大阪市章

有名な大阪市章。難波橋の欄干にも刻まれている。みおつくし(澪標)を基にデザインされた。
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東京都渋谷区恵比寿。恵比寿の地名の由来となった、サッポロビールのヱビスビール工場跡に1994年にオープンした恵比寿ガーデンプレイス。異国情緒のある場所で人気も高い。写真はシャトーレストラン、ジョエル・ロブション。
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横浜みなとみらい地区にある、オフィス、ショッピング、文化総合ビルディング、クイーンズスクエア横浜。横浜みなとみらいホールもクイーンズスクエアの一角にある。
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京都府城陽市寺田今堀にある文化複合施設「文化パルク城陽」。2つのホールの他、音楽練習室、音楽スタジオなどがある。1995年竣工。
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東京都新宿区。山手線ではJR新宿駅の一つ北の駅である新大久保は、23区内最大のコリアンタウンのある街としても知られる。
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JR御茶ノ水駅付近の外堀は非常に深い。この辺りの堀の工事を担当したのは初代仙台藩主・伊達政宗。
ある日、徳川家康は伊達政宗との会見中、「そちならどこから江戸を攻めるか?」訊いた。政宗が「それがしなら本郷から攻めまする」と答えると、家康は「ならば本郷はそちに任せた」と言ったという。政宗は敵が絶対に越えられないような深い堀を築いた。仙台藩が築いたことからこの付近の堀は仙台堀または伊達堀と呼ばれ、江戸時代には景勝の地として知られたという。
深い堀を築かせることで徳川幕府は仙台藩の財政を疲弊させることに成功。一方、政宗は徳川秀忠と家光の後見人として家康直々に指名される。待遇は副将軍格であった。家康の飴と鞭の使い分けの上手さがわかる逸話である。
御茶ノ水のシンボルの一つである聖橋はニコライ堂(東京復活大聖堂)と湯島聖堂の間に架かるためにこの名がある。
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神戸ハーバーランドにある「はねっこ橋」。跳開橋と呼ばれる種類の橋で、船が通る時は、左右水平に伸びた橋梁の一部分が降り、橋板が中央から割れて吊り上げられるという仕組みになっている。
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日本橋というと、江戸時代の東海道の起点で、最近では景観問題でも話題の、東京の日本橋がまず頭に浮かびますが、大阪にも日本橋はあります。ちなみに東京の日本橋は「にほんばし」と読みますが、大阪の日本橋は「にっぽんばし」と読みます。京橋という地名も東京と大阪の両方にありますが、こちらはともに「きょうばし」と読みます。
写真は近鉄日本橋駅の看板。大阪の日本橋は西日本最大の電気街であり、東京の秋葉原に似たところがあります。
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オレンジの看板が特徴であるauのお店であるが、京都では景観に配慮して白地にオレンジの文字という地味な看板にしているところもある。
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三宅八幡宮のある左京区上高野三宅町一帯には、かってあちこちに水車小屋があった。これはその歴史を後世に伝えるためのものである。
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名古屋の繁華街・栄にある立体型親水公園「オアシス21」、最上階の「水の宇宙船」。上から見るとラグビーボールのような楕円形をした噴水池が、地上14mの場所に浮かんでいる。近未来の光景を先取りしたような施設である。
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名古屋テレビ塔の下にある「蕉風発祥之地」の碑。貞享元年(1684)の冬、松尾芭蕉がこの地において芭蕉七部集の第一作『冬の日』にまとめられることになる連句の会を行った。
こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉
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名古屋城三の丸内に絢爛豪華な建築群を誇った名古屋東照宮。明治維新後、現在の旧藩校・明倫堂跡地に移築されても、その輝きは変わらなかった。だが、昭和45年5月14日の空襲で全焼。現在の本殿は、初代名古屋藩主・徳川義直の正室・春姫(高原院)の霊廟を移築したものである。
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滋賀県甲賀市信楽(旧・滋賀県甲賀郡信楽町)の田代高原の家に置かれた信楽焼のタヌキ。発祥の地、信楽の信楽焼のタヌキである。
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近江八幡市内を通る京街道。江戸時代に朝鮮通信使がこの街道を通って江戸に向かったため朝鮮人街道とも呼ばれた。あきんどの里公園前で。
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あきないの里公園から見た旧伴家住宅外観。伴家は、信長や秀吉に仕えた武家であったが、のちに商家に転じた。屋号は「扇屋」で、畳表や蚊帳を扱い、豪商となった。当主は代々、庄右衛門と名乗っている。
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大坂・中之島。広島藩蔵屋敷と久留米藩蔵屋敷の間に蛸が足を広げたような形の松があり、「蛸の松」と呼ばれて観光名所になっていた。蛸の松は明治時代に枯れてしまったようだが、それを偲び、堂島川を挟んで向かいの田蓑橋北詰に再現された。
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かっては道頓堀の劇場街の中心的存在だった中座。営業不振で閉鎖、その後火災を起こすなど御難続きであったが、跡地は花田勝氏(元・横綱若乃花)経営の「ちゃんこダイニング若」を始めとする有名飲食店の入った「セラヴィスクエア中座」として生まれ変わった。中央の狸は「人気の神様」芝右衛門。4階に本尊の銅像がある。

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大阪屈指の繁華街・道頓堀。有名飲食店が並び、「食い倒れの街・大阪」の象徴的存在である。
道頓堀の掘削を開始したのは豊臣秀吉の家臣であった安井道頓。道頓は大坂夏の陣に豊臣方武将として参戦、堀の完成を見ることなく討ち死にするが、その功績が讃えられ、完成した堀は徳川方の松平忠明により「道頓堀」と名付けられた。江戸時代には道頓堀は劇場街として大いに栄えたが、往時の劇場は全て閉鎖されてしまっている。
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道頓堀沿いに整備された歩道。これまでの道頓堀のイメージを覆そうという観光および景観政策の一環として2004年12月に出来た。戎橋下で。

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JR近江八幡駅から旧城下町へと延びるメインストリート。「ぶーめらん通り」というのは妙な名前だが、道が上空からみると「く」の字型をしており、それに由来する通りの名なのだろうか?
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旧伴庄右衛門邸、近江八幡郷土資料館、歴史民俗資料館の並ぶ新町通りにある旧西川家住宅。かっての近江商家建築を今に伝える貴重な建物であり、重要文化財に指定されている。屋敷内から庭園を撮影。

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かっての商家(森五郎兵衛の別宅)の内部を保存公開している。近江商人の気分を存分に味わうことのできる空間。近江八幡市新町通り。

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伴庄右衛門は近江八幡を代表する商家で名は代々世襲である。近江屋の屋号で、近江八幡のみならず、大坂や江戸にも店を持った。明治になると経済的に逼迫するようになり、家を学校の校舎として貸し出したりもしている。非常広大な邸で当時の近江商人と伴家の財力の凄さを感じることができるが、かっては今の倍の面積を誇る屋敷だったというから畏れ入る。
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旧西川家住宅、歴史民俗資料館、郷土資料館、旧伴庄右衛門邸などが並ぶ新町通り。近江商人の街・近江八幡の良さをしみじみ感じられる通りである。

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ヴォーリズの片腕であり、ともに近江兄弟社を興した吉田悦蔵の家であった。大正2年(1913)竣工。国登録有形文化財。

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二戸一住宅という意味のある「ダブルハウス」。かってはヴォーリズが興した近江兄弟社の社宅だった。大正9年(1920)竣工。ヴォーリズ設計の住宅は写真下に見えるような独特の煉瓦塀に囲まれているのですぐわかる。

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近江八幡市池田町にはヴォーリズが設計した住宅が現在4棟残っている。写真は旧ウォーターハウス氏邸。現在は別の方がお住まいである。大正2年(1913)竣工。

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1880年、アメリカ・カンザス州レブンワースに生まれたウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1905年に英語教師として近江八幡市の八幡商業学校(現・八幡商業高等学校)に赴任。その後、建築事務所を開設。建築家として名をなす。近江兄弟社を興すなど実業家としても活躍した。一柳満喜子と結婚して日本に帰化。一柳米来留(ひとつやなぎ・めれる)と名乗る。近江八幡市名誉市民第一号となったのもヴォーリズだ。

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日牟礼八幡宮鳥居の真向かいに建つ白雲館。かっての八幡東学校校舎である。明治10年(1877)竣工。平成6年(1994)補修。国登録有形文化財に指定されている。現在は近江八幡観光の拠点として各種の地図やパンフレットが並べられている。レンタサイクルのサービスも行っており、近江八幡旧城下町観光をするには、まずここに立ち寄るといいだろう。
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近江八幡城本丸跡に建つ日蓮宗・村雲御所瑞龍寺。「御所」とあることからもわかる通り、日蓮宗唯一の門跡寺院である。秀吉により自害に追い込まれた羽柴秀次の母で、秀吉の姉である「とも」が秀次の菩提を弔うために京都・西陣に建てた寺院。昭和36年に秀次の城・近江八幡城本丸跡に移った。

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近江八幡城・北の丸跡から安土方面を望む。中央の一番高い山が観音寺城跡のある繖山(きぬがさやま)。その左手につながる峰の手前に安土山が見えるのだが写真ではハッキリ見えない。

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羽柴秀吉の甥で、のちに関白の座まで昇った羽柴秀次の拠城・近江八幡城。地元では八幡山城と呼ばれている。その名の通り八幡山の山頂にある。山頂まではロープウェイで行くことが出来る。
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安土町にある佐々木源氏の総社である。沙沙貴の名は、蒲生地方の古代豪族・沙沙貴山君(ささきやまぎみ。沙沙城山君とも書く)によるという。
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ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計。住友財閥二代目総理事・伊庭貞剛(いば・ていごう)の依頼により建てられたもので、息子で安土村長の伊庭慎吉の屋敷であった。現在は郷土館として保存されている。大正2年(1913)竣工。

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高島郡新儀村(現・高島市新旭町)の初等学校として、明治9年(1876)に建てられた柳原学校(りゅうげんがっこう)。安土町の近江風土記の丘に移築保存されている。内部も見ることが出来、普通の座敷のような職員室が印象的であった。滋賀県指定有形文化財。
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長浜にあったものだが、現在は安土町の近江風土記の丘に移築されている。江戸時代における近江湖北地方の典型的農家建築であり、国の重要文化財に指定されている。

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明治18年(1885)から昭和40年(1965)まで使われていた駐在所。現在は安土城考古博物館などがある近江風土記の丘に移築されている。

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堂島アバンザの前にある巨大なオブジェ。実はこの地にあった毎日新聞大阪本社旧社屋玄関部分のみを記念として復元したものである。

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童さん(?)。実際は鉢かづき姫だそうだ。寝屋川市の文化・観光案内係だそうである。案内図を手にしているが、経年で風化し、読み取れないものも多い。

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京阪・JR京橋駅から松下IMPビルまで伸びる大阪ビジネスパーク(OBP)連絡通路。写真はTWIN21ビルと松下IMPビルを結ぶ、通称:スカイウェイ。

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五花街の一つ宮川町。宮川とは四条通と団栗通の間の鴨川の異称。祇園祭の御輿洗いの御神水を鴨川のこの地点で汲むことから宮川と呼ばれるようだ。宮川町はその宮川の左岸に発展した。江戸時代の鴨川左岸は芝居小屋の並ぶ演劇街であり、見物客のための茶屋が立ち並び、それが花街に発展したという。ちなみに本来の宮川である四条~団栗間の花街は衰え、現在では団栗通以南がいわゆる宮川町となっている。
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密集した住宅地の中に、突如、広大な水田が現われる。これも京都らしい光景だ。どうしようもなく暑い京都の夏だが、瑞々しい稲の緑は一服の清涼剤となる。
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梅田駅から昨年オープンしたハービスENTに向かう、梅田地下街の一角「ガーデンアベニュー」。地下ガーデンや人工滝、ガラスの壁画や前衛的オブジェなどもあり、ウルトラモダンな雰囲気が漂う。
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旧・伊丹郷町の道路脇にある側溝。近世には酒粕を流す溝として使われたが、調査の結果、有岡城の堀の真上に造られたものであることがわかった。
近年になって整備され、見栄えあるものに変わっている。
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清酒発祥の地・兵庫県伊丹市にある酒蔵を利用して造られた、レストラン、酒関連のミュージアム、ショップ&ギャラリーなどの複合施設。伊丹市中央3丁目。小西酒造本社向かい。

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織田作之助の小説「夫婦善哉」やヒット曲「月の法善寺横町」でおなじみの小さな通り、法善寺横丁。2002年、2003年と立て続けに起きた2度の火災を乗り越えて、旧観を取り戻した。写真は西側の額。藤山寛美の筆による文字が刻まれている。

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JR伊丹駅前、有岡城土塁跡の上にそびえるカリヨンの塔(愛称:フランドルの鐘)。カリヨンとはメロディーを奏でることの出来る「組み鐘」のこと。伊丹市の姉妹都市であるベルギー王国・フランドル地方のハッセルト市から1990年に贈られたものである。高さ約15m。
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北白川は平安時代より良質の石の採れる里として知られていた。男は石工、女は花を作って白川女として売り歩くのを常とした。天下三名石の一つと呼ばれた白川石を切り出し、加工する石工の技を記念したオブジェである。北白川天満宮本殿に向かう坂道の途中にある。

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かっての赤線地帯である。高瀬川と鴨川に挟まれた地域。現在はさびれてしまっているが、ある時点から時間が止まってしまったような不思議な雰囲気の漂う場所である。
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通称:OBP。京橋駅近辺の超高層ビル群。このあたりは劇場やコンサートホールが立ち並び、近年「ヒガシ」と呼ばれるようになっている。

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長岡天満宮境内にある大きな池である。江戸時代初期に桂離宮造営でも知られる八条宮智仁親王の命により作られた溜め池であることからこの名がついた。
京都府長岡京市天神。
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大阪港中央突堤から対岸の住之江区を望む。中央の高い建物は大阪ワールドトレードセンタービル(WTCコスモビル。高さ256mで西日本一高い)。あまり縁起の良くない名前である。
どことなく大阪市の姉妹都市である上海市の浦東新区を思わせる光景。
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菅原道真を左遷させたことで有名な藤原時平の三男である藤原敦忠は三十六歌仙の一人であり、西坂本(現在の一乗寺)に山荘を営み、歌会を開くなど風流人として知られた。敦忠は38歳で亡くなるがその早逝を人々は「道真公の怨霊の仕業である」と噂したという。別荘跡の碑は一乗寺の曼殊院道(雲母道)にある。
「あひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」(権中納言敦忠)
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渡辺城跡、宮内少輔城跡ともいう。左京区一乗寺堀ノ内町。渡辺氏は源頼光四天王筆頭であり、「羅生門の鬼」の話でも知られる渡辺綱の子孫である。織田信長に反抗したり、大坂の陣では豊臣方主戦派となるなど、反骨精神の持ち主が多く出ている。土塁のある立派なお屋敷で、現在もご子孫がお住まいのため内部見学は不可。

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尼崎のことを地元の人は親しみをこめて「アマ」と呼ぶそうだ。直木賞を受賞し、映画化もされた車谷長吉の「赤目四十八瀧心中未遂」は尼崎が舞台。尼崎出身の有名人はダウンタウンの二人をはじめ、本上まなみ、南果歩、元ヤクルト・スワローズの池山隆寛、元メジャーリーガーの伊良部秀輝など数多い。

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平安京の大極殿の跡である。安元3年(治承元年、1177年)の火事で焼失した後は内裏は再建されず、一帯は荒廃し、「内野」と呼ばれるようになる。

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かっては阪急と京福電鉄のターミナルとして大変な賑わいを見せたというが、阪急が河原町まで延びてからは振るわない。新選組屯所のあった壬生の最寄り駅であり、大河効果で復活を狙う。

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一乗寺は園城寺(三井寺)の別院として建てられた天台宗寺門派の寺院。創建の時期ははっきりしないが、一説に藤原彰子の勧進という。紫式部が仕えたあの中宮彰子である。だがそれより100年も前の創建とする説もあるという。延暦寺の僧兵の焼き討ちに遭い焼失。再建されるが南北朝の争乱で再び燃え落ち、以後再建されず。現在では地名に跡を残すのみである。

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裏寺町の稱名寺。龍馬最後の地、近江屋の真裏にある。当時土蔵から境内に脱出用のハシゴが降りていたといわれる。だが事件当日、龍馬は母屋に移っており、このハシゴが役立つことはなかった。

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神聖な湧水池であった神泉苑。かっては今の二条城を含む広大な池であった。祇園祭の起源は京都の町衆が疫病退散を願い、祇園社(現在の八坂神社)から神泉苑まで練り歩いたもの。疫病は怨霊によるものだと思われていたため当時は御霊会と呼ばれた。
現在は東寺の管轄。通称:御池。御池通の御池とはここのことだ。
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比叡山。坂本は延暦寺の門前町として栄えた所。幕末の志士、坂本龍馬の先祖は明智光秀の家臣で坂本の姓は当地より採られた。桔梗紋も明智氏に由来。

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寓居の地。二年坂にある。最愛の女性である笠井彦乃とここで同棲生活を送る。だが彦乃はわずか25歳で世を去る。夢二がここで過ごしたのは奇しくも二年程であった。その様子は映画『およう』で描かれている。

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明治に入ってから寺町(かっての東京極通)の寺地を貫いて作られた新歓楽街。一時は劇場や映画館がここに集結した。松竹の肝煎りで巻き返しを図る。
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子安観音。北白川への入り口にあります。これを見た秀吉が気に入り、聚楽第に移しますが、夜毎「北白川に帰りたい」と泣いたり、恐ろしげな唸り声を発したりしたため秀吉は怖れ、すぐこの地に戻したという話が伝わっています。

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比叡山への登山道、雲母坂。志賀街道が整備されるまでは、ここが比叡山へのメインストリートだった。大変な急坂。親鸞上人は毎日この坂を登り下りしたという。松田正隆の『雲母坂』との関連は多分ない。

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