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2017年3月24日 (金)

観劇感想精選(205) ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」2017大阪

2017年3月1日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後6時30分から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」を観る。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」をフランス人のジェラール・プレスギュルヴィックがミュージカル化したもの。潤色・演出は宝塚歌劇団の小池修一郎。宝塚歌劇でも上演されたことがあるようだが、今回は新演出での上演である。音楽監督は太田健。
出演は主役クラスはWキャストで、今日の出演は、古川雄大、生田絵梨花(乃木坂46)、馬場徹、小野賢章(おの・けんしょう)、渡辺大輔、大貫勇輔。レギュラー出演者は、香寿たつき、シルビア・グラブ、坂元健児、阿部裕(あべ・ゆたか)、秋園美緒、川久保拓司、岸祐二、岡幸二郎ほか。ダンサーが多数出演し、華やかな舞台となる。

このミュージカルは、「死」と名付けられたバレエダンサー(大貫勇輔)の舞踏で始まる。背後の紗幕には爆撃機と爆撃される街の映像が投影される。
「死」は常にというわけではないが、舞台上にいて出演者達に目を配っている。ロミオ(古川雄大)が失望する場面が合計3度あるのだが、その時はロミオと一緒になって踊る。ロミオに毒薬を手渡すのも「死」の役目だ。
今日は出演しない「死」役のもう一人のバレエダンサーは、連続ドラマ「IQ246」にも出演して知名度を上げた宮尾俊太郎で、宮尾が舞う日のチケットは全て完売である。

イタリア・ヴェローナ。時代は現代に置き換えられており、登場人物達はスマートフォン(セリフではケータイと呼ばれる)や動画サイトを使っている。舞台は観念上のヴェローナのようで、実際のヴェローナにはない摩天楼が建ち並び、BOXを三段に重ねたセットが用いられる。
ヴェローナを二分するモンタギュー家とキャピュレット家。モンタギュー家は青地に龍の旗をはためかせ、モンタギューの一党も青系の衣装で統一されている。一方、赤字にライオンの旗をトレードマークとするキャピュレットの一族は赤系の服装だ。
モンタギューとキャピュレットの間では争いが絶えない。特にキャピュレット家のティボルト(渡辺大輔)と、モンタギュー家のマーキューシオ(小野賢章)は不倶戴天の敵という間柄である。
ヴェローナ大公(岸祐二)が両家の仲裁に入り、「今度争った場合は刑に処す」と宣言する。

キャピュレット卿(岡幸二郎)とキャピュレット夫人(香寿たつき)は、娘のジュリエット(生田絵梨花)をパリス伯爵(川久保拓司)に嫁がせようとしていた。ロミオにいわせるとパリスは「いけ好かない成金」であるが、キャピュレット卿は借金があり、ジュリエットと結婚したあかつきには借金を肩代わりしてもいいとパリスは言っていた。
ジュリエットはこの物語では16歳という設定。本当の愛というものを知らないうちに親が決めた相手と結婚することに疑問を感じている。だが、キャピュレット夫人は、「自分は結婚に愛というものを感じたことなど一度もない」と断言する。キャピュレット夫人も親の言いなりでキャピュレット卿と結婚したのだが、夫に魅力は感じず、夫も女遊びに励んでいたので負けじと浮気を繰り返していた。
そしてキャピュレット夫人は、ジュリエットが不義の子だということを本人に告げる(このミュージカルオリジナルの設定である)。のちにキャピュレット卿は、ジュリエットが自分の子供ではないと気づき、3歳のジュリエットの首を絞めて殺そうとしたのだが、余りに可愛い、実の娘以上に可愛いので果たせなかったというモノローグを行う。

キャピュレット夫人(くわえ煙草の時が多い)は、甥のティボルトになぜ戦うのか聞く。ティボルトは、「人類はこれまでの歴史で、どこかでいつも戦ってきた」と人間の本能が戦いにあるのだという考えを示す。キャピュレット夫人は愛の方が重要だと主張するがティボルトは受け入れない。

一方、ヴェローナ1のモテ男であるロミオは、数多くの女を泣かせてきたが、今度こそ本当の恋人に会いたいと願っている。マーキューシオやベンヴォーリオに誘われて、キャピュレット家で行われた仮面舞踏会にロミオは忍び込む。パリス伯爵に絡まれていたジュリエットだが、ロミオと出会い、互いに一目惚れで恋に落ちる。だが、ロミオの正体がばれ、パリス伯爵との結婚が急かされるという結果になってしまう。

バルコニーでジュリエットが、「ロミオあなたはなんでそんな名前なの?」という有名なセリフを語る。ロミオがバルコニーに上ってきて、二人は再会を喜び、「薔薇は名前が違ってもその香りに変わりはない」というセリフを二人で語り上げる。

ティボルトもまた従妹であるジュリエットに恋していた。ティボルトも15歳で女を知り、それ以降は女に不自由していないというモテ男だったのだが、本命はジュリエットだった。日本の法律では従兄妹同士は結婚可能なのだが、キャピュレット家には従兄妹同士は結婚出来ないという決まりがあるらしい。
ティボルトはこれまで親の言うとおり生きてきたのだが、それに不満を持つようになってきている。ただ、自由に生きることにも抵抗を覚えていた。

一方、モンタギュー家のロミオ、ベンヴォーリオ、マーキューシオも大人達の言うがままにならない「自由」を求めており、自分達が主役の社会が到来することを願っていた。いつの時代にもある若者達の「既成の世界を変えたい」という希望も伝わってくる。

バルコニーでの別れの場。ジュリエットは父親から「18歳になるまではケータイを持ってはならない」と命令されており、ロミオと連絡を取る手段がない。ジュリエットはロミオに薔薇を手渡す。「明日になっても気が変わらなければ、この花を乳母(ジルビア・グラブ)に渡して」と言うジュリエット。ロミオは勿論心変わりをすることなく、訪ねてきた乳母に薔薇の花を返す。かくして二人はロレンス神父(坂元健児)の教会で結婚式を挙げる。フレンチ・ミュージカルであるため、フランス語で「愛」を意味する「Aimer(エメ)」という言葉がロミオとジュリエットが歌う歌詞に何度も出てくる。

二人の結婚の噂が流れ、街では、「綺麗は汚い、汚いは綺麗」という「マクベス」のセリフを借りた歌が流れる。「顔は綺麗と思った女性でも」という意味である。

再びモンタギューとキャピュレットの諍いが起こる。マーキューシオがティボルトとの戦いに敗れて死に、その腹いせでロミオはティボルトを刺し殺してしまう。ヴェローナ大公はロミオにヴェローナからの永久追放を宣言するのだった。


常に人々を見下してきた「死」が、ラストになって敗れる。ロレンス神父がジュリエットに死んだようになる薬を手渡したことをロミオにメールするのだが、ロミオはケータイをなくしてしまっており、事実を知らないまま「死」から手にした毒薬で自殺し、それを知ったジュリエットも短剣で胸を突き刺して後を追う。ここまでは「死」のシナリオ通りだったのだが、ロミオとジュリエットの愛に心打たれたモンタギュー卿(阿部裕)がキャピュレット卿と和解。ロミオとジュリエットの名は後世まで残るものと讃えられる。ロミオとジュリエットの死が愛を生んだのだ。「死」は息絶える仕草をし、ここにおいて愛が死に勝ったのである。


楽曲はロック風やクラブミュージック調など、ノリの良いナンバーが比較的多く採用されている。拍子自体は4分の4拍子や4分の3拍子が多く、リズムが難しいということはない。
ベンヴォーリオがのぼせ上がったモンタギュー一族をなだめる場面があり(「ロミオとジュリエット」を翻案した「ウエスト・サイド・ストーリー」における“クール”の場面のようである)、これまたベンヴォーリオがマントヴァ(この劇では売春街という設定になっている)に追放されたロミオを思って一人語りをしたり伝令も兼ねたりと、ベンヴォーリオは原作以上に重要な役割を与えられている。


2013年のミュージカル「ロミオ&ジュリエット」でもロミオを演じた古川雄大は安定した歌と演技を披露する。
ジュリエットを演じた乃木坂46の生田絵梨花はミュージカル初挑戦であるが、実力はあるようで、すでにオーディションを突破しなければキャスティングされないミュージカル「レ・ミゼラブル」にコゼット役での出演が決定している。生田絵梨花はピアノが得意で日本クラシック音楽コンクール・ピアノ部門での入賞歴があり、現在は音楽大学に在学中。ということでソニー・クラシカルのベスト・クラシック100イメージキャラクターも務めていたりする。演技はやや過剰になる時もあるが、歌は上手いし、筋は良い。
ティボルト役の渡辺大輔とマーキューシオ役の小野賢章も存在感があって良かった。

カーテンコールは3度。最後は大貫勇輔が客席に向かって投げキッスを送りまくり、笑いが起こっていた。

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2017年3月 8日 (水)

観劇感想精選(202) ミュージカル「フランケンシュタイン」2017大阪

2017年2月2日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇
 
午後6時から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「フランケンシュタイン」を観る。韓国で制作されたミュージカルの日本版である。潤色は中谷まゆみとのコンビで知られる板垣恭一。今日が大阪初日である。
ビクター・フランケンシュタイン&ジャックとアンリ・デュプレのちのフランケンシュタインの怪物はWキャストで、今日はビクターを中川晃教が、アンリ・デュプレを小西遼生が演じる。
原作:メアリー・シェリー、脚本&歌詞:ワン・ヨンボム、音楽:イ・ソンジュン、訳詞:森雪之丞、音楽監督:島健、潤色&演出:板垣恭一、振付:森川次郎&黒田育世。出演:中川晃教、小西遼生、音月桂、鈴木壮麻、相島一之、濱田めぐみ他。子役も出ていたが、ビクターの少年時代を演じてた少年(石橋陽彩)はえらく芸達者である。

今回は、主要キャストの全員が一人二役を演じる。


まず、ビクター・フランケンシュタイン(中川晃教)が怪物(小西遼生)を生み出そうとしているシーンから始まる。ビクターの姉であるエレン(濱田めぐみ)の「ビクター! やめて、あなたのしようとしていることは間違ってるわ!」と言う声と、執事のルンゲ(鈴木壮麻)の「坊ちゃま!」と呼ぶ声が聞こえる。怪物が目を覚ましたところで時は遡る。

ナポレオン戦争の最中。怪我人の手当をしていた優秀なフランス人医師であるアンリ・デュプレ(小西遼生)にビクターが話し掛ける。ビクターはアンリが何者か知っていた。
アンリは生物の再生と創造の可能性を探っていたのだが、諦めていた。それを知ってビクターは助手としてアンリを雇おうとしたのだ。ビクターも生物の再生方法を試していた。「人間はそのうちに滅びる」ので、遺体再生そして「生命そのものの創造」の手段を考えていたのだ。「命の創造を神はお許しにならない」とアンリは反対する。「あなたは神を信じないのですか?」というアンリに、ビクターは、「信じている。だが、神は至福ではなく呪いをもたらすものだ」と答える。生物の創造に反対していたアンリだが、ビクターの信念と希望を信じる心に惹かれ、助手となる。ビクターは著名人のようで、ウォルターという医学生の若者はビクターのファンである。

ビクターの幼なじみであるジュリア(音月桂)は、ビクターのことをずっと恋い慕っていた。ビクターがアンリを連れて留学から戻ってきた。ビクターとは今も両思いのはずだとジュリアは思っている。

しかし、ビクターに嫌がらせをする人達もいる。エレンはジュリアに「ビクターの呪い」について話す。ビクターの父親も医師であったが、妻(ビクターの母)をペストで亡くしていた。しかし、ビクターが母親を生き返らせたという話が広がる。ジュリアは幼い頃にビクターがジュリアの飼っていた犬を生き返らせ、自分が噛まれて怪我をしたことを思い出した。

ジュリアの父で町の名士であるステファン(相島一之)もビクターの才能を買っている。

人間を創造するのには、死んだばかりの人間の脳がいる。それが手に入らないことを悩んでいるビクター。執事のルンゲが「葬儀屋に行ってはどうか」と提案し、ビクターは「どうしてそれに気がつかなかったんだ!」と早速、ルンゲに手配を頼む。だが、葬儀屋はふざけた真似を行った。ビクターを慕っているウォルターを殺してその首を提供したのだ。激怒したビクターは葬儀屋を殴り殺してしまう。
ビクターの成功を信じているアンリは自分が身代わりとなって名乗り出て逮捕される。姉のエレンにアンリを実験道具にしたいのかと問われたビクターは、法廷で「自分がやった」と告白するが、ステファンがそれを妨害。かくしてアンリは断頭台の露と消えた。

しかし、ビクターはアンリを生き返らせようとする。「人間は愚かでテロや戦争をする。それを乗り越えるための創造を」
冒頭のシーンが繰り返され、アンリはフランケンシュタインの怪物として再生した。しかし、怪物はもはやアンリではなく、ビクターの言うことを聞かない。ルンゲを殺した怪物をビクターは狙撃するが、怪物は窓から飛び降りて逃げ出す。


3年後。ビクターとジュリアは結婚している。だが、ジュリアの父親で市長になっていたステファンが森で行方不明になったという報告があり、皆で捜索に向かう。そこでビクターの前に紳士の格好をした怪物が現れる。あたかも「嵐が丘」のヒースクリフのように。怪物は、これまでの「血と涙」の3年間を語り、「創造主よ。なぜ俺を生んだ」となじる(怪物はビクターを常に「創造主」と呼ぶ)。

3年前、怪物は、森で熊に襲われていたカトリーヌ(音月桂二役)を助けた。怪物は熊を返り討ちにした上に食べてしまったらしい。「熊、美味しい」と語る怪物。カトリーヌは闘技場で下女として働く貧しい女性。幼い頃に父親から性的虐待を受け、他人から唾を吐きかけられるなど蔑まれて生きてきた。人間が嫌いなカトリーヌは怪物に「北極に行きましょう。あなたが好きな熊もホッキョクグマがたくさんいるわ」と夢を語る。「誰からも傷つけられない国」へ行きたいと語り、怪物と踊るカトリーヌ。そこへ現れた闘技場の主の妻エヴァ(濱田めぐみ二役)は、怪物を見て、「怪物じゃない。金よ」と言う。闘技場に怪物を出して儲けようと考えたのだ。エヴァは怪物を牢に閉じ込め、邪険に扱う。

闘技場(COLISEUMと電飾がついている)の主であるジャック(中川晃教二役)は金貸しのフェルナンド(相島一之二役)に多額の借金をしている。フェルナンドは自分の部下であるチューバヤという屈強な青年に勝てる者がジャックの身内にいたら借金を帳消しにすると提案。エヴァもジャックも怪物を出そうとするが、フェルナンドも怪物の存在は知っており、カトリーヌに、「これを怪物に飲ませれば自由にしてやる」と薬を渡す。「生きる意味がない。生きていても辛いだけ」と考えているカトリーヌは、「それでも自分が必要とされる時が来るなら」と希望は捨てておらず、「自由にしてやる」という言葉を信じて怪物に薬を与えてしまう。

怪物はビクターに復讐心を抱いていた。「俺と同じ目に遭わせてやる」と。まず、ステファンが殺され、エレンが犯人に仕立て上げられる。そして妻のジュリアが……。


望んでいない怪物として蘇った男の悲哀は、不幸なカトリーヌの姿に繋がる。二人とも蔑まれた存在だ。だが、最初から蔑まれた存在だった訳ではない。蔑まれた存在は生み出されたのだ。人間によって。人間の「心」が差別や蔑まれる存在を生み出しているのである。社会から捨てられた者の悲哀と孤独。それは当事者だけでなく人間であることの悲しみであり、他者を隔てることで生まれた孤独である。
そして人間は生み出す。己のために己の信念を貫くために悲劇を、戦争やテロといった「怪物」を。己の正義は誰かを踏みにじることによって生きる。「正義」と「悪」はあたかも一人二役のように背中合わせの「怪物」だ。敵の死を願い、実行してしまう人間はフランケンシュタインの怪物よりもずっと凶暴な怪物なのである。
「神のご意思」というものがあるのかどうかはわからない。だが、信念といった美化されやすいものは、「許されざる領域」に安易に踏み込めてしまう。「生み出せる」という「奢り」は、生み出されるものの思いも生み出した結果も想像することすらない。

人間に出来る最高の救済はあるいは孤独の分かち合いなのだろか。
今日は3階席の上の方。いわゆる天井桟敷での鑑賞。オーケストラピットからの音の方が通りやすく、またスピーカーの関係で、歌詞が聞き取りにくいことがあったが、許容範囲ではある。
ミュージカルのトップスターの一人である中川晃教は歌も演技も圧倒的。存在感もある。小西遼生も優れた演技と歌を披露する。何度も上演に接している濱田めぐみも圧巻の出来。
元宝塚歌劇団男役トップの音月桂は、昨年、「十二夜」のヴァイオラとシザーリオ役で主演した舞台を観ているが、歌声を聴くのはこれが初めて。ジュリアとカトリーヌの演技のみでなく歌声の違いも聴かせるなど、実力の高さが窺える。
東京サンシャインボーイズ出身の相島一之だけは、ミュージカル畑の人でないため、歌は余り上手くなく、演技のスタイルも微妙に違うのだが、お得意の悪役では流石の演技を見せていた。


イ・ソンジュンの音楽は要所要所で3拍子の楽曲を用いるのだが特徴である。かなりの高音が要求される部分もあるのだが、出演者達は楽々クリアしていた。やはりトップスターはものが違う。

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2017年2月 4日 (土)

観劇感想精選(198) ミュージカル「わたしは真悟」

2016年12月23日 ロームシアター京都メインホールにて観劇

午後6時から、ロームシアター京都メインホールで、ミュージカル「わたしは真悟」を観る。



ミュージカル「わたしは真悟」は、楳図かずおのマンガをミュージカル化したもの。高畑充希と門脇麦のダブル主演である。演出&振付は、フィリップ・ドゥクフレ。ドゥクフレは、アルベールオリンピックの開会式と閉会式の演出を担当した人物であり、シルク・ドゥ・ソレイユのミュージカルの演出も手掛けている。ということで、アクロバティックな能力が要求されたり、高いところに昇ったり、巨大ブランコを漕いだりと、身体能力も求められる。高所恐怖症だったりしたらまずキャスティングされない。

脚本:谷賢一。出演は、高畑充希と門脇麦の他に、大原櫻子、小関裕太、成河(ソン・ハ)等。作曲:トクマルシューゴ&阿部海太朗。作詞:青葉市子。振付&美術:エリック・マルタン、演出協力:白井晃。白井晃は、来年5月にサウスホールでドイツの劇作家の作品を演出する予定である。


今日は1バルコニー席の下手側で鑑賞。この席はかなり酷い。壁を背にした3列目であり、椅子が高めに置かれていて、足を浮かせて足置きに乗せないといけない。長い時間、この状態では苦しいのだが、更にステージを見るには体を捻る必要がある。完全に設計の失敗である。京都というのはまともな施設を造ろうとすると何かと横槍が入るところである。バルコニー席も本来なら2列で一杯一杯のはずなのだが、2000席に拘ったためにかなり無理矢理押し込められた感じである。



333メートルの鉄塔(東京タワー)のてっぺんに、マリン(本名は山本真鈴。演じるのは高畑充希)とサトル(本名は近藤悟。演じるのは門脇麦)が登っているのが発見され、地上で一騒動起きる。マリンは、「今が人生で一番素敵な瞬間なのかも知れないね」と語り、「大人になったら別の生き物になっちゃうんだよ」という風なことも言う。楳図かずおの原作だけに、こうしたイノセンスの要素がかなり濃い。

産業用アームロボットが暴走する。人々はロボットを「壊せ!」と叫び、ロボットがある女を殺したのを確認すると「死んだ」と口々に言う。ロボットの人格(成河)は、「こうして私は生まれた、といいます」と語り始める。ロボットの人格は、人格のコアな部分は希薄であると同時に、全世界の機械と動植物に働きかける神のような力を持つため、客観性と神の視座を合わせ持つことを意味する、「~といいます」という伝聞系の言葉を多用する。

ロボットの人格は、「初めに言葉ありき」と聖書の言葉を引用した後で、「しかし私は意識を持つ前に言葉を持ってしまったといいます」と言い、なぜそういうことになったのかを探ろうとする。

実は、マリンと町工場の息子であるサトルが、工場の社会科見学を機に小学6年生の夏休みに恋に落ちて、この産業用アームロボットに二人の情報を始めとするあらゆる情報を打ち込んだのだ。ロボットの人格は、マリンとサトルを両親と認識し、それぞれの名前から一時ずつ取って、自らを真悟と名乗る。周囲の人々は真悟を怖れるが、サトルの同級生のしずか(大原櫻子)だけは真悟を守ろうとする。

外交官の娘であるマリンは夏休みが終わったら家族でロンドンに渡ることになっていたのだ。マリンはサトルにそれを言い出せない。二人で結婚するにはどうすればいいのか。子供を作るにはどうしたらいいのか。「333のテッペン」にその答えが隠されているようである。

ロンドンに渡ったマリンは、自身がなぜか病院にいることに気づく。記憶はほぼ失っていた。サトルという名前は覚えていたが、それが誰なのかは思い出せない。
イギリスでは日本人と日本人排斥運動が起こっていた。ロビンという青年(小関裕太)がマリンを連れ出す。ロビンはマリンを連れ出し、地下室に監禁した上、「外では戦争が起こっており、核爆弾が使用された」と嘘をついて、マリンと強引に結婚しようとする。マリンも日本人も見下された存在だった。日本人は「技術はあるが独創性がない」「金はあるが美意識はない」と侮られていた。

一方、サトルも電気店の店頭でパソコン(まだPC98である)をいじっている時に、真悟が暴走していることを懸念した三人の黒服の男取り囲まれていた。真悟には日本人全ての情報が入っている(一瞬だが、モニターに「ウメヅカズオ」という名が映るのを確認することが出来る)。汚れた大人達は真悟を怖れたのだ。
真悟は両親を守ると同時に、二人の間に愛があったことを伝えようとする。


イノセントな愛の物語である。バタイユ的愛と書いてもいいだろうが、12歳の少年少女なので、そこまでには達していないだろう。子供から大人へと移り変わろうとするほんの一瞬に感じる「子供であったことの尊さ」を上手くすくい取ってるように感じた。

高畑充希も門脇麦も微妙な年齢の少女と少年を演じていたが共に好演。歌唱力も万全で、高畑充希はファルセットの多用や、主旋律の後で対旋律に回るという成河とのデュオなど、難しいナンバーを振られていたがそつなくこなした。

予想以上の健闘だったのが大原櫻子。子供子供した子供を演じるのはそう簡単ではないはずだが、上手く少女らしさを出した演技をしていたように思う。彼女は二世タレントなので筋も良いのだろう(二世タレントだから必ずしもセンスを受け継ぐというわけではないのはご承知の通りであるが)。


ドゥクフレの演出は、モニターや背後のスクリーンに投影される映像を多用したもの。ステージを目一杯使っているが、ロームシアター京都メインホールはこの演出をするにはキャパが大きすぎるように感じた。

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2016年2月25日 (木)

サイモン・ラトル指揮バーミンガム・コンテンポラリー・ミュージック・グループ レナード・バーンスタイン ミュージカル「ワンダフル・タウン」序曲

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2016年1月22日 (金)

観劇感想精選(174) ミュージカル「スコット&ゼルダ」

2015年11月7日 大阪・上本町の新歌舞伎座にて観劇

午後5時30分から、大阪・上本町(うえほんまち)の新歌舞伎座で、ミュージカル「スコット&ゼルダ」を観る。アメリカン・ロスト・ジェネレーション(失われた世代)を代表する小説家、フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルドと妻のゼルダの悲劇的な人生を描いたミュージカルである。作曲:フランク・ワイルドホーン、脚本・作詞:ジャック・マーフィー、上演台本:蓬莱竜太(ほうらい・りゅうた)、演出:鈴木裕美(すずき・ゆみ)。

上演時間は途中休憩20分を含み約3時間5分という大作である。

主要キャストは、ウエンツ瑛士、濱田めぐみ、中河内雅貴(なかがうち・まさたか)、山西惇(やまにし・あつし)の4人で、いささか地味なためか客入りは今一つ。私の座った3階席はガラガラだった。

私は、高校1年生の時に、ヘミングウェイやフィッツジェラルドといった「失われた世代」の作家の小説を集中して読んでおり、明大在学中には「日本で『失われた世代』と名付けるに値するとしたら俺達の世代だよな」などと思っていたら、その後に朝日新聞が我々の世代を「ロスト・ジェネレーション」と何故か英語のまま名付けた。日本語で「失われた世代」とすると深刻に響きすぎるからだろうか。

『華麗なるギャッツビー(グレート・ギャッツビー)』などはロバート・レッドフォード主演の映画も含めて今一つピンと来なかったのだが、短編小説「雨の朝、巴里に死す(バビロン再訪)」「氷の宮殿」など数編は印象深い出来であり、敗残者の切なさがダイレクトに伝わって来た。村上春樹がフィッツジェラルドを評価していると知ったのはその後である。

代表作である『華麗なるギャッツビー(グレート・ギャッツビー)』は三度も映画化されているため(ギャッツビーを演じているのは1作目がロバート・レッドフォード、2作目がトビー・スティーヴンス、3作目がレオナルド・ディカプリオである)フィッツジェラルドは米国の小説家の中では知名度がある方で、他のお客さんもフィッツジェラルドの人生が知りたくて来ているのかと思っていたが、アフタートークで聞くとそうではなかったようで、普通のミュージカル好きのお客さんが来ていて、話が余りに暗いので驚かれたと濱田めぐみが語っていた。

セットは2階建て。2階の細い通路(バルコニーと書いたほうがわかりやすいだろうか)の中央に半円形にせり出した部分があり、左右から階段が下りている。オーケストラピットはなく、2階セットの後ろにバンドがいて演奏を行う。2階の壁は時折左右に開き、バンドの演奏を直接見ることの出来るシーンもある。

まずは山西惇が演じるベン・サイモンという三文作家が、スコット・フィッツジェラルドの夫人であったゼルダが入院しているノースカロライナ州の精神病院を訪れるところから始まる。山西惇演じるベンはストーリーテラー(狂言回し)であり、出ずっぱりである。最初のセリフは「雪が降っていました」というものであるが、このセリフはアフタートークでいじられることになる。

ベンはスキャンダルやゴシップを専門にしている作家。好きでそういうものを書いているわけではなく、その枠にしか入れなかったのだ。ベンは最近、スコット・フィッツジェラルド(ウエンツ瑛士)の『華麗なるギャッツビー(グレート・ギャッツビー)』が再評価されているということを語り、フィッツジェラルドは44歳の若さで亡くなったが、その妻のゼルダ(濱田めぐみ)の消息を辿ったところ、精神病院に入院していることを知り、ゴシップ記事が書けないかと、わざわざゼルダを訪ねてきたのだ。

精神病院に入院しているぐらいなのでちゃんとした話が聞けるのかどうかが最初の問題であったが、ゼルダはきちんとした服装をしてにこやかに現れ、ベンを動揺させる。他の入院患者は患者用の服を着ているのだが、ゼルダだけは落ち着いた身なりなのだ。ゼルダが統合失調症(舞台では以前に使われていた「精神分裂病」が用いられている)という不治の精神病を患っているのは確かなのだが、病状は比較的軽いようだ。ゼルダは入院している理由を「ここは静かだし、どんなに読書をしても怒られることはないから」とベンに告げる。

ゼルダは「全米初のフラッパー(日本でいう「モダンガール」=「モガ」に相当するもので、それまでとは一線を画した服装や生活スタイルを持つ女性を指す言葉。串田和美の『もっと泣いてよフラッパー』でもよく知られている)」であり、毎日のように新聞の紙面を飾っていた。18歳の頃はモテまくりであり、人目を引くために肌色の水着を着てプールに飛び込むなど、目立ちたがり屋でもあったらしい。当初は「自由を奪われる」という理由で結婚などする気もなかったのだが、ゼルダを翻意させたのがスコット・フィッツジェラルドであった。

ゼルダがスコットと出会ったのは、ゼルダの地元・モントゴメリーにおいてだった。1917年、予備将校訓練学校に入っていたスコットは仲間と共にアラバマ州モントゴメリーを訪れる。そこでゼルダを一目見て恋に落ちた。
スコット(ミドルネームであり、「スコットはミドルネームさ」というシーンもあるが、フランシス・スコット・キーというのはアメリカ国家「星条旗」の作詞をした遠縁の人物と同じであり、ごっちゃにされるのが嫌でスコットをファーストネーム代わりに使ったのかも知れない。ポール・マッカートニーと同ケースである)は作家志望であり、それも並みの作家ではなく、アメリカを代表するような作家になるのだという夢を持っていた。ゼルダに小説家としての夢を語り(ゼルダは小説家という職業について、「一人で部屋に閉じこもって世の中とやらを分析している方ね」と皮肉を言うが、スコットは「真実は書くが汗臭い部分はカットする。そういう仕事です」と誇り高く述べる)、薔薇色の未来を想像する。だが、その想像の中にゼルダはいない。それが悔しくてという妙な理由でゼルダはフィッツジェラルドのプロポーズを受けいれ、二人は婚約することになる。

ベンは、「それで二人でニューヨークに出たわけですね」と聞くがゼルダは否定する。「最初の2年は、スコットはニューヨーク、私はモントゴメリーの遠距離恋愛」であり、そうなった理由はスコットが「作家として世に出るまではゼルダをニューヨークに呼びたくない」というものであった。だが、スコットと遠距離恋愛している間もゼルダは他の男性と付き合っている(スコットも他の女性と付き合っているのでおあいこであるが)。2年後、スコットがついに作家デビュー。処女作『楽園のこちら側』は、50万部のベストセラーとなり、スコットはアメリカン・ドリームの体現者となる。

時あたかもアメリカの最盛期と呼ばれる1920年代。スコットとゼルダは豪遊する夫妻として有名になる。だが、ある日、ゼルダはスコットの書斎の机の上に自分の日記が置かれてあるのを見て不審に思う。スコットに尋ねると、「君の日記を使って書いている」と悪びれることもなく言う。書いたばかりの原稿を読むと、なんとゼルダの日記が一字一句そのままに引用してある。スコットは「小説の中で君を書く」と言ってはいた。だが、ゼルダは自分の日記をスコットが勝手に「盗用」しているとは思いも寄らなかった。しかもスコットは「君のことを書くには君が日記に書いたことをそのまま書くのが一番だし、君の日記を僕が文章へと昇華している。だから、君の日記の文章はもう僕の文章なんだ」と本気で考えており、ゼルダに悪いとすら思っていない。

ベンは、スコットがゼルダをコマーシャルに利用したのではないかと疑う。スコットとゼルダが新聞や雑誌の紙面を飾ることで、スコットの小説家としての名声も上がる。そしてそのことで妻は心を病んでいく。ベンは、これならスキャンダルになるとして、『妻殺しの男 スコット・ギャッツビー』というタイトルまで思いつく。だが、実際のスコットは無邪気な男で、妻をコマーシャルに利用しようと考えつくような知恵が回る人間ではなかった。

スコットとゼルダの薔薇の日々も長くは続かなかった。ベンは、「1920年代には、パラマウントやコロンビア映画社が盛んに映画を作成し、ベースボールではニューヨーク・ヤンキースのベーブ・ルースのプレーに人々は熱狂した。時代の主役は次々に変わる。スコット・フィッツジェラルドも4~5年で世間から忘れ去られてしまった」というようなことを語る。

ゼルダはベンに、「スコットはお金持ちのフリを続けていた。でもフリだけ。実際は借金だらけだった」と語る。

スコットの小説は大衆から「酷い出来」と酷評されるようになる。

ベンはゼルダに、『華麗なるギャッツビー』執筆の時の話を聞く。
リヴィエラに療養に来ていたフィッツジェラルド夫妻。ゼルダはパイロットのジョーゼン(中河内雅貴)と恋仲であり、スコットにも愛人がいる(舞台に登場はしない)。ジョーゼンとの出会いでスコットとの生活に疑問を抱いたゼルダは、ある日、スコットに離婚したいと申し出る。スコットは離婚に猛反対。ゼルダを屋敷の一室に閉じ込めてしまう。しかし、その時、スコットの脳裏に一つの物語が浮かぶ。「金持ちの色男がある女性に恋をする。男は高価なドレスを女性にプレゼントするなどして女性を靡かせようとするが、女性は男の正体がわからないため不安である。それでも男は女をものにするがそれが悲劇を呼び……」。物語が浮かぶなり、タイプライターを走らせるスコット。閉じ込められた部屋の中で絶え間なく続くタイプ音を聞きながらゼルダは「一生この人といることになるのだ」と悟るのだった。

その『華麗なるギャッツビー』であるが、同業者からは高く評価されたものの、売れ行きはさっぱりで、スコットに追い風は吹かない。

一方のゼルダはスコットの夫人だけに収まるのは本意ではなく、絵画、バレエ、小説執筆などを始める。特にバレエは1日8時間の猛稽古をするが、幼少の頃からバレエを始めるのが常識という世界にあって、27歳のゼルダがいくら頑張ろうが、無謀だと笑われるのがオチであった。絵画もものにならず、バレエも駄目。自伝的小説を発表するが、売れたのはわずか1396部。自費出版本の売り上げ以下という惨憺たるものであり、ゼルダは精神を病んでしまう。精神分裂病と診断された。

スコットは生活費と妻の入院費を稼ぐためにハリウッドに向かう。だが、スコットはハリウッドでは名前すら忘れられており、「フィッツジョン君だっけ?」などと言われる始末。おまけにスコットに回された仕事は、大衆向けのちんけなドンパチものや安手の恋愛ものの脚本。「芸術などいらない!」と言われたスコットは意に染まない仕事を続けていく。

そんな中、あるテーマを書いた小説をどちらが書くがで、スコットとゼルダは言い争いにある。ゼルダの主治医(中河内雅貴)を間に、スコットは「長編小説でしか書けない題材で、長編小説が書けるのは僕だけだ」と主張するが、すでの小説を書いているゼルダは「8年間、長編小説をただの1編も書いていないのはどこの誰かしら?」と当てこする。

結局、スコットがゼルダの原稿を破り捨てるまで喧嘩は続くが、スコットはゼルダに、「ゼルダ、文章を書くというのは文字を羅列することではないんだ。文体は命。人が歩き、腰掛ける、ただそれを描写するだけで世界が変わっていく。文章は生き物なんだ」と語る。

ハリウッドと東海岸、スコットとゼルダは離れて暮らし続ける。スコットが最後に訪ねてきた時のことをゼルダはベンに語る。ゼルダの容色が色褪せてしまったのは自分のせいだとスコットは自責の念を口に出す。だが同時に本当に愛したのはゼルダだけだと伝える。スコットがアルコール依存症が引き起こした心臓麻痺により44歳で早世するのはその数ヶ月後だった。

スコットがゼルダに送った最後の手紙には、「医師はアルコール依存症でありながら、この年まで心臓発作を起こさなかったのは奇跡だと語った。だが、療養することで心臓も良くなってきている」と書かれていた。だが、心臓は良くなっておらず、スコットは帰らぬ人となる。

その話を終えた後で、ゼルダはベンに、「ところであなた、自信はあるの?」と聞く。ベンは、「自信も何も、私は生活のために文章書いているような作家でして」と告白し、ゼルダに「じゃあ、自信も誇りもなく作家をやっているのね」と怒気を含んだ口調で迫られた時に、「金のために仕方なく作家をやっている人間もいるんです」と自己弁護する。ゼルダは怒り、「生きている意味がない!」などと叫ぶ(実は、台本にはゼルダが怒るところまでのセリフしか書かれておらず、その後のセリフは濱田めぐみに任されていたそうだ。そのことはアフタートークで語られたが、当の濱田は、「え? あたし、そんなこと言った?」と覚えておらず、ゼルダが乗り移ったまま無意識に口を突いて出た言葉であることがわかった)。

ゼルダは医師や看護師達によって、強制的に隔離される。

ベンは、精神病院を後にしようとするが、思い返して、再びゼルダの病室を訪ねる。ゼルダはスコットの小説について、「なんとしてもしがみついてやろうという強い精神力、我々アメリカ人が多くは諦めてしまったものを彼は持ち続けていた。彼の小説には輝くような生命力と強靱なスタミナがある」と評する。フィッツジェラルドの遺作『ラスト・タイクーン』は未完に終わったが、ゼルダはフィッツジェラルドの不屈の魂が宿っているとして、知り合いのいる出版社に掛け合って出版して貰ったのだという。そして、ゼルダも諦めることなく今も小説を書き続けている(数年後、精神病院は火事になり、ゼルダは巻き込まれて自身の小説と共に48年の短い人生を散らした)。スコットとゼルダの逞しさに打たれたベン・サイモンはフィッツジェラルド夫妻のことを記事にするのは止めた。だが、この不思議な夫妻の魅力、その一挙手一投足、「二人だけが見ることの出来た風景」などに惹かれ、本格的な文学作品を書いた。そのタイトルは「スコット&ゼルダ」である。

ミュージカル「ラ・マンチャの男」に似たメッセージを持つ作品であった。特に目新しいものではないが、観る者に勇気を与えてくれるメッセージである。「諦めるな、諦めるな、絶対に諦めるな」。これはウィンストン・チャーチルのモットーであったそうだが、これは励ましであると同時に、安易に諦め、惰性で生きようとする我々への戒めでもあるように思う。確かに栄光は短く空虚かも知れない。だが、目指すのは栄光でなくても良い。己を曲げないことも大切なのだ。

私は合理的にものを考えるのが好きなので、一度、客におもねるような解釈に自作を変えようとして、「それはやらない方が良い」と言われたことがあるが、確かに、何をするかは自分が決めることで相手に合わせることではない。その時の私は己を曲げてしまっていたわけで、フィッツジェラルドのタフさの対極にいたわけである。そして今、思い返すと、解釈を変えないで良かったとも思う。私ももっとタフであるべきなのだろう。

主要キャスト4人を始め、出演者は端役に至るまで、歌、ダンス共にレベルが高く、日本ミュージカル界の底力を知る思いである。演奏も充実。フランク・ワイルドホーンの音楽も分かりやすいが、その分、圭角がないため記憶には残りにくい。

スコット役のウエンツ瑛士は優れた歌唱を披露したが、彼はタレントでミュージカルが本職ではないため、バリバリのミュージカル歌手である濱田めぐみに比べると声が浅いところから出ており、ファルセットもやや不安定ではある。だが、ここまで歌えれば十分だとも思う。

佐々木蔵之介が実力を認めたことで知られる蓬莱竜太の手掛けた台本もなかなかのもの。蓬莱本人の作で私が「これは優れている」と思ったものは残念ながらまだないのだが、「スコット&ゼルダ」では良い仕事をした。

鈴木裕美の演出も優れていたように思う。

終演後、ウエンツ瑛士、濱田めぐみ、中河内雅貴、山西惇の4人によるアフタートークがある。

ウエンツ瑛士が、「みんな(他の3人)は、大阪、慣れてるでしょ」と言ったので、何のことかと思ったが、実はウエンツ瑛士が大阪で舞台を演じるのは今日が初めてなのだという。知名度のある人なのでとっくの昔に大阪での舞台を踏んでいるものだと思っていただけにかなり意外であった。ウエンツは、「山西さん(京都市生まれ京都大学卒。劇団そとばこまち出身)から、『大阪のお客さんは違うよ』と聞かされていたので、不安でしたが、確かに違いました。ですが今日は背中を押される思いでした」と語る。
大阪のお客さんはとにかく盛り上がるので、演じる方としてはやりやすいと思う。東京のお客さんは結構冷たいので。

司会の女性が出演者に、「一番記憶に残ったセリフ」を挙げるよう促す。4人はセリフを思い出すために頭を抱える。中河内は、「最初の山西さんのセリフで、『雪が降っていました』」とボケると、ウエンツも「雪が降っていました」と同じことを言う。ウエンツが本当に記憶に残ったセリフはゼルダの「婚約って行動する権利を束縛するものなの?」というもの。スコットと婚約中のゼルダが男遊びを見とがめられて放ったセリフであり、ウエンツは袖で着替えながらゼルダのセリフを聞いているのだが、このセリフが出てきた時だけ、着替えの腕がピクッと止まってしまうという。

山西は、やはりゼルダのセリフで「男の人が私に恋するのには慣れているから」というもの。普通は「男の人に恋するのには慣れているから」と来そうなものだが、実際は逆なのである。ゼルダという女の不思議さが浮かび上がるセリフである。

濱田は、「文章は文字の羅列じゃないんだ。生き物なんだ」というセリフに考えさせられるものがあったそうで、「文章を不正確に扱ってはいけない」ということで、ずっと台本を読み、今では台本はボロボロ状態だそうである。

濱田は、「ゼルダという、この不思議な人、どこに行っちゃうんだろう?」と言う。「ずっと一緒にいて、体に馴染んだのに、明日の公演でさよなら。それからゼルダはどこに行っちゃうんだろう?」
ウエンツが「新幹線に乗って一緒に品川で降りるんだ」と言うが、濱田は「私、新横浜、神奈川県(在住)だから」と別の話になっていた。

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2015年9月17日 (木)

観劇感想精選(161) ミュージカル「レ・ミゼラブル」2015

2015年8月26日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後6時から梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「レ・ミゼラブル」を観る。ミュージカルの定番である「レ・ミゼラブル」であるが私は観るのは初めて。ミュージカル「レ・ミゼラブル」の日本初演は1987年であり、以後、毎年のように上演されてきた。ただ大阪でミュージカル「レ・ミゼラブル」が上演されるのは9年ぶりになるという。2012年の映画化を経て、2013年に演出などを一新した新演出版の日本初演が行われた。今回の上演は新演出版「レ・ミゼラブル」の大阪初演である。なお、オーケストラピットを使っての生演奏での上演であったが、今日の指揮者は珍しく指揮棒を左手に持つ人であった。

原作:ヴィクトル・ユゴー(ユーゴー)、脚本:アラン・ブーブリル&クロード=ミッシェル・シェーンベルク。音楽:クロード=ミッシェル・シェーンベルク。作詞:ハーバート・クレッツマー。演出:ローレンス・コナー&ジェームズ・パウエル。テキスト日本語訳:酒井洋子、訳詞:岩谷時子。

主要キャストはトリプルキャストであり、それも組み合わせはイレギュラーで、何パターンの上演キャストがあるのかは把握出来ないほどである。

今回の主要キャストは、吉原光夫(ジャン・バルジャン)、川口竜也(ジャベール)、里アンナ(ファンテーヌ)、平野綾(エポニーヌ)、原田優一(マリウス)、清水彩花(コゼット)、KENTARO(テナルディエ)、浦嶋りんこ(マダム・テナルディエ)、野島直人(アンジョルラス)、子役はガブローシュに松永涼真、リトル・コゼット(「レ・ミゼラブル」の絵で最も有名なものはリトル・コゼットを描いたもので、本公演でもポスターに使われている)に黒川胡桃、リトル・エポニーヌに新井夢乃。アンサンブルは他にも大勢おり、更には主要キャストもアンサンブルとして掛け持ちで出演している。
今回のキャストの中では声優としても活躍している平野綾が一番知名度があると思われるが、元劇団四季の吉原光夫も2011年に歴代日本キャストの中では最年少となる32歳でジャン・バルジャン役を勝ち取っているなど、顔ぶれは充実している。「レ・ミゼラブル」は完全オーディション制を取っており、有名な人でもオーディションを通らなければ出演することは出来ないそうである。

原作であるヴィクトル・ユゴーの小説は岩波文庫の分厚い版で全4巻という大河小説であり、全てを劇に置き換えることは出来ない。私も12歳の時にダイジェスト版を読んで、19歳の時に岩波文庫全巻を読破しているが、フランス・ロマン派の代表作家(というより晩年は唯一の仏ロマン派の作家になってしまったわけだが)の小説だけあって、途中に長編詩が挿入されているなど、個性的な作品である。そうした味わいを劇に生かすのは無理であり、ジャン・バルジャンとジャベールの対立、マリウスとコゼットとエポニーヌの三角関係(正確にはマリウスとコゼットは相思相愛で、エポニーヌはマリウスに思いを寄せているだけ。つまり片想いである)、バリケードでの戦いなどが中心に描かれている。楽曲と構成は映画版とほぼ同じだが、映像と舞台ではやはり違った印象を受ける。

心理劇的な部分もあり、内容も感動的というようよりも声楽の威力で観る者を興奮へと誘うものである。勿論、エポニーヌやガブローシュらの死は悲しみを誘う。

舞台装置は大掛かりなものを使う。開演前は紗幕が掛かっており、ヴィクトル・ユゴーの名前がアルファベット(Victor Hugo)が白抜きで右下に記されている。その後は巨大な舞台装置が移動するほか、映像もそう多くはないが使われる。

最も有名なナンバーは、スーザン・ボイルのデビューに一役買った「夢破れて」であるが、この曲の変奏や部分的なメロディー、コード進行はその後何度も登場し、メインテーマのような役割を果たしている。今回の公演で「夢破れて」を歌ったファンテーヌ役の里アンナの歌唱は私の解釈とは異なるが、声の良く通った美しいものだったと思う。

出演者の中で私が最も良いと思ったのはエポニーヌ役の平野綾。平野綾の舞台に関してはこれまで余り評価してこなかったが、「レ・ミゼラブル」はほぼ全編が歌という構成であるため、彼女の歌唱力の高さが存分に生かされている。エポニーヌが失恋の思いを歌うナンバー(「オン・マイ・オウン」)はおそらくこのミュージカルの中で最も難しい曲だったと思うが、平野は見事に歌い上げていた。声優だけに声のコントロールも抜群だ。

ジャン・バルジャン役の吉原光夫は時に威厳があり時にジェントル、コゼット役の清水綾花は可憐、ジャベール役の川口竜也も堂々としており、マリウス役の原田優一にも華がありと、出演者の演技と存在感と個性、歌唱力はいずれも高いものがある。また人海戦術を生かし、大勢でユニゾンするナンバーの迫力は圧倒的だ。

良く出来たミュージカルであるが、これがヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』なのだと思うのはやはり早とちり。ミュージカル「レ・ミゼラブル」と小説「レ・ミゼラブル」は別物であり、小説の方はミュージカルなどでは描かれなかった部分に味があったりする。

とはいえ、ミュージカル、そしてエンターテインメントとしては一級の作品である。

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2015年3月13日 (金)

「サウンド・オブ・ミュージック」より“マイ・フェイバリット・シングス”(英語詞&アニメーション付き)

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2015年3月 5日 (木)

コンサートの記(174) 新妻聖子と京フィル「マイ フェイバリット ミュージカル~ミュージカル大好き!~」

2013年10月17日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、新妻聖子と京フィル「マイ フェイバリット ミュージカル~ミュージカル大好き!~」という演奏会を聴く。ミュージカルのトップ女優の一人である新妻聖子と、京都フィルハーモニー室内合奏団によるミュージックナンバーを中心としたコンサート。指揮は河内長野で7月に上演された歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「ジャンニ・スキッキ」でも指揮をしていた井村誠貴(いむら・まさき)。オペラやミュージカルで活躍している指揮者である。

曲目は、前半が、井村誠貴指揮京都フィルハーモニー室内合奏団の演奏で、ロッシーニの歌劇「セビリアの理髪師」序曲、チャイコフスキーの「四季」より10月“秋の歌”(編曲者不明)、ブラームスの「ハンガリー舞曲」第4番(編曲者不明)。ここからヴォーカルとして新妻聖子が加わり、「サウンド・オブ・ミュージック」より“サウンド・オブ・ミュージック”、「キャッツ」より“メモリー”、「レ・ミゼラブル」より“オン・マイ・オウン”、「ラ・マンチャの男」より“ラマンチャの男”。

指揮者の井村誠貴がマイクを手に曲目を紹介してから、演奏を始めるというスタイルであり、新妻聖子が加わってからは二人で曲目について紹介したり曲に関する思い出を語ったりする。新妻聖子は愛知県生まれであるが、11歳から18歳までは父親の仕事の都合上でタイで過ごしたという帰国子女である。タイでは首都バンコクのインターナショナルスクールに通っていたそうで、英語はペラペラ。そのため上智大学を卒業している。大学在学中から芸能活動を行っていたが、23歳の時に、5000倍の難関を突破して「レ・ミゼラブル」のエポニーヌ役を獲る。翌年には「ミス・サイゴン」のヒロイン、キム役にも選ばれ、以後は日本を代表するミュージカル女優として活動する傍ら、ストレートプレーにもいくつか出演している。東京には上智大学入学以降しか縁がないようであるが、性格は気っ風が良く、江戸っ子に近いものがある。

新妻聖子は黒いズボンの上に前が割れた赤いロングドレスという衣装で登場。これはスペインが舞台となっている「ラ・マンチャの男」を歌う時にドレスを開いて、闘牛士がマントを拡げた格好に見えるよう意識したものだという。

京フィルは、第1ヴァイオリン4名、第2ヴァイオリン3名、ヴィオラとチェロが2名ずつ、コントラバス1名という小編成。最初の曲である歌劇「セビリアの理髪師」序曲ではホルンが二度ミスを犯すなど、状態は今一つのようである。

新妻聖子は明るい声でのびのびとした歌声を披露する。

後半の曲目は、井村と京フィルのみの演奏で、チャップリンの「スマイル」(編曲者不明)、ビートルズの「オブラディ・オブラダ」(編曲者不明)、アンドリュー・ロイド・ウェッバーの「オペラ座の怪人」のテーマ(編曲者不明)。そして新妻聖子が加わっての、「オズの魔法使い」より“虹の彼方に”、「アンダンテ」(映画「アンダンテ-稲の旋律-」主題歌。作詞:新妻聖子、作曲は新妻聖子の実姉である新妻由佳子)、「レ・ミゼラブル」より“夢やぶれて”、「Time to say goodbye」。

オーケストラのみによる演奏は全て編曲者不明であるが、京都フィルハーモニー室内合奏団は独自の編曲による曲目を2000曲ほどレパートリーとして持っているという。なので京フィル関係者による編曲だと思われる。

後半は薄いピンク色のロングドレスに着替えて登場した新妻聖子は情感たっぷりに各曲を歌い上げる。全てマイクを使っての歌であったが、マイクなしでも通りそうな声である。

ちなみに新妻聖子の実姉である新妻由佳子は音楽家ではなく、普通の主婦だそうであるが(Wikipediaにシンガーソングライターとあるのは間違いのようだ)、ピアノが好きで、趣味で作曲もするため、聖子が書いた歌詞に由佳子が曲をつけたものを関係者に見せたところ、それが主題歌として採用されてしまったという。

新妻聖子と京フィルは、アンコールとして、ミュージカル「ミス・サイゴン」より“命をあげよう”と、新妻聖子のオリジナル曲である「私の星」を歌い上げ、演奏会は幕となった。

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2014年12月20日 (土)

コンサートの記(167) アサヒビールpresents佐渡裕芸術監督プロデュース2013「ジルヴェスター・ポップス・コンサート」 キース・ロックハート指揮 新妻聖子(ヴォーカル)

2013年12月30日 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後3時から、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、アサヒビールpresents佐渡裕芸術監督プロデュース2013「ジルヴェスター・ポップス・コンサート」を聴く。ジルヴェスターとはドイツ語で大晦日のことであり、今日は大晦日ではないが(語源からいくと大晦日ではある。旧暦は基本的に30日までしかないためである。旧暦には存在しないが、31日を表すと三十余り一日である)、明日も同一プログラムの公演があり、そちらが本当の本番で、カウントダウンもKOBELCO大ホール内で行われる。今日は正式にはジルヴェスター・イヴ・ポップス・コンサートということになる。

ジルヴェスター・ポップス・コンサートの演奏を受け持つのは、当然ながら兵庫芸術文化センター管弦楽団。指揮はボストン・ポップス・オーケストラの常任指揮者を28年の長きに渡って務めているキース・ロックハートである(「協力:ボストン・ポップス・オーケストラ」という記述が無料パンフレットにある)。ライトクラシックや映画音楽、ミュージカル・ナンバーを中心としたプログラム。ミュージカル・ナンバーを歌い上げるのは、日本を代表するミュージカル女優である新妻聖子である。司会を上村美穂が担当する。なお、今日、明日とテレビ収録が行われ、後日放送される予定である。

舞台後方にスクリーンがあり、そこに曲のタイトルや、ミュージカルナンバーの訳詞や歌詞が映し出される。舞台上方に星形にライトが並べられており、その下にスクリーン。左右にはオーストリアの国旗を90度傾けたような赤と白のストライプの幕が下がっている(舞台演出:小栗哲家。俳優である小栗旬の実父である)。

曲目は、前半が、ジョン・ウィリアムズの「雅の鐘」、ルロイ・アンダーソンのライトクラシック3曲(「舞踏会の美女」、「ブルー・タンゴ」、「そりすべり」)、ロジャースの「回転木馬」のワルツ(ウォーカー編曲)、バーリンの「ショウほど素敵な商売はない」(ベスターマン編曲)、ラーナー作曲&ロウ作詞の「マイ・フェア・レディ」よ“踊り明かそう”(ヴォーカル:新妻聖子)、ハマースタインⅡ世作詞&ロジャース作曲の「サウンド・オブ・ミュージック」より“サウンド・オブ・ミュージック”(ヴォーカル:新妻聖子)、ロジャース作曲の「王様と私」より“シャル・ウィー・ダンス?”(カレッジ編曲)、クロード=ミシェル・シェーンベルク作曲(佐野秀典編曲)&ブーブリルとクレッツマー作詞による「レ・ミゼラブル」より“夢やぶれて”(ヴォーカル:新妻聖子)、ライ作曲(丸山和範編曲)&ダリオン作詞の「ラ・マンチャの男」より“ラ・マンチャの男~我こそはドン・キホーテ”(ヴォーカル:新妻聖子)、ウォレン作曲(セベスキー編曲)の「フォーティーセカンド・ストリート」

後半は、ホワイティング作曲(ジョン・ウィリアムズ編曲)の「ハリウッド万歳!!」、スタイナー作曲(モーリー編曲)の「風と共に去りぬ」より“タラのテーマ”、ジャール作曲の「アラビアのロレンス」序曲、ホーナー作曲(スタロビン編曲)の「タイタニック」より“マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン”、エルマー・バーンスタイン作曲の「荒野の七人」組曲、そして、ロックハートの前のボストン・ポップス・オーケストラの常任指揮者、現・桂冠指揮者でハリウッド映画音楽作曲の第一人者であるジョン・ウィリアムズのトリビュートとして、「スター・ウォーズ」、「ジョーズ」、「スーパーマン」、「ハリー・ポッターと賢者の石」、「レイダース/失われたアーク」、「E.T.」の聴き所を抜粋したものが演奏される(ラヴェンダー編曲)、次はディズニー映画「ピノキオ」の「星に願いを」(ハーライン作曲、和田薫編曲)、そして、ロックハート、新妻聖子、上村美穂と共に聴衆も歌う「一緒に歌おう 名作映画主題歌集」(セベスキー編曲)が来る。「一緒に歌おう 名作映画主題歌集」に登場するのは、「時の過ぎゆくままに(As Time Goes By)」(「カサブランカ」)、「「雨にぬれても」(「明日に向かって撃て」。正式には主題歌ではなく挿入歌である)「ムーン・リバー」(「ティファニーで朝食を」。これも挿入歌という形でオードリー・ヘップバーン本人が口ずさんでいるものの方が有名。オードリー・ヘップバーンは歌は苦手であり、本人が歌っているのはこの映画のシーンだけであとは吹き替えである)、「追憶(The Way We Were)」(同名映画の主題歌)、「ケ・セラ・セラ」(「知りすぎた男」。挿入歌である)、「ジッパ・ディ・ドゥー・ダー」(「南部の唄」)、「虹の彼方(Over the Rainbow)」(「オズの魔法使い」)。邦訳よりも原題の方が有名な曲もある。

クラシックの曲だとややこしい拍子の曲(例えば第九の「歓喜の歌」は、実は8分の6拍子という、比較的難しい拍子で書かれている)や変拍子だらけの曲があったりするのだが、ライトクラシックや映画音楽、ミュージカルは基本4拍子、たまに二拍子や三拍子で、特に難しい拍子が用いられることはない。4分の4拍子は楽曲の基本で頻出するため、楽譜には4分の4ではなく、Cに似た記号が用いられる。
ロックハートの指揮も、ノンタクトで、拍子を刻んでいくという正統派のもの。たまにパフォーマンスとして飛び上がったりする。
18年前にボストン・ポップス・オーケストラの指揮者となった頃のロックハートは甘いマスクで人気を集め、コンサートホールには若い女性の黄色い声や、「結婚して!」などのラブコールが飛び交ったことでも知られるが、それから18年経ったロックハートは年相応に少し太り、53歳のちょっといけてるおじさんという印象である。今日はサスペンダーの付いた濃紺の服で指揮をする。指揮者というより作業者のような格好である。「雅の鐘」を演奏した後で、客席の方に向き直って、「こんにちは」と日本語で挨拶し、「大掃除は終わりましたか?」とこれも日本語で言って笑いを取る。

兵庫芸術文化センター管弦楽団の女性奏者は、みなカラフルな色のドレスで登場。今日はコアメンバーとされる現役の奏者(兵庫芸術文化センター管弦楽団は在籍期間基本3年と決まっているユース・オーケストラ&アカデミー・オーケストラであり、コアメンバーは3年が経つと他のオーケストラに移籍するか、ソリスト、アマチュアなどに転向することになる。日本のオーケストラは人事権が強く、欠員が出たときのみ募集が行われるため、任期終了後は日本ではなく海外に飛び出す人も多い)の他に、レジデント・プレイヤー、アフィリエイト・プレイヤー、アソシエイト・プレーヤーといった違いが余り良くわからない元団員や、ジャズなどに強い、エキストラ・プレーヤーを含めての演奏である。第1ヴァイオリンはコンサートマスターの豊嶋泰嗣(コンサートマスターはコアメンバーからではなく有名奏者を招く場合が多い。今日もそうである)を除くと女性奏者ばかりである。日本の場合、基本的に芸術大学や音楽大学、音楽学部などは女子学生の比率が圧倒的に高いので、結果としてオーケストラメンバーも女性の方が多いということになる。

在籍期間が短いプレーヤーばかりだと、どうしても成熟した音色やそのオーケストラならではの魅力に乏しくなるが、オーディションを勝ち抜き、更にこれからより良いオーケストラへと移ろうという意気込みに溢れた人が多いのでメカニックは優秀である。

兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールの音響はやはり素直な響きがして良い。

新妻聖子は、前半は黒いズボンの上に、前にスリットの入った赤いドレスという、今年、京都コンサートホールに出演したときと同じ衣装。後半はピンクのドレスで、これも京都コンサートホールで歌ったときと同じであった。「私はまだ大掃除が終わっていません」と挨拶して笑いを取る。
今日も、甘く、伸び伸びとした歌声が魅力的。

「レ・ミゼラブル」より“夢やぶれて”は、スーザン・ボイルが歌った抜粋版ではなく、レチタティーヴォ入りのミュージカルオリジナル版での歌唱であった。

後半の第1曲「ハリウッド万歳!!」は、映画音楽としてよりも「アメリカ横断ウルトラクイズ」の音楽として有名である。

「アラビアのロレンス」序曲であるが、先日、ロレンス役を演じたピーター・オトゥールが亡くなったばかりであり、図らずも追悼演奏ということになった。

ボストン・ポップス・オーケストラの前任指揮者であり、アメリカを代表する映画音楽作曲家のジョン・ウィリアムズの映画音楽を立て続けに演奏される前に、ロックハートは上村美穂の通訳付きで、「前任者が、あの偉大なジョン・ウィリアムズということで、ボストン・ポップス・オーケストラの指揮者に選ばれた時は、恐縮するというか、身が縮こまる思いだったよ」と語る。上村が「よろしくお願いします」と言うと、ロックハートは「わかりました」と日本語で返して笑わせる。推進力とダイナミズム溢れる素晴らしいジョン・ウィリアムズ作品の演奏であった。

有名映画のナンバーを聴衆と共に歌うという試みは、ボストン・ポップス・オーケストラの中興の祖ともいうべきアーサー・フィドラーが始めたもので、大好評だという。

無料パンフレットにも歌詞が載っており、スクリーンにも歌詞が映し出される。

有名ナンバーであるため私も歌う。というより私が一番張り切っていたような気もする(「雨に濡れても」と「追憶」はカラオケでも良く歌い曲だったりする)。

新妻聖子は客席通路に降りて歌ったりもし、ロックハートと上村美穂はロックハートのリードでソーシャルダンスをしたりする(その間は演奏はオーケストラ任せ)。

アンコールでは、まずスーザの「星条旗よ永遠なれ」が演奏され、新妻聖子のヴォーカルによる「タイム・トゥ・セイ・グッドバイ」、最後は「鉄腕アトム」マーチが演奏され、スクリーンにも歌詞が映され、聴衆が歌う。新妻聖子も上村美穂この曲に関しては自らは歌うことなく、終始、客席にマイクを向けていた。

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2014年8月26日 (火)

レナード・バーンスタイン指揮ロンドン交響楽団 レナード・バーンスタイン 「キャンディード」序曲

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