消えた「どんどん焼け」
「京都では戦前といえば応仁の乱の前を指す」という言葉を耳にされた方は多いと思う。太平洋戦争で京都が罹災しなかった(実際は罹災したのだが隠された)故に生まれた言葉だと思われるのだが、果たして本当だろうか?
応仁の乱以降も京では戦乱が起こっている。天文法華の乱、本能寺の変などだが、その中で最大のものは元治元年(1864)7月19日に起こった禁門の変であろう。
前年の八月十八日の政変で、京を追われた長州が「会津討つべし」と再上洛。これを会津・桑名・薩摩連合軍が迎え撃ち、御所蛤御門周辺を最激戦地とし、洛中各所で戦いが起きた。
戦いは一日で終わったため、これだけなら戦争というほどのことはなかっただろう。しかし長州藩邸から起こった火は三日間に渡って燃え続け、洛中の3分の2を焼いたという(これを「どんどん焼け」という。「どんどん」とは大砲の音の擬音だということだ)。これだけの被害が出ると「戦争」と認識するのが普通のような気もする。そしてどんどん焼けから立ち直る前に維新を迎えてしまった京都は天皇の東京御幸(そして帰ってこなかった)、町並みの変化など一大転換期を迎えることになる。
また太平洋戦争時も、京都人は出征したのであり、多くの方が亡くなった。また、延焼を防ぐために街が改造された。これでも「戦争がなかった」という意識を持つものなのだろうか?
「京都では戦前といえば応仁の乱以前を指す」という言葉は、もともとは「どんどん焼け」を知らないよそさんが京都人をからかうために作った質の悪い冗談ように思える(実際、笑い話として用いられる場合が多い)のだが、果たしてどうなのだろう。仮に応仁の乱以前を本当に「戦前」と呼ぶにしても、その「戦前」の話などすることがあるのだろうか?
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