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2014年10月 4日 (土)

コンサートの記(157) 「京都の秋 音楽祭」2014 開会記念コンサート

2014年9月14日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、「京都の秋 音楽祭」開会記念コンサートを聴く。毎年、秋に京都市内の様々な会場で行われる音楽祭の開会を祝うコンサートである。大阪に「大阪クラシック」があるように、京都には「京都の秋 音楽祭」がある。違うのは、「大阪クラシック」は、音響設計のなされていない場所でも演奏を行うが、「京都の秋 音楽祭」は全て京都コンサートホールで演奏会を行うということと、「京都の秋 音楽祭」は毎年、京都市長が開会の挨拶を行うが、大阪市長はクラシックに理解を示さないという点である。

京都市交響楽団の演奏。指揮は京響常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一。

今日のコンサートマスターは渡邊穣。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーは尾﨑平。オーボエ首席の高山郁子は降り番で、フロラン・シャレールが前後半ともオーボエ首席の位置に座る。フルート首席の清水信貴とクラリネット首席の小谷口直子は今日は前後半共に出演する。

広上が得意とするベートーヴェン・プログラムであり、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(ピアノ独奏:佐藤彦大)と交響曲第5番という、5・5コンビが演奏される。ちなみに広上淳一は5月5日生まれであるが、そのこととプログラムとは余り関係がないと思われる。

ピアノ協奏曲第5番の「皇帝」というタイトルはベートーヴェンが名付けたものではないにも関わらず普及しているが、交響曲第5番のニックネーム「運命」は、弟子のシントラーが勝手に呼んだものとして、採用されないことが多い。ただ、シントラーが名付けた、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第17番のタイトルである「テンペスト」は今でも普通に使われているのだからネーミングとは思ったよりもいい加減なものらしい。「運命」というタイトルにしてしまうと、それ以外の要素を聞き漏らしてしまう可能性があるため、私は「運命」というタイトルは用いないが、「運命との闘い」というストーリーがこの曲を理解するのには最も易しいものであるとも感じている。

まず、門川大作京都市長の挨拶。京都市が、アメリカが誇る世界最高峰の旅行雑誌「トラベル+レジャー」2014で、1位を獲得したことに触れ、京都が1位を獲得出来た理由は歴史あるものと新しいものが見事に融合した都市であるからと言われたことを告げ、京都市交響楽団は、まさに歴史あるものと現代を結びつけるものであり、文化・芸術都市の顔に相応しいものであると結んだ。

ただ、私見を述べると、京都にある芸術団体の中で、能・狂言といった日本の伝統芸能を除けば、世界レベルで通用するのは京都市交響楽団ただ一つである。京都市の他の芸術団体が世界で通用するとはとても思えない。

ピアノ協奏曲第5番「皇帝」。ピアノ独奏の佐藤彦大(さとう・ひろお)は、岩手県出身の若手ピアニスト。東京音楽大学大学院修了であり、広上の弟子の一人だそうである。大学院を修了後にドイツに渡り、ベルリン芸術大学で更に研鑽を積んだ。現在は、モスクワ音楽院で学んでいるという。2007年の第76回日本音楽コンクールで第1位を獲得、2011年にはイタリアの第5回サン・ニコラ・ディ・バーリ国際ピアノコンクールでも1位に輝いている。

伴奏で、広上は弦のビブラートを抑えるなど、ピリオドをかなり意識したアプローチを行う。ただ、今日は私の席は前から4列目の下手から2番目という端の席であり、この席はピアノもオーケストラも余り良い音で聞こえないのは残念であった。ピアノの音は反対側の上手の席で聴く方が音が良く、前の方の席ではオーケストラの弦の響きが生々しく聞こえすぎる。

佐藤彦大であるが、優れたメカニックも持つピアニストである。歌い崩すタイプではなく、常に楷書の旋律を奏でる。ただ、それが個性不足にも繋がっており、まだ若いということもあるが「再創造」の域には達していないように思えた。

この曲の第1楽章は、比較的穏やかに終わるのだが、それでもパラパラと拍手が起こり、すぐに止む。広上は佐藤の方を見て、「ああ、中途半端な拍手起こっちゃったね」という風に微笑む。

広上指揮する京都市交響楽団は、徒にスケールを拡げることなく、あたかも室内オーケストラで伴奏しているかのようなしなやかな音楽を奏でていた。こういったやり方が「再創造」と呼べるものである。

「皇帝」は大曲、難曲であり、佐藤は疲れたのか、アンコールの拍手には何度も応えたが、演奏をすることはなく、最後は、ピアノの上に置いていたタオルを持って退場し、「もう演奏はしませんよ」と示して、客席の笑いを誘っていた。

交響曲第5番。広上はこの曲を特に好んでいるようで、京都市交響楽団を指揮して第5の演奏を行うのは今日で3度目である。第九は2回あるが、年末恒例のもので広上の意志による選曲ではない。広上が京都市交響楽団と演奏している他のベートーヴェンの交響曲は、第4番と第7番が1回ずつのはずである。

俗に「運命動機」と呼ばれる主題は、威圧的でなく、されど雄々しく奏でられ、フェルマータも長く伸ばす。最近はフェルマータを余り伸ばさない演奏のほうが流行りである。ドラマティックな演奏であるが、頭を振り乱しているような狂気に満ちたものではなく、無手勝流に聞こえるが実は計算しつくされた音楽作りである。照準を第4楽章に合わせ、そこに至るまでの過程を逆計算して音楽を築いていく。

弦楽器のビブラートはやはりモダンスタイルに比べると抑えめであるが、「これぞピリオド」という演奏ではない。折衷タイプと言えば言えるが、その言葉から連想されるような、どっちつかずのものではなく、細部に至るまで広上の個性が行き届いた唯一無二の演奏である。楽聖ベートーヴェンではなく、人間ベートーヴェンの音楽だ。

格好いいベートーヴェン演奏であるが、外面だけ整えた静物的なものでなく、血の通った生命的な音楽がホールを満たす。

演奏終了後、広上はコンサートマスターの渡邊穣に立つよう促すが、渡邊は拍手をして広上を讃える。広上が客席に向かってお辞儀をして、もう一度、渡邊に立つよう命じるがやはり渡邊は遠慮した。広上が指揮台に上がり、喝采を浴びる。その後、渡邊もようやく応じて、京都市交響楽団の楽団員も立ち上がって拍手を受ける。

広上は客席に向かい、マイクは使わずに、「今日はチケット完売御礼ということで大変嬉しく思っております。今回、京都の秋音楽祭では、世界中の優れたオーケストラが、ここ京都コンサートホールで演奏を行います。バイエルン放送交響楽団、このオーケストラは私も指揮したことがあるのですが、非常に優れたオーケストラです。ローマ聖チェチーリア管弦楽団、ここもイタリアを代表する名門オーケストラであります。モントリオール交響楽団は、ちょっと異なりまして、元々は小さなオーケストラだったのですが、モントリオール市が力を入れまして、20年ほど掛けて名門オーケストラとなりました。京都市交響楽団と同じような道を辿ってきたオーケストラです。京都市交響楽団が世界的なレベルに達している事は私が保証致しますので、京都市交響楽団と海外のオーケストラを聞き比べてお楽しみ下さい。オーケストラというものはレストランと同じでありまして、良いお客さんが来ないとすぐに潰れてしまいます。私どもはこれからも一生懸命成長していきますので、援助をお願い致します」というようなことを述べた。広上は背が低い人の特徴ともいえるが声が甲高いので良く通るのである。

アンコールとして、ボロディン作曲の弦楽四重奏曲第1番第3楽章をリムスキー=コルサコフが弦楽オーケストラのために編曲してものが演奏される。リリカルな秀演であった。

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