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2007年11月27日 (火)

私選 プロ野球・記憶に残る名勝負(2) 伊藤智仁 VS篠塚和典 無念のサヨナラ被弾

ヤクルトスワローズの黄金期であった1990年代を代表するピッチャー、伊藤智仁。150キロを超えるストレートと驚異的なキレを見せる高速スライダー、更にフォークボールを武器に1993年のルーキーイヤーは怪我で規定投球回数に満たなかったものの防御率0点台という驚異的なピッチングを披露し、ドクター0(ドクターオー)の異名を取ります。

しかし、バルセロナオリンピック壮行試合・プロアマ対決戦でアマチュア時代の伊藤と対戦した古田敦也をして「来るとわかっていても打てない」と言わしめた高速スライダーは肘や肩に強度の負担をかける諸刃の剣であり、度重なる怪我に泣かされ続けた伊藤智仁は「ガラスのエース」でもありました。

その伊藤智仁の悲運の野球人生を象徴するような試合が、1993年6月9日に、金沢の石川県立球場で行われた対巨人戦。
伊藤智仁はセリーグ最多タイ記録となる16個の三振を奪う快投で巨人打線を0点に抑え続けるも、味方のヤクルト打線も沈黙。結局、9回裏に篠塚和典にサヨナラソロホームランを打たれ、試合の主役でありながら負け投手となってしまったのでした。

1993年6月9日の対巨人戦の模様(YouTubeより)



対戦者・篠塚和典の証言

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