カテゴリー「歴史」の330件の記事

2008/12/30

鳥羽・伏見の戦い 小枝橋の戦い碑

鳥羽・伏見の戦い 小枝橋の戦い碑

薩長軍(朝廷方)と旧幕府方が相まみえた鳥羽・伏見の戦い。城南宮に本陣を布いた薩摩軍に、旧幕府方は鴨川に架かる小枝橋を挟んで対峙。旧幕府方が小枝橋を渡ろうとしたところで、薩摩軍が旧・鳥羽離宮秋の山に据えた大砲で迎撃を開始し、鳥羽の戦いが始まった。鳥羽離宮公園の秋の山の下に、「鳥羽伏見の戦い 小枝橋」の説明碑が建つ。

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2008/12/29

鳥羽離宮公園

鳥羽離宮公園

鳥羽離宮南殿の跡は、現在、鳥羽離宮公園として整備されている。ただし往時の繁栄を偲ばせるものは、ほとんど何も残っていない。

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鳥羽離宮公園 秋の山 鳥羽史碑

鳥羽離宮公園 秋の山 鳥羽史碑

鳥羽離宮公園内に残る、鳥羽離宮内の築山「秋の山」の上にある鳥羽の歴史を記した碑。

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2008/09/22

田葉粉屋

田葉粉屋

枚方宿跡にある田葉粉屋。楠木正成一族の末裔であり、江戸時代には庄屋も務めていた。

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2008/09/18

京街道 枚方宿

京街道 枚方宿

今も当時の道幅のまま残る、枚方宿付近の京街道。京街道の正式名は東海道だが、幕末になると東海道というと江戸~京都間を指すようになり、京都~大坂間は、京街道または大坂街道と呼ばれることが多くなった。枚方宿は、京~大坂の中間にある宿場街として大いに栄えたという。

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2008/09/13

藤原定家京極邸跡

藤原定家京極邸跡

寺町二条上がる西側にある「藤原定家京極邸跡」の碑。寺町通は平安京の東端、東京極大路にあたる。定家はこの地で晩年を過ごしたという。

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2008/08/28

エジソンの碑

エジソンの碑

京阪八幡市駅前にあるエジソンの碑。エジソンが発明した電灯のフィラメントには八幡市の竹が用いられた。

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2008/08/27

石清水

石清水

男山中腹にある石清水。古代より崇められ、石清水社が建った。現在、石清水社は石清水八幡宮の摂社となっている。

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2008/08/22

高良神社

高良神社

『徒然草』の「仁和寺にある法師」で、仁和寺の法師が石清水八幡宮本宮と勘違いして詣でた摂社・高良社。男山の麓にある。大きな社だったというが、その後、火事に遭い、現在は高良神社として小規模の社があるのみである。さすがに現在では高良神社を石清水八幡宮の本宮と勘違いする人はいないだろう。

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2008/08/10

石清水八幡宮

石清水八幡宮

京都府八幡市男山山頂にある石清水八幡宮。清和天皇(水尾天皇)の時代、貞観元年(859)に豊後の宇佐八幡宮から「吾、都近き男山に遷座せん」という託宣があり、八幡宮の総社として建てられた。男山には石清水という霊泉があり、石清水社という社が山頂にあったため、八幡宮も石清水八幡宮と名乗ることになったようだ。後三年の役で活躍した源義家はここで元服して八幡太郎を名乗り、八幡神を源氏の氏神としている。

社殿は現在、平成の大修造の最中。写真の楼門は修復が終わり、檜皮葺の屋根や朱がピカピカに変わった。

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2008/07/05

梅田雲浜邸址

梅田雲浜邸址

烏丸御池上がる東側に立つ「梅田雲浜邸址」の碑。若狭国小浜藩士の子に生まれ、京都の小浜藩の塾の講師となった梅田雲浜は、尊王攘夷の思想に傾き、一橋慶喜の次期将軍擁立のための動きを見せために、大老・井伊直弼に睨まれて、安政の大獄の逮捕者第一号となり、江戸での取調中に獄死した。

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2008/06/24

「中沼了三先生講書之所」跡

中沼了三先生講書之所

隠岐島出身の儒学者、中沼了三。上洛して儒学を学び、その後、烏丸通夷川下がる東側に私塾を開いた。門下生に、西郷従道(西郷隆盛の弟)、中岡慎太郎、松田重助(池田屋事件で死去)らがいる。早くから尊王倒幕の考えを持ち、維新後は明治天皇の侍講も務めている。

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2008/06/23

鴨沂小隠跡から見た夕景

鴨沂小隱跡から見た夕景

尊皇倒幕の漢詩人であった梁川星巌の邸「鴨沂小隠(おうきしょういん)」跡の前から見た夕景。「鴨沂小隠」跡(川端通丸太町上がる)には最近まで石碑が建っていたが、付近の宅地が取り壊され、碑もどこかにいってしまった。

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2008/06/22

豊前国 中津藩蔵屋敷之跡

豊前国 中津藩蔵屋敷之跡

ABC新社屋前にある「豊前国 中津藩蔵屋敷之跡」の碑。左手奥にあるのは、「福沢諭吉誕生地」の碑である。

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2008/06/21

福沢諭吉誕生地

福沢諭吉誕生地

ABC新社屋前に建つ「福沢諭吉誕生地」の碑。福沢諭吉は、当地にあった豊前・中津藩蔵屋敷内に生まれた。幼い頃にいったんは中津に戻った諭吉だが、成人後に再び大坂に出て緒方洪庵の適塾に学び、その後江戸に出て慶応義塾を開いている。

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2008/06/03

五代友厚と大阪証券取引所

五代友厚と大阪証券取引所

薩摩に生まれ、維新後の大阪経済の中心人物となった五代友厚の像。彼が設立に関わった、北浜の大阪証券取引所の前に建つ。

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2008/05/24

京都霊山護国神社 吉村寅太郎の墓

京都霊山護国神社 吉村寅太郎の墓

天誅組を組織して、倒幕の狼煙を上げた吉村寅太郎(虎太郎)。土佐に庄屋の子として生まれ、武市半兵太の土佐勤王党に入る。孝明天皇の大和御幸計画に乗じて、天誅組と称して大和国で挙兵し、代官所を制圧。しかし、幕府方の反撃にあって天誅組は分裂、吉村も戦死した。享年27。

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2008/05/22

京都霊山護国神社 木戸松子(幾松)の墓

木戸松子(幾松)の墓

木戸孝允(桂小五郎)の墓と隣り合って建っている木戸松子(幾松)の墓。幕府方に命を狙われた桂小五郎をたびたび助け、賢夫人として知られる松子は、小浜藩士の娘として生まれるが、家計が苦しいため養女に出され、更にそこでも家計が苦しいとのことで三本木の芸者となり、そこで桂小五郎とであった。維新三傑の木戸孝允もたびたび命を救われた松子夫人には頭が上がらなかったという。

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2008/05/21

京都霊山護国神社 木戸孝允(桂小五郎)の墓

木戸孝允(桂小五郎)の墓

京都霊山護国神社の一番高いところにある木戸孝允(桂小五郎)の墓。西郷隆盛、大久保利通とともに維新三傑の一人に数えられる木戸孝允は長州藩の出身。吉田松陰に学び、江戸に出て剣術を修め、神道無念流免許皆伝。剣は無類に強かったというが、その生涯で人を斬ったことは一度もなかったといわれる。
尊皇攘夷を掲げる東西の大藩である水戸藩と長州藩は交流があり、桂は尊皇攘夷の思想に明るい人物として水戸藩士らから水戸で講演するよう頼まれたが、これは実現しなかったという。ちなみに、桂を招こうとした人物の中にのちの新選組初代局長である芹沢鴨がいたともいわれる。
江戸から京に上った後は、京都における長州藩の中心人物として活躍した。薩長同盟を結んで、倒幕維新への道を開いた。

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2008/05/14

京都霊山護国神社 大村益次郎の墓

京都霊山護国神社 大村益次郎の墓

日本陸軍の父である大村益次郎(村田蔵六)。長州藩の出身。日田の広瀬淡窓の咸宜園、大坂の緒方洪庵の適塾などに学び、医師として活躍したのち、蘭学の知識を買われ、伊予宇和島藩で西洋書の翻訳に従事。この時に西洋兵法への知識を得た。幕府が運営する江戸の講武所で西洋兵学を教え、その後に長州藩の西洋兵学の教授となる。
幕府の第二次長州征伐では高杉晋作らとともに幕府軍を打ち破った。戊辰戦争でも江戸・上野の彰義隊を破る。維新後は兵部省の事実上のトップとなり、日本陸軍の創設に尽力。しかし、明治2年京都出張中に刺客に襲われ、その時の傷がもとで2ヵ月後に世を去った。

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2008/05/12

京都霊山護国神社 高杉晋作・来嶋又兵衛の墓

京都霊山護国神社 高杉晋作・来嶋又兵衛の墓

京都霊山護国神社にある高杉晋作と来嶋又兵衛の墓。奇兵隊の創設者として名高い高杉晋作は、松下村塾に学び、西洋の兵法に通じる。松下村塾と上海遊学時代を通じて西洋の平等思想を知り、身分を問わずに組織された奇兵隊を生み出したという。なお、軍団に「隊」という名を用いたのは、奇兵隊が初めてであるといわれる。
上海が西欧諸国に狙われていることを知った高杉は攘夷へと傾いていった。

来嶋又兵衛は、京都における長州藩の反幕府・反会津の急進派の急先鋒。会津藩から京の支配権を奪おうとし、長州藩の慎重派から待ったがかかった。この時、来嶋に思い止まるよう説得したのが高杉晋作であった。高杉の説得も空しく、急進派は禁門の変にて敗北、来嶋又兵衛は蛤御門のそばにある椋の木の下で自刃した。

長州藩を征伐すべく、幕府軍は長州に攻め込む。第一次の長州征伐は長州方の降伏で終わるが、これを不服とし、藩内の親幕派を一掃したのが高杉晋作であった。高杉晋作は、第二次長州征伐の際には長州の海軍を率い、幕府軍を打ち破った。しかし肺結核を患った高杉は大政奉還を知ることなく、わずか27歳で世を去った。

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2008/05/09

京都霊山護国神社 久坂玄瑞の墓

京都霊山護国神社 久坂玄瑞の墓

長州藩士、久坂玄瑞の墓。玄瑞は号。通り名は義助、諱は通武。松下村塾出身の俊才であり、長州藩尊王攘夷派の中心人物であった。禁門の変にて戦死。享年25。

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京都霊山護国神社 池田惣兵衛の墓

京都霊山護国神社 池田惣兵衛の墓

池田屋事件の舞台となった池田屋の主人、池田惣兵衛(池田屋惣兵衛)の墓。事件翌日に逮捕され、程なく獄死した。

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2008/05/08

京都霊山護国神社 吉田稔麿の墓

京都霊山護国神社 吉田稔麿の墓

松下村塾の英才として将来を嘱望された吉田稔麿。同じく松下村塾出身の明治の元勲である品川弥二郎は、「稔麿が生きていたら総理大臣になっていた」と、その夭逝を惜しんだ。池田屋事件にて戦死。享年24。

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2008/05/07

池田屋事件殉難志士の墓

池田屋事件殉難志士の墓

河原町三条東入るにあった池田屋で、倒幕派の志士達が古高俊太郎救出のための会合をしているところに、新選組が討ち入った池田屋事件。生きていれば首相になったとも言われる宮部鼎蔵らが命を落とした。

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2008/05/05

坂本龍馬・中岡慎太郎の墓

坂本龍馬・中岡慎太郎の墓

京都霊山護国神社にある坂本龍馬と中岡慎太郎の墓。左が坂本龍馬の、右が中岡慎太郎の墓である。現在も参拝者は多く、墓の周辺には二人に宛てたメッセージボード(石板)がびっしりと並んでいる。

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2008/05/02

宇治川先陣之碑

宇治川先陣之碑

木曾義仲軍と源範頼・義経軍が相対した宇治川の戦い。激流である宇治川を馬で渡る宇治川の先陣争いが有名である。するすみに乗った梶原景季と、いけづきにまたがった佐々木高綱が先陣を争い、佐々木高綱が計略を用いて、一番乗りの手柄をあげた。
京都府宇治市橘島に碑が建つ。

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2008/04/29

宇治橋・紫式部像

宇治橋・紫式部像

『源氏物語』「宇治十帖」の舞台となった宇治。ということで、宇治橋西詰めには紫式部の像が建っている。

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2008/04/27

宇治橋

宇治橋

源頼政・以仁王の軍と平家の大軍が戦った宇治橋の戦いの舞台としても知られる宇治橋。日本で最も古く架橋された橋の一つ。1996年に掛け替えられたが、今も木製の欄干で、景観に配慮している。

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2008/04/01

御霊文楽座跡

御霊文楽座跡

大阪の御霊神社の前にある御霊「文楽座之跡」記念碑。明治17年(1884)から大正15年(1926)までこの地に文楽のための劇場があった。現在は床本型の記念碑が建つ。

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