2025年6月22日 (日)

これまでに観た映画より(388) 「ゆきてかへらぬ」

2025年6月7日

Amazonプライムで、日本映画「ゆきてかへらぬ」を観る。中原中也、小林秀雄、長谷川泰子の三角関係を描いた作品。出演:広瀬すず、木戸大聖、岡田将生、田中俊介、草刈民代、瀧内公美、藤間爽子、柄本佑ほか。監督:根岸吉太郎。音楽:岩代太郎。

中原中也と小林秀雄、長谷川康子の三角関係を描いたものとしては、先にテレビドラマが制作されており、三上博史、古尾谷雅人(初代)、樋口可南子の三人が出演していて、評判も良かった。

今回も売れっ子や売り出し中の俳優を起用しているが、スケール的にはワンランクダウンである。

今回の主役は、中原中也(木戸大聖)と小林秀雄(岡田将生)の二人から愛された女性、長谷川泰子(広瀬すず)ということで、文芸ものというよりも男女の愛の不可思議が中心となっている。ということで、文学らしさを映画に求めると肩透かしを食らうかも知れない。

中原中也が長谷川泰子と出会ったのは、立命館中学の学生だった京都時代。子どもの頃は「神童」と呼ばれた中也であるが、山口県立山口中学校(現・山口県立山口高校)に入学すると文学に耽溺するようになり、特に日本史の成績が悪く落第する。その後、京都・北大路の立命館中学校に転校。京都市内を転々とするようになる。その後、マキノ・プロダクションの女優だった長谷川泰子と出会い、泰子の下宿に転がり込む。そして泰子の手記によると、「(夜寝ていたら)中原が襲ってきたんです」ということで恋人となった。泰子は等持院にあったマキノ・プロダクションの撮影所に通いやすいよう、近くの北野白梅町のそばの地蔵院(椿寺)の裏に住んでいた。当時の建物は残っておらず、跡地と思わる場所にはアパートだかマンションだか寮だかが建っているが、その後に泰子が「文士の二号」と言われたことで喧嘩を起こしてマキノ・プロダクションをクビになったため、ここに住む理由はなくなり、二人は御所のそばへと引っ越している。この京都最後の寓居の地は現在も往時の外観を残している。

なのでこの映画に描かれることは、かなりフィクションが多く、制帽を被っているので、中也が学生だということは分かるが、通学のシーンなどはない(実際、余り通わなかったようだが)。泰子が中也に会ってから女優を目指すというのも順番が逆である。

いかにも京都らしい街並みが映るが、実際には地蔵院周辺は往時も石畳だったり、道が細かったりということはなくフィクションである。妙心寺の広大な境内も映るが、妙心寺は二人の生活圏の外である。

中也がなぜ京都から東京に移ったかの理由も「京都に飽きた」からではなく、立命館中学4年を終えて大学予科受験資格を得たので中退し、早稲田大学の予科を受けることに決めたからだった。京都で親交を持った詩人の富永太郎(田中俊介)のつてを頼って状況。この頃に小林秀雄と会っている。そしてほどなく泰子は小林のもとに走るのだった。
早稲田大学の予科を希望したのは、早大が文学に強い大学だったからだが、ゴタゴタで受験出来ず、中也はまず日大の予科に入るが中退、その後、神田駿河台の語学学校アテネ・フランセでフランス語を学び、当時神田駿河台にあった中大の予科に入るもまた中退と、どうも学業が合わなかったとしか思えない。最終的には東京外国語学校(東京外国語大学の前身)の専修部仏語科に入学。東京外国学校の本科が終わってからフランス語だけを教える過程で、現在の語学学校に近いため、卒業しても大卒にも、旧制専門学校卒にもならないが、フランス語は学べる。中也のフランス語のレベルは高かったことから熱心に学んだことが窺える(それでも成績自体は中程度だったようだ)。こうしたことが省かれてしまっているため、中也がなぜランボーの「地獄の季節」をフランス語の原文で読めるのか分からなくなってしまっている。

中原のことはこれぐらいにして、映画の中で、泰子が母親のイシ(瀧内公美)が自分を連れて入水し、無理心中を図ったことを明かす場面がある。それも無理心中を図ったのは2度や3度ではなく、泰子は「気狂い血が流れていること」に怯えるが、次第に狂気が頭をもたげ始める。中原中也も長男の文也の死にショックを受け、鬱状態で千葉市の中村古峡療養所(現・中村古峡記念病院)に入院しているが、この映画を観ると、二人を結びつけたのはまさにこの狂気だったのではないかという気がしてくる。狂気のぶつかりゆえに中也から離れた泰子だが、狂気ゆえに二人は着かず離れずの状態を続けられたのではないか。

広瀬すずは、普通の女性を演じると本当に普通の女性になってしまうのだが、こうした狂気の役などを演じると迫力もあってなかなかである。正統派として育てたいという事務所の意向はあるのだろうが、こうした少し変わったところのある女性を演じた方が上手くはまる気がする。

ロケは、つくばみらい市にあるNHKのワープステーション江戸でも行われているようで、見覚えのある街並みが出てくる。

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2025年6月12日 (木)

「God Only Knows」

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2025年6月10日 (火)

STUTS&松たか子 with 3exes 「Presence」 feat. KID FRESINO

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2025年6月 9日 (月)

観劇感想精選(491) 「リンス・リピートーそして、再び繰り返すー」

2025年5月10日 京都劇場にて観劇

午後6時から、京都劇場で、「リンス・リピート―そして、再び繰り返す―」を観る。作:ドミニカ・フェロー、テキスト日本語訳:浦辺千鶴、演出:稲葉賀恵(いなば・かえ)。出演:寺島しのぶ、吉柳咲良(きりゅう・さくら)、富本惣昭(とみもと・そうしょう)、名越志保(なごし・しほ)、松尾貴史。

ドミニカ・フェローは、まだ二十代と思われる若い劇作家。この「リンス・リピート」は、自身が摂食障害を患っていたニューヨーク大学在学中に多くの演劇を観るも摂食障害を取り上げた作品が一つもないことに気付き、自伝的作品として書き上げたもので、オフブロードウェイでの初演時は、自身が摂食障害のレイチェル役を演じたそうである。なお、劇中ではレイチェルは名門イェール大学法学部在学中で弁護士を目指しているが、ドミニカ・フェローは法学ではなく、ニューヨーク大学では演劇を学んでいる。

アメリカ、東海岸。コネチカット州グリニッジ。ジョーン(寺島しのぶ)は、エクアドル系のヒスパニックである。ヒスパニック系は、アメリカでは数は多いが最下層と見なされ、最も差別されている。そこから這い上がって弁護士となり、今では共同弁護士事務所を立ち上げるというキャリアウーマンであるジョーン。ジョーンの夫のピーター(松尾貴史)は、名家出身だが、経済力はなく、セミリタイアのような生活を送っている。ということでジョーンが一家を支えている。
長女のレイチェル(吉柳咲良)は、イェール大学の4年生。成績も優秀だが、摂食障害を患い、レンリーという施設に入っている。
長男のブロディ(宮本惣昭)は高校3年生。フットボール選手として活躍したため、名門のノートル・ダム大学への進学が決まっている。

人種差別の激しいアメリカ。ヒスパニック系が勝ち上がるには専門職に就くしかない。ジョーンはそうして勝ち抜いてきた。名門大学に入り成績優秀な娘にも同じ道を歩むことを望んでいる。

レイチェルが施設から帰ってくる。吉柳咲良はミュージカル俳優として期待されている人だが、今回はストレートプレーなので歌はないのかと思っていたが、短いもののスキャットで歌ってくれる。このレイチェルがしょっちゅう着替えるのだが、それによって時間の経過や場所の移動が分かるようになっている。
入院施設レンリーは、一度は回想として、一度は悪夢の中に出てくる場所として登場する。レンリーでレイチェルを受け持つのは、ブレンダ(名越志保)というセラピスト。実はこのブレンダは黒人という設定なのだが、今の日本では肌を黒く塗って黒人を演じることは禁忌とされているため、とくに何も施さずに登場。おそらく黒人だと分かった人はいないと思われる。

レイチェルは、イェール大学で文系クラスを受講していることをジョーンに打ち明け(ジョーンも「学生時代、詩の授業を取ってたわよ」と返す)、レンリーでも詩を書いてブレンダに見せている。だが自信があるわけではなく、「エミリー・ディキンソン(「希望とは翼あるもの」などで知られる米国最高の女流詩人。半引きこもりのような生涯を送り、若くして亡くなっているが、生前は詩を発表せず、死後に発見された詩の数々が反響を呼び、世界的名声を得る。日本でも岩波文庫から英文と日本語対訳の詩集が発売されるなど人気は高い)ぐらいでないと」と自らの才能に限界を感じているようでもある。また、レイチェルは自殺を図ったことがあるが、それを仄めかすナイフの詩を書いていた。
4ヶ月大学を休んでいたレイチェル。だがそれまでの成績が優秀だったため、イェール大学ロースクールの受験資格はありそうである。
だが、本当は、レイチェルは、法学ではなく文学の道に進みたくて、それが摂食障害に繋がったのでは……、と思わせるのはミスリード。この家には何故か体重計が母親のジョーンの部屋に置いてあるのだが、これが伏線になっている。

ヒスパニック系の話であり、親子の話であり、心理劇であり、ミステリーの要素も含まれる。

母親のジョーン役の寺島しのぶが主演で、彼女が出ると空気が引き締まり、いかにも格上という感じがするのだが、レイチェルを演じる吉柳咲良が舞台上にいる時間が最も長くセリフも多く、また初演時に作者が自分自身のこととして演じているため、W主演的な位置にある。寺島しのぶと吉柳咲良とでは本当に親子ほど年齢が離れているので、なかなかW主演とは銘打ちがたいのだが。
寺島しのぶと吉柳咲良が抱き合ってから、吉柳咲良が客席通路を通って退場するのは、母からの巣立ちを意味すると思われる。

吉柳咲良は、昨年、朝ドラ「ブギウギ」では、主人公のスズ子(趣里)に挑もうとする若手歌手の水城アユミ役、大河ドラマ「光る君へ」では1話だけの出演だったが、のちに『更級日記』などを書くことになる菅原孝標女を演じて話題になり、お茶の間にも知名度を拡げている。今年はTBS日曜劇場で詩森ろばが脚本を書いた「御上先生」に高石あかりらと共に生徒役で出演している。

 

今日は上演終了後にアフタートークがあり、寺島しのぶ、松尾貴史、吉柳咲良の3人が出演する。松尾貴史は、始まってから終わるまで一度も客席から笑いの起こらない芝居に出るのは初めてだと語る。

客席からの質問があり、消え物の話のほか、細かいところも質問として出た。

アフタートークが終わり、寺島しのぶと松尾貴史は、客席に手を振る。吉柳咲良はそのまま退場しようとして、二人が手を振っていることに気づき、慌てて手を振るなど微笑ましい。

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2025年6月 8日 (日)

コンサートの記(905) ハインツ・ホリガー指揮 京都市交響楽団第700回定期演奏会

2025年5月17日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都市交響楽団の第700回定期演奏会を聴く。節目の演奏会のタクトを任されたのは、世界的なオーボエ奏者でもあるハインツ・ホリガー。ホリガーはオーボエではなくピアノ独奏も行う。

無料パンフレットには、第1回定期演奏会(カール・チェリウス指揮)、第100回定期演奏会(外山雄三指揮)、第200回定期演奏会(若杉弘指揮)、第300回定期演奏会(小林研一郎指揮)、第400回定期演奏会(大友直人指揮)、第500回定期演奏会(大友直人指揮)、第600回定期演奏会(広上淳一指揮)の当時の無料パンフレットの表紙と担当指揮者の縮小写真が載っている。

プレトークはハインツ・ホリガーではなく、クラシック音楽好きで自ら「クラオタ(クラシックオタク)市長」を名乗る松井孝治京都市長らが、京都市交響楽団の京都コンサートホールでのリハーサル公開の話(これまでも出雲路の練習場でのリハーサルの公開はあったが、京都コンサートホールでのリハーサルを増やしている。ただいずれも平日の午前中に行われることが多く、行きにくい)や京都コンサートホールの改修工事のプランの話などを行っていた。

 

曲目は、ホリガーの「エリス-3つ夜の小品」のピアノ独奏版(ピアノ独奏:ハインツ・ホリガー)と管弦楽版、ホリガーの2つのリスト作品のトランスクリプション「灰色の雲」「不運」、武満徹の「夢窓」(初演40周年/京都信用金庫創立60周年記念委嘱作品)、シューマンの交響曲第1番「春」

ホリガー作品の後に1回、武満の「夢窓」の後にもう1回休憩が入るという特殊な日程。武満作品が特殊な編成で大幅な配置換えがあり、時間が掛かるため、その時間を休憩に当てる。

 

今日のコンサートマスターは、ソロコンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。フォアシュピーラーに泉原隆志。ドイツ式の現代配置による演奏だが、武満の「夢窓」だけは、武満自身が考案した独自の配置での演奏を行う。
管楽器奏者の首席指揮者の多くは2曲目のホリガーの2つのリスト作品のトランスクリプションからの参加となる。

 

ホリガーの「エリス-3つの夜の小品」(ピアノ独奏版)。オーケストラメンバーが登場し、着席してからホリガーが現れてピアノに向かう。ピアノを中央に置くと配置転換に時間が掛かるため、ホリガーは下手端に置かれたピアノを弾く。ホリガーのオーボエは聴いたことがあるが、ピアノは初めて。ただ大抵の一流器楽奏者はピアノも達者であり、ホリガーも例外ではない。
曲調は、典型的な前衛音楽風である。「前衛のピアノ音楽」と聞いて思い浮かべられるもの(そもそも「前衛のピアノ音楽」を聴いたことがない人は思い浮かべられないが)に近い。

同じ曲のオーケストラ版が続けて演奏されるが、ピアノ版を一発で覚えた訳ではないということもあって、印象は大きく異なる。アメリカの現代音楽、就中エドガー・ヴァレーズの作風を彷彿とさせる。ヴァレーズは元々はフランス人で、ドビュッシーの影響を受けており、武満との関連も思い浮かぶが、ヴァレーズの名を思い浮かべたのは私なので、ホリガーにはその気はないと思われる。
この曲にはティンパニはないので、ティンパニを受け持つことが多い打楽器首席奏者の中山航介は木琴を演奏した。

高校生の頃、私はヴァレーズが好きで、作風を模した小さな曲などを作っていた。昔々の思い出。

 

ホリガーの2つのリスト作品のトランスクリプション「灰色の雲」「不運」。
フランツ・リストのピアノ曲2作品をホリガーがオーケストラ用に編曲(トランスクリプション)した作品である。1987年に自らの指揮で初演している。2曲は連続して途切れなく演奏される。
ちなみに私は2曲とも原曲を聴いたことはない(おそらくYouTubeを使えば誰かが演奏している映像を見ることが出来るはずである)。
冒頭のメロディーが、レナード・バーンスタインの「ウエスト・サイド・ストーリー」の名ナンバーの一つ“Cool”に似ていて親しみが持てる。
そこから混沌とした曲調になり、コンサートマスターが半音ずつ上がっていくようなソロを奏で、低音がうなり、そこからまた曲調が変わって瞑想的な雰囲気となる。
2曲ともリストの晩年の作品が原曲である。元祖アイドルスターと言われるほどの超人気音楽家として人生を謳歌していたリストも晩年は病気がちになり、救いを宗教に求めている。

 

配置転換後、武満徹の「夢窓」。1983年に、京都信用金庫が、創立60年を記念して3人の作曲家に1曲ずつ作曲を依頼した交響的三部作「京都」の中の1曲である。今では三部作として演奏されることはほぼなく、個別に演奏される。3曲の中の1曲であるトリスタン・ミュライユの「シヤージュ」は、2021年7月の京都市交響楽団第658回定期演奏会において、コロナによる外国人入国規制で来日出来なくなったパスカル・ロフェの代役として指揮台に上がった大植英次の指揮によって演奏されている。

指揮台の前に「小さなアンサンブル」(武満自身の表現)がある。フルート、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、クラリネット。各楽器の首席奏者が担当する)。その背後にギター(ギター:藤元高輝)。それを挟むように2台のハープ(ハープ:松村衣里&松村多嘉代)。ヴァイオリンは両翼の対向配置だが、通常とは逆で、下手側が第2ヴァイオリン、上手側が第1ヴァイオリンである。コンサートマスターの会田莉凡が「小さなアンサンブル」に入ったので、この曲は泉原隆志がコンサートマスターを務める。泉原隆志のフォアシュピーラーに尾﨑平。
ヴィオラ、チェロ、コントラバスは、上手側と下手側の2群に分かれる。背後に管楽器、打楽器が並ぶが打楽器の種類が多いのも特徴。

1985年9月9日に京都会館第1ホール(ロームシアター京都メインホールのある場所にあったが、取り壊されて、一からロームシアター京都メインホールを作っているため現存せず。第2ホールもあり、こちらは内部改修によってロームシアターサウスホールとなっているため、内装は異なるが見方によっては現存と考えることも出来る)において小澤征爾指揮京都市交響楽団によって、交響三部作「京都」として初演。今日はホワイエに当時のポスターが飾られていた。

「夢窓」は、国士無双と間違えられることで有名な(?)夢窓国師こと夢窓疎石と彼が作庭した庭園にインスピレーション受けて書かれたものである。英語のタイトルは「Dream/Window」。笑ってしまった方がいらっしゃると思いますが、笑っては駄目ですよ。

印象派の絵画のように浮遊感を持った響き。その上を、管楽器がジョルジュ・スーラの点描のように景色を色づけていく。この浮遊感はドビュッシーを思わせるものである。ドビュッシーは印象派というくくりでラヴェルと一緒にされることがあるが、ラヴェルの作品にはこうした浮遊感のあるものはほとんどなく、その後のフランスの作曲家にも同じような作風の人は少ない。フランス六人組、メシアン、ブーレーズ。基本的に旋律がクリアな人である。ということで、おそらくであるが、ドビュッシーは武満と繋がると思われる。

演奏終了後に、ホリガーは総譜を掲げた。

 

休憩後、ロベルト・シューマンの交響曲第1番「春」。「夢窓」ではなく「夢想(トロイメライ)」という有名曲をシューマンは書いているが、関係はないと思われる。「春」の季節なので「春」なのだろう。
シューマンはオーケストレーションの下手な作曲家とされることが多い。響きが悪いのである。その原因についてピアニストの内田光子は「シューマンは鍵盤でものを考える人」という発言をしたことがあるが、作曲家の黛敏郎は「あの音はあのオーケストレーションでないと出ません」と擁護している。
20世紀前半までは、指揮者が、「響かないんだったら響かせてやろう」とスコアに手を加えることが普通だったのだが、今は作曲家崇拝の指揮者が多いので、基本、そういうことはしない。

ピリオドアプローチによる演奏。原典版での演奏である。弦楽奏者は全員の手元を見られた訳ではないが、見た限りでは9割以上が完全ノンビブラートという徹底したものである。会田莉凡、泉原隆志、尾﨑平の手元を中心に見たが、3人とも少なくとも大きなビブラートは1度も掛けなかった。ボウイングもH.I.P.のそれである。
冒頭は速めのテンポであったが、その後は中庸から速めに変わり、第1楽章中盤などではグッとテンポを落としてゆったりと歌い上げる。
ピリオドアプローチというと速めのテンポの演奏が多いが、昔は残響のない場所で演奏していたため、速めに演奏しないと間が出来てしまうのである。ただ今は響きの良いホールで演奏されることの方が多いので、速度は特に問題にならないと思われる。
ホリガーがどう動くかを予想しながら聴いていたのだが、大体予想通り(無駄のない動き)だったため、指揮は上手い部類に入ると思われる。要所で指揮棒を持っていない左手を使うのが格好良い。

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2025年6月 7日 (土)

コンサートの記(904) アンサンブル九条山 コンサートvol.16「The Phoenix Rises New Music from Los Angels」

2025年5月11日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて

午後2時から、ロームシアター京都ノースホールで、アンサンブル九条山(くじょうやま) コンサートvol.16「The Phoenix Rises New Music from Los Angels」を聴く。

2010年に京都のヴィラ九条山のレジデントであったヴァレリオ・サニカンドロにより設立された現代音楽アンサンブル。メンバーは全員女性で、全員が女性の現代音楽アンサンブルはかなり珍しいと思われる。

今回は、ロサンゼルスで生まれ育った指揮者のジェフ・フォン・デル・シュミットと、上海出身で1986年に渡米し、以後、ロサンゼルスで学び、作曲活動を行っている女流作曲家のジョーン・ファンというLA在住の二人のゲストを招いての演奏会である。

 

出演は、石上真由子(いしがみ・まゆこ。ヴァイオリン)、上田希(クラリネット)、太田真紀(ソプラノ)、後藤彩子(客演。ヴィオラ)、畑中明香(はたなか・あすか。パーカッション)、松蔭(まつかげ)ひかり(客演。チェロ。レギュラーメンバーである福富祥子が出演出来なくなったための代役)、森本ゆり(ピアノ)、若林かをり(フルート)。石上真由子は本拠地を京都から東京に移しているが、それ以外は関西を拠点とするアーティスト達である。

曲目は、ルー・ハリソンの「森の歌」、ジョン・ケージの「7つの俳句」、ウィリアム・クラフトの「月に憑かれたピエロ」からのセッティング(アジア/日本初演)、ヴ・ニャット・タンの「雲」(遺作/世界初演)、ジョーン・ファンの「インプレッション・オブ・グスー」(アジア/日本初演)、ウィリアム・クラフト&ジョージ・ファンの「万華鏡とモザイク」(アジア/日本初演)

 

現代音楽こそ若い人に聴いて欲しいのだが、やはりこの演奏会も平均年齢は高め、50歳の私が最年少候補である。クラシック音楽の聴衆の新陳代謝は余り進んでいないように思える。もう20年近く前になるが、京都造形芸術大学の学園祭で、ジョン・ケージの小規模なオペラが上演されたときは、学生が多く観に来ていて好評だったのだが、あるいは音楽よりも美術専攻者などの方が現代音楽には馴染みやすいのに、そちらへの宣伝が不十分なのかもしれない。

 

チラシやポスターだけでは分からなかったのだが、今回は「アジア」が重要なテーマのようで、出演者は全員、旗袍(チーパオ)やアオザイなどを参考にしたようなアジア風ドレスを着こなしていた(パーカッションの畑中明香だけは、他の人と同じような格好では動きにくいので、少し緩やかな衣装であった)。

 

まず、森本ゆりによる挨拶がある。今回のコンサートの指揮と監修を務めるジェフ・フォン・デル・シュミットが、ロサンゼルスの生まれ育ちであること、また今回の演奏会を企画するに当たり、「現在は現代音楽の分岐点にある」というシュミットの考えから、当初は「始まりの終わり」というタイトルに決まりかけていたことを語る。しかし、今年の1月、ロサンゼルスで大火が起こり、作曲家のジョーン・ファンは体は無事であったが自宅は全焼、シュミットの家にも2つ先の通りまで火が押し寄せてきたそうで、ロサンゼルスの街を復興を願い、「不死鳥」を入れた今回のタイトルに変更したそうである。

 

指揮と監修を務めるジェフ・フォン・デル・シュミットは、1955年、ロサンゼルス生まれ。苗字からしてドイツ系だと思われ、フォンが入るので貴族の血筋かも知れない(ちなみにドイツ語圏では戦後、貴族階級に属することを意味する「フォン」の称号は名乗ることを禁じられたため、ヘルベルト・フォン・カラヤンなどは特別に芸名としてフォンを名乗ることを許されている)。ウィーン大学、南カリフォルニア大学で学び、カリフォルニアで現代音楽アンサンブルであるサウスウエスト・チェンバー・ミュージックを主宰。2012年からはロサンゼルスで行われる現代音楽のフェスティバルを開催している。
グラミー賞に8回ノミネートされ、2度受賞。2015年からは、ベトナムのハノイ・ニュー・ミュージック・アンサンブルの指揮者兼芸術顧問を務めている。

 

ルー・ハリソンの「森の歌」。フルート、ヴァイオリン、パーカッション、ピアノのための作品である。
ルー・ハリソンは、オレゴン州ポートランド生まれのアメリカの作曲家だが、ジャワのガムラン音楽に強い関心を示すなど、非西洋の音楽に惹かれていた。この曲もガムランを思わせるパーカッションを始め、フルートというより笛ような音で奏でられる旋律(おそらくペンタトニック使用)など、極めて東洋的な音楽が展開される。何の情報ももたらされなければ、アジア人作曲家の作品と誰もが思い込んだに違いない。
中学生の頃、坂本龍一、デヴィッド・バーン・コン・スー(蘇聡。スー・ツォン)が音楽を手掛けた「ラストエンペラー」の映画音楽を愛聴し、ついでに二胡などの演奏のCDも楽しんでいた私にとってはアジア風の音楽は音楽における故郷の一つである。

 

ジョン・ケージの「7つの俳句」。今回演奏される曲の中では比較的知名度が高い作品である。森本ゆりのピアノ独奏。
「俳句」と名付けただけ合って、極めて簡潔な作品群である。音を少し置くだけで終わってしまう。ただサティなども音楽で石取りゲームのようなことをしているため、その延長線上にあると考えても把握はしやすくなる。弦を直接指で弾く特殊奏法も用いられる。

 

ウィリアム・クラフトの「月に憑かれたピエロ」からのセッティング。ソプラノ、フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、パーカッションのための作品。シュミットの指揮である。
シェーンベルクも作曲した「月に憑かれたピエロ」の詩に基づく作品であるが、シェーンベルクが採用しなかった詩の部分にインスピレーションを受けて作曲されている。
ウィリアム・クラフト(1923-2022)は、シカゴ生まれの作曲家。コロンビア大学で学士と修士を修め、まず打楽器奏者として出発。ダラス交響楽団を経て、ロサンゼルス・フィルハーモニックの打楽器奏者・首席ティンパニ奏者として活躍。その後、副指揮者を経てレジデンスコンポーザーを務めた。同い年でロサンゼルスでも活躍した指揮者・作曲家のロバート・クラフトとは特に血縁関係にはないようである。
パーカッションの活躍が目立つ一方で、ヴァイオリンの出番がなかなか訪れないという特殊な構成。音と音の合間から染み出てくる音のようなものが印象的である。器楽に対し、太田真紀のソプラノが良いアクセントになっている。

 

ヴ・ニャット・タン(男性)の「雲」。タンの遺作であり、世界初演である。
ヴ・ニャット・タンは、1970年、ベトナムの首都ハノイ生まれの作曲家。ベトナム戦争下の生まれである。ハノイ国立音楽院でピアノと作曲を学んだ後、ドイツ学術交流会の奨学金を得てケルン音楽大学で現代音楽を学ぶ。その後、カリフォルニア大学サンディエゴ校で作曲を学んだ。一方で祖国の音楽の研究や、祖国の楽器である葦笛奏者としても活躍。1995年から2000年まではハノイ国立音楽院で教育活動に従事した。2020年、癌のため50歳の若さで死去。

「雲」は、ヴァイオリンとピアノのための作品である。どちらかというとピアノ主体の曲で、雅やかな音色と、ピアノの弦を直接弾く特殊奏法によるグリッサンドが印象的である。

 

ジョーン・ファンの「インプレッション・オブ・グスー」
ジョーン・ファンは、1957年、上海生まれの女流作曲家。文化大革命で下放させられた経験を持つ。労働は過酷であったが、農民から地方の民謡を教えられたりもしたそうだ。文革終了後、上海音楽院に入学。ということで、中国映画における第五世代に当たるようだ。上海音楽院で学士と修士を得て、1986年に渡米。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で学ぶ。後に夫となるウィリアム・クラフトとはここで出会った。祖国中国と西洋の音楽の融合を研究し、1991年に博士課程を修了。

グスー(姑蘇)というのは、蘇州の旧名だそうである。パーカッション以外は総出で、シュミットの指揮での演奏。
連続した小協奏曲という趣向を持つ。
最初のうちは現代音楽的な複雑な音だが、やがてチェロに中国的な旋律が現れる。その後も、混沌と中華的旋律の登場が繰り返されるが、「水の蘇州」ということで、水の流れを描くような部分も多い。ヴァイオリンとヴィオラが、スメタナの「モルダウ」の冒頭のような掛け合いを聴かせる部分もあった。

 

演奏終了後、客席にいたジョーン・ファンがシュミットに呼ばれて登場し、拍手を受けた。実年齢よりも若々しい印象を受ける女性である。

 

ウィリアム・クラフト&ジョーン・ファンの「万華鏡とモザイク」。作曲中に病に倒れたクラフトが、死の3時間前に 妻であるジョーン・ファンに「補作して完成させてくれ」るよう頼んだという作品である。
無料パンフレットに「満ち引きする一種の脈略のない夢のような心象風景の場面」とあることから、この曲も「インプレッション・オブ・グスー」同様、流れのようなものが全体を貫いている。異なるのは、「インプレッション・オブ・グスー」では用いられなかったパーカッションの大活躍で、特に力強いドラムの音が全体をリードする。今回の演奏会では、他では見られないほどパーカッションが活躍する場面が多く、演奏終了後、シュミットはパーカッションの畑中明香の手を取って高々と掲げ、労をねぎらった。

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2025年6月 5日 (木)

これまでに観た映画より(387) ドキュメンタリー映画「私は、マリア・カラス」

2025年4月21日

ドキュメンタリー映画「私は、マリア・カラス」を観る。残されたカラスへのインタビュー映像や音声、カラスの歌唱シーンなどで彼女の人生を振り返る。フランスの制作で、言語は主に英語とフランス語が用いられている。トム・ヴォルフ監督作品。

カラスがスターになってからの映像が用いられているが、どちらかというと世紀のプリマドンナ、マリア・カラスよりも、人間、マリア・カラスに焦点が当てられている。そのためアリストテレス・オナシスとの恋愛はかなり重要視されている。歌手として成功したマリア・カラスであるが、オペラ歌手の演技の重要性を説く場面がある。ということは、それまでオペラ歌手は演技は余り重要視してこなかったことが分かるが、従来のクラシック音楽は職人気質で、きちんとした音楽学校を出ていなくても楽器が弾ければ良い、演技はおまけで歌がよければ良いという考えが一般的だった。オーケストラの団員と指揮者が喧嘩になることが多かったのも、一方は音楽学校や音楽大学で楽理からなにから収めている、一方は自己流でも何でも楽器は弾けるという知性軽視の傾向があったためである。オペラ歌手というと、今でもマフィアとのつながりなどが指摘されることがあるが、学究肌である必要はないという考えが普通。それに一石を投じたのがマリア・カラスだった。徹底した楽曲分析に裏付けられたドラマティックな歌唱は喝采を浴びた。
だが、カラスは見た目は強気な女性であったが、実際には精神的にも肉体的にも余り強い方ではなさそうだということが分かる。肉体を酷使した結果、十分に歌えなくなり、ローマ歌劇場での「ノルマ」は、第1幕終了と同時にキャンセル。アンダースタディー(カバーキャスト)などは用意していなかったようで(していても聴衆が満足したとは思えないが)公演が中止になる。「十分な体調でなければ歌えない」というカラスの完璧主義によるものだが、以後、「カラス=キャンセル」のイメージが出来てしまう。実際は、カラスがキャンセルする割合は低かったにも関わらずだ。夫のバティスタはマネージャーも務めたが余り有能とは言えなかったようだ。

そんな中、1957年にヴェネチアで出会ったのだが、ギリシャの海運王、アリストテレス・オナシスであった。優しく、少年のようなオナシスにカラスは癒やされるが、この「少年のような」部分というのは実は地雷だったのかも知れない。9年後、オナシスは、ジャクリーン・ケネディとの結婚を発表。時を同じくしてカラスは歌劇場から遠ざかるようになる。パゾリーニ監督の映画「王女メディア」に出演。カラスは次回作について聞かれて、出るかどうか分からないまでも「喜劇などにも出たい」などと話していたが、「王女メディア」が興行的に伸び悩んだため、映画の出演依頼はなく、これが最初で最後の映画出演になった。なお、「王女メディア」にはカラスが歌うシーンはない。

その後、オペラよりも負担の軽いリサイタルをジュゼッペ・ディ・ステファーノと世界各地で行う。東京のNHKホールでのカーテンコールの模様も収められている。当時の日本の聴衆は今と違ってかなり熱狂的である。
ディ・ステファーノとも恋仲だったと言われるカラスだが、オナシスが戻ってくる。この映画ではカラスはオナシスに甘えた弱い女という一面が描かれている。決して猛女という訳ではないのだ。

エンドロールに選ばれたのは、プッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」から“ねえ、私のお父さん”。カラスの愛らしい一面を示す歌唱である。

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2025年6月 4日 (水)

観劇感想精選(490) 望海風斗主演「マスタークラス」

2025年4月13日 西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇

午後2時から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、「マスタークラス」を観る。マリア・カラスが引退後にジュリアード音楽院で行ったマスタークラス(公開授業)を聴講した経験と講義録を基に、テレンス・マクナリーが書いた戯曲を森新太郎が演出。1939年に生まれ、コロンビア大学在学中から劇作を始めたテレンス・マクナリー。2020年にコロナに罹患して亡くなったという。ゲイであり、キリストと弟子達をゲイとして描いたことで抗議運動を起こされたこともあったようだ。
「マスタークラス」は、1995年にアメリカのフィラデルフィアで初演され、日本では翌1996年に黒柳徹子主演で銀座セゾン劇場において初演が行われている。黒柳徹子版は1999年にも再演されているが、以後、「マスタークラス」を取り上げる日本人女優は現れず、久々の上演となった。出演:望海風斗(のぞみ・ふうと)、池松日佳瑠(いけまつ・ひかる)、林真悠美(藤原歌劇団)、有本康人(藤原歌劇団、びわ湖ホール声楽アンサンブル)、石井雅登、谷本喜基(たにもと・よしき。音楽監督兼任)。テキスト日本語訳:黒田絵美子。

出演者は6人いるが、マリア・カラス役は延々と喋り続けるため、実質一人芝居と変わらない量のセリフをこなす必要がある。上演時間は15分の休憩を含んで2時間20分ほどなので、2時間近くは喋ることになる。これだけの量のセリフをこなすだけでも大変なのに、短いが歌うシーンもある。マリア・カラス役なので引退した時分とはいえそれなりの説得力は必要となる。関西テレビの「ピーチケパーチケ」というエンターテインメント&芸術紹介番組で演出の森新太郎が、「この役をやりたいという女優がいたら少しおかしい」と語っていたが、出来る女優がなかなかいない(余り歌うイメージはないが、黒柳徹子は東京音楽大学の前身である東洋音楽学校声楽科卒であり、本格的な声楽の教育を受けている)。今回は宝塚歌劇団元雪組トップスターの望海風斗がマリア・カラス役に挑むことになった。他の出演者も全員、音楽を専門的に学んでいる。池松日佳瑠は、東京音楽大学声楽演奏家コース卒で元劇団四季、林真悠美は、武蔵野音楽大学大学院修了で第23回万里の長城杯国際音楽コンクール声楽部門1位獲得。藤原歌劇団所属だが、その前にはミュージカルにも出演していた。ホームページを見ると、ストレートプレーを学んだ経験もあるようである。有本康人は、昭和音楽大学声楽科ポピュラーヴォーカルコース卒、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部門第37期修了。藤原歌劇団に所属しているが、大学でも学んだと思われるJ-POPにも取り組んでいる。石井雅登は、今回は音楽に興味を示さない音楽院の道具係役であるが、東京藝術大学音楽学部卒業、在学中に小澤征爾音楽塾塾頭を経験、劇団四季で主役を務めるなど、音楽の素養は十分である。今回は地味な役だが、いざというときにはテナーのカバーも務めることになっている。音楽監督兼任でピアノ独奏を担当するの谷本喜基は、東京芸術大学声楽科卒業。現在は合唱指導者のほか、指揮者、ピアニスト、歌手、アレンジャーなど多方面で活躍。音楽団体「イコラ」の代表、ヴォーカルグループカペラのメンバーである。声楽科の出身者であるが、ピアノとチェンバロ、通奏低音奏法なども修めているようだ。
スウィングという形で、岡田美優(おかだ・みゆう。ソプラノ役両方のカバー)と中田翔真(道具係役のカバー/プロンプター)の名がクレジットされているが、岡田美優は、東京音楽大学卒、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部修了で、藤原歌劇団に所属している。

 

開演前には、ピアノ独奏用にアレンジされた名アリアの数々が流れている。
おそらくニューヨーク・ジュリアード音楽院の教室または講堂が舞台。公開講義なので聴衆がいる。最初のうちは客電が明るいままだが、マリア・カラス役の望海風斗が客いじりをする場面があるためである。

プリマドンナの代名詞的存在であるマリア・カラス。ギリシャ系のアメリカ人でニューヨーク生まれである。最初のうちは容姿に問題があった。100キロを超す巨体の持ち主で、容姿をあげつらう声もあった。マリア・カラスは減量を行い、体重を半分にすることに成功する。カラス本人は「菜食によるもの」としていたが、わざとサナダムシを体内で飼い、体重を減らしたとする「サナダムシ説」も今も有力である。実際、サナダムシがいたことは確かなようだが、それが減量のためなのか、たまたま体の中に入ってしまったのか、真相は分からないようである。
こうして容姿の問題を解決したカラス。視力が悪いという問題もあったが、劇中で、「視力が悪いのも悪くない。指揮者の指示が目に入らなかったということに出来る」という意味のセリフがあり、難点を難点としなかったようだ。

オペラを題材にした芝居ということで、フランコ・ゼフィレッリ、ルキノ・ヴィスコンティ、レナード・バーンスタイン、ヴィクトル・デ・サバタ、ジョーン・サザーランドなどビッグネームが登場する。
カラスは、「私は同業者の悪口は絶対に言わない」と言いながら、サザーランドが長身であることをくさすなど、毒舌を発揮。マリア・カラスは、性格的には良いとは言えない人であるが、そのために人生がドラマティックになったという一面はある。

カラスは、まず「見た目」が大事だという。ピアニストのマニー(エマニュエル。ユダヤ系の名前である。演じるのは谷本喜基)にも、最初に会った時の赤いセーターのようなインパクトがあればと言う。そして客席を、「あなたは見た目に気を使っているとは言えないわね」「その後ろの人も見た目に気を使っているとは言えないわね」といじる。「見た目を良くするのは、歌を良くするより簡単」と断言する。

最初のレッスン生であるソフィー(池松日佳瑠)も、田舎娘のような格好で、見た目がいまいちである。苦労知らずの子のようで、苦労についても「いや、それぐらいは全員」ということしかいえない。ソフィーはギリシャ系イタリア人であるが、譜面に書かれたイタリア語の指示を読めないため、少なくとも育ちはアメリカで、イタリア語はネイティブではないのだと思われる。歌うのはベッリーニの歌劇「夢遊病の女」より“ああ、信じられない”。
まずピアノ伴奏を聴いていないという指摘をカラスから受けるソフィー。作曲家は音符に全てを書いているので、それを聞き逃してはならない。そして演技をしてはならない。なぞるのではない。「感じる、本当にそうなる。それが私達の仕事です」
そうしたアドバイスを書き留めなければならないのだが、ソフィーは鉛筆を持っていない。カラスは若い頃の話をする。カラスが若い頃は鉛筆は高級品だった。ある日、鉛筆とオレンジが並んだ場所で売られていた。オレンジはカラスの大好物であったが、「(歌手として成功したら)後で好きなだけ買える」ので鉛筆を選んだ。
ちなみにソフィーの好きなソプラノ歌手は、サザーランドであるが、ここで先に書いたサザーランドの悪口が出る(「熊みたい」)。カラスは「夢遊病の女」のアミーナを歌い継いできた歌手のことを思い浮かべ、歴史を感じて歌うようアドバイス。ソフィーは、「サザーランドは入りませんか?」と聞いてカラスににらまれる。オペラ界は嫉妬とやっかみの世界である。
ソフィー役(本にはソプラノ1とある)も歌うシーンが短いがあるので、やはりソプラノ歌手としての訓練を積んだ者でないと演じることは出来ない。

レッスン生2人目。シャロン(林真悠美)。ソプラノである(本にはソプラノ2と書かれている)。ドレスアップして登場。緑の美しいドレスなのだが、これから行われるのは本番ではなくて授業である。ということで、TPOに問題がある。カラスは、「あなたは何系?」と聞くが、シャロンは答えない。シャロン・グレアムという、ファーストネームもファミリーネームもWASP系だが、本名を名乗る必要もないので(マリア・カラスも本名ではない。本名は、マリア・アンナ・ソフィア・セシリア・カロゲロプーロス)不明のままである。仮にWASPだったとしても、ギリシャ移民系のカラスに「WASPです」とは言えないだろう(俗に言う「マウントを取った」ことになる)。
ヴェルディの歌劇「マクベス」からマクベス夫人のアリア“勝利の日に私は~さあ急いでいらっしゃい!”を歌う。シャロンに、シェイクスピアの「マクベス」を読んだことはあるかと聞くカラス。シャロンは、「18歳の時に」と大分前の話として答えるが、「ヴェルディが『マクベス』を読まずにオペラを書いたと思ってるの?」と不勉強を責める。
ラブレターを読むシーンから入るのだが、ちゃんと読んでいるようには見えない。カラスがやってみせるが、カラスは読まない。これは、「ラブレターを何度も読んでもう暗記しているので読む必要がない」という解釈だそうである。
一度退場して、登場することになるシャロン。カラスによると「登場があって退場がある。その間に芸術がある」
しかし、シャロンは戻ってこない。様子を見に行ったカラスは、「いない」
カラスは若い頃に、ミラノ・スカラ座でマクベス夫人を歌った時のことを思い返す。フランコ・ゼフィレッリの演出、ヴィクトル・デ・サバタの指揮。高所にいるという演出である。ここでの成功で、カラスはスターへの道を歩み始める。
背景には鏡が市松模様になる形で埋め込まれているが、この時は背景にスカラ座の内部が投影される。

3人目のレッスン生は、トニー(アントニー。有本康人)である。テノール。南カリフォルニア大学で声楽を学び、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の大学院で声楽の修士獲得。この時代は今よりも東海岸と西海岸の差が激しかったはずである。
プッチーニの「トスカ」のマリオのアリア“妙なる調和”を歌う。ちょっと軽い感じの男であるが、歌は確かである。カラスは情景描写を行う。実際には台本に書かれていないことも想像力で把握していく。画家であるマリオが描いている絵の題材まで言い当てる。
カラスはトニーの歌に感銘を受けたように見えるが、実際は、マリオの相手であるトスカに自己同一化して思い出に浸っていたようである。「アリー」と愛称で呼ばれるその男、海運王、アリストテレス・オナシスである。オナシスは金持ちであるが、芸術に理解のない居丈高の男としてカラスが演じてみせる。実際のところ、オナシスがカラスに好意を持ったのは、彼女が自分と同じギリシャ系の世界最高のソプラノ歌手だったからで、別に音楽が好きだったからではない。オナシスは、カラスにオペラではなくて売春宿で歌われるような民謡を要求する。
オナシスは、その後、カラスを捨ててジャクリーン・ケネディと結婚する。ジャクリーンと結婚したのもやはりアクセサリー集め感覚だったようで、すぐに不仲になり、離婚後はまたカラスと付き合うようになるが、カラスの引退を早めた一因がオナシスにもあったように思われる。

シャロンが戻っている。体調不良となり、化粧室で嘔吐してしまったが、再びマクベス夫人に挑む。カラスに解釈を否定されつつも歌い終えるシャロンだったが、「あなたは自分が分かっていない」と言われる。カラスは、マクベス夫人には向いていないとして、いわゆるリリック・ソプラノが起用される役を提案。しかし、これにシャロンは激怒。「大嫌い!」「若い才能を潰したいだけ」と捨て台詞を吐いて出て行く。

最初の夫であるバティスタと、愛人のオナシスの思い出。ここで、バティスタとオナシスの顔写真が背景に投影されるのだが、これは余り趣味が良くないように感じた。語りすぎるくらいに語るので、それ以外は余計な要素である。
実はバティスタは、カラスより30歳年上。親子程もしくはそれ以上の差である。それが次第に耐えられなくなる。この作品中では語られないが、マネージャーでもあったバティスタはカラスに技巧的に難度の高い歌が登場するオペラへの出演を引き受けさせ、その結果、カラスは喉の故障で40歳そこそこで引退せざるを得なくなっている。オナシスの下へと走ったカラスだが、不倫だったためバッシングを浴び、離婚。オナシスと再婚したかったが、オナシスはジャクリーン・ケネディを選んだ。

ジュリアード音楽院でのマスタークラスを始める前に、カラスは映画に出演している。パゾリーニ監督の「王女メディア」。この映画は、何年か前にリバイバル上映されているが、劇中でカラスが歌うことはない。映画の内容も、回想や想像の場面がそれと示されずに突然挿入されるという抽象性の高いもので難解であり、またパゾリーニ監督作品ということで残虐シーンもあるなど少々悪趣味で、興行的には成功していない。

 

オペラのマスタークラスを描いた作品であるが、描かれるのは芸術論である。オペラだけではない。
「この世から『椿姫』がなくなっても、お日様はちゃんと昇ります。オペラ歌手なんていなくても世界は回っていきます。でも私達がいると、その世界が少し、豊かに、そして賢くなるんじゃないかって」
「肝心なのは、あなたがたが学んだことを、どう生かすかってことです。言葉をどう表現するか、どうしたらはっきり伝わるか、自分の中にある魂をどう震わせるか。どうか正しく、そして素直な気持ちで歌を歌って下さい」
正しく素直。これは実はかなり難度の高いことなのだが、おそらく講義録からの言葉でカラスはそこを目指していたのだろう。

 

最後には、マリア・カラスの肖像が、キャットウォークから降りてきて、望海風斗は膝を折ってマリア・カラスに敬意を表した。

 

望海風斗は鼻が高く、風貌がカラスに似ている。少なくとも同系統でカラス役には最適である。膨大なセリフを淀みなく喋る至芸を披露。歌声も美声である。
他の出演者も音楽家ということで、音楽的に充実していた。林真悠美と有本康人は、演技を見て、「この人達はオペラの人かな?」と思ったが、実際にそうであった。オペラの登場人物は――オテロ、蝶々夫人、トゥーランドット、ポーギーとベスなど例外も多いが――白人であることが多いため、オペラ歌手は白人のような身のこなしをすることに慣れている。それが舞台俳優との一番の違いである。新劇は西洋の戯曲の上演も多いので、その時は白人のような身のこなしをするが、オペラ歌手の場合はそれともちょっと違う。

 

近く、マリア・カラスを主人公にした「Maria」(原題)という映画が日本で公開される予定である。マリア・カラスを演じるのはアンジェリーナ・ジョリー。これまた癖のある女優が選ばれている。

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2025年6月 1日 (日)

コンサートの記(903) マルタ・アルゲリッチ特別演奏会 in 京都南座

2025年5月26日 京都四條南座にて

午後6時30分から、京都四條南座で、第25回記念別府マルタ・アルゲリッチ音楽祭関連コンサート マルタ・アルゲリッチ特別演奏会 in 京都南座を聴く。

午後6時開場の予定だったが、気温が低めのためか、南座に着いた午後5時45分にはすでに開場していた。ロビー開場で、午後6時に客席開場となるはずであったが、ドアの隙間からアルゲリッチが弾くピアノの音が漏れており、リハーサルが長引いているということで客席開場が少し遅れる。それまでドアのそばにさりげなく立って、アルゲリッチの弾く澄んだピアノの音を耳にしていた。

世界最高の天才ピアニストと呼ばれるマルタ・アルゲリッチの22年ぶりとなる京都での演奏会である。前回はおそらく京都コンサートホールでの演奏だったと思われるのだが、今回の会場は京都四條南座となった。南座では、翁・シルクロード 特別な想い ゼロからの祈りコンサートが行われており、昨日は、石上真由子や佐藤晴真やテレマン室内オーケストラ、雅楽によるコンサートが行われ、2日目となる今日がアルゲリッチのコンサート。
アルゲリッチはいつの頃からか、「ステージに一人だと寂しい」という子どものような理由で、室内楽や協奏曲の独奏しか行わなくなっていたのだが、別府アルゲリッチ音楽祭を行うようになってから、次第にピアノソロ曲も弾くようになり、今日もピアノ独奏曲がプログラムに含まれている。

耐震工事を含めた内部改修工事を行った南座。松竹が3Dプリンターを使って、以前の通りに復元したのだが、座席の狭さや座席前通路の狭隘さ、三階席の急勾配と階段の段の高さもそのままで、一幕見席も相変わらずなしということで、不評である。ただ音の通りは明らかに良くなっており、クラシック音楽の演奏会場として期待もされたのだが、おそらく昨日今日の演奏会が、改修後初のクラシック音楽の演奏会となる。

チケットはかなり高いので、安めの席を選択。実は南座は大向こうが一番音の通りが良いと知っての計算である。3階席の最後列ほぼ真ん中であったが、やはり音の通りは良く、視覚以外は、目の前で演奏しているかのようであった。

出演は、マルタ・アルゲリッチの他に、川久保賜紀(ヴァイオリン)、川本嘉子(ヴィオラ)、上野通明(みちあき。チェロ)。アルゲリッチと共演するに相応しい、日本屈指の腕利きが揃った。

正面に能の鏡板を模した松、側面には竹の松羽目舞台での演奏である。

曲目には変更がある。
まず、川久保賜紀と上野通明による、非常に格好良いハルヴォルセンの「ヘンデルの主題によるサラバントと変奏」に続いて、エルネスト・フォン・ドホナーニの弦楽三重奏のためのセレナードが演奏されるはずだったのだが、アルゲリッチの登場が早まり、川久保と上野が退場してからすぐにアルゲリッチが姿を現す。なお今日はスタッフも含めて全員上手からの登場となった。

アルゲリッチはプログラムにない曲を弾き始める。シューマンの幻想小曲集より「夢のもつれ」。アルゲリッチらしい鮮度の高い演奏であったが、何故か、客席下手側後方から大きめの寝息の音がする。アルゲリッチもその方を振り返って、「この私がピアノを弾いているのに寝るですって?」といったような表情を浮かべていた。

続く2曲は、プログラム通りラヴェルの「水の戯れ」と『夜のガスパール』から「オンディーヌ」
いずれも鍵盤が日の光を反映した水の面に見えてくるような瑞々しい演奏。勢い余って水がピアノから溢れ出そうである。
エスプリ・クルトワやラヴェルが曲に込めたたゆたうような音楽性も、最大限に引き出して見せる。
いずれの曲も、他のピアニストによる生演奏を聴いたことはあるが、やはりアルゲリッチは何もかも違う。
これだけのピアノソロを弾けるのに、何年も何十年も封印してきたのだからアルゲリッチも罪な人である。

 

エルンスト・フォン・ドホナーニの弦楽三重奏曲のためのセレナード。
三人の息のあったアンサンブルが聴きものである。
ハンガリー生まれのエルンスト・フォン・ドホナーニ。高名な指揮者のクリストフ・フォン・ドホナーニの祖父であるが、クリストフは生地のドイツ国籍である。名作曲家や名音楽家を多く生み出しているハンガリーの作曲家だけに豊かな音楽性を感じさせるが、例えばバルトークやコダーイほどにはハンガリー的ではなく、ドイツ音楽の影響が強い。
南座の音響はピアノ向きで、ピアノの後に弦楽トリオを聴くと音がやや細いように感じられた。音の通りは良いが残響がないからでもあろう。

 

休憩は南座らしく30分もある。2階などでは雅楽の楽器や、雅楽に乗せて舞う時の衣装などが展示されている。

1階西側のスペースでは、河原町の清水屋さんがアルゲリッチや川久保さんのCDを販売していたが、良さそうなものは大体買ってしまっているため、買いようがなかった。

 

後半は、ヴィオラの川本嘉子のソロから始まる。ヘンデル(細川俊夫編曲)の「私を泣かせてください」と、カタロニア民謡を原曲とした西村朗の「鳥の歌」幻想曲。いずれも日本を代表する作曲家による作品。西村朗は、追悼コンサートが、彼が音楽監督を務めた大阪の住友生命いずみホールで今年複数回行われる。
いずれも前奏に原曲とは異なる部分が付け加えられていたが、本編の美しさを損なわない仕上がりとなっていた。

 

メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番。
メンデルスゾーンというと、金持ちの家に生まれ、一流の教育を受け、作曲家として神童と認められたほか、絵画の腕前も一級、指揮者としても高く評価されるなど、自身がユダヤ人の家系であることや、38歳で早逝したことを除けば、幸福な人生を送ったかのように見える。彼の人生を評して「行けども行けども薔薇また薔薇」と言われたりもする。
だがこの曲の第1楽章を聴けば、メンデルスゾーンが本当の悲しみを知っている人間であることが分かる。人知れぬ苦悩には直面したことがありそうである。
アルゲリッチは譜めくり人を付けての演奏。譜めくり人を務めるのは京都を拠点として活躍する女性ピアニストである。
アルゲリッチのピアノがベースを奏で、弦楽器がその上を駆けていく。

第2楽章では、冒頭でアルゲリッチが懐旧の趣のあるソロを奏でる。胸にゆっくりと染み込んでいくようなピアノである。
子どもの頃の思い出。まだ小学校に上がる前、父と実家の近くの用水路沿いをずっと歩いて行った。ただそれだけなのに懐かしい風景。それを思い出した。
その後は、弦楽とピアノが明るい音楽を奏でる。

第3楽章ではピアノの煌びやかなソロがあり、弦楽器が優雅な掛け合いを行う。

そして第4楽章では、熱いやり取りが繰り広げられる。三者とも共演というより競演という趣で全力をぶつけ合い、スリリングな演奏となった。

 

喝采に包まれた南座。アルゲリッチに客席から花束を渡す人二名。更にスタッフから三人に花束が贈呈された。

 

メンデルスゾーンのピアノ三重奏第1番第3楽章がアンコールとして再び演奏され、再び魔術のような音楽が南座の空間を満たす。

 

最後は、私が目にした中では上川隆也主演の舞台「隠蔽捜査」(改修前の南座での上演)以来となる南座オールスタンディングオベーション。アルゲリッチも満足そうであった。

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2025年5月30日 (金)

観劇感想精選(489) ミュージカル「レ・ミゼラブル」2025大阪公演 2025年3月19日

2025年3月19日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後5時から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「レ・ミゼラブル」を観る。
東京では、帝国劇場のクロージング演目として上演されたプロジェクトである。

1985年の日本初演以来、上演を重ねているミュージカルの定番。ヒュー・ジャックマン、アン・ハサウェイらが出演した映画版も名画としての地位を確立している。
原作:ビクトル・ユゴー。原作は岩波文庫から分厚いもの4巻組みで出ているが、訳も良くて読みやすいので、一度は読むことをお薦めする。フランスのロマン派の小説なので、突然、詩が出てきたりするなど、今の小説とはスタイルが異なる。
作:アラン・ブーブリル&クロード=ミッシェル・シェーンベルク。作詞:ハーバート・クレッツマー。演出:ローレンス・コナー/ジェームズ・パウエル。翻訳:酒井洋子、訳詞:岩谷時子。製作:東宝。

全ての役が完全オーディションで決まることで知られる「レ・ミゼラブル」。以前に役を歌ったことがある人でも、再び役を貰えるとは限らない。一方で、無名でもミュージカルのイメージがない俳優でもオーディションさえ通れば出演する可能性がある。

トリプルキャストが基本だが、今日の出演は、飯田洋輔(ジャン・バルジャン)、小野田龍之介(ジャベール警部)、 生田絵梨花(ファンテーヌ)、ルミーナ(エポニーヌ)、三浦宏規(マリウス)、加藤梨里香(コゼット)、六角精児(テナルディエ)、谷口ゆうな(マダム・テナルディエ)、岩橋大(アンジョルラス)、大園尭楽(おおぞの・たから。ガブローシュ)、井澤美遥(リトル・コゼット)、平山ゆず希(リトル・エポニーヌ)、鎌田誠樹(かまだ・まさき。司教)、佐々木淳平(工場長)、小林遼介(パマタボア)、近藤真行(グランティール)、杉浦奎介(フイイ)、伊藤広祥(いとう・ひろあき。コンブフェール)、島崎伸作(クールフェラック)、東倫太郎(ひがし・りんたろう。ジョリ)、中村翼(プルベール)、廬川晶祥(ろがわ・あきよし。レーグル)、町田慎之介(バベ)、ユーリック武蔵(ブリジョン)、土倉有貴(とくら・ゆうき。クラクスー)、松村桜李(モンパルナス)、白鳥光夏(しらとり・みか。ファクトリーガール)、般若愛実(はんにゃ・まなみ。買入屋)、湖山夏帆(かつら屋)、三浦優水香(マダム)、青山瑠里(宿屋の女房)、荒居清香(あらい・せいか。カフェオーナーの妻)、石丸椎菜(病気の娼婦)、大泰司桃子(おおたいし・ももこ。鳩)、北村沙羅(あばずれ)、吉良茉由子(身代わりの妻)。

 

「夢やぶれて」、「民衆の歌」、「オン・マイ・オウン」など有名曲を擁し、これらの曲が何度も用いられる循環形式も効果的なミュージカルである。パンを盗んだだけで19年間投獄されていた男、ジャン・バルジャンの更生と、ジャン・バルジャンが育てた娘のコゼット、コゼットに恋する大学生の好青年マリウスなどを軸に、叶わぬ恋に悩むエポニーヌ、6月暴動に向かう若者達の姿が交錯する叙事詩である。

聴き映えはするが歌唱難度はそれほど高くない曲と、高音域が要求されたり音の進行が不安定だったりと本当に難度が高い曲が混在しており、バランスが良い。まるでショパンの楽曲のようだ。

今回、ジャン・バルジャンを演じる飯田洋輔は裏声の美しさが印象的。ミュージカルのみならず歌手としても活動が出来そうだ。人気が出るかどうかはまた別の話だが。

すでに若手トップクラスのミュージカル女優の一人として評価されている生田絵梨花。ミュージカルのみならずテレビドラマにも主演するなど順調なキャリアを歩んでいるが、ミュージカルをやっている時の彼女が一番生き生きしているように見える。
最も有名なナンバー「夢やぶれて」を彼女は意図的に走り気味に歌唱。おそらく感情が先走っていることを表現しているのだろうと思われる。歌い方は節度が保たれており、映画版のアン・ハサウェイとは好対照である。彼女が演じるファンテーヌは同じ女工から苛め抜かれた上、コゼットを生んであっさり亡くなってしまうのだが、終盤におそらく聖人となってジャン・バルジャンの下を訪れる。また「夢やぶれて」のメロディーはリフレインされる。

マリウスに片想いするエポニーヌ。彼女もまた非業の死を遂げる人物である。6月暴動でバリケードに閉じこもるが(思想面ではなく、単にマリウスと一緒にいたかったから)射殺されてしまう。
彼女がマリウスへの気持ちを歌った「オン・マイ・オウン」は難度も高いが、事前にメロディーが流れる場面があったり、その後、クライマックスでリフレインされる。
ルミーナは、インドと日本のハーフで、ソウル国立大学校で声楽を学んだというインテリである。まず韓国版「レ・ミゼラブル」のエポニーヌ役で出演。続いて日本版の「レ・ミゼラブル」にも出演している。

過去に犯した罪か現在か。過去に犯した罪を執拗に追及するジャベール警部は、自分が追っていたものが過去の幻影だと思い知らされ、セーヌ川に身を投げることになる。ジャン・バルジャンが最初に仮出所したのは46歳ともう若くない年齢であり、それでも悔い改めようとはしなかったが、そこから事業で成功して市長になり、その後もコゼットを育てるなど失敗からのやり直しを果たした、慈父のようになった人物である。
過去に手を差し伸べた二人の女性(ファンテーヌとエポニーニ)の霊に見守られながら、ジャン・バルジャンは旅立っていく。

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