書いておく。

常任首席客演指揮者の高関健(広上は「健ちゃん」と呼んでいるようである)は、11月の定期でメシアンのトゥーランガリラ交響曲1曲勝負である。

常任客演指揮者の下野竜也が指揮するのはブルックナーの交響曲第0番(ブルックナー本人が「単なる習作」として0番としたもの)。下野は大阪フィルハーモニー交響楽団の京都演奏会で同曲を指揮したはずである。同曲のCDもリリースしている。

古楽出身の鈴木秀美は2017年2月の定期演奏会に登場。チェロ奏者である鈴木秀美はC・P・E・バッハのチェロ協奏曲で弾き振りもする予定だという。

2017年3月の定期には広上淳一が登場し、マーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」を指揮。「千人の交響曲」は京都コンサートホールのこけら落としで上演された演目で、それを再び上演しようという試みである。

また京都市交響楽団は今年が結成60周年ということで、左京区岡崎にある「みやこめっせ」で、広上淳一、高関健、下野竜也の3人が指揮者3人を必要とするシュトックハウゼンとモーツァルトの作品を指揮するそうである。
今日のコンサートマスターは客演コンサートマスター(コンサートミストレス)の荻原尚子(おぎわら・なおこ)。ケルン放送交響楽団(WDR交響楽団)のコンサートミストレスで、コリヤ・ブラッハーの弟子ということで客演コンサートミストレスに抜擢されたようである。
渡邊穣は降り番で、フォアシュピーラーに泉原隆志。

フルート首席奏者の清水信貴、オーボエ首席の高山郁子、クラリネット首席の小谷口直子、トランペット首席のハラルド・ナエスは後半のコープランドからの登場となる。


バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番。広上淳一はプレトークで「楽章が進むにつれて、人間のダークな面が浮かび上がる」と語っていたが、第1楽章からショスタコーヴィチのような阿鼻叫喚の響きが鳴り(バルトークはショスタコーヴィチが嫌いであったが、同時代の作曲家ということもあって描くものは似てしまうようである)、第3楽章では不気味なワルツが延々と続く。

ヴァイオリン独奏のコリヤ・ブラッハーは、ベルリンの生まれ育ち。ベルリンで日本人である豊田耕児にヴァイオリンを師事。その後、ジュリアード音楽院でも研鑽を積む。ザルツブルクでは指揮者としても知られるシャンドール・ヴェーグに師事(広上によるとヴェーグは歩き方に特徴があったそうで、頭を振り回すようにして歩いていたそうだ)。クラウディオ・アバド時代のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第1コンサートマスターとして活躍後、ソリストとしての活動を始めている。

ブラッハーのヴァイオリンは音が磨き抜かれており、スケールも大きい。広上は時折、指揮棒を譜面台に置いてノンタクトで指揮もする。

今日は、第2楽章の時に、私の席のそばで急病人が発生したため、私は第2楽章は集中して聴けなかったのだが(音楽より人命が大事である)、第1楽章も第3楽章も仄暗い音色を生かしつつ、活きの良い伴奏を広上と京響は行った。

この曲は、ハープが主伴奏並みの大活躍をする他、コンサートマスターのソロも多い。ただ通常だとオーケストラの主役は第1ヴァイオリンであるが、この曲ではむしろヴィオラやチェロといった低弦部の活躍が目立つ。


コープランドの組曲「アパラチアの春」。冒頭の透明で丁寧な音のタペストリーを聴くと、京響の確かな成長と広上淳一という指揮者の凄さがよくわかる。ノスタルジックな小谷口直子のクラリネットソロに味が合って良い。弦楽の俊敏さも特筆事項で、京響は私が14年前に初めて聴いた時とは桁違いに上手いオーケストラになっている。
コープランドはもっと演奏されても良い作曲家だと思うが、やはり日本のクラシックファンの間ではヨーロッパ信仰が強いようである。


ガーシュウィンの「パリのアメリカ人」。広上のユニークかつわかりやすい指揮姿にも魅了されるが、打楽器奏者達の名人芸は流石。複数の楽器を掛け持ちする奏者がいるのだが、クラクション((この曲では実際に自動車のクラクションが鳴らされる)を鳴らし終えるとすぐにシンバルの演奏、スネアドラムとウッドブロック(木魚のような音がする)を同時進行で演奏するなど、やはりプロのオーケストラ打楽器奏者の腕は半端ではない。
広上指揮する京響は洒落っ気に富みつつ明るめの音色で、輝かしい演奏を展開する。
この曲には、テナー、アルト、バリトンの3本のサックスが登場。いずれも客演奏者である岩田瑞和子(いわた・すわこ)、岩本雄太、陣内亜紀子の3人が達者な演奏を披露した。


急病人が近くで発生するというアクシデントはあったが、今日の演奏会は全曲世界レベルで通用すると思って間違いないであろう。

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2015年6月29日 (月)

ブルース・スプリングスティーン 「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」

アメリカ史上初めてヴェトナム帰還兵の悲惨さを歌った「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」。煽るような曲調のためか、何故か愛国の歌と勘違いされたという歴史を持ちます。

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2014年2月 2日 (日)

リパブリック讃歌

「権兵衛さんの赤ちゃんが風邪引いた」り「新宿西口駅の前」だったりと色々な替え歌が作られている「リパブリック讃歌」。替え歌が多いせいで元のタイトルがよく知られていなかったりします(厳密にいうと「リパブリック讃歌」というタイトル以前にも他のタイトルがあったようですが)。南北戦争の北軍の行進曲、讃歌、また北軍の勝利が黒人奴隷解放にも繋がったために黒人霊歌としても扱われる「リパブリック讃歌」。今回は通常よりかなりテンポの遅いコーラル風のものをお聴き下さい(聴き慣れたテンポの歌唱で良い映像がなかったため)。

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