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2013/12/31

同志社墓地・新島襄の墓

同志社墓地・新島襄の墓

東山三十六峰の一つ若王子山の山頂付近にある同志社墓地。同志社設立に携わった人々が眠っている。

同志社大学の祖である新島襄は、上野国安中藩江戸屋敷に生まれた。幼名は七五三太(しめた)。女ばかり4人が生まれていたため、男の子が生まれたと聞いた新島襄の祖父が「しめた!」と言ったことからその名が付いたという説もある。
幕府の軍艦操練所で学んだ後、アメリカに密航し、フィリップス・アカデミーを経て、アマースト大学理学部を卒業。日本人初となる学士号を得ている(最初から正規の留学生による初の学士号取得者は会津出身の山川健次郎である)。

その後、正規の留学生と認められ、岩倉使節団派遣の際に岩倉らと対面。木戸孝允に語学力を買われて通訳に抜擢され、ヨーロッパを巡っている。

宣教師になる教育を受けた後で、宣教師試験に合格し、日本には宣教師として戻った。

キリスト教の精神に基づく学校を建てたいという望みを抱いていた新島は京都・寺町に同志社英学校を設立。京都府顧問の山本覚馬の妹である山本八重と結婚し、覚馬の尽力もあって旧薩摩二本松藩邸跡地などを新たに確保した。
その後、同志社英学校の東隣に同志社女学校を設立。

同志社英学校を大学にするべく奔走するが、生来、余り体が丈夫でなかったということもあり、また夏は暑すぎ、冬は寒すぎる京都の気候に慣れることも出来なかったようで、心臓を患うようになる。この頃、京都の厳しい気候を避けて有馬温泉に湯治に何度も行っていたことがわかっている。
出張先の群馬県前橋市で倒れ、神奈川県大磯町で療養するも回復せず、同地にて客死した。享年46歳。

墓石に刻まれた揮毫は勝海舟のもの。嵐によって倒壊したこともあったが、1987年に再建。揮毫も以前のものが写されている。

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