カテゴリー「オペラ」の66件の記事

2019年3月 9日 (土)

2346月日(10) ベルトルト・ブレヒト著 大岡淳訳『三文オペラ』(共和国)刊行記念 連続トークイベント「おまへは歌ふな」大阪篇 「私たちは「近代」を卒業できるか? ~歌の生まれるところ~」

2019年2月28日 大阪・肥後橋のCalo Bookshop&Cafeにて

午後7時から、大阪の肥後橋にあるCalo Bookshop & Cafeで、ベルトルト・ブレヒト著 大岡淳訳『三文オペラ』(共和国)刊行記念 連続トークイベント「おまへは歌ふな」大阪篇に参加する。大阪篇のタイトルは「私たちは「近代」を卒業できるか? ~歌の生まれるところ~」である。

訳者の大岡淳は、1970年西宮市生まれの演出家、劇作家、批評家。総白髪なので年取って見えるがまだ40代である。早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業。現在はSPAC-静岡舞台芸術センター文芸部スタッフ、浜松市の公立大学法人静岡文化芸術大学非常勤講師などを務めている。
ゲストとして、滋賀県立大学教授である細馬宏通と詩人でNPO法人ココルーム代表、労働者街の市民大学である釜ヶ崎芸術大学・大学院発起人の上田假奈代が参加する。

第一部は大岡淳が自ら訳した『三文オペラ』の文章を朗読し、「モリタート(マック・ザ・ナイフ)」を歌う。

その前に、「三文オペラ」の登場人物とストーリーの説明がある。壁には登場人物達のイラストが貼られている。
「三文オペラ」はイギリスの劇作家であるジョン・ゲイの『乞食オペラ』をブレヒトが改作したもので、ロンドンが舞台である。といってもブレヒトはロンドンに行ったことがなく、サー・アーサー・コナン・ドイルのシューロック・ホームズシリーズが大好きだったということで、ホームズものに登場するロンドンを念頭に置いた架空の街、ロンドンを舞台としている。ロンドンに行ったことのある人からは、「こんなのロンドンじゃない」と言われることもあるそうだ。

大阪篇は歌がテーマになっている。ということで音楽も大きな比重を占める。
「三文オペラ」の作曲者は、1900年に生まれ、1950年に没するという年号を覚えやすい生涯を送った(?)クルト・ワイル。ブレヒトとは何度も共同作業を行っている。ドイツ時代はクラシックの作曲家であったが、ユダヤ人であったためアメリカに亡命し、以後はミュージカルの作曲を主に行っている。
思えば、私が初めて買ったオペラのCDが「三文オペラ」なのだった。初めて買ったオペラのCDが「三文オペラ」だったという人は余りいないと思われる。そもそも一般的な日本人はオペラのCDやらレコードやらを保持していない。
クルト・ワイルの音楽はかなり個性的であり、「三文オペラ」もいわゆるオペラというジャンルに含まれるのかどうか微妙なところである。ちなみに私は演劇として上演された「三文オペラ」は2度観ているが、新国立劇場で上演されたオペラとしての「三文オペラ」は観ていない。


大岡は、池袋で行われた演劇祭で上演される「三文オペラ」のために新訳を行ったのだが、SPACの上司である宮城聰に、「お前、歌詞翻訳しろ」と命じられて取り組んだそうである。ちなみに大岡は早稲田大学在学中に第二外国語として2年間ドイツ語を学んだだけだったのだが、「お前、ドイツ語出来る?」と聞かれて、「出来ます!」と答えてしまい、最初は英語で書かれたドイツ語入門のテキストを読むことから始めたそうだ。それから9ヶ月後に翻訳を仕上げたのだが、上演後、ドイツ語の専門家から「そんなの物理的に可能なんですか?」と言われたそうである。
本来は歌詞のみの翻訳だったのだが、「歌詞だけじゃ整合性がなくなる」ということで全編を訳した。ただ、宮城から「歌詞翻訳の分しか金が用意出来ない」と言われ、それで新たなテキストを発売することにしたそうだ。ただ戯曲というのはそもそも売れないもので、「全国行脚」をして回ることになったそうである。連続トークイベントは今月6日に東京・早稲田で始まり、静岡(2度)、横浜を経て、昨夜が西宮、今日が大阪である。今後、岡山、福岡を回り、3月17日には番外編として中目黒で音楽ライブも行われる。

大岡は日本軽佻派を自称しており、『三文オペラ』の訳でも様々なことを試みている。脚韻を徹底させてあり、B系ともいわれる若者言葉を用いている他、マックヒースの演説では七五調を取り入れていて、歌舞伎のセリフのように響いてくる。

大岡は、これまでに発表された『三文オペラ』の様々な訳を読み上げ、「モリタート」は歌う。黒テントの山元清多(やまもと・きよかず)が舞台を日本に置き換えたバージョンの「モリタート」も歌われるのだが、黒テントの上演では服部吉次(はっとり・よしつぐ。服部良一の次男で、服部克久の実弟)が「モリタート」を歌っていた。服部吉次は音大出身で、実に上手く「モリタート」を歌っていたのだが、18日に行った横浜でのトークショーでは大岡の目の前に服部吉次がおり、服部の目の前で「モリタート」を歌うことになったそうだ。ちなみに服部の横には串田和美がいるという謎の豪華布陣だったそうである。


ちなみに、大岡は、ピーチャムとマックヒースの年が近い感じがするということで、ピーチャムの娘であるポリーとマックヒースとの間に年の差があるのではないかと読んでいるようである。例えとして、「ピーチャムが東尾修、マックヒースが石田純一、この人、靴下はいてないかも知れない。ポリーが東尾理子」と言っていた。マックヒースは銀行家に成り上がろうとしており、そのため、奥さんがちゃんとした人である必要が出てきたのだ。

貧民階層の人達が出てきて、整合性の低いことを言っていたりするのだが、これは釜ヶ崎芸術劇場でやろうとしている釜ヶ崎オ!ペラに似ているそうである。貧しい人達が上流階級や政府に逆らうでもなく、グチグチ言ってるだけで結果として為政者の思うがままになっているという状況は、19世紀末の架空のロンドンと今の日本社会に共通するもののようだ。上田假奈代によると道に出てきたり、何かすることがある人はまだましで、釜ヶ崎でも下の人達は引きこもって酒浸りであり、緩慢な自殺へと向かっているそうだ。

今の社会はみんなで歌える歌がなくなったという話になる。大岡によると、「原発で働いている人には歌がない」という。昔の炭鉱などでは文芸部があったり合唱サークルがあったりして、「炭坑節」という作者不詳の歌が生まれるという文化があった。ただ、原発には、ひょっとしたらあるのかも知れないが歌が生まれているという感覚がない。放射線が体に貯まらないよう、短期で人員の入れ替えがあるのかも知れないし、作業自体がリズムがあると支障を来すようなものなのかも知れない。本当の原因はわからないが歌から遠い場所に我々は来てしまっている。

「近代」が個々で行う作業が尊ばれた時代なのだとしたら、我々は「近代」を卒業出来ていない。
上田は、言葉には歴史があり、自分で生み出したものではないのに、何から何まで自分で生んだように錯覚するのが「近代」の文芸なのだというようなことを言う。
明治以降の詩に関しては、文語から口語へ、定型詩から自由詩へという流れが一貫としてあったのだが、大岡によるとそれも限界に来ているのかも知れないという。

大岡と上田は鳥取で、子ども達と一緒になって作品作りをするワークショップを行っていたりするのだが、個人では生み出すことが出来ないような豊かなものが生まれる可能性があるそうだ。


歌の話に戻ると、J-POPなどは歌が長くなり、複雑になったと細馬は指摘する。今のポピュラーシンガーのライブには、予めCDなり配信なりを聞き込んで、全曲わかるようにして挑むのが普通なのだが(私もそういうことはする)、細馬が若い頃はそんなことはしなかったそうで、楽曲も演奏時間が短く、誰でも歌えるようなものだったというのが大きいのではないかという。
確かに、現在主流のJ-POPは歌詞も複雑で1回聴いただけではなんのことを歌ってるのかよく分からなかったり、音程も半音ずつ上がり下がりしていたり、転調に次ぐ転調があったりと、変拍子が当たり前のように入っていたりと、聴くのも歌うのも難しいものが多い。世代間の断絶もあり、例えば私の親世代の人はブラックミュージックなどは音楽に聞こえない、子どもはいないけど子ども世代に当たる十代の子達が聴くラップなどは私は余り聴かないということもある。音楽を聴くというスタンスが変化し、アーチスト個人と聴衆一人の1対1のコミュニケーションという形になったような気がする。

「三文オペラ」だけでなく、つい最近に至るまで、貧困層の人々の声は、インテリ達が想像によって代弁していたのだが、例えば大岡が子どもの頃に住んでいたという川崎市生まれの人気ラップアーティストがいるそうだのだが、「川崎区で有名になるには人を殺すかラッパーになるか」という歌詞を歌うそうで、当事者が声を上げるようになってきた。ただ、彼らも下剋上を好む成り上がりで、結局、大人になって良い車になるようになって上がりであり、成り上がれなかった人達のことは等閑視するようで、貧困層の中にもまた階級が生まれ、音楽を共有出来ないことになっているようだ。

大岡は、演劇に関しても今は人間同士の密度の濃い劇団システムは廃れてしまい、プロデュース公演が基本で、いつもいる人はプロデューサーだけという状態と指摘する。昔は劇団に所属している人だけで上演を行っており、他劇団への客演さえ問題視され、テレビやCMに出るなんてとんでもないという風潮があったが、今はCMにテレビドラマの仕事を受けたからといって「なんでだよ!」と怒る人はまずいない。

他者とじっくり何かを作るという作業が時代に合わなくなってきているのかも知れない。個のアイデンティティも崩壊し、サイコパスが主流になって人間間の契約が成り立たなくなって、世界が崩壊するというディストピアを大岡は思い浮かべてもいるそうだ。

ただ、ポピュラー音楽が崩壊していく様は、クラシックがすでに辿った道であり、今のポピュラーミュージックは、理解が困難になったクラシックに変わる形で台頭した。あるいはこれから先により身近な形の音楽が生まれるかも知れないという予感は私の中ではある。



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2019年2月19日 (火)

コンサートの記(525) 堺シティオペラ第33回定期公演 青島広志 オペラ「黒蜥蜴」

2019年2月2日 ソフィア・堺にて

午後3時から、ソフィア・堺(堺市教育文化センター)のホールで青島広志作曲のオペラ「黒蜥蜴」(原作小説:江戸川乱歩、戯曲化:三島由紀夫)を観る。オペラ「黒蜥蜴」は今回が関西初演となる。柴田真郁(しばた・まいく)指揮大阪交響楽団とピアノの關口康佑による演奏。演出は岩田達宗(いわた・たつじ)。ダブルキャストによる上演で、今日の出演は、渡邉美智子(黒蜥蜴/緑川夫人)、福嶋勲(明智小五郎)、総毛創(そうけ・はじめ。雨宮潤一)、西田真由子(岩瀬早苗)、北野知子(ひな)、片桐直樹(岩瀬庄兵衛)、森原明日香(岩瀬夫人)、植田加奈子(夢子、刑事、恐怖人形)、宮本佳奈(愛子)、糀谷栄理子(色絵、清掃員)、中嶌力(助演:刑事ほか)、浦方郷成(うらかた・きょうせい。助演:刑事、家具屋)、矢野渡来偉(やの・とらい。助演:刑事、家具屋、恐怖人形)、勝島佑紀(助演:刑事、恐怖人形)。振付は西尾睦生(女性)。


午後2時30分より、演出家の岩田達宗によるプレトークがある。まず、江戸川乱歩の原作小説について語り、黒蜥蜴は絶世の美女だが、美男美女を誘拐して剥製にして愛するという猟奇的な性格であることを語る。三島由紀夫は江戸川乱歩の作品を愛しており、「黒蜥蜴」を戯曲化。初代水谷八重子の黒蜥蜴、芥川比呂志の明智小五郎によって初演されている。三島の戯曲を基にした青島広志のオペラ「黒蜥蜴」は1984年の初演で、音楽はパロディやパスティーシュが多用されていることを紹介する。なぜ、そうした作品になったのかは、オペラ「黒蜥蜴」を観ているうちにわかってくる。モチーフになった作品は、ベートーヴェンの第九やレナード・バーンスタインの「ウエスト・サイド・ストーリー」、ビートルズの「オブラディ・オブラダ」など。
「変装」もまた重要であることを岩田は語る。明智小五郎も黒蜥蜴も変装の名人である。


スペード、ハート、ダイヤ、クラブというトランプの4つのマークを半分にした絵柄の描かれた4つのドアを駆使した演出である。原作小説では、黒蜥蜴は非合法のキャバレーに登場することから、それを思わせる格好の助演キャスト(全員、ダンサーではなく歌手である)達のダンスによってスタート。背後には巨大な黒蜥蜴の文様が半分だけ顔を覗かせている。

「黒蜥蜴」では反転の手法が多く用いられており、例えば、江戸川乱歩の小説では東京を舞台として始まり、その後、大阪へと舞台は移るのだが、三島由紀夫が戯曲化した「黒蜥蜴」では、大阪の場面で始まり、東京へと移っていくという真逆の舞台設定である。宝石の受け取り場所は原作では大阪の通天閣だが、三島の戯曲では東京タワーに変わっている。ちなみに今回の演出では舞台は現代に置き換えられており、登場人物達はスマートフォンを使用。東京タワーの場面では、「東京スカイツリーで待ち合わせをしたのに、間違えて東京タワーに来てしまった青年」がさりげなく登場していたりする。

舞台版「黒蜥蜴」は、中谷美紀の黒蜥蜴、井上芳雄の明智小五郎で観ているが、黒蜥蜴をやるには並の女性では無理である。ということで、男でも女でもない美輪明宏が当たり役にしていたりするのだが、渡邉美智子の黒蜥蜴は佇まいや振る舞いが黒蜥蜴に嵌まっている。勿論、中谷美紀には敵し得ないが、黒蜥蜴の魅力は十分に出ているように思われた。他のキャストも舞台版とは比べられないものの、かなりの健闘である。スリルや迫力もあったし、日本語オペラの上演としてハイレベルにあると思う。

外見を重視し、心を信じない黒蜥蜴と、世の中や人間の動きを楽しむ明智小五郎とでは思想が正反対であるが、互いが徐々に近づいていき、ある意味、逆転しそうになったところで己に破れた黒蜥蜴は死を選ぶ。思想だけでなく、あらゆる要素が倒錯し、逆転し、入れ替わり、成り代わりというパターンで貫かれており、音楽にパロディやパスティーシュが鏤められているのもこうしたことに起因するのだと思われる。言ってみれば、音楽が変装しているのだ。


柴田真郁はノンタクトでの指揮。大阪交響楽団の編成は、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、フルート、クラリネット、ホルン、トランペットの各ソロにパーカッションが2人、これにピアノの關口が加わるという室内楽編成だが、柴田は生き生きとした音楽を引き出していた。


今回の公演ではアフタートークもある。出演は、スピリチュアルカウンセラーでオペラ歌手としても活躍している江原啓之と岩田達宗。江原啓之は昨年、自身がプロデュースするオペラ「夕鶴」で運ずを演じており、その時の演出が岩田達宗であった。

江原は美輪明宏と一緒に番組をやっていたということで、美輪明宏からのメッセージも受け取っている。黒蜥蜴というと美輪明宏の当たり役であるが、自身が黒蜥蜴を演じられる理由として三輪は「本物じゃないから」と語っていたそうである。本物の女でも男でもない。黒蜥蜴が本物の宝石を求める理由も自身が本物ではないからだろうということだそうだ。ただ、江原や岩田によると、三輪も黒蜥蜴は内面の哲学などは本物で、明智が黒蜥蜴に惹かれる理由もそこにあるそうだ。

「黒蜥蜴」は、日本的な発想に貫かれているそうで、江原は神道の大学である國學院大學の別科で神職の資格を得ているのだが、國學院では神の定義を「畏ろしくかしこきもの」としているそうで、善悪は問題ではないそうだ(仏教もそうで、「無記」という善悪とは別の状態が重視される)。登場人物を神だと考えると納得がいくそうである。例えば、早苗は美輪明宏の舞台では「パッパラパー」な女性だそうだが、若さという美質がある。岩瀬庄兵衛は金のことしか頭にない男だが、それもまた一つの特徴である。

江原によると、岩田の演出は、「もっともっと」と求めるタイプのものだそうで、出演者達は大変なのだそうだが、岩田によると、19世紀まではこれは普通のことだったそうで、20世紀に入ると劇場が巨大化したため、それまでのように歌手が跳んだりはねたりしていた場合、過酷に過ぎ、歌がおろそかになってしまうため、動きを抑える必要が生じてきたのだそうである。

岩田は、オペラ「黒蜥蜴」が青島的な要素が強いというので、三島寄りに戻したそうだが、例えば、第2幕第1場の前に設けられた歌なしの場面は、青島広志の指定通りではなく、三島由紀夫が書いた東京タワーの人間と黒蜥蜴とのやり取りが一部設定を変えて再現されており、ここなどは元の戯曲を生かしたのだと思われる。



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2019年1月31日 (木)

コンサートの記(515) びわ湖ホール オペラへの招待 林光 オペラ「森は生きている」(室内オーケストラ版)2019

2019年1月20日 びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで林光のオペラ「森は生きている」(室内オーケストラ版)を観る。原作:サムイル・マルシャーク、訳:湯浅芳子、台本・作曲:林光、オーケストレーション:吉川和夫。指揮とピアノは寺嶋陸也(てらしま・りくや)、演奏は大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団(コンサートミストレス:赤松由夏)。美術:増田寿子、衣装:半田悦子。演出:中村敬一。「びわ湖ホール オペラへの招待」として上演されるもの。

開演前に舞台体験コーナーが設けられており、自由に舞台に上がってあちこち見て回ることが出来るようになっている。私も舞台に上がって色々と観察する。


出演は全員、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーで、宮城島康(みやぎしま・こう)、溝越美詩(みぞこし・みう)、森季子(もり・ときこ)、川野貴之、藤村江李奈、船越亜弥、黒田恵美(くろだ・えみ)、熊谷綾乃(くまがい・あやの)、益田早織、栗原未和(くりはら・みわ)、坂東達也、五島真澄(ごとう・ますみ。男性)。


日本を代表する作曲家の一人である林光(1931-2012)。早くから尾高尚忠に師事し、東京芸術大学に進むも、もう学ぶことはなにもなくなってしまっており、早々に中退してプロの作曲家として活躍を始めている。現代音楽とは距離を置き、旋律のクッキリとした明確な作風が特徴である。オペラシアターこんにゃく座の座付き作曲家としても活動しており、「森が生きている」もこんにゃく座のために書かれたものである。


ロシアの児童小説家であるサムイル・マルシャークの戯曲が原作であり、このオペラも舞台はロシアである。

まず月の精霊たちの集いが描かれた後で、少女(黒田恵美)が森に薪を拾いに来たところから話が始まる。この国の女王様(栗原未和)は少女と同じぐらいの年なのだが、聡明ではあるもののやや子供じみており、とてつもなくわがままである。女王様は真冬であるにも関わらず、「籠一杯のマツユキ草が欲しい」と家臣にねだり、家臣がお触れを出すことになる。薪を拾いに来た少女はどうやら母親や姉と血が繋がっていないようで、いつも冷たくされていた。今日も母と姉から「マツユキ草を摘んでくるよう」命令され、持って帰れないと家には入れて貰えないという仕打ちを受ける。母も姉も少女が死んでも構わないという考えのようだ。
当然ながらマツユキ草を見つけることが出来ず、少女は彷徨う。死を意識して怯える少女だったか、遠くに光を見つける。進んでいくと……。


昔からよくある貧しく不幸な少女の成功を描いた童話である。少女のサクセスストーリーであるだけでなく、女王の悟りと改心の物語でもあり、教訓めいてもいるのだが、子どもや若い人のためのオペラ入門としても優れた作品である。
第2幕冒頭に合唱で歌われる「十二月の歌」は、聴衆も一緒になって歌う、ということで開演前にワークショップのようなものがあり、びわ湖ホール声楽アンサンブルとメンバーと聴衆が一緒になって歌う。無料パンフレットの中に「十二月の歌」の楽譜が記されている。


中村敬一の演出は、紗幕に投影される映像を生かしたもので、わかりやすさと共にファンタジックでメルヘンチックな味わいを加えることにも成功していたように思う。

びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーによる歌唱も愛らしく、漫画的なところのあるこのオペラの展開に相応しいものになっていた。

上演終了後に、「十二月の歌」が再度びわ湖ホール声楽アンサンブルと聴衆によって歌われ、雰囲気の良いまま終わる。びわ湖ホールは、「びわ湖ホール オペラへの招待」などを通してオペラファンを着実に増やしているようだ。



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2019年1月 9日 (水)

コンサートの記(499) プラハ国立劇場オペラ モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」@フェスティバルホール

2019年1月3日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後3時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、プラハ国立劇場オペラによる公演、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」を観る。

モーツァルトが愛し、またモーツァルトを愛した街・プラハを代表する劇場の来日公演。プラハ国立劇場オペラ(The Estate Theatre)は、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を初演したスタヴォフスケー劇場で公演を行う名門である(プラハ国立劇場とは同一運営で、プラハ国立歌劇場とは別団体)。歴史あるスタヴォフスケー劇場は手狭ということもあって大規模オペラは他に譲り、現在はモーツァルトのオペラを中心とした上演を行っているようだ。


指揮はエンリコ・ドヴィコ、演奏・合唱はプラハ国立劇場管弦楽団・プラハ国立劇場合唱団、演出はマグダレーナ・シュヴェツォヴァー、舞台装置はアンドレイ・ドゥリーク、衣装はカテリーナ・シュテフコヴァー、照明デザインはプシュミスル・ヤンダと現地のスタッフが中心である。舞台監督や技術スタッフは日本人が担っているようだ。

主要登場人物はダブルキャストやトリプルキャストで、今日の出演は、ミロシュ・ホラーク(フィガロ)、ヤナ・シベラ(スザンナ)、ロマン・ヤナール(伯爵)、エヴァ・メイ(伯爵夫人)、アルジュベータ・ヴォマーチコヴァー(ケルビーノ)、ヤナ・ホラーコヴァー・レヴィツォヴァー(マルチェッリーナ)、ヤン・シュチャーヴァー(バルトロ)、ヤロスラフ・ブジェジナ(バジリオ)、ヴィート・シャントラ(ドン・クルツィオ)、ラジスラフ・ムレイネク(アントニオ)、エヴァ・キーヴァロヴァー(バルバリーナ)ほか。
世界的な名声を得ているエヴァ・メイのみ客演で、他はプラハ国立劇場とプラハ国立歌劇場の所属メンバーが中心のようである。

今回の指揮者であるエンリコ・ドヴィコは、現在、ウィーン・フォルクスオーパーの首席客演指揮者を務めている。ライン・ドイツ・オペラ、ベルリン国立歌劇場で定期的に指揮を務めるほか、ヘッセン州立歌劇場の第一楽長を務めていたこともあるそうだ。現在はプラハ国立劇場とプラハ国立歌劇場で継続的に活動を行っている。

演出のマグダレーナ・シュヴェツォヴァーは、ウィーンとプラハでヴァイオリンを専攻した後で、ブルノのヤナーチェク音楽アカデミーなどで演出を学び、プラハとブルノを中心にチェコ国内のオペラ演出で活動。現在は、ピルゼン音楽学校で演技指導なども行っているそうだ。

今回の上演では、ケルビーノ役が二人おり、歌のある場面はアルジュベータ・ヴォマーチコヴァーが務めるが、それ以外の場面は男優が演じる。男優が演じている方が道化的な部分が強調されるように感じた。


今日も3階席で、オーケストラピット内がよく見えるが、プラハ国立劇場管弦楽団は室内オーケストラ編成である。そしてピリオド・アプローチで演奏するため、序曲などは音が弱く聞こえたが、本編になると生き生きとした音楽を奏で始める。硬めの音によるティンパニの強打や、うなるような金管の響きが功を奏し、脈打つような音楽が生まれる。

歌手達も素晴らしく、全てのものがあるべき場所に嵌まっていくようなジャスト・フィットなモーツァルトである。これは長年に渡って毎日のようにオペラを上演し続けてきた団体だから生み出せる味わいであり、日本のように単発上演のみの環境では紡ぐことが出来ない響きである。

セットもシンプルながら効果的であり、上演のちょっとしたところに高雅さや上品さが窺える。超一流ではないかも知れないが、欧州の一流の品質の高さと幅広さが随所に感じられる上演であった。

売れっ子のエヴァ・メイだけでなく、全ての歌手がチャーミングな歌と演技を披露。漫画的な動きも様になっていた。

多分、プラハの人々は今でもモーツァルトのことを親友のように感じているのだろう。素晴らしい街である。


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2018年12月28日 (金)

コンサートの記(482) 望月京 新作オペラ「パン屋大襲撃」

2010年3月12日 大阪・京橋のいずみホールにて

大阪・京橋の、いずみホールで、望月京(もちづき・みさと)の新作オペラ「パン屋大襲撃」を観る。

村上春樹の短編小説「パン屋襲撃」(糸井重里との共著『夢であいましょう』収録)と「パン屋再襲撃」(同名の短編集に収蔵)を原作に、イスラエル人のヨハナン・カルディが英語でテキストを書き、それをラインハルト・パルムがドイツ語に訳したテキストを用いる。

演出はイタリア育ちの粟國淳。出演は、飯田みち代、高橋淳、大久保光哉、畠山茂、太刀川昭、吉原圭子、井上雅人、7人組のヴォーカルグループであるヴォクスマーナ。演奏はヨハネス・カリツケ指揮の東京シンフォニエッタ。舞台後方にオーケストラボックスがあり、歌手達の指揮は副指揮者である杉山洋一が行う。

上演前に、作曲者の望月京と、演出の粟國淳によるトークがある。初めてオペラを手掛けた望月はこれまで用いてこなかった音楽の引き出しを開けるような感覚があり、「音のコスプレをしているような」感じがあったという。日本語とイタリア語両方のテキストを読んだという粟國が、日本語で村上春樹の作品を読むとグレーの部分が多いが、アルファベットで村上作品を読むと白と黒に分かれるよう感覚になるということと、日本人作家の作品をイスラエル人がオペラ台本化し、ドイツ人がドイツ語に訳したテキストを日本人キャストがドイツ語で歌うというインターナショナルなところが面白いと語った。

オペラ「パン屋大襲撃」の音楽は聴きやすいものであったが、現代作品にはよくあるように成功作なのか失敗作なのかわからない。

ドイツ語の作品ということで、字幕スーパーが両袖に表示されたが、私は前方の中央の席に座っていたので、演技と字幕を同時に見ることが出来ず、作品を十全に味わうことは叶わなかった。

「パン屋襲撃」と「パン屋再襲撃」は村上春樹の作品の中でも比較的解釈のしやすい作品であるが、それぞれのキーとなるワーグナー(ナチスドイツのプロパガンダ音楽であった)と、マクドナルドとコーラ(アメリカ型資本主義の象徴)の対比を音楽でもっとわかりやすく示せれば、より面白いものになったかも知れない。

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2018年12月17日 (月)

コンサートの記(468) 京都オペラ協会定期公演 ベッリーニ 歌劇「カプレーティ家とモンテッキ家 ~ロミオとジュリエット~」

2018年12月9日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後2時から、ロームシアター京都サウスホールで、京都オペラ協会定期公演・歌劇「カプレーティ家とモンテッキ家 ~ロミオとジュリエット~」を観る。作曲:ヴィンチェンツォ・ベッリーニ。総監督・演出:ミッシェル・ワッセルマン。森香織指揮京都オペラ管弦楽団(特別編成。協力:公益社団法人アンサンブル神戸)の演奏。合唱も特別編成の京都オペラ合唱団。出演は、黒田恵美(ジュリエッタ)、森季子(ロメオ)、竹内直紀(デバルド)、東平聞(カペッリオ)、迎肇聡(ロレンツォ)。

いわゆる「ロミオとジュリエット」の話だが、シェイクスピアの戯曲ではなく、シェイクスピアも題材にしたヴェローナの故事から直接書かれた台本によっている。

シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」との異同は多く、まず、ジュリエッタ(ジュリエット)の婚約相手がパリスではなくデバルド(ティボルトに相当)であり、ロレンツォ(ロレンスに当たる)は神父ではなく、カペッリオの親類の医師ということになっている。
また、ロメオ(ロミオ)は最初からジュリエッタと恋仲であり、戦いの中でカペッリオの息子を殺して追放されたという選定である。

このオペラでは、ロメオ役をメゾ・ソプラノの歌手が担うのも特徴。そのため、梅田芸術劇場メインホールなどで行われている、宝塚歌劇出身の女優と男性ミュージカル俳優とのコラボ上演に雰囲気がよく似てる。

今日は2階席の2列17番というほぼ真ん真ん中での鑑賞。サウスホールの2階席には何度も座ったことあるが、いずれも端の席であり、中央列に座るのはほぼ初めて。座席間が狭いため、席にたどり着くのに難儀する。サウスホールは内部改修で天井の高さに限界があるため、こうした無理なことになっているようだ。

ホール自体が余り大きなものでないため、音は良く聞こえる。残響が短めなのもオペラには適性があり、歌手が声を張り上げても音が割れることがない。森香織指揮の京都オペラ管弦楽団の音もクリアに響く。ただその分、強弱のニュアンスは余り出ないかも知れない。

今回は、演出のミッシェル・ワッセルマンに発案により、舞台をアル・カポネらが暗躍していた1920年代のシカゴに移した上演が行われる。名家同士ではなく、マフィアの諍いという設定に変わり、服装は現代的で、武器も短剣ではなくナイフだ。


「夢遊病の女」などで知られるヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801-1835)。シチリア島に生まれ、ナポリ王立音楽院に学び、20代前半にオペラ作曲家としてデビュー。「天才」と謳われたが33歳で早世している。
丁度、モーツァルトと入れ代わるようにして現れた世代であり、古典派と初期ロマン派の特徴を兼ね備えた作風である。メロディメーカーとして知られただけあって旋律はいずれも美しい。そのため圭角が取れすぎていて印象に残りにくいという贅沢な欠点にもなっている。

会場が小さいということもあって歌手達の声も良く通り、歌唱を存分に味わうことが出来た。

演出のワッセルマンは歌舞伎研究の専門家だが、この演出では特に奇をてらったところはないように感じた。

ラストで、ジュリエッタはナイフで胸を突いて死ぬのかと思いきや、右手を伸ばしたまま絶命。ショックで死んだということなのか、それともナイフを使ったが私の席からははっきりと見えなかったということなのか。折角、短剣をナイフに替えたのだから、もっと効果的な演出があっても良いと思う。



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2018年11月30日 (金)

コンサートの記(457) 金沢歌劇座 ヴェルディ 歌劇「リゴレット」

2018年11月25日 金沢歌劇座にて

午後2時から、金沢歌劇座でヴェルディの歌劇「リゴレット」を観る。原作はヴィクトル・ユゴーの『王は愉しむ』。鈴木織衛指揮オーケストラ・アンサンブル金沢による演奏。演出は三浦安浩。出演は、青山貴(リゴレット)、森麻季(ジルダ)、アレクサンドル・バディア(マントヴァ公爵)、森雅史(スパラフチーレ)、東園(ひがし・その。ジョヴァンナ)、藤井麻美(ふじい・あさみ。マッダーレナ)、李宗潤(イ・ジョンイン。モンテローネ伯爵)、藤井勇雅(ふじい・ゆうや。マルッロ)、原田幸子(はらだ・さちこ。チェプラーノ伯爵夫人)、近藤洋平(ボルサ)、石川公美(いしかわ・くみ。公爵夫人付きの小姓)、吉田大輝(金沢オペラ合唱団より。チェプラーノ伯爵)、国谷優也(金沢オペラ合唱団より。王宮の随行)。男声合唱は金沢オペラ合唱団、貴婦人達も金沢オペラ合唱団の選抜メンバーが務める。


「リゴレット」は、テノールのアリアである「女心の歌」がとにかく有名な作品。テノールの歌う曲としては一二を争う知名度を誇り、特に日本では藤原義江が十八番としていたことから「最も有名なオペラナンバー」と断言しても構わないほどよく知られている。
オーケストラ・アンサンブル金沢と金沢歌劇座はこれまで、国内のホールとの共同制作によるオペラを毎年上演してきたが、今回は初の金沢独自公演として、今日1回限りの上演を行う。


金沢歌劇座は、以前は金沢観光会館という名前で知られていた建物である。2001年に金沢駅前の石川県立音楽堂が出来るまでは、オーケストラ・アンサンブル金沢はここを本拠地にしていた。2007年に名称が金沢歌劇座に変わっている。
1962年竣工ということで、京都会館(現・ロームシアター京都)の2年後の完成。当時流行っていた扇形の広がりのある内観である。竣工からかなりの歳月が経っているが、内部は改装が行われているようで、それほど古いという印象は受けなかった。
音響であるが、構造からいって2階席の方が1階席よりも音が通るような感じである。ただオペラを上演するには響きすぎるようで音のクリアさは十分でなく、オーケストラ・アンサンブル金沢の演奏にしては濁りが感じられ、声も場面によっては十分に届いて来ない。2階席の出入り口横の席で観たのだが、この席は手すりが視覚の邪魔になり、舞台の一部がよく見えない。こちらも慣れているので、想像力でその欠点を補うことは比較的たやすいが、「この手すりは本当にいるのか?」と疑問に思う構造ではある。


指揮の鈴木織衛は、現在、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の専任指揮者を務めている。東京藝術大学指揮科卒業後、同大学院修了。藝大在学中より、中田喜直の薫陶を受け、中田とのジョイントコンサートでピアニストとしてデビュー。その後、二期会の指揮者やコレペティートゥアとしてキャリアを積み、2010年にOEKの専任指揮者に就任している。


好色家のマントヴァ公爵が、主人公である道化師リゴレットの主として登場する。好色ということで、ドン・ジョヴァンニを連想させる人物であり、老いたモンテローネ伯爵が「ドン・ジョヴァンニ」における騎士団長の役割をなぞっていることも見ていてわかる。ただ「ドン・ジョヴァンニ」とは違って「リゴレット」では好色家は地獄には落ちない。


歌舞伎の戸板を模したような舞台セットが用いられており、場面の転換や「戸板返し」などで効果を発揮する。

照明は、赤、白、緑のイタリアンカラーを基調としたもので、暗さが増すシーンでは不吉な青が用いられる。

もう一つ印象的なのが、キャットウォークから下りてくるゼルダのためのブランコで、これに乗って歌うことによりゼルダの心の揺れと無邪気さが強調され、ラストではその喪失感が見る者の胸に迫るような仕掛けになっている。

第2幕が始まる前に、総合プロデューサーの山田正幸がマイクを持って登場する。何かと思ったら、マントヴァ公爵役のアレクサンドル・バディアが体調不良だそうで、昨夜点滴を受け、今朝も点滴を行ったそうで、山田は代役も考えたそうであるが(ボルサ役の近藤洋平がマントヴァ公爵のアンダースタディとしても入っている)、バディアが「金沢のお客さんのために最後まで頑張る」と言っているため、最後まで任せることにしたそうだ。山田が退場した後で客席が少しざわついた。


バディアは「女心の歌」などでは流石に声の出が悪かったが、全般を通しては体調不良を感じさせない元気な振る舞いを見せた。

タイトルロールを歌う青山貴は、貫禄と安定感のあるリゴレットを聴かせる。

ゼルダ役の森麻季は最初のうちは技術偏重のように感じられたが、伸びのある高音ときめ細やかな声音の変化、そして音程も輪郭も全くぶれない歌唱で世評の高さを納得させる圧倒的存在感を示した。

金沢オペラ合唱団は、オーディションで選ばれたアマチュア団体。ということもあってか、ダンスのシーンなどではキレに欠けたりもしたが、一定の水準に達した歌唱を聴かせる。


ちなみに、第3幕にはヴェルディが作曲技術の限りを尽くした4重唱が登場するのだが、これはロナルド・ハーウッドの本に基づく黒柳徹子主演の舞台「想い出のカルテット~もう一度唄わせて~」のクライマックスで用いられている。「想い出のカルテット~もう一度唄わせて~」の種明かしになるのだが、この4重唱には「嘘」という言葉が繰り返し登場する。


鈴木織衛指揮のOEKも起伏に富んだ音楽作りで聴衆を魅了。オーケストラ、歌手、演出の三拍子が揃い、感動的なオペラ上演となった。


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2018年11月13日 (火)

コンサートの記(450) 春秋座オペラ第9弾 「蝶々夫人」2018楽日

2018年11月4日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、春秋座オペラ第9弾、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を観る。例年通りNPO法人ミラマーレ・オペラによる上演。指揮は樋本英一(ひもと・ひでかず)、演奏はミラマーレ室内管弦楽団。

これまでの春秋座オペラではエレクトーン入りの編成でオーケストラピットに入っていたミラマーレ管弦楽団であるが、今回はピット内下手端、花道の下にグランドピアノを置いた編成である。第1ヴァイオリン第2ヴァイオリン共に2人、ヴィオラ、チェロ、コントラバスが1人ずつという配置。管はフルート、クラリネット、ホルン、トランペットが2管編成である。Ettore Panizzaのリダクションによるオーケストレーションでの演奏。
全楽器が生の音ということで、小編成ながら迫力がある。

演出:今井伸昭。公演監督は松山郁雄。松山は字幕翻訳も手掛けている。出演は、藤井泰子(蝶々夫人)、マッシミリアーノ・ピサピア、片桐直樹(シャープレス)、糀谷栄里子(こうじたに・えりこ。スズキ)、大淵基丘(おおふち・もとく。ゴロー)、服部英生(ボンゾ)、萩原泰介(ヤマドリ/神官)、愛知智絵(ケイト)。合唱はミラマーレ・オペラ合唱団。所作指導:井上安寿子。公演プロデューサー:橘市郎。


指揮の樋本英一は、1954年生まれ。都立新宿高校を経て東京芸術大学卒という経歴は坂本龍一と完全に一緒である。東京芸大では声楽科を卒業した後に指揮科を卒業。芸大は中途編入を認めていないため、一から受験し直したのだと思われる。主に声楽の指揮者として活躍しており、母校の芸大を始め、桐朋学園短期大学、二期会オペラ研修所、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部などの講師も務めている。
ドラマティックな音楽作りに長けており、耽美的な音も上手く引き出す。

演出の今井伸昭は、日本大学藝術学部写真科中退後、木村光一に演出を学び、更に栗山昌良に師事して演出助手も務めたということで、春秋座では「ラ・ボエーム」の演出を手掛けた岩田達宗の兄弟弟子になるらしい。現在は、東京音楽大学や桐朋学園大学の非常勤講師でもある。


タイトルロールを務める藤井泰子は、私やダブルキャストで蝶々夫人を演じた川越塔子と同じ1974年生まれ。広島県福山市出身。音楽好きの両親の元に生まれ、幼少時からピアノやフルートを習い、高校時代から声楽のレッスンを開始して、慶應義塾大学総合政策学部卒業後に日本オペラ振興会育成部を修了。政府給費にてイタリアのボローニャ元王立音楽院に学び、国際コンクールでの優勝経験もある。イタリアではYasuko名義でクイズバラエティーに出演して人気を博している。なんでも出題者としての登場で、イタリアの曲を日本語で歌ってなんの曲か当てさせるコーナー担当だったらしい。見たことはないので詳細は不明。
オペラデビュー作が「蝶々夫人」だったそうだ。

マッシミリアーノ・ピサピアはイタリアのトリノの生まれ。フランコ・コレッリらに師事し、「蝶々夫人」のピンカートン役でデビューしている。ピンカートンは十八番であるようだ。

回り舞台を使用。最初の場では、背後にアーチ状もしくは太鼓橋状の階段が掛かっており、初めてここに来る人は基本的にこのアーチの上を通る。
蝶々夫人は、親戚一同をあたかも運命のように引き連れながらやって来る。
この場では桜の木が中央で枝を拡げている。
回り舞台を使ったもう一つの場は、蝶々のように羽根を拡げた形の壁がある舞台セットである。この場では影絵が用いられる。特徴的なのは星条旗が見当たらないことである。星条旗が立っていそうな場所にはやはり桜の木があり、常に光を浴びている。

視覚面での特徴は、なんといっても第二幕で蝶々さんが洋装していること。鹿鳴館で山川捨松や陸奥亮子がしていそうな格好である。外見を洋風にするというのは時代の流れの表現でもあるだろうが、やはり気持ちがピンカートンと共にあるということを示しているのだろう。可能性は低いが、あるいはケイトが現れなければ、ピンカートンの横に収まっていたのかも知れない。少なくとも蝶々さんはそう望んだいたわけで、それだけに自分と同じ洋装のケイトが突然現れた衝撃はいや増しに増したことだろう。

今回は、蝶々さんが武家の娘であることが強調されており、親戚達も蝶々さんが芸者に身をやつしたことを嘆いている。ただ、彼女がそのことのプライドを持っていなければ最悪の事態は免れたのかも知れないと思える。
通常の演出なら星条旗のあるべき場所に桜の木があるということは、彼女がアメリカや帝国主義に裏切られたのではなく、日本では美徳とされている精神によって殺されたことを表していると取ることも出来る。潔く散るのをよしとする国でなかったならということである。今回の蝶々さんはピョンピョン跳ぶなど十代相応の幼さが表われているのも特徴であり、若さが招いた悲劇ともいえる。

ラストでは、自らの胸を刺した蝶々さんにピンカートンが抱きつき、蝶々さんが息子がケイトに懐いたのを見て安心しながらピンカートンに口づけしつつ息絶えるという演出がなされている。息子とケイト、そしてそれを見守るスズキの姿は、おそらくいまわの際の蝶々さんが見た幻覚であり希望なのだろう。


ピンカートン役のマッシミリアーノ・ピサピアは、朗々とよく響く歌唱を披露。日本人歌手とは体格や肺活量が違うということも大きいと思われる。

タイトルロールの藤井康子は、良く変わる表情と細やかな表現が魅力的であった。

その他の出演者では、バカ殿ような格好をしたヤマドリ役の萩原泰介が面白く、スズキを演じた糀谷栄里子の丁寧な心理描写も秀でていた。



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2018年11月 5日 (月)

コンサートの記(448) 平成30年度 新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室・関西公演 モーツァルト 歌劇「魔笛」

2018年10月29日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後1時から、ロームシアター京都メインホールで、平成30年度 新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室・関西公演 「魔笛」を観る。

今年で3年連続となるロームシアター京都メインホールでの高校生のためのオペラ鑑賞教室・関西公演。今年は29日の公演の4階席のみ一般向け前売り券が発売されたため行ってみた。4階席ということもあって舞台が見えやすくはないが、チケット料金は全体的に安い。


今年はオペラ史上最高のヒット作といえる、モーツァルトの「魔笛」が上演される。もともとはアン・デア・ウィーン劇場の劇場主となったシカネイダー脚本のジングシュピール(音楽劇)として書かれたものであるが、現在は歌劇「魔笛」という表記と認識が一般的である。絵本の中の世界のような作品展開と、モーツァルトの魔術のような音楽は今も世界中の人々を魅了し続けている。

東京・初台の新国立劇場オペラの新作プログラムとして上演された公演の関西引っ越し版。指揮者とオーケストラは変更になり、園田隆一郎指揮の京都市交響楽団がオーケストラピットに入る。演出は南アフリカ出身のウィリアム・ケイトリッジ。再演演出は澤田康子が担当する。
出演は、長谷川顕(はせがわ・あきら。ザラストロ)、鈴木准(タミーノ)、成田眞(なりた・まこと。弁者・僧侶Ⅰ・武士Ⅱ)、秋谷直之(あきたに・なおゆき。僧侶Ⅱ・武士Ⅰ)、安井陽子(夜の女王)、林正子(パミーナ)、増田のり子(侍女Ⅰ)、小泉詠子(侍女Ⅱ)、山下牧子(侍女Ⅲ)、前川依子(童子Ⅰ)、野田千恵子(童子Ⅱ)、花房英里子(はなふさ・えりこ。童子Ⅲ)、九嶋香奈枝(パパゲーナ)、吉川健一(パパゲーノ)、升島唯博(ますじま・ただひろ。モノスタトス)。
合唱は新国立劇場合唱団。


ドローイングの映像を全編に渡って使用したことで話題となった演出である。


園田隆一郎は、びわ湖ホール中ホールで大阪交響楽団との上演である「ドン・ジョヴァンニ」を指揮したばかりだが、今回もモーツァルトのオペラということでピリオド・アプローチを採用。音を適度に切って演奏する弦楽と、硬めの音によるティンパニの強打が特徴である。また今回は雷鳴などを効果音を流すのではなく、鉄板を揺らすことで出している。
ピアノが多用されるのも印象的で(ピアノ演奏:小埜寺美樹)、オーケストラ演奏の前に、アップライトピアノの独奏が入ることが多い。

メインホールの4階席では、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場の引っ越し公演であるチャイコフスキーの歌劇「エフゲニー・オネーギン」を観ており、独特の艶のあるオーケストラの響きに感心したものだが、それはオペラ経験豊かなゲルギエフとマリインスキーだからこそ聴けた音で、今日の京響の場合は音の密度がやや薄めに聞こえる。4階席は反響板のすぐ近くにあるため、舞台から遠いが音自体はよく聞こえるはずであり、これが現時点の京響のオペラでの実力ということになるのだろう。

序曲の演奏が始まると、紗幕に光の線が映り始める。紗幕はたまに透けて、三人の侍女がストップモーションで立っているのが見え、絵画的な効果を上げている。

数段になった舞台を使用し、前から2段目にはベルトコンベアが搭載されていて、上に乗った歌手などが運ばれるのだが、モーター音が少し気になる。

冒頭に出てくる蛇は、腕の影絵で表される。

ドローイングを使うことで、光と影の対比がなされたと話題になった公演であるが、そもそもが光と影の対比を描いた台本であるため、それを視覚面でも表現する必要があるのかどうかは意見が分かれるだろう。

視覚面では、光と影よりもむしろ火と水の対比がわかりやすく表現されていたように思う。この作品中で最も有名なアリアである夜の女王の「復讐の心は炎と燃え」で代表されるように、夜の女王側の人々は火のように燃えさかる心を持っている。ザラストロ側の人々は水のように平穏で豊かな心でもって火を鎮めるというのが一応の筋書きである(拝火思想の「ゾロアスター」とは対照的だ)。火は揺らめく影絵で効果的に、また水はドローイングと録音された水滴の音によってはっきりとわかるように表されている。ただ、日本のように水害の多い国では水が脅威であることは知られており、東日本大震災では映像に捉えられた津波の恐怖が世界中で話題になっている。ということで、水だから安全というわけではない。

もう一つは音楽の言葉に対する優位が挙げられる。実際、三人の侍女が魔法の笛を「宝石よりも大事」と歌い、タミーノ王子とパパゲーノは魔法の笛と三人の童子の歌声によってザラストロの城にたどり着くことが出来ている。タミーノとパミーナは笛が奏でる音楽によって恋路へと導かれ、パパゲーノも音楽の鳴る鈴によってパパゲーナと再会を果たした。
一方で、夜の女王の繰り出す言葉の数々はザラストロによって否定的に語られ、ザラストロの言葉もまた胡散臭く見えるよう演出がなされている。タミーノが吹く笛の音にサイの映像はウキウキと踊り出すが、ザラストロの語る言葉の背景に映るサイは悲惨な目に遭うのである。

不満だったのは夜の女王と三人の侍女、モノスタトスの最期で、余りにもあっさりとやられてベルトコンベアで運ばれてしまうためギャグのようにしか見えず、引いてはその存在自体が軽く見えてしまう。もうちょっとなんとかならんのか。

歌手陣は充実している。パミーナ役の林正子はパミーナよりも夜の女王が似合いそうな存在感だが、解釈としても元々そうした役と捉えられていたようであり、世間知らずの可憐なお嬢さんというより「夜の女王の娘」であるという事実に重きが置かれていたように見える。
ムーア人のモノスタトスを演じた升島唯博は、外見で差別される存在であることのやるせなさを上手く演じていたように思う。



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2018年10月30日 (火)

観劇感想精選(263) 宮本亜門演出「三文オペラ」

2009年5月4日 大阪厚生年金会館芸術ホールにて観劇

午後5時より、大阪厚生年金会館芸術ホールにて「三文オペラ」を観劇。作:ベルトルト・ブレヒト、テキスト日本語訳:酒寄進一、音楽:クルト・ワイル(ヴァイル)、音楽監督:内橋和久、演出:宮本亜門、主演&訳詞:三上博史。出演は他に、安倍なつみ、秋山菜津子、松田美由紀、明星真由美、米良美一、田口トモロヲ、デーモン小暮閣下など。

「三文オペラ」は、一昨年に白井晃演出のものを観ており、更に昨年には「三文オペラ」の原作である、ジョン・ゲイの「乞食オペラ」も観ているので、それとの比較になる。

まず、音楽はアンプを使った大音量の生演奏で、いかにもエレキな感じ。
舞台装置はベニヤ板を使った巨大ボードがスクリーン代わりに使われたり(客席の映像やアニメーションなどが投射された)、幕の代わりになったりと効果的に用いられている。

主な登場人物は、デーモン小暮閣下は勿論、全員顔を白塗りにして登場、役者のイメージの切り離しを行う。また、出番を待っている役者を舞台端に、客席から見えるように座らせているのも、劇と舞台とを切り離す効果を狙っているようだ。

白井晃演出の「三文オペラ」に比べると、ブレヒトの戯曲本来の泥臭さがそのまま生かされており、解釈そのものはオーソドックスだ。

安倍なつみやデーモン小暮閣下といったプロの歌手陣の歌は流石の出来。安倍なつみはちょっと頭の足りない娘としてポリーを演じており、予想以上の好演である。

口上役として客席に話しかけるという米良美一の役割の与え方も効果的で、客席を告発するかのような戯曲のどぎつさを中和させることに成功しており、全体として見応えのある舞台になっていた。

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