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2013年7月 1日 (月)

観劇感想精選(97) 井上芳雄 朗読活劇レチタ・カルド「沖田総司」

2013年6月1日 京都市左京区の浄土宗大本山・金戒光明寺野外特設ステージにて観劇

午後6時より、浄土宗大本山金戒光明寺で、井上芳雄とスパニッシュ・コネクションによる朗読活劇レチタ・カルド「沖田総司(おきた・そうじ)」を観る。レチタ・カルドは普通の朗読劇に留まらず、音楽とのコラボレーションや今回の場合なら殺陣など、動きの要素も加えた新ジャンルの舞台とのこと。京都では先に大沢たかおが醍醐寺で行っている。結局、観には行けなかったが、新妻聖子も上野不忍池公演野外ステージで「ジャンヌ・ダルク」の公演を行っており、基本的に野外でのステージが多いようだ。今回も野外でのステージ。金戒光明寺御影堂(みえいどう)の階段下がステージになっている。
梅雨時の野外公演ということで、降雨の心配があったが、「俺は晴れ男だから少なくとも大降りにはならんだろう」と気楽に待つ。会場入り口ではプチレインコートが比較的良心的な価格で売られていたが、購入はしなかった。上演時間は15分の休憩を含んで二時間ほどだったが、最初の20分ほど雨具も不要なほどの小雨がぱらついただけで、公演は無事に終わった。

公演の行われた金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は幕末の京都守護職・松平容保公率いる会津藩が本陣を置いた場所として知られ、地元では「黒谷さん」の愛称で親しまれている(「黒谷」は法然上人が比叡山時代に住まわれた場所で、現在の金戒光明寺は法然上人が下山して最初に草庵を結ばれた場所として特別に「黒谷」を名乗ることを許されている)。浄土宗を信仰していた徳川家康の計略により、東海道を挟んで南にある同じ浄土宗の知恩院とともに城郭設計がなされており、戦時には籠城して迎え撃つことが可能な縄張りとなっている。ただ、会津藩の世話係をしていた一人に任侠の会津小鉄こと上坂仙吉がおり、小鉄の墓もこの寺にあるため、快く思わない人もいると聞く。

なお、松平容保公や会津の重臣が主に使っていた御影堂と大方丈、奥の間は昭和に入ってから火災で焼けてしまい、御影堂と大方丈は再建されるが、再建工事中に日本がアメリカとの戦争に突入してしまったため、物資不足で御影堂の屋根を支えるための強度が足りず、鉄柱を立てることで屋根を支えるという苦心の仕掛けになっている。奥の間であるが、松平容保公が過ごされた空間は資金不足のため再建されなかった。

今回の主人公、沖田総司が会津藩お預かりである新選組の副長助勤筆頭(新選組は何度か編成を変えているが、沖田は不動の一番隊組長)であることから、沖田総司の朗読劇を演じる場所として金戒光明寺は最適の場所であると言える。

アコースティックギター、ヴァイオリン、タブラ(打楽器)からなるスパニッシュ・コネクションの演奏によって上演開始。マイクを使っての上演である。金戒光明寺御影堂から井上芳雄が下りてきて殺陣を披露し、その後、倒れる。舞台は池田屋、沖田喀血の場面である(新選組二番隊組長だった永倉新八によると沖田が池田屋の二階で「持病により」倒れたことは事実であるが、喀血はどこの史料を探しても出てこないフィクションである。沖田の持病がなんであったのかは今もなお不明である。しかし喀血のフィクションによって沖田が一躍「悲劇の天才剣士」として新選組で一二を争う人気隊士になったのだからフィクションの力は侮れない)。
沖田は滝の幻想を見る。この世は峻厳な滝のようなものであると。ここから井上芳雄はテキストを手にして朗読を開始する。沖田総司は著名な人物であるにも関わらず、正体がよく分からない歴史上の人物の一人。一時期は美男剣士の代名詞のように扱われたこともあるが、沖田が美男であったということを記したものは存在しない。「色黒で、ヒラメ顔であった」とされるが、ヒラメ顔がどんな顔なのかもわかっていない。沖田総司の肖像画とされている画があるが、あれは沖田総司の親類の肖像で、沖田本人に似ていたのか定かでない。活躍したのも芹沢鴨暗殺、池田屋事件と山南敬助(今回は「やまなみ・けいすけ」と呼ばれる。ちなみに山南敬助のファンクラブ「山南会」は「さんなんかい」と読み、「さんなん・けいすけ」が正しいとしている)の介錯を務めたということぐらい。なお、山南脱走はフィクションの可能性が指摘されている。
と、いうことで、歴史的事実だけで物語を作ると「沖田総司」はとても短いものになってしまう。そのため、沖田の恋など、フィクションが存分に盛り込まれている。

白河藩士の子として生まれたが幼くして試衛館に預けられ、やがて19歳の若さで天然理心流免許皆伝となったいきさつが語られる。浪士組に参加し、芹沢鴨と近藤勇を繋ぐ縁を作ったのも沖田であるという風に設定にされ、また、芹沢殺害もとどめを刺したのは沖田という物語になっている。上洛してすぐに押し込みを行った不逞の浪士を斬り殺し、これが人生初の人斬りであり、同じく浪士を斬った土方歳三の袴が汚れているのを指摘し、土方が「返り血だ。当然ではないか」というと、「私は斬ってすぐよけたので袴は汚しませんでした」と答え、「お前はそこまで計算して斬ったのか」と土方を感心させる(最初の人斬りの話も勿論フィクションである)。

そして、舞台は再び池田屋へ。斎藤一が古道具に凝っているという話をし、河原町の古道具屋で沖田と共に買い物をした。そして壬生の屯所に帰ると近藤と土方が河原町にある古道具屋、枡屋(これは作者の勘違いで、枡屋があったのは四条小橋で、河原町側ではなく木屋町側である)の主の正体が古高俊太郎という長州寄りの人間であり、枡屋は長州の連絡場所になっているという。また長州が京都で大規模な陰謀を起こそうとしているという情報を手に入れる。そこで、新選組は古高を拉致し、壬生前川邸の土蔵で古高を逆さづりにして足の裏に五寸釘を刺し、その上に蝋燭を置いて蝋を垂らし拷問する。山南はむごすぎると思うが、沖田が「京で陰謀を企てているんでしょ。どんな手を使ってでも吐かせなきゃ」と平然としているのを見て、沖田が単なる明るい青年ではないことを知ることになる。

そして池田屋事件。沖田を含む近藤組5人は池田屋へ、土方組20余名は丹虎へと向かう(ここも作者の勘違い。池田屋と丹虎は目と鼻の先である。土方隊が向かったのは鴨川を挟んで東の縄手通にある勤王派の巣窟、小川亭であったと思われる。作者が誰かは書かれていないが、京都の地理に詳しくない人だということはわかる)沖田は真っ先に階段を駆け上がり、浪士を斬る。しかし戦っている間に喀血し、戦線離脱。

翌朝目覚めた沖田は土方に労咳であることを見抜かれる。労咳は当時不治の病であった。なぜ労咳になったのかと己の運命を呪う沖田。土方は沖田を慰めるためか、手に入れた名刀・菊一文字を沖田に与える(沖田の帯刀が菊一文字というのはよく知られているがフィクションとされる。菊一文字こと則宗は国宝級であり、新選組の隊士クラスが用いることは不可能と思われる。また鎌倉時代の太刀なので幕末の実戦に使えるとは思えない。実際に沖田が使った記録があるのは加州清光と大和守安定である)。

医者に向かう途中、沖田は「こりん」という少女に出会い、名医を紹介して貰う(こりんは架空の人物であるが、こりんと聞くと小倉優子を思い出してしまうので違う名前にして貰いたかった)。そしてその医者の娘である「たまき」とも親しくなる(たまきも架空の女性である)。

禁門の変が起こり、京都は焼け野原と化す。火は壬生までは届かなかったが西は堀川、南は四条までが焼けた(沖田総司は禁門の変に参加していたが戦功を挙げていないということもあって、詳細は不明である)。

新選組に伊東甲子太郎が入隊。北辰一刀流免許皆伝で古学を始めとしたあらゆる学問に通じた伊東を慕う隊士も増え始める。その中に試衛館時代から沖田と苦楽を共にした藤堂平助もいた。

そんな折り、山南敬助が隊を脱走する。局中法度には「隊を脱するを許さず」とあり、沖田は土方から山南を探し出すよう命令される。大津の宿に腰を落ち着けた沖田は、階段の上から「沖田君じゃないか」と呼ぶ声がするのを聞く。声の主は山南であった。炬燵を挟んで酒を飲み交わす沖田と山南。沖田は山南に逃げて貰い、取り逃した責めを自分が負うというが、山南は屯所に帰って切腹するので、沖田に介錯をしてくれるよう頼む。かくて山南は壬生の前川邸で切腹し、介錯を沖田が務める。

山南の介錯を終えた翌日、医者の庭先でぼんやりしていた沖田は、たまきに後ろから肩を叩かれる。「私が浪士だったら沖田様の命はなくってよ」言うたまき。二人は恋に落ちる予感を覚えた。

屯所に帰った沖田は、近藤や土方と共に島原に遊びに出かける。島原の座敷から出たところで、「あら、沖田様」という声を聞く。こりんであった。こりんは島原で遊女の見習いをしていたのだった。こりんは私が大きくなったら沖田様に水揚げして貰いたいといい、沖田もその気になる。しかし時局は二人の再会を許さなかった。

そして、幕府典医で新選組の主治医でもある松本良順を通して、たまきが嫁に行くという話も聞く。相手は医者だという。医者と医者の娘、釣り合いが取れている。沖田は恋に破れたのであった。

藤堂平助は伊東と行動を共にし、新選組を抜けて、丁度崩御されて間もない孝明天皇の御陵衛士となることに決める。沖田は藤堂を引き留めようとする(ここでも台本に変な部分がある。本当は沖田は藤堂と同い年か年上のはずなのに、台本では明らかに藤堂の方が年上になってしまっている。藤堂平助が斎藤一と共に新選組結成当時の最年少であったことは定説である)が、藤堂は沖田の話を聞き入れない。藤堂は七条油小路で伊東とともに死体となって発見された。

ここからはフィクションが続く。沖田は伏見の戦いに参加し、一番隊は沖田を除いて全滅する(実際は、沖田は伏見の戦いには参加せず、大坂城で療養生活を送っていた。労咳を病んだのはこの直前だと思われる)。江戸に帰った沖田は、植木屋で療養生活を送る。療養先には姉のおみつや洋装した土方が訪ねてきた(土方が訪ねたのは事実であるかどうか不明。近藤は訪ねたという言い伝えがある)部屋では鳥を飼っていたが、ある日、鳥が大騒ぎする。沖田が庭先に出てみると黒猫が鳥かごを狙っているのが分かる。沖田は菊一文字の刀を手にし、猫を斬ろうとするが果たせず、そのまま昏倒。目覚めた沖田は最後に「鳥かごから鳥を放って欲しい」と言い、鳥の羽音を聞いて息絶える。あの世に向かう沖田の前に滝がある。滝をくぐると、その先はあの世だった。

井上は「沖田総司房良(かねよし)、享年25歳」と言って御影堂の内部へと去り、朗読活劇は終わる。

井上は朗読途中にステージから歩み出て、石畳の上を歩きながら朗読したり、二幕の頭は観客の後ろから飛び出して見せたりと朗読劇に飽きないように工夫がなされていた。

 

 演劇の中でも、朗読劇、一人芝居などはいわゆる「演劇」と区別して考えなければならない。基本的に朗読劇や一人芝居というのは対話がないため、筋を追いにくく、観客に集中力を強く求めることになる。それでいて、対話がないため単調で面白くなることはほとんどない。私自身、朗読劇の演出と執筆を行っているが、面白くしようというよりメッセージ性を強く込めることに意を注いだ。ちなみにこれまで朗読劇や一人芝居を多く観劇しているが、本当に面白いと感じたのは加藤健一の「審判」だけである。それも内容の異様さに惹かれた部分が大きい。別役実や三谷幸喜の作による一人芝居も「ああ、やっぱり一人芝居ね」という感想で終わってしまった。
そのため、普通の演劇と区別して感想を述べなければならないが、本は正直言って平凡、ただ井上芳雄は人を惹き付けるだけの力があり、井上芳雄の実力を知る上では良い朗読劇であったと思う。ちなみに井上芳雄はミュージカルの若手トップスターで女性に人気があり、沖田総司も女性に人気のある新選組隊士である。ということで、観客の99%以上が女性という異常に偏りのある客層の中での観劇となった。新選組好きの男も多いはずなのだが、もう少し男も劇に興味を持つようにしてくれるとありがたい。

 

終演後、井上は、「表に出た途端、客席がレインコートだらけで、今日は駄目か、と思いましたが、皆さんの日頃の行いが良いのか僕の行いが良いのか(笑)雨も止みました。僕は言っても、屋根がありますから、お客さんは濡れて申し訳ないと思いました。僕も出たときに少し濡れましたが。でも考えようによっては雨が降っていたことで印象に残る、普通の劇場で雨は降りませんから、降ったらそれは雨漏りなんで、印象に残る舞台になったのではないかと思います」とユーモアを交えながら公演を締めた。

実際、雨がやんだのは井上がステージから下りて石畳を歩き出した直後だったので、本当の晴れ男は私ではなく井上だったのかも知れない。

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