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2011/06/23

芹沢鴨の墓

芹沢鴨の墓

新選組壬生頓所・八木邸の南、壬生寺にある新選組初代筆頭局長・芹沢鴨の墓。同士であった平山五郎とともに眠る。
武士は「源平藤橘」のどれかを氏として名乗ることが多い(新選組幹部は藤原氏が多い)ものの根拠が曖昧な場合がほとんどであるが、芹沢氏は桓武平氏直系で中世には芹沢城の城主であったという正真正銘の名族である。また江戸時代以降は代々医師の家系で、鴨の次兄も医師であり、その子孫も医師として現在、茨城県石岡市で開業中である。芹沢鴨も医学の心得があったといわれる。

芹沢鴨。氏は平、諱は光幹(みつもと)。芹沢外記幹定の三男として生まれたとされる。幼名は玄太、龍寿の二説がある。剣は神道無念流免許皆伝で師範代の腕前。江戸で道場を開いたともいわれるが定かではない。剣の腕は相当のものだったようで、大坂で力士達と争いになった時は、角棒を持った力士達を脇差しのみで切り捨てたと伝わる。芹沢暗殺時も、近藤派は「芹沢一人殺るのに、こちらは五、六人殺られるのを覚悟しなければならない」として泥酔させて狙ったとされる。
学問は水戸学を学び、武田耕雲斎に師事する。神官の家である下村家の婿養子となり、下村嗣司(嗣次、継次などと書かれることもある)を名乗る(近藤も故郷・多摩に宛てた文に「水府脱藩下村嗣司改芹沢鴨」と書いている)。一方で木村嗣次とするものもある。水戸天狗党の前進である玉造党に参加、幹部となり約300人の部下を率いたとされる。水戸天狗党時代には規則を破った部下3人の首を一瞬で撥ねて、勇名を轟かせるが、のちに逮捕され入牢するも大赦で出獄、同時に芹沢鴨を名乗るいうのが一般的な芹沢鴨の前歴であるが、記録によると下村嗣司なる人物は斬首されたとあり、斬首された人間が京で活躍出来るはずはなく、実は大した戦績のない芹沢が多少は名の知れた下村嗣司を騙った可能性もある。芹沢の前半生は史料不足で謎が多い。

鴨という名は風変わりであるが、「常陸国風土記」に倭武尊の鴨にまつわる話が出てくること(常陸国で倭武尊=倭武天皇が、鴨を射たところ、鴨は弓音だけで落ちたという。このことから勤王の意志を表したという説もある)、また、もし仮に下村家に養子に入ったらなら、下村家は神官の家であるので、「神」の古代での呼び方「かも」に由来するのかも知れない。

将軍家茂上洛警護のための清河八郎率いる浪士組結成に参加。水戸派と呼ばれる一派の首領であり、お守り役として平間重助が付いていることから、水戸派の中でも特別な存在であったことがわかる。また、清河八郎は浪士組結成以前から芹沢鴨を知っており、芹沢のことを「芹沢先生」と呼んだともいう。

上洛後、清河八郎の「浪士組を尊皇攘夷の急先鋒にする」という考えに、近藤勇とともに反対。浪士組の江戸帰還後も京に残る。近藤勇、新見錦とともにトップである局長となり、その中でも筆頭であった。

新選組三部作の筆者である子母澤寛が近藤勇を主人公としていることから、力がありつつも悪玉扱いされている芹沢であるが、近藤を善玉にするために意図的に悪玉にされた可能性が高い。

子母澤の新聞社での部下であった城井友治は子母澤の描く芹沢像に反発し、『芹沢鴨の生涯 新選組異聞』で、芹沢を酒の飲めない朴訥な人物と描いていて異色である。

近年は芹沢見直しの傾向が強く、新選組屯所・八木邸でも「大変な人物」と評価している。また、大河ドラマ「新選組!」で三谷幸喜は芹沢役に佐藤浩市を起用し、「気は荒いが博識で一廉の人物」という芹沢像を生み、作家の浅田次郎は「芹沢こそが大将の器」として描いている。

梅の花を愛し、梅を家紋とする菅原道真を祀る北野天満宮で「雪霜に色よく花の魁けて散りてものちに匂う梅が香」という歌を詠んで額を掲げたという。この歌は古典の教養がなければ詠めない歌であり、これだけでも芹沢の教養の高さがわかる。

芹沢に関する証言は少ないが、愛妾であったお梅が「これまで芹沢ほどの人物に会ったことはない」とベタぼれだったこと、また芹沢暗殺の直後に壬生の老婆が「芹沢さんはとてもいい人だったのに、大変なことになりなさった」と語ったと伝わる。また絵が上手く、近所の子供のために絵を描いて親しまれたという。

酒癖の悪さが有名な芹沢であるが、当時の八木家の当主である八木源之丞が「芹沢さんは酒さえ飲まなければいい人なのに」と語ったという話が伝わっており、また源之丞の長男・為三郎は「酒を飲んでいない時はなかった」と後に証言しているが、証言に食い違いが見られる。芹沢の酒癖の悪さの証拠とされる、角屋の営業停止処分も酒の上での乱行なのかはっきりしない。

芹沢の乱行の一つとして名高い大和屋焼き討ちも最近ではフィクションの可能性が指摘されている。

歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」を愛し、新選組の隊服を作るときも、赤穂浪士を真似てだんだら模様を入れたという。なお、隊服の浅葱色は武士が切腹する際に着る色と屯所を置いた壬生が良きわき水の出るところであったことから水色系の色として鴨が決めたという。近藤や土方は浅葱色の隊服を好まず、沖田総司に至っては一度も浅葱色の隊服を着なかったという証言もある。芹沢暗殺後は、浅葱色の隊服は用いられなくなり、池田屋事件の際に浅葱色の隊服を着た隊士がいたという証言を最後に消え、以後、新選組の隊服は黒一色のものになる。

「尽忠報国之士芹沢鴨」と書いた鉄扇を愛用し、文久三年八月十八日の政変の時は、壬生浪士組(芹沢等水戸派は精忠浪士組と称した)の存在を知らなかった会津藩に蛤御門で槍をかざされ、浪士一同がひるむ中、鉄扇で槍の穂先を交わして、問答を続け、周りの者達は呆気にとられたという。この一件により、壬生浪士組の存在が知れ渡り、「新選組」の名を下賜されるに至る。

だが、その直後の文久3年9月18日(16日とする史料もある)深夜、新選組屯所・八木邸にて襲撃される。刺客は4~6名とされ、確定的なのは土方歳三、沖田総司、原田左之助の3人である。山南敬助がいたという証言も複数あり、刺客の一人であった可能性が高い。永倉新八がいたようだという証言もあるが、後年の永倉新八の証言によると根拠が薄いようだ。

当夜は、新選組の名を下賜されたことを祝う酒宴が島原の角屋であり、芹沢は角屋で酒を呑んだあと、八木邸で土方らと共に再度酒宴を開いたという。
深夜、刺客が襲う。全員が芹沢を第一に狙っていたはずだが、芹沢は泥酔して寝ていたにも関わらず、最初の一撃を交わす。当日、沖田が殴られて怪我をしたことがわかっており、芹沢は沖田の剣を交わした可能性が高い。芹沢は寝ていた大広間から抜け出し、八木源之丞の妻であるおまさ、子供の為三郎と勇之助が寝ていた隣室に逃げ込むが、そこで文机に躓き、斬られたという。その際、勇之助が刺客に足を切られており、翌日、沖田が「子供を斬るとは残酷だ」と語ったと伝わる。

芹沢暗殺は長州の仕業とされ、前川邸にて壮大な葬儀が神式に基づいて執り行われた。弔辞を読んだ近藤勇は男泣きしたという。芹沢と近藤は親しい時期があったとも言われる(八木源之丞の母の葬儀をともに手伝ったという)が近藤の涙が本当のものなのか演技だったのかははっきりしない。

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