コンサートの記(132) 沼尻竜典オペラコレクション コルンゴルト 歌劇「死の都」オペラ形式上演日本初演
2014年3月8日 びわ湖ホール大ホールにて
午後2時から、滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールで、沼尻竜典オペラセレクション、コルンゴルトの歌劇「死の都」を観る。舞台上でのオペラ形式での上演としては日本初演になる。
びわ湖ホールの垂れ幕には、アカデミー作曲賞二度受賞、コルンゴルトの歌劇「死の都」とあったが、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは現在のブルノ(チェコのモラヴィア地方の中心都市)に生まれ、幼くしてウィーンで作曲家として成功し、そのミドルネームも関係してか、「モーツァルトの再来」と言われるほどの神童ぶりを発揮。マーラーからも「天才だ!」と激賞された。歌劇「死の都」はコルンゴルトが23歳の時に書かれもので、ハンブルクとケルンで同じ初演され(ケルン歌劇場の指揮台に上がったのは若きオットー・クレンペラーだったという)、どちらでも絶賛された。その後も上演を重ねた「死の都」は1920年代に世界で最も多く上演されたオペラだったという。順調に思えたコルンゴルトの作曲家人生であったが、ナチスの台頭と共に暗転する。ユダヤ系であったコルンゴルトはアメリカに亡命を余儀なくされ、生活のためハリウッドで映画音楽として活躍する。アカデミー賞映画音楽部門で二度の受賞を果たしたコルンゴルトであったが、クラシックの作品は次第に忘れられていく。戦後、ウィーンに二度戻ったコルンゴルトであるが、ウィーン楽派の音楽が隆盛の時代にあって穏健なコルンゴルトの作風は「時代遅れ」、「過去の作曲家」と見なされ、いずれも失意のうちに帰国。アメリカでも酷評を覆すことは出来ないままに亡くなっている。1970年代にコルンゴルトの次男であるジョージがコルンゴルトの映画音楽に光を当て、その後、歌劇「死の都」が傑作として再評価されるようになる。交響曲やヴァイオリン協奏曲なども録音はなされているが、現時点では傑作と認められているコルンゴルト作品は歌劇「死の都」のみである。
指揮は沼尻竜典オペラセレクションとあることから分かる通り、沼尻竜典。京都市交響楽団の演奏(コンサートマスター:泉原隆志)。ちなみに演奏会形式で歌劇「死の都」を初演したのは京都市交響楽団だという(1996年、井上道義指揮)。今日、明日と公演があり、出演者は異なる。今日の出演者は、鈴木准、砂川涼子、小森輝彦、加納悦子、九嶋香奈枝、森季子(もり・ときこ)、岡田尚之、迎肇聡(むかい・ただとし)、高野二郎、与儀巧(与儀のみ今日、明日共に出演)。
演出は栗山昌良。演出補として岩田達宗の名前があり、新国立劇場でオペラ「みすゞ」を観た時に、「『死の都』の演出補って何ですか?」と岩田さん本人に伺ったところ、「(栗山昌良先生は)お年なので、お供をする」とのことだった。岩田達宗の師でもある栗山昌良は1926年生まれ。大ベテランであり、舞台の師はあの千田是也、オペラの師は何と藤原義江だという。高齢のためか、栗山はカーテンコールにも姿を見せなかった。
装置はスペクタクルな部分もあるが、見せ方としてはオーソドックスな演出である。ただ、歌手が棒立ちになって歌うところが多く、そこだけは気になった。
第一幕は主人公であるパウル(鈴木准)の部屋とその外であるが、思ったよりもシンプルな装置である。つい先日亡くなったパウルの妻、マリーの大きな肖像画が掛けられている。パウルは今はこの家で、女中のブリギッタ(加納悦子)と暮らしている。マリーの思い出の詰まった部屋は「過ぎし日の教会」としてマリーの写真や遺髪などが収められている(この演出では遺髪と肖像画が目立つ程度である)。
友人のフランク(小森輝彦)がやって来る。亡き妻の思い出にとらわれたままのパウルを気遣うフランク。だが、パウルは先日、マリーを見かけたという。「マリーは生きている」とまで断言してしまう。パウルは彼女を家に招いていた。彼女の正体は踊り子のマリエッタ(砂川涼子)。マリーそっくりのマリエッタの中にマリーを見出すパウルであったが、マリエッタもパウロが自分を通して別の誰かを見ていることに気付き、箍の関係は破綻へと向かい始める……。
歌劇「死の都」は、詩人であるジョルジュ・ローデンバッックの小説「死都ブリュージュ」。台本はパウル・ショットとなっているが、これは後に、実はコルンゴルト本人と父親のユリウスによる共作のペンネームであったことがわかる。このことが明かされたのはコルンゴルトの死後18年目のことであった。
原作の「死都ブリュージュ」は悲劇であるが、コルンゴルトは悲劇になるのを抑え、ショッキングな場面もあるが、内省的な展開に留めている。この辺が彼の作曲家の資質とも一致しているのかも知れない。
詩人が書いた小説が基だけに、幻想的な美しさをどれほど出せるのかも勝負だが、今日はこれもそこそこ。第2幕で、パウルの部屋がせり上がり、下から三段になった坂(手前から、上手より下手に向かって上り、一つ奥に下手より上手に向かって上り、一番奥にフラットに近い坂である)が現れ、これは効果的であったが、これもまた夢幻の世界でのことなので、強調する手法がこれほど手の込んだことをせずとも良かったように思う。
ちなみにドイツなどではラストでパウルが自殺するという演出も存在するそうだが、パウルが「生と死は分かたれた」と歌っていることから、自殺するという演出を採用することはあってはならないと思う。このオペラで描かれていることは一文で書いてしまうと「喪の仕事」である。自分がいかにマリーにとらわれていたかをパウルは最後にはっきりと自覚している。この目覚めこそが肝であり、それを自殺で強引に悲劇にするのは少なくとも賢いやり方ではない。
今回も、パウルの自殺はなしである。
沼尻竜典はキレのあるリズム感に優れたものであったが、「沼尻ならこんな感じかな」という想像の範疇であり、安心して聴ける一方で、ライヴならではの凄みには欠ける。とはいえ、京都市交響楽団のアンサンブルも高精度で、舞台上演日本初演に相応しい演奏であった。
「死の都」がこれまでオペラ形式で上演されなかった理由であるが、パウル役が第3幕でかなり高い音の発声を長時間強いられるというところにあると思う。今日、パウル役を演じた鈴木准も「出てはいたが、苦しさを全く感じなかったかといえば嘘になる」という出来。端役なら高い声を出し続けていても何とかなるのであるが、パウルは出ずっぱりであり、声を休ませる暇も、声を整える時間もないままに高音のアリアを続けなければならない。体格ではどうしても白人に及ばない日本人にとってはちょっと苦しいだろう。
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