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2005年10月28日 (金)

紙、舞台、空気、違和感

台本が出来、もしくは台本が決まり、読み合わせを行う。紙に書かれた文字が、声という形を与えられ、耳に届く。演劇に携わるものなら、そこでいくつもの違和感と出会うはずだ。
違和感。もしそれを感じないで、すんなり演技の世界に入っていけるなら、それに越したことはないのかも知れない。しかし、この違和感こそ大切だと、私は感じている。

私の書いた本で読み合わせを行う。役者がセリフを読み上げる調子に引っかかりを覚えることがある。この場合は、大抵はセリフに無理があるのである。文語調になっていたり、日常から遠く離れた言葉であったりする。日常と紙の上の世界と舞台上の世界に乖離が生じていると言っても良い。これはマイナスの違和感だ。セリフを書き換える必要がある。

例えば、今の時代に、「唐変木!」などというセリフを書く人はいないと思うが、仮にそういうセリフを書いたとしよう。役者がそのセリフを読み上げると、確実に妙な雰囲気になる。役者もそんな時代がかった言葉を発したことはない。妙になるのは当然だ。
舞台上には舞台特有の空気が流れている。しかし現実世界から完全に隔絶されているわけではない。時代物でもないのに、現実から遠く離れた単語を使うと奇異に感じるのもまた当たり前である。
しかし、妙ではありながら舞台の空気に合うセリフというものがあるのも事実である。

例えば野田秀樹の演劇には、現実から遠いセリフが存在する。野田の紡ぐ「詩的」とも称されるセリフは、舞台上であるからこそ成り立つものが多い。
言葉遊び、掛詞。日頃からそういう特殊な言葉ばかりを喋る人はまずいない。妙だ。しかし、野田の使うこれらのテクニックが舞台上では映える。

現実世界にマッチしたセリフが舞台上では死んでしまったり、書いた時点では効果的なのに、役者に合わないために凍ってしまうセリフがある。見極めは難しい。
小説家や、テレビや映画の脚本家が書いた戯曲が、舞台を殺してしまうケースが多いのも、セリフの追求が充分でないということに起因しているようだ。

あらゆる演劇があり、あらゆる様式の言語が舞台上で発せられている。何が起こってもいい、何を喋ってもいい。しかし、舞台上と観客席上は別の空気に支配されている。二つの空気が常に共振するとは限らない。

空気も言語も違うなら、舞台とは異国のようなものだと、考えてみる。異国で暮らすには異国の言葉の習得が不可欠だ。ならば異国のような世界である舞台上でも、そこに適したロゴスを獲得する必要がある。

それは可能か? 不可能ではない、というのが私の答えだ。

舞台に適した言葉を放棄してしまう演劇人がいる。日常を舞台に乗せようと努力し、あるいは逆に社会から隔絶した言葉を選ぼうと彼らは邁進する。

しかしいずれも閉じた世界を創り上げることにのみ貢献しているように思えてならない。
閉じた世界を表現し続けることが、演劇の閉鎖性に繋がるのだとしたら不幸なことだ。

現実を崇拝することなく、理想に走り過ぎることなく、それでいて肉体を持った言葉。
もしそれを追求するなら、「そのものずばりを指すのではない」言葉を探さなければならない。それを探すのは困難だろうか? 小説の中ではそういった言葉は、すでに当たり前のように使われている。小説でそれが可能なのは、小説が読み返すことが可能な表現方法だからだ。引っかかりを覚えれば、後戻りして確認し、了解することが出来る。

演劇は時間芸術であり、過ぎたシーンをもう一度検討している暇が観客にはない。
しかしそれなら、引っかかる言葉、違和感のあるセリフを多用するという方法がある。プラスの違和感を生み出せれば、これは大きな武器になる

演劇の「リアル」が追求されることがまた多くなり始めているが、「リアル」がそれほど大切だとは思えない。ならむしろ不自然でも、引っかかる言葉の積み重ねで、別の空気を揺さぶる方が有効なのではないか。

違和感。それは毒にも薬にもなる。ただ、「紙の上でも舞台上でもなく、観客の鼓膜の奥の空気を揺さぶることが出来れば」、そういう理想を私は持っている。

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