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2005年10月31日 (月)

戯曲を読む。そして稽古

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劇中劇として入れられた有名な古典戯曲のワンシーンを演じてみる。

10月30日、日曜日の朝10時に稽古開始。
宮藤官九郎の『鈍獣』の第2幕を読む。埼玉県本庄市で起きた事件をベースにした展開が続く。話しは不気味さを増し、それが一瞬にして覆る。リアルでは全然ないが、物語展開は巧みであり、ラストになって、全ての説明がつくような仕掛けになっている。ただ、ラストは肝心な部分が書かれていないので、上演された劇や、もしくは発売されているDVDを観ないと解りづらいはずだ。
無意味な部分も多いのだが、この手の劇には無駄が必要である。おちゃらけた部分と、シリアス(クドカンさんの本なので本当の意味でのシリアスにはならないが)な場面のコントラストが妙に可笑しい。

鴨川左岸の次回上演台本の読みと、半立ち稽古も開始。劇中劇、というほど大袈裟ではないが、ある有名な古典劇のワンシーンが挿入されている。一人芝居なので、ここが役者の見せ所の一つとなる。西洋人の動きを意識して最初は「大袈裟に」という注文での演技。結果、写真のようなポーズを取ることにもなった。

稽古を終えてから、戯曲の細部の詰めを話し合う。

その後、永尾さんからメールが届き、更に細部を詰めることにする。

演出をしていると、役者は大体同世代か年下。年上でもせいぜい5、6歳上というケースが多いのだが、永尾よしろうと私は20歳以上も歳が離れている。

これほど年上の役者と二人で仕事をするケースは、小劇場ではほとんどない。貴重な経験となるだろう。

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2005年10月28日 (金)

紙、舞台、空気、違和感

台本が出来、もしくは台本が決まり、読み合わせを行う。紙に書かれた文字が、声という形を与えられ、耳に届く。演劇に携わるものなら、そこでいくつもの違和感と出会うはずだ。
違和感。もしそれを感じないで、すんなり演技の世界に入っていけるなら、それに越したことはないのかも知れない。しかし、この違和感こそ大切だと、私は感じている。

私の書いた本で読み合わせを行う。役者がセリフを読み上げる調子に引っかかりを覚えることがある。この場合は、大抵はセリフに無理があるのである。文語調になっていたり、日常から遠く離れた言葉であったりする。日常と紙の上の世界と舞台上の世界に乖離が生じていると言っても良い。これはマイナスの違和感だ。セリフを書き換える必要がある。

例えば、今の時代に、「唐変木!」などというセリフを書く人はいないと思うが、仮にそういうセリフを書いたとしよう。役者がそのセリフを読み上げると、確実に妙な雰囲気になる。役者もそんな時代がかった言葉を発したことはない。妙になるのは当然だ。
舞台上には舞台特有の空気が流れている。しかし現実世界から完全に隔絶されているわけではない。時代物でもないのに、現実から遠く離れた単語を使うと奇異に感じるのもまた当たり前である。
しかし、妙ではありながら舞台の空気に合うセリフというものがあるのも事実である。

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2005年10月17日 (月)

新作戯曲と『鈍獣』

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本保の新作戯曲(左)と、宮藤官九郎の『鈍獣』

10月16日、日曜日の朝9時から稽古。
まず出来上がった戯曲を読み、タイムを計る。伸ばすか削るか微妙なところ。上演時間をこちらで決められるならいいのだが、今回はそういうわけにはいかないのだ。
半立ち稽古、立ち稽古を見ながら調整していこうと思う。

ついで他人の戯曲の読み合わせ。前回、『三月の5日間』を読んだので、今回はもっと前の時代の戯曲、別役実あたりを読もうかとも思ったのだが、別役などはみな読み慣れているので、『三月の5日間』と同時に岸田戯曲賞を受賞した、宮藤官九郎(愛称:クドカン)の『鈍獣』を読むことにする。私はDVDも観ているので内容を把握できているということもある。

『鈍獣』は『三月の5日間』とは違い、ストーリーで勝負するタイプの戯曲である。
上演時間は約3時間あるので、今回は前半(第1幕)を読む。
笑いに次ぐ笑い。読んでいながら爆笑してしまう。
第2幕は第1幕とはまた趣向が変わる。次回の稽古で読む予定だ。
『鈍獣』もやはり上演するつもりはないし、上演する気になれない作品である。
ただ声に出して読むと、黙読したり、DVDで観たりといった、視覚での把握とは違う、聴覚的な面白さが出てくるのがわかる。
声に出して読んで一番興味深かったのは、音楽的発想で書かれている部分があるのがわかったこと(注:カラオケの部分ではない)。クドカンさんはロックバンドでギターやボーカルを務めているが、それももちろん影響しているのだろう。
実は『鈍獣』という戯曲はラストが端折られているので、戯曲を読んだだけではクドカンさんの意図は伝わらない。私もDVDを観て初めて、「ああ、そういうことなのかな」と思った。
演出は河原雅彦であったが、ラストシーンの演出にはクドカンさんの指示があったと思われる。

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2005年10月10日 (月)

次回作の読み合わせ+他者の戯曲を読む効用について

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岡田利規の「三月の5日間」を読んで複雑な表情を浮かべる永尾よしろう。(撮影:本保弘人)

次回作は30分足らずの一人芝居を行う予定である。台本は3分の1ほどしか出来上がらなかったが(なぜ出来上がらなかったのかは「猫町通り通信」を参照して下さい)、とにかく出来た分で読み合わせを行う。セリフが多いためか思ったより時間がかかる。3分の1程度のつもりだったが、実際は2分の1近く来てしまっている。これではクライマックスになる前に時間切れになってしまうので、細部を削って、後半のプランを前倒しにする必要がある。
今回は特別な一人芝居にするつもりはない。といっても実際どうなるかはわからないが。
だが、最低でも上演する意義のあるものにはしたい。

ついで前回も読んだ、チェルフィッチュの岡田利規の戯曲「三月の5日間」の読み合わせ。
私は前の日に親不知を抜いたばかりで口が上手く開かないのだが、それでもなんとか精一杯読む。

「三月の5日間」は岸田國士戯曲賞受賞作だが、風変わりなスタイルを持つ。男優5人、女優2人による芝居だが、役者は語り手と演じ手の両方を務める。基本的には「語り」、つまり説明の部分が大部分を占めるのだが、この説明がわざと下手に書かれている。セリフは膨大なのだが、30字で語れることを、敢えてその100倍も、200倍もの言葉を費やして語るのである。いわば「言葉の多い失語症」のメタファーのように。

舞台は東京・渋谷。かなり具体的な地名(ブックファーストだとか東急だとか、スペイン坂、といった風に)が書かれており、渋谷に通い慣れている人なら光景が目の前に浮かぶように思うだろう。
東京を記号化した遊びの要素もある。戯曲中に出てくる固有名詞(必ずしも登場人物ではない)は、ミノベ、アズマ、ヤスイ、イシハラ、スズキだが、これは全員、歴代の東京都知事の苗字から取られている(美濃部亮吉、東龍太郎、安井誠一郎、石原慎太郎、鈴木俊一)。「スズキっていうのはすごく体の柔らかい人なんですけど」、というセリフを聞いて、かって鈴木俊一氏が4度目の都知事選に立候補し、「老人だからやめておけ」と対抗勢力に揶揄されたのを受けて、テレビの前で、立位体前屈をして「まだ老人ではない」とアピールして見せたことを思い出し、笑ってしまう人も多いだろう。
さらに「ユッキーっていう(あだ名の)女の子」が重要な登場人物になるのだが、ユッキーとは、青島幸男前都知事から取られたあだ名だろう。

内容的にはイラク戦争が始まった5日間に、一組の男女が渋谷のラヴホテルに泊まってずっとやっていた、というそれだけの話なのだが、ラヴホテルの部屋という、一種、隔離された空間にあって、遥か彼方の戦争をよりはっきりと感じている、というところに面白さがある。渋谷の街を歩いていた反戦デモなどの記述などが、他の何時でもなく、その日、その時であるという「時間」の特別性を鮮明にする装置として働いている。
私(本保)も同時期に大阪の御堂筋を歩いていて、反戦デモを見かけ、それとなく参加して500mほど一緒に歩いたという経験があるから、「三月の5日間」に登場する若者達の心情は比較的把握しやすい。

「渋谷がいつもの渋谷じゃないように見えた」というのは決して否定的なセリフではないように思う。歴史的出来事を、戦地から遠く離れた渋谷の若者がヴィヴィッドに捉えていることを示すセリフだ。

しかし、それでいて彼らが戦争よりも「日常」に重きを置いているのが、頼もしくもある。駄目駄目なセリフを話す若者だけれども、戦争熱に浮かされて「机上の空論」に走らないのがいい。

ラストの二人(ミノベくんとユッキー)のセリフは、二人の気持ちが通い合ったほんの一瞬をさりげなく示していて(本当にさりげなくである)、好感が持てるものだ。

私は「三月の5日間」を上演するつもりはない。予定もない。だが、こうして他者の戯曲を読み合わせすることは、戯曲という世界の多様さに触れるという意味で重要なことだと思う。
演劇をやっていながら、自分の周辺の世界以外にはまるで関心がないという人は少なくないが、それでは人間として、ひいては役者としての幅が出ないという結果になりかねない。世界の狭さは表現の多様性を否定してしまう。
最近は学生の作品でも日常をそのまま(岡田利規のような加工をせずにという意味だが)舞台に上げてしまったような作品が目立つが、日常を描くなら、エッセイが一番簡単で適当な方法だ。そもそもいわゆる日常とは舞台に上げるべきものなのかどうか。
「表現とは何か?」、まずそういったこと考えるためにも、他者の戯曲の読み合わせは、例え上演する予定がなくても有効だと私は考えるのである。

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2005年10月 3日 (月)

新たなるプロジェクトへ

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色々書かれたホワイトボード

10月2日、日曜日。ひと・まち交流館でミーティング。次回作および更にその次のプロジェクトについて話を進める。

それから、チェルフィッチュの岡田利規(といってもチェルフィッチュとは岡田利規のソロ・ユニット名なので、チェルフィッチュ≒岡田利規となる)の戯曲「三月の5日間」の読み合わせを行う。多少(?)デフォルメされた若者言葉で書かれた本であり、読んでいてイメージは沸くが全体が掴みにくい特異な脚本である。こういう本を上演する気にはならないが、戯曲の多様さを知り、スタイル獲得のための訓練として、読み合わせは有効であるように思う。

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