コンサートの記(50) 沼尻竜典指揮 京都市交響楽団第515回定期演奏会
2008年8月23日 京都コンサートホールで
午後6時から京都コンサートホールで京都市交響楽団の第515回定期演奏会に接する。
午後5時開場であったが、その直前から京都コンサートホールのある左京区下鴨近辺は凄まじい雨に見舞われる。交通機関にも影響があったのか、今日の指揮者である沼尻竜典のプレトークがある午後5時40分頃にはまだ客席に人が少なかった。それでも開演時間直前にはそれなりに客席は埋まる。
沼尻竜典は1964年生まれ。1990年に、おなじみのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して注目を浴びている。日本フィルハーモニー交響楽団の正指揮者を今年まで務め、今は大阪センチュリー交響楽団首席客演指揮者、びわ湖ホール芸術監督として活躍している。
顔は、俳優の近藤芳正にどことなく似ていて、ユーモラスなところがある。
プログラムは、グラズノフのサクソフォン協奏曲(アルト・サクソフォン独奏:須川展也)と、ショスタコーヴィチの交響曲第8番。
須川展也は日本を代表するサクソフォン奏者。須川のサクソフォンは、まろやかな響きを出し、サックスが木管楽器(木管、金管は材質の違いでなく、リードを用いるか否かの違いである)であることを再確認させてくれる。
NAXOSの「日本作曲家選輯」を始めとするCDや、テレビ出演時の演奏はよく聴いている沼尻の指揮であるが、私が沼尻の実演に接するのは自分でも意外なことに初めてである。なぜこれまでコンサートホールで聴いたことがなかったのだろう?
沼尻の指揮姿は、指揮棒を持った右手の方が動きが大きいが、左右の手がシンメトリーの動きをすることも多く、棒の動きは大変俊敏である。また、オーケストラの音がどれほど強くなっても、常に知的なコントロールが行き届いている。
沼尻は現代音楽を得意としているが、自分の個性を自分で的確に把握しているようだ。
棒は巧いが、沼尻の場合は体の動きも速いということもあって、音楽自体がスポーツ的になってしまうところがある。そこが難点だ。
それにしても、ショスタコーヴィチの交響曲は凄い。沼尻も京響も好調で、爆発力があり、こうした演奏で聴くとショスタコーヴィチの凄さが更によくわかる。
演奏自体はムラヴィンスキーのCDなどの方が上だが、ショスタコーヴィチの曲が持つ凄絶な響きはやはり実演でないと本当の意味での堪能は出来ない。
ショスタコーヴィチの交響曲第8番は、交響曲第7番「レニングラード」に次ぐ、戦争交響曲第2作。ソビエト当局の批判を避けるためか、ショスタコーヴィチは「楽観主義的な曲だ」と述べているが、第1楽章のイングリッシュホルンのソロなどは、どう考えても嘆きの歌だ。
交響曲第8番の第1楽章は、同じ作曲家の交響曲第5番に出だし等が似ているといわれる。私などは、交響曲第8番の第1楽章は自作である交響曲第5番のカリカチュアだと思っているのだが。充実した作品となったが本意ではなかった交響曲第5番を作曲した時のショスタコーヴィチの嘆きが聞こえるようだ。
第2楽章は、精神の浅い権力者達のお喋りのよう。最後のティンパニは下品な笑い声にも聞こえる。
第3楽章は、まさに戦争の音楽だが、兵士達の戦う前戦から遠く離れた後方で、「やれ! やれ!」と唱える誰かの声が聞こえるような部分が挟まれている。
第4楽章は、そんな誰かのために命を落とした者達へのレクイエムであり、第5楽章は希望を奏でるヴァイオリン、それを冷笑するような管楽器、憧れを表すようなメロディー、何かを茶化すような音型など、ショスタコーヴィチがこの曲を作曲した時代のソビエトのあらゆる情景が詰め込まれているかのようだ。
ところで、ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」の最終楽章には、「タタタター」という音型が頻出する。これはモールス信号の「V」の符号(・・・-)で、「V」は「VICTORY」の「V」だとされているが、この「タタタター」の音型は短調で奏でられる(長調にするとメンデルスゾーンの「結婚行進曲」のようになる)。「VICTORY」が短調でいいのか?
ところで「V」はローマ数字では「5」を表す。「レニングラード」交響曲は、4楽章構成の交響曲だから当然第5楽章はない。存在しない第5楽章を示す音型なのだとしたら、第4楽章で描かれる一応の勝利は見せかけで、本当に語りたいことは「レニングラード」の戦いの勝利後に存在するということになる。
そして続いて書かれた交響曲第8番は、第1楽章が交響曲第5番に似た出だしを持つ、5楽章形式の交響曲。
文学的解釈になってしまうが、私がもし指揮者だったら、こういう解釈も取り入れてみたくなる。
| 固定リンク | 0
コメント