2020年11月25日 (水)

観劇感想精選(368) 野田秀樹潤色 シルヴィウ・プルカレーテ演出「真夏の夜の夢」

2020年11月20日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、野田秀樹潤色による「真夏の夜の夢」を観る。シェイクスピアの書いた喜劇の中で最も有名な同名作を野田秀樹が自由に作り替えた作品の上演で、初演は1992年、野田秀樹本人の演出によって行われている。野田秀樹のシェイクスピア作品潤色作品には他にも「リチャード三世」を原作とする「三代目、りちゃあど」などがあり、また「贋作・罪と罰」、「贋作・桜の森の満開の下」といった一連の「贋作」ものにも繋がっている。

一応、白水社から出ている小田島雄志翻訳のテキストの潤色と表記されているが、実際にはストーリーの骨子以外は大きく変わっており、舞台が日本に置き換えられている他、シェイクスピア作品よりも後の時代の海外文学(『ファウスト』や『不思議の国のアリス』)などが加わるなど、悪い言い方をすると雑多な内容となっている。

演出は、佐々木蔵之介主演の「リチャード三世」などを手掛けたシルヴィウ・プルカレーテ。舞台美術・照明・衣装:ドラゴッシュ・ブハジャール、音楽:ヴァシル・シリー、映像:アンドラシュ・ランチ。全員、ルーマニアの出身である。

新型コロナウィルス流行で、外国人入国規制が続いていたため、ルーマニア勢はなかなか入国の許可が下りず、当初は遠隔による稽古が行われていたが、9月末になってようやくプルカレーテとブハジャールの2人に入国許可が下り、2週間の隔離経過観察を経て、舞台稽古に合流したという。

出演は、鈴木杏、北乃きい、今井朋彦、加藤諒、加治将樹、矢崎広、手塚とおる、壌晴彦(じょう・はるひこ)、長谷川朝晴、山中崇、河内大和(こうち・やまと)、土屋佑壱、浜田学、茂手木桜子、八木光太郎、吉田朋弘、阿南健治、朝倉伸二。

 

溶暗の中、虫と獣の鳴き声が聞こえ、やがてリコーダーの旋律が聞こえ始める。上手から下手へと、ベルトコンベアに乗って靴が流れ、上手から現れた、そぼろ(原作のヘレナに相当。鈴木杏)が森の不思議について語る。不思議な出来事は気のせいではなく、木の精によるものだと宣言したところで、紗幕が透け、「割烹料理ハナキン」の場面となる。野田秀樹潤色による「真夏の夜の夢」が初演されたのは1992年で、バブルの崩壊が始まったばかりであるが、「ハナキン」という店名が、いかにもバブルといった感じである。

ハナキンの主人(阿南健治。原作のイージーアスに相当)と、娘のときたまご(原作のハーミアに相当。北乃きい)との親子喧嘩が始まっている、ハナキンの主人は包丁を振り上げて、「お前を殺して俺も死ぬ」と啖呵を切る。ハナキンの主人は、ときたまごを板前デミ(原作のディミートリアスに相当。加治将樹)と結婚させるつもりだったのだが、ときたまごは密かに板前ライ(原作のライサンダーに相当。矢崎広)と恋仲になっており、父親が決めた婚礼を拒否したのだ。
ときたまごは、板前デミと共に富士山の麓にある森(おそらく青木ヶ原樹海は意識されていると思われる)へと駆け落ちすることに決める。

実は、板前デミは、以前はそぼろに夢中で、熱心なラブレターなども送っており、そぼろもそぼろで板前デミに思いを寄せていて相思相愛であったのだが、今では板前デミのそぼろに対する熱はすっかり冷めてしまい、まだ思いを捨て切れていないそぼろをゴミか何かのように邪険に扱う。

一方、妖精の森では、妖精の王であるオーベロン(壌晴彦)と王妃であるタイテーニア(加藤諒)が喧嘩の真っ只中である。拾ってきた子どもを取り合ったのが原因だ(なお、かなり長い名前の子どもであり、言い終わるとなぜかインド風のBGMが流れる)。オーベロンは、妖精パック(手塚とおる)を使い、秘薬を用いた悪戯を仕掛ける……。

兵庫県立芸術文化センター(Hyogo Performing Arts Center)の愛称がPACであり、座付きオーケストラである兵庫芸術文化センター管弦楽団の愛称もPACオーケストラである。兵庫芸術文化センター管弦楽団は発足時に、PACが「真夏の夜の夢」のパックに由来することを明記している。私が兵庫県立芸術文化センターで「真夏の夜の夢」を観るのは今回が初めてとなるが、内容がシェイクスピアの「真夏の夜の夢」とは大きく異なるため、本当の意味でのPACでの「真夏の夜の夢」体験は今後に持ち越しとなりそうである。

悪戯好きの妖精、パックが大活躍する「真夏の夜の夢」であるが、野田秀樹潤色の「真夏の夜の夢」では、今井朋彦演じるメフィストがパックの役割をパクり、各々のアイデンティティの崩壊をもてあそぶというダークな展開を生み出す。

人間の持つ不気味さや醜さを炙り出すスタイルであるプルカレーテの演出であるが、野田秀樹の本との相性は余り良くないように思われる。ヴァシル・シリーもおどろおどろしい音楽を作曲していたが、登場人物のセリフと合致していないように感じられる場面も多い。例えるなら落語をホラーにしたようなちぐはぐな印象である。「カノン」などに顕著だが、おどろおどろしい場面を逆に美しく描くのが野田作品の特徴である。
タイテーニアが異形のものに恋する場面も、不用意に不気味にしてしまった印象を受ける。あそこは、シェイクスピアの原作もそうだが、野田の本でもおそらく笑いを取る場所だったと思うのだが。

誰も知らない「知られざる森」は、その場所に行ったことはあっても森を出る頃には忘れてしまう場所だそうで、無意識領域を描いているようでもある。また、言葉に出来なかったこと、しなかったことなどが話の中心となる場面があり、表に出されなかった言葉が形作る世界が語られている(この辺は夢というものの役割をも語っているようでもある)。そこに溜まった感情を顕在化させるという契約をメフィストは言葉を使わない方法で結んでいた。そもそもメフィストは、ある人物の「影」の部分に導かれて登場したことが明らかにされている。
やがて憎悪が森を焼き尽くそうとするのだが、「物語」がそれを救うことになる。更生を重視する刑務所に取材したドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」でも物語が語られる場面が冒頭に置かれているが、世界を見つめる視点を持つために、物語は極めて有効且つ重要だ。

今井朋彦演じるメフィスト。好演だったが、本来はもっと飄々とした人物として設定されていたように思う。そうでないと整合性が取れない場面がある。

アンドラシュ・ランチの映像を巨大な戸板風の壁に投影する演出は、華麗で分かりやすくもあるのだが、映像を使った演出が往々にしてそうなるように映像頼りになってしまう部分も多い。ある意味、映像の方が舞台上の俳優よりも効果的に使われてしまうため、生身の人間が舞台上にいることで生まれる価値が薄くなるようにも思われてしまう。おそらく予期していたわけではないと思うが、そうした映像の使い方がメフィスト的であると言えば言える。映像に魂を売ったように見えなくもないからだ。

今や日本を代表する舞台女優となった鈴木杏のバレエの動きを取り入れたエネルギッシュな演技が魅力的。コンスタントにというわけではないが舞台に出続けている北乃きいの可憐さも良かった。
この劇では、いいところはみんなメフィストに持って行かれてしまうパックであるが、それでも手塚とおるは存在感を出せていたように思う。

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2020年11月24日 (火)

スタジアムにて(31) J1 京都パープルサンガ対ジェフユナイテッド千葉@京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場 2006.7.26

2006年7月26日 京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場にて

西京極へ。サッカーJ1リーグ、京都パープルサンガ対ジェフユナイテッド千葉の一戦を観るためだ。故郷のチームと、現在のホームチームの対決。ホームなので京都パープルサンガを応援する。

気温は35度もある。

京都パープルサンガは、来シーズンから、「京都サンガF.C.」に改名する(運営会社名自体は京都パープルサンガを継続)。パープルサンガは京都教育大学のOBチーム「京都紫光クラブ」を源とするチームであり、それゆえ、パープルをチーム名に入れていたが、「そろそろ歴史と決別した方が良い」という判断らしい。
とはいえ、英語でPURPLEと書くと格好いいが、片仮名で「パー」だの「プー」だのいうのは少なくとも強そうには見えないので、それも理由の一つなのかも知れない。

新スタジアム建設が話題になった京都だが、結局は西京極総合競技場の改修ということに決まりそうである(2006年時点の話)。


新日本代表監督に決まったイビチャ・オシムの下で急成長したジェフ千葉。サンガがジェフに勝てるとしたら、京都独特のモワモワした暑さを味方につけた時だろう。千葉は海に面しているということもあってジメジメした暑さがあるが、風が涼しいので京都よりは過ごしやすい。千葉の気候に慣れたジェフの選手達は京都の暑さに相当疲労するはずだ。


試合はジェフのペースで進む。ボール支配率、中盤の支配率ともにジェフが上。サンガはジェフに攻めさせておいて凌ぎ、カウンターを仕掛けるというパターンが続く。前半はその作戦が功を奏し、星大輔が先制のゴールを決める。ほぼ満員の西京極競技場は大歓声に包まれる。

前半は、1対0でサンガがリードして終わる。

後半も同じ展開だが、サンガ陣地でのプレー時間が長く、ジェフの猛攻が続く。
サンガもカウンターを仕掛けて、ジェフのゴールネット揺らすも、オフサイドで得点ならず。

前半は目立たなかった、ジェフのエースストライカー・巻誠一郎が、後半に入って動きに切れが出てくる。暑さを考えて、前半は力を温存していたのだろう。

後半24分、その巻がフリーでボールを受け取ってシュート。ボールはサンガゴールに吸い込まれ、ジェフが同点に追いつく。

その後もジェフペースで試合が進むが、決定的チャンスはむしろサンガの方が多い。しかし決められない。サンガはアンドレとパウリーニョのツートップで、中盤から蹴りこまれたボールをアンドレがヘッドで落とし、そこにパウリーニョが走り込むというのが攻めの王道だ。しかし、パウリーニョ以外に走れる選手がいないというのが弱い。

後半もロスタイム(今だと「アディショナルタイム」表記が一般ですね)に入る。ジェフが攻め込んで、クロスを上げた、それに巻が反応。ヘディングシュートが決まる。

サンガ、ロスタイムに逆転を許しての敗戦。ジェフの試合巧者ぶりが目立った。そして巻誠一郎はやはり凄い。

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2020年11月23日 (月)

コンサートの記(670) チェコ国立ブルノ歌劇場 「ドラマティック・アマデウス」2006@ザ・シンフォニーホール リムスキー=コルサコフ 歌劇「モーツァルトとサリエリ」(ステージ・オペラ形式)ほか

2006年7月28日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

大阪のザ・シンフォニーホールで行われる、チェコ国立ブルノ歌劇場の来日公演「ドラマティック・アマデウス」に出かける。

「ドラマティック・アマデウス」は、日本側の企画により、ブルノ歌劇場が取り組むモーツァルト生誕250周年企画公演であり、モーツァルトが11歳の時にブルノに滞在したことにちなみ、11歳のピアニスト、ヤン・フォイテクをソリストにした、ピアノ協奏曲第23番第1楽章とピアノ・ソナタ第11番より第3楽章「トルコ行進曲」の演奏があり、それからリムスキー=コルサコフの歌劇「モーツァルトとサリエリ」(ステージ・オペラ形式)、モーツァルトの絶筆となった「レクイエム(死者のためのミサ曲)」(ジュースマイヤー版)が演奏される。

ブルノ国立歌劇場はヤナーチェク劇場(大劇場)、マヘン劇場(中劇場)、レドゥダ劇場(小劇場)の総称で、特にレドゥダ劇場は、11歳のモーツァルトが演奏会を開いたり、ブルノが生んだ作曲家、レオシュ・ヤナーチェクが学生時代に足繁くコンサートに通ったという由緒ある劇場だそうである。

今回はオーケストラは室内オーケストラ編成での演奏となる。指揮はピアノ協奏曲第23番第1楽章と「レクイエム」がヤン・シュティフ、「モーツァルトとサリエリ」をパヴェル・シュナイドゥルが担当する。


一番の目当ては、リムスキー=コルサコフの歌劇「モーツァルトとサリエリ」で、ピーター・シェーファーの「アマデウス」の元ネタの一つとして名高いが、上演は滅多にされないというこのオペラの実演に接するのが目的だ。


ピアノ協奏曲第23番第1楽章と「トルコ行進曲」のピアノ演奏を担当するヤン・フォイテクは1995年生まれで、2002年から2004年まで3年連続でブルノ・アマデウス国際コンクールで優勝を収めた神童だそうだ(1回優勝すれば良いのに、何で3年も連続で出て、しかも優勝を攫う必要があるのかは良くわからない)。その他にもプラハ・ジュニアノートやリトアニアでのコンクールでも優勝しているという。

イベントなので、フォイテクはモーツァルト時代の格好で登場。発想が京都市立×大の自主公演並みだが、まあ許そう。
いくら神童とはいえ、まだ11歳なので、時に指がもつれそうになったり、強弱が大袈裟だったりするが、まあまあ良くは弾けている。

ブルノ歌劇場管弦楽団は、音に潤いがなく、室内オーケストラとしての透明感も生きていない。多分、余り良い楽器を使っていないのだと思われる。


リムスキー=コルサコフの歌劇「モーツァルトとサリエリ」はプーシキンの同名戯曲をリムスキー=コルサコフ自身がオペラ用に台本を書き換えて作曲したもので、全2幕、上演時間約50分の短編である。原作通り、サリエリの長大なモノローグを中心に構成されており、心理劇の要素が強い。ただアリアやオーケストラのメロディーはあまり魅力的とは思えない。
ピーター・シェーファーの「アマデウス」と違うところは、サリエリもまた天才として描かれ、モーツァルトとの仲がとても良いこと。史実でもモーツァルトとサリエリは仲が良かったようで、互いに互いの作品を高く評価している。
サリエリは、当時のウィーンの宮廷楽長であり、ベートーヴェン、シューベルト、リストという錚々たる作曲家の師としても知られ、モーツァルトの四男で音楽家になったフランツ・クサヴァー・モーツァルト(フランツ・クサヴァーという名は、モーツァルトの弟子であるフランツ・クサヴァー・ジュースマイヤーと同一であることから後に様々な憶測を呼ぶことになる)の作曲の師でもあった。サリエリは作曲家として大変な尊敬を集めており、後年には、「私があれほど活躍しなかったら、モーツァルトももっと売れただろうに」というちょっと傲慢な言葉を残していたりもする。

プーシキンの「モーツァルトとサリエリ」は、サリエリが死の直前(1825年)に「私がモーツァルトを毒殺した」と口走ったとされるスキャンダルに題材をとり、1830年に書かれた戯曲である。誠実な音楽家達でなく、人間としては俗物この上ないモーツァルトに神が作曲家として最高の才能を授けたことに嫉妬するサリエリの姿を描いたものだ。
これをオペラ化したリムスキー=コルサコフの「モーツァルトとサリエリ」の初演は1898年12月7日にモスクワで行われ、サリエリ役にシャリアーピン(シャリアーピン・ステーキにもその名を残す伝説的バス歌手)、舞台裏のピアノ演奏をラフマニノフが担当するなど豪華な顔ぶれであったという。

今回はステージ上でオーケストラが演奏し、その横に簡素なセットを置いて、衣装を着た歌手が演技するという「ステージ・オペラ形式」での上演(東京ではオーケストラがピットに入り、バレエ団なども加えた「グランド・オペラ形式」での上演も行われたという)。

指揮は私より1歳年下(1975年生まれ)のパヴェル・シュナイドゥルが担当。31歳なんて指揮者としてはまだ駆け出しの年齢であるが、音楽的な問題は特にない。
リムスキー=コルサコフはオーケストレーションの名手として知られるが、この作品は地味だ。オーケストラの音色も地味であり、プラスには作用していない。

サリエリ役は、シベリアのノヴォシビルスク出身のベテラン、ユリィ・ゴルブノフ。経験豊かだけに歌、演技ともに安定している。
モーツァルトを演じるのはゾルターン・コルダ。このオペラではモーツァルトは脇役なので余り見せ場がないが、まずまずの出来だ。

劇中、モーツァルトがピアノを弾くシーンがある。実際のピアノの音は舞台裏で奏でられるのだが、モーツァルト役のコルダの手元を見ると、コルダも実際はピアノが弾けるようで(実はピアノが弾けない音楽家というのは意外に多い)、鍵盤をなぞる動きは正確であった。


ベテランのヤン・シュティフが指揮した「レクイエム」K.626(ジュースマイヤー補作完成版)は、シュティフのスッキリした音作りが印象的な好演であった。
ソリストは、ソプラノとバスがベテラン、アルトとテノールが若手という布陣。テノールのリハルド・サメクは1978年生まれのまだ20代の歌手。アルトのヤナ・シュテファーチコヴァーも年齢は書かれていないが若いと思われる(30歳前後だろうか。少なくとも30代後半までは行っていないと思われる。ちなみにかなりの美人だ)。

合唱、ソリストともにレベルはそこそこ高い。

終演後、客席からは「まあ、こんなもんだろう」という感じの拍手があり、ステージ上も「まあ、こんなもんだ」という風にそれに応えていた。

一流の演奏会とは言えないだろうが、一流ではない演奏も落ち着いた趣があってまた良しである。

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2020年11月22日 (日)

これまでに観た映画より(228) アルフレッド・ヒッチコック監督作品「三十九夜」

2006年7月25日

DVDでアルフレッド・ヒッチコック監督作品、「三十九夜」を観る。500円DVDシリーズの1枚。原作はジョン・バカンの『三十九階段』(詩人でミステリーマニアでもあった、故・田村隆一大推薦の小説)。映画の原題も“The 39 steps”なのだが、どういうわけか、「三十九夜」という邦題になってしまった。1935年、ヒッチコックの英国時代の作品である。

ロンドンの劇場で、記憶男という抜群の記憶力を持つ男のショーを観ていたハネイというカナダ人が、劇場内での発砲事件をきっかけに英国の機密を海外に持ちだそうとする陰謀に巻き込まれていくというストーリー。ヒッチコックお得意の巻き込まれ型サスペンスだ。

「第三の男」の、どういうわけかスピーチをする羽目になるというエピソードを思わせるシーンがあったり(勿論製作は第二次大戦後のウィーンを舞台とした「第三の男」の方が後である)、「北北西に進路を取れ」でも見ることになる手法の原型が登場するなど興味深い。

最初は相手の男を殺人犯だと疑っていたのに、違うことが判明すると、途端にその男と恋に落ちてしまうという「お約束」を守る女性もきちんと出てくる。ヒッチコック作品の中ではそれほど知名度が高い方ではないと思うが(それでも有名ではある)傑作だ。

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2020年11月20日 (金)

美術回廊(60) 京都国立近代美術館 「生誕120年 藤田嗣治展」

2006年7月23日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

京都国立近代美術館で開かれている、「生誕120年 藤田嗣治展」に出かける。今日が最終日である。チケットは買ってあったのだが、結局最終日に来ることになってしまった。最終日は当然ながら混む。

藤田嗣治は東京に生まれ、若くしてパリに渡り成功を収めた画家である。第二の藤田になることを目指して渡仏するも夢やぶれた画家は非常に多いそうだ。

第二次大戦前夜に藤田は日本に戻り、日本の戦闘行為を英雄的に描く戦争画を制作したりもした。しかし、戦争協力責任を問われるなどして、日本での活動に限界を感じた藤田は再びパリに戻りフランスに帰化。その後、日本の土地を踏むことはなかったという。

パリで成功し始めた頃の作品は、ピカソのキュビズムに影響されていたり、ムンクの模写のような画を描いていたりする。だが、本当に認められたのは乳白色を多用した画だ。彫刻をキャンバス上に刻んだような、独特の乳白色をした画の数々は個性的である。

だが、藤田の特色は、個性的であることではなく、その器用さにある。南米で過ごした頃の画からは、パリ時代とは全く異なるラテンの血が感じられる。また日本回帰の時代というのもあって、ここでは高橋由一や青木繁のような画風を示す。この時期に描かれた「北平の力士」(北平とは中華民国時代の北京の名称。中華民国の首都が南京に置かれたために北京は北平と改称されたのである)という画は日本画と中国画のタッチを取り入れた、迫力と生命力が漲る優れた作品である。

戦争画の一枚は、ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」に構図が似ていたり、また宗教画にはミケランジェロの「最後の審判」をアレンジしたもの(タイトルは「黙示録」)があったり、藤田は自分の観たものを貪欲に取り入れる精神に溢れていたようだ。かといって自らの個性を殺したわけではなく、例えば、フランスの女性を描いても目の辺りが日本美人風になっていたりするのは藤田独特の個性だろう。

フランスに帰化してからの藤田は子供を題材にした画を多く残している。戦争画を描くことを強要し、戦争が終わると「戦争協力責任」なるものを押しつけようとする「大人達」への反発がそうさせたのだろうか。面白いのは、藤田が描いた子供の顔には、それに似つかわしい無邪気さが見られないことである。何かあるのだろう。


3階の「藤田嗣治展」を観た後、4階の通常展示も見学。私の好きな長谷川潔や、浅井忠の画を見て回る。藤田嗣治と吉原治良(よしはら・じろう。風間杜夫似の、画家というより俳優か小説家のような顔をした画家。具体美術協会の創設者であり、吉原製油社長という実業家でもあった)が握手をしている写真が飾ってある。そして吉原の作品も展示されている。個人的には吉原の作風の方が気に入った。

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2020年11月19日 (木)

コンサートの記(669) 下野竜也指揮広島交響楽団第405回プレミアム定期演奏会「“讃”平和を讃えて」大阪公演

2020年11月15日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後2時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、広島交響楽団第405回プレミアム定期演奏会大阪公演「“讃”平和を讃えて」を聴く。指揮は広島交響楽団音楽総監督の下野竜也。

曲目は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」(ピアノ独奏:小山実稚恵)とブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」(1878/80年稿に基づくハース版)。

 

鹿児島市出身で、地元の国立、鹿児島大学教育学部音楽科と東京の桐朋学園大学音楽学部附属指揮教室に学んだが下野竜也だが、指揮者としてのキャリアは大阪フィルハーモニー交響楽団指揮研究員として第一歩を踏み出しており、下野にとって大阪は特別な場所である。広島交響楽団の音楽総監督に就任する際にもザ・シンフォニーホールで特別演奏会を開いたが、今年は第405回の定期演奏会を広島と大阪で行うことになった。

 

コンサートマスターは、佐久間聡一。ドイツ式の現代配置での演奏である。チェロ首席は京都市交響楽団への客演も多いマーティン・スタンツェライト。京都市交響楽団からはトランペットの稲垣路子が参加している。

 

広島交響楽団の演奏を生で聴くのは4回目。広島で広上淳一指揮の定期演奏会を聴き、更に細川俊夫作曲のオペラ「班女」も川瀬賢太郎の指揮で聴いている。大阪では、ブルックナーの交響曲第8番1曲勝負となった下野竜也音楽総監督就任記念演奏会に接し、そして今回である。
広島は中国・四国地方の中心都市であるが、ここ数年は交通的には更なる要衝である岡山市が重要度を増している。岡山にはクラシック音楽専用ホールである岡山シンフォニーホールがあり、日本オーケストラ連盟準会員である岡山フィルハーモック管弦楽団が本拠地としてる。更に2023年夏のオープンを目指して新しい市民会館、岡山芸術創造劇場の建設工事が進んでいる。
一方、広島市内にあるホールは全て多目的で、音響面で優れたホールは一つもなく、この点で岡山に大きく遅れを取っていたが、旧広島市民球場跡地の東側に音楽専用ホールを建設する計画があり、広島音楽界の一層の充実が期待される。

広島交響楽団は、中国・四国地方唯一の日本オーケストラ連盟正会員の団体である。1963年に広島市民交響楽団として発足。これまでに渡邉暁雄、高関健、田中良和、十束尚宏、秋山和慶が音楽監督を務めているが、特に秋山和慶とは1998年に首席指揮者兼ミュージックアドバイザー就任以降(2004年から音楽監督に昇格)、20年近くに渡ってコンビを組み、広島東洋カープのために作曲されたカープ・シンフォニーを出演者全員がカープのユニフォームを着て演奏するなど良好な関係を築き続けてきた。
現在のシェフである下野竜也は、日本のオーケストラとしては余り例のない音楽総監督という肩書きで迎えられており、期待の高さが窺われる。

 

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」。本来は、ゲルハルト・オピッツがソリストとして登場する予定だったが、新型コロナ流行による外国人入国規制で来日不可となり、小山実稚恵が代役を務める。
ヴィルトゥオーゾピアニストとして名声を高めてきた小山実稚恵だが、今日は煌びやかな音色と抜群のメカニックを生かしつつ、まさに今の季節の空のように高く澄んだ演奏を展開する。希望と平和への希求と喜びに溢れ、ベートーヴェンが示した「憧れを忘れぬ心」を描き出していく。世界的な危機に直面している現在であるが、ベートーヴェンの志の高さに励まされる思いだ。
情熱的な演奏を行う傾向のある小山であるが、第1楽章と第2楽章は音色とリリシズム重視。第3楽章ではクリアな音色で強烈な喜びを歌い上げる。

広島交響楽団であるが、音の洗練度に関しては関西のオーケストラに一歩譲るようである。所々を除いてピリオドの要素は入れないモダンスタイル基調の演奏であったが、金管は緊張があったのか、安全運転気味で本来の力を発揮出来ていないように感じられた。

 

小山のアンコール演奏は、「エリーゼのために」。
本音を隠したまま思慕の念を語るような大人の演奏であり、当然ではあるが、ピアノの発表会で演奏されるような「エリーゼのために」とは趣が大きく異なる。広がりや夢想と同時に苦味も感じられる演奏であり、悲恋の予感に満ちた音楽のような、「エリーゼのために」の別の顔が垣間見える。

 

ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」。
ブルックナーの交響曲の中では異色の部類に入る曲であり、物語性が豊かである。そのため、ブルックナー指揮者が取り上げると面白さがなくなり、ブルックナーをそれほど得意としていない指揮者がなかなかの名演を残すなど、出来が読めない曲である。

これまでブルックナーの初期の交響曲で名演を聴かせている一方で、交響曲第7番、第8番、第9番の後期三大交響曲は今ひとつと、ブルックナーをものに出来ないでいる下野。資質的にはブルックナーの交響曲によく合うものを持っているはずだが、単純にまだ若いということなのだろうか。ブルックナーの後期三大交響曲は老年に達してから名演を展開するようになる指揮者も多いため、今後に期待したい。

さて、そんな下野の「ロマンティック」であるが、これはもう日本で聴ける最高レベルの「ロマンティック」と評しても大袈裟でないほどの快演となった。
弦によるブルックナースタートから立体感があり、雰囲気豊かで、夜明けを告げるホルンの詩情、弦楽器の瑞々しさなど、どれも最高水準である。オーケストラが京都市交響楽団や大阪フィルハーモニー交響楽団だったら技術面では更に素晴らしいのかも知れないが、広島交響楽団も大健闘。強弱の自在感などは下野の手兵だから生み出せる味わいであり、指揮者とオーケストラとが一体となった幸福な音楽が、ホールを満たしていく。

広響のブラス陣はかなり屈強だが、下野の巧みなバランス感覚とコントロールにより、うるさくは響かない。

第2楽章の寂寥感、第3楽章の騎行なども描写力に優れ、高原の清々しい空気まで薫ってくるかのようである。

第4楽章は曲調がめまぐるしく変わるが、下野は明快な指揮棒により、場面場面と強弱を巧みに描き分け、大伽藍の頂点へと向かっていく。
ブルックナー指揮者としての素質の高さは誰もが認める下野であるが、今この瞬間に開花を迎えたようだ。そういう意味でもとても喜ばしい演奏会であった。

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2020年11月18日 (水)

コンサートの記(668) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第543回定期演奏会

2020年11月13日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第543回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

曲目は、グレース・ウィリアムズの「海のスケッチ」と、マーラーの交響曲第5番。

今日のコンサートマスターは、崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏。マーラーでの弦はファーストヴァイオリン14型であり、フル編成での演奏となる。

グレース・ウィリアムズ(1906-1977)は、ウェールズ出身の女流作曲家である。ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックでヴォーン・ウィリアムズに師事し、その後、カーディフのBBCウェールズに勤務していたという。
尾高がグレース・ウィリアムズの存在は知ったのは、BBCウェールズ交響楽団の首席指揮者を務めていた時代(1987-1995)で、楽団員から「海のスケッチ」を良い曲だと薦められ、BBCウェールズ響と演奏しているという。尾高はその後、2001年に当時音楽監督を務めていた札幌交響楽団を指揮してこの曲の日本初演を行っており、新日本フィルハーモニー交響楽団、九州交響楽団、読売日本交響楽団とも同曲を演奏しているそうである。

弦楽オーケストラのための作品で、「強風」「航海の歌」「セイレーン海峡」「砕ける波」「夏の穏やかな海(平和な海)」の5部からなっている。
ウェールズはイングランドとは文化が少し異なるが、同じ英国(U.K.)ということもあり、イギリス的な音楽であることは間違いない。海の様々な表情を描いており、波の動きを描写した部分もあれば、海よりも風の要素が強い箇所もある。荒さは余り感じられず、ノーブルな作風であるというところがいかにも英国の作曲家の作品らしい。
なお、ラストに当たる「夏の穏やかな海(平和な海)」は、マーラーの交響曲第5番より第4楽章「アダージェット」に旋律や印象が似ており、マーラーの交響曲第5番をメインとするコンサートの前半に入れられた理由がわかる。

 

マーラーの交響曲第5番。人気曲であり、コンサートで聴く機会は多いが、フェスティバルホールで聴くのはあるいは初めてかも知れない。大阪フィルはエリアフ・インバルを招いたフェスティバルホールでの定期演奏会で、この曲を演奏しているが、私自身はその演奏会は聞き逃している。

尾高忠明というと、フォルムを大切にする音楽作りが特徴で、日本における正統派指揮者というイメージであり、実際にそうだったのだが、このところは表現主義的な演奏に傾きつつあり、この曲でも外観を損ねてでも内容をえぐり出すという、ある意味、マーラーのユダヤ的要素に光を当てた演奏となる。
スケールは大きく、バランス感覚にも秀でているが、それ以上にマーラーの苦悩や戦きを炙り出すことに焦点を当てており、チェロを強く奏でることで意図的に構図を不自然にするなど、マーラーの異様な部分をそのままに描き出す。強弱の対比も鮮やかであり、速度を上げることで、他の演奏では単なる旋律でしかなかったものが崩壊の描写として確認出来るようになっている。

マーラーの交響曲第5番は、第1楽章と第2楽章が第1部、第3楽章が第2部、第4楽章と第5楽章が第3部と作曲者によって指示されている。それに従わない指揮者もかなり多いのだが、尾高は指示通り、第2楽章と第3楽章の間、第3楽章と第4楽章の間に比較的長めの休止を取り、第1楽章と第2楽章の間、第4楽章と第5楽章の間は逆にほぼアタッカで演奏を行った。

マーラーの生前からマーラー作品を高く評価していたウィレム・メンゲルベルクにより、「妻アルマへのラブレター」と評された第4楽章「アダージェット」であるが、この曲全体がベートーヴェンの交響曲第5番に範を取った英雄の物語と解釈すると、「アダージェット」はアルマとは余り関係のない、英雄のまどろみのようなものであり、第5楽章の冒頭で夢から醒めた英雄が勝利へと向かうという筋書きが見えてくる。第5楽章冒頭のホルンはどう聴いても目覚めを促す声であるため、マーラーがアダージェットをまどろみとして書いた可能性は結構高いはずである。
昨今ではスッキリとしたテンポによるアダージェットの演奏も多いが、尾高は中庸からやや遅めのテンポを取り、適度な甘美さでこの楽章を歌った。

続く第5楽章も尾高としては比較的テンポを動かす演奏であり、終盤に向けての高揚感も鮮やかである。大フィルも細かな傷はあるが、内からエネルギーが溢れ出す様がハッキリと見えるようなパワフルな演奏を展開。この楽団の長所が存分に発揮された秀演となった。

尾高は最後に客席に向かって、「コロナに負けずに頑張りましょう」とコメントし、コンサートはお開きとなった。

ちなみに、渋沢栄一を主人公とする来年の大河ドラマ「青天を衝け」のオープニングテーマの指揮は、渋沢栄一の子孫の一人でもある尾高忠明が務めるようである。

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2020年11月16日 (月)

美術回廊(59) 京都国立博物館 御即位記念特別展「皇室の名宝」

2020年11月11日 東山七条の京都国立博物館にて

京都国立博物館で行われている御即位記念特別展「皇室の名宝」を観る。密を避けるため、インターネットで事前予約を行う必要がある。基本的にスマートフォンを利用するもので、必要な情報を入力するとメールが送られてきて、記載されたURLをタップすると表示されるQRコードがチケットの代わりとなる。パソコンで申し込んだ場合は届いたメールをスマートフォンへと転送することで処理するようだ。

朝方、たまたまNHKで、「皇室の名宝」が取り上げられているのを見た。レポーターは、京都幕末祭でご一緒したこともある泉ゆうこさん。特別ゲストとして中村七之助が登場する。七之助は来年正月2日に放送される新春時代劇で伊藤若冲を演じるそうで、番宣も兼ねての登場であった。

 

皇居三の丸にある宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の名品を中心とした展覧会である。1993年に完成した三の丸尚蔵館所蔵の名宝が京都で展示されるのはこれが初めてとなるそうだ。

第一章「皇室につどう書画 三の丸尚蔵館の名宝」は、タイトル通り、書画が並ぶ。西行の書状や、藤原定家が写した「更級日記」、八条宮智仁親王の筆による古歌屏風などが展示されている。桂離宮を造営したことで知られる八条宮智仁親王は、ある意味、この展覧会のキーパーソンともいうべき人物で、彼が関わった様々な名宝が展示されている。

八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王は、正親町天皇の孫にして、後陽成天皇の実弟。豊臣秀吉の猶子となり、次期関白を約束されていたが、秀吉に鶴松が生まれたために反故とされ、八条宮家を創設。後陽成帝から皇位継承者と見做された時期もあったが、結局は徳川家康が反対したため、皇位は後陽成帝の息子である後水尾天皇が継ぐことになり、どちらかというと不遇の人生を歩んでいる。桂離宮を別邸としたことで八条宮家はその後に桂宮家となった。

「絵と紡ぐ物語」では、竹崎季長が描かせたことで有名な「蒙古襲来絵詞」が展示されている。「てつはう」が炸裂していることで有名な前巻(文永の役を描く)の展示は今月1日で終了しており、現在は弘安の役を描いた後巻の展示である。文永の役ではモンゴル軍と高麗軍の戦術に関する知識がなかったため度肝を抜かれることになった御家人達だが、再度の襲来を見越して博多湾に防塁を築き、万全の迎撃態勢を整えていた。後巻には防塁の前を馬で進む竹崎季長らが描かれている。
元の撃退には成功したが、追い返しただけで新たなる領地を獲得したわけではないため、鎌倉幕府は恩賞を与えようにも与えられない。それを不服とした竹崎季長が自らの奮闘を幕府に示すために奏上したのが「蒙古襲来絵詞」である。

その他には、浄瑠璃やスーパー歌舞伎、オペラや宝塚歌劇などの題材となった「小栗判官絵巻」(巻5。岩佐又兵衛筆)や、尾形光琳が描いた「西行物語」巻4などが展示されている。

続く唐絵の展示だが、中国よりも日本で人気のある画家のものが多いようである。

「近世絵画百花繚乱」と題された展示では、伝狩野永徳による「源氏物語図屏風」、保元の乱と平治の乱の名場面を扇の面に描いた「扇面散図屏風」などが展示されている。
中村七之助が紹介していた伊藤若冲の絵もここに展示されているのだが、S字カーブが特徴の「旭日鳳凰図」や「牡丹小禽図」、逆S字カーブを描く「菊花流水図」、「八」の字の構図を3つ重ねることで垂れ下がる南天の重力をも表出しようとした「南天雄鶏図」など、デザイン性の高い作品が並んでいる。

現代に到るまでの京都画壇の祖といえる円山応挙の「源氏四季図屏風」。写生を得意とした応挙だが、この作品はリアリズムよりも水の流れのエネルギーが感じられる出来となっている。

 

「第二章 御所をめぐる色とかたち」。「霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風」(狩野永納筆)は、天皇の顔がはっきりと描かれているという、当時としては珍しい作品である。
京都最後の天皇となった孝明天皇の礼服も展示されているが、八咫烏なども描かれているものの、基本的には龍をモチーフにしており、中国の王朝からの影響が強く感じられる。

「令和度 悠紀地方・主基地方風俗和歌屏風」は新作である。後期の展示は、永田和宏の筆による和歌の書と土屋禮一の絵による「主基地方風俗和歌屏風」である。令和の主基地方は京都であり、桜の醍醐寺、万緑の大文字山、紅葉の嵐山、雪の天橋立が描かれている。

「漢に学び和をうみだす」では、小野道風、伝紀貫之、藤原行成らの書が並ぶ。伝紀貫之の「桂宮本万葉集」は、八条宮智仁親王の子、忠仁親王以降、桂宮家が所蔵していたもの。桂宮本と呼ばれる蔵書群の基礎を築いたのが智仁親王である。土佐光吉・長次郎筆による「源氏物語画帖」の詞書連作の中にも八条宮智仁親王は名を連ねている。

一般には桂離宮の造営者としてのみ、その名が知られる八条宮智仁親王であるが、近世の文芸において大きな役割を果たしていることがわかる。
なお、桂宮家は断絶しているが、智仁親王の子である広幡忠幸の血は柳原氏に受け継がれることとなり、柳原愛子(やなぎわら・なるこ)が大正天皇の生母となっているため、現在の皇室は智仁親王の血を受け継いでいるということになる。

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2020年11月15日 (日)

これまでに観た映画より(227) 「blue」

2006年7月19日

DVDで日本映画「blue」を観る。2001年の作品。安藤尋監督。主演は、市川実日子(いちかわ・みかこ)、小西真奈美。
魚喃キリコ(なななん・きりこ)の漫画が原作である。

女子高を舞台とした青春もの。タイトル通り、ブルー系のトーンが用いられており、海や草木の青さも強調されている。

友達は多いけれど、どことなく周囲に馴染めないものを感じている桐島カヤ子(市川実日子)。ある日、桐島は、2年生の時に停学処分を受けて今は同級生となった1歳上の遠藤雅美(小西真奈美)が通学途中にバスを降り、海へ向かうのを見る。遠藤に興味を持ち始める桐島。

合コンの帰り道、桐島は男の子にホテルに連れ込まれる。しかし桐島は彼を好きになれない。桐島が好きなのは同性の遠藤なのだから……。


女の子同士の恋愛も描かれるが、軽いタッチであり、嫌な感じはしない。それに遠藤も同性が好きなふりをしたが、本当は男が好きである。2年生の時も、妻子ある男性と不倫をして妊娠してしまい、堕胎したことがばれて停学処分になったのだった。

出演者達のセリフは抑揚が抑え気味であり、時には棒読みのように聞こえる。ただ、全員が同じような調子で話すのをみると、セリフが下手なのではなく、敢えて感情を抑えるよう指示があったと考えるべきだろう。ある意味、ちょっと頭の良い学生が作った自主製作映画のような生硬さを求めていることが細部から見て取れる。女の子数人が話す場面でも間が不自然であるが、そうであるが故に彼女たちの未成熟な内面が浮かび上がる。
特典映像を見ると、安藤監督は、演者になるべく間を長めに取るよう求めていることがわかる。やはり意図的に生硬さを出していたのだ。

桐島と遠藤二人のシーンはおそらく何テイクも撮ってその中で一番アンバランスなもの選んでいるのだろう。上手く見えては駄目なのだ。

ストーリーが起伏に乏しい内省的なものであるということも含めて本格的な映画が好きな人は嫌うかも知れないが、普段とはちょっと毛色の違う映画を観てみたいという人にはお薦めである。
ただ、バスを追うシーンで物語は完結しているのであり、その先の映像は無用なように思える。そこが難点だ。
ちなみに市川実日子はこの作品で、モスクワ国際映画祭最優秀女優賞を獲得している。

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観劇感想精選(367) 維新派 「ナツノトビラ」

2006年7月14日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

梅田芸術劇場メインホール(旧・梅田コマ劇場)で、維新派の「ナツノトビラ」を観る。構成・演出:松本雄吉、音楽:内橋和久。

維新派は、「ヂャンヂャン☆オペラ」という独特の歌唱と動きによる演劇(パフォーマンスと言った方が近いかも知れない)を確立した大阪の劇団で、セリフは全くと言っていいほど用いられず、歌詞はあるが、そのほとんどは意味が剥奪されており、ストーリー展開よりもパフォーマーの動きと声が織りなす雰囲気で魅せる団体だ。

「ナツノトビラ」は、夏休みの間、テレビばかり見ていた少女が、ふと思い立って昨年亡くなった弟の墓参りに出かけ、そこで数々の幻影を目にするという作品である。筋だけ書くとありきたりのようだが、ストーリーよりもその場その場の雰囲気作りで勝負する劇団なので、実際に観てみると個性溢れる構成に魅せられることになる。

巨大な直方体がステージ上に並ぶ。外面はシンプルだが、どうやら高層ビル群を表しているらしい。そして、そのミニチュア版が墓碑として現れる。墓碑は小さなビル群であり、高層ビル群は巨大な墓碑のようだ。

影絵の男が、建設現場で働いているのが見える(袖から舞台奥に向かって光りを送ることで作り出される演者の影絵は、この場面だけではなく、全編に渡り効果的に用いられている)。

レッサーパンダの帽子(衣装は全て白を基調としており、帽子も白いため、実際はレッサーパンダには見えないのだが)をかぶったランドセルの少年が通りかかった婦人を次々に包丁で刺していく。東京・上野で起こった通り魔殺人事件と、頻発する少年犯罪のメタファーだ。

巨大ビル群が築かれていく繁栄の影で、そうした奇妙な犯罪が起こる要素もまた築かれていたということなのだろうか。

世界貿易センターに突っ込んだ2機の飛行機のモデルを手にした少年、カラシニコフを手にした少年達、北朝鮮のミサイルを思わせる筒を持った少年など、テロリストを連想させる人々が登場するが、それらが単純で直線的なメッセージに回収されることはない。少女の「日常」には含まれていないが、世界にはそうしたものが存在するということだけを示しており、いたずらにメッセージ性や物語性を持たせないのが却って良い。

音楽は単純な動機の繰り返しだが、一時、ミニマルミュージックが隆盛を極めたように、反復される音楽は実に心地良く、それだけで十分ステージに引き込まれる。

魅力溢れるイリュージョンであり、演出も音楽も優れているが、「そろそろ終わりかな?」という場面になっても、また続きが始まってしまうということが度々あったためか、上演時間がやや長く感じた。

維新派は普段は野外に巨大な特設劇場を設けて公演を行っている。今日の劇も、もし野外で行われていたら祝祭性も加わって、より神秘的に見えたことだろう。ただそういった、悪く言えば「誤魔化し」がなくても、幻想的で特殊な舞台の味わいは十分に伝わってきた。

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