カテゴリー「オペラ」の38件の記事

2017年9月30日 (土)

グリコ パナップ CM 「魔笛」より“パパパの二重唱”

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コンサートの記(320) 春秋座オペラ「魔笛」

2017年9月24日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、歌劇「魔笛」を観る。モーツァルト最後のオペラにしてオペラ史上最も人気のある作品(もともとはジングシュピール=音楽劇である)。人気作だけに観る機会も多い。
モーツァルトの三大オペラは、「魔笛」、「フィガロの結婚」と「ドン・ジョヴァンニ」であるが、心理劇である「ドン・ジョヴァンニ」は「魔笛」や「フィガロの結婚」に比べると上演機会が少なく、私はまだ生で観たことがない。ということを開演前に公演プロデューサーの橘市郎氏と話す。
指揮は大勝秀也(おおかつ・しゅうや)、上演台本・演出は三浦安浩。今日の出演は、片桐直樹、根本滋、服部英生、原田幸子(はらだ・さちこ)、高嶋優羽(たかしま・ゆは)、三輪千賀、畠中海央(はたなか・みお)、糀谷栄里子(こうじたに・えりこ)、内田真由、松井るみ、土岐真弓、森井美貴、萩原次己(はぎはら・つぐみ)、大淵基丘(おおふち・もとく)、山内政幸、田中大揮ほか。公演監督:松山郁雄(歌手としては松山いくお名義で昨日出演)。
演奏:ミラマーレ室内合奏団(弦楽六重奏+エレクトーン2台、フルート。ティンパニ)、合唱:ミラマーレ合唱団。日本語訳による歌唱と演技での上演である。

毎年恒例の春秋座オペラ。今回も花道や回り舞台を駆使した演出が行われる。

指揮の大勝秀也は1961年東京生まれ。東京音楽大学卒業。1988年に渡独し、ベートーヴェンの生まれた街にあるボン市立歌劇場でアシスタントとなってオペラ指揮者としての道を歩み始め、ボン市立歌劇場とゲルゼンキルヒェン市立歌劇場の第一指揮者に昇格。その後、スウェーデンのマルメ歌劇場の音楽監督に就任し、日本でもザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の正指揮者になるなどオペラ畑を歩み続けている指揮者である。
1998年6月のNHK交響楽団C定期演奏会に登場。この時はA定期を大植英次が、B定期を上岡敏之が指揮しており、「N響が若い指揮者を正指揮者候補として試したのではないか」と噂された。結果としては3人とも不合格となったようで客演は続かなかったが、この時すでにN響も注目する指揮者の一人だったのは間違いない。

大勝は、ピリオド・アプローチを採用。ティンパニが硬い音を出し(幕間に確認したがバロックティンパニではなかった)、弦楽がビブラートを抑えた響きを奏でる。キビキビとした音運びであり、大勝の確固とした才能が感じられる。私の席からは指揮姿もよく見えたが、棒はとても上手い。

序曲が始まると同時に緞帳が開き、タミーノ(根本滋)が花道から登場する。タミーノはプレーヤーにレコードを音楽を聴きながら眠りに落ちる。すると三人の童子(本当に子供をキャスティングする場合もあるが、今回は、三輪千賀、畠中海央、糀谷栄里子という三人の成人女性が務める)が踊りながら現れ、ファンタジックな雰囲気を作る。

「光と闇」、「男と女」、「知と情」などの二項対立が描かれる「魔笛」であるが、今回は春秋座での上演ということで、舞台装置も「春と秋」の風景を描いているようである。舞台が緑色に塗られた時が春、木目そのままで棒を束ねた薄のようなものが立っている時が秋である。基本的に色恋ごとは春のセットで起こり、ザラストロが主役の場面は秋のセットとなる(舞台美術:柴田隆弘)。春は「若さ、情」であり、秋は「老いと知」である。こういう構図にするとパパゲーナがなぜ初登場時には老婆の格好をしていたのかわかるような気がするし、ザラストロが全面肯定されているわけではないことも伝わってくる。

日本語訳されたテキストによる歌唱と演技であるが、やはり日本人歌手が日本語で上演するのは難しいようで、「そう書いてあるんだから」と書いたとおりに台詞を読み上げてしまう歌手もいる。歌唱と演技両方を求めるのは酷かも知れないが、もっと頑張って欲しいとも思う。勿論、ちゃんと出来る人や上手い人もいるのだが。

日本語という言語は一音が一音でしかないため歌に乗りにくい。西洋の言語は一音に複数の単語を含ませることが可能だし、東洋でも中国語などは一音一意味であるため歌唱が聴き取りやすい。日本語の歌唱だとどうしても内容がわかりにくくなってしまう。ただ、歌詞が多少わからなくても支障はない上演にはなっていた。

ラストの合唱には夜の女王と三人の侍女達も参加。分け隔てのない結末を迎え、「旅の終わりは恋人達の巡り会い」(シェイクスピア 「十二夜」)で幕となる。

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2017年4月 6日 (木)

コンサートの記(290) 木下牧子作曲 オペラ「不思議の国のアリス」(演奏会形式)

2017年3月25日 びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール声楽アンサンブル第63回定期公演 木下牧子作曲 オペラ「不思議の国のアリス」を観る。原作:ルイス・キャロル、台本:高橋英郎&木下牧子。
 
2015年に岐阜のサマランカホールの委嘱によって作曲家自身が編曲した八重奏編成による演奏会形式の上演であるが、指揮者とオーケストラが舞台の上に上がっているというだけで、他は、衣装、セット、小道具、照明、映像などを用いた本格的な上演である。指揮は大井剛史(おおい・たけし)、演出は岩田達宗(いわた・たつじ)。演奏はザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団のメンバーで、ヴァイオリン・赤松由夏、ヴィオラ・上野亮子、チェロ・山岸孝教、フルート・江戸聖一郞、クラリネット・松尾依子、ホルン・西陽子、打楽器・安永早絵子、ピアノ・岡本佐紀子。
出演は、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーで、飯嶋幸子(いいじま・ゆきこ)、平尾悠(ひらお・はるか)、藤村江李奈、砂場拓也、林隆史、船越亜弥、山際きみ佳、古屋彰久、増田貴寛、五島真澄(男性)、川野貴之、内山建人、鈴木望(すずき・のぞみ)、本田華奈子、島影聖人(しまかげ・きよひと)、吉川秋穂ほか。

指揮者の大井剛史は、私と同じ1974年生まれ。昨年まで私の故郷にあるニューフィルハーモニーオーケストラ千葉(現・千葉交響楽団)の音楽監督を務めていたが、私はずっと京都にいたので、大井の実演に接するのは初めてである。
大井は17歳の時から松尾葉子に指揮を師事し、東京藝術大学、同大学院を修了。若杉弘と岩城宏之にも師事した。2008年にアントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで2位入賞。現在は山形交響楽団の正指揮者と東京佼成ウインドオーケストラの正指揮者を務めている。
オペラ「不思議の国のアリス」の初演でタクトを執ったのも大井である。


木下牧子は、日本作曲家界の中堅世代を代表する作曲家の一人。このオペラ「不思議の国のアリス」で2003年に三菱UFJ信託音楽賞奨励賞を受賞している。
東京藝術大学、同大学院を首席で修了。現代音楽の作曲家でも、映画音楽などの劇伴やポピュラー音楽を手掛ける人は多いが、木下はクラシック系の音楽のみで勝負するという、今では珍しいタイプの作曲家である。
ホワイエで開場を待っている時にも木下は姿を見せていたが、カーテンコールでは客席(私の席のすぐそばに座っていた)からステージ上に呼ばれて喝采を受けた。


舞台は2段になっているが、2段目は平台程度の奥行きしかなく(実際に平台を重ねたものだと思われる)、後ろ側にも降りられるようになっている。平台舞台の上手と下手に3段の階段がある。背後にはホリゾント幕(スクリーン)が下りていて、ここに日本語字幕や映像が投影される。投影される映像は、写真、CGなど多岐にわたる。


指揮者が立つと視覚的に問題が発生するため、大井は常に椅子に腰掛けての指揮である。端正で拍をきちんと刻むタイプの動きをする。

木下の音楽は、「大人から子供まで楽しめる、遊び心に満ちた日本語オペラ」を作るというテーマを掲げていた高橋英郎の委嘱で描かれた作品ということもあり、メロディアスで明快であるが、やはり現代音楽の作曲家であるため、時折、不協和音や鋭い響きが飛び出す。三拍子系の音楽が要所要所で用いられているのも特徴。


びわ湖ホール中ホールは基本的に演劇向けのホールであり、室内楽編成のオーケストラ演奏にもオペラにも適した音響とはいえない。八重奏の編成では音が小さく聞こえるのに、合唱が大音声を発すると、天井や壁がガタガタいう。


序曲に続き、舞台下手からアリス役の飯嶋幸子が飛び出してきてスタート。舞台前方からは客席に下りられるようになっていて、下手の階段を飯嶋幸子と、ウサギ役の藤村江李奈が用いて、中央通路を通って入退場を行った。

ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」であるが、かなりカオスな物語である上に、ラストは夢オチということで、知名度は高いが内容は余り知られていなかったりする。木下牧子も、ディズニー映画などでわかったつもりになっていたが、作曲のために文庫本で「不思議の国のアリス」を読んでみても良さがサッパリわからなかったそうで、3~4種類の日本語訳を読み比べたり、イギリス史や哲学などで背景を探ろうとしても無理だったのであるが、英語の原文で読んだら「すぐに理解でき」たそうである。英語で読まないと本当の良さがわからない本なのかも知れない。一応、日本語訳テキストでもメタレベルにまで落とし込んで、「マジックリアリズム」として解釈すれば面白いのだが、それは知的な面白さであり、ファンタジーとしての面白さとは別だと思われる。
背が高くなったり低くなったりを人間の成長の隠喩と取ったり、暴君そのものの女王を他のものに見立てたりは出来る。今は丁度、トランプという人が出てきているし。
ドードーの指示で行う体を乾かすための「ぐるぐる競争」や女王主催のクロッケー大会も、村上春樹が「回転木馬のデッドヒート」と表現した現代社会の模写のようにも見える。現代は、物語の中よりもリアルな世界の方が「不思議の国」に近くなっている。

オペラで「不思議の国のアリス」をやろうというのも困難である。アリスの体が大きくなったり小さくなったりを表現するのは舞台では難しいし(今回は写真を投影することで処理していた)、人間でないものが多く登場するので色物になりやすい。また、意味のわからないセリフが沢山出てくるため、観ている方の混乱を誘う可能性がある。

原作とは違い、青虫を百合の花(百合の花の演じるのは平尾悠。アリスの姉との二役である)に変えたり、容疑者として登場して一言しか発しないジャック(演じるのは古屋彰久)をアリスを誘う色男に変えたりして、物語を進めやすくしている。青虫が出てきたら本当に色物になってしまう。
帽子屋(増田貴寛)の歌は、「キラキラ星」のメロディーを意図的に崩して音痴に聞こえるようにしたもので、これは帽子屋の主題にもなっている。
鳥は複数のキャストが演じるのだが、団扇を両手に持って羽ばたくことで処理し、クロッケー大会の時には、原作にあるフラミンゴではなく掃除用具などを手にすることで過度にはみ出さないよう注意が払われている。

岩田達宗は、歌劇「ラ・ボエーム」や新作オペラ「夜叉ヶ池」で歌舞伎の手法を用いており、「意図してやっているのかどうか」を以前、岩田さんに聞いたことがあるのだが、どうも岩田さんが奥さんの影響で無意識にやっているようである。今回の「不思議の国のアリス」でも涙で起こった洪水を幕で表すという、歌舞伎でよく用いられる手法が取り込まれていた。

言葉遊びの場面は、原作を舞台に置き換えるのは難しいため、公爵夫人の茶会で「歌遊び」をするという設定で、公爵夫人が自身の「公」という頭文字に掛けて「コートダジュールに住みたい」と歌い、ジャックが「ジャマイカに住みたい」と歌い、アリスが「アイルランドに住みたい」と歌った後で、帽子屋が「ボートに住みたい」と歌って大滑りするという愉快なシーンになっている。帽子屋はこのオペラでは道化的存在として扱われているようだ。


日本人が日本語のオペラを上演する場合にネックとなるのはやはり演技力である。外国語で歌ったり演技をしている場合は、こちらが外国語に詳しくないということもあり、演技のレベルはわからない。ただ、日本語による歌唱や演技は当然ながらよくわかるのである。そもそも日本語オペラの場合は歴史が浅いため、指針がまだ定まっていないということもある。
日本の一流の舞台俳優と比べるのは酷だろうが、「酷」と思ってしまうのが現状でもある。

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2017年3月28日 (火)

コンサートの記(287) 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXV 歌劇「カルメン」京都

2017年3月22日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後6時30分から、左京区岡崎にあるロームシアター京都メインホールで、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXV 歌劇「カルメン」を観る。作曲:ジョルジュ・ビゼー、アルコア版での上演。指揮は小澤征爾と村上寿昭(むらかみ・としあき)の二人による振り分け。演奏は小澤征爾音楽塾オーケストラ。演出:デイヴィッド・ニース。出演は、サンドラ・ピクス・エディ(カルメン)、チャド・シェルトン(ドン・ホセ)、ケイトリン・リンチ(ミカエラ)、ボアズ・ダニエル(エスカミーリョ)、サシャ・ディハニアン(フラスキータ)、アレクサンドラ・ロドリック(メルセデス)、河野鉄平(こうの・てっぺい。ズニガ)、タイラー・ダンカン(モラレス)、町英和(ダンカイロ)、大槻孝志(レメンダード)ほか。合唱:小澤征爾音楽塾合唱団(合唱指揮:松下京介)、児童合唱:京都市少年合唱団、振付:サラ・エルデ。
シカゴ・リリック・オペラのプロジェクトによる上演である。

約8年ぶりに接することとなる小澤征爾指揮の実演。その間に小澤は癌を患い、克服したものの、一晩を通したプログラムを演奏する体力がどうしても戻らないため、今回も村上寿昭との二人体制での指揮となった。
なお今年の夏に松本市で行われるセイジ・オザワ松本フェスティバルの公式プログラムが発表になったが、小澤が指揮するのはベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番とピアノ協奏曲第3番(ピアノ:内田光子)のみであり、他のプログラムはファビオ・ルイージ、ナタリー・シュトゥッツマン、デリック・イノウエが指揮する。

小澤征爾音楽塾が京都で行われるのは今回が2回目。昨年の第1回はヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」が上演され、今年は「カルメン」である。日本はプログラムが重複する傾向があり、京都でも昨年の暮れに京都芸術劇場春秋座で室内オペラスタイルの「カルメン」が上演されたばかり。更に今年に入ってから山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団ほかによる藤原歌劇団の「カルメン」も東京と名古屋で上演されたが、小澤征爾音楽塾による「カルメン」も今後、東京と名古屋で上演される予定である。


ロームシアター京都メインホールでオペラを観るのは今日で3回目。過去2回ともオペラハウスとしての優秀な音響に感心したが、今回も同様で、音に限れば日本最高のオペラハウスであると断言出来る。
今日は2階下手側のバルコニー席2列目での鑑賞。例によって、足置きの着いた、高い位置にある席であったが、今日はなんとか体力が持った。

今日の席からは、オーケストラピット内も指揮者もよく見えるし、舞台も比較的見やすい。また字幕を表示する機械(G・マークというらしい)も上手のものが真正面で、見やすかった。
また、トランペットによる舞台裏でのバンダ演奏があるのだが、私の席から調光室を見ると、指揮者を正面から捉えたカメラ映像が見えたため、モニターを見てバンダ演奏をしていることがわかった(音を外したりタイミングが合わなかったりと、今日のバンダ演奏は不調であったが)。

譜面台と総譜が2つ並んで用意されており、上手のものを小澤が、下手のものを村上が使用する。二人ともノンタクトでの指揮。小澤は近年はノンタクトでの指揮が基本だが、村上に関しては不明である。一人が指揮棒を使い、もう一人が使わないではオーケストラも歌手もやりにくいだろし、すぐ横に小澤がいるのに指揮棒を使うのは危険でもある。


小澤征爾についての説明は不要だと思うが、一応しておくと、1935年に旧満州国の奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)生まれの指揮者。成城学園高校を中退して桐朋女子高校音楽科(共学)に第1期生として入学。桐朋学園短期大学で齊藤秀雄に指揮を師事した後、船に乗って渡欧。たまたま知ったブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して名を挙げ、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮セミナーを受講後、レナード・バーンスタインに指揮を師事。20世紀後半を代表する二大指揮者に師事するという幸運に恵まれたが、そのため「ヘルベルト・バーンスタイン」などとからかわれることもあったそうである。タングルウッド音楽祭ではオーディションを勝ち抜いてシャルル・ミュンシュに師事している。レナード・バーンスタインの下でニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者を務め、日本に凱旋帰国も果たした。
日本では1961年にNHK交響楽団の指揮者に任命されるが、N響事件によって指揮台を追われ、国外に活動の場を求めるようになる(日本ではその後も「日フィル争議」に巻き込まれ、新日本フィルハーモニー交響楽団を設立している)。まずトロント交響楽団の首席指揮者を務め、その後、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に転身。そしてかつてシャルル・ミュンシュが黄金時代を築き、レナード・バーンスタインがタングルウッドで指揮していたボストン交響楽団の音楽監督を29年の長きに渡って務めて「世界のオザワ」の名声を確固たるものにする。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも共演多数。指揮者として小澤よりも先にデビューしていた岩城宏之は、小澤のあまりの出世ぶりに、「小澤を殺してやりたくなった」と自著で告白している。
2002年からはウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。


村上寿昭は、私と同じ1974年生まれの指揮者である。東京生まれ。桐朋学園大学卒業後、ベルリンとウィーンに留学し、オーストリアのリンツ州立歌劇場やドイツのハノーファー国立歌劇場の常任指揮者として活躍したほか、長年に渡って小澤征爾のオペラ公演のアシスタントを務めており、今回の小澤征爾音楽塾でも小澤と二人での振り分けを担うことになった。

小澤征爾音楽塾は今年で15回目を迎える音楽アカデミーで、メンバーは日本を含むアジア各国からオーディションを勝ち抜いた優秀な若者によって構成されている。毎年のようにオペラ公演を行っているが、時折、オーケストラ演奏のみの年もある。

小澤征爾は、ジェシー・ノーマンのカルメンで、歌劇「カルメン」全曲をフィリップスにレコーディングしているが、私は未聴。EMIにフランス国立管弦楽団を指揮した「カルメン」組曲もレコーディングしているが、こちらは歴代屈指の出来といっても過言ではなく、小澤のフランス音楽への適性を示している。

前奏曲であるが、フランス国立管とレコーディングしたものに比べるとグッとテンポが遅くなっており、強弱の付け方もそれほど頻繁ではない。指揮者は高齢になるに従ってテンポが遅くなるのが恒例だが、小澤の場合もそうなのかどうかはよくわからない。コンサート用とオペラ用の演奏が異なるのは当然であるし、会場にも左右される。

「闘牛士」の前奏曲が終わり、前奏曲の後半が始まると幕が上がり、壁を背にドン・ホセが立っているのがわかる。ライフルを担いだ憲兵が数名現れ、ドン・ホセを取り囲む。ドン・ホセの処刑のシーンであることがわかる。佐渡裕が指揮した兵庫県立芸術文化センター大ホールでの「カルメン」でも、ドン・ホセ処刑のシーンがあり(その時は電気椅子での処刑だった)、ドン・ホセのラストを描く演出が流行であるようだ。

小澤は、煙草工場の休憩時間に入るところまでを指揮して村上にバトンタッチ。同じオーケストラを指揮しているのであるが、小澤と村上とではやはり個性が違う。小澤の生み出す音楽が輝きを特徴にしているのに対して、村上の音楽は渋めでタイトだ。同じ製菓会社のミルクチョコレートとビターチョコレートのような関係というべきか。
小澤はフルートやピッコロを浮かび上がらせる術に長けており、前奏曲や間奏曲ではフルートの浮遊感や旋律美が光っていた。第4幕に出てくるオーケストラによる「闘牛士」は村上が指揮したのだが、小澤とは違い、フルートやピッコロを際立たせることはなかった。
ミカエラが去った後からは小澤が再び指揮を行った。

舞台は、第1幕、第2幕、第4幕では背後にコロシアムの壁が立っており、上部にも人が現れて効果的に用いられる。
第1幕では煙草工場は下手に設けられたバルコニーの袖にあるという設定であり、カルメンはバルコニーに現れて下に降りてくる。
「降りる」というのが一つのキーになっており、エスカミーリョはコロシアムの壁の上に現れて、階段を伝って下に降りてくるし、刑期を終えたドン・ホセもコロシアムの壁の上から素舞台へと階段で降りてくる。どうも、下にあるのは「醜い世界」であり、人々はそこに降りてくるようだ。

ミカエラというと、カルメンとは対照的な清楚な女性というイメージなのだが、今回のミカエラは、ステップを踏みつつ迫ってくるズニガに同じステップでやり返すなど、強気な面もある女性として描かれている。確かに強気な面がなければ、一人で盗賊団の群れに乗り込もうとは思うまい。ミカエラ役のケイトリン・リンチは少し太めの体型だが、そのために弱々しさが表に出ないという利点もある。

ドン・ホセがミカエラとキスするのをカルメンはテラスの上から見ている。ということで、今回の演出ではカルメンがホセに近づくために意図的に暴力事件を起こしたという解釈が取られていることがわかるようになっている。
カルメンが逃げるときも、ジプシーの盗賊団仲間がズニガに拳銃を向けて動けないようにするという演出が施されている。

第2幕では、まず村上が指揮。舞台左手には小さなステージが設けられ、フラメンコダンサーが踊っている。ギター奏者役の男性も二人いるがギター演奏はしておらず、ハープの音に合わせて弾く真似だけをしている。
エスカミーリョが去るまで村上が指揮して小澤にバトンタッチ。小澤はドン・ホセが再び現れるところまで指揮して、後は2幕の終わりまで村上に指揮を託した。

小澤征爾音楽塾オーケストラであるが、臨時編成であるため、統率力という意味では常設のプロ団体には及ばないが、音色は美しく、腕も立つ。

カルメン役のサンドラ・ピクス・エディは、第2幕ではフラメンコダンサー達に混じって自身もフラメンコを舞うなど、妖艶な雰囲気を醸し出している。その姿は、恋に生きる女そのものだ。ある意味、文学的解釈を廃した、純粋な「本能としての女」を炙り出しているようにも見える。

第3幕は小澤の指揮でスタートし、歌のナンバーごとに指揮を交代するというスタイルを取る。第3幕のみコロシアムの壁は登場せず、巨大な岩のオブジェが配されて、岩山が表現されていた。

装置転換のために幕を下ろした状態で少し待ってから第4幕がスタート。前半を村上が指揮し、カルメンとホセの二人だけの場面になってからラストまでは小澤が指揮した。
大合唱による場面はほぼ全て村上に任せられており、オペラ指揮者としての村上の腕を小澤が買ったものと推測される。ロームシアター京都メインホールは残響は長くないため、合唱が大音量で歌っても壁がギシギシいうということはほとんどない。

袖で聞こえる合唱の声がカルメンには希望に、ホセには絶望に聞こえるという場面。カルメン役のサンドラ・ピクス・エディもドン・ホセ役のチャド・シェルトンも演技が上手く、心の葛藤を上手く描き出す。エディ演じるカルメンはホセを臆病者だと信じ切っており、「刺せるものなら刺してみなさい」と仕草で挑発する。そのことが実際に刺されたときの驚きの表情をより効果的なものとしている。

ホセが、「俺を殺せ!」と歌うと、ライフルを担いだ憲兵達が現れ、前奏曲後半の場面が繰り返される。銃声の轟きが全編の幕となった。

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2017年3月26日 (日)

コンサートの記(286) ザ・カレッジ・オペラハウス ブリテン 歌劇「ねじの回転」2011楽日

2011年10月16日 大阪府・豊中市のザ・カレッジ・オペラハウスにて

午後2時から、大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスでベンジャミン・ブリテンの歌劇「ねじの回転」を再度観る。

ベンジャミン・ブリテンの歌劇「ねじの回転」。私はある理由で2階上手通路席を選択した。事前に掛けた電話ではチケットが取れるかどうかわからないとのことだったが、行ってみると、ちゃんとその席は確保されていた。

「ねじの回転」は一昨日も観たので、キャストや筋書きなどは割愛させて頂く。

一つ、前回は気づかなかったが、今日はわかったことがある。マイルズが歌う歌詞の中に「リンゴの木」というものが出てくる。前回は気に留めなかったのだが、今日は、「ああ、これはエデンの園、つまりアダムとイヴの物語だ」ということに気がつく。なぜ前回気がつくことが出来なかったかというと「アダムとイヴが食べたのはリンゴというのは間違いで実はイチジクである」という知識があったからである。知識は邪魔にならないというのは嘘である。知識が邪魔して見えるはずのものが見えなくなることもあるのだ。しかし、今日気づけたのもやはり「以前はリンゴとされていた」という知識があったからで、やはりこれも知識のお陰である。知識は役立つことも邪魔になることもある両刃の剣(もろはのつるぎ)である。

これがわかってしまうと、実はほとんどの謎が解ける。女家庭教師が「私は無垢を汚してしまった」と語るのは教育を施したという意味であり、なぜグロース夫人が亡霊を見ることが出来ないかというと、グロース夫人は教育を受けていないので、教養がある人なら見えていることが見えていないのである。

「リンゴの木」がエデンの園のことだとわかれば、この物語の主題が見えてくるが、その知識がなければ、主題は絶対に見えない。

主題は知性である。悪より悪なものは「知性」である。知性は人を利口にするが、狡猾にもさせる。荀子は性悪説をとなえ、教育によって善に向かうとしているがそれは本当だろうか? 話は変わるが、日本が日清戦争に勝利して台湾を領土にしたとき、台湾の住民に教育を与えるかどうかで、政府の意見は二分している。その時、「教育は両刃の剣」という言葉が使われたこともわかっている。

マイルズは実に頭の良い子供で、女家庭教師が秘密にしていたことも見抜いていて、鎌を掛けてくる。おそらく学校で悪さをしたことは本当で、それが退学処分に値するものであるということも、幼いのに分かっているのだろう。

女家庭教師にはそれまで亡霊が見えていたのにラストで急に亡霊の姿を見失うのは、マイルズへの「愛は盲目」状態になったからだろう。ただ、マイルズを救おうという知性は働いており、これがマイルズの思考を引き裂き、死に追いやったという可能性も考えられる。

頭の良い人は成功しやすいが、不幸にもなりやすいことがわかっている。「知らぬが仏」という諺もある。

ここで、発せられてはいないメッセージが私に届く。「さて、わかってしまったあなた、あなたはそれでいいのですか?」という言葉である。確かに知的に分析して面白いオペラではあるが、主題が分からずに「難解だけど怖かったね」という感想を持った方が遥かに楽しいはずである。

ただ、知性や教育の怖さは知ってはいる。現在では、勤勉であること真面目であることは当然ながら「善」とされている。何の疑問も持つ必要がないかのように思われるが、実は勤勉や真面目が「善」とされたのは産業革命以降のことで、教育によって民衆に教え込まれたことである。実は民衆を労働力として使うために洗脳する必要があったために生まれた価値観なのだ。
江戸時代には日本は世界に冠たる文化大国であり、浮世絵などがフランス絵画に影響を与えた(ラ・ジャポニズム)。しかし、明治以降は一気に文化後進国になってしまった。「富国強兵」が国策になったからである。江戸時代は商人に仕える丁稚でも「あそこの店の丁稚はろくな教養がない」と言われるのを主が嫌い、業務中であっても、当時の教養であった「笛や太鼓の稽古に行け」と主が丁稚に命じたほど文化が重視されたことがわかっており、歌舞伎の大向こうに陣取るのは仕事よりも歌舞伎を優先させる商家の主が多かったことが確認されている。

それが一気に変わる。文化よりも経済や軍事が優先。それが「当たり前のこと」と教育により洗脳される。戦後も、「まず経済を建て直そう」と文化は等閑視され、経済を建て直すための優秀なサラリーマンを増やすのが良いため、「良い高校から良い大学に行って、良い会社に入ること」が善いことだとされ、実際、そういう風に生きるのが一番楽である。そういう社会にしたのだから当然なのであるが、実はこれは落とし穴なのではないのか? 頭が良いことは本当に善いことなのか? それが「当たり前」と思うのは洗脳されたからではないのか? 重要なのは頭が良かったり高学歴であったり高収入であることではなく、幸せは本来は自分で見つけるべきものであることなのに、あたかも絶対的な「幸せ」があるように思い込まされて、思考を停止させていないか? 日本は経済大国であっても文化三流国なので実は先進国とは本当は見なされていないという話も聞く。

そうした考えが「ねじの回転」のように螺旋状にグルグル回りながら頭に突き刺さる。

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2017年3月25日 (土)

コンサートの記(285) ザ・カレッジ・オペラハウス ブリテン 歌劇「ねじの回転」2011初日

2011年10月14日 大阪府豊中市のザ・カレッジ・オペラハウスにて

午後6時30分より、大阪府豊中市にある大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウスで、ベンジャミン・ブリテンの歌劇「ねじの回転」を観る。原作:ヘンリー・ジェイムズ、指揮:十束尚宏(とつか・なおひろ)、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)、出演:井岡潤子(女家庭教師・主役)、植田加奈子(マイルズ)、高山景子(フローラ)、小西潤子(グロース夫人)、中川正崇(なかがわ・まさたか。クイント)、藤原未佳子(ミス・ジェスル)、柏原保典(かしわばら・やすのり。プロローグ語り手)。

昨日、ダニエル・ハーディング指揮の「ねじの回転」を観ているので、予習はばっちりである。

一番の注目は、ウィーンでのオペラ修行のため、長い間、日本楽壇から遠ざかっていた十束尚宏がどれだけ成長しているかであろう。

「ねじの回転」はホラー心理劇オペラである。

幕が開くと、紗幕があり、その前で語り手(柏原保典)が「これが奇妙な物語であること」「何十年も前に書かれた手記に基づくものであること」などを告げ、不気味さが増す。この手法はイギリスではよく取られるやり方で、例えばジュリエット・ビノシュ主演のイギリス映画「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ原作。音楽は坂本龍一である)でもエミリー・ブロンテが廃屋を訪れ、廃屋についての感想を語り(ナレーション形式のモノローグで画面上のエミリーが喋るわけではない)「嵐が丘」の着想を得るというシーンがプロローグ的に加えられている。小説「嵐が丘」を読んだことがない人にもこれからまがまがしい物語が始まることを知らせ、恐怖心を植え付ける工夫である。

ブリテンの音楽はDVDて聴いた時も優れていると思ったが、生で聴くと人間の心理の暗い部分をえぐり出すような不気味さが増し、明らかに天才作曲家のなせる技だとわかる。それを指揮する十束尚宏が生み出す演奏はシャープでエッジがキリリと立っている。伊達にウィーンで修行して来たわけではないことが確認出来た。

「ねじの回転」は、語り手によるプロローグの後で、女家庭教師(歌うのは井岡潤子。役名なし。原作が一人称で書かれたものだからだが、オペラ化に当たって役名が付けられることはなかった。ミュージカル「レベッカ」と同様である)がある若い紳士の依頼を受けて、ロンドン郊外のブライという田舎町に向かうところから始まる。紗幕に光が当たり、幕が透けて、列車に乗った女家庭教師の姿が見える。ここでのモノローグで、女家庭教師が依頼主に惹かれていることがわかる。

ブライの屋敷には家政婦のグロース夫人(小西潤子)と、二人の子供、つまりマイルズ(植田加奈子)とフローラ(高山景子)がいる。二人とも天使のような可愛らしさであり、マイルズは学校に通っていて学業優秀なのだが、ある日、学校から退学処分の手紙が届く。女家庭教師もグロース夫人も何かの間違いだろうと不問に付すのだが、これが実は鍵であることがわかる。この翻訳で女家庭教師は「無垢」という言葉を使い、二人の子供達を無垢だと信じ込んでおり、無垢こそが尊いと考えている節がある。だがこの上演ではマイルズが歌う歌詞の冒頭「ロト、ロト」に敢えて「悪、悪」という訳詞を入れて、どうやらマイルズが無垢な天使のようだというのは見せかけで、実は邪悪な人物なのではないかということがわかる。悪魔は元は天使が堕落した堕天使ということもある。学業優秀で退学処分になるということは実際はかなりのワルだと思われる。

このオペラには、クイント(中川正崇)とミス・ジュエル(藤原未加子)という邪悪な亡霊が現れて、一見すると、この二人の亡霊が子供達二人を悪の道へと引き込もうとしているかのように見える。が、実は逆なのではないだろうか。子供二人、特にマイルズの方が邪悪であるため、同類の亡霊を引き寄せたとも考えられる(第2幕冒頭で、二人とも「無垢なるものを手に入れたい」と歌うが、自分達がなぜここにいるのかは実はわかっていないようにも見える)。

舞台には不吉な感じのする赤い糸が垂れており、これが徐々に増えていくのだが、これはどうやら邪悪さを表しているのではないかと思われる。ラストでは主人公である女家庭教師の腰からも赤い糸は垂れる。太宰治は小説『斜陽』で「不良でない人間などいるだろうか」と書いているが、それに倣えば「邪悪でない人間などいるだろうか」ということになる。

ラストは、マイルズがクイントに「この悪魔」と言って事切れるのだが、これは悪魔に去れと言った場合、同類である自分も去らねばならないからだと思われる。いわば、自分の胸に向かって矢を射るようなもので、自殺行為である。荀子の性悪説などと言ってしまうと簡単だが、それよりも一段深く、「悪とは何か」を問いかけてくる佳作である。本も優れているが、ベンジャミン・ブリテンの音楽も人間心理を巧みに描写していて見事である。私は芸術の中では音楽が一番偉大だと思っている。他の芸術は心理を描く場合、何らかの媒体を必要とするが、音楽は心そのものを描くことが出来るからである。音楽は言葉と並ぶ人類の二大発明の一つだと私は思っている。

岩田達宗の演出で一番巧みだったのは亡霊であるミス・ジュエルの登場のさせ方。実はこれは予見出来た。というのも、劇場でレセプショニストが床にものを置いている観客に注意を促す場合は、必ず、役者がそこを通るからである。役者の足が引っかかって転倒事故が起きるのを防ぐためだ。劇場に何度も足を運んでいるとこれはわかる。
しかし、わかっていても実際に幽霊であるミス・ジュエルが目の前に現れるとゾクゾクする。本当に亡霊がいるように見えるからだ。
実はやはりイギリスの演劇でこの手法を用いた演出による舞台がある。種は明かせないので何という舞台かは書けないが、これはかなり効果的であった。私はその舞台を3度観たことがある(何だかやはり太宰治の『人間失格』の書き出しのようであるが)と書くと何という舞台かわかる人はいるかも知れない。

とまれかくまれ「ねじの回転」はデモーニッシュなオペラであり、指揮も演出も歌手達もよくそれを体現していたように思う。

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2017年3月10日 (金)

コンサートの記(279) ザ・カレッジ・オペラハウス 歌劇「鬼嫁恋首引」&「カーリュー・リヴァー」

2014年10月11日 ザ・カレッジオペラハウスにて

午後5時から、大阪府豊中市にあるザ・カレッジ・オペラハウスで、歌劇「鬼娘恋首引」と「カーリュー・リヴァー」を観る。

歌劇「鬼娘恋首引」は、鈴木英明の作曲により1980年に初演された比較的新しいオペラである。台本を書いたのは茂山千之丞であり、茂山は狂言「首引」を基にオペラのための本を書いている。上演時間約45分一幕物という短編である。

歌劇「カーリュー・リヴァー」はベンジャミン・ブリテン作曲のオペラ。能「隅田川」がベースとなっているということもあって日本でも知られている作品である。私がザ・カレッジ・オペラハウスまでやって来たのも「カーリュー・リヴァー」の実演を観たいという思いからだった。

ザ・カレッジ・オペラハウスは、大阪音楽大学のオペラハウスで、カレッジというのは大阪音楽大学の英語名が、Osaka College Of Musicであることに由来する。日本の大学の場合、単科大学であってもUniversityを名乗る場合が多いが、大阪音大は単科大学を意味するCollegeを使用している。

ザ・カレッジ・オペラハウスは専属のプロオーケストラ(ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団)と、専属のコーラスを持つ本格的な劇場であるが、キャパが狭いこと、オペラ公演数がそれほど多くないことに加え、京都造形芸術大学の京都芸術劇場もそうだが、日本では大学が持つ劇場はあくまで大学の施設として捉えられ、劇場として認められない傾向が強いため(京都芸術劇場の渡邊守章氏が語っていた)日本のオペラハウスにはカウントされていない。

ザ・カレッジ・オペラハウスは近年、ベンジャミン・ブリテンのオペラをたびたび取り上げており、2011年の歌劇「ねじの回転」(十束尚宏指揮、岩田達宗演出)では優れた出来を示していた。また、昨年の歌劇「ピーター・グライムズ」は私は高知に行っていたため観ることが出来なかったが高い評価を得ている。

大阪音楽大学とザ・カレッジ・オペラハウスがあるのは、豊中市の庄内という場所であるが、伊丹空港(大阪国際空港)が近いため、旅客機が低空飛行をしていて騒音も凄い。ただ流石というべきか、ザ・カレッジ・オペラハウスの中では旅客機の音は一切聞こえなかった。

 

歌劇「鬼娘恋首引」と歌劇「カーリュー・リヴァー」は、共に山下一史の指揮、井原広樹の演出で上演される。

「鬼娘恋首引」の出演は、川口りな(番茶姫役)、中川正崇(なかがわ・まさたか。伊呂波匂之助役)、田中勉(素天童子役)、木澤佐江子、福島紀子、柏原保典、木村孝夫(以上4人は地謠となる)

井原広樹の演出は、舞台の三方をスクリーンにし、そこに様々な映像を投影するのが特徴である。「鬼娘恋首引」では、狂言というよりも歌舞伎の手法を取り入れた演出法。少し型にはまった感じで、「折角、地謠が4人なのだから四天王にすればいいのに」と不満もあったが、映像の使い方は効果的。ラストでは、今(2014年)、京都国立博物館で公開が行われている「鳥獣戯画図」からの引用が用いられている。

ストーリーは、鬼の素天童子(すってんどうじ。田中勉)の支配する鬼面山に、京都一のモテ男である伊呂波匂之助(いろはにおうのすけ。中川正崇)が迷い込んだことに始まる。鬼は人を喰らうので、素天童子も伊呂波匂之助を喰おうとするが、娘の番茶姫(川口りな)がまだ人を食べたことがないのを思いだし、色男である伊呂波匂之助を食い初めとすれば目出度いということで、番茶姫を呼ぶ。ところが、番茶姫が伊呂波匂之助に惚れてしまい……、というものである。

伊呂波匂之助は、その名の通り、いろは歌に掛けた自己紹介のアリアを歌う。

伊呂波匂之助と番茶姫による腕相撲や、首引(首に縄を掛けて引っ張り合い、相手を寄り切ったり倒した方が勝ちとなる)の場面などはユーモラスだ。

怖ろしい鬼の素天童子が親バカというのもギャップで笑わせるところだと思われるのだが、田中勉演じる素天童子は隈取りをしているだけでさして怖ろしくは見えない。ここももう一工夫欲しかった。歌舞伎の手法を取り入れていたが、歌舞伎の場合、悪役はもっと身振り手振りのメリハリがくっきりしている。

歌手達はまずまずの歌唱を聴かせ、山下指揮のザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団も上手かった。

鈴木英明の音楽は完全な調性音楽でわかりやすく、上演終了後に登場した鈴木は客席からの喝采を浴びた。

 

ブリテンの歌劇「カーリュー・リヴァー」。原作の能「隅田川」は、世阿弥(観世元清)の子である観世元雅の作である(その後、世阿弥と観世元雅の親子は足利将軍家から嫌われて流罪となり、世阿弥の血統は絶えてしまっている)。歌舞伎にもなっており、私も京都四條南座で坂田藤十郎と中村翫雀(現・中村鴈治郎)の親子共演による「隅田川」を観ている。
能「隅田川」はいかにも能らしく幽霊が出てくるが、歌舞伎版「隅田川」には幽霊は出てこない。ちなみに観世元雅は幽霊を登場させているが、父親である世阿弥は幽霊が出てくることに反対していたという。

ブリテンは、舞台をイギリスに置き換え、キリスト教の話として「隅田川」を脚色。狂女の役も男性歌手が担当する(これは狂言や歌舞伎に則っているともいえる)。

オーケストラの編成は室内楽規模であり、ヴィオラ(上野亮子)、フルート(江戸聖一郞)、パーカッション(安永早絵子)、オルガン(岡本佐紀子)、コントラバス(増田友男)、ホルン(伏見浩子)、ハープ(山根祐美)のみである。

井原広樹の演出は工夫を凝らしており、まず、歌手、演奏者、指揮者の山下一史を含めて全員が、客席後方から、客席通路を通って登場する。全員、黒いコートを纏い、歌手達はキリスト教のコラールを歌っていて、そのまま舞台に上がる。山下一史とザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団のメンバーはせり上がって客席とほぼ同じ高さにあるピットに入る。とても効果的な演出である。歌手達が通路を通ってくるのはそれほど珍しくないが、指揮者や演奏者まで歩いて来るのは余り例がない。ちなみに「カーリュー・リヴァー」はブリテンの指示によると指揮者なしでの上演が正式ではあるようだ。

シテである狂女を歌うのは西垣俊朗(にしがき・としろう)、ワキの渡し守には桝貴志、同じくワキの旅人に西村圭市、ストーリーテラーでもある修道院長には西尾岳史、少年の霊は榎並晴生(西宮少年合唱団)が演じ、少年の声は老田裕子が袖で歌う。その他の人物はザ・カレッジ・オペラハウス合唱団の団員である。一応、狂女役のアンダースタディとして角地正直が控えている。

井原は、「カーリュー・リヴァー」でも映像を多用しており、十字架がマストに変わったりする。

ザ・カレッジオペラハウス合唱団の団員はおどろおどろしい仕草をする。狂女よりも一般民衆の方が狂っているという解釈なのかも知れないが、これだと狂女の演技が生きないという結果になってしまう。

出だしでオルガンが奏でるのは笙を模した音だ。ブリテンは来日経験があり、NHK交響楽団を指揮したほか、ピーター・ピアーズの歌う歌曲のピアノ伴奏を務めたり(ピーター・ピアーズもベンジャミン・ブリテンも同性愛者であり、二人は恋人でもあった)、笙を買い求めたりもしている。そして、能「隅田川」を観て衝撃を受け、「カーリュー・リヴァー」の作曲を思いついたという。カーリューというのはダイシャクシギのことだという。在原業平がモデルである「伊勢物語」の主人公が隅田川まで来たときに、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥 我が思ふ人はありやなしやと」と詠んだ都鳥(別名:ゆりかもめ)がダイシャクシギに置き換えられている。

ただ筋書き自体は換骨奪胎がなされており、日本的な要素は余り残さず、イギリスの話として通るように仕上げている。

ただ、オペラとしての面白さはまた別として、能「隅田川」とオペラ「カーリュー・リヴァー」のどちらがより感銘深いかというと、断然、能「隅田川」である。やはり無常観ということに関しては日本人の方が優れた感受性を発揮しているように思う。「カーリュー・リヴァー」で描かれているのは、死生観であるが無常観までは達していない。両者は似ているが差は大きい。

ラストは、歌手、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の団員、山下一史らが黒いコートを纏い、客席通路を通って退場する。歌手達はコラールを歌う。やはり効果的な演出であった。

ブリテンの音楽は優れてはいるものの、彼のベストではないように思う。

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2017年2月 9日 (木)

コンサートの記(272) 平成28年度全国共同制作プロジェクト プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」新演出

2017年1月26日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後6時30分から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、平成28年度全国共同制作プロジェクト プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」を観る。

「蝶々夫人」を観るのは今日で多分4回目。最も多く観ているオペラとなる。

考えてみれば、フェスティバルホールで本格的なオペラ上演を観るのは初めてである。井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団によるバルトークの歌劇「青ひげ公の城」は観ているが、あれはオーケストラも舞台に上がり、セットなしで行われた上演である(「青ひげ公の城」は抽象的な内容であり、セットなしでも上演が出来る)。


ミヒャエル・バルケ指揮大阪フィルハーモニー交響楽団による演奏。演出:笈田(おいだ)ヨシ。出演は、中島彰子(なかじま・あきこ。蝶々夫人)、鳥木弥生(スズキ)、ロレンツォ・デカーロ(ピンカートン)、サラ・マクドナルド(ケイト・ピンカートン)、牧川修一(ヤマドリ公爵)、清水那由太(しみず・なゆた。ボンゾ)、晴雅彦(はれ・まさひこ。ゴロー)ほか。ダンサー(蝶々夫人の分身):松本響子。合唱はフェスティバル・クワイア。

今月(1月)22日に、金沢で幕を開けた公演で、今日は大阪での上演。この後、高崎、東京で公演を行う。


文学座、劇団四季での活動後、ヨーロッパに渡って俳優・演出家として活躍してきた笈田ヨシによる新演出である。
笈田ヨシは、アメリカ海軍士官に捨てられた可哀想な蝶々さんではなく、より幅を拡げた解釈を行う。

3階席6席目での鑑賞だが、舞台に置かれたものを確認するため、オーケストラピットのそばまで行く。帰りに、上手から、スタッフに誘導されて笈田さんが入ってくるのが見えた。その後、笈田さんは、私の後に続く格好で、1階後方の出入り口からホワイエに出た(笈田さんの席は1階席の一番後方であるようだ)。笈田さんに気づいた人は余りいなかったが、数名が気づいて、話したり記念撮影をしたりしている。


素舞台の上に平台に作った小さな舞台が置かれている。ここが蝶々さんの居住空間となる。平台の上に衝立が真横に6枚。漢字で何か書かれているが、近くにいってもよくはわからなかった。
舞台手前には、上手から松の盆栽(第2幕では笹に変わっている)、赤い花2つ(第1幕で用いられる)、石のオブジェ(蝶々さんとピンカートンの二人のシーンで火がともる)が置かれている。

無料パンフレットに笈田ヨシの挨拶が載っており、「蝶々さんはアメリカの全てを尊敬し愛していました」と定義した後で、自身の体験を話す。進駐軍の兵隊さんからガムを貰うために「ハロー!ハロー!」と叫びながらジープを追った日々、アメリカ兵相手の娼婦(俗にいう「パンパン」)が綺麗な洋服を着てチョコレートを食べているのを見て羨ましく思ったこと、アメリカのものが優れていると思い、日本のものは古くさいといわれて軽蔑された時代など。
笈田は、蝶々さんが絶望して死んだ場所を「ナガサキで!」とカタカナで書き、長崎で被爆した自分の友人達も死んでいったと綴っている。


ゴローが大きめの星条旗を持って現れる。それに続くピンカートン。ゴローは星条旗を平台の上手に差し、アメリカ国歌「星条旗」のメロディーが流れると、星条旗をはためかせて見せる。今回の舞台ではゴローは完全に旗持ちならぬ太鼓持ちである。
ゴローは衝立を移して、蝶々さんとの新居を説明する。
ピンカートンの友人である、領事のシャープレスは、この舞台では、ピンカートンの身勝手さに最初から呆れ気味のようであり、ラストではピンカートンを本気でなじる。

蝶々さんが現れる。背後の紗幕が透け、合唱している人々が見える。蝶々さんは天平時代の貴女のような格好で下手からゆっくりと進んでくる。
蝶々の形の旗を持った人々が数名。そして、折り鶴をつり下げた飾りが現れる。

ちなみに、今回は蝶々さんのキリスト教への改宗を責めるボンゾは、僧侶ではなく山伏(修験者)の格好をしている。

蝶々さんが、武家の出ながら芸者に身をやつしたこと、また父親が亡くなったことを語るシーンで、紗幕の向こうに、薄浅葱の死装束姿の父親(川合ロン)の姿が現れ、父親が切腹したことが示される。

蝶々さんとシャープレス二人の場面では、合唱団のメンバーが灯籠を手に現れる。多くの灯籠が浮かぶシーンは、広島で行われる原爆死者追悼のためのとうろう流しが連想される。また、折り鶴も原爆被害の象徴だ。もう前大統領になるが、バラク・オバマも広島で折り鶴を作って被爆者に捧げている。


第2幕では、蝶々さんもスズキも、戦中そして戦後すぐを思わせる質素な格好の女性として登場する。今回は蝶々さんとケイト(ケイト役のサラ・マクドナルドが今回唯一のアメリカ人キャストである。女優として「花子とアン」にも出ていたというサラは大学時代に、演劇、日本文化、日本語の3つを専攻しているそうだ)が会話を交わす場面のある1904年ブレシア版の楽譜が用いられている。ケイトは「子供は自分が育てる」と蝶々さんに誓う。ある意味、象徴的なセリフである。

第2幕でも、蝶々さんの幼さが強調されており、「ある晴れた日に」は、蝶々さんのピンカートンへの思いと同時にアメリカへの盲信が歌われているようでもある。

紗幕が透け、芸者の頃の可憐な蝶々さんが現れる。それを追う、ボンゾ、ヤマドリ公爵ら。最後にピンカートンが姿を現す。

蝶々さんが、家を花で飾ろうと歌う場面では、合唱団員が着物姿で現れて花びらを撒いていくが、最後に黒子が黒いものを投げていく。焼かれた街に残った炭だろうか。

蝶々さんが新婚時の姿に着替えようというとことで、再び衝立が一直線に横に並ぶ。今度は裏側をこちらに向けて並べる。光を放つ紙が切り貼りされており、ステンドグラスのように見える。どうやら大浦天主堂を仄めかしているようだ(浦上天主堂かも知れないが、ステンドグラスの種類がちょっと違う。いずれにせよナガサキの象徴である)。黒ずくめの合唱団員が現れ、ステンドグラスのように光る衝立の前に並んで歌う(ハミング・コーラス)。彼らの正体は死者だと思われる。
死者達が去った後、間奏曲が流れ、蝶々さんの化身が現れて舞う。下手から上手へと歩みながら。可憐だが、大きく反り返る様などは痛みを表しているようにも見える。


ピンカートンに裏切られたことを知った蝶々さんは、第2幕では平台の下手に場所を移して掲げられていた星条旗を引き抜き、放り投げる。紗幕の後ろに再び蝶々さんの父親が姿を現し、蝶々さんの自殺が仄めかされて終わる(自刃そのもののシーンはない)。


1945年8月6日に広島に、同年8月9日に長崎にアメリカにより原子爆弾が投下された。一瞬の光の下での大量虐殺。自身が虐殺行ったという実感を終生を持たぬままアメリカのパイロットは他界した。そしてアメリカ人の多くは「原爆は正義であった」と今も思っている。日本の国土を蹂躙したアメリカに戦後従い、追わなければならなかった日本人の根源的な哀しみと無念がヒシヒシと感じられる。そして同時に感じるのは強い怒りだ。アメリカに倣うのはある意味では仕方なかった。しかし、今なお徹底した従米路線良しとする一団に憤りを覚えるのだ。

アメリカが描いた自由、民主主義、理想、正義。それらが真っ赤な嘘であったことは今では知られている。戦争をすることで儲けるアメリカ。平和を掲げる日本が最も戦争大国アメリカを支持している国家だという矛盾。


フェスティバルホール3階で聴いた音であるが、オーケストラは美しいが響きが薄く、声は良く通るが、やはり巨大な空間であるため、声があちこちに反響してガタガタ軋むようなところがある。視覚的にも余り良くない。字幕は、上手下手のプロセニアム沿いにあるのだが、下手の字幕は私が座った席からは薄くて見にくい。上手の字幕はステージ中央から遠く、演技と字幕両方を見るには視線を大きく動かす必要がある。上手の字幕もそれほど見やすくはない。蝶々の形の旗が登場した時は上手の字幕が隠される格好になってしまい、難儀した。
ということで、オペラに向いたホールという印象は受けなかった。道理でオペラ上演が思ったよりも少ないわけだ。
そもそも3階席、綿ぼこりが舞ってるし、これあかんやろ。


タイトルロールを歌った中島彰子であるが、声が澄んでいて心地よい。また、一芝居のシーンがあるのだが、声音を変えて上手く演じていたように思う。

スズキを歌った鳥木弥生。衣装がずっと地味なので目立たないような印象を受けるが、しっかりとした歌唱を聴かせてくれる。

ピンカートン役のロレンツォ・デカーロの堂々とした演技も見事だったが、シャープレスを演じたピーター・サヴィッジの演技力が極めて高く、それがこの公演の成功に大きく貢献している。

今回は太鼓持ちであるゴローを歌った晴雅彦は、持ち前の剽軽さも発揮していた。


ミヒャエル・バルケの指揮は、拍を刻むオーソドックスなもの。叙情的な部分も良かったが、「宮さん宮さん」などのリズミカルな旋律の処理の方が達者である。

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2017年1月23日 (月)

コンサートの記(268) 堺シティオペラ第29回定期公演 歌劇「黄金の国」

2014年11月29日 ソフィア・堺 ホールにて

堺へ。南海高野線の車窓からは紅葉した大仙古墳(大山古墳。伝仁徳天皇陵)が見える。
 

午後2時から大阪府堺市にあるソフィア・堺(正式名称:堺市教育文化センター)のホールで、堺シティオペラ第29回定期公演「黄金の国」を観る。原作戯曲:遠藤周作、作曲・テキスト・指揮:青島広志、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)。演奏:ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団(室内楽編成での演奏。さほど大きくない多目的ホールでの演奏なので室内楽編成でも音が飽和状態になることがあった)、合唱:神戸市混声合唱団、ピアノ:關口康佑。今日明日と公演があり、ダブルキャストであるが、今日の出演は、萩原寛明、田邉織恵、井上美和、桝貴志、菊田隼平(きくた・じゅんぺい)、松原友(まつばら・とも)、水谷雅男、鳥山浩詩、片桐直樹、松澤政也、森寿美(もり・としみ。男性)、橋本恵史(はしもと・けいし)ほか。ほぼ全員、関西にある芸大や音大、音楽学部や音楽コース、高校の音楽科などの出身者である。出身は関西でない人もいるが、関西と一切関係のない人はキャストに含まれていない。

テレビなどでもお馴染みの青島広志は1955年、東京生まれ。東京藝術大学音楽学部を首席で卒業後、同大学大学院修士課程も首席で修了。今日上演される歌劇「黄金の国」は、大学院の修了制作として作曲されたものであるという。
見た目だけだとそうは思えないが、実は青島は坂本龍一の後輩なのである。

原作戯曲である遠藤周作の「黄金の国」は遠藤周作の処女戯曲であり、誰でも一度は読んだことがあるであろう有名小説『沈黙』と共に姉妹作をなすものである。内容的には「黄金の国」の方が「沈黙」よりも一歩踏み込んでいるのであるが、その部分は青島は採用していない。
戯曲「黄金の国」は上演すると約3時間を要する大作であるが、それをそのままオペラにすると最低でも上演時間6時間ぐらいの超大作になってしまう。ということで、青島は、遠藤周作のセリフはほとんど変えることなく大幅にカットしたり順番を入れ替えたりして上演時間1時間半、2幕のコンパクトなオペラにまとめた。

演出の岩田達宗先生とは知り合いなので、上演前に挨拶をし、握手を交わす。岩田先生によると、遠藤周作の原作とは別物になっているそうで、パンフレットに全テキストが載っているので買うように勧められる。ということでパンフレットも買う。

傍らでは作曲者の青島広志が著作販売とサイン会を行っている。

テキストについてであるが、遠藤周作が一番力を込めたであろうメッセージは抜け落ち、恋愛ドラマが多少色濃くなっている。第1幕と第2幕の間はかなりバッサリとカットされており、「想像すればわかる」と観客に委ねてしまっている。

開演前に青島広志がマイクを持って登場し、「指揮だけをするという公演は今回が初めてなんです。いつもはピアノを弾いたり、歌ったり踊ったりしながらやるのですが、今日は指揮だけ。それだけだとちょっとというので、こうしてお話ししているわけです。堺シティオペラには20年ほど前にお世話になったことがございまして、その時は髪がまだあったんですが、今は完全になくなってしまいまいした。私は来年還暦を迎えます。体の一部分はもう還暦を過ぎてしまっていますが。それから、静岡県の方でオペラを指揮しましたときに、ピットが浅かったものでしたから、お辞儀をした途端に、子どもから『あ、ハゲ!』と言われたことがありまして、事前にハゲだとお見せしている具合でございます。このオペラはもう40年近く前に書かれたものでして、当時の作曲界は難しく、『ドミソ』で音楽を書いてはいけなかったんです(前衛音楽真っ盛りの時期である)。「○★※△~」というような難しい音楽を書かないと駄目だったんです。私の先生、宍戸睦郎といいますが、もう亡くなっておりますので名前も出していいと思います。宍戸先生も「○★※△~」というような曲でないと良い点をくれなかったんです。私は、良い点を取らなくてもいいからもっとわかりやすいものが書きたかったんですが、宍戸先生が教え子の成績が悪いと立場上困るというわけで、私も「○★※△~」という曲を書いてしまいました。当時は演奏が難しくて演奏者が上手く弾けないということも多かったのですが、演奏技術の向上は目を見張るものがありまして、今日の、大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の皆さん、スラスラ演奏してしまいます。編成も小さいですが、あの方がコンサートミストレス(赤松由夏)でヴァイオリンが一番上手いんです。皆さんご存知の通り、ヴァイオリンは指揮者に近い人が一番上手くて後ろに行くほど下手になるのよね(実はそうとも限らないのだが)。管楽器も一番奏者、二番奏者、三番奏者とだいたい三人いるんですけれど、今日は全員、一番の方です(ここで観客に拍手を求める)。それから、岩田達宗先生が演出して下さっていて、岩田先生のお顔御覧になりましたか? プログラムには写真が載っていると思いますが、俳優であってもおかしくないような、おかしいっちゃおかしいんですが、男前でとても嬉しいです。私は顔だけでいいんです。他はどうでもいいんです」などと前説を行った。それにしてもテレビで音楽の解説をする人にはどうしておねえ口調の人が多いのだろう?

音楽であるが、確かに前衛の香りはするものの、今聴くとメロディアスで美しいものである。歌唱も半音ずつ下がっていくような難しいものだが、歌手達は満点とはいえないものの上手く歌っていた。

江戸時代の長崎が舞台であるが、岩田達宗の演出は、納屋の壁、掛け軸、カーテンを上から降ろすだけで、あとは三面とも西洋風の白いカーテンを使っていた。これは少なくとも私にとっては効果的であった。私は「黄金の国」の原作戯曲を読んでいるため、青島版「黄金の国」ではセットが西洋風でないと不可思議に見えてしまうのだ。

青島のオペラ「黄金の国」では、デウスはただ黙っているのではなく、自分に寄り添っているのだという解釈で終わる。だが、実は遠藤周作の原作戯曲にはそれを射貫くセリフがあるのだ。パーデレ・フェレイラのそのような解釈を聞いた長崎奉行所の井上筑後守は、「それは切支丹のものとは思えぬ(中略)日本にもある弥陀の慈悲。あれと、切支丹のデウスの慈悲と、どうにもならぬ己の弱さから、衆生がすがる弥陀の慈悲。これを救いと日本では教えておる。だが、あの折り、パーデレははっきりと申した。切支丹のデウスの慈悲はそれとは違うとな」と語るのである。
そう、青島がカットした部分にフェレイラがクリスチャンでありながら浄土真宗的発想をしてしまったことを指摘するセリフがあったのである(その指摘を受けて落胆するフェレイラに希望の光が差すようにして劇は終わる)。

ということで、日本家屋的セットであったら、私には切支丹の劇ではなく、浄土真宗礼賛物語の亜種に見えてしまったことだろう。

歌手の演技についてもやはり解釈が異なり、私はパーデレ・フェレイラ役にはもっと素朴で繊細な演技を求めたと思う。人々に温かく接したことさえも傲慢と思い返すような内省的で、狂気を孕むかのような線の細い人物。今日、フェレイラを歌った桝貴志は、ミュージカルで山口祐一郎がよく行うような演技をしていた。

さて、青島は、切支丹への刑を、水刑(溺れ死に)から火刑(焼け死に)変えているが、その理由はよく分からない。火刑にしてしまうと後に来るのセリフと上手く繋がらないように思えるのだが。逆に水刑にすると希望と救いが増すはずである。あるいは初演時の演出上の都合だろうか。

遠藤周作の原作と比べなければ、良いオペラだったと思う。

岩田先生には色々伺いたいこともあったのだが、お忙しそうだったので握手して別れる。

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2017年1月16日 (月)

コンサートの記(267) オリジナルオペラ「鑑真東渡」

2016年12月28日 ロームシアター京都メインホールにて

午後6時30分から、ロームシアター京都メインホールで、オリジナルオペラ「鑑真東渡」を観る。南京を本拠地とする江蘇省演芸集団有限公司による上演。
作曲:唐建平、演出(監督、導演):邢時苗、脚本:憑柏銘&憑必烈。程嘩(「嘩」は正確には「日偏に華」)指揮江蘇省演芸集団交響楽団による演奏。日本箏演奏:松村エリナ。
出演は、田浩江(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場所属)、駱洋、柯緑娃、劉雨東、殷桂蘭ほか。合唱:江蘇省演芸集団歌劇舞芸院合唱団。特別ゲスト:仁如法師(中国・大明寺監院)。
主催:日中友好協会ほか。協力:毎日新聞社ほか、後援:外務省、文化庁、中華人民共和国日本大使館、奈良市、奈良県、京都市。

日本に戒律を授けるため、何度も渡海に失敗しながら来日し、唐招提寺を建てて日本で亡くなった鑑真和上の物語である。



天平の世。日本に仏教が渡ってからすでに200年余りが経った。しかし、仏教はすでに乱れており、兵役を逃れるためや権力欲しさにエセ出家するものが後を絶たないという状態だった。仏教による鎮護国家成立にはきちんとした仏教の戒律が必要なのだが、当時の日本には正式な戒壇も戒律もない。そこで、唐の国の高僧を招くことに決める。その際、唐に渡って高僧を招くために尽力した日本の僧侶が栄叡(ようえい)と普照の二人なのだが、今回は栄叡一人に纏められている。

史実では、鑑真の弟子を招こうとするも、日本に渡ってもいいという高僧は一人もいなかったため、鑑真自らが渡ることを決めるのだが、その辺のことはややこしいので、まず鑑真が日本に渡るということは鑑真本人がすでに決めており、弟子達がそれに反対するという展開を取る。

まず、オーケストラピットの下手端に高僧の座る椅子が設けられており、ここに仁如法師が陣取って読経を行い、スタートする。
江蘇省演芸集団歌劇舞芸合唱団のメンバーは木魚を手にしており、その木魚の音で音楽が始まる。唐建平の音楽は調整音楽ではないものの、わかりやすい。新ウィーン学派の音楽、オペラということもあって、就中、アルバン・ベルクの音楽を東洋風にしたものというと通じやすいかも知れない。

今日は3階席の5列目(一番安い席)に陣取ったのだが、開始前にレセプショニストさんから、「もっと前の席に移って頂いても結構です」と言われる。実は3階席の前の方は招待客向けの席だったのだが、招待客がほぼ一人も来なかったという惨状のようだ。私の他にも前に行くよう勧められた人は二人いて、共に3階席の最前列に移ったのだが、私は「取り敢えず見にくかったり、音が悪かったりしたら移ろう」ということで保留。実際に見てみると、3階席の5列目でもよく見えたし、音の通りは素晴らしく、不満はなかった。ということで頑として動かず。思いっきり日本人してしまったぜ。
日本のクラシック界はブランド志向であるため、日本ゆかりの人物のオペラとはいえ、中国の現代作品を観ようという人は、よっぽどのオペラ好きか仏教好き、もの好きに限られる。ちなみに私は全てに該当する。

ロームシアター京都メインホールでオペラを観るのは二度目だが、ここはオペラを聴くには本当に適しているようで、歌手や合唱団の声、オーケストラの音色などがクッキリと聞こえる。オペラ劇場としての音響は最上級。まだ遠い方の席でしか聴いたことはないが、これまでにオペラを聴いたことのあるどのホールよりも音が良いと断言できる。それだけに使い勝手の悪さが残念でもある。
今日はサイド席(バルコニー席)はほとんど使われていなかった。

日本箏の松村エリナを除いて、オール・チャイニーズによる演奏(江蘇省演芸集団交響楽団のメンバーには白人も含まれているようである。また漢民族以外の名前も持つ人もいる)。
私が若い頃は、世界で最も有名なアジア人作曲家は武満徹であったが、武満の死からすでに20年が経過。現役のアジア人作曲家として最も有名なのは中国出身の譚盾であると思われる。中国作曲界のレベルは映画音楽を聴いてもわかる通りかなり高い。


鑑真の渡海の場面からオペラは始まる。上手、下手、奥に白くて細い布が何本も下がっていて、通過可能な壁のようになっており、これが効果的に用いられる。セットは中央に円形のものがあり、これが後に月になったりもするのだが、基本的にセットはシンプルである。細い布はキャットウォークからも何本も下りてくる。
荒れ狂う海(東シナ海であるが、中国人キャストに遠慮して「東中国海」という字幕表示になっている。その代わり、日本を指す差別語の「東夷」は別の表記が用いられている)。波は今にも鑑真らの乗る船を飲む混もうとする。しかし、仏の加護により、波は静まる(ただし日本には行けない)。時系列的には、栄叡が鑑真に渡海するようお願いする場面は、この渡海の後に出てくる。舞台は揚州の大明寺。日本からの留学僧・栄叡(駱洋)が、鑑真(田浩江)に扶桑(日本の別名)に渡り、律宗の戒律を伝えるよう頼む。鑑真の弟子の静空(劉雨東)、尼僧の静海(鑑真の弟子に尼僧はおらず、架空の人物である。柯緑娃)らは渡海は危険だとして鑑真を止めるが、鑑真は海を渡ることこそ最大の修行であり、日本に渡らなければ自分は成仏出来ないとして、渡海を決定する。鑑真は、鳩摩羅什や玄奘(三蔵法師として日本でも有名)の姿を己に照らし合わせていた。
しかし、鑑真の身内に密告者がおり、海賊と通じているとして鑑真一向は捕らえられてしまい、渡海は失敗。密告者は静海であることが発覚。静海は自殺して詫びようとするが、鑑真に仏の道を歩むことこそが贖罪と諭されて思いとどまる。

栄叡の独唱の場面では、舞台上手から着物を着た松村エリナが台車に乗って現れ、箏で伴奏を奏でる。唐関連の人物の場面では、下手から中国箏演奏家の劉星延(女性である)がやはり台車に乗って現れるのだが、共にモーター音が響くため、ちょっと気になった。

江蘇省演芸集団歌劇舞芸院合唱団とダンサー陣の人海戦術も効果的であり、リアルな場面と幻想的なシークエンスの両方で存在感を示していた。


鑑真は渡海失敗を繰り返し、一度などは、南方の異境(振州=現在の海南島とされている)に船が流されてしまい、島の主の憑夫人(殷桂蘭)は、配下の祈祷師による「この島で疫病が流行っているのは、この僧侶達が原因」との言葉を信じ込み、鑑真を柴草で焼き殺そうとするが、鑑真に諭されて思いとどまる。鑑真は部下達に薬草を調合した薬を作らせ、島の疫病を鎮める。憑夫人は己の無知を恥じるが、鑑真に励まされ、島に菩提心を広めることを約束する。

海を渡ることが叶わぬまま、栄叡が唐の地で客死する。この時、鑑真は度々の艱難辛苦のためにすでに失明しており、栄叡の姿を見ることが出来ず、探し回る(字幕では、「栄叡どうしたのだ」とあったが、実際は、「栄叡在[口那]里(栄叡どこにいるのだ)」と歌っており、文字制限による意訳のために日本語では少しわかりにくくなっていた)。栄叡は故郷の難波津を思い出しながら息絶える。
弟子の静空もまた、「西方に浄土がある。私は東に渡るのではなく、西行します」と言って去って行った。
失意の鑑真であったが、「長明燈は常在不滅」という言葉を信じ、再び日本への渡海を試みる。

こうして苦難の末に、天平勝宝4年(754)に鑑真は日本に渡来し、奈良の都に戒律を伝え、東大寺に戒壇を気づき、唐招提寺を建立した後に当寺に於いて入滅するのだった。


東アジアにおける西洋音楽の受容というと、日本が最先端ということはこれまでは当たり前だったし、これからも当分は同じ状況が続くと思われるのだが、日本の国公立で音楽学部を持つ大学は東京芸術大学、愛知県立芸術大学、京都市立芸術大学、沖縄県立芸術大学など数えるほど。演劇や映画の学部は皆無という中にあって、中国は国共内戦後に中央音楽学院、中央戯劇学院、北京電影学院など、北京に国立の音楽大学、演劇大学、映画大学を創設。文化大革命による危機はあったものの、北京だけでなく、上海を始め各所に国立の芸術大学を設置して、国ぐるみで文化を後押ししている。

中国のクラシック音楽事情には私も通じているわけではなかったのだが、劇場付きのオーケストラが存在するというのは衝撃であった(日本では、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団が歌劇場付きの団体であるが、母体である大阪音楽大学のオーケストラという位置づけであり、編成も大きくない。ポピュラーでは宝塚歌劇団のオーケストラが座付きである。新国立劇場創設時に座付き国営オーケストラ設置案も挙がったが実現しなかった)。

以前の中国では、芸術家は国家認定システムであり、国立の芸術大学を卒業していないとプロの芸術家に認定されず、活動も出来なかったのだが、今はどうなっているのかよくわからない。ただ、国を挙げての文化発揚形式は今も力強いものがあるということは、この公演を観てもわかる。


北京語歌詞、日本語字幕による上演であるが、一部、日本語による合唱が行われる場面がある。また、般若心経や「南無阿弥陀仏」が唱えられるのだが、仁如教師は、2005年から2007年に掛けて岐阜県にある正眼短期大学に留学しており、帰国後に鑑真仏教学院で日本語基礎教育に関わったほか、2015年から今年の3月まで和歌山県の高野山専修学院で唐の密教に関する研究を行っており、日本語による読経が可能であり、般若心経が日本語読みで朗唱される場面もあった。
「ギャテイギャテイ ハーラーギャテイ ハーラーソウギャテイ ボダジソワカ」、「色即是空 空即是色」という般若心経のお馴染みの言葉も登場する。

江蘇省演芸集団交響楽団も予想を遙かに上回る優秀なオーケストラであり、仏教好きでなくても十分に楽しめる現代歌劇となっていた。

カーテンコールでは、作曲家の唐建平や脚本家の憑必烈らも登場。出演者達もオーケストラピットの楽団員も嬉々として拍手を送っていた。ロシアのマリインスキー・オペラによる「エフゲニー・オネーギン」を観た時もそうだったが、お国ものということで皆が誇りを持って演奏し、歌い、演じていた。日本ではオペラがまだ「お高くとまったもの」と認識されているためか、こうした光景は余り見られない。日中関係は悪化の一途を辿っているが、自国が生んだ芸術を純粋に愛する心も持つ隣国の人々が羨ましくなった。日本人は西洋音楽に対するコンプレックスが強すぎるようにも思う。

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