2021年9月22日 (水)

中野忠晴 「小さな喫茶店」

昭和10年(1935)録音。ドイツで生まれたコンチネンタル・タンゴの楽曲。私は遊佐未森のカバーアルバム「檸檬」でこの曲を知りました。

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2021年9月20日 (月)

コンサートの記(744) オーケストラ・キャラバン 飯森範親指揮東京ニューシティ管弦楽団豊中公演

2021年9月16日 豊中市立文化芸術センター大ホールにて

午後7時から、豊中市立文化芸術センター大ホールで、オーケストラ・キャラバン 東京ニューシティ管弦楽団豊中公演を聴く。指揮は、東京ニューシティ管弦楽団ミュージック・アドヴァイザーの飯森範親。

1990年創設と、日本オーケストラ連盟正会員となっている東京のプロオーケストラの中では最も若い東京ニューシティ管弦楽団だが、来年の4月からパシフィックフィルハーモニア東京への改名と、今日の指揮者である飯森範親の音楽監督就任が決まっている。

東京ニューシティ管弦楽団は、私が東京にいた頃には聴く機会のなかったオーケストラで、実演に接するのは今日が初めてになる。
おそらく飯森範親が首席指揮者を務める日本センチュリー交響楽団の事務所があるのが豊中市ということで公演場所が決まったのだと思われるが、11月には豊中でのオーケストラ・キャラバン第2弾として三ツ橋敬子指揮東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会が決まっている。

ドイツ式の現代配置での演奏。コンサートマスターは執行恒宏(しぎょう・つねひろ)。

曲目は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調(ヴァイオリン独奏:神尾真由子)、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」(1967年版)。
なお、楽器提供として国立音楽大学の名がクレジットされている。

パンフレットは無料であるが、書かれている日本語が奇妙で、校正もきちんとされていないと思われる。「ここ(引用者注:ベルリン・ジングアカデミー)でメンデルスゾーンはバッハの《マタイ受難曲》をした」と書かれているが、「何を?」と突っ込みたくなる。勿論、メンデルスゾーンが「マタイ受難曲」の復活上演(復活初演)を行ったことはこちらも知っているため補えるのであるが、にしても変である。


新型コロナウイルスに感染し、いくつかのコンサートをキャンセルした飯森範親。無事復帰し、今日は黒いマスクをしたまま全曲暗譜で指揮する。
マスクをしたままなのは旋律を歌いながら指揮するためであるが、飯森さんが歌いながら指揮しているのを聴いた経験はない。飯森範親は、日本センチュリー交響楽団と、いずみシンフォニエッタ大阪という大阪府内に本拠地を置くオーケストラのシェフであり、それ以前にも関西フィルハーモニー管弦楽団や京都市交響楽団への客演、更には山形交響楽団さくらんぼコンサートの大阪公演などを指揮しており、関西で聴く機会はかなり多い指揮者なのであるが、歌いながら指揮していた記憶がないため、東京ニューシティ管弦楽団を指揮する時だけ、もしくは今回だけ歌って指揮することにしたのだとしか思えない。


リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」。豊中市立文化芸術センター大ホールは、残響は短めで、どちらかというとポピュラー音楽向けの音響であり、バランス的に金管が強く響く傾向があって、それはこの曲の演奏でも感じられた。
音に輝かしさはあるが、パワーやアンサンブルの細やかさでは東京の有名オーケストラとは少し差があるように思われる。記憶が余り定かでないが、1990年代に生で聴いていた東京の有名オーケストラの演奏はこんな感じだったように思う。単純に比較は出来ないが、アンサンブルの精度や音の密度などでは飯森が指揮した場合のセンチュリー響の方が上のような気はする。
とはいえ、描写力はなかなかで、東京のオーケストラらしい洗練度の高さも備えていて、面白い演奏を聴かせてくれた。


メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。ソリストの神尾真由子は、豊中市の出身である。このコンサートを聴きに行くきっかけになったのも、フォローしている神尾真由子の公式Facebookで、「生まれ故郷の豊中市にまいります!メンコン(引用者注:メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトの略)弾きます」という告知があったからである。神尾真由子のメンコンなら聴きに行かねばなるまい。

ただ、大阪で東京ニューシティ管弦楽団の演奏会ではブランドが弱いのか、今日は空席も目立った。

大阪音楽大学が本部を置き、音楽教育が盛んな豊中市だが、大阪市のベッドタウン(人口約40万人)でありながら、神尾真由子に児玉姉妹、幸田姉妹まで生んでいるのだから大したものである。

ファンからは「神尾様」と呼ばれている神尾真由子。今日は上品な薄紫色のドレスで登場し、それに負けない気高い音楽を奏でる。神尾は強弱をどちらかというとメリハリとして付ける。
他の多くのヴァイオリニスト同様、輝かしい音を特徴とする神尾だが、彼女の場合は燦々と降り注ぐ太陽光のような輝きではなく、どこかしっとりとして陰があり、例えるなら漆器のような輝きを放っている。こうした音を出すヴァイオリニストは他にはほとんどいない。
メンデルスゾーンの旋律が宿す光と陰を同居させた演奏で、ロマン派の神髄をついている。

アンコールは、パガニーニの「24のカプリース(奇想曲)」より第5番。神尾真由子はデビュー第2作(第1作はヴァイオリン名曲集であったため、本格的な楽曲演奏盤としてはデビュー盤に相当する)として「24のカプリース」を選んでおり、得意としている。
とにかく超絶技巧が必要とされる楽曲であるが、神尾は弾き終えてから、「はい、難しい曲でした」という表情を浮かべ、客席の笑いを誘っていた。


後半、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」(1967年版)。
かなり表現主義的な演奏で、アゴーギクと思われる部分がいくつもあり、ゲネラルパウゼも長く取るなど個性的である。打楽器の用い方、金管の用い方など、聞き慣れた「春の祭典」とはかなり違う印象を受ける。ただ、ストラヴィンスキーの版の経緯はかなり複雑であり、まだ買っていないがパーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団の新譜である「春の祭典」には1967年新版との表記があるため、版が違うのかも知れない。
東京ニューシティ管弦楽団は、個々の演奏ではメカニックの弱さを感じさせる部分はあったものの、トータルとしては熱演であり、豊中市立文化芸術センター大ホールはそれほど大きくない空間ということもあって、「ホールを揺るがす」と書いても大袈裟でないほどの力強い演奏を行っていた。

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2021年9月18日 (土)

NHKBSプレミアム 「英雄たちの選択」 秀吉の“終活”~発見!幻の京都新城~

2021年9月15日

NHKBSプレミアム「英雄たちの選択」。今回は、豊臣秀吉が死の前年に京都御所(内裏、禁裏)にほぼ隣接した場所に築いた京都新城と豊臣氏の滅亡についての検証がなされる。

京都新城は、「太閤御屋敷」など他の名称と共に史料に出てくる城郭で、本丸の跡地には仙洞御所が建っている。というよりも城が築かれていて地固めなどもしっかりしていたため上皇のための御所に転用されたと考えた方が良いだろう。
仙洞御所の地下に眠っているため、本格的な発掘調査などは難しかったが、昨年、調査によって堀の幅などが分かった。約20メートルの堀を有していたというからかなり本格的な城郭である。

豊臣秀吉というと大坂城のイメージが強く、実際に本城は大坂城であるが、関白として平安京の大内裏跡に築かれた聚楽第で政務を執ることが多く、また晩年は指月と木幡山の二箇所の伏見城を隠居城としてそこで過ごしていた。指月の伏見城は隠居の場として居館に近い形状であったと思われるが慶長伏見地震で倒壊し、その廃材を利用してより堅固な城郭を木幡山に築いている。木幡山の伏見城は、城攻めの名手でもあった秀吉が知恵を絞って築いた天下の堅城であり、防御力は大坂城をも上回っていたと思われるが、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いでは、鳥居元忠ほか僅か500騎が守る伏見城に石田三成ほかが率いる数万の軍勢が押し寄せ、落城。ただ、この落城自体が三成を東側におびき出すための罠だった可能性がある。実際、徳川家康は秀吉の伏見城が堅城であったとして跡地に新たな伏見城を築き直しており、征夷大将軍にも伏見城で任じられている。

伏見城は、徳川家光の時代に廃城になっているが、それには洛中に出来た二条城の存在が大きく影響している。元々は京とは別の街で、現在の京都市でも外れにある伏見の城より、京の街の真ん中にある二条城の方が便利であり、京都の町衆にも徳川の権威を見せつけやすい。それと同じ理由が豊臣氏にもあったのだと思われる。

聚楽第は秀吉から関白職を受け継いだ秀次の城となるが、その後、秀吉に実子の拾(のちの豊臣秀頼)が生まれたため、秀次の存在は邪魔になる。
秀吉の右腕であったのは、弟で大和大納言や小一郎の名でも知られる秀長である。聡明にして「人物」とされた秀長の死により、豊臣政権に歯止めが利かなくなり、秀次は謀反の疑いによって高野山に幽閉され、切腹(秀吉から切腹を命じられたという説と、抗議のために自ら切腹して果てたという説がある)。秀次の妻子は三条河原で皆殺しとなり、秀次の城だった聚楽第は跡形もなく破却された。だが、関白という公家系の称号で成り立った豊臣政権としては洛中に城がないのでは権威を示せなくなる。そこで聚楽第の代わりに御所の近くに新たに建てられたのが京都新城であると思われる。

秀吉の死後、京都新城には正室であった於寧(寧々、北政所、高台院、豊臣吉子)が住んでおり、この地で亡くなっている。高台院がこの地を選んだのは、生前に秀吉から「危なくなったら禁裏に逃げ込め」と指示されていたからとも言われている。堀と石垣以外の防御策はなく、守りは正直手薄だが、御所のそばにある京都新城を攻めるということが御所に弓引くと同じことになり、物質的ではなく心理的な防衛力が期待されていた可能性もある。
幕末とは違い、この時代の天皇は権威はそれほど高くなかったが、紫衣事件が起こる前で、まだ天皇の優位性は保たれていたと思われる。

ただ、平時ならいいが、いざ戦が始まった場合、昔の小島よしおのように「そんなの関係ねえ!」と京都新城を攻める武将が出てくる可能性もあり、秀吉は秀頼が物質的に守りの堅固な大坂城に移ることを決めている。


関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いが終わった後、京都新城の西側の堀や石垣などが西軍の兵士達によって崩されている。「御所の安全を守るため」とのことだったが、仮に京都新城を東軍方に乗っ取られた場合、西軍が攻め寄せると「天皇に弓引く」と受け取られて、石田三成らによる家康追討の説得力が失われる。そこで事前に京都新城の防御力を裂いたと見るのが適当であるように思われる。

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2021年9月16日 (木)

風 「22才の別れ」

岩松了の作、宮沢章夫の演出で行った授業公演「アイスクリームマン」においてみんなで歌った思い出の曲でもあります。

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2021年9月13日 (月)

配信公演 古瀬まきを主演 プーランク オペラ「人間の声(声)」YouTube配信アーカイブ視聴

2021年9月2日

YouTubeで、古瀬まきを主演によるプーランクのオペラ「人間の声(声)」を視聴。8月9日に上演と同時配信とが行われた公演で、終演後1ヶ月はアーカイブとして映像を観ることが出来る。
プーランクのオペラ「人間の声」は、ジャン・コクトーのテキストを用いたモノオペラ(一人で演じるオペラ)である。

コクトーの一人芝居「声」は、青山のスパイラルホールで、鈴木京香の主演、三谷幸喜の演出で観たことがあるのだが、鈴木京香、三谷幸喜共に陽性で健康的な表現を得意とする人であるためか、痛切さはほとんど感じられなかった。鈴木京香が高校時代に陸上部だったということで、そうした要素も入れて笑いに変えていたが、この作品には笑いの要素は夾雑物でしかないように思われる。

オーケストラ伴奏によるプーランクの「声」は、「近江の春びわ湖クラシック音楽祭」2019において、石橋栄実の主演、沼尻竜典指揮京都市交響楽団の演奏、中村敬一の演出によるものを、びわ湖ホール大ホールでハーフステージ形式で聴いており(石橋栄実は体調不良で降板した砂川涼子の代役)、追い込まれた女の孤独が浮かび上がる優れた出来であったのを覚えている。

今回の上演は、コロナ感染拡大に配慮し、入場者20名と数を抑えて行われる公演で、關口康佑によるピアノ伴奏版と、歌い手だけでなく演奏者も一人きりの版での上演である。
字幕は、昨年11月に他界した藤野明子による日本語訳詞が用いられている。

なお、古瀬まきをは、2019年に行ったプーランクのオペラ「人間の声」を中心としたソプラノリサイタルで、第40回音楽クリティック・クラブ賞奨励賞を受賞している。


ジャン・コクトーのテキストによる一人芝居「人間の声(声)」が初演された1930年時点では、一人芝居はそれほどポピュラーなジャンルではなかった。一人語り形式のものは勿論あったが、朗読されることの方が多く、「声」のように語りではなくセリフのみで行われる一人芝居はほとんど例がなかった。「声」は、ある女性(名前不明)がある男(こちらも名前不明)と電話で話している状態を描いた作品である。当時はまだ電話は高級品で、一般にはそれほど普及しておらず、今と違って交換手を通じて望む相手に繋いで貰う必要があり、また混線があるなど、必ずしも便利な道具という訳ではなかった。この作品でも、混線や偶然起こった傍受などは女を焦らせ、苛立たせる。また今のようにワイヤレスではなく、電話機に伸びる電話線も、受話器と電話本体を繋ぐコードも長く、これがラストへと繋がっていく。

電話という当時はまだ新しい装置が、声は近くにあるが体は遠いという、当時としては奇妙なパースペクティブとアンバランスを招いている。また、犬の存在が、間接的かつ絶対的な男女の分け隔てを象徴する。

コクトーの原作では、女が外国語を話すシーンがある(オペラ版ではカットされている)。コクトーは「出演している女優が最も得意とする外国語を話すこと」としているのみで、何語を話すのが適切なのか指示はしていない。いずれにせよ、この女性がフランス語圏以外の外国籍で、出身身分もそれほど高くなく、経済的手段も能力もなんら持ち合わせていないことが分かってくる。当時のフランスは今よりもかなり差別が酷く、外国籍である程度年齢がいった女性が職に就ける可能性はまずない。あったとしても洗濯婦など最底辺の肉体労働で身も心もすり減らしていくだけだ。
そんな女が、5年間囲われていた男に捨てられた。女は睡眠薬自殺を図るのだが、命は取り留める。男からの電話に、女は「睡眠薬は飲んだが1錠だけだ」と嘘をつく……。

電話の向こうの男の声は聞こえないので、観る側が想像する必要がある。そのため、自由度が高いと同時に、内容を把握するのは困難で、100%想像するのはほぼ不可能である。観る者、聴く者に許されるのは、おおよその状況把握のみである。
ただ、オペラ「人間の声(声)」はプーランクが作曲した音楽によって、その場の空気や心理状態はある程度規定される。そういう意味では原作の一人芝居版よりもモノオペラ版の方が入りやすいかも知れない。

女にはマルトという女友達がいて(マルトというのはジャン・コクトーの実姉と同じファーストネームだが、どの程度関係があるのか、あるいは無関係なのかは不明。たまに「モルト=死」(この単語は劇中に登場する)に聞こえてゾッとするが、フランス人は多分間違えないだろう)、男と女が暮らしていた家の執事の名はジョゼフという。女が自殺未遂を図った際には、マルトが駆けつけ、マルトが医師を呼んだために女は助かっている。だが今はマルトは家に帰り、女は一人である。電話の向こうで男は、「マルトの下に身を寄せてはどうか」と提案しているようだが、女はそんな身勝手な真似は出来ないと断る。

男と女の甘い思い出が語られる際には、プーランクの音楽もロマンティックなものへと傾く。「パリのモーツァルト」の異名を取ったプーランク。甘い旋律を書かせると天下一品である。

男が新しい女と旅行に出ようとしているのは確実で、男が家から電話しているというのも交換手によって嘘であることが分かる。そして男は、かつて女と暮らしていた時に女にしてくれたのと同じ事を新しい女としようとしている。思い出が上書きされる。忘れ去られる。

女にとっては、おそらくは生活が出来なくなるということよりも、男が他の女のものになるということの方が耐えられない事実なのだと思われる。電話コードを体に巻き付け、男の声を体で感じながらの死は(ただし、今回の演出では死は明示されない)、単なる自殺というよりも男の声に抱かれた「空想の上での情死」を女が選んだことを仄かに伝えている。

明るすぎても暗すぎても良くないという、高度な演技が要求されるオペラであるが、古瀬まきをは過不足のない演技で、地球の外に放り出されたかのような女の孤独を炙り出していた。

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2021年9月12日 (日)

コンサートの記(743) 広上淳一指揮 京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」

2021年9月5日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時30分から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。

メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」をメインとしたコンサートは、本来なら昨年の春に、広上淳一の京都市交響楽団第13代常任指揮者就任を記念して行われる予定だったのだが、新型コロナの影響により延期となっていた。今回は前半のプログラムを秋にちなむ歌曲に変えての公演となる。

出演は、石丸幹二(朗読&歌唱)、鈴木玲奈(ソプラノ)、高野百合絵(メゾソプラノ)、京響コーラス。

曲目は、第1部が組曲「日本の歌~郷愁・秋~詩人と音楽」(作・編曲:足本憲治)として、序曲「はじまり」、“痛む”秋「初恋」(詩:石川啄木、作曲:越谷達之助)&“沁みる”秋「落葉松(からまつ)」(詩:野上彰、作曲:小林秀雄。以上2曲、歌唱:鈴木玲奈)、間奏曲「秋のたぬき」、“ふれる”秋「ちいさい秋みつけた」(詩:サトウハチロー、作曲:中田喜直)&“染める”秋「紅葉」(詩:高野辰之、作曲:岡野貞一。以上2曲、歌唱:高野百合絵)、間奏曲「夕焼けの家路」、“馳せる”秋「曼珠沙華(ひがんばな)」(詩:北原白秋、作曲:山田耕筰)&“溶ける”秋「赤とんぼ」(詩:三木露風、作曲:石丸幹二。以上2曲、歌唱:石丸幹二)。
第2部が、~シェイクスピアの喜劇~メンデルスゾーン:劇付随音楽「夏の夜の夢」(朗読付き)となっている。

ライブ配信が行われるということで、本格的なマイクセッティングがなされている。また、ソロ歌手はマイクに向かって歌うが、クラシックの声楽家である鈴木玲奈と高野百合絵、ミュージカル歌手である石丸幹二とでは、同じ歌手でも声量に違いがあるという理由からだと思われる。
ただ、オペラ向けの音響設計であるロームシアター京都メインホールでクラシックの歌手である鈴木玲奈が歌うと、声量が豊かすぎて飽和してしまっていることが分かる。そのためか、高野百合絵が歌うときにはマイクのレンジが下げられていたか切られていたかで、ほとんどスピーカーからは声が出ていないことが分かった。
石丸幹二が歌う時にはマイクの感度が上がり、生の声よりもスピーカーから拡大された声の方が豊かだったように思う。

足本憲治の作・編曲による序曲「はじまり」、間奏曲「秋のたぬき」、間奏曲「夕焼けの家路」は、それぞれ、「里の秋」「虫の声」、「あんたがたどこさ」「げんこつやまのたぬきさん」「証誠寺の狸囃子」、「夕焼け小焼け」を編曲したもので、序曲「はじまり」と間奏曲「秋のたぬき」は外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」を、間奏曲「夕焼けの家路」は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章(通称:「家路」)を意識した編曲となっている。

佐渡裕指揮の喜歌劇「メリー・ウィドウ」にも出演していたメゾソプラノの高野百合絵は、まだ二十代だと思われるが、若さに似合わぬ貫禄ある歌唱と佇まいであり、この人は歌劇「カルメン」のタイトルロールで大当たりを取りそうな予感がある。実際、浦安音楽ホール主催のニューイヤーコンサートで田尾下哲の構成・演出による演奏会形式の「カルメン」でタイトルロールを歌ったことがあるようだ。

なお、今日の出演者である、広上淳一、石丸幹二、鈴木玲奈、高野百合絵は全員、東京音楽大学の出身である(石丸幹二は東京音楽大学でサックスを学んだ後に東京藝術大学で声楽を専攻している)。


今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。首席第2ヴァイオリン奏者として入団した安井優子(コペンハーゲン・フィルハーモニー管弦楽団からの移籍)、副首席トランペット奏者に昇格した稲垣路子のお披露目演奏会でもある。

同時間帯に松本で行われるサイトウ・キネン・オーケストラの無観客配信公演に出演する京響関係者が数名いる他、第2ヴァイオリンの杉江洋子、オーボエ首席の髙山郁子、打楽器首席の中山航介などは降り番となっており、ティンパニには宅間斉(たくま・ひとし)が入った。


第2部、メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」。石丸幹二の朗読による全曲の演奏である。「夏の夜の夢」本編のテキストは、松岡和子訳の「シェイクスピア全集」に拠っている。
テキスト自体はかなり端折ったもので(そもそも「夏の夜の夢」は入り組んだ構造を持っており、一人の語り手による朗読での再現はほとんど不可能である)、上演された劇を観たことがあるが、戯曲を読んだことのある人しか内容は理解出来なかったと思う。

広上指揮の京響は、残響が短めのロームシアター京都メインホールでの演奏ということで、京都コンサートホールに比べると躍動感が伝わりづらくなっていたが、それでも活気と輝きのある仕上がりとなっており、レベルは高い。

石丸幹二は、声音を使い分けて複数の役を演じる。朗読を聴くには、ポピュラー音楽対応でスピーカーも立派なロームシアター京都メインホールの方が向いている。朗読とオーケストラ演奏の両方に向いているホールは基本的に存在しないと思われる。ザ・シンフォニーホールで檀ふみの朗読、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団による「夏の夜の夢」(CD化されている)を聴いたことがあるが、ザ・シンフォニーホールも朗読を聴くには必ずしも向いていない。

鈴木玲奈と高野百合絵による独唱、女声のみによる京響コーラス(今日も歌えるマスクを付けての歌唱)の瑞々しい歌声で、コロナ禍にあって一時の幸福感に浸れる演奏となっていた。

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2021年9月11日 (土)

これまでに観た映画より(268) 「フィールド・オブ・ドリームス」

2021年9月6日

録画してまだ観ていなかったアメリカ映画「フィールド・オブ・ドリームス」を観る。ケヴィン・コスナー主演作。監督・脚本:フィル・アルデン・ロビンソン。原作:ウィリアム・パトリック・キンセラ(『シューレス・ジョー』)。出演は、ケヴィン・コスナーの他に、エイミー・マディガン、レイ・リオッタ、ジェームズ・アール・ジョーンズ、バート・ランカスター等。音楽:ジェームズ・ホーナー。

なお、「フィールド・オブ・ドリームス」を初めて観たのは、映画館でもテレビでもなく、高校2年の時(1991年)に学校の体育館で行われた映画鑑賞会においてであった。

1919年のワールドシリーズで起こった「ブラックソックス事件」(シカゴ・ホワイトソックスの選手8人が八百長を行ったとして永久追放になった事件)に題材を取った映画の一つである。ブラックソックス事件を扱った映画としては、「エイトメン・アウト」も有名であるが、私は「エイトメン・アウト」はまだ観たことがない。

ブラックソックス事件で永久追放となった選手の中には、「シューレス・ジョー」というニックネームで知られた人気選手、ジョー・ジャクソンがいた。実際には8人全員が起訴されたが証拠不十分で無罪となっており、シューレス・ジョー・ジャクソンもワールドシリーズで打率3割7分5厘でノーエラー、本塁打も放っているため、この映画では全くの濡れ衣ということになっている(真相は今も不明である)。

そんなメジャーリーグベースボールに未練を残したまま去らざるを得なかったエイトメンが、アイオワのトウモロコシ畑の中にレイ・キンセラ(ケヴィン・コスナー)が築いたベースボール・フィールドに現れるというファンタジーである。

ベースボール(野球)が盛んなアメリカ。野球を題材にした映画には、「フィールド・オブ・ドリームス」の他に、同じくケヴィン・コスナー主演の「さよならゲーム」、今は名称が変わったクリーヴランド・インディアンスの話である「メジャーリーグ」シリーズ、実話を基にした「オールド・ルーキー」、ロバート・レッドフォード主演の「ナチュラル」といった傑作がある。ただ「フィールド・オブ・ドリームス」は主人公がベースボールプレーヤーではないという点が他の野球映画と異なっている。

レイ・キンセラは、ニューヨーク・ヤンキース傘下のマイナーリーグで捕手をしていたジョン・キンセラの息子で、ジョンはレイにメジャーリーガーになる夢を託していたのだが、レイはジョンに反発。ヤンキースびいきのジョンとは異なり、当時まだブルックリンに本拠地を置いていたドジャースのファンになったことに始まって、10歳で野球を嫌いになり、14歳以降は父親とのキャッチボールすら断るようになる。そして17歳でニューヨークの家を出て、名門カリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)で学び、そこで出会ったアニー(エイミー・マディガン)と結婚し、アイオワ州にトウモロコシ農園を買って移り住んだ。二人の間には一人娘のカレンがいる。レイはその間、父親と会うことも話すこともなく、葬儀の時に戻っただけだった。

ある日、レイは、トウモロコシ畑の中で、「造れば彼はやって来る」という声を聞く。何者の声なのかは不明なのだが、レイはトウモロコシ畑の中に野球場と照明灯が輝くという幻影を見る。レイはアニーを説得して、トウモロコシ畑の中に照明灯付きの野球場を造る。自分でも十分に理解出来ていないままの行動であり、また観客からも「展開が速すぎるのではないか」と疑問を抱かれそうなところだが、これはラストに繋がっている。

ある夜、トウモロコシ畑の中の野球場にシカゴ・ホワイトソックスの往年のユニフォームを着た左投げ右打ちの男、ジョー・ジャクソンが現れる(実際のジョー・ジャクソンは、右投げ左打ちである)。

ほどなく、レイに第二のメッセージが告げられる。「彼の傷を癒やせ」というものだが、レイには「彼」の心当たりがない。そんな中、小学校のPTA集会に出たレイは、「処分すべき書籍」の作者と槍玉に挙げられていたテレンス・マン(ジェームズ・アール・ジョーンズ。モデルはJ・D・サリンジャーである)こそが彼ではないかと思い当たる。ピューリッツァー賞を取ったこともあるテレンス・マンであるが、今は作家活動から離れ、ボストンの小さなマンションで暮らしている。レイとアニーは、ボストンのフェンウェイパークでテレンスと語り合うという共通の夢を見ており、レイはボストンに単身、車で向かう。なんとかテレンス・マンを説得して、フェンウェイパークでの試合を一緒に見に行くことになったレイは、第三のメッセージを耳にする。「最後までやり遂げろ」。そしてスコアボードには、アーチー・ムーンライト・グラハムという無名選手の名前と映像が浮かんだ。実はテレンスも声と映像に気づいており、二人でグラハムの故郷で引退後に過ごしていたというミネソタ州に向かう。


心残りのある人々が登場する。突然、メジャーリーグを追われることになったシューレス・ジョー・ジャクソンら8人のシカゴ・ホワイトソックスの選手、ドジャースの選手になりたいという夢を語り続けてきたが、実現することはなく、作家としても隠遁生活に入っていたテレンス・マン。メジャーリーガーで打席に立ちたいという夢を持ち、マイナーからメジャーに上がるも1イニングライトの守備固めとして入っただけでマイナー落ちが決まり、マイナー行きを嫌がって野球を辞め、学校に戻って医師となったアーチー・グラハムなどだが、最大の心残りを抱えていたのはレイである。野球選手になることを望む父親への反発からキャッチボールもしなくなってしまったレイ。父親には妻のアニーも娘のカレンも紹介出来ぬままに終わった。そんな果たせぬ思いが、多くの心残りある人々を引きつけていたのである。

ラストシーンで父親であるジョン・キンセラと出会い、父とキャッチボールを行う「和解」にも似たノスタルジックなシーンは、アメリカのみならず日本など野球文化圏の人々の心に強く訴えかけるものがある。私も父親とよくキャッチボールをした子どもの頃を思い出して、胸が熱くなった。レイが実際には継げなかった捕手の位置に立ってキャッチボールを行っているのも象徴的である。最大の心残りを抱いていたのはレイであり、謎の声はレイの無意識から上がってきたものだったのである。序盤の展開の速さもこれで納得出来る。

シューレス・ジョーでもテレンス・マンでもアーチー・ムーンライト・グラハムでもなく、レイの心残りが今解消されていく。

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2021年9月10日 (金)

コンサートの記(742) デイヴィッド・レイランド指揮 京都市交響楽団第659回定期演奏会

2021年8月29日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第659回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、ベルギー出身のデイヴィッド・レイランド。

オール・モーツァルト・プログラムで、交響曲第29番、ピアノ協奏曲第27番(ピアノ独奏:ジャン・チャクムル)、交響曲第41番「ジュピター」が演奏される。レイランドもチャクムルも2週間の自主隔離期間を経ての登場である。
創立時に精緻なアンサンブルを志して「モーツァルトの京響」というキャッチフレーズで売り出した京都市交響楽団だが、オール・モーツァルト・プログラムによる演奏会はそれほど多くはない。

昨日、今日の2回公演だが、定期会員に相当する京響友の会の募集がコロナによって凍結されている上に、京都府内のコロナの感染者数が日毎に増えて、出掛けるのを躊躇する人も多い状況もあって、入りは厳しい。木曜日に京都府立文化芸術会館で観た「君子無朋」では、主演俳優の佐々木蔵之介がPCR検査で陽性となり、無症状ではあったが、大千穐楽となるはずの公演が中止となっている。


午後2時から、指揮者のデイヴィッド・レイランドによるプレトーク(通訳:小松みゆき)。英語でのスピーチである。
「ヨーロッパの北西にある小さな国、ベルギーから来て、現在、2つのオーケストラの音楽監督をしています」と自己紹介する。

デイヴィッド・レイランドは、モーツァルトの解釈に定評のある指揮者だそうで、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団の副指揮者を経て、現在、フランス国立メス管弦楽団(旧:フランス国立ロレーヌ管弦楽団)とスイス・フランス語圏のローザンヌ・シンフォニエッタの音楽監督を務めており、2019年からはミュンヘン交響楽団の首席客演指揮者、更に2020年からはデュッセルドルフ交響楽団の「シューマン・ゲスト」にも就任しているという。

ベルギーというと、古くはアンドレ・クリュイタンスが名指揮者として知られたが、このところは才能払底気味のようで、レイランドはベルギー人指揮者として20年ぶりにベルギー国立管弦楽団を指揮したとのことである。

今回の京響への客演が、レイランドの日本デビューとなるそうだ(それ以前にレイランドと共演する予定の日本のオーケストラはいくつか存在したようだが、いずれもコロナ禍によってキャンセルになっている)。


レイランドは、交響曲第29番がモーツァルトが17歳(18歳になる年)に書かれたということを話したり、ピアノ協奏曲第27番がモーツァルト最後のピアノ協奏曲であるということに触れた後で、「ジュピター」について、「京響のメンバーには、『オペラの中の1曲として捉えて貰いたい』と語った」そうで、ドラマ性や豊かなカンタービレがオペラに繋がるという解釈を示し、第4楽章については巨大な建造物を築くつもりで指揮したいと抱負を語っていた。またレイランドは、モーツァルトを演奏することは新しい言語を習得するようなものと、その独自性について述べていた。


今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏。バロックティンパニは上手奥に置かれている。
第2ヴァイオリンの客演首席は森岡聡。今回のプログラムは管楽器の出番が少ないのだが、フルート首席の上野博昭は「ジュピター」のみの出演。また、ファゴット首席の中野陽一朗は今日は降り番のようである。


交響曲第29番。ピリオドアプローチによる演奏で、弦楽器のビブラートはかなり抑えられており、たまに掛けたとしてもおそらく音を大きくするためではない。今日は弦楽器がこぼれるほどの美音を湛えていて、モーツァルトを聴く醍醐味を味わわせてくれる。
テンポはモダン、ピリオド合わせて中庸で、ピリオドだからといって速いテンポを採用している訳ではない。ゲネラルパウゼを長く取るのも特徴だ。
典雅な楽曲を持つ曲だが、突然、地獄の蓋が開くような場面があり、十代だったモーツァルトが抱えていた闇が顔を覗かせる。

レイランドの指揮は、拍を刻むのと音型を描くのが半々ずつという端正なものだが、時折、体を揺すったり、大きく伸び上がったりする。


ピアノ協奏曲第27番。
ピアノ独奏のジャン・チャクムルは、1997年、トルコの首都・アンカラ生まれの若手ピアニスト。2018年の第10回浜松国際ピアノコンクールで優勝しており、今日は優勝した時に弾いたShigeru Kawaiフルコンサートピアノ《SK-EX》を使用しての演奏となる。
浜松国際ピアノコンクールでは同時に室内楽賞を受賞しており、前年のスコットランド国際ピアノコンクールでも優勝を飾っている。現在は、ヴァイマル音楽大学でグリゴリー・グルツマン教授に師事しているという。

チャクムルのピアノは、温かな音が特徴であるが、瞬間瞬間の和音の捌きが見事で、若者らしいデジタルな感性が秀逸である。夾雑物が取り除かれたピアノで、この世を超えた煌めきが、ここかしこに聴かれる。

京響もレイランドの指揮棒やチャクムルのピアノへの反応の素早い演奏を行っていた。


交響曲第41番「ジュピター」。この曲は前半のプログラムよりはテンポが速めであるように感じられたが、ピリオドによる演奏としてはやはりそれほど速い部類ではないように思われる。
冒頭の和音には迫力があるが、威圧感も押しつけがましさもなく、浮遊感すら湛えている。弦も管もノーブルで、時には天国的な響きを奏でる。
中山航介が叩くバロックティンパニだが、木製のバチで強打するものの、響きは比較的柔らかめで、これまで聴いてきたピリオドによるバロックティンパニの打撃とは一味違っている。そうしたこともあって、かなり徹底したピリオドアプローチによる演奏であったが、自然体で、演奏スタイルをさほど意識することなく聴くことが出来た。
流れも良く、京響の合奏も緻密で、今の季節から彼方へ向かう橋が見えるような、イメージをくすぐる佳演であった。

演奏終了後、コンサートマスターの泉原が、珍しく弓を振って楽団員に拍手を促し、再びステージ上に現れたレイランドが楽団員に立つように二度促すが、京響のメンバーは敬意を表して立たず、レイランド一人が喝采を浴びた。

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2021年9月 9日 (木)

観劇感想精選(412) TFACTORY 「4」

2021年8月28日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後3時30分から、京都芸術劇場春秋座で、TFACTORYの「4」を観る。作・演出:川村毅。出演は、今井朋彦、加藤虎ノ介、池岡亮介、川口覚、小林隆。

モノローグを積み重ねる演劇として2011年に構想され、リーディングなどを経て2012年に東京のシアタートラムで初演された作品であり、ニューヨークでもジョン・ジェスランの演出でリーディング公演が行われるなど、デンマーク語、韓国語などによる翻訳上演が重ねられてきた。いわゆる演劇の本公演としての上演は今回が2度目で、再演ということになり、川村毅が自身で演出も手掛けるバージョンとしては初演ということになるらしい。

本来は、5月に東京で、6月に京都で上演が行われる予定だったのだが、コロナ禍によって延期となっていた。

壁のセットがある他は、椅子の上に箱が置かれているだけの舞台。やがて5人の男が現れ、箱の中に手を入れてくじ引きを行う。小林隆だけは舞台を去り、残った4人は下手手前、下手奥、上手奥、上手手前に分かれて陣取り、やがて一人ずつモノローグを行う。
くじで割り当てられた役を即興で演じるという設定であり、演じ手の性格と演じられる人物の性格は必ずしも一致しない。
裁判員裁判の話ではないが、後述するように彼らは全員裁判員の欠格事項に触れており、割り振られた役も欠格事項に該当する人物が多く、裁判員になれない人の声を拾う役割を担っている。

一巡目は、今井朋彦演じる男(一応、4を意味するFOREに由来する「F」という役名があるが、この芝居では役名は特に意味を持たない)が裁判員に選ばれた大学職員、加藤虎ノ介が死刑執行命令を出す法務大臣、池岡亮介が刑務官、川口覚が無差別殺人で5人を殺害した未決囚(ここでは死刑が執行される前の死刑囚という意味)として、それぞれ長大なモノローグを行う。
5人が殺害されたということで、5人の正体が被害者の身内であることが察せられるようになっている。
死刑は執行されたようだが、死刑囚が犯した罪と身内が殺されるという各々の不幸を受け入れるためにシミュレーションが行われているようだ。謎に迫ることで、死刑囚との距離も微妙に変化していく。話しているうちに、自分の見知らぬ場所にたどり着いてしまうこともある。

そして途中で、役柄チェンジ。今井朋彦が刑務官に、池岡亮介が裁判員に選ばれた大学職員に、加藤虎ノ介が未決囚に、川口覚が法務大臣になる。

刑務官が初めて未決囚の首に縄を掛ける時に、慣れないために浅くしてしまい、下にいて未決囚(死刑執行がされた瞬間に死刑囚となるわけだが)の体を支えたり引っ張ったりする役割のMに負担を掛けてしまう。Mは首を絞めて死刑囚を殺すのだが、そのことがトラウマとなって配置転換となり、刑務官も辞めて実家に戻るが、やがて精神病院に入るという設定が、今井朋彦演じる刑務官が演じるという形で語られる。

池岡亮介が扮した大学職員が語る話も、Sという同僚が駅で飛び込み自殺を図ったという展開になり、あるいは自分がSの背中を押したのではという疑念を抱くなど、闇の世界へと階段を一歩ずつ降りていくことになる。この辺は心理スリラー的な味わいがあり、「死」や「死刑」についての問いがなされる。

ただ、淵にまで来てしまったということで、再び元の配役に戻ってシミュレーションが続けられる。なお、法務大臣が語った、「古書店街の真ん中にある大学」で「刑事博物館」があり、「展望レストラン」が存在すると語られる場所があるのだが、これは明らかに明治大学駿河台キャンパスのことである。少なくても日本には、この三つ全てに該当する大学のキャンパスは他には存在しない。それぞれの名称は、「神田古書店街(神田神保町古書店街)」「明治大学博物館」「スカイラウンジ暁」である。ただ京都での公演ということで、その場所が明治大学駿河台キャンパスだと気づいたのは、おそらく私だけであったと思われる。気づいたからといってどうということはないのだが。

ちなみに小林隆だけは、前半には全くセリフがなく、ラスト近くになって長大なモノローグが用意されているのだが、それまでの4人の横糸とは異なり、法廷だったら発言を慎むよう注意される類いの感情的な縦の糸を与えるという重大な役目を担っている。なお、小林隆と川村毅はほぼ同じ時期に明治大学に在籍していたはずで、川村毅は在学中に第三エロチカを旗揚げしているが、小林隆は学生時代はヨット部に所属しており、演劇活動はほとんど行っていなかったはずなので、学生時代に互いに面識があったのかどうかは分からない。

川村毅は基本的にストーリーの人であり、ストーリーテリングの才能を見せると同時に、「演劇ならでは」の底深さが感じられないという欠点も合わせ持つ。アングラ第三世代の中で今はちょっと埋もれた印象を受けるのもそのためだろう。今回も小林隆が一度目に下した判断やラストは弱めに感じられた。モノローグということで私小説的な語りが続くのだが、良くも悪くも文学的であり、虚構を演じるという最も演劇的な要素を用いながら「あるいは映像でも可能な表現」と思われる構造を持ってもいる(川村毅は映画マニアである)。あるいはレーゼドラマでも構わないような気もする。

出演者達は超長ゼリフを情感豊かに語り、巧みな表現を見せるが、劇場の音響のためか空間が広いからか、セリフが聞き取りにくい場面が多く、こちらも入り込むのが難しかった。

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2021年9月 7日 (火)

コンサートの記(741) 藤岡幸夫指揮関西フィルハーモニー管弦楽団第260回定期演奏会

2014年10月10日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、ザ・シンフォニーホールで、関西フィルハーモニー管弦楽団の第260回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は関西フィル首席指揮者の藤岡幸夫(ふじおか・さちお)。藤岡が毎年1曲ずつ取り組んでいる「シベリウス交響曲チクルス」の3年目、第3回である。

曲目は、ショパンのピアノ協奏曲第1番(ピアノ独奏:萩原麻未)、シベリウスの「レミンカイネンの帰郷」、シベリウスの交響曲第4番。


午後6時40分頃から藤岡幸夫によるプレトークがある。
藤岡はまず、ショパンのピアノ協奏曲第1番の独奏者である萩原麻未について語る。ジュネーヴ国際コンクールで日本人として初めて優勝した若手ピアニストであることを紹介。藤岡が、いずみホールで行われた萩原のピアノリサイタルを聴いて感激し、以後、東京などでは共演してきたが、関西フィルでやっと共演出来るという喜びを語った。

シベリウスの交響曲第4番についてだが、「今日、来ていただいてこういうことを言うのはどうかとも思うのですが、とっても取っつきにくい」曲だと述べる。藤岡はシベリウスのスペシャリストであるが、「私も若い頃はこの曲がさっぱりわからなかった」そうだ。シベリウスの交響曲第4番に関しては初演の際に曲を理解出来た者が客席に一人もいなかったという言い伝えが有名である。

「シベリウスは、酒や煙草を愛していて、特に大酒飲みであり、酔って乱闘を起こして牢屋に入れられたこともある」と語った後で、「一方で、非常に優しい細やかな人で、自然を愛していた」と続け、「そんな彼が病気になった。腫瘍が見つかり、良性で助かったが、再発の危険を医師から指摘され、酒も煙草も禁じられた」という。酒や煙草は繊細な性格であったシベリウスの自己防衛だったのかも知れない。「酒や煙草を禁じられたシベリウスはストレス発散の方法を日記を書くことに求め、そのため、その当時の心理状況がよくわかる」そうである。「発狂寸前までいった」らしい。シベリウス自身が「暗黒時代」と読んだ日々の中で交響曲第4番は生まれた。「無駄を徹底して削り、管弦楽法も高度なものを用いて、シベリウス本人も『無駄な音符は一つもない』と言ったほど。言っておきますが、交響曲第4番は大変な傑作であります。シベリウスが好きな人の中には『交響曲第4番がシベリウスの最高峰』とおっしゃる方も多くいます(「私=本保弘人」もその一人である)。この曲はいわばシベリウスの音楽がどこまでわかるかの試金石ともいうべきものです」と述べる。

藤岡は、「この曲の第3楽章はシベリウス自身の葬儀で演奏されました。私の師は渡邉暁雄というシベリウスの世界的権威でして、渡邉先生も『自分の葬儀にシベリウスの交響曲第4番の第3楽章を流してくれ』と仰っていましたが、渡邉先生が亡くなったときは、私もまだ若かったものですから実現しませんでした」と語った。

今日はJR西日本やダイキン工業から招待客が多く来ているようだが、クラシックを初めて聴く人にとってはシベリウスの交響曲第4番は手強すぎる。野球に例えると、16打席連続三球三振を食らうレベルである。

シベリウスの交響曲を理解するには、他のクラシックの楽曲を良く理解している必要があるが、それだけでは暗中模索になってしまう。ある程度年齢を重ねていることもシベリウスの交響曲を理解する上での必須条件である。また「ただ悲しみを知る者のみが」シベリウスの楽曲を十分に理解出来る。そういう意味ではシベリウスの交響曲がわからないということは皮肉ではなく幸せであるともいえる。


ショパンのピアノ協奏曲第1番。
ソリストの萩原麻未は広島市安佐南区出身。5歳でピアノを始め、広島音楽高等学校を卒業後、渡仏。パリ国立高等音楽院に入学し、修士課程を首席で卒業。2010年に第65回ジュネーヴ国際コンクール・ピアノ部門で優勝。年によっては優勝なしの2位が最高位ということがある同コンクールで8年ぶりの優勝者となった。それ以前にも第27回パルマドーロ国際コンクールにおいて、史上最年少の13歳で優勝している。

藤岡がベタホメしたので、かなり期待してしまったのだが、確かに良いピアニストである。音は透明感に溢れ、鍵盤を強打した時も音に角がなく、柔かである。ただ、これは時折力感を欠くという諸刃の剣にもなった。メカニックは完璧ではないものの高く、美音を生かした抒情的な味わいを生み出す術に長けており、緩徐楽章の方が良さそうだ、という第一印象を受けたが、やはり第2楽章が一番良かった。他の楽章では一本調子のところも散見される。まだ若いということである。ショパンよりもドビュッシーやラヴェルに向いていそうな予感がした。

藤岡がハードルを上げてしまったため、こちらの期待が大きくなりすぎてしまったが、それを差し引けば、十分に良いピアニストである。

藤岡指揮の関西フィルの伴奏であるが、萩原と息を合わせて思い切ったリタルダンドを行うなど巧みな演奏を聴かせる。今日もチェロを舞台前方に置くアメリカ式の現代配置での演奏であったが、アメリカ式の現代配置だとチェロの音がやや弱く感じられ、低音部が痩せて聞こえる。日本のオーケストラのほとんどがドイツ式の現代配置を採用しているのはドイツ音楽至上主義であった名残であるが、ドイツ式の配置を取ることでチェロの音の通りを良くし、結果として体力面では白人に勝てない日本人に合った配置となったのかも知れない。

演奏終了後、萩原はマイクを持って登場。自身が広島市安佐南区の出身であり、豪雨による大規模土砂崩れが安佐南区で起こったということに触れ、「私はその時、ヨーロッパにいて、テレビでそれを知ったのですが、私に何か出来ることはないかと思いまして」ということで、募金を呼びかける。途中休憩時にはステージ衣装である薄緑色のドレスで、終演後は私服で萩原は募金箱を持ってロビーに立った。私も少額ながら募金を行った。

萩原のアンコール演奏は、ショパンの夜想曲第2番。夜想曲の代名詞的存在である同曲であるが、萩原は左手の8分の12拍子の内、2、3、5、6、8、9、11、12拍目をアルペジオで奏でる。音が足されていたようにも感じたのだが、そこまではわからない。そのため、推進力にも富む夜想曲第2番の演奏となった。


シベリウスの「レミンカイネンの帰郷」。シベリウスがまだ若かった頃の楽曲である。シベリウスの楽曲は後期になればなるほど独自色を増し、他の誰にも似ていない孤高の作曲家となるが、「レミンカイネンの帰郷」を含む「レミンカイネン」組曲ではまだロマン派の影響が窺える。作風もドラマティックである。藤岡指揮の関西フィルも過不足のない適切な演奏を行っていた。


メインであるシベリウスの交響曲第4番。陰々滅々たる曲であるが、20世紀が生んだ交響曲としてはおそらくナンバーワンである。シベリウスの他の曲も、「モーツァルトの再来」ことショスタコーヴィチの交響曲群もここまでの境地には到達出来なかった。

シベリウスを得意とはしているものの、これまではスポーティーな感じであることが否めなかった藤岡の指揮であるが、この曲に関してはアナリーゼが完璧であることは勿論、この曲を指揮するのに必要な計算と自然体を高度な水準において止揚することに成功しており、耳だけでなく皮膚からも音楽が染み込むような痛切にしてヴィヴィッドな音楽を聴かせる。
関西フィルはそれほどパワフルなオーケストラではないが、今日は弦楽パートが熱演。管楽器もシベリウスを演奏するには十分な水準に達している。

絶望を音楽化した作品は、ベートーヴェンやチャイコフスキーも書いており、特にチャイコフスキーの後期3大交響曲は有名であるが、シベリウスはチャイコフスキーとは違い、絶望を完全に受けいれてしまっているだけに余計救いがない。

なお、第4楽章では、チューブラーベルズを使用。シベリウスの交響曲第4番を生で聴くのは3度目であるが、チューブラーベルズを用いた演奏を生で聴くのは初めてである。普通は鉄琴(グロッケンシュピール)が用いられる。シベリウスは「鐘(グロッケン)」とのみ記しており、グロッケンシュピールのことなのか、音程の取れる鐘であるチューブラーベルズのことなのか明記していない。
録音ではヘルベルト・ブロムシュテットやロリン・マゼールがチューブラーベルズを採用している。

チューブラーベルズ入りの演奏を生で聴くと、ベルリオーズの幻想交響曲の最終楽章で奏でられる鐘(これはチューブラーベルズではないが音は似ている)を連想してしまい、ちょっと異様な印象を受ける。明るい音であるため却って不気味なのだ。

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