カテゴリー「忠臣蔵」の22件の記事

2013/12/19

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園由来

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園由来

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2013/12/18

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園 吉良家二十士碑

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園 吉良家二十士碑

本所松坂町公園内にある「吉良家二十士」の碑。赤穂浪士の討ち入りに際、果敢に戦った二十人の家臣を顕彰したもの。この中では清水一学(講談などでは清水一角という名前になっている)がかなり有名である。

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播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園 吉良上野介義央公みしるし洗いの井戸

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園 吉良上野介義央公みしるし洗いの井戸

俗にいう「首洗いの井戸」である。史料の研究が進み、伝承とは違い、吉良上野介義央は戦っての末の討ち死にであったことがわかってきた。

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播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園 「追慕 吉良上野介義央公」碑

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園 「追慕 吉良上野介義央公」碑

愛知県吉良町(現・愛知県西尾市吉良)の有志が建てた「追慕 吉良上野介義央公」の碑。吉良家は由緒ある五三桐の家紋を着けることを許されていたことがわかる(吉良氏代々の家紋は先祖である足利氏と同じ「丸に二つ引」である)。

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2013/12/17

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園内 吉良上野介義央公像

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園内 吉良上野介義央公像

吉良上野介義央。読みは、「きらこうずけのすけよしなか」とされてきたが、領地であった現在の愛知県西尾市吉良(旧愛知県吉良町)に残っていた文書の花押から「よしなか」ではなく、「よしひさ」と読むのが正しいのではないかと考えられ、近年のドラマや映画でも「よしひさ」とされることが多くなってきている。吉良氏は旗本であるが、足利源氏の流れを組む名門であり、主に朝廷と幕府との関係を取り持つ高家に任じられていた。高家には他に、室町幕府の三管領の一つである畠山氏、信長の家系で信長の弟・有楽斎を祖とする織田氏など名門が並ぶが、その中で吉良氏は高家筆頭であった。また上野介は嫡子のなかった出羽・米沢の上杉家に養子を出しており、上杉氏は出羽国主であったため名実共に出羽国父となっていた。
松の廊下事件の真相であるが、浅野内匠頭長矩が即日切腹となったため証言が少なく不明である。浅野内匠頭の縁者にやはり江戸城内で刃傷沙汰を起こした人物がいるため、浅野内匠頭は生来、カッとなりやすい性格であったのではないかともいわれる。

一方の、吉良上野介であるが、性格については余り良い評判は残っていない。領地である三河国吉良では名君とされているが、吉良家は旗本で江戸定府であるため、三河国吉良には一度行っただけであり、吉良の人々が吉良上野介の性格を知ることはなかったと思われる。

吉良は塩の産地であり、赤穂もまた同様に塩が名産品であるため、塩が原因で仲がこじれたという説がある一方で、浅野内匠頭が、最初に吉良上野介から朝廷からの使者のもてなしの儀礼を習い、再び朝廷からの使者をもてなす際に、吉良上野介が京に行っている間に勝手を知っているので無断でことを進めてしまった可能性が指摘されており、それが吉良の怒りを買ったという説もある。

浅野内匠頭が大名火消しとして活動していた頃に、江戸で大火があり、浅野内匠頭率いる赤穂藩士が吉良上野介の屋敷を取り壊したことがあった(赤穂四十七士の来ている段だら模様の羽織は火消しの時の装束である)。吉良はそれを根に持ったのではという説もある。

真相は不明であるが、やはり大名火消しは争いの元ということで、八代将軍・徳川吉宗は大名火消しを廃し、代わりに町火消しを創設している。

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2013/12/15

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園「赤穂義士遺蹟 吉良邸跡」碑

播州・赤穂浪士討ち入り 本所松坂町公園「吉良邸跡」碑

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播州・赤穂浪士討ち入り 本所・吉良邸跡 本所松坂町公園「吉良邸跡」の看板

播州・赤穂浪士討ち入り 本所・吉良邸跡 本所松坂町公園内 吉良上野介義央像

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2013/12/14

播州・赤穂浪士討ち入り 本所・吉良邸跡 本所松坂町公園

播州・赤穂浪士討ち入り 本所・吉良邸跡 本所松坂町公園

東京都墨田区立本所松坂町公園。吉良上野介義央の本所邸の跡にある。海鼠塀で囲まれた小さな公園で、吉良上野介義央像、吉良首洗い井戸などがある。

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播州・赤穂浪士討ち入り 本所・吉良邸跡

播州・赤穂浪士討ち入り 吉良邸跡

東京・両国にある吉良邸跡の立て札。浅野内匠頭長矩が江戸城本丸内松の廊下で吉良上野介義央に斬りかかるという刃傷事件が起こったのが元禄14年3月14日。吉良は隠居を申し出るが、当時の将軍・徳川綱吉から、隅田川の向こう、下総国にある本所に隠居するよう申し渡される。両国近辺はその後、江戸で一二を争うほどの繁華街として賑わうことになるのだが、本所はまだ周辺に何もないような僻地。呉服橋にあった吉良邸の周辺に屋敷を置く大名から「赤穂浪士に討ち入られたら当方も迷惑する」との上奏が多かったため、吉良を僻地に追いやったという説もある。また吉良家は足利源氏の血を引く名家で、新田源氏を名乗るものの祖先はよくわからないという徳川家にとっても目障りな存在であり、播州赤穂浅野家は芸州広島浅野家の分家であるため、赤穂浪士に討ち入らせることで、吉良家お取り潰しと芸州広島浅野本家への圧力という一挙両得を狙ったという説もある。
元禄15年12月14日、大石内蔵助良雄率いる赤穂浪士四十七名が本所の吉良邸に討ち入り、吉良の首を取って雪辱を果たした。

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2007/11/27

間新六供養塔

間新六供養塔

赤穂四十七士の一人、間新六。赤穂浪士の墓は、品川の泉岳寺にあるが、その一人である間新六の供養塔が築地本願寺境内にある。供養塔とはいえ、間新六だけはこちらに遺骨が埋められ、泉岳寺の墓には遺髪が収められたという。築地本願寺が間新六の正式な墓所ということになる。なぜ間新六だけが築地本願寺に埋葬されたのかについては、新六が浄土真宗の門徒だったからとも、新六自身の希望によるともいわれているが、正確なことはわからないという。

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