生誕100年 朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 ブルックナー交響曲第8番(2001年7月 サントリーホールライブ盤)
今年、2008年は、大阪フィルハーモニー交響楽団の指揮者として活躍した朝比奈隆(1908-2001)の生誕100年に当たります。
1908年、東京に小島家の子として生まれた朝比奈隆は、生後すぐ、名前もつけられないうちに、子供のいなかった朝比奈家の養子になりました。子供の頃にヴァイオリンを買い与えられた朝比奈隆は音楽に興味を持ち始めます。旧制東京高等学校を経て、京都帝国大学法学部に入学。京大オーケストラのヴァイオリン奏者として活躍し、卒業後は、阪急電鉄に入社したものの、「本社勤めになったとき、一番手前に新米の私がいて、一番奥に部長がいるでしょう。(中略)ある日こう思った。あそこ(引用者注:部長のポジション)までははるかに遠いなあと。とてもあかんと思った」(朝比奈隆 『指揮者の仕事』より)ということで辞職。京都帝国大学文学部に学士入学し、京大オーケストラの指導者だったエマヌエル・メッテルに就いて、基礎の基礎から音楽をやり直します。
大戦中には、大陸に渡り、当時は西洋人がメンバーの大半を占めていた上海交響楽団やハルビン交響楽団の指揮者として活躍。この時に西洋人達のオーケストラのレベルの高さを身をもって知ります。
戦後、日本に戻った朝比奈隆は、在阪の音楽人から大阪に残るよう勧められ、関西交響楽団を結成。その後、NHKが持っていた大阪フィルハーモニーの商標を買い取り、大阪フィルハーモニー交響楽団としています。在阪の音楽人は、朝比奈が京大卒であり、京大の同期が在阪企業の役職に就いていたために、コネクションを利用しようとしていました。戦後すぐに、「朝比奈君が戻ってくればなんとかなる」と関西の音楽界では話されていたといいます。
大阪フィルの運営に、朝比奈の人脈が生きたことは間違いのないことですが、朝比奈は、「金銭的なパイプ」という周囲の期待以上のことを成し遂げていきます。
今日紹介するのは、朝比奈隆の十八番である、ブルックナーの交響曲第8番のCD(EXTON)。朝比奈最後の年となった2001年の7月23日と25日に、東京・赤坂のサントリーホールでライブ収録されたものです。
晩年の朝比奈の実演には私も何度か接していますが、オーケストラの特徴が良く出た純度の高いものでした。
朝比奈は指揮姿からもわかりますが、曲の骨格をガッチリと固めることを優先し、細部には拘泥しませんでした。それ故だと思われますが、音楽を徹底してコントロールするタイプの指揮者とは正反対に、オーケストラのアンサンブルの精度は犠牲になるものの、年齢を重ねるうちに余分なものが削ぎ落とされていき、混じり気のない響きを創造することが可能になっていました。
この演奏も、オーケストラの技術ではなく、音楽の純度の高さにまず感銘を受けます。
大陸で西洋人からなるオーケストラを振ったことで、日本のオーケストラの音の弱さを思い知らされた朝比奈は、何よりも大きな音を出すことを楽団員に要求しました。マーラーのような細かな技術が問われる曲とは違い、ブルックナーの場合は、朝比奈の要求が素朴さと雄大さに繋がり、名演を生む結果となりました。
関西楽壇を支え続けた巨匠の最晩年の記録としても価値が高く、多くの人に聴いて貰いたいCDです。
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