とらわれということ
誰に強制されたのでもなく、教えられたわけでもないのに、強迫的に守らなければ気が済まないことがあるのはなぜなのだろう。
そうしたとらわれから自由になれたらもっと自己の幅は拡がるのだろうか、あるいは無意識の自制がとらわれの正体であり、それを破るともっと不自由になるのだろうか。
とらわれの代表的な例が「縁起担ぎ」である。平安時代の「方違え」のような大仰なものから、ちょっとした習慣まで、こうでなくては気が済まないと、自分自身にとらえられ、行動は制限される。しかしそれを取り払ったときに、自由が待っているとは限らないのである。
強迫的なとらわれは自己防衛反応の一種だともいわれ、アメリカではそうしたとらわれを「プロテクト」として捉えることもあるという。
あるいはそうした強迫的な観念は自己の境界であり、それを破ると自己は自己であることに耐えきれなくなるのかも知れないが、そうした自制のためにしなくてもいいことをしたり、しなくてはいけないことまで出来なくなることもある。
自己は自己からも自由ではないということなのか。
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