観劇感想精選(115) 浅丘ルリ子&上川隆也主演舞台「渇いた太陽」
2013年11月29日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇
午後2時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、浅丘ルリ子&上川隆也主演舞台「渇いた太陽」を観る。テネシー・ウィリアムズの作。
「欲望という名の電車」、「ガラスの動物園」など、重く暗い主題を題材とするテネシー・ウィリアムズであるが、この「渇いた太陽」でもそれは変わらない。「渇いた太陽」はポール・ニューマン主演で映画化されているという。
テネシー・ウィリアムズのテキストを平田綾子が日本語に翻訳した本を使用。演出:深作健太(苗字からも分かるとおり、深作欣二の息子さんである)、出演:浅丘ルリ子、上川隆也、貴城けい(たかしろ・けい)、川久保拓司、内田亜希子、俊藤光利(しゅんどう・みつとし)、井坂俊也(いさか・しゅんや)、加藤裕(かとう・ゆたか)、西村雄正(にしむら・ゆうせい)、明石鉄平、湖木信乃介(みずき・しんのすけ)、赤沼優(男優である)、藤原桂香、牧勢海(まきせ・うみ)、渡辺哲。
アメリカ南部の街、セント・クラウドが舞台である。「渇いた太陽」の初演は1959年、演出は名監督でありながら赤狩りの協力者としてハリウッドを敵に回したエリア・カザンであったという。当然ながら、公民権運動の真っ盛りであり、作品中には人種差別の問題も登場する。
かつては名女優の誉れ高かったアレクサンドラ(浅丘ルリ子)。しかし彼女も年には勝てない。長く仕事に恵まれず、久しぶりに現場に復帰しても自分の容姿の衰えにうんざりして、今はハリウッドを離れ、南部を旅している。そんなアレクサンドラがフロリダで出会ったのが、チャンス・ウェイン(上川隆也)。名前こそ「チャンス」であるが、チャンス・ウェインは長い間、ここぞという時のチャンスには恵まれていなかった。若い頃は、サンタ・ウェイン随一の男前としてもてはやされたが、チャンスは彼の友人達とは違って身分的にも財産においても恵まれた家の出ではなく、優れていたのは容姿だけであった。彼も年を取り、容姿も昔のように際立って輝かしいものではなく、抜け毛も多くていずれ豊かな髪も失うかも知れなかった。気がつけば、彼の周りは皆、人生の成功者となっている。容姿だけが取り柄のチャンスにはもう後がない。かつてはハリウッド映画にチャレンジしたこともあった。しかし、良いところまで行った時に、邪魔が入る(チャンス自身が撒いた種であることが後に分かるのであるが)。チャンスは焦っていた。フロリダでビーチボーイをし、女達にオイルマッサージをしていた時に、チャンスはアレクサンドラと出会ったのだ。チャンスはこれは千載一遇のチャンスだと確信する。アレクサンドラは大物女優である。彼女の後押しがあれば、ハリウッドデビューも夢ではない。そして、恋人であったヘブンリー(内田亜希子)をヒロイン役に推してもらえば彼女とも元の鞘に収まるのだ……。
テーマは「老い」そして「アイデンティティの危機」である。
「時の勝利」という音楽を聴いたことがある。1990年代後半、東京オペラシティコンサートホール“タケミツ・メモリアル”においてだ。サー・サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団の来日演奏会。前半は、全て存命中の作曲家による現代音楽が3曲、後半はベートーヴェンの交響曲第5番だった。サー・サイモン・ラトルは、すでに現代屈指の名指揮者という地位を確かなものとしており、メインが人気曲であるベートーヴェンの交響曲第5番であったにも関わらず、日本人の現代音楽アレルギーはかなり強く、客席は半分ほどしか埋まっていなかった。「時の勝利」はそのコンサートで演奏された曲であり、人は老い、いつか死に、時が勝利するという内容のものであった。
そして「渇いた太陽」でも時は勝利する。
アレクサンドラにもチャンスにもかつては輝いた日々があった。でもそれはもう戻ってこないのである。暴力的で残酷な結末に、時の神・クロノスは非情だとも思えてくる。しかし同時に、人間はクロノスが見放すほど愚かだということもわかる。
「時に勝てた者など一人もいない」
演技であるが、浅丘ルリ子は、アレクサンドラと、アレクサンドラが普通の老婆に扮装して出てきた時の演じ分けが巧みである。
上川隆也の演技であるが、やはり良い。上川隆也は俳優になるために生まれてきたような男であり、天才であるが、思うままに演じて役が出来てしまう正真正銘の天才でも、役になりきる憑依型でもない。彼はセリフを覚えるのが早く、余りに早いので「サイボーグ」というあだ名が付いた程だが、残った時間で、登場人物の心理を掘り下げ、頭でシミュレーションを重ねて演技する。理知的であり、そのため、俳優を目指す人に取っては、大変ためになる演技をしてくれるというありがたい存在である。
チャンスは、南部出身の男性にありがちなワイルドなところを持った男である。劇中に「チンピラ」と称される場面もある。ただ、適当にワイルドに演じたのでは何の意味もない。ということで、上川は堅木ではない南部の男をどう演じたか。まず佇まいに工夫がある。幕が開くと、薄暗がりの中、ベッドにチャンスが腰掛けてうなだれている。だが、それが上川隆也であっても上川隆也に見えない。薄明の中で男が歩き出してもまだ上川隆也に見えない。セリフを発してようやくそれがやはり上川隆也だと分かるのである。こう感じたのは私だけではないようで、客席から「え? 上川さん?」という女性の声が聞こえた。上川隆也は敢えて上川隆也らしくない動きをしていた。上川隆也は自身のパブリックイメージを知っており、それとは違う動きをすることで、彼であるのに観客からは彼に見えないという方法を用いたのだと思われる。ただ、このシーンでの上川は非常に色気があり、これは真似できないものであろう。明るくなり、上川が役のために髪を薄く染めているのがわかる。
チャンスは、ワイシャツのボタンを上まで留めず、胸元を出している。ここまでは誰でも思いつく方法である。
チャンスの性格を表す演技で、私が「巧い!」と思ったものは、チャンスが酒を飲む場面に登場する。ボトルを持ち上げて、コップに注ぐというシーン。普通はボトルを持ち上げて、コップに注ぐというそれだけなのだが、上川は、ボトルをポンと軽く上に放り投げて、空中でボトルをキャッチしてそのままコップに酒を注いだのである。チャンスのキザで荒っぽい内面ををこうしたさりげない動きで表現するのである。
チャンスが背広を着ている場面では、今度は歩き方を工夫する。踊りのようなステップを踏むことで(よく見ていないとわからない)、普通とは少し違う男であることを表現するのである。全編を通して細かい演技は続き、さりげなく抜け毛が多い髪の毛を気にしたり、薬でちょっとおかしくなっていく過程や体の震えなど、一々感心させられる。上川が歌うシーンもあるのだが、音程も正確で、表現力もあり、非常に上手い。上川隆也は普段から語彙が豊かで、同じく演劇集団キャラメルボックスのメンバーであった近江谷太郎から、「上川の頭には『広辞苑』が入っている」と言われた程だが、演技に関していうなら上川隆也こそは、動く広辞苑ならぬ動く「俳優辞典」である。
上川隆也の出る芝居一本を観ることで得られるものは、三人の演出家から演技指導を受けた時よりも多い。
他の俳優陣で、テレビで見かけるのは渡辺哲ぐらいだが、彼も含めて他の俳優陣も皆、良い演技をしていた。見応えのある舞台である。
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