2025年1月22日 (水)

これまでに観た映画より(365) 相米慎二監督作品「夏の庭 The Friends」4Kリマスター版(2K上映)

2025年1月16日 京都シネマにて

京都シネマで、日本映画「夏の庭 The Friends」を観る。相米慎二監督作品。1994年のロードショー時に、テアトル新宿で観ている作品である。原作:湯本香樹実(ゆもと・かずみ)、脚本:田中陽造。出演:三國連太郎、坂田直樹、王泰貴、牧野憲一、戸田菜穂、根本りつ子、寺田農、笑福亭鶴瓶、矢崎滋、柄本明、淡島千景ほか。4Kリマスター版によるリバイバル上映であるが、京都シネマでは2Kでの上映となる。

戸田菜穂のスクリーンデビュー作としても知られている作品である。朝ドラ「ええにょぼ」でヒロインを務め、当時、期待の新進女優であった戸田菜穂であるが、玉川大学でフランス語を専攻し、たびたび渡仏するなど、女優以外にやりたいことがあったような気もする。現在も女優としての活動を続けているが、脇役中心で、期待されたほどではなかったというのが正直なところである。この映画でも、まだ若いとはいえ、感情表現が一本調子なところがあるなど、演技が達者とは言えないことが分かる。本人も自覚していて、そのため演技以外のものへも手を伸ばしていたのかも知れないが、本当のところは本人にしか分からない。
10年ほど前になるが、NHKBSプレミアム(当時)の「ランチのアッコちゃん」で演じた遣り手の女はなかなか良かったように思うが(蓮佛美沙子とのW主演)。

神戸市が舞台となっており、出演者全員が神戸弁を話すが、郊外の住宅地が舞台となっているため、一目見て「神戸らしい」シーンは一つもない。阪神・淡路大震災で壊滅的な打撃を被る直前の神戸が描かれているが、神戸らしいシーンがないので貴重な映像という訳でもないようだ。

サッカーチームに所属する三人の少年と、一人の老人の一風変わった交流を描いた作品。全て夏休み中の出来事なので、授業のシーンなどはない(学校のプール開放日の場面は存在する)。

前年の1993年にJリーグが発足。サッカー熱が今よりも高かった時代の話である。ちなみにこの映画が公開された1994年の夏は「史上最も暑い夏」と言われ、翌1995年の夏も「史上最も暑い8月」と呼ばれた。前年の1993年は記録的な冷夏であり、気候が不安定だった時期である。とはいえ、夏の気温は近年の方が高いように思う。

少年サッカークラブに所属する木山(坂田直樹)、河辺(王泰貴)、山下(牧野憲一)の三人は、庭が草ボウボウのボロ屋に住む老人(三國連太郎)が今にも死にそうだとの噂を聞きつけて、様子を探りに行く。少年達を見つけた老人は、追い払おうとし、迷惑そうな様子を見せるが、一転して子どもたちを歓迎するようになる。寂しかったのだと思われる。老人の庭の草むしりをし、コスモスの種を植え、屋根のペンキ塗りなどをする三人。
そこに姿を見せたのは三人の担任教師である近藤静香(戸田菜穂)。実は静香は老人、傳法喜八(でんぽう・きはち)の孫であった。
喜八は戦争中にフィリピンに赴き、当地の一家を銃で惨殺したことがあった。若い女が家から飛び出したが、喜八は追いかけ、射殺した。近づいて見て女が妊娠していることに気付いた。
喜八は戦前に結婚しており、妻の古香弥生(淡島千景)との間には、喜八が戦地にいる間に娘が生まれていた。その娘の子どもが静香なのだが、戦争が終わっても喜八は弥生の下には戻らず、孤独な暮らしを続けていたのだった。はっきりとは描かれていないが罪の意識があったのだろう。

子どもたちと老人の交流を軸に、死や戦争についても描いた作品。夏休みの子どもたちが主人公ではあるが、深みはある。
31年前はそれほどでもなかったが、今見ると、佐藤浩市が三國連太郎の息子であるのは明白である。顔や雰囲気がやはり似てくる。

31年前に一度観たきりの作品であり、ほとんどの場面は記憶から失せていたが、戸田菜穂が林檎を丸かじりするシーンは不思議と鮮明に覚えていた。

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2025年1月21日 (火)

コンサートの記(880) 神戸文化ホール開館50周年記念事業 ヴェルディ:オペラ「ファルスタッフ」

2024年12月21日 大倉山の神戸文化ホールにて

午後2時から、大倉山にある神戸文化ホールで、神戸文化ホール開館50周年記念事業 ヴェルディ:オペラ「ファルスタッフ」を観る。ジュゼッペ・ヴェルディ最後のオペラで、唯一の喜劇成功作となっている(ヴェルディは喜劇は好きであったが、若い頃に発表した「1日だけの王様」が大失敗に終わり、以後は喜劇に手を出せないでいた)。
「ファルスタッフ」の原作はシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」で、この作品はシェイクスピア最大の駄作と言われている。そもそも正式な公演用ではなく、王室での余興用に書かれた本である可能性が高いそうだ。それでもオットー・ニコライがオペラ化しており、ヴェルディもボーイトが書き換えた「ファルスタッフ」をオペラの題材に選んでいる。タイトルロールのファルスタッフは、元騎士だがビア樽体型の悪党であり、二人の女性を同時に唆そうとする食えない男である。

指揮は佐藤正浩、演出は岩田達宗。出演は、黒田博(ファルスタッフ)、西尾岳史(フォード)、小堀勇介(フェルトン)、谷口文敏(カイウス)、福西仁(じん。バルドルフォ)、松森治(ピストーラ)、老田裕子(アリーチェ)、福原寿美枝(クイックリー夫人)、内藤里美(ナンネッタ)、林真衣(メグ。体調不良の山田愛子の代役)、森本絢子、福嶋勲ほか。

管弦楽は神戸市室内管弦楽団。コンサートマスターの高木和弘が体調不良で降板したため、森岡聡が代わりにコンサートマスターを務める。
神戸市室内管弦楽団は、1981年に神戸市により神戸室内合奏団として発足。当初は弦楽アンサンブルであったが、2018年に管楽奏者を正式に加入させて神戸市室内管弦楽団に改称。2021年に鈴木秀美を音楽監督に迎えている。鈴木さんとはホワイエですれ違った。
神戸文化ホールの専属団体である。なお、神戸市にはフル編成のプロオーケストラは存在しない。

合唱は神戸市室内合唱団。神戸市が設立したプロの合唱団である。

神戸文化ホールは開館50周年ということで私より一つ上で、東京・渋谷区神南のNHKホールと同い年である。この時代に建てられたホールは比較的多いが、その多くが寿命を迎えており、1975年竣工の神奈川県立県民ホールは無期限休館に入る予定である。神戸文化ホールも閉鎖して、三宮に新しいホールを建てる計画があり、当初は、来年に新ホールはオープンする予定であったが、計画が遅れている。
古いホールなのでホワイエなども手狭で、客席間も狭いので移動に難がある。響き自体は悪くはない。階段が多く、エレベーターなどはないのでバリアフリーには対応していない。

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指揮者の佐藤正浩は初めて聞く名前だが、福島県出身で東京藝術大学に学び、ジュリアード音楽院のピアノ伴奏科に進んで修士課程を修了。歌劇場のコレペティトゥア(ピアノ伴奏者)として欧米で活躍した後にオペラ指揮者に転向。神戸市混声合唱団音楽監督、新国立劇場オペラ研修所所長を務めている。オペラ専門の指揮者のようだ。
日本の場合、12月になると有名な指揮者はほぼ全員第九を指揮しているので、第九以外の催しはなかなかオファーが出来ないという事情がある。

昨年の年末には、びわ湖ホール中ホールで「天国と地獄」の演出をしていた岩田達宗。年末には馬鹿騒ぎが似合うということなのか、今年もラストで馬鹿騒ぎがある「ファルスタッフ」を選んでいる。岩田達宗演出の「ファルスタッフ」は、9年前に下野竜也が指揮したものを大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスで観たことがある。

本編開始前に、神戸文化ホール開館50周年を祝う吉本新喜劇風寸劇が行われる。

今回は階段状の舞台を用い、回り舞台を用いてガーター亭とウィンザーの光景が交互に現れるようになっている。
字幕もユーモアに富み、「だめよだめだめ」という今では古くなった流行語(以前の下野竜也指揮の公演でも用いられていて、それほど受けていなかったが)なども用いられている。
神戸文化ホールは、左右に花道があり、それを効果的に使っているのだが、ホールの横幅が広いので必要以上に遠くにいるように感じられるところがあった。
滑稽なダンスのような動きを取り入れているのも特徴。ロビンは、9年前の上演同様、大阪音楽大学ミュージカル科出身の森本絢子が務めており、キレのある動きを見せていた。

「メタボ」と呼ばれるファルスタッフ。しかし、ファルスタッフ自身は脂肪があることに誇りを持っているようであり、テムズ川に落とされた時には、脂肪のせいで浮かんで助かったと冗談を言っている。特に意味はないと思われるのだが、何らかのメタファーとして見た場合、あるいは面白いかも知れない。片方が蔑んでいることを片方が誇っているということがあり得るのは「年齢」であろうか。ファルスタッフは若い頃は自称・痩せた美青年だったようである。
そして老年のファルスタッフと対比されるように若い恋人が登場する。

プレトークで岩田達宗は、虐げられた女性像に語っていたが、「ファルスタッフ」は女性が男性に復讐する、それも暴力的でなく成し遂げるという様を描いていることについて触れていた。男性の復讐は暴力的であるが、女性の復讐は必ずしも暴力的ではない。
またヴェルディは奥さんや子どもを相次いで亡くすという悲劇に見舞われているが、奥さんの名前はマルゲリータ、あだ名はメグで、「ファルスタッフ」に登場するメグのモデルになっているのではないかという。メグは、特に何もしないというオペラにあっては珍しい人物である。またヴェルディは家族を描くことに腐心していたとも語っていた。

 

ファルスタッフがアリーチェとメグを同時に誘惑しようとし(恋文を書くが、宛名以外は全て一緒という手抜きである)、アリーチェの夫であるフォードが「泉」という偽名でガーター亭に乗り込んでくるなど、ドタバタの要素が多く、痛い目にあったのに、公園での逢い引きに応じてしまうファルスタッフは滑稽である。
最後の「世の中はみな冗談」は、老境の人間による人間賛歌であり、最後はガーター亭に全ての人が記念写真のように収まるという演出が施されていた(ここが前回の演出とは大きくに違うところであった)。

二幕と三幕の間に岩田さんに挨拶。来年、びわ湖ホールで上演されるコルンゴルトの歌劇「死の都」についても伺ったのだが、びわ湖ホールが出している情報によると岩田さんが栗山昌良の演出を再現するかのように書かれているが、実際は他の人が再現の演出を行うそうで、「何かあった時のためにいるだけ」だそうである。


なお、カーテンコールのみ写真撮影可であった。

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2025年1月20日 (月)

観劇感想精選(481) 絢爛豪華 祝祭音楽劇「天保十二年のシェイクスピア」2024-25

2025年1月6日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後5時から、梅田芸術劇場メインホールで、絢爛豪華 祝祭音楽劇「天保十二年のシェイクスピア」を観る。作:井上ひさし、演出:藤田俊太郎。出演:浦井健治、大貫勇輔、唯月ふうか、土井ケイト、阿部裕、玉置孝匡、瀬奈じゅん、中村梅雀、章平、猪野広樹、綾凰風、福田えり、梅沢昌代、木場勝己ほか。音楽:宮川彬良。振付:新海絵里子。

日生劇場の制作。セリフの方が多いため、音楽劇となっているが、ミュージカル界の若手を代表する俳優が配役されている。2020年に上演されるもコロナで東京公演は途中で打ち切り、大阪公演は全て中止となっており、リベンジの上演となる。だが2020年上演の目玉だった高橋一生は今回は出演しない。そしてミュージカル俳優は舞台が主戦場となるため、一般の知名度はそう高くなく、そのためか空席がかなり目立った。ただ実力的にはやはり高いものがある。

浦井健治はこれまで観たミュージカルの中では、「アルジャーノンに花束を」が印象に残っており、唯月ふうかは博多座で「舞妓はレディ」を観ている(共に主役)。

 

「十二夜」を除くシェイクスピアの全戯曲からの抜粋と、「天保水滸伝」の「ハイブリッド」作品である。

この作品の説明が木場勝己によって講談調で語られた後で、シェイクスピアに関する情報が出演者全員で歌われる。「シェイクスピアがいなかった演目に困る」「英文学者が食べていけない」「全集が出せないので出版社が儲からない」「シェイクスピアがいなかったら女が弱き者とされることもなかった」「バンスタイン(レナード・バーンスタインのこと)が、名作(「ロミオとジュリエット」の翻案であるミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」のこと)を書くこともない」「ツーナイトツーナイト(「Tonight」のこと。実際にバーンスタインの「Tonight」のメロディーで歌われる)というヒット曲が生まれることもない」「シェイクスピアはノースペア」といった内容である。

「十二夜」を除くシェイクスピアの全戯曲からの抜粋であるが、四大悲劇と「ロミオとジュリエット」、「リチャード三世」、「間違いの喜劇」だけを抑えておけば作品の内容は分かる。

舞台となるのは下総国清滝(現・千葉県旭市清滝)。私の母方の実家が旭市であるが、清滝は旧・海上郡海上町(かいじょうぐんうなかみまち)にあり、平成の大合併により旭市に編入されている。銚子のすぐそばであり、作中にも銚子の名は登場する。現在の千葉県内であるが、「東のとっぱずれ」と称される銚子のそばだけに、江戸からはかなり遠い。

まずは「リア王」に始まる。清滝宿の旅籠を仕切る侠客・鰤の十兵衛(中村梅雀)の三女のお光(おみつ。唯月ふうか)が「愛情表現が足りない」という理由で家を追われる(「リア王」と違い、それなりに表現は出来ているのだが)。ちなみにお光がコーディリアに当たることはセリフで明かされる。
長女のお文(瀬奈じゅん)と次女のお里(土井ケイト)がそれぞれに派閥を作り、これがモンタギュー家(紋太)とキャピュレット家の関係に繋がる。
なお、お文とお里は傍白を語るときに体の向きを変えなかったため、本音の後におべっかを使ったということが分かりにくくなっていた。お光を演じる唯月ふうかは体の向きを変えていたが、演出ではなく自主的に向きを変えたのだろう。シェイクスピア好きなら傍白であることは分かるし、シェイクスピアのことを何にも知らない人がこの芝居を観に来る可能性も低いので敢えて変えなかったのだろうが、やはり傍白の時は体の向きを変えて分かりやすくした方が良かったように思う。

ハムレットは「き印の王次」の名で登場し(大貫勇輔)、リチャード三世は佐渡の三世次(浦井健治)として登場する。「マクベスノック」として有名なノック(障子を叩いているので実際にはノックとは呼べないが)を行うのも三世次である。
役名を変えずに何役も兼ねている場合があるが(尾瀬の幕兵衛というオセロとマクベスを合わせた名前の人物もいる)、お光とおさちは双子という設定で唯月ふうかが衣装早替えで演じている。
「オセロ」に出てくるハンカチは櫛に替えられている。
「ハムレット」の有名なセリフ、「To be or not to be,That's the Question.」は、様々な翻訳者による訳が紹介される(登場する中では、ちくま文庫収蔵の松岡和子による訳が最も新しいと思われる)。一般に知られる「生か死かそれが問題だ」は、実は文章自体は有名であるが、「ハムレット」の戯曲の翻訳に採用されるのは、21世紀に入ってからの河合祥一郎訳が初めてである。「ハムレット」のテキスト翻訳はその後も行われており、内野聖陽のハムレットと貫地谷しほりのオフィーリアという大河ドラマ「風林火山」コンビによる上演では全く違う表現が用いられていた。
お冬(綾凰華)という女性がオフィーリアに相当し、「尼寺へ行け!」や狂乱の場などはそのまま生かされている。お冬は新川という川に転落して命を落とすが、実はこの新川(新川放水路)は、私の母親が幼い時分に流されそうになった川である。
ラストは「リチャード三世」の展開となり、「馬をくれ!」というセリフはそのまま出てくるが、三世次は国王でも将軍でも天皇でもないので、「馬をくれたら国をやる」とはならず、転落死を選ぶ。

いわゆるパッチワークだが、繋ぎ方は上手く、「流石は井上ひさし」とうなる出来である。若手トップレベルのミュージカル女優でありながら、「舞妓はレディ」の時は、「(原作映画で同じ役を演じている)上白石萌音に比べるとね」と相手が悪かった唯月ふうかだが、やはり華と実力を兼ね備えた演技と歌唱を披露していた。
他の俳優も殺陣や歌唱に貫禄があり、好演である。

ラストは全員が1階客席通路に出て、「シェイクスピアがいなかったら」を再度歌い、大いに盛り上がった。

 

宮川彬良率いるバックバンドはステージの奥で演奏。基本的には見えないが、第2部冒頭では演奏する姿を見ることが出来るようになっていた。

 

梅田芸術劇場開場20周年ということで、終演後に、藤田俊太郎(司会)、浦井健治、大貫勇輔によるアフタートークがある。20年前にも劇場はあったのだが、経営が変わり、梅田芸術劇場という名称になってから20年ということである。以前は、梅田芸術劇場メインホールは梅田コマ劇場といった。シアター・ドラマシティは名前はそのままだが正式名称が梅田芸術劇場シアター・ドラマシティに変わっている。

梅田芸術劇場メインホールでの思い出深い公演として、浦井健治は「ロミジュリ(ロミオとジュリエット)」、大貫勇輔は「北斗の拳」を挙げた。なお、大貫勇輔は、き印の王次の「き印」が何のことか分からず、最初は「雉のことかな」と思っていたそうである。
元梅田コマ劇場ということで、梅田芸術劇場メインホールでは宙乗りが行える。浦井健治も宙乗りをしたことがあるそうだが、Wキャストで出ていた柿澤勇人(昨年、「ハムレット」で大当たりを取ったため、浦井も大貫も「ハムレット俳優」と呼んだ)は高所恐怖症であったため、宙乗りはしたが、「もう二度とやらない」と言っていたそうである。

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2025年1月17日 (金)

これまでに観た映画より(364) コンサート映画「Ryuichi Sakamoto|Playing the Orchestra 2014」

2025年1月15日 新京極のMOVIX京都にて

MOVIX京都で、コンサート映画「Ryuichi Sakamoto|Playing the Orchestra 2014」を観る。WOWOWの制作で、WOWOWやYouTubeLiveで流れたものと同一内容である。ただ映画館で観ると迫力がある。来場者にはオリジナルステッカーが配られた。

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2014年4月4日、東京・溜池のサントリーホールでの公演の収録。オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団で、コンサートマスターは三浦章宏である。

2013年にも、東京と大阪で「Playing the Orchestra」公演を行っている坂本龍一。オーケストラはやはり東京フィルハーモニー交響楽団。ただこの時は栗田博文が指揮者を務めており、「八重のテーマ」とアンコール曲の「Aqua」のみ坂本自身が指揮を行っている。坂本自身は出来に引っかかりを覚えたようで、翌年に自身の指揮による「Playing the Orchestra」公演を行うことを決めたようである。
なお、私自身は「Playing the Orchestra 2013」は、大阪・中之島のフェスティバルホールで聴いており、それが新しくなったフェスティバルホールでの初コンサート体験であった。だが、2014には行っていない。行っておけば良かったのかも知れないが。

坂本龍一は指揮とピアノを担当。指揮だけの時もあれば弾き振りを行う場面もある。ピアノの蓋を取り、鍵盤が客席側に来る弾き振りの時のスタイルでの演奏。弦楽はドイツ式の現代配置である。
東京フィルハーモニー交響楽団は通常のフル編成のオーケストラの約倍の楽団員を抱えているため、坂本龍一も「昨年の公演にも参加してくれた方もいれば初めての方もいる」と紹介していた。

曲目は、「Still Life」、「Kizuna」、「Kizuna World」、「Aqua」、「Bibo no Aozora(美貌の青空)」、「Castalia」、「Ichimei-No Way Out」、「Ichimei-Small Happiness~Reminiscence」、「Bolerish」、「Happy End」、「The Last Emperor」、「Ballet Mèchanique」(編曲:藤倉大)、「Anger-from untitled 01」、「Little Buddha」。アンコール曲目「Yae no Sakura(八重の桜)」メインテーマ、「The Sheltering Sky」、「Merry Christmas Mr.Lawrence(戦場のメリークリスマス)」

「The Last Emperor」の後半と、「Merry Christmas Mr.Lawrence」の後半以外はノンタクトでの指揮である。坂本は左利きだが、指揮棒は右手に持つ。

マイクを手にトークを入れながらの進行。坂本は指揮の訓練は受けていないため、本職の指揮者に比べると細部の詰めが甘いのが分かるが、自作自演であるため、作曲者としての坂本龍一が望む音が分かるという利点もある。

「Ichimei」は、市川海老蔵(現・十三代目市川團十郎白猿)主演の映画の音楽だが、レコーディング初日が2011年3月11日だったそうで、東京のスタジオも揺れたそうだが、坂本は録音機材などが倒れないよう支えていたという話をしていた。

「Bolerish」は、ブライアン・デ・パルマ監督の映画のための音楽であるが、デ・パルマ監督から、「ラヴェルの『ボレロ』に限りなく近い音楽を作ってくれないかと言われ、それをやったら作曲家として終わる」と思ったものの、結局、似せた音楽を書くことになったようである。ラヴェル財団からは本気で訴えられそうになったそうだ。「古今東西、映画監督というのはわがままな人種で」と坂本は放す。別に本物のラヴェルの「ボレロ」を使っても良かったような気がするのだが。ラヴェルの「ボレロ」は今は著作権がグチャグチャなようだが。

「Ballet Mèchanique」は、「藤倉大君というロンドン在住のまだ三十代の現代音楽の作曲家なのですが」「子どもの頃からYMOや僕の音楽を聴いて育ったそうで」自分から編曲を申し出たそうである。
この「Ballet Mèchanique」は、坂本本人のアルバムにも入っているが、元々は岡田有希子に「WONDER TRIP LOVER」として提供されたもので、その後に中谷美紀に「クロニック・ラヴ」として再度提供されている。歌詞は全て異なる。セールス的には連続ドラマ「ケイゾク」の主題歌となった「クロニック・ラヴ」が一番売れたかも知れない。

「Little Buddha」は、ベルナルト・ベルトルッチ監督の同名映画のメインテーマであるが、何度も駄目出しされて、書き換えるたびにカンツォーネっぽくなっていったことを坂本が以前、インタビューで述べていた。「彼(ベルトルッチ監督)は自分が音楽監督だと思っているから」とも付け加えている。ベルトルッチとは、「ラストエンペラー」、「シェルタリング・スカイ」、「リトル・ブッダ」の3作品で組んでいるが、最初の「ラストエンペラー」も「1週間で書いてくれ」と言われ、それは無理なので2週間にして貰ったが、中国音楽のLPセットを聴いた後で作曲に取りかかり、不眠不休で間に合わせたそうである。オーケストレーションまでは手が回らなかったので他の人に任せている。

「八重の桜」は同名のNHK大河ドラマのテーマ音楽であるが、オリジナル・サウンドトラックにはなぜか指揮者の名前がクレジットされていない。指揮をしたのは尾高忠明である。

「戦場のメリークリスマス」の次にといっても過言ではないほどの人気曲である「シェルタリング・スカイ」であるが、個人的な思い出のある曲で、高校2年の時の芸術選択の音楽の授業でピアノの発表会があり、私は作曲されたばかりの「シェルタリング・スカイ」(ピアノ譜はなかったが、エレクトーンの雑誌に大まかな譜面が載っており、細部は適当にアレンジした)を弾いて学年1位になっている。ピアノを独学で弾き出してから間もない頃のことである。

説明不要の「戦場のメリークリスマス」。1989年のクリスマスイブ、テレビ朝日系の深夜枠で、坂本龍一がピアノで自作曲を弾くというミニコンサートのような番組をやっていた。それを録画して見たのが、「ピアノをやってみたいなあ」と思ったきっかけである。

 

演奏の出来としては、坂本がピアノに徹した2013の方が上かも知れない。曲目も2013の方が受けが良さそうである。ただ歴史的価値としては、自身で全曲指揮を行った2014の方が貴重であるとも思える。

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2025年1月16日 (木)

観劇感想精選(480) 森見登美彦原作 G2脚本・演出「有頂天家族」

2024年11月22日 京都四條南座にて観劇

午後3時30分から、京都四條南座で、「有頂天家族」を観る。森見登美彦のファンタジー小説の舞台化である。南座では渡辺えりとキムラ緑子による「有頂天」シリーズが上演されたことがあるが、それとは一切関係がない。脚本・演出:G2。出演:濱田龍臣、若月佑美、渡辺秀(わたなべ・しゅう)、池田成志、相島一之、檀れい、有川マコト、盛隆二(もり・りゅうじ)、谷山知宏、林田一高、鹿野真央(女性)、佛淵和哉(ほとけふち・かずや)ほか。

マジックリアリズムなどを特徴とする作風の森見登美彦。「有頂天家族」はアニメ化もされており、叡山電車とのコラボレーションも行われているが、舞台化はなかなか難しい。「夜は短し歩けよ乙女」も何度か舞台化されているが、最初の舞台は東憲司の演出だったにも関わらず、成功作とは言えなかったように思う。俳優も今ひとつであった(主演女優の方が解釈を間違えてましたね。どなたかは書きません)。
「有頂天家族」も過去に舞台化されたことがある。

「有頂天家族」は、狸、天狗、人間によるドラマで、特に狸が重要な役割を果たしており、下鴨家と夷川(えびすがわ)家の抗争が主軸となっている。チェッカーズ主演の「TAN TAN たぬき」という映画があったが、セリフにも出てくるため意識されているのだと思われる。
下鴨家のお母さんは宝塚歌劇団のファンなのだが、この役を宝塚出身の檀れいがやっていて、宝塚の男役の格好をしていたりする(檀れいは宝塚では娘役であった)。
純粋なエンターテインメント作品であり、深読みはしない方が良いと思われる。家族愛を描いた作品で、温かみが感じられる。また下鴨家の次男である矢二郎(佛淵和哉)が、六道珍皇寺の井戸(小野篁が地獄への入り口としていた井戸だと思われる)にこもって、井の中の蛙をやっているなど、京都の名所が絶妙にちりばめられている。また矢二郎は叡山電車に化けるのだが、叡山電車沿線に狸谷山不動院という寺院があり、アニメ版「有頂天家族」とのコラボレーション列車が走っていた。
ヒロインをやっているのは、弁天役の若月佑美。元乃木坂46のメンバーである。30歳なので、ヒロインとしては年齢は高めであるが、今の30歳は若いので(我々の世代の基準なら見た目だけなら20代前半で通じる)、ちゃんとヒロインしている。今年の大河ドラマ「光る君へ」の前半で強烈な印象を残した玉置玲央の奥さんである。
主役の下鴨矢三郎はWキャストで、今日は濱田龍臣が演じる。大河ドラマ「龍馬伝」で、福山雅治演じる坂本龍馬の少年時代役をやった子で、三谷幸喜が作・演出を担当した舞台「大地」にも出ており、その頃は朝から晩までテレビゲームばかりやっていると話していて、共演者のまりゑから、「もっと舞台観なさい、映画観なさい」と言われており、その後、学んだのかどうかは分からないが、舞台俳優としては順調に成長していることが感じられる。

役者は魅力的な人が多い。池田成志や相島一之は流石の面白さである。文学座の鹿野真央も今年37だが、なかなか可愛らしい。今の37と昔の37もやはり違うようだ。ただ森見登美彦作品は小説で読むのが一番のように思う。イメージが重要になってくるのだが、書籍で読んだ方がイメージはしやすい。

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2025年1月14日 (火)

コンサートの記(879) 平野一郎 弦楽四重奏曲「二十四氣」京都公演@大江能楽堂

2024年12月10日 京都市役所そばの大江能楽堂にて

午後7時から、押小路通柳馬場東入ル(京都市役所のそば)にある大江能楽堂で、平野一郎の弦楽四重奏曲「二十四氣」の演奏を聴く。二十四節気を音楽で描いた作品。演奏は石上真由子(いしがみ・まゆこ。第1ヴァイオリン)、對馬佳祐(つしま・けいすけ。第2ヴァイオリン)、安達真理(ヴィオラ)、西谷牧人(にしや・まきと。チェロ)。全員、タブレット譜を使っての演奏であった。

能楽堂での演奏ということで色々と制約がある。まずファンヒーターは音が大きいというので本番中は切られるため、寒い中で鑑賞しなくてはいけない。客席もパイプ椅子や座布団などで、コンサートホールほど快適ではない。音響設計もされていないが、能楽堂は響くように出来ている上に空間も小さめなので、弦楽四重奏の演奏には特に支障はない。

弦楽四重奏で、四季よりも細分化された二十四氣を描くという試み。24の部分からなるが、24回全てで切るわけにはいかないので、春夏秋冬の4つの楽章で構成されるようになっている。
作曲者の平野一郎のプレトークに続いて演奏がある。能舞台の上には白足袋でしか上がってはいけない(他の履き物で上がってしまうと、板を張り替える必要があるため、膨大な金額を請求されることになる)ので、全員、白足袋での登場である。白足袋で演奏するクラシックの演奏家を見るのは珍しい。

 

平野一郎は、京都府宮津市生まれ(「丹後國宮津生」と表記されている)の作曲家。京都市立芸術大学と同大学大学院で作曲を専攻。2001年から京都を拠点に作曲活動を開始している。
プレトークで、平野は二十四節気は中国由来だが、すでに日本独自のものになっていることや、調べ(調)などについての説明を行う。

 

「二十四氣」であるが、現代曲だけあって、ちょっととっつきにくいところがある。繊細な響きに始まり、風の流れや鳥の鳴き声が模され、ピッチカートが鼓の音のように響く。弦楽器の木の部分を叩いて能の太鼓のような響きを生んだり、ヴァイオリンが龍笛のような音を出す場面もある。旋律らしい旋律は余り出てこないが、ヴィオラが古雅な趣のあるメロディーを奏でる部分もある(チェロのピッチカートで一度中断される)。ヴァイオリンであるが、秋に入ってからようやくメロディーらしきものを奏でるようになる。
秋には楽器が虫の音を模す場面もある。チェロが「チンチロリン」(松虫)、ヴァイオリンが「スイーッチョン」(ウマオイ)の鳴き声を模す。
冬の季節に入ると、奏者達が歌いながら奏でるようになり、足踏みを鳴らす。面白いのは四人のうちヴィオラの安達真理のみ左足で音を鳴らしていたこと。どちらの足で出しても音は大して変わらないが、おそらく左足が利き足なのだろう。
演奏時間約70分という大作。豊かなメロディーがある訳ではないので、聴いていて気分が高揚したりすることはないが、日本的な作品であることは確かだ。四人の奏者の息も合っていた。

演奏終了後に、安達真理がお馴染みの満面の笑みを見せる。彼女の笑みは見る者を幸せにする。

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2025年1月12日 (日)

これまでに観た映画より(363) ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団×リッカルド・ムーティ 「第九」200周年記念公演 in cinema

2025年1月7日 MOVIX京都にて

MOVIX京都で、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団×リッカルド・ムーティ「第九」200周年記念公演 in cinemaを観る。文字通り、リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ほかが、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」初演から200年を記念して行ったコンサートの映像の映画館上映。ユニテルとオーストリア放送協会(ORF)の共同制作で、日本では松竹が配給している。2024年5月7日、ウィーン・ムジークフェラインザール(ウィーン楽友協会“黄金のホール”)での上演を収録。合唱はウィーン楽友協会合唱団。独唱は、ユリア・クライター(ソプラノ)、マリアンヌ・クレバッサ(メゾソプラノ)、マイケル・スパイアズ(テノール)、ギュンター・クロイスベック(バス)。ベーレンライター版での演奏。

常任指揮者を置かないウィーン・フィルにおいて、長年に渡り首席指揮者待遇を受けているというリッカルド・ムーティ。ウィーン・フィルの母体であるウィーン国立歌劇場にも影響力を持っており、小澤征爾がウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた際も、「ムーティの後押しがあった」「事実上の音楽監督はムーティ」との声があった。
1941年、ナポリ生まれ。ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(後の元の名前のフィルハーモニア管弦楽団に名を戻す)首席指揮者時代に名を挙げ、1980年にユージン・オーマンディの推薦により、フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任している。長年コンビを組み、フィラデルフィア管弦楽団=オーマンディというイメージの残る中、お国もののレスピーギ「ローマ三部作」の録音(EMI)などが高く評価された。実はフィラデルフィア管時代に「ベートーヴェン交響曲全集」を制作しており、私が初めて聴いた第九のCDもムーティ指揮フィラデルフィア管のものであった。「ベートーヴェン交響曲全集」は俗に「クリスマスBOX」と呼ばれた廉価BOXCDの中の一つとして再発され、私も購入して全曲聴いてみたが、ベートーヴェンの演奏としては浅いように感じられた。
フィラデルフィア管弦楽団が、アカデミー・オブ・ミュージックという「世界最悪の音響」と言われたホールを本拠地にしていること(現在は新しいホールに本拠地を移している)やアメリカにはイタリアほどにはオペラやクラシック音楽が根付いていないことを理由に同楽団を離任してからは、祖国のミラノ・スカラ座で音楽監督として活躍。この時期、すでにウィーン・フィルから特別待遇を受けていたと思われる。上層部と対立してスカラ座を離任後は、フリーの指揮者を経てシカゴ交響楽団の音楽監督に就任。結果的には、嫌っていたはずのアメリカに戻ることになった。2011年にウィーン・フィルから名誉団員の称号を受けている。

日本では、年末になると国中が第九一色になり、日本のほぼ全てのプロオーケストラが第九を演奏し、日本の有名指揮者は第九に追われることになるが、年末の第九が定着しているのは日本だけ。ドイツのライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などいくつかの楽団が年末の第九を売りにしているが、他の国では第九は「難曲中の難曲」として滅多に演奏されない。そのため、今回の独唱者も全員、譜面を手にしての歌唱である。年末になると第九が歌われる日本の歌手は暗譜での歌唱が当たり前になっているが、これは世界的には珍しいことである。

 

ピリオド・アプローチによる時代の垢を洗い流したかのような第九がスタンダードになりつつあるが、ムーティは自分のスタイルを貫き通している。テンポは現代の標準値に比べるとかなり遅めであり、各パートをギッシリと積み上げたような男性的な第九を構築する。
シラーの「歓喜に寄す」から取った合唱の歌詞が、「平等」を目指すことをさりげなく歌っており、恋多き人生を歩んだベートーヴェンの心境にも男女の平等は浮かんでいたはずで、そうした点からは一聴して「男性的」という言葉の浮かぶ第九がベートーヴェンの意図を汲み取ったものといえるのかどうか(ムーティは「作曲家が書いた神聖な音符は一音たりとも動かしてはならない」という楽譜原理主義者として知られた。今は違うかも知れないが)。ただこれがムーティのスタイルであり、ウィーン・フィルが記念演奏会を任せた指揮者の音楽である。
随所で溜めを作るのも特徴で、オールドスタイルとも言えるが、音楽が単調になるのを防いでいるのも事実のように感じる。
現代望みうる最高の第九かというと疑問符も付くのだが、長年に渡ってクラシック音楽会の頂点に君臨し続けるオーケストラが「今」出した答えがこの演奏ということになる。
テンポが遅いため、近年よく聴かれるような演奏に比べると音楽が長く感じられるという短所もあるが、手応えのある音楽になっているのも確かである。東京・春・音楽祭で日本でも親しみを持って迎えられるようになった指揮者と、日本が愛し日本を愛したオーケストラの賛歌をスクリーンで楽しむべきだろう。

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2025年1月 7日 (火)

コンサートの記(878) 横山奏指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2024 「マエストロとディスカバリー」第3回「シネマ・クラシックス」

2024年12月1日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2024 「マエストロとディスカバリー」第3回「シネマ・クラシックス」を聴く。今日の指揮者は、若手の横山奏(よこやま・かなで。男性)。

京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2024は、9月1日に行われる予定だった第2回が台風接近のため中止となったが、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」の語り手を務める予定だったウエンツ瑛士が、そのまま第3回のナビゲーターにスライド登板することになった。

「シネマ・クラシックス」というタイトルからも分かる通り、シネマ(映画)で使われているクラシック音楽や映画音楽がプログラムに並ぶ。
具体的な曲目は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った(かく語りき)」から冒頭、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」、ブラームスのハンガリー舞曲第5番(シュメリング編曲)、マーラーの交響曲第5番より第4楽章アダージェット、デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」、ニューマンの「20世紀フォックス」ファンファーレ、ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」からメイン・タイトル、久石譲のジブリ名曲メドレー(直江香世子編。Cinema Nostalgia~ハトと少年~海の見える街~人生のメリーゴーランド~あの夏へ~風の通り道~もののけ姫)、ハーラインの「ピノキオ」から星に願いを(岩本渡編)、フレディ・マーキュリーの「ボヘミアン・ラプソディ」より同名曲(三浦秀秋編)、バデルトの「パイレーツ・オブ・カリビアン」(リケッツ編)

 

横山奏は、1984年、札幌生まれ。クラシック音楽業界には男女共用の名前の人が比較的多いが、彼もその一人である。ピアニストの岡田奏(おかだ・かな)のように読み方は異なるが同じ漢字の女性演奏家もいる。
高校生の時に吹奏楽部で打楽器を担当したのが、横山が音楽の道に入るきっかけになったようだ。北海道教育学部札幌校で声楽を学ぶ。北海道教育大学には現在は岩見沢校にほぼ音楽専攻に相当するゼロ免コースがあるが、地元の札幌校の音楽教師になるための学科を選んだようだ。在学中に指揮者になる決意をし、桐朋学園大学指揮科で学んだ後、東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程を修了。ダグラス・ボストックや尾高忠明に師事した。
2018年に、第18回東京国際指揮者コンクールで第2位入賞及び聴衆賞受賞。2015年から2017年までは東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の指揮研究員を務めている。
趣味は登山で、NHK-FM「石丸謙二郎の山カフェ」のシーズンゲストでもある。
今年の6月には急病で降板したシャルル・デュトワに代わって大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会でストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」全曲などを指揮して好評を得ている。直前にデュトワから直接「火の鳥」のレクチャーを受けていたことが代役に指名される決定打になったようだ。

 

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。ヴィオラの客演指揮者には田原綾子が入る。ハープはマーラーの交響曲第5番より第4楽章アダージェットまでは舞台上手寄りに置かれていたが、演奏終了後にステージマネージャーの日高さんがハープを舞台下手側へと移動させた。

 

リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」冒頭と、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」はいずれも「2001年宇宙の旅」で使われた曲である。特に「ツァラトゥストラはこう語った」は映画によって誰もが知る音楽になっている。
「ツァラトゥストラはこう語った」と「美しく青きドナウ」は続けて演奏される。
「ツァラトゥストラはこう語った」はオルガンなしでの演奏。京響の輝かしい金管の響きが効果的である。ロームシアター京都メインホールも年月が経つに連れて響くようになってきているようだ。
「美しく青きドナウ」も端麗で優雅な音楽として奏でられる。

「美しく青きドナウ」演奏後にナビゲーターのウエンツ瑛士が登場。これまでオーケストラ・ディスカバリーのナビゲーターは吉本の芸人が務めていたが、ウエンツ瑛士は俳優だけあって、吉本芸人とは話の流麗さが違う。吉本芸人も生き残るのは100人に1人程度なので凄い人ばかりなのであるが。またウエンツ瑛士は吉本芸人とは異なり、台本を手にしていない。ミスもあったが全て暗記して臨んでいるようだ。俳優はやはり凄い。

ウエンツ瑛士は、「マエストロとディスカバリー」というテーマだが、「マエストロとは何か?」とまず聞く。会場にいる「マエストロ」の意味が分かる子どもに意味を聞いてみることにする。指名された男の子は、「指揮者やコンサートマスターのこと」と答えて、横山の「その通り」と言われる。
横山「先生とか権威ある人とか言う意味がある。コンサートマスターもマエストロと呼ばれることがあります」とコンサートマスターの泉原の方を見る。
ウエンツ「ご自分で『権威ある人』と仰いましたね。大丈夫なんですか?」
横山「自認しております」

 

ブラームスのハンガリー舞曲第5番。ハンガリー舞曲の管弦楽曲版は今では第1番(ブラームス自身の管弦楽版編曲あり)や第6番も演奏されるが、昔はハンガリー舞曲と言えば第5番であった。
ウエンツ瑛士は、この曲が、チャップリンの「独裁者」で使われているという話をする。
ロマの音楽であるため、どれだけテンポを揺らすかが個性となるが、横山は大袈裟ではないが結構、アゴーギクを多用する。ゆったり初めて急速にテンポを上げ、中間部では速度を大きく落とす。
躍動感溢れる演奏となった。
子どもの頃、ハンガリー舞曲第5番といえば、斎藤晴彦のKDD(現・KDDI)の「国際電話は」の替え歌だったのだが、今の若い人は当然知らないだろうな。

 

マーラーの交響曲第5番より第4楽章アダージェット。トーマス・マン原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」でテーマ曲的に使われ、マーラー人気向上に大いに貢献している。それまでマーラーといえば「グロテスクな音楽を書く人」というイメージだったのだが、アダージェットによって「こんな甘美なメロディーを書く人だったのか」と見直されるようになった。
ウエンツ瑛士が、「この曲は、『愛の楽章』と呼ばれているそうですが」と聞く。横山は、「マーラーが当時愛していて、後に奥さんになるアルマへの愛を綴った」と説明した。
実は当初は交響曲第5番にはアダージェットは入る予定ではなかったのだが、マーラーがアルマに恋をして書いた音楽を入れることにしたという説がある。第4楽章は第5楽章とも密接に繋がっているので、第5楽章も当初の構想から大きく変更されたと思われる。
ウエンツは、「アダージェット」の意味についても横山に尋ねる。横山は、「『アダージョ』は『ゆったりとした』といういう意味で、『アダージェット』はそれより弱く『少しゆったりとした』という意味」と説明していた。
弦楽のための楽章なので、木管奏者が退場した中での演奏。金管奏者は残って聴いている。
中庸のテンポでの演奏で、ユダヤ的な濃さはないが、しなやかな音楽性が生きており、京響のストリングスの音色も適度な透明感があって美しい。
横山はどちらかというと、あっさりとした音楽を奏でる傾向があるようだ。

 

デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」。ディズニー映画「ファンタジア」でミッキーマウスが魔法使いの弟子を演じる場面があることで知られている。横山は、「三角帽子のミッキーマウスが」と話し、元々はゲーテが書いた物語ということも伝えていた。
実は、「ファンタジア」における「魔法使いの弟子」は、著作権において問題になっている作品でもある。ディズニーはミッキーマウスを著作権保護の対象にしたいため、保護期間を延ばしている。そのため著作権法案はミッキーマウス法案と揶揄されている。この映画での演奏は、フィラデルフィア管弦楽団が担当しているのだが、フィラデルフィア管弦楽団が「ファンタジア」の「魔法使いの弟子」の映像ををSNSにアップしたところ、ディズニー側の要請で動画が削除されるという出来事があった。演奏している当事者のアップが認められなかったのである。

横山の演奏はやはり中庸。描写力も高く、水が溢れるシーンなども適切なスケールで描かれる。

 

後半は劇伴の演奏である。日本では劇伴音楽が低く評価されている。映画音楽もそれほど好んで聴かれないし、映画音楽を聴く人は映画音楽ばかりを聴く傾向にある。アメリカでは映画音楽は人気で、定期演奏会に映画音楽の回があったりするのだが、日本では映画音楽の演奏会を入れても集客はそれほど見込めないだろう。
大河ドラマのメインテーマなども、NHKが1年の顔になる音楽ということで威信を賭けて、当代一流とされる作曲家にしか頼まず、指揮者も「良い」と認めた指揮者にしか任せないのだが、例えばシャルル・デュトワが「葵・徳川三代」のメインテーマをNHK交響楽団と小山実稚恵のピアノで録音することが決まった時、まだ楽曲が出来てもいないのに「そんなつまらない仕事断ればいいのに」という書き込みがあった。どうも伝統的なクラシック音楽しか認めないようだが、予知能力がある訳でもないだろうに、聴いてもいない音楽の価値を決めて良いという考えは奢りに思えてならない。

 

ニューマンの「20世紀フォックス」ファンファーレ。演奏時間1分の曲なので、続けてジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」からメイン・タイトルが演奏される。
「20世紀フォックス」ファンファーレは、短いながらも「これから映画が始まる」というワクワク感を上手く音楽化した作品と言える。この曲も京響のブラスの輝かしさが生きていた。

ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」からメイン・タイトルは、映画音楽の代名詞的存在である。指揮者としてボストン・ポップス・オーケストラ(ボストン交響楽団の楽団員から首席奏者を除いたメンバーによって構成され、セミ・クラシックや映画音楽の演奏などを行う)の常任指揮者としても長く活躍していたジョン・ウィリアムズは、近年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立て続けに招かれている。「ジョン・ウィリアムズの音楽はクラシックではない」と見る人も当然いるが、「クラシックとは何か」を考えた場合、これだけ世界中で演奏されている音楽をクラシックではないとする方が無理があるだろう。
横山指揮による京響は、輝きに満ちた演奏を展開する。力強さもあり、イメージ喚起力も豊かだ。

演奏終了後、ウエンツ瑛士は、「『スター・ウォーズ』が観たくなりましたね。今夜は帰って『スター・ウォーズ』を観ましょう」と述べていた。

 

久石譲のジブリ名作メロディー。ジブリ作品においては愛らしいメロディーを紡ぐ久石譲。北野武作品の映画音楽はもう少し硬派だが、大人から子どもまで楽しめるジブリメロディーは、やはり多くの人の心に訴えかけるものがある。坂本龍一が亡くなり、今は世界的に通用する日本人の映画音楽作曲家は久石譲だけになってしまった。久石譲は指揮活動にも力を入れているので、自作自演を聴く機会が多いのも良い。自作自演には他の演奏家には出せない味わいがある。
今回は久石譲の自作自演ではないが、京響の器用さを横山が上手くいかした演奏となる。私が京都に来た頃は、京響はどちらかというと不器用なオーケストラで、チャーミングな音楽を上手く運ぶことは苦手だったのだが、急激な成長により、どのようなレパートリーにも対応可能なオーケストラへと変貌を遂げている。
久石譲の映画音楽は世界中で演奏されており、YouTubeなどで確認することが出来るが、本来の意味でのノスタルジックな味わいは、あるいは日本のオーケストラにしか出せないものかも知れない。
なお、ピアノは白石准が担当した。

 

ハーラインの「ピノキオ」から、星に願いを。岩本渡のスケール豊かな編曲による演奏される。スタンダードな曲だけに、多くの人の心に訴えかける佳曲である。

 

フレディ・マーキュリーの「ボヘミアン・ラプソディ」。同名映画のタイトルにもなっている。映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、クィーンのボーカルであったフレディ・マーキュリーの生涯を描いたもので、ライブエイドステージでの「ボヘミアン・ラプソディ」の歌唱がクライマックスとなっている。
「ボヘミアン・ラプソディ」。全英歴代の名曲アンケートでは、ビートルズ作品などを抑えて1位に輝いている。ただこの曲は本番では歌えない曲としても知られている。フレディ・マーキュリーがピアノで弾き語りをする冒頭部分は歌えるのだが、そこから先は多重録音などを駆使したものであり、ライブエイドステージでも、ピアノ弾き語りの部分で演奏を終えている。「本番では歌えない」ということで、ミュージックビデオが作られ、テレビで全編が流されたのだが、これが「格好いい」ということでヒットに繋がっている。
横山は、ラプソディについて、「日本語で簡単に言うと狂詩曲」と言うもウエンツに、「うーん、簡単じゃない」と言われる。横山は、「伝統的、民謡的な音楽などを自由に使った音楽」と定義した。
横山は「ボヘミアン・ラプソディ」が大好きだそうだ。80名での演奏で、ウエンツは、「クィーンで80人は多いんじゃないですか」と言うが、演奏を終えると、「クィーン、80人要りますね」と話していた。
ピアノは引き続き白石准が担当。メランコリックな冒頭のメロディーはオーボエが担当する。スイング感もよく出ており、第3部のロックテイストの表現も上手かった。

 

ラストは、バデルトの「パイレーツ・オブ・カリビアン」。ウエンツは「映画よりも音楽の方を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか」と述べる。
スケールも大きく、推進力にも富んだ好演となった。

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2025年1月 4日 (土)

これまでに観た映画より(362) 伊藤沙莉主演 ショートフィルム「平成真須美 ラスト ナイト フィーバー」

2024年12月16日

ひかりTV配信で、ショートフィルム「平成真須美 ラスト ナイト フィーバー」を観る。二宮健監督作品。主演:伊藤沙莉。出演:篠原悠伸、中島歩ほか。2019年の作品。上映時間32分。
この時期の伊藤沙莉は、ミニシアター系で上映されるような通向けの作品に多く出ている。

伊藤沙莉演じる真須美(苗字不明)は、おそらく売れない芸能人である。女友達の兄がポピュラー楽曲の作曲家であるのだが、3人のダンサーが踊っている前でないと曲が作れないという奇妙な癖を持っている。平成があと3日で終わり、5月1日からは令和になるということで、残り3日の間に1曲作り上げたいとプロデューサーが要望。しかし、3人いたダンサーのうちの1人が何らかの理由で脱退したため、ダンス経験のある真須美にアルバイトとしてこの仕事が回ってきたのだ。

作曲作業は小さなスタジオで合宿という形式で行われる。

作曲家のユーシン(篠原悠伸)は上半身裸でアコースティックギターを掻き鳴らすという奇妙な作曲スタイル。残り二人のダンサーはレオタードを着たおっさんということで、真須美は戸惑い、ユーシンに対しては不審の目を向け、手を抜いて踊る。
ユーシンの作曲は全く進まず、ユーシンはプロデューサー(怒ると関西弁になる)から一喝される。

ダンサーの一人から、「真須美ちゃんって、『真須美ちゃん』って顔だよね」と嬉しくもなんともない言葉を掛けられる真須美。「毒物カレー事件の時、めっちゃいじめられましたよ」(1998年に起こった和歌山毒物カレー事件。林眞須美死刑囚は現在も収監されたままである)と応えた。当時は幼稚園生であったという。

翌日も作曲は進まないが、夜、真須美がトイレに行こうとした時に、中に入って鍵を掛けていなかったユーシンと遭遇。悠伸は用を足していた訳ではなく、単に狭い場所に籠もっていたかったのだ。ここで交わした会話で、互いの心が少しほぐれ、平成最後の日となった4月30日には、真須美も全力で踊り、昨夜の真須美の「探しものって、探すのをやめた時に見つかるらしいですよ」という井上陽水譲りの真須美の言葉が功を奏したのか、曲も出来上がっていく。
真須美のiPhoneに電話が入る。母親からのものだったが、実は母親の声は伊藤沙莉の実母が演じたものだという。声は似ていないが、言い回しは少しだけだが同じようなところがある(生で聞くと声質も似ているらしい)。真須美の母は、真須美に「応援はしている」としつつ実家に帰ってこないかと誘う。この実母との会話により、真須美がやはり売れていない芸能人だと確信出来る。そして、噂を聞きつけてスタジオの下に来ていた元彼と出会う真須美。元彼はつい最近まで付き合っていた相手と別れたという。

曲が完成した後で、表へと飛び出す真須美。ここからは、実際に平成31年4月30日深夜から、令和元年5月1日になった瞬間の渋谷でゲリラ的に撮影された映像になる。おそらくだが、JR渋谷駅からセンター街を抜けるルートを真須美は走る。そしてユーシンが女性(おそらく通りがかりの人)の前で出来たばかりの曲を弾き語りしているのを見つける。昨夜トイレで、「人前では一度も歌ったことがない」というユーシンに真須美が「歌ってみたらどうですか」と提案。ユーシンがその言葉を受け入れたのを確認する。
真須美の誕生日は5月1日。追ってきた元恋人に「誕生日おめでとうって言ってよ」とお願いし、鼻歌を歌いながら来た道を引き返していく真須美。

冒頭の伊藤沙莉は眼鏡を掛けて不安そうな顔をしている。芸能活動が全く上手くいっていない上に、奇妙としか言えない仕事の依頼。自信をなくしていたのだと思われるが、自分の言葉で人が変わったのを見て、自分の存在に意義があるということを見つけたのかも知れない。

地味で奇妙で、誰が観ても面白いという作品ではないかも知れないが、生きるのが辛い人の背中をそっと押してくれるような、ほんのちょっとした優しさが感じられる作品である。

今回も伊藤沙莉は自然体の演技であるが、彼女の「その辺にいそうな子の中では一番可愛い」という容姿も結構ずるいのではないかと感じられる。自己投影がしやすく感情移入もまたしやすいのだ。二十代の頃は「誰が見ても美人」という女優の方が有利だが、彼女も三十代になり、美人度よりも親しみやすさの方が客の心を捉える世代に入った。活躍の幅が広がりそうな予感もする。

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2025年1月 3日 (金)

これまでに観た映画より(361) 「バグダッド・カフェ」

2024年12月26日 京都シネマにて

京都シネマで、西ドイツ制作の映画「バグダッド・カフェ」の4Kレストア版(京都シネマでは2K上映)を観る。1987年の制作。ベルリンの壁崩壊の2年前である。
かなり有名な作品であるが、テーマ曲である「Calling You」は、ひょっとしたら映画以上に有名かも知れない。
「バグダッド・カフェ」というタイトルであるが、イラクの首都であるバグダッドが舞台になっている訳ではなく、アメリカ・カリフォルニア州にあるモハーヴェ砂漠の真ん中、バグダッドで営業を行っているモーテル兼ガソリンスタンド兼ダイナーのバグダッド・カフェというカフェが主舞台となっている。というより一部を除けば、バグダッド・カフェの周辺で全て完結している。
パーシー・アドロン監督作品。なお、アドロン監督は今年(2024年)の3月に死去したそうである。
出演:マリアンネ・ゲーゼブレヒト、CCH・パウンダー、ジャック・パランス、クリスティーネ・カウフマンほか。

大人のための一種の寓話である。

バグダッド・カフェのオーナーは黒人女性であるブレンダ。夫と娘がいるが、家庭が上手くいっているとは言えないようである。そんなバグダッド・カフェをヤスミンという中年女性が訪れる。ドイツ人のヤスミンは夫婦でアメリカを旅していたのだが、車が故障したのをきっかけに夫婦喧嘩を起こし、夫と別れてバグダッド・カフェを訪れたのだった。ヤスミンは部屋の内装を勝手に変えるなど奔放なところがあり、バグダッド・カフェに住み着いてしまう。バグダッド・カフェには様々な人種や指向、前歴を持った人が集まってくる。やがて手品を習得したヤスミン。その手品が受けて、バグダッド・カフェは盛況となる。
バグダッド・カフェの近くのコンテナで生活しているコックスは、元はハリウッドで舞台美術の仕事をしていた(ヤスミンは俳優だったと勘違いしていた)。コックスは、ヤスミンをモデルにした肖像画を描きたいという申し出、ヤスミンはそれを受け入れる。
順調に行くかに見えた日々だったが、保安官のアーニーがバグダッド・カフェを訪れ、ヤスミンに「ビザが切れている。グリーンカードを持っていないとこの先、ここでは生活出来ない」と告げる。バグダッド・カフェを去る決意をしたヤスミンだったが……。

不思議な感触を持った映画である。ヤスミンは太めの中年女性なのであるが、時折、「この人は人間ではなくて妖精か何かなのではないか」と思わせられるところがある。手品の習得も異様に早く、高度な技もこなせるようになる。
時の経過は、いつもピアノの練習をしているサロモの上達ぶりによって観客に知らされる。J・S・バッハの曲をたどたどしく弾いていたサロモだが、最終的にはジャズ風の即興的な曲もバリバリ弾きこなせるようになる。

個性豊かな面々が、不毛な砂漠の真ん中のバグダッド・カフェで至福の時を見つけ、もう若いとはいえないヤスミンとコックスは接近する。
都会で多数派のように生きることだけが幸せではないと教えてくれる佳編である。

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