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2019年10月16日 (水)

これまでに観た映画より(133) 「レディ・マエストロ」

2019年10月10日 京都シネマにて

京都シネマでオランダ映画「レディ・マエストロ」を観る。原題は「The Conductor」という意味深なものなのだが、日本でこの映画を観る場合に「The Conductor」だと意図が伝わりにくいためにタイトルが変えられたのだと思われる。監督・脚本はマリア・ペーテルス。出演は、クリスタン・デ・ブラーン、ベンジャミン・ウェインライト、スコット・ターナー・スコフィールドほか。セリフはオランダ語と英語が用いられており、少しだがドイツ語も登場する。音楽監督はステフ・コリンヨン。
女性指揮者の草分け的存在であるアントニア・ブリコ(1902-1989)の肖像を描いた映画である(全ての人生が描かれているわけでない)。アントニアを演じるのはクリスタン・デ・ブラーン。

1926年(日本だと大正15年=昭和元年)のニューヨーク。クラシック音楽好きで才能にも恵まれたオランダからの移民であるウィリー(クリスタン・デ・ブラーン)はカーネギーホールの客席案内係(レセプショニスト)として働いている。当時のニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(ニューヨーク・フィルハーモニックの前身)は指揮者は勿論、楽団員全てが男性で占められており、オーケストラ絡みで女性が就ける仕事は客席案内係ぐらいのものだった。

この日は同郷の大巨匠指揮者であるウィレム・メンゲルベルクが指揮台に立って、十八番であるマーラーの交響曲第4番を指揮するということで、ウィリーも興奮気味であり、仕事でミスを犯したりもする。ただ、客席案内係はコンサート本番を聴くことは許されない。ウィリーは本番中、誰もいないと思った男性用トイレに入り、漏れてくる音楽に心奪われて、箸を指揮棒代わりに(どうやら箸で食事をする習慣があるようである)鏡に向かって生き生きと指揮を続ける。が、その時に、男が一人、男性用トイレに入ってくる。富豪の息子のフランク(ベンジャミン・ウェインライト)だ。「衛生面での点検だ」と誤魔化したウィリーはその後、大胆な行動に出る。第1楽章が終わった後で、持ち運び用の椅子を手にカーネギーホールの中央通路を進み、指揮者であるメンゲルベルクの真後ろに陣取って曲を聴こうとしたのだ。メンゲルベルクも複雑な表情を浮かべるが、第2楽章の指揮を始める。だが、それを見たフランクは激昂。ウィリーをホールの表へと叩き出してしまう。
結局、ウィリーは客席案内係の仕事をクビになったことを契機に、本格的に音楽の道に進むことを決意。指揮者を夢見て、ブラスバンドの指揮者であったゴールドスミスに頼み出て弟子にして貰い、名門UCバークレー(カリフォルニア大学バークレー校)の音楽学部の試験にも合格。ただその後ゴールドスミスがウィリーを女として意識し、関係を迫ったことで関係は破綻する。音楽学校の学費を稼ぐためにタイピストや接客業の職に就こうとするも気位の高さが伝わるのか、有能さを示しても落ちてばかりのウィリー。ナイトクラブのベース奏者であるロビン(スコット・ターナー・スコフィールド)に気に入られてロビンのいるバンドのピアニストに決まり、グリーグの「トロルドハウゲンの結婚行進曲」を弾いていると、ロビンはジャズ風に編曲した「トロルドハウゲンの結婚行進曲」を弾いて見せ、連弾を行う。

フランクはゴールドスミスと友人であり、豪奢なフランクの自宅で音楽家を招いたパーティーがあるということで、ゴールドスミスから招かれるのだが、ゴールドスミスは急用で帰宅。ウィリーはゴールドスミスとの関係が破綻した後でもフランクとの仲を深めていく。

だが、ウィリーは祖国のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者であるメンゲルベルクに師事しようと決めており、オランダに行く決意をしていた。アメリカで一緒になって欲しいと言うフランクからのプロポーズにウィリーは迷う。フランクはともかくとして、彼の母親はウィリーが「指揮者になりたい」という夢を語ると一笑に付す。本格的な女性指揮者などまだ一人もいない時代。日本で例えるなら、女でありながら「大相撲の横綱になりたい」と言っているのと同様の世迷い言としか聞こえないのだった。

実は、ウィリーは両親の実の子ではないことが判明する。音楽家への道を進むことに反対した母親がつい明かしてしまったのだ。ウィリーは出生時の名であるアントニア・ブリコとして指揮者への道を進み始める。

コンセルトヘボウでアントニアはメンゲルベルクと出会う。弟子入りを懇願するが、メンゲルベルクはフランクの友人であったため、フランクに相談の手紙を書き、アントニアと結婚したいフランクはメンゲルベルクに「アメリカに帰れ」と言ってくれるよう頼む。結局、メンゲルベルクの弟子にはなれなかったアントニアだが、メンゲルベルクの推薦状を得てベルリンに向かい、ドイツの大指揮者であったカール・ムックに会いに行って弟子入りが許される。ベルリン国立音楽アカデミーの指揮科の定員は2人のみであったが、この難関も突破。若い女性が指揮者ということで反発しがちなオーケストラ団員達をも納得させていき、最終的にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立って、コンサートを成功に導く。
だが、アメリカではゴールドスミスが腹いせからアントニアへの批判をマスコミにばらまいており、女性からも「女が男性達に指揮棒で指示を行うなんて」と反発を受ける。ニューヨーク・フィルとの演奏は成功したが、次に舞い込んだのは失業した音楽家が結成したオーケストラを指揮する仕事。いやいや引き受けたアントニアだが、ある日、リハーサルに行くと、女性団員しか来ていない。ニュージャージ-交響楽団が楽団員を募集しているということで、男性団員達は全員オーディションを受けに行ってしまったのだ。ちなみに女性はオーディションを受ける資格はないという。アントニアは女性楽団員のみによるオーケストラを結成し、女であっても音楽家たり得るのだということを示そうとする……。

日本に限っても、先日、沖澤のどかがブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、ブザンソン国際指揮者コンクール覇者の先輩である松尾葉子、宝塚男役風ルックスでも人気の西本智実、小柄な体から力強い音楽を生み出す三ツ橋敬子、北欧のスペシャリストとして活躍する新田ユリなど、今は女性指揮者は珍しくもなんともないが、アントニア・ブリコが指揮者を志していたのは、「女は将軍と指揮者にだけはなれない」と言われていた時代であり、女性でありながら指揮者を生業としていることへの反発は今とは比べものにならないほど強かった。そんな中で快進撃を続けるアントニアのサクセスストーリーとして描かれているように見えるのだが、ラストの字幕でアントニアが結成したニューヨーク女性交響楽団はアントニアが男性団員の入団を許したことで注目を失い、4年で解散。アントニアは生涯、有力楽団の首席指揮者のポジションには就けなかったことが語られる。更には2017年現在でも、世界の指揮者トップ50の中にも女性の名はないということで、集団を率いる職業である指揮者に女性がなることの困難が示される。ハンブルク州立歌劇場の総支配人として活躍したシモーネ・ヤングやアメリカの上位楽団であるボルティモア交響楽団の音楽監督を務めるマリン・オールソップなど有名指揮者も当然いるが、オペラ歌手は勿論、ヴァイオリンのアンネ=ゾフィー・ムターやチョン・キョンファ、ピアノのマルタ・アルゲリッチや今はイギリス国籍になったが内田光子など世界トップランクに数えられる演奏家も多い器楽分野に比べても指揮分野における女性進出はなかなか進んでいかないのが現状である。古典派を不得手とする女性指揮者が多いこと、ブラームスやブルックナーなど女性には理解しづらい音楽がコンサートのメインレパートリを占めているということもあるのだろうが、「そもそもクラシックの作曲家といえば男性のみ」「指揮者も楽団員も男性のみ」という時代が長かったことが影響してもいるのだろう。ベルリン・フィルが女性団員の入団を正式に認めたのだが1980年代後半(その前にザビーネ・マイヤー事件というものがあり、女性クラリネット奏者であるザビーネ・マイヤーを強烈に推して入団させたヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリン・フィル団員の猛反発にあり、関係が悪化。マイヤーは身を引いたが、最終的にはカラヤンはベルリン・フィルの終身芸術監督辞任に追い込まれている)、ウィーン・フィルに至っては、世紀が変わろうかという時まで「入団出来るのは男性のみ」という姿勢を貫き続けていた。
「世界のトップランクのオーケストラ」と聞いてクラシックファンなら誰でも思い浮かべるような楽団のトップとして君臨している女性指揮者はゼロ。日本でも人気はあるがポジションが得られていない女性指揮者がほとんどで、東京に9つあるプロオーケストラや日本各地の都市の顔となるオーケストラのトップに立っている女性指揮者は一人もいない。芸大の指揮科教授として多くの教え子を生み出した松尾葉子も、出身地である名古屋に本拠を置くセントラル愛知交響楽団常任指揮者という地位が最高。人気指揮者である西本智実も日本フィルハーモニー交響楽団のミュージック・パートナーが一番上のポジションで、仕方がないので自分で結成したオーケストラを率いている。テレビ出演も多い三ツ橋敬子は現時点では本拠地なしの状態で、客演生活が続いている。新田ユリも北欧音楽には強いがポストは愛知室内オーケストラという定期演奏会を年に2回ほどしか行えない団体のものを得られているのみである。ある意味、アメリカにおける女性大統領並みの「ガラスの天井」を感じさせる職業であり、ラストの演奏会のシーンは希望に満ちているが、現実の厳しさを示すこともおろそかにはしていない。

クラシック音楽の使い方は面白く、聴いてすぐなんというタイトルの曲かが分かると広がりやおかしみを持って受け取ることが出来るように思う。「拍手をして下さい。コメディは終わりました」というベートーヴェンの最後の言葉とされるものがさりげなく語られていたりもする。

アントニアは女性指揮者のフロントランナーとしては成功したが、性別関係なく「指揮者としての名声を勝ち取る」ことに関しては「誰が見ても成功」という結果は出せなかったのかも知れない。それでも「絶対に無理」という周囲の声や蔑みをはねのけて指揮台に立ち続けるアントニアの姿に爽快感を覚える。カール・ムックのセリフにあるように「指揮台に立ち続けること」が何より重要なのだと納得させられる。

何より感心させられるのは、西洋の俳優は指揮者を演じるのが上手いということ。クリスタン・デ・ブラーンは往時の長めの指揮棒を振っているため、バトンテクニック抜群に見えるということはないが、音楽が体から生まれているように見せる演技には卓越したものがある。

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2019年10月12日 (土)

これまでに観た映画より(132) 「お百姓さんになりたい」

2019年10月4日 京都シネマにて

京都シネマでドキュメンタリー映画「お百姓さんになりたい」を観る。原村政樹監督作品。
語りは小林綾子が務めている。

埼玉県三芳町にある明石農園の1年間を追う。16年前、28歳の時に東京から埼玉県の南端にある三芳町に移り住んで新規就農をした明石誠一が始めた明石農園。明石は子どもの頃の夢の3位が農業をやることだったそうである。1位は宇宙飛行士だったが「虫歯があったりしたら駄目」というので早々に諦め、2位の「サッカー選手になる」を求めて体育大学に進学したが、「自分の実力ではプロにはなれない」と悟り、しばらく何もする気になれなかったが、子どもの頃の夢を思い出して農業を始めることにしたそうである。

明石農園は、肥料や農薬に頼らない自然栽培を行っている。肥料の代わりに他の野菜や雑草を自然発酵させたものを用い、秋には枯葉を集めて土の質を向上させるなど(落ち葉堆肥農法として江戸時代からこの地方に伝わっているそうだ)、自然を最大限に利用する。自然栽培で育てられた作物だけに人気があるようだが、自然を相手にしているため、思い通りにならないことも多い。
農業というと種を植えて面倒を見る過程が思い浮かぶが、自然栽培を行う明石農園では種が育つための土を作ることが何よりも重要なようである。

明石農園では農家志望の人達が研修生として働いている。研修生として学んだ人のうち、これまでに10人ほどが農家として独立しているそうである。
農業高校を卒業して研修生として働いている最初から農家志望の女性もいるが、障害者なども幅広く受け入れている。知的障害者などは対人関係などは不得手だが、自然は人間よりも広量である。
明石は、「効率の良いこと、お金になることが優先される世の中だが、資本主義や民主主義とは違う、新しい物差し作り」を目指してもいるようである。

江戸時代には人口の8割を農民が占めていたが、時代を経るに従って農業に従事する人は減っていき、皆都会に出て対人業務を行うことが多くなっている。ただそうした第三次産業に合わない人も出てくる中で、消費者の声が大きくなりすぎるなど行き詰まりの感もあり、新たな価値観を求めて農業に就くということはある意味先祖返り、原点回帰的なことであり、現代社会で希求されるものとはまた別の豊かさを持つ未来が想像されるようにも思われる。

明石農園の森では、音楽祭なども催され、障害があって普通の音楽会に行けない人達も音楽を楽しんでいる。東京のベッドタウンで、特になにもないような町だが、ちょっとしたハレの喜びがここにはあるようだ。

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2019年10月11日 (金)

「怪盗ルビイ」より「たとえばフォーエバー」

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コンサートの記(596) 原田慶太楼指揮 京都市交響楽団 「THE MUSIC OF JOHN WILLIAMS:STAR WARS AND BEYOND」@ロームシアター京都

2019年9月29日 ロームシアター京都メインホールにて

午後3時から、ロームシアター京都メインホールで、原田慶太楼(はらだ・けいたろう)指揮京都市交響楽団による「THE MUSIC OF JOHN WILLIAMS:STAR WARS AND BEYOND」を聴く。アメリカの映画音楽の巨匠、ジョン・ウィリアムズの音楽を取り上げる演奏会。MCは、有村昆。藤岡幸夫司会の音楽番組「エンター・ザ・ミュージック」の映画音楽特集の回では毎回見かける有村昆だが、生で見るのは初めてである。

原田慶太楼は、今回が京響デビューとなる。1985年東京生まれ。幼少時よりインターナショナルスクールに通い、17歳の時に単身渡米してインターラーケン芸術高校音楽科で指揮を吹奏楽界の巨匠として知られたフレデリック・フェネルに師事。その後、複数の大学で学び、二十歳でジョージア州のメーコン交響楽団のアシスタント・コンダクターに就任。2010年にタングルウッド音楽祭で小澤征爾フェロー受賞。この時からジョン・ウィリアムズのアシスタントを務めるようになる。これまでに指揮をロバート・スパノ、マイケル・ティルソン・トーマス、オリバー・ナッセン、ヘルベルト・ブロムシュテットに師事。今年の夏までシンシナティ交響楽団と同楽団のシンシナティ・ポップス・オーケストラのアシスタントコンダクターを務め、来年からはジョージア州のサヴァンナ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽&芸術監督に就任する予定である。

 

曲目は第1部が、「オリンピック・ファンファーレとテーマ」、「ジョーズ」(The Shrak Theme from Suite from Jaws)、「スーパーマン」(Superman March)、「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」(Raiders March)、「E.T.」(Flying Theme)、「ジュラシック・パーク」(The theme from Jurassic Park)、「シンドラーのリスト」(Theme from SCHINDLER'S LIST for Violin and Orchestra)、「ハリー・ポッターと賢者の石」(Hedwig's Theme)。
第2部では、「スター・ウォーズ」全8作からジョン・ウィリアムズと原田がコンサート用にまとめた音楽全曲が披露される。音源にはなっていないため、コンサートでしか聴けないバージョンだそうである。

 

今週の京都市交響楽団のスケジュールは変則的。昨日、同じロームシアター京都メインホールで「ドラゴンクエスト」の音楽を演奏しており、2日続けての演奏会開催となる。原田とのリハーサルは数日前に行い、原田はその後、東京交響楽団のコンサートを指揮してから京都に戻り、ゲネプロを行って本番ということになるようである。

2日続けての公演ということもあってか、楽団員の顔ぶれも定期演奏会とは異なり、コンサートマスターには客演の「組長」こと石田泰尚。第2ヴァイオリン副首席の杉江洋子、ヴィオラ首席の小峰航一、オーボエ首席の髙山郁子、クラリネット首席の小谷口直子らは降り番である。映画音楽に強いエキストラも何人か参加しているようだ。第1部ではホルンの1番は首席の垣本昌芳が吹いたが、第2部では水無瀬一成に変わった。

 

今日は3階席2列目の真ん真ん中という、音響的には最も良い部類に入ると思われる席である。

開演時間となり、楽団員が登場する。定期演奏会ではないので拍手はどうするのかなと思ったが、全員が客席の方を向いて立っている。だが、拍手が起こらない。なんとも妙な光景である。コンサートマスターの石田泰尚が姿を見せてようやく拍手が起こる。
つまり、定期演奏会に来ているお客さんは今日は客席にはほとんどおらず、拍手のタイミングがわかっていないのだ。別に私一人で拍手しても良かったのだが、複数の人が拍手しないとつられて拍手が起こるということはあり得ないので無駄である。複数のスタッフが袖でサクラの拍手を行うべきだったのかも知れないが。
今日来ているのはあくまでジョン・ウィリアムズの音楽が好きな人が大半で、これを機に京都市交響楽団の定期演奏会に通うようになるという人はほとんど現れないと思われ、また普段、定期演奏会に通っている人は映画音楽には興味がないのであろう。ジャンルの分断が起こっている。

 

日本でも活躍の場を広げている原田慶太楼は、若々しく、スケールの大きな音楽作りが特徴。ただ、ジョン・ウィリアムズの音楽性もあるのだと思われるが、ずっと押しの音楽作りを続けるところがあり、「スター・ウォーズ」の音楽は聴いていてかなり疲れたのも事実である。

有村昆は、映画のエピソードなどを紹介。「E.T.」の自転車が飛ぶシーンでは、ジョン・ウィリアムズが自転車が浮き上がるシーンに合わせて指揮することがどうしても出来なかったため、まずジョン・ウィリアムズに自身が最適と思うテンポで演奏して貰い、スピルバーグの方がそれに合わせて映像を作った(撮影したのか編集したのかは不明。話の流れからいって再度撮影した可能性の方が高いが)という話や実はE.T.が乗っていた自転車は日本製であるということ(大阪にあるKUWAHARAというメーカーのもの)、同じモデルの自転車が最近再発売されたことなどを語る。当時、アメリカの子ども達にはKUWAHARA(桑原商会)のBMX用自転車が大人気であり、撮影のために日本からわざわざKUWAHARAのBMXを取り寄せたそうである。ちなみに復刻版であるが5万円以上するそうでかなり高い。

「ジュラシック・パーク」は、CGの使用によって全世界を驚愕させた作品だが、当時はまだCGの精度は高くなく、実際には7分程度しか使われなかったそうで、それ以外は案外アナログな手法が取られていたそうである。

「シンドラーのリスト」に関しては、原田が「自分の作品の中で一番良くコンプリティリー(満足している)な作品」としてジョン・ウィリアムズがこの曲を挙げていたことを語る。原田は日本にいるときからインターナショナルスクール育ちで、その後、アメリカに拠点を置いているため、日本語よりも英語の方がずっと得意のようで、日本語の発音もそうだが、日本語で上手い言葉が見つからず英語の単語を挙げることが何度かあった。
映画ではユダヤ人であるイツァーク・パールマンが濃厚で思い入れのあるヴァイオリンを奏でるのだが、今回ソロを取る石田泰尚はやはり日本人なのでサラサラしている。

「ハリー・ポッターと賢者の石」のHedwing's Themeでは原作者であるJ・K・ローリングから「子どもを思わせるような楽器を」というリクエストがあったため、ジョン・ウィリアムズはチェレスタを選んだという話が二人から紹介される。ハリー・ポッターシリーズではふくろうが重要なイメージとなっているのだが、ヴィオラを中心とする弦楽がふくろうの羽ばたきを表現していると原田は語った。

 

第2部の「スター・ウォーズ」。演奏が始まる前に、有村昆が、「この中で『スター・ウォーズ』シリーズを1作でも見たことがあるぞという方、拍手をお願いします」と言い、盛大な拍手が返ってくる。それはそうである。「スター・ウォーズ」を観たことがないのにコンサートに来ていたとしていたらその方が変だ。ただ原田が「京響の方々から拍手がない」と言い、「でも楽器を持っていたからでしょう」と自らフォローするも、有村が「ご覧になったことありますよね?」と楽団員に聞く。
有村「反応が薄い」
実は第2ヴァイオリンの三瀬由起子さんが、Twitterで「スター・ウォーズ」を知らないということを明かしており、団員に「フォースを守る話」と聞かされても「ホーシ」と聞き間違え、更に「フォースってなんですか?」という状態なので、多分そんな人も多いのだろう。

先に書いたとおり、通して聴くと疲れるのだが、音の鳴りは完璧で、ジョン・ウィリアムズの実力の高さを知ることが出来るし、各曲の個性やインパクトも強烈である。ある意味、どんなクラシック作品よりもアメリカ的な音楽であるといえるのかも知れない。グスターボ・ドゥダメル指揮ロサンゼルス・フィルハーモニックが全曲ジョン・ウィリアムズによるコンサートを行い、ドイツ・グラモフォンからライブ録音によるCDが出ているが、もうアメリカのクラシック作品と捉えてもいいのではないだろうか。ハリウッド映画の音楽、そして誰もが知っているメロディーということで、まさにアメリカの象徴的なものなのだから。

ただ、そう考える日本人は少ないわけで、だからこそ聴衆の分断が起きているのである。アメリカなどでは映画音楽による定期演奏が行われているのだが、日本では難しそうだ。日本の映画音楽も手掛けるべきなのだが、残念ながら知られている日本映画の音楽はそれほど多くはない。京都市交響楽団は、新たな戦略を募集していて、映画音楽やライトクラシックの音楽会で客層を広げようと考える人も多いと思われるのだが、今日の雰囲気だとそれは大して意味がなさそうである。映画音楽を聴く人はクラシックのコンサートには来ないし、逆もしかり。やはりYouTubeなどによる映像配信が最良の手なのかも知れない。ガリシア交響楽団という、世界的には無名なオーケストラを私はよく知っているのだが、それはなぜかといえばYouTubeチャンネルを持っていて、演奏をよく配信しているからである。「百聞は一見にしかず」というが、映像配信なら百聞と百見が共に可能なのだから、昨日行った霊光殿天満宮の額にあった通り「天下無敵・必勝利運」となるのではないか。

 

アンコールでは「スター・ウォーズ」メインテーマ完全版を原田と有村の二人で指揮する。途中で二人はライトセーバーを取り出して指揮。実は有村はライトセーバーが大好きで、TOKYOSAVERZというライトセーバーを使った殺陣ダンスユニットのプロデュースも行っているそうである。

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2019年10月 9日 (水)

2346月日(16) 水谷彰良講演会「サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長」

2019年9月23日 関西大学梅田キャンパスKANDAI Me RISE8階Me RISEホールにて

午後2時から、関西大学梅田キャンパス8階Me RISEホールで、水谷彰良(みずたに・あきら)講演会「サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長」を聴く。

関西大学梅田キャンパス KANDAI Me RISEは3年前に出来たばかりのまだ新しいキャンパスである。大阪でも大学の都心志向が顕著であり、宝塚大学梅田キャンパス(看護学部)や大阪工業大学梅田キャンパス(ロボディクス&デザイン工学部)など、新設学部のためのキャンパスを設けるところもあるが、関西大学の梅田キャンパスは他の多くの大学同様、学部の教育ではなく、社会人向け講座(エクステンション)や就職活動の利便性のための出張所的なもの(サテライトキャンパス)であり、8階建てのビルであるが大工大や宝塚大のような大規模ビルキャンパスではない。1階にはスターバックスと書店が入っており、学生達でほぼ満員であった。

 

今年に入ってから大阪では、サリエリルネッサンスともいえる企画が続いているが、今回は春先にあったサリエリムジカとの関連講演である。水谷彰良は『サリエーリ 生涯と作品』の著者であり、オペラを中心とした音楽の研究家で、日本ロッシーニ協会の会長でもある。サリエリムジカの主催で、今回の講演では協力という形で携わっているナクソス・ジャパンの公式サイトに「聴くサリエーリ」を連載中である。
今回は大阪よみうり文化センターの主催、読売新聞大阪本社の後援となっている。

最近、サリエーリがスマホゲームの登場人物として話題になっているそうで、若い人にとってはサリエーリというとゲームのイメージが強いようだ。お年の方、55歳以上となると映画「アマデウス」のサリエリを思い浮かべることが多いのだが、私はそこまでは年ではない。55歳以上というのはロードショーで「アマデウス」を見た層で、私の場合は高校2年生の時にテレビ放送された「アマデウス」を観ている。その後、1994年3月5日の明治大学の受験日に、受験を終えて三省堂の神田神保町本店でピーター・シェーファーの戯曲『アマデウス』を買ったのだが、これが東京で買った最初の本であった。翌1995年には池袋のサンシャイン劇場で、九代目松本幸四郎のサリエリ、七代目市川染五郎のモーツァルト、中島梓のコンスタンツェで「アマデウス」を観ている。映画版と演劇版とでは異なっている部分が結構多い。実は大阪でも2011年に幸四郎のサリエリ、武田真治のモーツァルトで「アマデウス」を観る予定があったのだが、これは叶わなかった。

 

さてフィクションのサリエーリではなく、実在のサリエーリについて語ると、1750年8月18日、北イタリアのレニャーゴという街で商人の子として生まれている。家は裕福で、10歳の時にレニャーゴ大聖堂のオルガニストであったジュゼッペ・シモーニに就いて音楽を学び始めている。13歳で母と14歳で父と死別するという悲運に遭ったものの、音楽の才があったためか程なくしてヴェネツィアの貴族に引き取られ、ウィーンの宮廷作曲家であったガスマンに見出されてウィーンに渡り、当時の皇帝ヨーゼフ2世に気に入られたということもあり、当時の大作曲家であるグルックに師事することを許されたほか、帝室歌劇場のマエストロ・アル・チェンバロ助手として出入りするようになり、実地でオーケストレーションを学んでいく。当時のイタリアやオーストリアには音楽的才能のある少年はゴロゴロいたそうで、その中でガスマンらに特別に見出されたということで、サリエーリは神童クラスであったのだろうと推測されるそうだ。
19歳でオペラ作曲家デビュー。処女作は「女文士たち」というオペラだったが、この作品は残念ながら散逸してしまっているそうである。同年にグルックがオペラ「オルフェーオとエウリディーチェ」の改訂版初演が行われるのだが、サリエーリはこの作品に影響を受けていることが、1771年初演のオペラ「アルミーダ」で確認出来るそうだ。「アルミーダ」の序曲がCDで流され、グルックの「オルフェーオとエウリディーチェ」の映像がスクリーンに投映されるのだが、黄泉での出来事を描いた「オルフェーオとエウリディーチェ」の音楽が、サリエーリの「アルミーダ」序曲の、怪物の咆哮の描写に生かされている。当時はこうした激しい「疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)」形式の音楽は最先端を行くものであった。
グルックからは相当可愛がられたようで、グルックに委嘱された作品を譲られる形で書いたりもしているそうである。

歌劇「アルミーダ」でサリエーリは、独自の手法を発揮している。この作品はサリエーリの自筆譜が残されているのだが、スコアにト書きが施されているそうで、こうしたことはこれまで行われていなかったそうである。

さて、サリエーリの直接の師であるガスマンは、オペラ・ブッファ(喜劇的歌劇)の名手であったため、サリエーリも、オペラ・セリア(シリアスなオペラ)よりもオペラ・ブッファを多く手掛け、得意とするようになっていく。
ガスマンは、歌手に任せる部分であるカデンツァも自身で書き込むという習慣があったのだが、サリエーリもこれに倣うようになり、歌劇「奪われた手桶」では、歌の旋律だけでなく楽器の伴奏など全てが書かれているという「十八世紀に書かれた最も奇妙なカデンツァ」と呼ばれる手法を行っている。本来、音楽家の即興性を発揮するはずの部分も作曲家が全て書いてしまっているわけで、演奏家と作曲家の分離がいち早く行われているかのようである。この時期のイタリアオペラの特徴として、ソプラノにコルラトゥーラなど超高音の技法を要求していることが挙げられる。モーツァルトの夜の女王のコルラトゥーラが有名だが、これはモーツァルトがイタリアオペラを真似たということのようだ。サリエーリもコロラトゥーラによるアリアを書いている。
だが、サリエーリがグルックの後継者としてフランスで仕事をする機会が増えるとこれに変化が生じる。フランスでは歌よりも芝居が好まれたため、ストーリーが重視され、歌手のこれ見よがしな技巧は好まれなかったようである。またバレエが盛んだったため、オペラの中に必ずバレエのシーンがあった。ということで、サリエーリの作風も落ち着いたものへと変化していく。

23歳の時にガスマンが亡くなると、サリエーリは後任としてウィーン宮廷室内作曲家兼イタリア・オペラ指揮者に任命される。モーツァルトがウィーン宮廷での就職に失敗したのはその前年で、モーツァルトは父に宛てたサリエーリを憎む手紙を残しているが、サリエーリの方はモーツァルトについてはこの時ほとんど知らなかったようで、人事面でも関与していなかったらしい。その後、ウィーン宮廷楽長に就任。名実ともにヨーロッパ楽壇のトップに立った。

モーツァルトがウィーンに移住したのは、1781年のこと。ただその直後、モーツァルトにとっては悲運なことにヨーゼフ2世が劇場の改革を行う。これによってオペラ・セリアはつまらないとして否定され、オペラ・ブッファのみがオペラとされる時代となったのである。モーツァルトもオペラ・ブッファは書くが、オーストリア人ということもあって本当はオペラ・セリアの方が得意である。折角、大司教の下を離れてウィーンに来たのに、ここでも得意なジャンルの作品を発表出来なくなるのだ。

モーツァルトが「フィガロの結婚」などで思想面での革新性を示したことは知られているが、サリエーリもボーマルシェの本によるオペラ「タラール」で身分社会の否定を取り上げている。こう考えると、モーツァルトだけが時代から突出してたということはなく、なかなか上には行けない状態だったことがわかる。更にモーツァルトにとっての不運は続き、今も人気作として有名な「コジ・ファン・トゥッテ」がヨーゼフ2世の死去によって初演からわずか5回の上演で打ち切られる。新皇帝のレオポルト2世はそもそも音楽に興味のない人で、音楽家は全て冷遇されるようになった。

サリエーリは、モーツァルト最晩年のジングシュピール(オペラ)「魔笛」を絶賛していたことがわかっている。モーツァルト自身の手紙にこのことは記されており、最大級の賛辞を得たことを妻のコンスタンツェに伝えている。その7週間後にモーツァルトは他界するのだが、サリエーリはシュテファン大聖堂で行われたモーツァルトの葬儀に参列している。

ということで、モーツァルトの冷遇と死に関してはサリエーリは全く関与していない。

サリエーリは、モーツァルトの死後も積極的に作曲活動を行い、オペラ10作を作曲。ハイドンの「天地創造」初演に協力したり、イタリア語版上演では指揮を行っていたりと自身以外の作曲家の活動にも参加している。ちなみにモーツァルト作品の初演のいくつかでもサリエーリは初演の指揮を手掛けており、交響曲第40番の公式初演はサリエーリが指揮したことが確実とされている。
現在のウィーン国立音楽大学の前身となる教育機関を作ったのもサリエーリであり、音楽の弟子にベートーヴェンやシューベルトがいる。ベートーヴェンは「サリエリがモーツァルトを毒殺したと告白した」と日記に記しているが、この時にはサリエーリはウィーン総合病院に入院しており、意識がはっきりしていたのかどうかも定かではない。

栄光に包まれた生涯を送ったサリエーリだが、晩年にイタリア人作曲家の後輩に当たるロッシーニの台頭で状況に変化があったようである。「全盛期のビートルズよりも人気があった」といわれたウィーンでのロッシーニブームにより、ドイツ語圏の作曲家は不遇をかこつことになる。なにしろ歌劇場で上演されるのはロッシーニ作品ばかりなのだ。ベートーヴェンすら不満を漏らしているほどである。そして起こったロッシーニ憎しの空気がイタリア人作曲家に向かい、イタリア出身の宮廷楽長であったサリエーリにも怨嗟の声が上がるようになっていった。これがモーツアルト暗殺説に繋がっていったようである。

「アマデウス」によって悪名が高くなったサリエーリであるが、知名度が上がったことも確かであり、その後、録音される作品も増えている。ただ、サリエーリの本領が発揮されたオペラに関してはまだ録音される機会が少ないというのが現状である。

 

思えば、サリエーリは、音楽史の変換点を生きた人物であった。サリエーリが若い頃は、ウィーンでは「音楽はイタリア人がやるもの」という認識があり、イタリア人が宮廷作曲家や宮廷楽長になることに抵抗はほとんどなかったと思われる。オペラはイタリアのものであり、イタリア語のオペラが上演されるのが当たり前だった。そしてサリエーリが生まれ育った北イタリアは当時はハプスブルク家が治めており、親近感も持たれていた。
勿論、バッハやヘンデルなど、それまでにも優れたドイツ人作曲家はいたが、バッハは内容が高度であるため、この時期はプロのための音楽という認識で民衆の間では忘れられた存在になっており、ヘンデルはロンドンに移住してイギリスの作曲家となっていた。ハイドンはサリエーリの同時代人だが、長年に渡ってハンガリーのエステルハージ候に仕えており、ウィーンの作曲家というイメージではない。それがモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトと、ドイツ語圏出身の作曲家が立て続けに現れたことで、音楽におけるナショナリズムの高揚が起こる。これはモーツァルト自身も唱えていることである。ドイツ語によるオペラが立て続けに生まれ、更にはオペラではなくドイツ生まれのアウフヘーベンの理論を取り入れた交響曲やピアノ・ソナタが音楽の主役になる。そんな時代のウィーンの楽壇のトップに君臨していたことが、あるいはサリエーリにとっては不幸なことだったのかも知れない。

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2019年10月 8日 (火)

これまでに観た映画より(131) 「ブラインドスポッティング」

2019年10月2日 京都シネマにて

京都シネマでアメリカ映画「ブラインドスポッティング」を観る。「ブラインドスポッティング」というのはいわゆる「盲点」のことなのだが、「2通りの見方が可能なシチュエーションやイメージ。ただし、一度に片方しか見ることができず、もう片方がブラインドスポットとなる」という定義がある。盲点と死角を併せ持ったようなものと考えると近いだろう。
メキシコ出身のカルロス・ロペス・エストラーダ監督作品。主演&脚本:ダーヴィド・ディグス、ラファエル・カザル。出演は、ジャニナ・ガヴァンカー、ウトカルシュ・アンブドゥカル、ジャスミン・シーファス・ジョーンズほか。

カリフォルニア州オークランドが舞台。MLB屈指の名門チームであるアスレチックスが本拠地としていることで有名な街だが、人種が多様でリベラルな気風でも知られているという。大企業のいくつが本社を置き、高給取りが多い一方で若者達の4人に1人は貧困者という格差の激しい街でもある。
生粋のオークランドっ子である黒人のコリン(ダーヴィド・ディグス)と白人のマイルズ(ラファエル・カザル)の二人は11歳の時から無二の親友として付き合ってきた。コリンは傷害罪で逮捕され、実刑を受けた後に1年の保護監督処分を受ける。定職に就き、門限は午後11時、奉仕活動を行うことが命じられ、指定されて一人暮らしすることになったアパート(新興のオークランド市民は高級住宅に住むようになり、賃貸の部屋はどこでも空いているような状態だったのだが、前科者なので好きな部屋を借りることは出来ない)のトイレ掃除も行っている。仕事は元カノでインド系のヴァル(ジャニナ・カヴァンカー)の斡旋で、ヴァルが受付や会計などの事務方をしている引っ越し会社の社員に決まった。マイルズも一緒に働いている。コリンは移動を制限されており、オークランドの中心部から出ることが出来ない。
だが実は、傷害事件はコリンが単独で起こしたものではなく、マイルズも加わっていたのだ。マイルズが逮捕されなかったのは白人だったからである。マイルズは自身のことを黒人への蔑称である「ニガー」と呼ばせ、黒人の女性と結婚するなど、黒人への理解はあると自覚しているのだが、何かあったら黒人のせいにされるのだというところまでは認識出来ていない。引っ越しの仕事に向かった先で、トラックの前に車を停めて動こうとしない若者をマイルズは罵倒し、何度もクラクションを鳴らすが、ヴァルが受けた苦情の電話では、クラクションを鳴らして罵倒してきたのはドレッドヘアの黒人ということになっていた。隣の席にいたコリンのせいにされたのだ。

処分が解けるまで3日となった夜。マイルズは車の中で6丁の拳銃を見せびらかす。何かあったら黒人である自分のせいにされると知っていたコリンはマイルズに自制するように申し出るが、マイルズは「家族を守るため」と主張して拳銃を所持するのを止めようとはしない。
門限の11時が迫っており、コリンはマイルズらと別れてトランクを運転して自宅へと急いでいた。トラックを発進させようとした時、黒人の若い男が前に飛び出してくる。その後ろからは白人の警官が追ってきていた。警官は何の躊躇もなく、拳銃の引き金を引く。4発の銃弾が放たれ、コリンの目の前で黒人の若い男は殺された。黒人だったからだ。

治安の悪いオークランド市の警官は高給で雇われていたが、よそ者も多く、オークランド市の郊外の高級住宅地か隣の街に住んでいて、地元愛がないといわれていた。ヤンキー気質で地元愛の強いマイルズは、白人ではありながらそうした富裕層の白人を黒人以上に目の敵にしている。人種差別を行わない自身こそがオークランド市民の本流だと考えているところのあるマイルズには黒人特有のデリケートな部分には目が及んでおらず……。


日本には目に見える形での異人種への差別は今のところそれほど顕著ではない。一目で異人種とわかるような人がそれほど多くないということもある。
ただ、私の天敵でもある認知バイアスは相当に強度なところがある。「そういうもの」と勝手に規定されてしまうことで、あらゆることがらの解釈が全てそれに沿って行われる。日本においては生き方はパターン化されており、かなりシステマチックな社会である。肌の色の違いといったようなわかりやすい目印がないだけに、そうした差別と無意識のデリカシーのなさはより巧妙に世界を覆っているともいえる。
オークランド・アスレチックスにちなんで野球で例えようか。よく「得意なコースの近くに苦手なゾーンがある」といわれるが、これは得意であるがために手を出して凡打してしまうということでもあるだろう。甘く見てしまうのだ。それを同じで「理解している」「知悉している」と自覚していることに実は盲点があったりする。決めつけも生じる。エリア・カザン監督の「紳士協定」っぽくなったが。

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2019年10月 3日 (木)

これまでに観た映画より(130) 「記憶にございません!」

2019年10月1日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で「記憶にございません!」を観る。三谷幸喜監督作品。脚本も勿論、三谷幸喜である。出演:三谷幸喜、石田ゆり子、小池栄子、ディーン・フジオカ、迫田孝也、ROLLY、木村佳乃、田中圭、小林隆、宮澤エマ、濱田龍臣、有働由美子、佐藤浩市、吉田羊、斉藤由貴、草刈正雄ほか。

政策に不満な男が投げた石が頭に当たったことで記憶喪失になった総理大臣・黒田啓介(中井貴一)を巡るコメディー映画である。名前も風景も日本なのだが、政治家の振る舞いなどは日本と異なっており、会見の時に使われる国を表す印も「五七桐」ではなく、微妙に違う文様である。

消費税を上げに上げまくり、一方で生活保護費などは減らすという政策、更に自己中心的で人を見下した態度から「史上最低の総理」と言われている黒田。支持率は2%台と低迷中である。妻の聡子(石田ゆり子)、息子の篤彦(濱田龍臣)という家族、更には身辺を守るSPからも嫌われているという鼻持ちならない男であり、黒田をブラックジョークで批判するニュースショーのキャスター(有働由美子)が人気を博しているほどだ。
だが、記憶を失った黒田は、総理時代とは全く異なる小市民的好人物。政治家になる以前の記憶は残っているということで、元々の性格はそれなりに良かったことが想像される。実は、総理大臣は傀儡であり、官房長官である鶴丸(草刈正雄)が黒田を含めて5人の総理の下で立て続けに官房長官を務めていて、実質的には鶴丸の独裁体制が敷かれていた。

黒田を「無能」と見下していた首相秘書の井坂(ディーン・フジオカ)や総理夫人の聡子の面倒を見ることも多い事務秘書官の番場のぞみ(小池栄子)らは、黒田が記憶喪失となったことを隠したままで「全力で押し通る」路線を選び、定例記者会見を一言で打ち切らせたりと、ボロを見せないよう苦心するのだが、黒田が倒れた女性記者を助け起こしたりしたことなどから、総理の変化が徐々に周囲に伝わり始める。

政治という大きな舞台を設定しているが、実際にはファミリードラマであり、妻の聡子や息子の篤彦との関係修復に最後は繋がっていく。三谷版「心の旅」(ハリソン・フォード主演の映画の方)と観ることも出来るかも知れない。

三谷ファンには嬉しい小ネタが充実しているのも特徴であり、三谷が好む人物再登場の法ならぬ小ネタ再登場の法とも呼ぶべきものである。いずれにせよ人間喜劇の手法と取れるのだが、ドミソピザ(舞台&映画「12人の優しい日本人」に登場。キーになっている)が出てきたり、ラストの回想で黒田が語る内容は、1994年に上演された三谷の舞台「出口なし」(サルトルの「出口なし」とは別物である)の主人公である野村東馬(唐沢寿明が演じていた。実は彼は本当は野村東馬ではないのだが、ややこしくなるのでここでは書かないでおく)のセリフがほぼそのまま転用されていたり、人物造形には九代目松本幸四郎(現・二代目松本白鸚)と七代目市川染五郎(現・十代目松本幸四郎)の二人舞台である「バイ・マイ・セルフ」との共通点が見られたりする。「バイ・マイ・セルフ」に登場する幸四郎演じる謎の老優は、自分を特別な人物になんとか仕立てようとするのだが、自分の素の部分が本来は魅力的であるということを染五郎演じる若きフリーライターに指摘されるという筋を辿る。この映画でも黒田が政界を生き抜くために身につけた要素に決別し、家族を再構築しようという様が素敵でもある。
黒田は妻の聡子についてある軽薄な印象を受ける言葉を何度も繰り返すのだが、種明かしされた後では「男なら妻に言ってみたいセリフ」へと変わる。ある意味、言葉の魔術である。

政治家としての部分とファミリードラマを両立させるために流れは悪くなっており、場面によってはグダグダ続くところもあるが、見終わった後はファミリードラマならではのほのぼのとした気持ちになれる。大したことのない作品かも知れないが、三谷本人が大したことない作品を目指しているようなところがあり、政界を扱ったのは背景を大きくすることで小さなドラマをより有効に進めるためでもあるように思われる。成功はしなかったが連続ドラマ「総理と呼ばないで」と同じ路線であり、自らの演出で復讐を図っているように思われる。ただ演説や告白が上手く書けないという三谷の弱点は克服されておらず、今後に持ち越しということになるようだ。

 

中井貴一演じる黒田は小劇場なら小林隆(この映画には省エネルックの大臣として登場)が演じるのに相応しいような役であり(別に中井貴一でもいいのだが)、ROLLYが演じていた鰐淵影虎は、あるいは伊藤俊人が生きていたら抜群に上手く演じられた役のように思われる。ディーン・フジオカが演じていた井坂は若い頃の西村まさ彦が合いそうな役でもある。これまでの三谷作品と重ねながら観るのも面白いだろう。ディーン・フジオカは海外でキャリアを築いてきた俳優ということで、今も発声に問題があり、かなり残念ではあったが、雰囲気は役に合っている。三谷幸喜は全て当て書きの人であり、三谷幸喜に「会ってみたらトンチンカンな人でした」と言われている石田ゆり子などは素の良さが生きているのだと思われる。一方、ROLLYや有働由美子は普段とは違った魅力で見せることに成功している。

 

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2019年10月 2日 (水)

これまでに観た映画より(129) 「人間失格 太宰治と3人の女たち」

2019年9月25日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で、日本映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」を観る。蜷川実花監督作品。出演:小栗旬、宮沢りえ、沢尻エリカ、二階堂ふみ、成田凌、千葉雄大、瀬戸康史、高良健吾、壇蜜、近藤芳正、木下隆行、藤原竜也ほか。

タイトルには「人間失格」とあるが、小説『人間失格』の話は直接的には登場せず、太宰治(小栗旬)が『人間失格』執筆に至るまでを3人の実在の女性を絡めて描く。

鎌倉・腰越の小動岬での心中未遂の場面に始まり、玉川上水での入水に終わる。
登場する3人の女は、太宰の正妻である石原美知子(作家・津島佑子の母親。宮沢りえ)、愛人の太田静子(作家・太田治子の母親。沢尻エリカ)、愛人で心中することになる山崎富栄(二階堂ふみ)である。

 

スクリーン全体が一色に染まる場面が多用されるという、蜷川実花らしい演出が特徴である。舞い落ちる雪が花びらに変わったり、太宰が屋台の並ぶ祭りの中で迷い、真っ赤な風車(かざぐるま)と嘲笑を浴びせる子ども達に囲まれるという幻覚のシーンは、あるいは父親である蜷川幸雄の晩年の代表的演出作品「身毒丸」へのオマージュだったりするのかも知れない。

 

太宰が小説を書くために心中やらなんやらの事件を起こしているという噂は太宰の生前からいわれていたことであり、玉川上水で心中した際も、「どうせホラだろう」と本気にしなかった人もいたようだ。

 

『斜陽』を書くために太田静子と不倫することを許し、「もっと凄い作品」を書くために山崎富栄に走るよう仕向ける石原美知子が実は影の主人公なのではないかと思われる節もある。美知子の存在感はラストが近づくたびに増していき、最後は『斜陽』のヒロインと重なるような、太宰以上に重要な人物となる。
正樹(太宰治の息子。15歳で夭逝)がこぼしてしまった青の絵の具を美知子と娘の園子が顔に塗りたくりながら泣くという印象的なシーンがあるが、青は悲しみの色であると同時に太宰が吐き出す血の赤の反対色でもあり、はっきりとはわからないが結核を病む太宰を介抱する富栄への対抗意識と合わせて二つながらに描いているようである。本当にそうならベタで露骨ではあるが上手い技法でもある。
他の俳優も優れているが、宮沢りえが、この映画の中では最高の出演者であろう。沢尻エリカや二階堂ふみには押しの演技が必要とされるため、引きの演技の部分は宮沢りえが一人で担っているともいえる。

 

スキャンダラスな太宰治を描くということで、プレイボーイが嵌まるイメージのある小栗旬はよく合っている。頭が良さそうにも文才がありそうにも見えないが、この作品の太宰はそうした要素は二の次三の次で、とにかく色気があることが重要であり、剽軽な部分の描き方も小栗旬の良さが出ている。これまでの太宰治像というと、とにかく陰鬱で自意識過剰でありながら女々しくて、小説家としては天才だが生活は破綻しているという描き方が多かったが、小栗旬の太宰には「軽み」がある。

坂口安吾役の藤原竜也は出番は極々短いが、太宰を『人間失格』執筆へと導く重要な役どころであり、藤原竜也を配したのは正解だと思われる。

耽美的な要素と、男女関係が前面に出ているため、太宰本人ではなく太宰が書いた小説の切実さはあるいは伝わりにくくなっているかも知れない。見ようによっては本当に「ただの不倫」とも取られかねないところはある。

 

個人的には、『人間失格』は、悲惨この上ない物語だとは思っていない。人から愛されるため、他の人と同じ道を歩むために演じ続けることが人間というものなのだとしたら、そんなものは失格してしまった方が良いのではないかとすら思っている。昨今は同調圧力が今まで以上に高まり、「ダイバーシティ」の掛け声とは裏腹に、「同じであること」が強要されるようになってきている。要約すると「LGBTはまともな男と女になるよう努力しろ」ということになる文章を書く人が現れたりするのだから困ってしまう。

 

「存在するため」に人はあるいは「人間」になるのかも知れない。存在するだけではなく生きるためには人間を失格しても良いのではないか。『人間失格』という小説をそう受け取った時、私は初めて太宰治の友人になれたような気がした。この映画では、凄い小説を書くために人間を失格するという解釈なのだと思われるのだが、こうした太宰個人や表現者だけでなく、もっと多くの人に「失格」の良さを示して欲しかったと個人的には思うのだ。

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2019年8月26日 (月)

坂本龍一 2種の「Batavia」

 

 

 

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2019年7月27日 (土)

コンサートの記(580) 日本テレマン協会第261回定期演奏会「サリエリ復権」

2019年7月18日 大阪・中之島の大阪市中央公会堂中集会室にて

午後6時30分から、大阪市中央公会堂中集会室で日本テレマン協会第261回定期演奏会「サリエリ復権」を聴く。ピーター・シェーファーの「アマデウス」で有名なアントニオ・サリエリであるが、名前が有名な割には作品は聴かれていない。1984年に「アマデウス」の映画版が上演されてから少しずつではあるが録音は出るようになっており、私も今は札幌交響楽団の常任指揮者として有名なマティアス・バーメルトが指揮したサリエリの序曲&シンフォニア集(シャンドス)などを聴いたことはあるが、生でその音楽を楽しむという機会はまずない。

大阪では、サリエリの音楽祭である「サリエリムジカ」が大丸心斎橋劇場で行われ、同じく大丸心斎橋劇場でOSK日本歌劇団によるミュージカル「サリエリとモーツァルト」が上演されるなど、ちょっとしたサリエリ・ルネッサンスが起こっており、今回の「サリエリ復権」は、その目玉ともいうべき企画である。今後は、「サリエリムジカ」も企画したナクソス・ジャパンの後援で、『サリエーリ 生涯と作品』の著者である水谷彰良による「サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長」という講演会が関西大学梅田キャンパスで予定されている。

 

延原武春指揮テレマン室内オーケストラによる4曲と、サリエリとモーツァルトの合作であるカンタータ「オフェーリアの健康回復に寄せて」、更にプログラムには書かれていなかったサリエリのフルート五重奏曲が「プレゼント」として演奏される。

曲目は、モーツァルトの交響曲第25番より第1楽章、サリエリのシンフォニア「ヴェネツィア人」、サリエリのピアノ協奏曲変ロ長調(フォルテピアノ独奏:高田泰治)、サリエリ&モーツァルト&コルネッティのカンタータ「オフェーリアの健康回復に寄せて」(ソプラノ:中村朋子、フォルテピアノ:高田泰治)、サリエリのフルート五重奏曲ト長調、サリエリの「スペインのラ・フォリアによる26の変奏曲」

全曲、古楽器を使っての演奏である。ただ配置はアメリカ式の現代配置(ストコフスキー・シフト)を基調としている。

 

延原武春とテレマン室内オーケストラは、大阪市中央公会堂中集会室を拠点に「中之島をウィーンに!」という企画演奏会を行っており、有名作曲家だけではなく、知られざる作曲家の作品も取り上げている。

 

大阪市中央公会堂には何度か来ているが、中集会室に入るのは初めて。中集会室の雰囲気も良いし、中集会室に至るまでの道のりも面白い。

 

モーツァルトの交響曲第25番第1楽章。サー・ネヴィル・マリナーの選曲によって映画「アマデウス」のオープニングになった楽曲として有名である。
17歳の少年モーツァルトが書いた疾風怒濤の音楽であり、「デモーニッシュ」という評価を得ている。
中庸を意識したキビキビとした演奏で、多くの人が好感を抱くであろう出来である。

演奏終了後に、延原武春がマイクを手にスピーチ。「『アマデウス』も大分前の作品になりますが、知ってますよね?」と客席に聞いていた。「(演奏会が)終わる頃には、『サリエリも意外にいいなあ』、思うてよ!」

 

サリエリのシンフォニア「ヴェネツィア人」。 サリエリが書いたオペラの序曲を管弦楽作品にまとめたものである。
モーツァルトの音楽を聴いた後でサリエリの作品に接すると、時代が巻き戻った気になるが、そもそも音楽観が異なるように思われる。推進性を重視するモーツァルトに比べ、サリエリは短い旋律を組み上げていく形である。新鮮な感じはしないが、典雅で優しい音楽だ。

 

サリエリのピアノ協奏曲変ロ長調。フォルテピアノ独奏の高田泰治は、ドイツ在住。2002年に神戸新聞松方ホールでテレマン室内オーケストラとの共演によりデビューしており、平成28年には咲くやこの花賞を受賞している。

演奏の前に延原が、フォルテピアノの紹介を行う。1780年頃に制作されたフォルテピアノのレプリカであり、「音出るわ」と鍵盤を押しながら、「フォルテからピアノまで出るのでフォルテピアノ」と紹介する。現在のピアノの正式名称はそれを逆にしたピアノフォルテだ。
「サリエリはイタリア人なので、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンとは違います。弾いてて『なんでそっちいくの?』」となるそうだ。ちなみに、フォルテピアノでは連打(バッテリー)やトレモロが難しいそうだが、サリエリはそうした技術を多用しており、高田も巧みに弾きこなしているという。

カデンツァは、第1楽章はサリエリが書き残しており、第2楽章と第3楽章は高田が作ったものを弾く。サリエリのカデンツァは音を積み上げていくもので男性的なロマンティシズムが発揮されており、サリエリの鍵盤のための作品をもっと聴いてみたくなる。また、弦楽奏者が特殊奏法を行う場面があるなど、工夫にも富んだ音楽が展開される。

 

フォルテピアノが珍しいということで、休憩の合間は多くの人がフォルテピアノの周りに集まって一大撮影会が行われていた。

 

サリエリ、モーツァルト、コルネッティの共作によるカンタータ「オフェーリアの健康回復に寄せて」。オフェーリアというのは役名で(「ハムレット」のオフィーリアではないようだ)、サリエリのオペラにオフェーリア役で出演するはずだったソプラノ歌手が病気で倒れたのだが、その健康回復を祝って、サリエリがモーツァルトに共作を持ち掛けたとされる。

延原は、「モーツァルトとサリエリは仲が良かったという話」として語り始めたのだが、途中でソプラノの中村朋子に、「あんた喋りや」とマイクを渡してしまう。
ちなみにコルネッティという人物についてだが、コルネッティというのは筆名で正体は不明だそうである。中村朋子によると、オフェーリア役の歌手の実のお兄さんという説もあるそうだ。テキストを書いたのは、『フィガロの結婚』などで知られるダ・ポンテ。ダ・ポンテの書いたテキストは比較的長いものだったが、サリエリが1連と2連に作曲、モーツァルトが3連と4連に作曲し、コルネッティはその続きではなく再び1連と2連に作曲しているそうである。

サリエリが書いた音楽は一言でいうと「優美」。モーツァルトが書いた旋律はもっと伸びやかで表現の幅が広がると同時に強い希求の思いが伝わってくる。コルネッティの書いたメロディーは三拍子のどことなく賛美歌風のものである。

 

その後、フォルテピアノを移動させる作業があるため、その間を延原がトークで繋ぐのだが、「皆様にプレゼントがあります」ということで、プログラムには載っていなかった、サリエリのフルート五重奏曲ト長調が演奏されることになる。延原は、「サリエリ、演奏者がちゃんとせんと、と、プレッシャーを掛けておきます」と言って舞台袖に下がる。

フルート五重奏曲ト長調は、優美で愛らしい作品。イタリア人らしいカンタービレが利いている。「アマデウス」の影響で堅物というイメージもあるサリエリだが、実際は違う可能性もある。

 

ラストはサリエリの「スペインのラ・フォリアによる26の変奏曲」。サリエリのアレンジャー的側面に光を当てるために選ばれたのかも知れない。この曲もマティアス・バーメルト指揮のCDに収められている。タイトルにスペインのラ・フォリアとあるが、旋律自体は、イタリアの作曲家であるアルカンジェロ・コレッリが作曲した「ラ・フォリア」のものが用いられ、これが楽器編成などを変えつつ変奏されていく。変奏と書いたが旋律自体は大きく変わるものではなく、いわゆる変奏曲とはちょっと毛色が異なるようである。
ハープとして参加している北村文の楽器は、1790年頃に作成されたものだそうで、骨董品として売られていたものを買い取り、弦を張り替えるなどして再生させたそうである。現代のハープに比べると小型で軽め。男性一人で移動させることが可能である。延原が北村に話を聞く。往時はハープという楽器は貴族の象徴だったそうで、市民革命によって貴族階級が否定された際に多くのハープが火にくべられてしまい、現存しているものは少ないそうである。

各楽器がソロを取り、ハープやバロックティンパニが活躍するなど、様々な工夫が凝らされている。ヴァイオリン奏者2名がいったん背後のセパレーションの後ろに引っ込み、バンダとしてオーケストラと歌い交わす場面などもあった。
弦楽器の音の動きには、イタリア音楽の先輩であるヴィヴァルディなどとの共通点が聴かれ、サリエリがイタリア出身の作曲家であることを再確認することが出来る。
サリエリがモーツァルトと違って、古典的造形に重点を置いた作曲家なのは確かなのかも知れないが、ウィーンの宮廷楽長まで上り詰めるだけの実力の持ち主であったこともまたはっきりとわかる。

 

演奏終了後に延原は、「意外やったでしょ。悪者や思ってたでしょ」 とサリエリについての評価を述べる。

 

アンコールとして、モーツァルトの交響曲第25番より第3楽章が演奏される。管楽器が荒れ気味だったりしたが、こうして比較するとモーツァルトが未来志向の作曲家であることが聴き取れて面白い。

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