「人間の喜劇」としての『ロミオとジュリエット』
『ロミオとジュリエット』はシェイクスピアの代表作の一つであり、古今東西の戯曲の中で最も有名な作品の一つである。いくら何でも『ロミオとジュリエット』のタイトルも聞いたことがないという人はいないだろう。
一方で、タイトルもあらすじも有名だが、実際に戯曲を読んだ人は少ないことでも知られる。もっとも、戯曲というジャンル自体が余り読まれないので、読まれていないというのは『ロミオとジュリエット』だけに限られた話ではない。
しかし、それ故に、あらすじとイメージだけが先行して、『ロミオとジュリエット』は単純な悲恋物だ、と思っている方も多いはずだ。
『ロミオとジュリエット』は悲恋物でもある。しかし最も痛切に心に響くテーマは恋愛ではなく、人間の愚かしさだ。
『ロミオとジュリエット』はイタリアの民話を基にした話である。舞台がイタリアのヴェローナであるのもそのためだ。バンデルロというイタリアの作家がこの物語を小説化し、それをイギリスの作家アーサー・ブルックが加筆・英訳した『ロミウスとジュリエットの悲劇物語』を参考にシェイクスピアがこの戯曲を書いたとされている。
面白いのは、バンデルロのものもブルックのものも、「若さは恋と人生を誤らせる」という教訓話であるいうことである。二人とも『ロミオとジュリエット』を真の意味での悲劇と捉えていないのだ。せいぜい、「若さとは罪なものだ」といった悲劇性しか認めていないのである。
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』も、若気の至りにはきちんと触れられている。
一目惚れを運命の恋と思い込み、「恋は盲目」を地でいく。しかもロミオはロザラインという女性に失恋したばかりであり、「ロザラインより美しい女性はいない」だとか、「もう恋はしない」などと言いながら、次の瞬間にはジュリエットに恋しているのである(この部分はロミオのイメージを損なうとして長くカットされていたという)。
しかし、シェイクスピアはジュリエットの年齢を14歳とすることと、二人とも「恋に恋している」ことを自覚させることで、教訓性を薄め、物語を強化している。
ちなみにバンデルロやブルックの作品では、ジュリエットは18歳である。18歳であんなことをしていては確かに馬鹿かも知れないが、14歳ならわからなくても仕方ない。シェイクスピアの狙いはそこにあったと思われる。
そしてそれによって、若さよりももっと愚かなものが見えてくるのである。そんな何もわからないような若い二人を理解しない、本当に何もわからない大人達の姿である。
そもそもモンタギュー家とキャピュレットの争いは、子供の喧嘩のようであり、ロミオとジュリエットが「恋に盲目」なら、彼らの両親は「目あれど見えず」であり、やらなくてもいいこと、一番やっていはいけないことをやり続けて、流れなくてもいい血を流し、最後は最愛の息子と娘を失ってしまうのである。
『ロミオとジュリエット』の映画化やリメイクは何度も行われているが、いずれも恋愛悲劇よりも、人間の愚かしさを正確に炙りだしている。
レオナルド・ディカプリオ主演の映画『ロミオ+ジュリエット』では、マーキューシオのいまわの際のセリフを真剣に語らせるという趣向が採られている。ロミオ(レオナルド・ディカプリオ)の目をじっと見据えて、「両家ともくたばるがいい!」とあたかも呪いの言葉(セリフそのものはシェイクスピアが書いたものそのままで変更はされていない)のようにモンタギュー家とキャピュレット家を責めるマーキューシオ像は、人間の愚かしさを告発する犠牲者として強烈な印象を残した。
『ロミオとジュリエット』のリメイクである、『ウエストサイド物語(ウエストサイド・ストーリー)』(ミュージカル。映画化もされていてこちらもかなり有名である)は更に冷徹で、『ロミオとジュリエット』のラストが、両家が仲直りしようか、という甘口のものであるのに対し、『ウエストサイド物語』は、人間の愚かしさに激怒したマリア(ジュリエットに相当)が一言も口を利かずにトニー(ロミオに相当)が殺害された場所をあとにするという辛口のラストを持つ。
夢見がちな少女が思い描くような悲恋ものとしてではなく、必要もないのに憎みあい殺し合い、自分のことしか考えない人間への警告として、『ロミオとジュリエット』が読まれ、再構成されているのである。
『ロミオとジュリエット』は、無意味に憎しみ合い、互いに相手を挑発し、やらずもがなのことをやり、相手ばかりを責めて、自己本位な言動を繰り返す人間を告発する劇という側面を持つ。
『ロミオとジュリエット』は、人間の愚かしさを悲しみの涙で笑う一種の「人間の喜劇」であり、単純な涙に回収されるありふれた悲劇もしくは恋愛劇とは一線を画した高みに聳える巨峰なのである。
2006年8月15日
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