無明の日々(10) 現象としての人生
生まれ出ずる以前にもうあらかたは決着がついているのかも知れない。遺伝の要素は自分自身で自覚しているようもずっと強いようだ。
ならば生きるということは字義通りの生み出すということではなく、ただあること、つまり現象ではないのか。
現象としての自我。まるで宮沢賢治のようだが、私というのは現象なのだ。
この現象を受けいれるべきか否か。いや、受けいれるしかないのではなかろうか。あらゆることは無意味、ということを根本とし、それを超越して有意味となる可能性があるのだから。
無意味であるということが有意味なのだ。例えば、私は私を超えられないが故に私なのであり、それ故に私たり得るというように。
ならば私は私たり得るために現象としてただあるべきなのだ。おそらくそれが本当のことなのだ。
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