朗読テキスト

一人芝居用テキストとは別の朗読用テキストの訓練も始めました。訓練だけではなく、実際に人前で朗読もする予定。問題は明治時代に書かれたテキストなので、今は滅多に使われない言葉も多く、聞いてわかるのかということ。しかし、作家の言葉を無闇に変えるわけにはいかないのです。
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一人芝居用テキストとは別の朗読用テキストの訓練も始めました。訓練だけではなく、実際に人前で朗読もする予定。問題は明治時代に書かれたテキストなので、今は滅多に使われない言葉も多く、聞いてわかるのかということ。しかし、作家の言葉を無闇に変えるわけにはいかないのです。
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7月半ばから8月初旬にかけての作業も終わり、奥歯を抜いた痛みも癒えて、稽古を再開したいところなのだが、今日も稽古場を予約しようとして電話が繋がらず。稽古場取りには苦労させられる。
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稽古以外のことが忙しくて、余り進んでいなかったりします。少しは進歩した、かな?
少しではなく、かなり進歩したらまたご報告します。
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やはり1時間30分の一人芝居のセリフを憶えるのは容易ではない。前回は上演時間30分ジャストの一人芝居の演出をしており、その時は稽古を重ねているだけで演出である私も全てのセリフが頭に入ったので、「3倍でも何とかなるだろう」と思っていたが、もう30歳を過ぎて記憶力の減退が著しいのを甘く見ていたようである。
それはさておき、まずは、テキストの中に全文引用されている詩の朗読会でもやってみようかという気になっている。この詩、明治時代に書かれたもので、内容自体はなかなか優れているものの、構成が弱かったり、作者自身が反故にしてしまったということもあって余り知られていないのである。こういった詩を紹介するのも良いと思う。
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次の一人芝居は私自身が演じる予定で稽古も少しずつ行っているわけですが、そもそも戯曲の内容からいって私のような三流の中でも下の下の役者が演じられるような役ではないわけです。
しかしだからといって、ここが難しいところなのですが、上手い俳優が演じれば良いかというとそれはそれで戯曲に施された仕掛けが生きないことになります。というわけで何が何でも私が演じなければならないのです。
ということで慎重の上に慎重を重ねて稽古を重ねています。何といってもねえ……。ここから先はまだお教えできないわけですが。
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4月23日は、午前9時半に森遊館をチェックアウト。ちなみに写真は森遊館の部屋からの眺めです。
「こんぜ道の駅」で買い物。ブルーベリー羊羹とドライパイナップルを買う。ブルーベリー羊羹は美味しゅうございました。
それから信楽のミホミュージアムへ。日本をはじめ、中国、インド、ガンダーラ(アフガニスタン)、ペルシャ(イラン)、ギリシャ、エジプトの美術に触れる。ところで滋賀県信楽町は全国区の地名だったのですが、合併により甲賀市信楽という地名になりました。甲賀は「こうが」という通称の方が有名ですが、正式には「こうか」と読みます。
その後、田代高原の家・レストラン辛夷(こぶし)で近江牛ステーキ定食を食べる。しかし、信楽(しがらき)、甲賀(こうか)、辛夷(こぶし)と難読名が並びますね。とはいえ、近江牛ステーキ美味しゅうございました。
劇団「かいつぶり」は滋賀県の劇団なので、地元を題材とした劇もやりたいそうですが、そうなるとどうしても時代劇をやることになります。現代劇で地元のことをやろうとすると、暗い話になりがちになります。以前、「かいつぶり」のIさんに滋賀県で起きた知的障害者虐待事件を題材に戯曲を書いてみない? といわれたのですが、そうなると完成度を高めるためには救いも何もない結末にせざるを得ないのですね。「希望」ある結末はどうしても嘘臭くなります。悪は退治されなければいけないのですが、悪とはいえ、人が凋落するのは悲しいことです。
『チャンスの神様』の公演に参加して、大津の観客は「かいつぶり」には完成度よりは親しみやすさを求めているらしいと感じました。劇団の多様性という視点からも、垂直的思考にばかり拘泥するのは得策なのかどうか。
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4月22日、23日と、劇団「かいつぶり」の懇親会に参加してきました。2週間が経過してしまいましたが、おくればせながらレポートを書きたいと思います。劇団「かいつぶり」は大津市の劇団で、今年2月に本拠地である滋賀会館で、『チャンスの神様』を上演しており、その際に私も裏方として参加しました。それで懇親会にも呼ばれたわけです。
滋賀県栗東市にある金勝の里(こんぜのさと)「森遊館(しんゆうかん)」で1泊の懇親会は開かれました。写真がその森遊館です。「かいつぶり」の他には京都の少年野球チームが合宿に来ており(すぐそばに野球場がある)、彼らが食堂を使い、我々は野外でバーベキューを行います。森遊館があるのは栗東市内とは言え、JR栗東駅から車で30分以上かかる山の上。かなり寂しい場所(テレビの電波もちゃんとは入らない)ですが、眼下に見える栗東市の街の灯りがとても綺麗ね、ブルーライト…、ブルーライトは関係ないとして、瞬き煌めく街の灯りは見ているこちらの心にも火を灯します。
なぜ森遊館が選ばれたかというと滋賀県内ではここのテレビCMが頻繁に流れているそうで、「ぜひ泊まってみたい」ということになったようです。私もSさんに「びわ湖放送で(森遊館の)CMよくやってるでしょう?」と言われたのてすが…、ええと、私は京都市民…。
前置きが長くなりましたがバーベキューです。バーベキューは久しぶり。ついこの間まで、「私がバーベキューをやることなんてもう二度とないだろな」と思っていた、いやもっと正確にいうと、思うも何も、バーベキューという言葉は久しく頭に浮かんでもいなかったのです。
バーベキューは美味しいなあ、ということで食事の話は軽く飛ばしまして、バーベキュー後の宴会の席でのこと。「かいつぶり」の次回作は洋物をやろうということになりました。具体的な作品名も挙がったのですが、それはまだ公に出来ません。演劇の水準を上げたいという話も出ました。個人的には、水準は高いに越したことはないけれど、水準が全てではなく、あまり水準にばかり拘ると表現を見失う危険性もあると感じているのですが、それはまた別の機会に書きましょう。
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わかりやすさとは凡庸さのことではない。不必要な平易さは傲慢の現れである。
難解であることは決して優れたことではない。良き難解さは誠実であることの証であるが、悪しき難解さは視野の狭さしか示さない。
理解力に欠けることを自慢してはならない。人が一生かけて出す結論を一般論に還元してはならない。
最低のレベルを標準としてはならない。予習もせずにゼミに参加して、「(課題の図書を)読んできていません」と堂々と言う学生のような態度を取るべきではない。
あなたは世界ではない。世界を代表しているわけでもない。
「熱さ」に惑わされてはならない。理想を持ったことがない者が現実を直視することは決してない。
言葉とは鏡である。あなたが良き人であることを願う。
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東京でIT劇団が初公演を行ったと話題になっていますが、うちもIT劇団で1年間に3回も公演を行っているんですけれど…。やはり東京という立地と、マスコミが以前取り上げた、という理由で話題になっているのでしょうね。向こうは全員素人のようですが、こちらはいわゆる完全な素人は一人もいないという違いもあります。
日本には他にもIT劇団は数多くあると思うのですが、総数はどれくらいなのでしょう? 意外に少ないのかな。
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観劇というと、「敷居が高そう」というイメージを持たれる方が多いかも知れませんが、そんなことはありません。クラシックコンサートに比べるとマナーにうるさくありませんし、映画館に行くのと気分的には大差ないと思います。
そこで観劇初心者のための文章をここに書いておきます。
1,劇場
千人単位のキャパ(集客人数)から数十人程度のキャパまで各種あります。唐十郎の赤テントのように、劇場ではなく、公園などにテントを張ってその中で芝居を行う場合もあります。規模の大きな劇場は座り心地の良い椅子が用意されていますが(例外あり)、小さな所では箱馬(という木のボックス)の上に座布団を置いただけの席や、テント芝居になると平戸間に座ったりしますので、特にテント芝居では自前の座布団を持って行かないとお尻が痛くなる場合があります。ただ自前の座布団は往々にして忘れて帰ってしまうケースがあるので、忘れて帰ってもいいようになるべく安いものを選びましょう。
その他、小劇場ですと、靴を脱いでビニール袋に入れて観劇というケースも多いので、穴の開いた靴下をはいていると気まずくなることがあります。小劇場に行くときはお気に入りの靴下をはいて行きましょう。
素足に靴という石田純一のような方がいらっしゃるかどうかはわかりませんが、靴を脱いで素足で劇場に入るのは危険ですし、冬場は寒いのでやめましょう。
2,上演時間
1時間から2時間までのものが一般的です。実験演劇として数分から数十分のものもありますし、3時間を超える大作もあります。長時間の作品でも演出の都合上、途中休憩がない場合もありますのでトイレは開演前に済ませておきましょう。これは映画館でも全く一緒ですね。どうしても我慢できない場合は正面突破しましょう。構いません。
3,チケット
「チケットぴあ」などのように電話やインターネットでチケットを買うのが一般的です。その他上演される劇場や劇団などが独自で販売することもあります。劇場や劇団のホームページを確認することをお薦めします。映画同様、当日券というものもあります。前売りより少し値段が高めです。これも映画館と一緒ですね。注意しなければいけないのは、人気公演になると当日券がなかったり、あっという間に売り切れになる場合のあること。事前に劇場や劇団に電話で問い合わせてみるのもいいかも知れません。
4,マナー
携帯電話、PHS、ポケットベル(まだ使っている人はいるのかな?)など音の出る機器は電源をOFFにしましょう。ごくたまにですが、音を出すと役者に突っ込まれる場合がありますので注意しましょう。
お気に入りの役者が出て来ても、例えば「拓哉くーん」などと黄色い声援を飛ばしてはいけません。有名俳優などは登場するだけで大拍手などということもありますが、他の人が拍手してから自分も拍手した方がいいでしょう。一人だけで拍手していると時として空しくなることがあります。
歌舞伎は除き、役者に向かってかけ声することもお薦めしません。以前、歌舞伎用の劇場でイギリスの作家の本を使った二人芝居が上演された際に、出演していた沢田研二に「ジュリー」とかけ声をしている年配のおそらく歌舞伎常連客(俗称:大向こう)と思われる男性がいましたが、芝居の雰囲気に合っていませんでした。かけ声はやはり歌舞伎だけにしましょう。
劇場内は禁煙です。飲食も基本的には厳禁です。お腹が空いて芝居に集中できなくなったら思い切って芝居を諦めて食事に行きましょう。しかし、日本の演劇や劇場は西洋のそれとは違って途中退場がしづらくなっているので、事前に軽く食事をしておいた方が良いでしょう。
5,公演の見つけ方
「どこで演劇をやっているのかわからない」という方もいらっしゃるかも知れません。「ぴあ」や「シアターガイド」などで見つけることが出来ます。またインターネット上にも公演案内専用のホームページがあるので検索してみましょう。
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陳凱歌監督の映画『さらば我が愛 覇王別姫』に、「人間とは芝居を観るもの。芝居を観ないものは人間ではない」というセリフが出てくる。
芝居を観ないものは人間ではないというのは言い過ぎだと思うが、演劇がエンターテイメントの王道からかなり外れてしまった今、「人間であるために」、敢えて、「演劇を観よう」と言いたい。
演劇をやろう、というのが私たち演劇人にとって、今、最も叫ぶべきことなのかも知れない。演じることの素晴らしさを語り、演劇の教育面における有効性を説く。
でもその前に、まず、もっと演劇を観ようと言いたいのだ。
故・淀川長治は「もっと映画を観なさい」とことある毎に口にしていた。映画が人生において大いなる滋養となることを示した言葉だが、同じことが演劇においてもいえる。
私は演劇を観ることで多くのことを知り、考えた。観劇からは沢山の生きるヒントが得られるのだ。
演劇を観ない演劇人も増加傾向にある。自分の演技には熱中するけれど、他人の演技を観るのは嫌いという人もいる。しかしそうした人達が作る演劇とは何なのか。自己解放とはいうけれど、自己満足に終わる可能性も否定出来ない。
他者の人生への視線、他者への興味。それがあって初めて演劇が奥行きを持てるのではないか。
演劇にしろ何にしろ、他人様がやっていることを観て学ぶのが第一歩だ。小説を読まない小説家がほとんどいないように、音楽を聴かない音楽家がまずいないように。映画嫌いの映画監督が存在しないように。演劇をやりたいのなら、まず演劇を観よう。そして何故、自分が演劇をやりたいのか、己に問うてみよう。
当たり前のようで、案外守られていない初歩の初歩をここに記しておきます。
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台本が出来、もしくは台本が決まり、読み合わせを行う。紙に書かれた文字が、声という形を与えられ、耳に届く。演劇に携わるものなら、そこでいくつもの違和感と出会うはずだ。
違和感。もしそれを感じないで、すんなり演技の世界に入っていけるなら、それに越したことはないのかも知れない。しかし、この違和感こそ大切だと、私は感じている。
私の書いた本で読み合わせを行う。役者がセリフを読み上げる調子に引っかかりを覚えることがある。この場合は、大抵はセリフに無理があるのである。文語調になっていたり、日常から遠く離れた言葉であったりする。日常と紙の上の世界と舞台上の世界に乖離が生じていると言っても良い。これはマイナスの違和感だ。セリフを書き換える必要がある。
例えば、今の時代に、「唐変木!」などというセリフを書く人はいないと思うが、仮にそういうセリフを書いたとしよう。役者がそのセリフを読み上げると、確実に妙な雰囲気になる。役者もそんな時代がかった言葉を発したことはない。妙になるのは当然だ。
舞台上には舞台特有の空気が流れている。しかし現実世界から完全に隔絶されているわけではない。時代物でもないのに、現実から遠く離れた単語を使うと奇異に感じるのもまた当たり前である。
しかし、妙ではありながら舞台の空気に合うセリフというものがあるのも事実である。
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