明智光秀公首塚

祇園白川沿いを三条通から少し南へ下がったところにある明智光秀公首塚。
山崎の戦いに敗れた光秀は居城である坂本城に逃げ帰る途中、小栗栖付近で土民に襲われて落命。「首を知恩院に埋めてほしい」という光秀の遺言に従い、家臣は光秀の首を持って知恩院に向かうが、あとちょっとというところで夜が明けてしまったため、やむなくこの地に埋められたという。
異説では、秀吉によって首実検された光秀の首がこの地に埋められたともいう。
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祇園白川沿いを三条通から少し南へ下がったところにある明智光秀公首塚。
山崎の戦いに敗れた光秀は居城である坂本城に逃げ帰る途中、小栗栖付近で土民に襲われて落命。「首を知恩院に埋めてほしい」という光秀の遺言に従い、家臣は光秀の首を持って知恩院に向かうが、あとちょっとというところで夜が明けてしまったため、やむなくこの地に埋められたという。
異説では、秀吉によって首実検された光秀の首がこの地に埋められたともいう。
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霊山神社のそば、維新の道沿いにある「翠紅館跡」の碑。かつてここに西本願寺の別邸「翠紅館」があり、長州藩士らによる倒幕の会合「翠紅館会議」が行われた。
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そごう心斎橋店屋上にある初代十合伊兵衛の像。そごう百貨店の前身である大和屋を興した十合伊兵衛(そごう・いへえ)。
そごう心斎橋店は、2009年8月末をもって閉店の予定である。
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薩長軍(朝廷方)と旧幕府方が相まみえた鳥羽・伏見の戦い。城南宮に本陣を布いた薩摩軍に、旧幕府方は鴨川に架かる小枝橋を挟んで対峙。旧幕府方が小枝橋を渡ろうとしたところで、薩摩軍が旧・鳥羽離宮秋の山に据えた大砲で迎撃を開始し、鳥羽の戦いが始まった。鳥羽離宮公園の秋の山の下に、「鳥羽伏見の戦い 小枝橋」の説明碑が建つ。
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鳥羽離宮南殿の跡は、現在、鳥羽離宮公園として整備されている。ただし往時の繁栄を偲ばせるものは、ほとんど何も残っていない。
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今も当時の道幅のまま残る、枚方宿付近の京街道。京街道の正式名は東海道だが、幕末になると東海道というと江戸~京都間を指すようになり、京都~大坂間は、京街道または大坂街道と呼ばれることが多くなった。枚方宿は、京~大坂の中間にある宿場街として大いに栄えたという。
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寺町二条上がる西側にある「藤原定家京極邸跡」の碑。寺町通は平安京の東端、東京極大路にあたる。定家はこの地で晩年を過ごしたという。
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『徒然草』の「仁和寺にある法師」で、仁和寺の法師が石清水八幡宮本宮と勘違いして詣でた摂社・高良社。男山の麓にある。大きな社だったというが、その後、火事に遭い、現在は高良神社として小規模の社があるのみである。さすがに現在では高良神社を石清水八幡宮の本宮と勘違いする人はいないだろう。
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京都府八幡市男山山頂にある石清水八幡宮。清和天皇(水尾天皇)の時代、貞観元年(859)に豊後の宇佐八幡宮から「吾、都近き男山に遷座せん」という託宣があり、八幡宮の総社として建てられた。男山には石清水という霊泉があり、石清水社という社が山頂にあったため、八幡宮も石清水八幡宮と名乗ることになったようだ。後三年の役で活躍した源義家はここで元服して八幡太郎を名乗り、八幡神を源氏の氏神としている。
社殿は現在、平成の大修造の最中。写真の楼門は修復が終わり、檜皮葺の屋根や朱がピカピカに変わった。
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烏丸御池上がる東側に立つ「梅田雲浜邸址」の碑。若狭国小浜藩士の子に生まれ、京都の小浜藩の塾の講師となった梅田雲浜は、尊王攘夷の思想に傾き、一橋慶喜の次期将軍擁立のための動きを見せために、大老・井伊直弼に睨まれて、安政の大獄の逮捕者第一号となり、江戸での取調中に獄死した。
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隠岐島出身の儒学者、中沼了三。上洛して儒学を学び、その後、烏丸通夷川下がる東側に私塾を開いた。門下生に、西郷従道(西郷隆盛の弟)、中岡慎太郎、松田重助(池田屋事件で死去)らがいる。早くから尊王倒幕の考えを持ち、維新後は明治天皇の侍講も務めている。
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尊皇倒幕の漢詩人であった梁川星巌の邸「鴨沂小隠(おうきしょういん)」跡の前から見た夕景。「鴨沂小隠」跡(川端通丸太町上がる)には最近まで石碑が建っていたが、付近の宅地が取り壊され、碑もどこかにいってしまった。
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ABC新社屋前に建つ「福沢諭吉誕生地」の碑。福沢諭吉は、当地にあった豊前・中津藩蔵屋敷内に生まれた。幼い頃にいったんは中津に戻った諭吉だが、成人後に再び大坂に出て緒方洪庵の適塾に学び、その後江戸に出て慶応義塾を開いている。
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薩摩に生まれ、維新後の大阪経済の中心人物となった五代友厚の像。彼が設立に関わった、北浜の大阪証券取引所の前に建つ。
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天誅組を組織して、倒幕の狼煙を上げた吉村寅太郎(虎太郎)。土佐に庄屋の子として生まれ、武市半兵太の土佐勤王党に入る。孝明天皇の大和御幸計画に乗じて、天誅組と称して大和国で挙兵し、代官所を制圧。しかし、幕府方の反撃にあって天誅組は分裂、吉村も戦死した。享年27。
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木戸孝允(桂小五郎)の墓と隣り合って建っている木戸松子(幾松)の墓。幕府方に命を狙われた桂小五郎をたびたび助け、賢夫人として知られる松子は、小浜藩士の娘として生まれるが、家計が苦しいため養女に出され、更にそこでも家計が苦しいとのことで三本木の芸者となり、そこで桂小五郎とであった。維新三傑の木戸孝允もたびたび命を救われた松子夫人には頭が上がらなかったという。
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京都霊山護国神社の一番高いところにある木戸孝允(桂小五郎)の墓。西郷隆盛、大久保利通とともに維新三傑の一人に数えられる木戸孝允は長州藩の出身。吉田松陰に学び、江戸に出て剣術を修め、神道無念流免許皆伝。剣は無類に強かったというが、その生涯で人を斬ったことは一度もなかったといわれる。
尊皇攘夷を掲げる東西の大藩である水戸藩と長州藩は交流があり、桂は尊皇攘夷の思想に明るい人物として水戸藩士らから水戸で講演するよう頼まれたが、これは実現しなかったという。ちなみに、桂を招こうとした人物の中にのちの新選組初代局長である芹沢鴨がいたともいわれる。
江戸から京に上った後は、京都における長州藩の中心人物として活躍した。薩長同盟を結んで、倒幕維新への道を開いた。
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日本陸軍の父である大村益次郎(村田蔵六)。長州藩の出身。日田の広瀬淡窓の咸宜園、大坂の緒方洪庵の適塾などに学び、医師として活躍したのち、蘭学の知識を買われ、伊予宇和島藩で西洋書の翻訳に従事。この時に西洋兵法への知識を得た。幕府が運営する江戸の講武所で西洋兵学を教え、その後に長州藩の西洋兵学の教授となる。
幕府の第二次長州征伐では高杉晋作らとともに幕府軍を打ち破った。戊辰戦争でも江戸・上野の彰義隊を破る。維新後は兵部省の事実上のトップとなり、日本陸軍の創設に尽力。しかし、明治2年京都出張中に刺客に襲われ、その時の傷がもとで2ヵ月後に世を去った。
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京都霊山護国神社にある高杉晋作と来嶋又兵衛の墓。奇兵隊の創設者として名高い高杉晋作は、松下村塾に学び、西洋の兵法に通じる。松下村塾と上海遊学時代を通じて西洋の平等思想を知り、身分を問わずに組織された奇兵隊を生み出したという。なお、軍団に「隊」という名を用いたのは、奇兵隊が初めてであるといわれる。
上海が西欧諸国に狙われていることを知った高杉は攘夷へと傾いていった。
来嶋又兵衛は、京都における長州藩の反幕府・反会津の急進派の急先鋒。会津藩から京の支配権を奪おうとし、長州藩の慎重派から待ったがかかった。この時、来嶋に思い止まるよう説得したのが高杉晋作であった。高杉の説得も空しく、急進派は禁門の変にて敗北、来嶋又兵衛は蛤御門のそばにある椋の木の下で自刃した。
長州藩を征伐すべく、幕府軍は長州に攻め込む。第一次の長州征伐は長州方の降伏で終わるが、これを不服とし、藩内の親幕派を一掃したのが高杉晋作であった。高杉晋作は、第二次長州征伐の際には長州の海軍を率い、幕府軍を打ち破った。しかし肺結核を患った高杉は大政奉還を知ることなく、わずか27歳で世を去った。
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長州藩士、久坂玄瑞の墓。玄瑞は号。通り名は義助、諱は通武。松下村塾出身の俊才であり、長州藩尊王攘夷派の中心人物であった。禁門の変にて戦死。享年25。
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池田屋事件の舞台となった池田屋の主人、池田惣兵衛(池田屋惣兵衛)の墓。事件翌日に逮捕され、程なく獄死した。
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松下村塾の英才として将来を嘱望された吉田稔麿。同じく松下村塾出身の明治の元勲である品川弥二郎は、「稔麿が生きていたら総理大臣になっていた」と、その夭逝を惜しんだ。池田屋事件にて戦死。享年24。
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河原町三条東入るにあった池田屋で、倒幕派の志士達が古高俊太郎救出のための会合をしているところに、新選組が討ち入った池田屋事件。生きていれば首相になったとも言われる宮部鼎蔵らが命を落とした。
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京都霊山護国神社にある坂本龍馬と中岡慎太郎の墓。左が坂本龍馬の、右が中岡慎太郎の墓である。現在も参拝者は多く、墓の周辺には二人に宛てたメッセージボード(石板)がびっしりと並んでいる。
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木曾義仲軍と源範頼・義経軍が相対した宇治川の戦い。激流である宇治川を馬で渡る宇治川の先陣争いが有名である。するすみに乗った梶原景季と、いけづきにまたがった佐々木高綱が先陣を争い、佐々木高綱が計略を用いて、一番乗りの手柄をあげた。
京都府宇治市橘島に碑が建つ。
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源頼政・以仁王の軍と平家の大軍が戦った宇治橋の戦いの舞台としても知られる宇治橋。日本で最も古く架橋された橋の一つ。1996年に掛け替えられたが、今も木製の欄干で、景観に配慮している。
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大阪の御霊神社の前にある御霊「文楽座之跡」記念碑。明治17年(1884)から大正15年(1926)までこの地に文楽のための劇場があった。現在は床本型の記念碑が建つ。
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源頼政が平家との戦いに敗れて自刃したとされる場所には、現在、扇の形に芝が植えられている。
埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ悲しかりける(頼政辞世の歌)
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平等院の塔頭、最勝院にある源頼政の墓。源平の時代にあって、源氏でありながら平清盛に近しい人物として、源氏としては異例の従三位まで進み、「三位頼政」とも称された源頼政。だが清盛の天狗ぶりに反発するところがあり、以仁王と共に平家追討を計画、以仁王の平家追討の令旨をもって全国の源氏に挙兵を促すが、平家側に情報が漏れたため、奈良に落ち延びようとする途中の宇治で平家の大軍に追い付かれる。平等院に立てこもって平家と対戦するが、多勢に無勢であり、頼政は以仁王を逃して平等院内で自刃した。時に77歳。
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藤原道長の別荘を、道長の子である頼道が寺院とした平等院。鳳凰堂は10円玉でもおなじみである。平等院鳳凰堂は阿弥陀堂ともいい、天喜元年(1053)の落成。平等院の建物の多くは罹災しているが、鳳凰堂だけは創建当時の姿を今に伝えている。国宝。世界文化遺産。
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平安京の西側を流れていた紙屋川。当時は荒れた川であり、都の西にあったことから三途川に見立てられ、死体捨て場であった時代もあったという。北野天神が建ってからは天神川とも呼ばれるようになった。豊臣秀吉の御土居造営の際に、西側の堀として活用するべく整備され、現在では、川底が掘られ、川幅も狭まっている。西京極総合運動公園横で。
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柳馬場通御池上がる、京都御池中学校の前にある「見真大師遷化之旧跡」。見真大師とは親鸞の諡号。親鸞はこの地にあった善法房にて弘長2年(1262)に亡くなったとされる。なお、松原通西洞院にある光円寺は、親鸞は光円寺のある場所で亡くなり、死後に善法房に移されたという説を採っている。
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学制、小学校令に先立って、京都では番組制に基づく小学校が開かれた。上京第二十七番組小学校では、明治元年(1868)9月に授業が開始され、翌明治2年5月21日に本格的な小学校授業が始まった。この上京第二十七番組小学校がのちの柳池校(柳池小学校 りゅうちしょうがっこう)である。昭和22年(1947)に柳池小学校は新制柳池中学校となる。現在は統廃合により同地には御池中学校が建っている。
柳馬場通御池上がるに「日本最初小学校 柳池校」の碑が立っている。
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左京区東大路通仁王門下がるにある満足稲荷神社。もともとは伏見城内に祀られ、豊臣秀吉がその御神徳に満足したことにより、満足稲荷と称されるようになったという。徳川綱吉の時代に現在地に移っている。
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大阪市北区茶屋町にある「凌雲閣跡」の碑。凌雲閣というと、東京の「浅草十二階」と呼ばれた塔が有名だが、大阪にも同名の塔があった。高さ約39m。9階建てで、「北の九階」の別名もあった。明治22年(1889)に完成。昭和初期までこの地に建っていたというが、いつ廃止・撤去されたのか正確なことはわからないという。
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左京区岡崎にある平安神宮の正門、応天門。平安神宮は、明治28年に行われた内国勧業博覧会の目玉として、8分の5サイズで再現された平安京の大極殿を、当初の予定通り神社に改めることによって始まった。
応天門は、かっての平安京大極殿の正門で、現在の千本丸太町付近にあった。「応天門」の額の字を書いたのは弘法大師こと空海であったが、空海は額が門の上に掲げられてから「応」の字の点の数を誤ったことに気付き、筆を投げて点を打ったという(これが「弘法も筆の誤り」という諺のもととなった)。また、伴氏(大伴氏)が没落した「応天門の変」の舞台ともなっている。
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大津市役所と新羅善神堂の裏手の山にある新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の墓。
新羅三郎義光こと源義光は、前九年の役で活躍した源頼義の三男。後三年の役で活躍した源義家は兄である。長兄の義家は石清水八幡宮で元服したので八幡太郎を、次兄の義綱は賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)で元服して賀茂次郎を名乗ったが、義光もそれに倣い、新羅善神堂の前で元服して新羅三郎を名乗った。義光の血筋からは、武田氏、佐竹氏など、戦国の世に活躍する名家が輩出している。特に武田信玄は義光のことを甲斐源氏の祖として敬っていたという。
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三井寺(園城寺)の中興の祖(事実上の開祖)智証大師円珍が留学先の唐からの帰りに海上に現れるのを見たという新羅の神を祀った新羅善神堂(しんらぜんしんどう)。源頼義の三男、源義光はこの新羅善神堂の前で元服の儀を行ったことから新羅三郎を名乗った。
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三井寺(園城寺)の下を通る琵琶湖疏水。主任技師は京都帝国大学を出たばかりの田辺朔郎。大津市から京都市山科区まで全長8.7キロのトンネルが掘られた。
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滋賀県大津市御陵町。大津市役所の裏手にある弘文天皇長等山陵(こうぶんてんのうながらやまのみささぎ)。
第39代天皇・弘文帝。明治時代になるまでは即位したかどうか不明であるとして、大友皇子という名のみであったが、明治になってから即位した可能性が高いとして、弘文天皇を追号され、第39代天皇となった。今でも大友皇子の名の方が良く知られている。天智天皇の子として生まれ、父の跡を継ぐが、壬申の乱で敗死。24年の生涯であった。
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千葉県千葉市にある千葉神社。現在の千葉市付近を根拠地とした千葉氏(坂東八平氏の一氏)の氏神である。祭神は北辰妙見(北極星と北斗七星)。なお、幕末の剣豪で、江戸・お玉が池に千葉道場を開いた千葉周作は千葉氏の子孫であり、彼が興した「北辰一刀流」の北辰は、千葉氏の氏神である北辰妙見に由来する。
本殿は日本初の重層社殿(二階建)であり、一階でも二階でも参拝出来る。
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東京・汐留の旧新橋停車場。かっては東京の表玄関であった新橋停車場(ステーション)。東京駅の完成により、その役目を終え、名前も汐留駅と変わって貨物駅となり、初代駅舎も関東大震災で倒壊した。だが汐留再開発に伴い、もともとあった場所に2003年に初代駅舎が外観復元された。写真をもとに、明治5年(1872)の開業当時の外観が再現されている。内部にはレストランと鉄道歴史展示室が入る。
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赤穂四十七士の一人、間新六。赤穂浪士の墓は、品川の泉岳寺にあるが、その一人である間新六の供養塔が築地本願寺境内にある。供養塔とはいえ、間新六だけはこちらに遺骨が埋められ、泉岳寺の墓には遺髪が収められたという。築地本願寺が間新六の正式な墓所ということになる。なぜ間新六だけが築地本願寺に埋葬されたのかについては、新六が浄土真宗の檀家だったからとも、新六自身の希望によるともいわれているが、正確なことはわからないという。
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幕府の御用絵師であった狩野家。江戸に四家あった狩野家の中でも最も栄えたのが木挽町の狩野家である。時の老中・田沼意次の知遇を得た木挽町狩野家の狩野尚信は、田沼の屋敷の西南角に、画塾を開き、木挽町狩野家に最盛期をもたらした。東京都中央区銀座五丁目にその跡地を示す案内板がある。
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携帯電話の普及により、公衆電話は次々に撤去されている。明らかに公衆電話設置のために作られたスペースも主を失って所在なげである。東山区役所で。
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明治11年(1878)5月、日本初の聾学校、盲学校である京都盲唖学院が創設され、翌明治12年(1879)9月に京都市中京区、現在の京都第二赤十字病院の建つ場所に、本校舎が建った。
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蛤御門の奥にある清水谷家の椋(むく)。禁門の変で倒幕の急先鋒であった、長州藩士・来島又兵衛が銃弾を浴びて負傷、自刃したのがこの椋の木の下であったという。
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代々そびえるモミの大木があったことからその名がついたという代々木。もともとの代々木は明治時代に枯れてしまい、今の代々木は第二次大戦後に植えられたものだという。明治神宮内苑(常盤の森)で。
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難波神社の御堂筋側鳥居横に建つ、「稲荷社文楽座跡」の碑。竹本義太夫、竹田出雲、近松門左衛門らの死後、勢いの衰えていた人形浄瑠璃であったが、初代植村文楽軒が、再興を果たす。人形浄瑠璃の最盛期をもたらした三代目植村文楽軒が人形浄瑠璃のための劇場・文楽座を建てたのが難波神社末社である稲荷社の前であった。人形浄瑠璃の総本山的立場にあった竹本座、豊竹座などが江戸時代後期に廃業する一方で、ここ稲荷社の文楽座は明治に至るまで盛んに人形浄瑠璃が上演されていた。人形浄瑠璃の別名が「文楽」と呼ばれ、正式名称よりもポピュラーな名称となった理由はここにあるという。
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左のプレートには「上京區夷川通川端東入上ル大文字町」とあり、右のプレートには「左京区大文字町」とある。左側のプレートは、旧字体で、横書きが右から左に読むようになっていることからもわかる通り第二次世界大戦前のもの。左京区が上京区から分離したのは、昭和4年(1929)のことである。
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横浜市中区、馬車道に面したところにある神奈川県立歴史博物館。かつての横浜正金銀行本店の建物を利用して昭和43年(1968)に神奈川県立博物館としてオープン。平成8年(1996)に神奈川県立歴史博物館となる。神奈川県だけに、鎌倉時代と明治時代以降の展示が充実している。横浜正金銀行旧本店は明治37年(1904)竣工。国指定重要文化財。
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岩崎博物館の外にある「山手ゲーテ座」の看板。ゲーテ座は明治時代に建てられたが、関東大震災で倒壊。その後の混乱もあり、一時はその正確な所在地さえわからなくなっていたという。昭和50年代の発掘工事により、ゲーテ座の所在地が確認され、昭和55年(1980)の岩崎博物館建設の際、地下に山手ゲーテ座として復活した。ゲーテは文豪のゲーテではなく、英語の“gaiety(愉快な)”に由来するという。
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浄土宗大本山百万遍知恩寺。京都大学吉田キャンパスの北、左京区田中門前町にある。山号は長徳山、院号は功徳院。後醍醐天皇の時代に大流行していた天然痘を鎮めるための百万遍念仏を行い、見事に鎮めて、天皇より「百万遍」の寺号を賜った。かっては相国寺の近くにあったが移転を繰り返し、現在地に移ったのは江戸時代になってからである。
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江戸時代の大坂の京橋は寝屋川にかかる小さな橋だったが、京街道の起点として賑わいを見せ、大坂で唯一川魚を売ることを幕府から許された市場も栄えた。京橋北詰に碑と説明板が建つ。
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春日局の墓所である麟祥院は東洋大学発祥の地でもある。明治20年(1887)、東京大学文学部哲学科出身の井上円了が麟祥院境内に私塾「哲学館」を開いた。これが東洋大学の起こりである。哲学館は、明治36年(1903)に哲学館大学となり、明治39年(1906)に東洋大学と名を変えている。
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徳川第三代将軍家光の乳母として知られる春日局。明智光秀の家臣・斎藤利三の娘である春日局(斎藤福)は、小早川秀秋の家臣である稲葉正成の妻となった。稲葉正成は関ヶ原の戦いにおいて秀秋を家康側に寝返らせることに成功。その功あってか、正成の妻であった福は、徳川秀忠の嫡子である竹千代(のちの徳川家光)の乳母として召し抱えられ、将軍家に仕えることになる。
秀忠と彼の正妻である小督の方(お江与の方。浅井長政の三女)は、竹千代ではなく、次男の国松(のちの駿河大納言徳川忠長)を世継ぎにするつもりであったが、春日局は家康に直訴し、竹千代を世継ぎとすることに成功する。徳川家光が将軍となると、その後ろ盾の下、大奥を取り仕切る役を担い、絶大な権力を振るった。
墓は東京都文京区湯島の麟祥院にある。
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根津神社のある場所には、かって甲府徳川家の屋敷があり、のちに徳川第六代将軍となる徳川家宣はこの地で生まれた。それゆえ根津神社境内には家宣の胞衣(褜。えな。生まれた時に包まれていた胎盤)塚がある。家宣が将軍になると屋敷の後に神社が千駄木より遷座され、根津権現と称された。根津権現は明治に入ってから正式名称を根津神社に変えるが、現在でも「根津権現」は俗称として生きている。
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グランドプリンスホテル赤坂(旧・赤坂プリンスホテル)の西洋料理レストラン「トリアレン」。かっての赤坂プリンスホテルの旧館であり、もともとは李氏朝鮮王室皇太子の東京邸として建てられたものである。昭和5年(1930)竣工。昭和29年(1954)に西武グループの創業者である堤康次郎がこの屋敷を買い取り、赤坂プリンスホテルとしてオープンさせている。
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東京都千代田区紀尾井町、清水谷公園内にある「贈右大臣大久保公哀悼碑」。この碑の建つ辺りで、明治11年(1878)5月14日朝、石川県士(旧加賀藩士)らが時の内務卿・大久保利通を暗殺するという「紀尾井坂の変」が起こった。この碑はその名の通り、大久保哀悼のために建てられたものである。
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紀尾井坂の「井」、彦根藩主井伊家の屋敷は、現在のホテルニューオータニが建つ場所にあった。ホテルニューオータニに向かう歩道に碑が建っている。
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東京都千代田区紀尾井町にある「尾張名古屋藩屋敷跡」の碑。紀尾井坂の「尾」の由来である尾張名古屋の徳川家江戸屋敷があったのは、現在の上智大学四谷キャンパス一帯である。
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東京都千代田区、弁慶橋北詰にある紀尾井坂の「紀」=紀伊和歌山藩徳川家江戸屋敷跡の碑。紀伊徳川家江戸屋敷があったのは、現在のグランドプリンスホテル赤坂や清水谷公園の一帯である。
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東京都千代田区紀尾井町にある紀尾井坂。紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷に囲まれたところにあるため、それぞれの家の頭文字を取って紀尾井坂と名付けられた。明治11年(1878)5月14日に元勲・大久保利通が、この坂の下で石川県士(元加賀藩士)らによって暗殺されるという「紀尾井坂の変」の舞台となったことでも知られる。前年の西南の役で、かつての盟友であった西郷隆盛を討ったことで大久保に対する反感が高まりつつある中での出来事であった。
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東京大学農学部キャンパス(弥生キャンパス)の外にある「弥生式土器発掘ゆかりの地」碑。明治17年(1884)、有坂鉊蔵(ありさか・しょうぞう)らにより、東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現・東京都文京区弥生)の向ヶ岡貝塚で新式の土器が発見された。発掘された場所ははっきりとはわからなくなってしまったが、現在の東京大学弥生キャンパス内であることは確かである。
新式の土器は、発掘地にちなみ、「弥生式土器」と命名された。なお、弥生式土器を使っていた時代は「弥生時代」と仮称されたものの、歴史研究者の間では、「早く正式な時代区分名を決めよう」とする動きがあった。しかし新たなネーミングはなされることがなく、結局、弥生時代という名前が定着した。
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大正14年まで京都御所内にあった建物である。大正天皇が京都御所で行った即位の礼の式場として建てられた建築を、のちに大覚寺が下賜を受け、御影堂(みえどう・みえいどう)とした。
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山科区日ノ岡の旧東海道沿いにある亀の水不動尊。
江戸時代中期に、木食養阿上人を指導者として日ノ岡峠道の改修工事を行った際に、井戸を掘り当て、旅人の休憩所と喉を潤すための施設とし、不動尊を祀ったのが亀の水不動尊の始まりだという。木食上人は当地に梅香庵という庵を結んだとも伝わる。
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嵯峨野にある広沢池(ひろさわのいけ)。古代の豪族・秦氏が造った人工の池である(宇多天皇の孫・寛朝僧正が築いたという異説もある)。正面のとんがり帽子のような形をした山は朝原山(遍照寺山)。
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京都市考古学資料館(旧・西陣織物館)の前に建つ「西陣」の碑。応仁の乱の時、一帯が西軍の本陣になったことから西陣という名が生まれた。なお、西陣は俗称で、地図には載っていない地名である。
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嵯峨野にある清涼寺。嵯峨釈迦堂の名でも知られ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルともいわれる源融(みなもとのとおる。嵯峨天皇皇子。河原左大臣)の別荘「棲霞観(せいかかん)」の跡に建つ。かっては東大寺を本山とする華厳宗の寺院であったが、現在は浄土宗に属している。現在の建物の多くは江戸時代に建てられたものだが、徳川5代将軍・綱吉の母で京都出身の桂昌院の信仰が厚かったため、伽藍は大変立派である。
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江戸の総鎮守であった神田明神(神田神社)。神田はもともとは伊勢神宮の御田のあった土地であり、神田の地名もそれに由来する。祭神は大己貴命(大国主命)であるが、承平天慶の乱で敗死した平将門公も祭神として密かに祀っていた。江戸に入った徳川家康は、神田明神に平将門が祀られているのを知っており、魂鎮めの社が街の守護となる例に倣って神田明神を江戸の総鎮守とすることに決めた。
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豊臣秀吉が京都を城塞都市化するために短期間の内に築かせた土塁と堀からなる御土居堀。江戸時代に入ると徐々に崩され、明治時代以降は「無用の長物」として大部分が壊されてしまったが御土居堀であるが、北野天満宮の西にある御土居は紙屋川(天神川)の堤防を兼ねていたため、河川工事により紙屋川がチョロチョロの小川になった今も比較的良く保存されている。
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『三河物語』で知られる大久保彦左衛門の屋敷跡の碑。東京都千代田区神田駿河台の杏雲堂病院の敷地内、明大通り沿いにある。三河時代からの家康の家臣である大久保彦左衛門尉忠教(おおくぼひこざえもんのじょうただたか)は徳川三代将軍・家光に用いられ「天下のご意見番」として知られたという。が、彼の後半生の逸話の多くは後に創作されたものである。
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孔子を祀る湯島聖堂。大学頭・林羅山が上野に建てた孔子廟を徳川五代将軍で儒教に明るかった綱吉が湯島に規模を拡大させて移したのが湯島聖堂の始まりである。林家(りんけ)の学問所であり、のちに官立となる昌平坂学問所(東京大学の前身)も当地にあった。現在の大成殿は関東大震災後に伊東忠太の設計により再建されたものである。
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JR御茶ノ水駅付近の外堀は非常に深い。この辺りの堀の工事を担当したのは初代仙台藩主・伊達政宗。
ある日、徳川家康は伊達政宗との会見中、「そちならどこから江戸を攻めるか?」訊いた。政宗が「それがしなら本郷から攻めまする」と答えると、家康は「ならば本郷はそちに任せた」と言ったという。政宗は敵が絶対に越えられないような深い堀を築いた。仙台藩が築いたことからこの付近の堀は仙台堀または伊達堀と呼ばれ、江戸時代には景勝の地として知られたという。
深い堀を築かせることで徳川幕府は仙台藩の財政を疲弊させることに成功。一方、政宗は徳川秀忠と家光の後見人として家康直々に指名される。待遇は副将軍格であった。家康の飴と鞭の使い分けの上手さがわかる逸話である。
御茶ノ水のシンボルの一つである聖橋はニコライ堂(東京復活大聖堂)と湯島聖堂の間に架かるためにこの名がある。
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同志社大学の創立者として知られる新島襄は、天保14年(1843)1月14日、上野国安中藩江戸上屋敷内にて生まれた。安中藩江戸上屋敷があったのが、現在学士会館の建つ東京都千代田区神田錦町である。学校法人同志社によって建てられた「新島襄先生生誕之地の碑」は学士会館の南にある。見方によると神田錦町は東京大学と同志社大学という2つの大学を生んだともいえる。
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東京都千代田区神田錦町の学士会館の北にある「日本野球発祥の地」碑。学士会館が建つ場所は東京大学の前身である東京開成学校の跡地であり、日本に野球を紹介したのが東京開成学校の教師であったアメリカ人のホーレス・ウィルソンだとされる。ウィルソンは東京開成学校の生徒に野球を教え、試合形式の練習も行った。ただ、ウィルソンの定めたルールは「打球を捕った者が次に打つ」というものだったため、バッティングに興味津々の開成学校の生徒は、全員で打球を追い、時には次のバッターになる権利を巡って争いになったともいう。
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昭和20年8月14日午後1時頃、その日の朝に日本がポツダム宣言受諾の決定をしたことを知りながら、決定が遅れたことへの嫌がらせのように米軍は大阪・京橋の陸軍造兵廠への空爆を行う。爆弾のうち4発が国鉄京橋駅に落ち、ホームに避難していた人々が犠牲になった。死者は身元が判明したものだけで210名、身元不明の無縁仏は600名ともいわれる。大阪城天守閣の背後で燃え上がる京橋駅周辺を見た人々は、これでは昭和の「大阪夏の陣」だといって嘆いたという。慰霊碑はJR京橋駅南口を出てすぐのところにある。
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三条大橋東詰、京阪三条駅の東にある「高山彦九郎皇居望拝像」。通称:土下座。現在では待ち合わせの目印としても使われている。
高山彦九郎正之は、江戸時代中期の思想家。徳川将軍が日本の最高権威とされる時代にあって、「天皇こそが日本の君主である」と考え、勤王論を唱えて全国を回った。上洛の際には、京の入り口である三条大橋で跪き、御所(皇居)のある北西方向に頭を下げ、天皇への敬意を示すと同時に皇室の零落を嘆いたそうで、その様がこのように銅像になっている。
高山彦九郎が幕末の勤王志士に与えた思想的影響は極めて大きい。
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江戸時代には新日吉神宮は今より東の太閤坦、かつての豊国社跡に至る道を塞ぐように建っていたことは先に述べた。徳川幕府が先の為政者である豊臣秀吉の威光を消すために豊国社を破却、新日吉神宮を移したのである。ところが新日吉神宮は豊臣秀吉を密かに祀り続けていた。今の新日吉神宮境内に豊国社(秀吉の最初の名字である「木下」にかけて樹下社とも呼ばれる)があるのもそれを裏付けている。
ところで、豊臣秀吉というと、主君である織田信長から「猿」というあだ名で呼ばれていたということになっているが、これは史実では全くない(信長は秀吉のことを「はげ鼠」などと呼んでいたという)。また秀吉の相貌が猿に似ていたという事実もない。また、秀吉の幼名は日吉丸であったとされるが、史書にそんなことが載っているはずもなく、これも後世の創作とされている。
新日吉神宮に秀吉が密かに祀られていたという事実、新日吉神宮では猿が神の使いとして崇められているということ、そして何故か秀吉の幼名が「日吉丸」であったされていること。これらの符合が全くの偶然であると見る方が不自然なように思われるのだが。
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京都市山科区にある蓮如上人御廟(墓所)。
浄土真宗(真宗)中興の祖といわれる蓮如上人は、本願寺8世として京都・東山の大谷に生まれる。蓮如がまだ若かった頃、本願寺は没落の一途をたどっていたが、蓮如は北陸、近江、東海地方などで布教活動を行い、檀家を増やしていった。しかし比叡山の僧兵に警戒され、大谷の本願寺が彼らの焼き討ちに遭うと、蓮如は越前の吉崎に逃れ、北陸に活動の中心を移す。だが北陸の檀家が一向門徒として一揆を起こし、蓮如の制止を聞かなくなったため、再び畿内に戻り、山科本願寺を建立。山科の本願寺は他宗の攻撃に備えた城郭さながらのものであり、寺内町はおおいに賑わったという。蓮如上人は明応8年(1499)山科にて死去。
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山科中央公園内にある山科本願寺の土塁跡。蓮如は浄土真宗(当時は「真宗」、「一向宗」と呼ばれた)の本拠地を越前国の吉崎から河内国・出口へ、更に、京に近い山科に移した。当時、京では法華宗と天台宗が覇権を争っており、山科に移って来た本願寺は警戒された。本願寺側も宗教同士の争いに備えて本願寺の周りに土塁と堀を築き、城塞化した。しかし、天文元年(1532)法華宗門徒と六角定頼が山科本願寺を囲む。山科本願寺の守りは堅固であったが、寺内から裏切り者が出て門を開けたため、敵がなだれ込み、山科本願寺は焼け落ちた。その後、本願寺は現在は大阪城のある石山に移ることになる。
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東本願寺の前で枝分かれし、二重になっている烏丸通。七条ステーション(七条停車場。現・京都駅)が七条烏丸に出来たため、駅から京都御所に向かう南北のメインストリートとなった烏丸通。しかし明治末期から大正時代初期の烏丸通り拡幅の際、東本願寺から門の前には大通りは作らない欲しいという要望があったため、東本願寺の門前を迂回する形がとられた。しかし後になって東京の政府から「駅から御所に向かう道は直線でなければならない」と沙汰があり、東本願寺も折れて、門の前に道を作ることを容認。そのため、烏丸通の東本願寺前には今も新旧二つの烏丸通が平行して走っている。
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京都御苑内にある「学習院跡」の碑。孝明天皇が弘化4年(1848)に現在の京都御苑内に建てた学問所が「学習院」である。40歳以下の公家や役人がここで学んだ。現在、東京都豊島区にある学習院の前身である。
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関西テーラーの前にある「たばこ製造工場発祥之地」碑。村井吉兵衛は日本で初めて紙巻煙草を製造し、京都東山馬町に日本初となる煙草製造工場を建てた。
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足利義政は銀閣(観音殿)上棟の翌年(1490年)に亡くなっており、完成した銀閣を見ることはなかったという。
銀閣2階(潮音閣の名がある)の花頭窓は東西が3つずつ。南側が2つ。北側には1つもない。
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銀閣は正式には観音殿という。足利義政の山荘・東山殿に築かれた建物のうち、創建当初のままに残っているのはこの観音殿と東求堂のみである。義政の死後、東山殿は寺院に改められ、義政の戒名・慈照院にちなみ東山慈照寺となった。
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豊臣秀頼公の遺児・国松公と豊臣秀吉公の側室であった松の丸殿(寿芳夫人。京極高吉の娘・京極竜子)の墓。阿弥陀ヶ峰の豊国廟への階段登り口の左手(北側)にある。秀頼の子であった国松は大坂夏の陣を逃れ、伏見に潜伏していたものの徳川方に見つかり、六条河原で斬首された。時に8歳。これを憐れんだ寿芳夫人(松の丸殿)が墓を築き、自身も傍らに眠ることとなった。左の小さな墓石が国松公の、右が松の丸殿の墓である。
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東山三十六峰の一つ阿弥陀ヶ峰の山頂付近にある豊臣秀吉公の墓。秀吉は慶長3年(1598)8月、伏見城にて死去。阿弥陀ヶ峰山麓に葬られ、豪華な社殿の豊国廟と豊国社が建てられた。徳川の世となり、前の為政者である秀吉の記憶を消すために豊国社と豊国廟は破却されたが、明治になって再興された。
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この付近は太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれ、かっての豊国社(豊国神社)と豊臣秀吉の墓石があった場所である。向こうに豊国廟の拝殿が見える。それより先に行くには50円を納める必要がある。
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岩屋寺のすぐ北にある大石内蔵助遺髪塚。大石の自刃後、四十七士の中で唯一切腹をまねがれた寺坂吉右衛門が、その遺髪をこの地に埋めて祀ったという。
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岩屋寺参道の右手(北側)にある「大石良雄君隠棲旧跡」の石碑。大石内蔵助良雄は、元禄17年(1701)7月頃から翌年9月に江戸に出立するまでの1年余りをこの地で過ごしたという。
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大石内蔵助が一時隠棲の地とした山科の岩屋寺。この寺のすぐそばに庵を建てて住んでいたという。
大石は討ち入りを遂げた後、山科で買った土地と建物を全て岩屋寺に寄進したとのことである。
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京都府庁敷地内にある「京都守護職屋敷跡」の碑。京都府庁はかっての京都守護職上屋敷跡に建つ。京都守護職に任命された会津藩主松平容保公はまず黒谷こと金戒光明寺に入り本陣とするが、御所の西に京都守護職上屋敷が完成すると公務は京都守護職上屋敷で行うようになった。5月の撮影なのでツツジが咲いている。
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「日本外史」を著したことで知られる江戸時代の歴史学者・儒学者の頼山陽の塾兼住居「山紫水明処」。京都を表す「山紫水明」は頼山陽が京都を誉め讃えるために使ったのがはじめである。東三本木通丸太町上がる東側。見学は要申し込み。
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三層三階の大天守。弘化3年(1846)に落雷により焼失。御三家の一つということで再建が許可され、嘉永3年(1850)に再建された。維新も乗り切り、昭和10年(1935)には国宝に指定されるが、昭和20年(1945)7月9日の和歌山大空襲により灰燼に帰した。昭和33年(1958)に鉄筋コンクリートにより外観復元された。
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徳川御三家の一つ紀伊徳川家の居城・和歌山城。尾張徳川家に次ぐ55万5千石の大大名であった紀伊徳川家。8代将軍徳川吉宗を輩出。吉宗は御三卿を作り、以後、13代将軍徳川家定まで吉宗の子孫が将軍となる。家定に子がなかったため、紀伊徳川家第13代藩主・徳川慶福(とくがわ・よしとみ)が次期将軍に推されたのも、それまで代々紀州系の将軍が続いたためである。慶福は一橋慶喜との後継争いに勝ち、第14代将軍徳川家茂となる。
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大阪・六万体にある吉祥寺。赤穂義士の大坂墓所である。赤穂浅野家の大坂における祈願所であり、四十六士切腹後は唯一人切腹を免れた寺坂吉右衛門信行の依頼でその遺髪が届けられ、江戸・品川の泉岳寺より先に墓所が建てられたという。
四十七士のダンダラの陣羽織をモチーフにした外壁が特徴。
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一本御書所は世間に流布する書物の写本を作り、保管する役所。1159年に起きた平治の乱の際、藤原信頼が後白河上皇を閉じ込めたのが、この一本御書所だという。下立売通智恵光院西入る北側、山中油店敷地内。
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松原通西洞院の光円寺門前にある「親鸞聖人御入滅之地」碑。寺伝によると親鸞は光円寺のある地で弘長2年(1262)に90歳で入滅したという。なお親鸞の終焉の地とされる場所は他にもある。
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楠木正成の再評価に大いに貢献した水戸黄門こと徳川光圀公の像。楠木正成の墓の傍らに建つ。夕方なのでよく見えない…。
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淀屋の屋敷跡碑の西隣にある「淀屋の碑」。大坂の豪商・淀屋の歴史を記す。もとの苗字を岡本という淀屋は、山城国の出。初代淀屋辰五郎となる岡本常安は大坂に出て、材木商として大成功を収め、淀屋の号と辰五郎の通称を名乗る。「天下の台所」となった江戸時代初期の大坂において、淀屋は米商人としても大成功。大坂一の富豪となる。淀屋橋を私費で架け、中之島の開発を行うなど大坂の街にも貢献。しかし宝永2年(1785)、5代淀屋辰五郎広当(ひろまさ)に幕府より突然、闕所(お家取りつぶしの上、追放。財産と屋敷地は没収)の命が下る。豪奢な生活を見咎められたというが、淀屋の財力を幕府が怖れたためともいう。
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平安末期、白河(現・左京区岡崎一帯)に「勝」の寺がつく六つの寺院を相次いで建てられた。合わせて六勝寺という。中でも白河上皇の発願による法勝寺(1075年建立)は八角九重塔(推定高さ80m)を擁するなど巨大寺院であった。六勝寺の建立と街の形成で、それまで田舎であった白河は、「京・白河」と、都と並び称されるほどの賑わいを見せたという。
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京都市山科区御陵上御廟野町にある天智天皇山科陵。地名の御陵(みささぎ)と京都市営地下鉄東西線御陵駅(みささぎえき)の由来にもなっている。
第38代天皇・天智帝。名は葛城(かずらき)皇子。中大兄皇子の名でも知られる。乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺。蘇我本宗家を滅ぼして権力を朝廷に戻すことに成功。一連の政策は「大化の改新」として有名である。中臣鎌足を右腕として辣腕を振るうが、朝鮮半島の百済からの要請で参戦した白村江の戦いで日本が新羅・唐連合軍に完膚なきまでの大敗を喫すると、防衛のため都を飛鳥から近江(大津京)に移し、また戦の首謀者としての責任を問われるの恐れたためか天皇に即位するべきところを回避。空位時代をもたらしてしまう。近江遷都と空位時代を招いたことに対する不満が貴族、民衆の両方から噴出。のちに起こる壬申の乱の火種になったとも言われる。
即位後の最大の功績は日本初の戸籍である「庚午年籍」を作成したこと。また日本初の水時計(漏刻)を作らせたことでも知られる。
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豊臣秀吉は二度に渡る朝鮮出兵(文禄の役、慶長の役)を行い、あげた首級を日本に持ちかえるのは困難だとして、遺体から鼻だけ削いで塩漬けにして持ち帰らせ、検分したという。その鼻を埋めて供養したのが「耳塚」。いつのまにか「鼻」が「耳」に変わってしまっているが、天下人・秀吉の負の遺産であることに変わりはない。正面通大和大路西入る。豊国神社前。
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勝龍寺城の名の由来である真言宗の古刹・勝龍寺。勝龍寺城の南にある。細川氏時代はこの勝龍寺も勝龍寺城の郭内にあった。所在地はその名もずばり京都府長岡京市勝龍寺。
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後冷泉天皇の皇后であった小野皇太后(藤原歓子)の供養塔。小町寺(補陀洛寺)の建つ場所は小野皇太后の宮(山荘)があった場所といわれる。小野皇太后は、関白・藤原頼通の弟で後にやはり関白となる藤原教通の女(むすめ)。後冷泉天皇の皇后となり、皇子を産むが、生まれた子はすぐに亡くなり、世の無常を感じて小野(現在の静市市原や岩倉を含む土地)に閑居するようになる。後冷泉天皇崩御の後も小野を離れなかったため、小野皇太后と呼ばれた。
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下立売通智恵光院西入る北側にある「山中油店」の店先に展示されている爆弾の破片。昭和20年6月26日の西陣空襲の際、山中油店の屋根に落ちてきたものだという。西陣空襲の記憶を風化させないために常時展示されている。
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京都・西陣の辰巳公園内にある「空爆被災を記録する碑」。昭和20年(1945)6月26日午前9時30分過ぎ、米軍B29爆撃機が近畿地方上空に侵入、京都・西陣に7発の爆弾を投下、死者43名、重傷者13名、軽傷53名(ただし重軽傷者は300名を超えていたという証言もある)、全壊家屋71戸、半壊292戸、何らかの被害を受けた家屋は850戸を超えるという大災害となった。しかし大本営発表により「被害なし」とされたため、今でも「京都は空襲を受けなかった」と信じている人は多い。この碑は西陣空襲の記憶を風化させないために地元の有志の方々により建てられたものである。
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徳川四天王の一人、井伊直政を祖とする近江彦根藩は徳川譜代大名筆頭として6人もの大老を輩出した雄藩である。幕末になり、薩摩、長州や、次期将軍に勤王寄りの一橋慶喜を推す一橋派が京で勢力を持つようになると、井伊直弼が大老に就任、大弾圧(安政の大獄)を加える。しかし鳥羽・伏見の戦いでは真っ先に官軍方に寝返り、幕府方大敗のきっかけを作った。
彦根藩邸は木屋町通山崎橋西詰付近にあった。
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西本願寺は長州を布教の根拠地の一つとしており、関係が深かった。それで幕末には追われた長州志士をかくまったり逃がしたりもした。そのため幕府側から睨まれるようになる。
慶応元年(1865)、新選組が屯所を西本願寺境内に移す。壬生の屯所が手狭になったのと、長州藩士の出入りを監視するためである。西本願寺が長州に親近感を持っていることを知っていたため、新選組は境内で演習を行ったり、離反隊士の切腹を境内で行ったり、豚を飼ったりと、さんざん嫌がらせをしたという。新選組は北集会所と太鼓楼を屯所として用いたが、北集会所は明治になってから姫路の亀山本徳寺に移築されたため、新選組西本願寺屯所の遺構は太鼓楼のみである。
新選組隊士であった島田魁が、後年、西本願寺の守衛となり、死ぬまでその任務を全うしている。
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角屋の中庭にある臥龍松(がりょうのまつ)。天下の名木として、江戸時代には全国にその名が轟いたというが、枯れてしまい、現在は二本の松をつないで、なんとかそれらしく見せることに成功したという。
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角屋の大座敷、松の間。大正年間に小火があり、この部屋だけは再建で、重要文化財には指定されていない。角屋のメインの部屋であり、庭に臥龍松があることから松の間という名前がついた。新選組がよく利用し、筆頭局長・芹沢鴨が、その人生最後の宴を味わったのもこの部屋である。
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島原にある現存唯一の揚屋建築「角屋(すみや)」。与謝蕪村が俳諧の会を催し、また幕末には薩長土肥の志士達や新選組が頻繁にここを訪れている。寛永18年(1641)完成。重要文化財に指定されている。春から初夏と秋から初冬にかけては、「角屋もてなしの文化美術館」として内部が一般公開される。
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島原にある現役の置屋。太夫も何人かいる。現在、太夫がいるのは日本でここだけである。ちなみに太夫は妓芸のトップであり、正五位の官位が与えられる。つまり殿上人である。輪違屋は元禄元年(1688)創業で320年近い歴史を誇る。現在の建物は安政4年(1857)に再建されたもので、京都市登録有形文化財指定を受けている。現在も営業を続けているため、一見さんお断わり。
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江戸の吉原、大坂の新町、長崎の丸山など並び称された京都の遊廓・島原(嶋原)。正式には西新屋敷という。天正17年(1589)、時の権力者、豊臣秀吉の許しにより、京都・二条万里小路(現在の二条柳馬場)に公営遊廓が誕生。「柳町」、「新屋敷」など称されたこの遊廓は、御所や寺町に近いこと、また、二条城が出来ると二条通は大手筋となることから、慶長7年(1602)に六条三筋町へと強制移転させられる。その六条三筋町も、寛永18年(1641)年に、突如、朱雀野への移転を幕府より言い渡され、その命令が余りに急であり、「今日明日にも移転せよ」というものだったために京は大騒ぎとなり、その様子が4年前の寛永14年に起こった「肥前島原の乱」を想起させたため、朱雀野に出来た新遊廓は「島原」とあだ名されるようになった。島原大門は慶応3年(1867)に再建されたもの。京都市登録有形文化財に指定されている。
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都をば花なき里となしにけり吉野を死出の山にうつして
灰屋紹益が、わずか38歳で他界した二代目吉野太夫の死を嘆いて詠んだ歌。常照寺にて。
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小川通蛸薬師に立つ「此附近本能寺跡」の碑。天正10年(1582)6月2日未明、明智光秀の軍勢が本能寺に宿泊中の織田信長を急襲、「さながら城郭のよう」といわれた本能寺であるが、信長はわずかな供回りしか連れていなかったため瞬く間に落城。信長は森乱丸(蘭丸)に堂宇に火をかけるよう命じて自刃した。
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本能寺の跡に建っていた本能小学校が廃校になり、老人介護施設と京都市立堀川高校本能学舍が出来た。その老人ホーム「本能」と堀川高校本能学舎に立つ「本能寺跡」の碑。かっては本能小学校の敷地内にあった。油小路通蛸薬師下がる。
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三宅八幡宮のある左京区上高野三宅町一帯には、かってあちこちに水車小屋があった。これはその歴史を後世に伝えるためのものである。
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龍谷大学深草学舍の南を東西に走る第一軍道と、東側を南北に走る師団街道。深草がかって一大軍都であった頃の名残である。
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現在の名古屋城二の丸跡に立つ「那古野城跡」の説明板。那古野城はかつてこの地にあった織田信忠の拠城であり、嫡男の信長は、ここ那古野城で生まれたという。
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御土居そのものを神として祀った平一稲荷社。しかし、稲荷社であることから、御土居に穴を開けて棲んでいた狐などを神として祀ったという説もある。大宮交通公園内御土居南側。
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大宮交通公園内に残る御土居。整備されて綺麗に残っている。とはいえ、御土居には元々は竹が植えられ、洛外側には堀もあったが、いずれも姿を消している。高さも今の倍ほどあったようだか、基底部分は地下に埋まっているそうだ。
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上御霊神社鳥居脇に立つ「応仁の乱勃発地」の碑。管領・細川氏と四職の一家・山名氏との権力争い、管領・斯波、畠山両氏の家督争いと足利義政の後継者争いがからんだ応仁の乱(応仁・文明の乱)は、ここ、上御霊神社の森で畠山政長と畠山義就の小競り合いが起こったことに端を発し、洛中悉くを灰燼に帰す大乱となった。
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堀川通下立売上がる東側にある伊藤仁斎宅と私塾・古義堂の跡。伊藤仁斎は江戸時代初期の漢学者・儒学者。朱子学を学ぶが、朱子学的解釈に疑問を持ち、孔孟の原典に直接触れるという古義学を提唱。堀川通の自宅に私塾・古義堂を開いた。伊藤仁斎の門弟は古義堂の所在地にちなみ、堀川学派と呼ばれた。土蔵は書庫として使われていたもので、仁斎在命中より建つ。
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豊臣秀吉が京の周囲にめぐらせた御土居。鷹峯御土居は現在残る数少ない御土居の一部で、最も保存状態が良いものの一つ。ただその学術的貴重さと民有地であるために近寄ることが出来ない。右手に見えるのが御土居。国指定史跡。
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カトリック高槻教会敷地内にある高山右近の像。高山右近は12歳でキリスト教の洗礼を受け、最初は和田氏に仕えた。和田氏が荒木村重に滅ぼされると村重の配下となり、21歳で高槻城主となる。荒木村重が織田信長に背いた時は、村重と信長の関係修復のために奔走し、信長の信頼を得る。
信長の死後は秀吉を助け、明智光秀追討や四国征伐などで活躍、明石城主となるが、その後、キリシタン禁令により大名の座を捨て、禁令がさらに強まったことで国外追放となり、配流先のマニラで没した。
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相撲の祖ともされる野見宿禰を祀る神社。高槻城跡公園のすぐそばにある。実は高山右近は神道を退けるために、この野見神社を潰し、跡地に教会堂を建てたらしい。しかしキリシタン禁令によって逆転が起こり、教会は廃され、野見神社が復興した。その後の歴代高槻城主からは篤い信仰を受けたという。
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京都大学東南アジア研究センター敷地内にある「明治天皇御幸牧畜場址」の碑。実は京都大学東南アジア研究センターのある荒神口鴨川東岸(左岸)は、日本初の牧場が拓かれた場所である。
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八幡公園内にある羽柴秀次公の像。秀次は秀吉の姉・とも(日秀尼)の子。秀吉の後継者として関白の座にまで上り詰めるが、秀頼の誕生により秀吉から疎まれるようになり、二十八歳で高野山にて自害させられる。商都・近江八幡の礎を築いたのが秀次で、地元では名君として今でも慕われている。
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「みどろがいけ」若しくは「みぞろがいけ」と読む。京都盆地が古代、湖であったことの数少ない証拠であり、名残りである。京都市内屈指の心霊スポットとしても有名。タクシーの運転手がこの池のほとりで一人の女を乗せたが、気がつくと後部座席に女の姿はなく、シートと床が水でグッショリ濡れていた、などという話が知られている

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大丸京都店の壁面にある「四條東洞院内裏跡」のプレート。現在の大丸京都店付近には近衛天皇の里内裏があった。近衛天皇は鳥羽天皇の第八皇子であり、鳥羽天皇第一皇子とされながら実は白河天皇のご落胤であったらしい崇徳天皇を鳥羽上皇が強引に退位させたのちに即位。ここ四条東洞院を内裏とした。近衛天皇はわずか17歳で崩御するが、あとを継いだ後白河天皇と崇徳上皇の間に確執が起こり、やがて保元の乱へと発展する。
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綾小路通室町西入る。「古事記伝」などで知られる国学者・本居宣長が若き日に京都で5年に渡って学問を修めた場所である。宣長はこの地にあった堀景山、堀元厚と武川幸順の塾で儒学と漢文学、歴史、医学などを学んだ。

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京都御所の北、中山邸跡にある祐井(さちのい)。中山家出身の一位局(中山慶子)が産んだ祐宮(さちのみや。睦仁親王。のちの明治天皇)は中山氏の邸で生まれ、養育された。親王が生まれた翌年、この地に井戸が湧き、孝明天皇は、親王の幼名にちなみ、祐井と名付けた。祐井は御所三名水の一つだが、現在は近づくことが出来ない。
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「明治天皇御幸所京都府尋常中学校跡」の碑。京都府尋常中学校は現在の洛北高等学校の前身。洛北高校は一時期現在の鴨沂高校が建つ地に学舍を構えていた(鴨沂高校の前身である「女学校」は、その当時、現在カーニバルタイムスが建つ地にあった)。

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河原町通にある復元御土居。京都府立医科大学図書館横にある。京都のメインストリートの一つである河原町通に御土居を復元することで歴史的価値をアピールしようというもの。すぐ北の廬山寺の裏手には本物が残っている。京の東側に残る御土居はここだけである。

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京都府立医科大学図書館横にある復元御土居にある説明板。豊臣秀吉が京都改造の柱とした御土居。京を御土居という土塁で囲み、御土居の中を洛中、外を洛外と呼んだ。江戸時代に入ると御土居は交通の妨げになるとして徐々に崩され、現在では数ヶ所が残るのみである。

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寺町通御霊上がるにある寺院。もともとは現在の鹿苑寺(金閣寺)の場所にあったが、足利義満の北山山荘造営に伴い室町に移転。その後、豊臣秀吉の京都改造により現在の場所に移った。創建は藤原公経であり、公経の子孫は西園寺氏を名乗った。本堂の額は西園寺公望の筆による。
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かっての商家(森五郎兵衛の別宅)の内部を保存公開している。近江商人の気分を存分に味わうことのできる空間。近江八幡市新町通り。

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伴庄右衛門は近江八幡を代表する商家で名は代々世襲である。近江屋の屋号で、近江八幡のみならず、大坂や江戸にも店を持った。明治になると経済的に逼迫するようになり、家を学校の校舎として貸し出したりもしている。非常広大な邸で当時の近江商人と伴家の財力の凄さを感じることができるが、かっては今の倍の面積を誇る屋敷だったというから畏れ入る。
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旧西川家住宅、歴史民俗資料館、郷土資料館、旧伴庄右衛門邸などが並ぶ新町通り。近江商人の街・近江八幡の良さをしみじみ感じられる通りである。

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近江八幡城本丸跡に建つ日蓮宗・村雲御所瑞龍寺。「御所」とあることからもわかる通り、日蓮宗唯一の門跡寺院である。秀吉により自害に追い込まれた羽柴秀次の母で、秀吉の姉である「とも」が秀次の菩提を弔うために京都・西陣に建てた寺院。昭和36年に秀次の城・近江八幡城本丸跡に移った。

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羽柴秀次の拠城であった近江八幡城。18歳にして城主となった秀次は、京都に倣った碁盤目状の町割りと、八幡堀を使った水運を整備。近江八幡の商業都市としての礎を築く。秀次が清洲城に移った後は京極高次が城主として入るが、高次は在城5年で大津城に移り、秀次も秀吉から「謀反を企てた」として切腹に追い込まれ、謀反人の建てた城であるとして八幡山城は破却・廃城となった。
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同じく、本能寺の変で討ち死を遂げた森兄弟の墓。京都市上京区の阿弥陀寺にある。向かって左から、森蘭丸(乱丸)、森力丸、森坊丸の墓である。

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阿弥陀寺にある、本能寺の変で戦死した織田信長・信忠親子の墓。墓石がかなり小さいのでわかりにくいと思うが、向かって右が信長公、左が信忠公の墓である。

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織田信長公、信忠公、森蘭丸(乱丸)、坊丸、力丸の三兄弟をはじめ、本能寺の変で戦死した織田方武将の墓のある阿弥陀寺。本能寺の変が起きた当時は西陣にあったのだが、その後、秀吉の京都改造にともない寺町へと移転した。寺町通上立売上がる東側。
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安土町をはじめとする東近江の弥生時代から江戸時代初期までの歴史をたどることの出来る博物館。城郭コーナーが充実している。
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二王門の背後に聳える三重塔。信長が他所から移築させたもの。重要文化財。
三重塔のある元摠見寺の本尊はどうやら信長本人であったようで、かって登城者は摠見寺本堂に頭を下げてから安土城内郭に向かったとされることから、本当の大手口は現在の大手道ではなく、百々橋口(どどばしぐち)から元摠見寺を経るというルートが本来の大手であった可能性は高い。実際、百々橋の外に城下町があったことがわかっている。
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安土の城下町にポルトガル人宣教師・オルガンティーノが開校したセミナリヨ(神学校)跡の推定地。現在は公園として整備されている。
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第57代天皇・陽成帝。諱は貞明。乳母を殺したのを始め、小動物をいたぶる、女官を捕縛して池に投げ込み、溺れる様を見て喜ぶなどの乱行が目立ち、在位8年で事実上退位させられた。陽成天皇退位直前に宮中で殺人事件があったが、陽成天皇の仕業なのでは、という噂が立ったという。後に天下を取る源氏の統領家(源頼朝、義経など)は清和源氏を名乗ったが、実は陽成源氏であり、陽成天皇の子孫とさせるのが嫌で陽成天皇の父である清和天皇の子孫を名乗ったという説がある。
一方で、陽成天皇暴君説は、政治の独占を狙っていた藤原氏の陰謀なのでは、という説も残る。

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