大阪城公園の紫陽花

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JR伊丹駅前には、主郭(本丸跡郭)、本丸内石垣、復元石垣、土塁、堀跡(深さはもうない)などがある。
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大阪城内最大の巨石・蛸石。名前の由来となったのが蛸型の模様である。カメラを傾けて撮影。実際は向かって左側が上である。
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土橋の多い大阪城内の数少ない架け橋の一つ、極楽橋。大阪城二の丸と山里丸の間に架かる。橋の名の由来については、はっきりとはわからないという。
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豊臣秀吉が京都を城塞都市化するために短期間の内に築かせた土塁と堀からなる御土居堀。江戸時代に入ると徐々に崩され、明治時代以降は「無用の長物」として大部分が壊されてしまったが御土居堀であるが、北野天満宮の西にある御土居は紙屋川(天神川)の堤防を兼ねていたため、河川工事により紙屋川がチョロチョロの小川になった今も比較的良く保存されている。
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山科中央公園内にある山科本願寺の土塁跡。蓮如は浄土真宗(当時は「真宗」、「一向宗」と呼ばれた)の本拠地を越前国の吉崎から河内国・出口へ、更に、京に近い山科に移した。当時、京では法華宗と天台宗が覇権を争っており、山科に移って来た本願寺は警戒された。本願寺側も宗教同士の争いに備えて本願寺の周りに土塁と堀を築き、城塞化した。しかし、天文元年(1532)法華宗門徒と六角定頼が山科本願寺を囲む。山科本願寺の守りは堅固であったが、寺内から裏切り者が出て門を開けたため、敵がなだれ込み、山科本願寺は焼け落ちた。その後、本願寺は現在は大阪城のある石山に移ることになる。
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砂の丸の乗馬調練場と馬場の間にある門。馬を追い回したことから追廻門(おいまわしもん)という名がついた。1984年の解体修理の際、門に朱が塗られていたことがわかり、往時のように朱をほどこして再現された。
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和歌山城の別名は「虎伏城」。海から見ると虎が伏しているように見えることから虎伏山と呼ばれた山に和歌山城が建てられたためである。虎伏城の名にちなんだ虎の像が二の丸跡にある。
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和歌山城は豊臣秀吉の弟である羽柴小一郎秀長の城として天正13年(1585)に虎伏山(とらふすやま)に築城された。ただ和歌山城には城代が入城し、秀長自身は完成した和歌山城を見ることはなかったという。関ケ原の戦い以降は浅野幸長が和歌山城主として入城。岡口門はその浅野幸長(あさの・よしなが)により大手門として建てられた。浅野氏が広島に移り、紀伊徳川家が誕生したのちは北側の門が大手門となっている(なお、浅野氏の時代に北側の門が大手門とされたという記述もある)。現在の岡口門は元和7年(1621)頃の完成である。
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和歌山城内に残るほぼ唯一の重要文化財建築(他には土塀が重要文化財に指定されている)である岡口門。かっては大手門であったが後に一之橋の門が大手門となり、岡口門は搦手門となった。
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三層三階の大天守。弘化3年(1846)に落雷により焼失。御三家の一つということで再建が許可され、嘉永3年(1850)に再建された。維新も乗り切り、昭和10年(1935)には国宝に指定されるが、昭和20年(1945)7月9日の和歌山大空襲により灰燼に帰した。昭和33年(1958)に鉄筋コンクリートにより外観復元された。
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徳川御三家の一つ紀伊徳川家の居城・和歌山城。尾張徳川家に次ぐ55万5千石の大大名であった紀伊徳川家。8代将軍徳川吉宗を輩出。吉宗は御三卿を作り、以後、13代将軍徳川家定まで吉宗の子孫が将軍となる。家定に子がなかったため、紀伊徳川家第13代藩主・徳川慶福(とくがわ・よしとみ)が次期将軍に推されたのも、それまで代々紀州系の将軍が続いたためである。慶福は一橋慶喜との後継争いに勝ち、第14代将軍徳川家茂となる。
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