街の想い出(18) 横浜その2 中島敦文学碑
横浜市を初めて訪ねたのは1991年、高校2年生、16歳の春のことだった。横浜市は東京湾を挟んで、私が住んでいた千葉市のほぼ対岸にある。この対岸にあるというのがネック(というのかどうか)になって、それまで私は横浜に行ったことがなかったのだ。
千葉から横浜に行くには総武快速・横須賀線を使えば電車一本で済むのだが、横浜に着く前に東京がある。東京があるなら横浜まで行く必要はほとんどない。ということで、同じ南関東に住みながら、16歳になるまで私は横浜に行ったことはなかったのである。
遠足、というのだろうか、高校2年の時に学年全員で日帰りの旅行をするという習慣が私の高校にはあった。そして私が高2の時の遠足の目的地が横浜であり、それが私の横浜初体験となったのである。
普通、千葉から横浜に行くにはバスを使う。しかしその時は普通ではなかった。フェリーをチャーターして、千葉港から横浜港に向かったのである。海上を行くのだから、千葉から神奈川まで一直線、東京に寄る必要はなかった。
横浜に着いた私が一番最初に向かったのが元町幼稚園。「山月記」、「李陵」などの作品で知られる中島敦が教師として働いていた私立横浜高等女学校の跡地が元町幼稚園であり、敷地内に中島敦文学碑が建っているのである。幼稚園の敷地内に文学碑が建っているというのもどうかと思うが(幼稚園内に入るにはそこそこ勇気がいる)、高校2年生で、初めて横浜に行って、一番の目的というのが中島敦文学碑を見ることという当時の私も今になってみればどうかと思う。しかし、それなりに複雑な高校生活を送っていた私にとって、自意識の問題について書き続けた中島敦は共感できる存在であり、横浜の中島敦文学碑を訪ねてみたいと前々から思っていたのである。
幼稚園の敷地の一番奥に中島敦文学碑はあった。よりによって一番奥に建てることもないと思う。余計入りにくい。おまけに校庭(園庭)では園児が遊んでいる。こんなところに入って行っても良いのだろうか。しかし、「碑を見たい」と幼稚園教諭にいうと、あっさり通してくれた。私は高校の制服を着ていたし、悪い生徒にも見えなかった(はずだ)。今の時代は違う。幼児を襲う犯罪が起こり、高校生といえども幼い子に危害を加える可能性を否定出来ない時代、幼稚園教諭も気軽に通してはくれないかも知れない。
中島敦文学碑を間近で見て、かって中島敦がこの地にいたのだと思うと何となく頬がゆるんだ。憧れの作家の故地を訪ねるのはやはりいいものである。
最初に中島敦文学碑を訪ねてから16年が経った今年(2007年)7月、私は、再び横浜の元町幼稚園を訪れた。生憎土曜日であり、幼稚園は休みで、文学碑を間近で見ることは出来なかった。
そして今年11月、私は33歳になった。中島敦が喘息の発作で亡くなった歳に並んでしまったのである。
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