カテゴリー「池田屋事件」の17件の記事

2008/05/09

京都霊山護国神社 池田惣兵衛の墓

京都霊山護国神社 池田惣兵衛の墓

池田屋事件の舞台となった池田屋の主人、池田惣兵衛(池田屋惣兵衛)の墓。事件翌日に逮捕され、程なく獄死した。

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2008/05/08

京都霊山護国神社 吉田稔麿の墓

京都霊山護国神社 吉田稔麿の墓

松下村塾の英才として将来を嘱望された吉田稔麿。同じく松下村塾出身の明治の元勲である品川弥二郎は、「稔麿が生きていたら総理大臣になっていた」と、その夭逝を惜しんだ。池田屋事件にて戦死。享年24。

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2008/05/07

池田屋事件殉難志士の墓

池田屋事件殉難志士の墓

河原町三条東入るにあった池田屋で、倒幕派の志士達が古高俊太郎救出のための会合をしているところに、新選組が討ち入った池田屋事件。生きていれば首相になったとも言われる宮部鼎蔵らが命を落とした。

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2005/07/15

新選組パレード

200507151321000.jpg

あまり知られていないが祇園祭の宵々山には新選組のパレードが行われる。三条大橋から壬生寺まで、4時間かけて練り歩く。旗手は斎藤一、「新選組」の旗を持つ女の子が沖田総司、その後ろの白い服の人物が局長・近藤勇、ちょっと後ろの黒い洋式の軍服を着ているのが内藤隼人(土方歳三)。
池田屋事件が祇園祭の宵々山の日に起こったことにちなむ催しである。

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2005/04/12

刀傷

刀傷

三条大橋の擬宝珠についた刀傷。池田屋事件の時についた傷だという。誰がつけたのか、想像すると楽しくなる。

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2004/08/05

三縁寺跡(KYOUEN 中庭)

池田屋で死亡した長州派の亡骸は三条縄手にあった三縁寺に運ばれ、検分の後、葬られた。三縁寺は昭和54年、岩倉に移転。

主な殉難志士
宮部鼎蔵(肥後) 池田屋密議の首謀格。池田屋内にて自刃。
吉田稔麿(長州) 吉田松陰門下の秀才。池田屋脱出、長州藩に援軍を頼むも拒否され、加賀藩邸前にて戦死。
北添佶摩(土佐) 池田屋内にて斬殺。
大高又次郎(播磨) 池田屋内にて戦死。
杉山松助(長州) 池田屋を脱出。長州藩邸に逃げ込もうとするが拒否され自刃。
松田重助(肥後) 捕縛後、逃げ出すも会津藩に見つかり斬殺。
望月亀弥太(土佐) 勝海舟門下。池田屋外にて死亡確認。
石川順次郎(土佐) 池田屋外にて死亡確認。
広岡浪秀((長州) 池田屋外にて死亡確認。
福岡祐次郎(伊予松山) 池田屋内にて戦死。

KYOUEN中庭。この付近に三縁寺あり。200407032kyoennaka.jpg

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2004/08/04

池田屋

そこへようやく援軍が駆け付ける。駆け付けたのどうやら井上隊であったようだ。巷間に流布している話とは違い、土方隊の到着はもっと後のようだ。                
しかしその間に裏口では奥沢栄助が討ち死。ほかの二人の隊士も深手を負う(その後、二人とも死亡)。             だが援軍の到着により形勢は一気に新選組有利となる。               
土方隊が到着したのは戦局がほぼ決したころのようで、後日、池田屋事件に参加した隊士のほとんどが刀を研ぎに出しているが、土方は出していないようである。            
会津、桑名両藩の援軍が来たのはようやく午前0時を回ったころである。 
池田屋内では5人の反幕派志士が死亡。捕縛は3名ほどだったが、その後の捜査により、40名近くが逮捕されたという。宮部鼎蔵、吉田稔麿ら英傑が死亡したことにより明治維新が一年は遅れたといわれるが、この事件により長州藩内の慎重論が後退。倒幕派が圧倒的となったため逆に維新が早まったという考えもある。                  
佐幕派からも、壬生浪士の行動は軽率である、との意見があったという。                     

大河ドラマの影響で新たに説明板が仮設された。2004080215ikedaban.jpg

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御用改めである

三条小橋西入るの池田屋に近藤隊がたどり着いたのは捜査開始から3時間後の午後8時半ごろであった。 近藤が「主人はおるか御用改めである」と告げる。池田屋の主、惣兵衛が突然階段へと駆ける。様子がおかしい事に気付き、ここが密議の場であると断定。近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人が突入する。残りの隊士は長州藩邸に近い裏口に回る。
近藤と沖田が二階に駆け上がるとそこは闇。異常を察した長州側は、灯りを消して息をひそめていたのだ。
近藤が「御用改めである。手向かいいたすと容赦なく斬り捨てる」と大音声を発する。直後に沖田が斬りかかって来た相手を返り討ちにし、戦いが始まる。二階は手狭であったため相手は屋根づたいに一階へと逃げ始める。近藤もそれを見て一階へ。近藤、永倉、藤堂と反幕側との激しい斬り合いとなる。
藤堂平助は刀を眉間に受けて戦線離脱。
二階の沖田も昏倒(原因は不明。結核による吐血はのちの脚色である)し、残るのは近藤と永倉のみとなる。

三条木屋町西入るにある池田屋騒動の碑 2004080ikedahi.jpg

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金茶寮(丹虎跡)

木屋町三条上がるにある料亭旅館「金茶寮」。かっては四国屋丹虎旅館がここにあった。長州藩士の定宿であり、事件前夜、宮部鼎蔵が泊まったのもここであった。土方隊が踏み込んだ時はもぬけの殻であったという。
200408021kincharyo.jpg

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2004/08/03

小川亭跡

肥後藩御用達の宿「小川亭」。縄手通三条下がるにあった。後家の二人(テイとリセ)が経営していたが、ともに熱烈な勤皇派。志士達の定宿となり、会合もたびたび行なわれた。宮部鼎蔵、桂小五郎、平野国臣らが頻繁に出入りしていた。土方が一番怪しいとにらんだのはここだろう。しかしここにも敵は見えず。土方焦る。

京阪三条南ビル裏にある小川亭跡の碑 2004080216ogawatei.jpg

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