虎に翼
韓国では「鬼に金棒」のことを「虎に翼」というのだそうである。
そこで調べてみると「虎に翼」という言葉は『韓非子』の出典であることがわかった。『韓非子』は紀元前2世紀頃に成立したとされる。それが朝鮮半島に入ってきて今も使われているということなのだろう。朝鮮半島には野生の虎が生息しているのでイメージもしやすく、定着したのだと思われる。
ところで、「虎に翼」と聞いてもう一つ思い出すことがある。
飛鳥時代の日本。近江朝。死の間際にある天智天皇は弟である大海人皇子(のちの天武天皇)を呼び出し、「皇位を継いでくれるか」と訊く。大海人皇子はこれを辞し、天智の子である大友皇子に位を譲るように言って吉野に下る。
『日本書紀』によると、吉野に下る大海人皇子を見て、ある人が「虎に翼をつけて放つようなものだ」と言ったという。
以下は仮説である。
「虎に翼をつけて放つ」というのは、そのある人が比喩表現としてその場で思いつき、用いたものだと思っていた。しかし、これは朝鮮半島で使われている諺を言っただけ、つまり慣用表現だった可能性はないだろうか。つまりそのある人とは滅亡した百済からの亡命者だったのである。
『韓非子』という書物の名が日本史上に登場するのは平安時代になってからのことだという。漢文読み下しが普及し、漢籍の研究が本格的に始まるのも奈良時代半ばとのこと。天智朝、天武朝はそれ以前のこと。天智朝、天武朝の歴史が書かれた『日本書紀』の成立もやはりそれ以前のことである。
仮に当時の日本人に途轍もないインテリがいて、独自に『韓非子』を手に入れ(遣唐使はすでにあったし、亡命してきた百済人からも手に入れられる可能性はある。入手出来る可能性はゼロではない)、「虎に翼」という表現を知っていて使ったのだとしても、日本には虎などいないのだから、よくイメージ出来ないし、人にも伝わらないのではないか。
『日本書紀』の写本の中には、「ある人が『虎に翼をつけて放つようなものだ』と言った」ではなく、「人々は『虎に翼をつけて放つようなものだ』と囁き合った」となっているものもあるという。
囁きあったというのだから、その人々というのは「虎に翼」という諺が通じる人、つまり百済からの渡来人同士であった可能性が高い。百済からの渡来人は大海人皇子を怖れていたのだ。
ということは、大海人皇子は、上層部に渡来人を多く抱えたと思われる天智朝に不満を抱いていて、大和人による朝廷を理想としており、それ故、天智天皇と反目していたという可能性も生まれてくる。
「壬申の乱」は、親百済遺臣派と反百済遺臣派の戦いだった可能性も否定出来ないのではないか。
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