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2006年3月29日 (水)

演劇だけでは駄目なのです

日本には、「一意専心」、「一道に精進すること」が美徳とされてきた風潮がありました。今はそれほどでもないようですが、かっては「多芸は無芸」、「一芸に秀でれば遊ぶことなし」という言葉が本当に通ったようです。最近は多芸な人が増えてきたので、「マルチな才能を発揮」などと呼ばれて多芸が尊ばれ、一芸に秀でていても遊ぶしかない人も増えているようですが。

演劇も同様で、「演劇一筋」という人が面白い演劇をするか、というとそういうことは余りないようです。総合芸術だからということもあるでしょう。文学書を読まない人が劇作や演出をしても、余程生まれついてのセンスがある人でないと上手くいかないでしょう。

最近、危惧感を覚えるのは、

明らかに戯曲が読めていない演出家や俳優が増えていることで、理由は単純に勉強不足なのでしょうが、演劇以外の知識が乏しいということも影響しているように思います。

先日も、ある俳優さんが「大学で文学を学んだ」人物を演じていたのですが、知り合いということもあり、その人が太宰治の『斜陽』のタイトルも知らない文学音痴であることがわかっていたので思わず笑ってしまいそうになりました。やはり文学関係の知識が不足していると、まず演出家とのコミュニケーションが徹底されない上に、先鋭的な戯曲を読むことは難しくなります。難解な現代小説を読む必要はありませんが、最低限、有名作家の有名な作品には目を通しておく方が俳優として長生きできます。

読解力不足の演出家というものは本当はいてはいけないのですが、いるんですね。それも思ったよりも多く。演劇で一番勉強が必要なのは演出家であり、演出の知識はもちろん、音楽、美術、映画などの他の芸術に関する知識も必要になります。演劇だけでは駄目なのです。

演じる側がレベルアップしないと、当然ながら観客もレベルアップしません。

「無教養な者の不作法は彼らの無知に比例する。自分に理解できないことはすべてに対して、軽蔑をもって報いるのである」(ウィリアム・ハズリット)という箴言がありますが、「理解できないものは軽蔑すべきもの」という自己中心的芸術観を持つ人があらゆるジャンルで増えてきているようです。文化理解力、リテラシー獲得のためには教育の向上が必要なのですが、「感性重視の国語教育」はその上で余り良くありません。

また演劇をやる側も、「演劇をやらないと医師にも弁護士にもなれない時代が来る」などと演劇を過大評価していると、逆に演劇が本来持つ鋭さを欠くことになります。

文学も音楽も美術も鋭さを持たなければ存在意義は薄れます。アミューズメントパークのような演劇があってもいいのでしょうが、そればかりでは畢竟、アミューズメントパークに演劇が負け、演劇の衰退を加速させることになるでしょう。

演劇を過大評価せず、「文化」として根付かせるには、演じ手と観手の両方の成長が必要になります。そして何より演劇だけやっていたのでは駄目です。生きるということを解釈するには多くのものに触れる必要があります。

それ故、私は、「僕らは人生そのものを解釈する必要がある」として、読書と勉強に多くの時間を割くこと躊躇しなかったジェームズ・ディーンという俳優を尊敬するのです。

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