2021年1月24日 (日)

これまでに観た映画より(242) 周防正行監督作品「それでもボクはやってない」

2007年3月15日 TOHOシネマズ二条にて

TOHOシネマズ二条で周防正行監督作品『それでもボクはやってない』を観る。久しぶりに映画館に行ったが、「映画館で観ることが出来て良かった」と思える作品に久々に当たった。秀作であった。

『それでもボクはやってない』は、『Shall We ダンス?』から11年ぶりとなる周防監督の新作。周防監督は『Shall We ダンス?』公開後は著述業やプロデューサー業をしながら、「どうしても撮りたいもの」を探し続けており、2002年の秋から痴漢冤罪事件に関する取材を開始、30件、200回以上に渡る裁判を傍聴、約200人に話を聴き、200冊以上の参考文献に目を通し、取材時期は3年以上に及んだという。
周防監督はもともと題材を丹念に探し、取材を徹底して行うタイプだが、3年以上というのは異例である。

監督・脚本:周防正行。主演:加瀬亮。出演:役所広司、瀬戸朝香、山本耕史、もたいまさこ、小日向文世、尾美としのり、鈴木蘭々、光石研、正名僕蔵、唯野未歩子(ただの・みあこ)、NHKドラマ「ハゲタカ」で知名度が急上昇中の大森南朋(おおもり・なお)、そして周防ファミリーである竹中直人、田口浩正、清水美砂(のちに清水美沙に改名)らが出演している。

笑えるエンターテインメントを作ってきた周防正行監督だが、今回の『それでもボクはやってない』は、取り調べから裁判の過程を通して「人間」の問題を問うた極めてシリアスでシビアな作品である。

配役の妙もある。裁判長に善人も悪人も巧みに演じる小日向文世を当てたことでスリルが増す。痴漢被害者で、加瀬亮演じる金子徹平を誤認逮捕する女子中学生役には真面目で可愛らしく傷つきやすい雰囲気を持ち、声も幼い感じの女の子(柳生みゆ)を起用、徹平や観客の「冤罪を作ってしまった者に対する憎悪」を見事に逸らしてしまう。またミステリアスな雰囲気を持つ唯野未歩子を「痴漢でないことを見ていた」証言者として用いたのも効果的だ。

検察の取り調べのシーンもあるが、例えばキムタク主演のテレビドラマ『HERO』のようなちゃらちゃらしたものではなく、自然に身につけてしまう悪意を前面に出すなど、非人間性の表れを冷徹に示してみせる。

エンターテインメントというと、出演者が騒いで楽しく楽しくというものをイメージするが、『それでもボクはやってない』もエンターテインメントだ。そして『HERO』と『それでもボクはやってない』どちらがエンターテインメントしているかと聞かれたら、私は『それでもボクはやってない』の方が『HERO』の100倍エンターテインメントしていると答えるだろう。

『それでもボクはやってない』は観る者に普通とは違った意味での肯定を与える。勇気づけられる人も多いはずだ。

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2021年1月23日 (土)

これまでに観た映画より(241) 「カッコーの巣の上で」

2007年3月14日

DVDでアメリカ映画「カッコーの巣の上で」を観る。1975年度のアカデミー作品賞受賞作品。ミロス・フォアマン監督、マイケル・ダグラス製作、ジャック・ニコルソン主演。

精神病院を舞台にした名作との誉れ高い作品である。タイトルは「カッコーの巣の上で」というものだが、ご存じの通りカッコーは巣を作らない鳥である。意味深長なタイトルだ。

前科者で何度も刑務所に入っているマクマーフィ(ジャック・ニコルソン)は今度は刑務所行きを逃れるために精神異常を訴えて精神病院の閉鎖病棟に送り込まれる。しかし、そこは徹底して管理された非人間的社会であった……

決して心楽しくなる映画ではない。マクマーフィによって精神病院から一時的に抜け出した患者達が魚釣りに出かけたりする場面に痛快さを覚えることはあるが、後半、特に結末近くは陰惨であり、生きるということの難しさと痛々しさが胸に迫る。

本当に人間らしくあるといはどういう事なのかという問いがある。精神病患者を精神病患者として扱っても人間として扱ってもそこには矛盾が生じてしまう。そもそも人間らしさという概念そのものが曖昧なのに人間らしさというイメージをなんとなく共有していることは世界としてまっとうなのだろうか。

全米から1200人以上も集まったオーディションを勝ち抜いた精神病院入院患者役の俳優達の演技は実に上手い。日本にも精神病患者を演じるのが上手な俳優もいるが質量共にアメリカには勝てないだろう。まあ、映画層も俳優層もアメリカは日本とは比べものならないほど厚いのでそれは当然なのだが。

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2021年1月22日 (金)

コンサートの記(686) ロームシアター京都開館5周年記念事業 京都市交響楽団×石橋義正パフォーマティブコンサート

2021年1月17日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、ロームシアター京都開館5周年記念事業 京都市交響楽団×石橋義正パフォーマティブコンサートを聴く。出演者側というよりも入場者側の問題だったのか(午後2時を過ぎてから客席に入ってくるお客さんが結構いた)、開演は15分以上押した。

先週の「雅楽――現代舞踊との出会い」とのセット券(S席のみ)も発売されていたが、先週の同じ時間帯に京都市交響楽団は京都コンサートホールでニューイヤーコンサートを行っていたため、京響のファンはニューイヤーコンサートを優先させる人が多かったはずで、多分、それほど売れなかったと思われる。それでもヘアスタイルからバレエをやっているとわかる女の子達が集団で訪れるなど、バラエティに富んだ聴衆が集っているのが見て取れる。

今日の公演はタイトル通り、京都市交響楽団と演出家・映画監督で京都市立芸術大学美術科教授でもある石橋義正のコラボレーションである。

指揮者は園田隆一郎。オーケストラが舞台の後部に控える配置である上に、照明がそれほど明るくないのでハッキリとは見えなかったが、コンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーは尾﨑平であると思われる。管楽器のソロが重要になる曲目が多いということで、フルート首席の上野博昭、クラリネット首席の小谷口直子も全編出演する。

その曲目は、ストラヴィンスキーの交響的幻想曲「花火」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「ボレロ」、ラヴェルの歌曲集「シェエラザード」(ソプラノ独唱:森谷真理)、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版)。
私の世代だと、これらの楽曲はシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団のCDで初めて聴いたケースが多いと思われる。私の場合も、「ボレロ」だけはアンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団盤が初めて聴いた演奏だが、それ以外はデュトワ指揮モントリオール響のCDで初めて耳にしている。丁度、私の十代から二十代初頭に掛けてデュトワとモントリオール響はこれらの曲を録音して次々にリリースしていた。

パフォーマンスの出演は、「花火」が花園大学男子新体操部。「牧神の午後への前奏曲」と「火の鳥」が、茉莉花(まりか。コントーション)、池ヶ谷奏(いけがや・かな)、薄田真美子(うすだ・まみこ)、斉藤綾子、高瀬瑶子、中津文花(なかつ・あやか)、松岡希美(以上、ダンス)。「ボレロ」がアオイヤマダとチュートリアルの徳井義実。
振付は藤井泉が行う。ビジュアルデザインは江村耕市。衣装は川上須賀代。特殊メイクはJIRO(自由廊)。

石橋の演出は全般的に「生命の輝き」を軸としたものである。

 

張り出し舞台にしての公演。「火の鳥」はオーケストラピットの上に板を置いてコントーション(体の柔らかさなども生かした曲芸的なダンス)の茉莉花が舞台前方で踊る場面が続いたのだが、張り出し舞台の前方で踊るとやはりよく見えない(今日は私は3階席にいた)。

オペラやバレエでタクトを執ることも多い園田隆一郎だが、今日は舞台後方での演奏であり、ダンスを確認しながらの指揮ではない。音楽にパフォーマーが合わせる形になるが、その場合はインテンポでの演奏を行えた方が良い。園田はそうした職人芸も持ち合わせているため、演奏自体もかなり高度なものになる。それにしても京都市交響楽団も随分上手くなった。私が京都に移り住んだ2002年にはまだ不器用なオーケストラというイメージだったが、今や別次元である。音の輝き、響きの力強さ、精度、いずれも日本を代表するレベルで、文化都市・京都の顔にこれほど相応しい団体は他にない。

 

ストラヴィンスキーの交響的幻想曲「花火」。今年はストラヴィンスキーの没後50年ということで彼の作品が2曲入っているが、ストラヴィンスキーもバレエ音楽を書いて活躍したのはパリ時代であり、ドビュッシーもラヴェルもパリを拠点とした作曲家ということで、京都市の姉妹都市パリにも焦点が当てられた曲目である。

オリンピックでも日本が比較的健闘している新体操であるが、男子の新体操となるとまだ珍しい。花園大学新体操部は1998年に創部。2020年11月に開催された第73回全日本新体操選手権大会では団体競技の部3位に入賞している。
オリンピックでは「フェアリージャパン」と称され、可憐な舞が中心となる新体操だが、男子の新体操は女子とは別のアクロバティックなものである。男子のシンクロナイズドスイミングを描いた矢口史靖監督の「ウォーターボーイズ」という映画は有名だと思われるが、女子と男子とでは別物という点が共通しており、「ウォーターボーイズ」(テレビドラマ版でも良い)を観たことのある人は男子新体操を思い浮かべやすいと思われる。タンブリングを主体としたダイナミックなもので、銀色のボディスーツにカラフルな照明が映えて、花火と肉体の生命力が存分に表される。

ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。出演者達は「花火」の時には指揮台のすぐそばで目立たないように立っていた。
石橋義正のノートによると、「生殖」をイメージしたものであるが、出演者は女性のみであり、将来、人間は有性生殖をしなくなるという仮定の下、細胞分裂による進化を描いたものだという。「牧神の午後への前奏曲」は、マラルメの詩を元にしているが、牧神がニンフ達を追い回すということで、エロティックな振付が行われることもある。今回もそれらしい動きはあるが、女性ダンサー同士なので、それほど性的な意味に固執しない方がいいだろう。ダンサー達は腕と脚をゴムのようなもので繋いで踊る。具体的に何を意味するのかはわからないが、細胞膜、染色体、DNA(螺旋ではないが)といったものと捉えるとわかりやすい。これらは生命体である証であり、ウイルスはこうしたものを持たない。
ラストで紗幕が降り、ピンク色の光が溢れ出る様が投影される。

ラヴェルの「ボレロ」。紗幕に今度は原色系の帯のようなものが投影され、左右に動く。ジャン=リュック・ゴダール監督の映画の冒頭に出てきそうな映像である。
やがて赤いドレスを着た女性の影が浮かぶ。紗幕が上に上がると、その赤いドレスを着た女性(アオイヤマダ)が踊る。やがて女性は舞台中央にしつらえられたチェアに腰掛ける。上手から男性(徳井義実)が登場し、女性の顔に色々と施しをする。どうもメイクアップアーティストのようだ。こういうような設定の場合は、大体、女性がえらい目に遭うのだが、JIROの特殊メイクにより、徳井がドライヤーを掛けると女性の顔が崩れて血が流れ始める。「ボレロ」自体がラストの突然の転調で聴き手を驚かせる内容であり、演出も音楽に沿ったものである。曲とパフォーマンスが終わると同時に、オーケストラが乗った少し高いステージの部分に「intermission」の文字が投影される。
無申告事件の後、テレビにはほとんど出られなくなった徳井義実であるが、昨年のよしもと祇園花月再始動の際にはオープニングを飾るなど、舞台では活動を拡げつつある。なぜ漫才が本業の徳井義実がパフォーマーに選ばれたのかはよくわからないが、京都市出身で花園大学OB(中退ではあるが。ちなみに「花園大学は同志社大学より格上」だと言い張って、相方の福田充徳に突っ込まれまくるというネタを持っている)いうこともあるのかも知れない。舞台慣れしているだけに洗練された身のこなしで、他の出演者達に劣らない存在感を示していた。

 

後半。まずはラヴェルの歌曲「シェエラザード」。
独唱の森谷真理は、人気上昇中のソプラノ歌手。栃木県小山市出身で小山評定ふるさと大使と、とちぎみらい大使でもある。二期会会員。「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」で国歌独唱を務めている。
紅白歌合戦の小林幸子のような巨大衣装で歌う。頭頂部に泉の噴水のようなオブジェが付いており、演出ノートによると「生命の起源をイメージする海洋生物」ということで鯨の祖先を模しているのかも知れないが、むしろ湧き出る泉のような生命力を表しているようにも見える。
森谷真理の歌声はびわ湖ホール大ホールでも聴いたことがあるが、ロームシアター京都メインホールは空間自体がそれほど大きくないということもあり、臨場感抜群の歌唱となった。私が行ったことのあるホールの中では、ここが一番声楽に適した音響を持っているように思われる。響き過ぎないのが良い。
巨大衣装ということで一人では退場出来ないため、歌唱終了後はスタッフが登場して4人がかりで移動。去り際に森谷真理は客席に向かって手を振る。

ストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版)。ストーリー的には「牧神の午後への前奏曲」の続編としているそうだが、火の鳥は「復活の象徴」としてフェニックス=不死鳥になぞらえられている。舞台上方にはハートや蟹にも見えるオブジェが赤く輝いており、ノートには「火の鳥の卵のようなもの」と記されているが、向かい合った不死鳥を表しているようにも見える。
音楽自体が「牧神の午後への前奏曲」とは違ってダイナミックであるため、生命の躍動がダイレクトに伝わってきた。ノートにも「リアルな生の体験」と書かれているが、臨場感や波打つような生命力は劇場でないと十分に味わえないものであり、コロナ禍を乗り越えて不死鳥のように復活するという人類への希望と賛美もまた伝わってきた。

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2021年1月20日 (水)

コンサートの記(685) ジャナンドレア・ノセダ指揮 兵庫芸術文化センター管弦楽団第7回定期演奏会

2007年2月17日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター大ホールにて

西宮北口にある兵庫県立芸術文化センター大ホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団の第7回定期演奏会を聴く。指揮はイタリア出身で、ゲルギエフ門下のジャナンドレア・ノセダ。1964年生まれと若く、今後が期待されている指揮者の一人である。

兵庫芸術文化センター管弦楽団は、2月にこのノセダを呼び、3月定期にはネーメ・ヤルヴィの次男で、パーヴォ・ヤルヴィの弟であるクリスチャン・ヤルヴィを指揮台に招く。なかなか豪華な顔ぶれである。ノセダのチケットは取れたが、父も兄も名指揮者ということで期待の高いクリスチャン・ヤルヴィのチケットは瞬く間に完売になってしまったようで入手出来なかった。

さて、ジャナンドレア・ノセダ指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏会。前半がヴェーベルンとシェーンベルクという新ウィーン学派の作曲家の作品を並べ、後半にはウィーン生まれの作曲家、シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレイト」を置くという、「ウィーン」をテーマにしたプログラムである。

ヴェーベルン編曲(J・S・バッハ作曲)の「音楽の捧げもの」より《6声のリチェルカーレ》とシェーンベルクの室内交響曲第2番は、いずれもノセダの優れた音楽性を示した演奏であった。特にシェーンベルクは室内交響曲第2番では、ゾッとするほど美しい音を楽譜とオーケストラから引き出し、ノセダという指揮者がただ者でないことがわかる。
ただ、ノセダの指揮姿は、指揮棒を上げ下げするだけの単調なもので、プロらしくない。


シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレイト」は情熱に溢れ、剛胆な迫力に満ちた演奏。ただ情熱一辺倒の感は否めず、ところにより暑苦しさを覚える。また会場にいる他の誰よりもノセダ本人が音楽に夢中になってしまっているのがわかるため、こちらがうまく音楽に酔えないもどかしさもある。
それにしてもノセダの指揮は妙だ。指揮棒の上げ下げを繰り返すだけかと思ったら、腰を振ったり、飛び上がったり、片足に重心を置いて斜めになりながら指揮したりと、指揮法をちゃんと学んだことがあるのか疑問に思えるほど個性的。棒を縦に振り、腰を揺すっている後ろ姿はまるで卓球選手のよう。ノセダの作る音楽もラケットで音を次々と跳ね返していくようなスポーツじみたところがある。
とはいえ、スケールは大きく、推進力、爆発力ともに抜群であり、また聴いてみたいと思える指揮者であった。

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2021年1月19日 (火)

R.I.P. 大城美佐子 「十九の春」(映画『ナビィの恋』より)

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2021年1月18日 (月)

観劇感想精選(379) 蜷川幸雄演出 唐沢寿明主演「コリオレイナス」

2007年2月14日 シアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。シアター・ドラマシティで、「コリオレイナス」を観る。作:ウィリアム・シェイクスピア、演出:蜷川幸雄。出演は唐沢寿明、白石加代子、勝村政信、吉田鋼太郎、香寿たつき、瑳川哲朗ほか。

「コリオレイナス」はシェイクスピア作品の中でもとりわけマイナー部類に入る。シェイクスピア晩年の作品であるが、初演時から不評であり、その後も駄作扱いが続いている。ただ「優性論」という問題を考える上では現代にも通ずるところのあるテキストであると私個人は思っている。

舞台は紀元前5世紀のローマ。勇猛果敢にして高潔なローマ貴族、ケイアス・マーシアス(唐沢寿明)は、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚い。彼はヴァルサイ人の都市であるコリオライを陥落させた栄誉を称えられ、新たにコリオレイナスという名を与えられる。ローマの新執政官に推されたケイアス・マーシアス・コリオレイナスであるが、彼の高潔ゆえに俗悪なものを見下す性質、極度なまでのプライドの高さ、愛想をふりまくことが出来ない性格などが災いし、市民の代表である護民官のシシニアスとブルータスに毛嫌いされており、ローマ市民からも「傲慢でさえなければ、あれほど出来た人はいないのに」と惜しまれはするものの愛されてはいなかった。

執政官になるには選挙でローマ市民から票を集めなくてはいけないのだが、コリオレイナスはどうしても市民に頭を下げることが出来ず、謙虚であることも出来なかった。コリオレイナスの母ヴォラムニア(白石加代子)は、市民の前で演じるだけで良いとコリオレイナスを説得するが、病的にプライドの高いコリオレイナスは演じるということにさえ嫌悪を覚え……

優れた資質を持ちながら樫の木のように固い性格と渡世術の欠如が災いしたコリオレイナスの悲劇を描く。タイトルロールのコリオレイナスを演じる唐沢寿明は強面にするために頭を坊主に丸めての熱演である。

幕が上がると鏡張りのセットがあり、観客がその鏡張りのセットに映っている。4枚組の鏡の中央の2枚が開くと背後に急階段状の舞台が現れ、一番上の段では四天王の像が客席を睥睨している。
四天王の像があることからもわかるとおり、仏教風のデザインが多く用いられており、元老達やコリオレイナスの衣装も山法師風である。またローマといいながらも、コリオレイナスが大小の日本刀を差し、長刀で戦ったり、ヴォラムニアが清の西太后を思わせる衣装を纏うなど、アジア的要素を多く取り入れている。

良い舞台であった。演出も俳優も良いが(特に俳優陣の殺陣は迫力満点であった)、観ているうちに演出の工夫や演技の巧拙などは気にならなくなり、「コリオレイナス」という作品自体の良さが浮かび上がってくる。観客に「良い演出だ」、「良い演技だ」と思わせる舞台はまだまだ一級品には遠く、「良い作品」だと思わせるのが真に優れた舞台であるとするなら、今日観た「コリオレイナス」はその真に優れた舞台であった。
「コリオレイナス」の登場人物全員が私の分身のようにも見えてくる。それだけ人物が巧みに描かれているということであり、晩年とはいえ、シェイクスピアの筆がさほど衰えていたわけではない証拠ともいえる。もっとも演出で隠してあるが、冷静に考えると妙に雑な箇所があり、シェイクスピアの体調が万全ではなかったことも同時にうかがえるのだが。

民主主義と衆愚政治が隣り合わせであることが示されるが、「コリオレイナス」の悲劇は英雄達だけで成り立つものではなく、愚かだろうが何だろうが、市民が生み出したものであり、市民の存在の大きさと恐ろしさを同時に伝える。歴史の主役は良くも悪くも市民なのだ。
劇が始まる前と、終演後、鏡状のセットに観客達を映したのも、「劇の主役は実は観客=市民」という構図を際だたせるための工夫であると思われる。

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2021年1月17日 (日)

コンサートの記(684) ベルトラン・ドゥ・ビリー指揮ウィーン放送交響楽団来日演奏会2007大阪

2007年2月10日 大阪・福島のザ・シンフォニーホール

午後2時より、ザ・シンフォニーホールで、ベルトラン・ドゥ・ビリー指揮ウィーン放送交響楽団(旧・オーストリア放送交響楽団)の来日公演を聴く。オール・ベートーヴェン・プログラム。曲目は「エグモント」序曲、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(ピアノ独奏:ピョートル・オフチャロフ)、交響曲第3番「英雄」。

ベルトラン・ドゥ・ビリーは、1965年、パリに生まれた指揮者。フランスが生んだ久々の大物指揮者といわれ、2002年からウィーン放送交響楽団の首席指揮者の任にある。
以前、ドイツの若手指揮者が払底気味であるという話をしたが、クラシック音楽のもう一方の雄であるフランスもこれといった若手指揮者を生み出せないでいた。そこへ現れた、ベルトラン・ドゥ・ビリー。フランス音楽界の期待を一身に受けている。

「エグモント」序曲。ドゥ・ビリーは古典配置を採用しているが、ピリオド奏法には興味がないようでオーソドックスな仕上がりを見せる。冒頭は弦が薄いものの響きは美しい。バランスは最上であるがきれい事に終始せず熱い演奏を聴かせる。特に後半の緊張感は異様なほどで、この若きフランス人指揮者のドラマティックな音楽性がよく表れていた。

ピアノ協奏曲第5番「皇帝」。寡聞にして知らなかったが、ピョートル・オフチャロフは1981年レニングラード(現・サンクトペテルブルク)生まれのピアニストで、1999年から本拠地をオーストリアのザルツブルクに移し、数々のコンクールで優勝しているという。
オフチャロフのピアノは彩り豊かであり、音の粒立ちも良く、スケール豊かで表情の細やかなもの。かなり優れたピアニストである。
ドゥ・ビリー指揮のウィーン放送響も、オフチャロフに負けじと色彩豊かな演奏を披露する。

秀演が続いていただけに、交響曲第3番「英雄」への期待が高まる。
ベルトラン・ドゥ・ビリーは「英雄」でも正攻法の演奏を繰り広げる。木管の浮き上がらせ方などに才能を感じさせもする。しかし全体としてはいささか面白味に欠ける演奏になってしまっていた。正攻法ならドゥ・ビリーより優れた演奏をするベテラン指揮者はいくらでもいる。今年42歳の指揮者に第一級の「英雄」を求めるのは酷だったか。今後に期待しよう。
ウィーン放送響の技術も一定の水準には達していたが、第2楽章で突然調子外れの音を出す奏者がいたり(余りに妙な外し方だったので私は驚いてしまったのだが、指揮者のドゥ・ビリーも驚いたようで、一瞬、「ん?」という表情を見せていた)まだまだ改善の余地あり。


アンコールではウィーンゆかりの作曲家の作品を披露。まずはブラームスのハンガリー舞曲第1番で自信に溢れた演奏を披露。
続いて、ヨハン・シュトラウスⅡ世の「雷鳴と稲妻」が演奏されたが、勢い任せの乱暴な演奏であった。ウィーンの楽団ならどこでもヨハン・シュトラウスの名演を繰り広げるというわけではないらしい。
最後はヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」。指揮者のドゥ・ビリーが聴衆相手に拍手の合図を送るなど、楽しい時間を過ごすことが出来た。

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2021年1月16日 (土)

コンサートの記(683) ロームシアター京都開館5周年記念事業 シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」

2021年1月10日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」を聴く。

来場者はいつもとは少し異なっているようである。25歳以下無料招待や、留学生のための特別チケットなどもあったようだが、ロームシアターの構造をよく知らない人が多く、少なくとも常連さんは余り来ていない。あるいは招待客が多いということも考えられる。普通に考えて、雅楽とコンテンポラリーダンスという、どちらもマイナーなジャンルの組み合わせで行われる公演に数多の人が訪れるとは思えない。雅楽の演奏を行うのは宮田まゆみ率いる伶楽舎であるが、宮田まゆみが雅楽のスターとはいえ、あくまで雅楽を聴く人の中でのスターである。東儀秀樹のように自作やポピュラー音楽を奏でる人ならファンが多いが、宮田まゆみは雅楽とクラシック音楽のみなので誰もが知っているという存在ではないと思われる。
クラシック音楽好きも、同じ時間帯に京都コンサートホールで井上道義指揮京都市交響楽団によるニューイヤーコンサートが行われるため、そちらを優先させた人が多いはずである。

 

二部構成の公演で、第一部が「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」、第二部が武満徹作曲の雅楽「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」による現代舞踏作品「残影の庭-Traces Garden」(振付・出演:金森穣。出演:ノイズム・カンパニー・ニイガタよりNoism0)の上演である。

 

第一部「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」の曲目は、芝祐靖作曲の「巾雫輪説(きんかりんぜつ)」、双調音取/催馬楽「新しき年」(以上、演奏:伶楽舎)、声明「普賢讃」/舞楽「陵王」(演奏と舞:音輪会)。

雅楽では、「残楽(のこりがく)」という演奏法が一般的で、これは次第に音の数を減らして最後は篳篥と箏の掛け合いになるというものである。クラシックに例えると――例える必要があるのかどうかはわからないが――ハイドンの交響曲第45番「告別」のような感じである。箏は「輪説」という自由奏法を行う。芝祐靖(しば・すけやす)は、「輪説」に焦点を絞った新作を依頼され、「残楽」とは逆に箏の独奏から始まって次第に楽器を増やし、全員合奏で終わるという、クラシック音楽に例えるとラヴェルの「ボレロ」のような曲を構想する。だがなかなか思うようには行かず、作曲には苦労したようだ。曲名にある「巾」とは箏の一番高い音のことだそうである。
箏の独奏に始まり、琵琶の独奏が加わり、篳篥、龍笛、笙が鳴り、箏は三重奏、琵琶も二重奏となる。音のボリュームと迫力の変化が楽しい曲だが、雅やかさも失うことはない。雫がせせらぎとなって川に注ぎ、ということでスメタナの「モルダウ」が意識されている可能性がある。

後白河法皇が好んだことで知られる催馬楽であるが、一時期伝承が途絶えており、江戸時代に再興されているが、平安時代のものがそのまま復活したという訳ではないようである。
「新しき年」でも芝祐靖が復元した楽譜を使用。「新しき 年の始めにや かくしこそ はれ」という歌詞が引き延ばされつつ歌われる。

音輪会による声明「普賢讃」。仏教音楽である声明だが、「普賢讃」は日蓮宗の声明の一つである。普賢菩薩を讃える声明と雅楽が融合される。散華の場もある。そのまま続けて舞楽「陵王」。舞人は、友田享。
クラシック音楽愛好者の中には、黛敏郎のバレエ音楽「舞楽」を好むという人も多いと思われるが、その「舞楽」の本家本元の舞楽の一つであり、曲調も似ている。迫力と優雅さを合わせ持ちつつどことなくユーモラスな感じもする舞も面白い。

 

第二部「残影の庭-Traces Garden」。伶楽舎が演奏する武満徹の「秋庭歌一具」は、現代雅楽を代表する作品である。武満は、雅楽について、「まさに音がたちのぼるという印象を受けた。それは、樹のように、天へ向かって起ったのである」(音楽エッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』より)とコメントしている。1962年10月、宮内庁楽部の演奏を聴いた時のコメントである。それから約10年が経った1973年に武満は国立劇場から新作雅楽の作曲の委嘱を受け、「秋庭歌」を作曲。その後、1979年に「秋庭歌」に5曲を加えた「秋庭歌一具」を完成させている。
「秋庭歌一具」は知名度も高いが、今回のようにコンテンポラリーダンスとの共演が行われたこともある。2016年に伶楽舎と勅使河原三郎によって行われたもので、この公演はその後、NHKによって放送され、私も観ている。タケミツホール(東京オペラシティコンサートホール“タケミツメモリアル”)での上演であった。

今回の上演では、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館・舞踏部門芸術監督の金森穣と彼が率いるNoism Company Niigataによる現代舞踏とのコラボレーションとなる。

武満徹の作品において「樹」は重要なモチーフとなっているが、演出・振付の金森穣が無料パンフレットに載せた文章にも、この新作ダンスが樹という風景を用いた「過ぎ去り日の残影」を描いた旨が記されている。

 

武満徹の「秋庭歌一具」は、中央に秋庭と呼ばれるスペースを置き、左右後方の三カ所に「木霊」と呼ばれる演奏者達を配置して庭の移ろいを描く。「木霊」は精霊であり、移ろいゆく時間そのものを表していると解釈することも可能である。
武満は、有名な「ノヴェンバー・ステップス」や劇伴になるが大河ドラマ「源義経」のオープニングテーマで邦楽器とオーケストラのコラボレーション作品を書いているが、そうした和と洋の対比ではなく、「武満徹が純粋な雅楽作品を書いた」ということ自体が歴史的な意義を持っている。古代中国由来で日本でだけ生き残った雅楽に、日本で生まれ育ったが西洋音楽の道に進み、フランスの評論家から「タケミツは日系フランス人だ」とまで言われた偉大なクラシックの作曲家が己の作風を注ぎ込む。これは時代と場所とが音楽として重層的且つ歴史的に立ち上がることに他ならない。世界で彼にしか書けないと言われたタケミツトーンが、歴史の集合体として生かされており、おそらく日本音楽史上に永遠に残る傑作である。

「庭」を題材にした作品も多い武満だが、時と共に姿を変えゆく庭は音楽との共通点を有し、時の移ろいもまた重要なテーマとなっている。

コンテンポラリーダンスの出演は、Noism0(金森穣、井関佐和子、山田勇気)。衣装:堂本教子。映像:遠藤龍。秋庭の前の空間でダンスが行われる。

まずは三人横並びで同じ動きを始めることでスタート。やがてその動きやポジショニングが徐々にずれていく。キャットウォークから赤い羽織のようなものが降りてきて、井関佐和子がそれを纏う。紅葉を表しているのだと思われる。だが、すぐに井関佐和子は上手に向かって退場。紅葉の時期はほんの一瞬で、秋の盛りが一瞬で過ぎ去ったことを示すのかも知れない。その後は、移ろいゆく時の流れとその回想からなるダンスが展開される。男性ダンサーは二人とも黒系の羽織を着て再登場するが、よく見ると一人は茶色、一人は黒の羽織で色が微妙に異なることがわかる。黒は「玄冬」ということで冬を表し、茶色は赤と黒の中間で晩秋もしくは初冬を表していると思われる。移ろう時の中で秋の思い出が何度もリフレインするが、赤と茶の二人のダンスから、赤と茶と黒の三人のダンスに変わり、季節が移り変わっていくことが表される。
やがて落葉した樹のオブジェが現れる。舞台上方にはいくつものロウソクの明かりが灯っているが、それも次第に下がってくる。背後には橙色の光が投影され、太陽の力が弱まり、冬が近いことが告げられる。赤色の秋の精も眠りにつき、やがて去る。
空白の舞台を囲む三方で雅楽の演奏が続く(「秋庭歌」の場面だと思われる。庭そのものが主役の場とされたのであろう)が、やがて秋の精が現れ、眠りから一瞬覚める。秋が終わる前の、一瞬の夢が展開される。舞台上にはダンスを行っている影の映像が投影され、秋の精も自身の思い出と共に舞う。天上から紅葉の葉が降り、初冬の精と冬の精も現れ、舞台上に投影された中秋の名月を李白のように掴もうと試み、失敗する。
やがて赤い羽織はワイヤーに乗って天上へと帰り、思い出としての秋も完全に終結する。秋の精と初冬の精は手に手を取って舞台から退場。冬の精が一人ポツンと残される。

ダンスを筋書きで描くというのは粋な行為ではないが、おおよそこのようなことが演じられているように見えた。金森のプロダクションノートからは、移ろいゆく今よりも移ろい去ってしまったものへの哀感が強く感じられる。秋の盛りよりもそれが過ぎ去った後を描いたシーンの数々は、一種の幻想美として目の奥に留まることとなった。

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NHK「クローズアップ現代 [瀬戸際のオーケストラ対策は]」2007年1月17日放送(後記あり)

2007年1月17日

NHK「クローズアップ現代」。今日は[瀬戸際のオーケストラの対策は]というテーマで、経営難が叫ばれ続けている日本のオーケストラ事情を特集する。

オーケストラは大所帯であるためコストパフォーマンスが悪く、毎回客席が超満員になっても黒字が出ない。存続のためには資金援助に頼るしかないのだが、言葉だけは「好況」と言われていても実情が伴っていない現在の日本(2007年時点)では援助金がカットされ続けているというのが現状である。

私の出身地である千葉市に本拠を置く、ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉(現・千葉交響楽団)の苦境が放送される。千葉県内唯一のプロオーケストラとして1985年に発足。千葉市は比較的クラシック音楽愛好家の多い街だが、東京に近いということもあって、より優秀な演奏を求めて東京のプロオーケストラの演奏に通う人の方が多い。

千葉県も文化においては東京に頼り切りというところがあり、自前で文化を生み出そうという気概には欠けるところがある。JR千葉駅前に音楽専用ホール「ぱ・る・るホール」がオープンしたが、千葉県はニューフィルのフランチャイズにして育てるのではなく、東京フィルハーモニー交響楽団を招くという政策を採った(後記:その後、「ぱ・る・るホール」は大手地方銀行の一つである京葉銀行がネーミングライツを得て、京葉銀行文化プラザ音楽ホールとなったが、運営費が維持出来ず、2018年に閉鎖されている)。

ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉は年5回の定期演奏会を開いているが、会場は千葉市、市川市、船橋市、習志野市などに分散されているため、一つの都市に密着して演奏を行うということが出来ない。またゲストの堺屋太一氏が大阪フィルの前身である関西交響楽団の学校巡りの話をしていたが、ニューフィルは学校巡りや芸術鑑賞会での演奏を数多くこなしている。しかし思うような結果は出ていない。
クラシック音楽の聴衆を増やすためには、クラシックが持つ、「難しい」、「高尚な」、「インテリが聴く」、「暗い」、「退屈」という誤ったイメージを払拭する必要があるのだが、かつてのインテリ達が「クラシックは特別」という意識を今も持ち続けていることが多いこともあってか、なかなか普及しない。海外有名オーケストラの来日演奏会チケットが高いため、日本のオーケストラのチケット料金も高いと誤解されている節もある。

オーケストラだけでなく演劇もまたそうで、誤ったイメージが浸透しているため観客が増えない。映画にしろテレビ番組にしろ本にしろ漫画にしろ、一度も観たことがない、一冊も読んだことがないという人を探すのは難しい。しかしクラシックのコンサートや演劇を生で一度も味わうことなく生涯を終える人は思ったより多いと思われる。
初対面の人と演劇の話をする場合は、「まず演劇というものを観たことがあるか」から始めなければならない。そうでないと失礼になる。悲しいことだがこれが現状である。欧州などとは違い、日本では演劇が日常に溶け込んでいないのだ。

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2021年1月15日 (金)

コンサートの記(682) 阪哲朗指揮 大阪シンフォニカー交響楽団(現・大阪交響楽団)第45回名曲演奏会

2007年1月13日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

大阪へ。ザ・シンフォニーホールで大阪シンフォニカー交響楽団の第45回名曲演奏会を聴く。指揮は京都市生まれの阪哲朗。1995年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して注目を浴びた指揮者である。シンフォニーオーケストラではなくドイツの歌劇場を中心に活躍しているためか、CDなどは出ていないが、評価は高く、特にドイツにおいてはオペラ指揮者として高く評価されている。1968年生まれと若く、広上淳一(1958年生まれ)、大野和士(1960年生まれ)、大植英次(1956年生まれ)、佐渡裕(1961年生まれ)の次の世代の逸材として注目を浴びている一人である。

ニューイヤーということもあってか、後半はオール・シュトラウス・ファミリー・プログラム。前半はシュニトケの「モーツ・アルト・ア・ラ・ハイドン」と、モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」。

「モーツ・アルト・ア・ラ・ハイドン」は京都市交響楽団の定期演奏会で井上道義も採り上げていた半冗談音楽。井上道義はこの曲を十八番としているようで、京響との演奏では外連味たっぷりの指揮と演技で大いに笑わせてくれた。阪さんは真面目なので(井上が不真面目ということではないが)井上のような悪ふざけはしない。ただオーケストラ団員が指揮に従わず、どんどん勝手に演奏するという演出はする。チェロ奏者やヴァイオリン奏者に指揮台を占領されてオロオロするという演技などは面白い。阪哲朗は指揮者というよりも老舗旅館の若旦那といった風貌なのでオロオロする様は実にはまっている。

モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」は古典配置による演奏。阪哲朗は知的な音楽作りに定評があるので、おそらくピリオドアプローチで来るだろうと予想。果たしてその通りであった。弦楽器のビブラートを抑えてすっきりとした響きを作り、音の強弱を「ミリ単位」という例えを使ってもいいほど細かくつける。これほど強弱に気を遣う指揮者も珍しい。躍動感にも満ちた音楽を創造するが、踏み外しが一切ないのが逆に気になる。こんなに優等生的な演奏でいいのだろうか。

後半のシュトラウス・ファミリーの音楽は、音に勢いがあり、演出も気が利いていて文句なしに楽しめる演奏であった。昨日聴いたウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラのような、ヨハン・シュトラウスⅡ世が率いていたバンドと同じサイズの編成による演奏も良いが、やはり現代のコンサートホールで聴くにはサイズの大きなオーケストラの方が適している。大阪シンフォニカー交響楽団も澄んだ響きを出しており、好演だ。

ところで阪哲朗という指揮者はいつも涼しい顔をして振っている。同じ京都市生まれで京都市立芸術大学出身であっても、佐渡裕とは正反対だ。

アンコールは3曲。まずヨハン・シュトラウスⅡ世の「トリッチ・トラッチ・ポルカ」。阪は演奏の途中で指揮台を降り、残りの演奏をオーケストラに任せて下手袖(ステージ向かって左側)へ引っ込んでしまうという演出をする。だがこれ、阪は事前にオーケストラに告げていなかったようで、演奏を終えたファーストヴァイオリンの奏者達が驚きの混じった顔で阪の去っていった下手袖を振り返っていた。

アンコール2曲目は恒例のワルツ「美しく青きドナウ」、3曲目も恒例の「ラデツキー行進曲」。まずまずの演奏であった。

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